遠い記憶
 
山を歩きながら,いつものようにふとよぎる感情がある。
 「あっ,なつかいしい・・・」
という感情だ。
 
 懐かしいと感じて,具体的に何が懐かしいのか考えるのだが,いつのことを思い出して懐かしいと感じているのかはよくわからない。

 懐かしい感情を呼び戻すものとしてはさまざまなものがある。
 ひとつは香り。それは,花の香りだったり,木の肌のにおいだったり,枯葉道のにおいだったり,山土のにおいだったりする。山での香りは,忘れかけていたものをじわじわとひもとき出す感じがする。
 そして,音。鳥の声,風が木々を揺らす音,蝉の声,虫たちが出す音。それぞれの音は,歩くことに夢中になっている私に,はっと目を覚まさせるように耳に入ってくる。
 それから色。葉っぱの色合い,花の色,山土の色,ころがっている石や岩肌の色,抜けるような青い空,雲の形・空とのコンビネーション。いつか見たなあという感じがする。でも,いつのことだかよくわからない。

 小さい頃,島で育った私はよく裏山に遊びに出かけた。父について魚釣りにもよくいった。空を見て,雲を見るのが好きだった。感受性豊かな少年時代,自然は常に何かを語りかけていた。
 
 山登りを始めて感じた「懐かしい」はそんな少年時代の記憶から来ていると思っていた。しかし,何か違う。具体的な懐かしい情景が浮かんでこない。あのときの香り,あのときの色,あのときの音・・・。そんな情景が浮かんでこない。「懐かしい」という感情だけがそこに存在する。
 
 山に入るということは,人間が人間になって当たり前にやってきたことである。太古は,山と野の区別さえなかったかもしれない。山に獲物を求めさすらい,山に木の実を求めてさまよい,安住の地を求めて歩いた記憶。
 
 「懐かしい」は私個人の経験からきているものではないのかもしれない。人間として,いや人間になる前から,山で暮らしていた遠い遠い太古の記憶が,呼び起こされているような気がしてならない。

 そんな,おおげさなことを考えながらの山道もまた楽しい。
 
 
 
 

 
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