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手紙を書くことについて  

 手紙を書くことって最近あまりなくなった──というのはこの手の文章の常套句だけれど、個人的な感覚でいうと、むしろ手紙の文章を書く機会というのは、ここ四、五年ぐらいでグンと増えたんじゃないかという気がする。
 まあそれは、あるいは年齢によるものもあるのかもしれないとも思う。なんといっても、十七とか十八の高校生がそんなに筆まめでないのは当たり前だし、二十歳をいくつか過ぎるころに、そういった(ささやかではあるけれど)細やかな文章的気配りをし始めるようになるのもごく自然なことだ。そのへんのことは僕にはよく分からない。
 だから、これは手紙を書くことについての一般論なんかでは全然なくて、全くの個人的見解です。まあその、ここに収められている文章は大体がそうなんだけど。

 まず基本的に、僕は手紙を書くのが好きである。放っておくと、誰に頼まれたわけでもないのに(まあ手紙ってあんまり頼まれて出すものじゃないですけど)手紙の文句を考えていることはよくあるし、出すアテのない手紙を──しかもわりに長めの手紙を──書き上げたことだって一度や二度では済まない。ものによっては書くのに何時間も時間をかけるし、書き上げた後で何度も読み直しをしたりする。
 自分でもよく思うけれど、こうなってくると、僕の中で手紙を書くという行為は、小説を書くこととあまり変わりがない。というよりも、手紙を書くという行為は、小説を書くという行為と、根元的に、本質的につながっていなければならないのではないかと思う。
 僕の基本的な手紙のスタンスを挙げてみると、

・ 型通りの儀礼的文章は極力書かない。あえて書く場合は、それなりの別の効果を狙う。

・ キツめの内容の手紙でも、ユーモアの感覚は絶対に忘れない。ある種のハズシがないと、なかなか文章って前に読み進んでいけないから。

・ 書いた後は、メールでも最低一日は置いておいて、読み直す──とこれはまあ、ある程度常識だけど。

 というのが大きな三つである。細かい技巧的なことはもっとあるけれど、それはまあ別の話で、基本線としてこれだけのことを抑えておけば、経験則として、そんなにひどい手紙にはならない。と思う。まあわざわざ「あなたの手紙ひどかったですよ」と返事をよこしてくる人もいないので、あくまで僕の感じ方ではということだけど。

 でも、多分これら三つを内包して、一番根幹にあるのは、常に相手の立場になって文章を書いていくことだ。それはとりもなおさず相手の中に自分を浸透させていくことであり、その行為を通して自分自身の中深くまで降りていくことでもある。これがないと、手紙に限らずどんな文章でも、わりに頭でっかちのものになってしまうことが多い。実際、僕も某作家さんに言われたことがあるですよね、洒落臭いって。それにしても「洒落臭い」って、結構ヘコむ言葉だよな、ううん。
 ええっと、それで話がずれたけど──そうやって手紙を書いていると、ふとした時に、自分と相手との間に、相手がその場にいないにもかかわらず、ある種の深い共有感覚を覚えることがある。僕はここにいて、あなたはそちら側にいるのだけれど、お互いが手紙の文章を通して一つの世界に放り込まれて、相手が感じているであろう、もしくは感じてきたであろうことを自分の方も感じていられるし、感じてきたのだと信じられる時間があるのだ。それは小説を書く動機にとてもよく似ている。
 小説を書く理由は人それぞれだけれど、ジョン・アーヴィングやスティーブン・キング、カート・ヴォネガットといった作家たちは、よく創作講座で「誰か一人のために物語を書きなさい」と教えているという話を読んだことがある。たしかヴォネガットは、短篇集「バゴンボの嗅ぎタバコ入れ」の前書きで、「誰かひとりの読者を喜ばせるように書くこと。つまり、もし窓をあけはなって世界を愛したりすれば、あなたの物語は肺炎に罹ってしまう」と書いていた。ヴォネガットにとってのその一人が亡くなったお姉さんのアリーであることは有名だけれど、それもあるいは、「愛する人のために書いたような深い感情を共有した文章じゃなくちゃ、どこの誰がそんなもの読んで心動かされるんだよ」ということなのかもしれない。

 ときどき、こんなに作家になりたい人が多いご時世なんだから、もうちょっと手紙にもスポットライトがあたってもいいんじゃないかと思うんだけど、残念ながら──というかなんというか、僕の知る限りではまだそれは達成されていない。
 とまれ、そんなことを考えながら今日も文章を書く日々なのであります。かりかり。

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