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ピアノ・マン  

 つい最近、ふっと「そう言えば自分の思い出の曲ってなんだろうな」ということを考えていた。これは特にそういうのを発表する機会があったとかではなくて、単純に僕が暇なだけである。たぶん普通のサラリーマンの方々は、ゴールデン・ウィークも差し迫った平日の天気の良い午前中に、そんなことはいちいち考えないんじゃないかという気がする。
 暇というものの効能があるとすれば、とりあえず役に立たないいろんな考察が自分の中で増えていくということで、その考察の量にかけては、僕は結構いい線をいってるんじゃないかと思う。英語で書く手紙と日本語で書く手紙の文体の違いだとか、目玉焼きを焼くときに卵が焦げ付かない丁度良いフライパンの温度だとか(まあこれは役に立つけど)、なぜ自分は急にナスが食べられるようになって、ところてんが食べられなくなったのかだとか、まあだいたいそういうことを考えながら日々生活しているわけで、要するに、ロジカルかつプラクティカルに時間を使うということができていないのだ。
 それでまあ、自分の中の思い出の曲をリスト・アップして行こうとして、一番最初に出てきたのが、タイトルにもある通りビリー・ジョエルの「ピアノ・マン」である。
 正直なところ、なんというか、僕はこの曲がぱっと頭に浮かんだときに、自分に対していささかの驚きを覚えた。僕はこの曲を全編通してきちんと聴いたことは一度もないし、それどころかワン・コーラス分だって、そんなに何度も聴いたことがあるわけではないのだ。ピアノ・マン? でも、考えれば考えるほど、この曲は僕の中で鮮やかな実体を形作っていき、ついには「何故ピアノ・マンなんだろう?」と僕を考えさせるところまで導いてきたわけである。まあ、たしかに暇じゃないとこんなことはしていられない。

 だいたい、誰かに「思い出の曲は?」と聞くと、たとえば中学のときによくテレビやラジオで流れていた歌だとか、昔の恋人が好きだった曲とか、そのあたりのラインがずらっと並ぶんじゃないかという気がする。その方がスマートだし、「この曲、あいつがよく聴いてたのよね」とか、三十才ぐらいのかっこいいお姉さんが言っていると、すごくハマリそうである。僕も、できればそういう台詞を言ってみたい。アホか、で終わりそうな気はひしひしとするんだけど。
 ピアノ・マンに関して言えば、そのような思い出は何もない。その曲を聴いたときのことを、ちょっと思い出してみる。


 寒い冬の早朝で、道路はがちがちのアイス・バーン。太陽はまだ山の向こうに頭の先っぽを覗かせたばかりで、青い夜の空と白い朝の空が、境目を曖昧にしたまま頭上に広がっていた。歩道には雪がくるぶしのあたりまで積もっていて、そこで僕は一台の車を待っている。寒いな、と僕は思う。
 やがて一台の軽自動車がやってくる。運転席から、彼女が眠そうな目で「おはようございます」と言う。僕はなにも言わずににっこりと微笑んで、助手席に座る。車がぶうん、と音を立てて走り出す。
 十数分後に僕たちは車から降りて、あたりを歩く。いろんな人がいる。だいたいは登校途中の学生だ。たまにその中に知り合いを見つけて、手を振ったりもする。おはようございます、と彼らは言う。僕が何かを言っている。彼女はきゃいきゃい言いながら笑っている。
 一時間も歩いてから、僕たちは車に戻ってくる。寒いな、と僕は思う。寒いですね、と彼女が言う。車がぶうんと音を立てて走り出す。僕が何かを言っている。彼女は運転しながら、きゃいきゃい言って笑っている。カーステレオが鳴っている。曲が終わる。ぷつん。インターバル。ビリー・ジョエルが歌い出す。
 太陽はもう随分高くなってきている。反対車線には、会社に向かう通勤途中の車が列になっている。川を渡る小さな橋を通るときに、それまで視界を覆っていた住宅が途切れて、僕の左側に、ずっと向こうの山のすそ野と、小さく送電線の鉄塔が何本か見える。朝の白い光が差し込んできて、彼女が目を細める。運転席の窓の向こうには、なんとか鉄工という、ローカルな田舎の鉄工所が、同じように白い光を浴びている。車がぶうんと音を立てる。ビリー・ジョエルが歌っている。

 政治学を専攻しているウェイトレスもいれば
 ゆっくりと酔いつぶれつつあるビジネスマンもいる
 そう、彼らは孤独っていう酒を飲み交わしてるんだ
 それでも、一人で飲むよりはマシさ

 僕たちは月曜の朝に土曜日の夜の歌を聴いている。寒いな、とは僕は思わない。車は静かに走っている。僕は何も言わない。彼女はじっと前を向いて真剣に運転している。


 もちろん僕にも学生時代によく流れていた曲というのは思い出せるし、ふっと耳にすると「懐かしいな」と思う歌はある。だけど、その気持ちは「懐かしいな、昔よく流れていたな」というだけのことであって、自分から積極的に「これは思い出の曲です」と提示していけるようなものとはちょっと違うのだ。いくらうまくできていても、白菜の浅漬けをメイン・ディッシュとしては出せないのと同じである。
 僕は思うのだけど、音楽には「ある特定の空気を吸わないと生きられない音楽」と「自ら空気を作り出して、そこに相手を取り込んでしまう音楽」というのがある。たぶん、僕の頭の中に「ピアノ・マン」が貼り付いてしまっているのは、この歌が作り出す空気と、この歌を聴いたときのいろんな風景──彼女の目の細め方だとか、陽の光の差す角度だとか、鉄工所の看板のペンキの色だとか、並んでいる車のナンバーだとか──が、奇跡的な調和の仕方をしたせいなのだと思う。「懐かしいな」というだけの歌は、僕の学生時代には結びついているかもしれないけれど、その世界を今の世界にまで持ち込んでくる圧倒的な力を持っていないのだ。それはあの時代の、あの年代の空気の中でしか生きられない音楽なのである。

 ピアノ・マンを聴くたびに、僕は彼女の目の細め方や、陽の光が差し込む角度や、あの朝の切れるような冷え込みを思い出すことができる。僕に関して言えば、I'm really sure how it goesなのだ。

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