北海道(知床・摩周湖・富良野・旭川方面)の旅
{ 写真はすべて私が撮影したプライベート写真です } 河
野 善福
【スケジュール】
羽田(10:05発) JAL1187便 → 女満別(11:50着)
女満別空港(発) → 朝日ヶ丘公園 → 網走 → 小清水原生花園 → 斜里 → オシンコシンの滝 → 鮭の溯上する川
→ 知床五湖 →知床・ウトロ(泊)
【第2日目】
知床・ウトロ(発) → 知床岬(海が荒れて船が欠航・中止) → フレペの滝 → 知床自然センター → 知床横断道路
→
知床峠 → 標津サーモンパーク → 摩周湖 → 硫黄山 → 阿寒湖(泊)
【第3日芽】
阿寒湖(発) → オンネトー 足寄 → 士幌 → サホロリゾート → 狩勝峠 → 後藤純男美術館 → 富良野(泊)
【第4日芽】
富良野(発) → プロヴァンスの道 → 美瑛観光(拓真館・四季彩の丘・) → パッチワークの路(ケンとメリーの木・
セブンスターの木・親子の木) → 旭山動物園 → 旭川空港
旭川(17:10発) JAL1112便 → 羽田(18:50着)

【旅日記 第1日】 9月23日
女満別空港から程近い朝日ヶ丘公園に行った。 展望台に登ると360度開けた眺望はさすが北海道・でっかいどうに来たと言う
実感を味わえます。 季節を終えたひまわりが、周りの緑一色の草原の丘を黄色に染めて心を和ませてくれます。 さらに、ハマナ
スの赤い実が可憐な花と共に迎えてくれて、北の大地の旅の始まりを教えてくれるのです。
女満別空港
ひまわりの畑

網走から知床斜里までの道は左にオホーツク海、右に濤沸(トーフツ)湖の間を通る国道244号線で、JR釧網線も並行して海沿
いを走っています。 このローカル線の北浜駅は映画「鉄道員 ぽっぽや」のロケに使われた駅で今も人気の観光スポットになって
います。 「鉄道員 ぽっぽや」は根室本線の幾寅駅(いくとらえき)を幌舞駅として主に南富良野町でロケされたもので、主人公
の高倉健 、妻の大竹しのぶ 、広末涼子らが出演した話題作です。 このJR釧網線で土、日、祝日DMV(デュアル・モード・ビーク
ル)という、床下にゴムタイヤと鉄の車輪をつけて、線路と道路の両方を走行できるバスのような乗り物の試験的営業中です。 定
員15名、電車の運転手とバスの運転手、それに車掌が乗るので乗客定員は12名です。 日本の第1号は静岡県富士市の岳南鉄道
で、2006年11月からJR北海道の技術協力のもとで走っているそうです。 JR釧網線にはノロッコ号という5両編成で、網走〜
知床斜里間を流氷を見ながら一時間かけて走る電車もあり冬は大好評だそうです。
この果てしなく広いオホーツクに流氷が押し寄せます。 流氷が遠くに見えた日を流氷初日と言い、約1週間から10日で接岸し
た日を接岸初日と言います。この日から海は大雪原に変わり船も動けなくなると言うから自然は想像を越えた世界です。
このオホーツク海に面した海岸の砂浜には、5m間隔くらいに高さも向きもそろえられた釣竿が並んでいました。 鮭を釣ってい
るとのことでしたが、竿の並びに切れめがなく、何キロも続くさまは想像外でした。 ここは無料で鮭が釣れるのだそうです。
濤沸(トーフツ)湖は水深2.5m、周囲27kmの汽水湖で、国道沿いに約8kmの細長い湿原です。昭和33年に網走国定公
園に指定され、2005年ラムサール条約の登録湿地となった所です。国道と湖の間は小清水原生花園と言い、日本で始めて原生花
園に指定された場所だそうです。初夏にクロユリ、センダイハギ、ヒオウギアヤメなどが咲き始め、夏にはエゾスカシユリ、エゾキ
スゲ、が色とりどりの天然のお花畑を造り、冬が来れば白鳥5000羽など渡り鳥が湖面を埋め尽くすところだそうです。 なお、
右側の湿原に咲く「ひおうぎあやめ」は秋篠宮紀子様の御印で、左側の土手に咲く「はまなす」は皇太子妃雅子様の御印です。 1
ヶ所で皇族妃の御印が二つも見られる所はほかにないでしょう。
北浜駅
網走〜知床244号線

知床国立公園の玄関口、知床・斜里町は人口13,000人の小さな町です。 斜里町から少し知床半島に進むと遠音別(オンネ
ベツ)川があります。この川には産卵のために生まれた川に戻ってくると言う鮭やマスが、群れを成して重なり合うように溯上中で
した。全身傷付きやっと泳いでいる鮭もいるし、すでに死体となって川岸に流れ着いた鮭も100尾くらいは居ました。浅瀬ではカ
モメが死にかけた鮭の尾を嘴で挟んで引き上げようとし、逃げられている光景も観られました。 知床半島には92本の川があり、
約2,000万尾の鮭が毎年帰ってくるのだそうです。
オシンコシンの滝は以前は道路が滝の上側にあったので、見下ろすような滝だったそうですが、今は水が滑り落ちるのを下側から
観る滝になっています。
群れを成して溯上する鮭
オシンコシンの滝

世界自然遺産に登録された知床はアイヌ語のシリエトク(地の果て)から付けられた名前です。この半島にはエゾシカ2万頭、熊
150〜200頭が住んでおり、キタキツネ、エゾシマフクロウ、なども多く住んでいます。半島はエゾマツ、トドマツ、ダケカン
バなどの原生林で覆われており、半島の中間点くらいまでは道があるが、後は陸路を行く場合には山に分け入るしか有りません。し
たがって、知床岬までは海路を船で行くしかないのですが、岬は断崖で船を着ける場所が有りません。
世界遺産には文化遺産、自然遺産、複合遺産があり、日本の文化遺産は姫路城・法隆寺・日光・原爆ドームなど11箇所が指定さ
れていますが、自然遺産は屋久島・白神山地・知床の3箇所のみです。なお、複合遺産は日本にはありません。
知床の自然が残ったのは、ナショナルトラスト運動のお陰です。 この運動はイギリスで原型が出来た運動で、貴族の所有してい
たお城などが荒れ放題になったときみんながお金を出し合って保存をしたのが始まりです。 斜里町の藤谷町長が「100u運動」
を提唱し、知床の原野と動物を守りたいと呼びかけ、それに答えて募金は現在48,000名(知床自然センターに全員の名札が架
けられている)が応募しています。 一口8,000円です。一番最初の応募者は新婚旅行の二人で、自分たちは一生土地は持てな
いかも知れないけど、結婚の記念にと応募されたそうです。 小学校5年生のクラスでこの運動を知った子供たちが、土地を買って
も行って見ることはないだろうけどと、自然を守る運動に賛同してお金を持ち寄り寄付してくれました。 感動した藤谷町長が全員
に記念のバッチを送ったところ、子供たちはお金がバッチ代に消えてしまったと言ってまた、8,000円を集め「もうバッチはい
りません」と手紙を入れて送ったそうです。
画像をクリックすれば大きい画像になります
知床五湖の案内版 一湖に映る羅臼岳 野生の雄鹿
がすぐそばに
知床五湖(クリックすれば写真があります)は半島のやや中心部にあり、遊歩道が整備されていますが全部廻ると90分掛かりま
す。湖は綺麗な水を満々とした、静かな湖水です。道はクマササに覆われ、鹿やキツネが人間を恐がらないでのんびりと生息してい
ます。 熊が出てきたときは入山禁止ですが、売店で熊除けのベルを無料貸し出ししていました。 世界自然遺産区域からは動物だ
けでなく、草木、花、実の一つも持ち出しは禁止です。 途中の川に熊が出て鮭を取っているとの情報でカメラマンがレンズを向け
ていましたが、私たちは見ることが出来ませんでした。
ウトロは宇登呂と書き、アイヌ語のウトゥルチクシから付けられた町名です。知床観光船の乗り場があり温泉街もあります。知床
峠を挟んだ羅臼町と共に知床観光の拠点となる場所ですが、厳冬期には流氷が押し寄せる街です。
夕暮れに観た知床の日没は趣のある絶景でした。 宿の料理も満足です(後で毛ガニなど出てきました)。
知床・ウトロ港の夕暮れ
宿の料理

【旅日記 第2日】 9月24日
陸路には道がない知床半島を 観光船で海から見物する予定でしたが、海が荒れて欠航のため残念ながら中止しました。 ここウ
トロあたりではエゾシカが集落に進出く、農産物を食い荒らしたり、道路飛び出しによる交通事故が多かったので、集落すべてをフ
ェンスで囲むことを2006年に決定しました。フェンスは高さ3mでその距離は3628mにも鳴ったそうです。
知床自然センターに行きました。知床のナショナルトラスト運動に協賛し、寄付をした人48,000人の名札が県別に整理され
ていました。 再びウトロに帰って知床峠を越え羅臼に行きました。シリエトク(これより先に大地ない)と言われた知床の羅臼岳
の裾野を登る峠は風の通り道で、1年の大半は霧に覆われると言い、トドマツ、ダケカンバなどの枝が西側にはなく、東側のみに少
し残っている様をみて冬の厳しさを想像しました。 カラマツも炭鉱の坑道用に大量に植林されましたが、今では炭鉱もなく工事現
場の足場もパイプに変わったので、洋室の壁用に使われる程度です。ここは10月下旬からは通行止めだそうです。 知床峠を登り
きると目の前に根室海峡を隔てて国後島が見えます。国後島は長さが123kmあり、羅臼からは36km沖合いですが一番近いと
ころは16kmで、本土返還された時にはこの島との間に橋を架ける計画もあります。
国後島は江戸時代に松前藩が交易所を置き、原住民のアイヌを使って交易を行った島で、150年前にも日露和親条約で日本の領
有と決まった島です。終戦の1週間後に突然ロシア兵が侵攻し、住人は全ての財産を置いて小船で逃げてきたのです。 すぐに帰え
れると思った島にもう60年以上帰られないのです。 択捉島、色丹島、歯舞諸島はみな同じような運命にありますが、一番近い納
沙布岬から水晶島までは3.7kmでその間の海でロシアの船に銃撃され拿捕されているのが現状です。
知床鳥獣保護区 水平線に帯状に見える
島が国後島。123kmあり写真の右端が南端

知床峠を下ったとこにある小さな町が人口6,400人の羅臼町です。根室海峡を隔てて目の前に国後島がある漁業と観光の町で
す。町名の由来は、アイヌ語の「ラウシ」(低いところ・獣の骨のあるところ)だそうです。
倉本聡脚本のフジテレビドラマ「北の国から」の舞台は富良野市ですが、長男純が住んだ番屋としてロケに使われた家が今も羅臼
町にあります。昔は知床半島の漁は秋の鮭漁が終わると春まで半年漁がなく、陸路では行けない半島の浜辺の番屋と言う小屋で網を
半年間保管しました。ネズミに網がかじられるのを防ぐためどの番屋も10匹以上の猫を飼ったのですが、その猫に餌をやるためだ
けに、番屋には番屋守(ばんやもり)と呼ばれた男が一人で冬の半年間をここで生活しました。
森繁久弥さんの映画「地の涯てに生きるもの」の原作は戸川幸夫の「オホーツクの老人」です。 この小説のあらすじは、極寒の
地に生まれた村田彦市が少しでも豊かな生活を求めて択捉に渡ります。努力の甲斐あって船持ちに成れます。親方から「船を持つ前
に嫁さんを貰え」と言われ彦市はかつと結婚します。若い漁師の世話をするのは嫁さんの仕事なのです。彦市は三人の子供を育てる
のですが長男弥吉は漁に出て流氷に落ちて死に、次男は召集令状がきて戦地で死にます。帰ってきたのは石ころが入っただけの遺骨
でした。三男は軍事工場に徴用されます。戦争が終わりソ連兵が上陸します。殺戮の噂が飛び、漁船でウトロに逃げ帰ります。その
後、歳を取ってもう漁にも出られない彦市に番屋で勤めないかとの話が着ます。番屋での苦しい生活の中で妻が病気になり、村の若
者が戸板に乗せて雪の峠を越えて町まで運ぼうとします。しかし、若者まで遭難させてはいけないと思った彦市は、若者を村に引き
返させて自分ひとりで背負って歩く吹雪の中で妻は冷たくなります。
そんな男の生き様を小説で読んだ森繁が感動し、映画化したのは昭和35年のことです。2ヶ月間のロケの舞台は当然羅臼でした。
羅臼ロケではあまりの遠方のためエキストラを呼べず、 羅臼町の人々が大勢出演したのです。 主題歌「オホーツクの船歌」も森繁が
作詞作曲したのですが、どうもすっきりしないのです。ロケが終了し遂に羅臼を去る日が来ました。 その別れの日の前夜、新しい
歌「サラバ羅臼よ」が完成したのです。 森繁は興奮して司葉子や草笛光子等を相手に♪別れの日は来た〜と歌って見せたといいます。
以後、北海道各地で「サラバ羅臼よ」は口コミ的に唄われ、約10年後に森繁久弥が「知床旅情」として登録したのです。
歯舞諸島の水晶島と納沙布岬は3.7km 「北の国から」の 純の番屋としてロケに使われ
た家

標津サーモンパークの隣に、標津サーモン科学館(クリックすれば写真があります)があります。この科学館には鮭・マスの仲間が
何十種類も飼育されていますが、どれもが仲間の魚で有るということのほかはよく分かりませんでした。映像もたくさんあります。
標津から中標津・弟子屈と西に向かう道は直線の道路も多く、道の両側は殆んどが牧草地帯です。牛1頭に1ヘクタールの牧草地
が必要なのだそうで、とにかく緑の大地ばかりです。雨が降りそうで牛舎に牛が入っているところが多かったので、牧草地ばかりが
目に付きました。もう牧草は冬の餌用に刈り取られ、ロール状に巻いて、それを白か黒のビニールで巻いてありました。何時牛舎に
持ち帰られるのか、牧草地に整然と並べておいてあります。
左上に見える矢印は雪が積もった時道路の境界を教えるもの
緑の牧草地

弟子屈の町名の由来はアイヌ語の「テシカ・ガ」(岩盤の上)で、冬にはダイヤモンドダストが見られる極寒の地です。このあた
りには農業研修を3年やれば、土地はタダで町が提供してくれると言う場所もあるそうですが、冬の生活を思うと大変な大地だと思
います。牧草地は土地の境界の意味合いもあるのか、防風林として縦横直線状に、綺麗に林が残っています。人工衛星からも碁盤の
目のように整然とした、格子状の区画が分かるといいます。 この地に女優の賠償千恵子さんが住んでいるとのことでした。 ムツ
ゴロウさんが作った第二牧場もこのあたりのようです。
弟子屈あたりの牧草地

摩周湖に行く途中に北海道地図のような形をした湖がありました。名前は分かりません。 摩周湖は阿寒国立公園内にあり、約
7000年前の火山噴火によって出来た窪地に、水がたまったカルデラ湖です。周囲20km、最大水深211m、中央に断崖の小島
カムイシュ島があります。流入・流出の河川が無いのに年間を通じて水位の変動が少ないと言われていましたが、近年の調査で湖の
南東8キロにあるさけますセンター虹別事業所のそばに流出していることが分かったそうです。湖の周囲は断崖が多く、湖水には立
ち入り禁止とされているので湖面には近づけません。
摩周湖は湖水の透明度が高く、世界一きれいだと言われたバイカル湖の透明度40mを上回る41.5mでした。しかし、近年の
調査では透明度20m位に落ちています。マスを放流したことや、放流された淡水魚によってミジンコが減って、植物プランクトン
が増えたためではないかと言われ、原因は調査中なのだそうです。
北海道の地形のようでしょ。この湖 摩周湖 正面は「カムイヌプリ
(神の山)」(摩周岳・標高858m)

摩周湖のそばにある硫黄山は、安田財閥の安田善次郎が1877年から硫黄の採掘を開始し、輸送のために北海道で二番目となる
鉄道を硫黄山〜標茶間に敷設しましたが、乱掘により資源が枯渇し9年後の1886年に操業を停止した場所です。今も火山の湯煙に硫
黄が含まれて強烈な匂いがし、近くに草木はまったく生えていません。
道路に飛び出したキタキツネ
硫黄山

往路に飛行機の中から何気なく写した湖が阿寒湖のようです。 阿寒湖
のホテルの夕食

阿寒湖は周囲30km、最大水深45mの淡水カルデラ湖です。湖の正面には標高1370mの雄阿寒岳があり、阿寒国立公園に
含まれます。特別天然記念物のマリモは有名です。冬は全面結氷し、ワカサギ釣りや、スケート、スノーモービルなどのウィンター
スポーツが盛んです。
湖畔の温泉街のそばに、北海道最大のアイヌコタン(アイヌの集落)があり、戸数36戸、約130人のアイヌ民族が木彫製品な
どを販売する土産物店があります。アイヌの伝統舞踊を公演する演舞場の「オンネチセ」や、伝統文化を紹介する資料館(アイヌ生
活記念館、森と湖の藝術館)もあります。民芸店の店先でアイヌ衣装の刺繍を手縫いで作っていた女性に聞きましたら、「これは儀
式に酋長が着るもので、完成までに約2ヶ月間掛かり30万円ほどするもの」だそうです。
アイヌの土産物店・集落と「オンネチセ」古式舞踊所 衣
装の刺繍をしていた女性。

アイヌ古式舞踊(国の重要無形民族文化財指定)

【旅日記 第3日】 9月25日
阿寒湖のホテル裏を朝6時に出航する観光船に乗って温泉街から約20分、対岸のチュウルイ島にあるマリモ展示観察センターに
行って7時に帰ってきました。明治30年、札幌農学校の学生川上瀧彌氏が、阿寒湖シュリコマベツ湾で和人ではじめてマリモを発見
し、和名「マリモ(毬藻)」の存在と採集記録を発表したのだそうです。大正10年 阿寒湖のマリモは国の天然記念物に指定されま
した。 昭和53年には チュウルイ島にマリモ展示観察センターができ、特別天然記念物のマリモを展示し、保護活動をしていると
ころです。マリモはアイヌ語でトウラサンペと言い、神の御霊(みたま)と言う意味があるそうです。直径6cm成長するのに15
0年掛かると言っていました。 最近では 河口湖や北米大陸にもマリモが生息していることが分かっているそうです。

オンネトーに行きました。オンネトーは周囲2.5km、平均水深3mの火山によって出来た淡水の堰止湖です。アイヌ語でべカ
ンベ(湖の女神)と言われ、オコタンペ湖、東雲湖とともに北海道三大秘湖の一つとされています。湖面は刻々と色を変えることか
ら五色沼の別名もあります。

北海道と言えば、石川啄木です。歌人・詩人の啄木は本名は石川一(はじめ)で、明治19年に岩手県に生まれ、中学時代に『明
星』を読んで与謝野晶子らの短歌に傾倒し、『岩手日報』に短歌を発表します。 中学の時退学となり、文学で身を立てる決意をも
って上京し与謝野夫妻を尋ねました。啄木という名前は与謝野鉄幹から貰ったといわれています。19歳のとき堀合節子と結婚しま
すが両親と妹も扶養し、一家は貧乏のどん底でした。函館駅長の義兄を訪ね一家の窮状打開を相談しましたが解決できませんでし
た。 盛岡の渋民村に戻り、渋民尋常高等小学校に代用教員として勤務します。身体薄弱で徴兵検査が免除され小説を書き始めま
す。21歳のとき新生活を開かんと妻子を盛岡の実家に残し、函館に移って弥生小学校の代用教員となります。そこで片想いの女
性・橘智恵子と知り合います。ここから啄木の放浪の旅が始まるのです。函館大火があり函館を離れますが、函館滞在120日ほど
の間に「砂山の砂に腹ばい・・・」など32首を作ります。 札幌で『北門新報』に入社、さらに小樽に移り『小樽日報』の記者と
なりますがすぐに退社します。22歳の1月には家族を小樽に残し、根室本線を一人釧路に向かい、釧路新聞社に勤務するのですが
3月には退社しています。東京に帰り金田一京介の援助で生活し、「東海の小島…」「たはむれに母を背負ひて…」など後に知れ渡
る歌を含め、246首を作り『明星』に発表したのです。
足寄町(あしょろちょう)は人口8,300人、町の面積は1,400km2あり、香川県ほどの広さの日本一広い面積を持つ町です。足寄
町から士幌の間の最長直線距離は約11kmあるそうです。道の両側は殆どが牧草地帯で、放牧のほかにんじん、ジャガイモ、トウ
モロコシ、ビート(砂糖大根)、大豆、小豆、メロン、スイカなどが栽培されています。
牛の放牧地
豆を収穫後、畑で乾燥させている

収穫後の作物を畑で乾燥(集めてビニールシートがかけてある)
広大な農地

十勝にある然別湖(しかりべつこ)は、標高810mにあり、北海道の湖では最も標高の高い場所にある湖だそうです。冬には然別
湖氷上コタンまつりが開催され、イグルー(氷の家)内に作られた氷上の露天風呂が人気ですが、夏には氷を自分でくりぬいて造る
「氷のジョッキ」でビールを飲ませてくれるそうです。
今年の最低気温が昨日初めて0度を切って、幌加内町で0.2℃だったそうです。旭岳では今日が初冠雪と言うことでした。東京で
はまだ30℃を上回っていますが、このあたりの今日の昼間の温度は17℃位で長袖のシャツと上着が必要です。日本で記録された
最低気温は、昭和53年2月17日に同じ幌加内町母子里で記録された-41.2℃だそうです。
松山千春の故郷「あしょろ庵」で休憩の後、富良野に向かった。南富良野はテレビ「北の国から」の舞台になったところです。
脚本家、倉本聡はNHKの長編テレビドラマ「勝海舟」の製作中に意見の違いから番組を降りて、富良野の山奥に入り廃屋で生活して
いました。そのころ大ヒットした映画『キタキツネ物語』や『アドベンチャーファミリー』と似たようなものをというフジテレビか
らの依頼で、倉本聰がアメリカ合衆国のテレビドラマ『大草原の小さな家』をヒントに書いたものです。撮影は主に麓郷地区で行わ
れましたが、ロケ範囲も広く、富良野の名を全国に知らせました。1981年から2002年の「北の国から2002 遺言」まで23
年間放送されました。
今夜の宿舎「富良野リゾート・オリカ」に向かいましたが足寄から250kmバスは走っていました。
【旅日記 第4日】 9月26日
富良野の夜明け写真は、左から美瑛冨士、美瑛岳(2052m)、十勝岳(2077m)、富良野岳(1912m)、前富良野岳
(1624m)です。夜明けの町は、霧が低く覆って静かに日の出を迎えました。
富良野といえばラベンダー畑を思い出すくらい今では有名ですが、約110年前に北海道国有未開地処分法が出来て、「ファーム
富田」の創始者である富田徳馬もこの地に開墾の鍬を下ろしました。長男、富田忠雄氏は約50年前に、香料用としてのラベンダー
栽培を開始し、畑はおよそ1.2ヘクタールにまで拡大しました。富良野地方全体でもピーク時にはラベンダー栽培農家が250戸以上、
栽培地域が230ヘクタール以上に拡大しましたが、香料が石油から造られるようになって価格が急落し栽培は急激に衰退したそうで
す。昭和48年頃にはラベンダー栽培農家はほぼファーム富田のみとなりました。今年で栽培を止めようと奥様と約束したその年、
昭和50年に、日本国有鉄道の写真コンテストで優勝した、ファーム富田のラベンダー写真がカレンダーで紹介されると、観光客や
カメラマンが訪れるようになりました。 今では年間600万人がこの富良野に来るそうです。ラベンダーの季節は終わって、今回
は花を見ることは出来ませんでした。それが一番の心残りです。
富良野盆地の夜明け
富良野・四季彩の丘

美瑛は丘陵風景と花の風景が人気の観光地です。アイヌ語でピンエイと言われ、脂ぎっているという意味があるそうです。人口1
1,400人、町の面積は677Km2です。 町には白金や蝶の森、新栄の丘、四季彩の丘、前田真三の写真館・拓真館など観光地
が多く、年間120万人がこの町を訪れると言います。近年は東南アジアからの旅行者が多いと聞きました。拓真館には美瑛の四季
を見事に捕らえた美しい写真がありました。
富良野郊外の雄大な風景。 白樺の林。 パッチワークの路(クリックすれば写真があります)と言われる異なった農作物畑のコン
トラストが綺麗です。このあたりの作物ははジャガイモ、豆、ビート(砂糖大根)が多いそうです。ビートは砂糖キビと同じように
次のアルコール燃料として使われようとしているそうです。 日産自動車のCMに使われたケンとメリーの木はポプラの木で、そば
には昭和51年にセブンスターのCMに使われた木もありました。
美瑛岩石で作られた美瑛駅。 ここの駅前のビルは、どのビルも外壁に美瑛岩石を貼り、三角形のデザインを取り入れています。
またビルの外壁には建築年を西暦の年号で記録して異国的な雰囲気で設計されています。 美馬牛小学校は三角屋根(とんがり帽
子)のある小学校です。 美瑛町立北瑛小学校 は 天文台を持つ小学校として知られていましたが、全校生徒19名でしたので統合
され、いまは閉校だと聞きました。この学校は冬になると生徒がスキー通学することでも知られていました。
CMに使われた木
旭川近くの畑

旭川市は人口36万人、北海道では札幌市についで大きな町です。明治24年永山村に屯田兵が入植したのが開拓の始まりです。
旭山動物園(クリックすれば写真があります)は、旭川市の旭山という山に作られたのでこの名があります。「動物を自然に近い形で
見てもらう」というコンセプトで造られていますので、ガラス張りの水中トンネルの中でアザラシが見えるし、北極白熊、ペンギン
などがもぐもぐタイムという、餌を水中で与えられるところをガラス越しに観ることが出来ます。オランウータンが15mの高さに
張られたロープを渡って散歩します。オランウータンの果物取りは見事です。檻の2m位外に置いた紐のついた果物は竹竿を持って
きて上手に取ります。 同じくらい離れたところに棒を立て果物を突き刺して置いておくと、毛布を持ってきて投げ網のようにして
全体に被せて(端は離さないように足で持っています)手元に引き寄せ果物を取った後、ちゃんと使った毛布を引き寄せて取り込む
のです。まだまだほかにも楽しみは一杯です。

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