大塚栄治郎と十河信二

                            河野 善福 記
 大塚栄治郎は愛媛県宇和島市大浦の出身で、宇和島中学時代にはボート部の選手として鉄 腕を鳴らしました。実兄は宇和島市議、漁業組合長を務めた大塚国武氏です。
 氏は早稲田大学商科を卒業後、六代目菊五郎の持つ、江戸三座の一つとしても由緒ある市 村座に入社しました。この劇場の黒幕には当時の政界の大立物森格氏や、後に国鉄総裁とな った十河信二氏が在りました。市村座は昭和7年に火事を出して焼失し廃業したため、大塚 は十河信二氏の経営になる隆化鉱業(ホタル石)の取締役総務部長に迎えられて渡満しまし た。しかし、昭和13年には日支事変が勃発し会社は休山することとなりました。
 そのころ牡丹江で、いろいろな施設をもって活躍していたのが美津子夫人の姉さん夫婦 で、栄治郎氏に食堂部の経営を一任したいとの申し出がありました。栄次郎はこの食堂を経 営することとなり、手伝わすために大内正氏を呼び寄せました。
大内正氏は大塚栄治郎氏と同じく宇和島市大浦の出身で大塚家とは親戚です。大内家は子供 に恵まれず、栄治郎氏を養子に迎えましたが、その後に正氏が生まれたのです。二人は兄弟 同様に育ったのです。
 大内正氏は宇和島中学を卒業後、市内の三原産業に入社しました。当時は日支間の風雲険 しく、仲間は軍隊へ次々招集されていました。そこに満州にいた義兄栄治郎氏から応援にこ いとの電報が来たのです。三原産業では、総元帳担当の岩井元祐氏の後を引き継いでいまし たが、日支事変直前の満州に渡満しました。
 大塚栄治郎氏が始めた食堂事業は笑いが止まらないほど儲かりましたが、これを聞いた在 満邦人が何人も類似店を開業し、コックも仕入れを誤魔化すようになったのでこれにみぎり を付けて、栄治郎氏は華中水電に入社し、大内正氏は栄治郎氏の実弟の酒井勇氏にすすめら れて奉天の日満鉱業に入社しました。ここ奉天の支店長は宇和島中学の先輩の岡本雅一郎氏 でした。間もなく夾山の沙後所駅前に配属されましたが、銅鉱採掘は戦時物資として、軍の 命令によって急増産され日満鉱業は大儲けをしました。
大内氏は昭和20年4月に現地招集となり、4か月後にはソ連軍の捕虜となりました。内地送 還は2年半後の23年で舞鶴に帰ってきました。しばらく宇和島で静養の後、日満に復職して 九州のカヤ之尾鉱業所の事務主任となりましたが、昭和30年に、栄治郎氏が信栄鍍金を設立 するに際し上京しました。
 大塚栄治郎氏は昭和18年に引き上げ、東京都大田区久が原に居を構えました。戦後は十河 信二氏や東芝機械の社長津守豊治氏(松山市出身)等の出資により、硬化クローム工業株式 会社が設立された際に、十河氏の代行者として常務取締役に迎えられ、硬質クローム鍍金加 工の事業に参加しました。栄治郎氏はこの工場に宇和島市高串在住の親戚の森田三郎氏を呼 び寄せて技術を就得させました。
 鉄は通常焼き入れをすることによって硬くしますが、硬質クロームメッキは、金属の表面 にクロームメッキを施すことにより、焼き入れよりも硬く、ヤスリもかからない皮膜を作 り、鉄を回転や摺動による摩耗から防ぐもので、戦時中には軍により研究がなされました。 戦後すぐにこの技術を荒木実氏が引き継ぎ、前記の十河氏、津守氏などの協力で東京都足立 区新田に硬化クローム工業株式会社が設立されたのです。
 この技術を何に使うのが良いのか戦後研究されました。私の知る限りでは、板橋にあった 清水金型でプラスチック金型に施したのが早かったと思います。クリームなどの化粧品を戦 前はガラスの容器に入れて、ブリキを加工した蓋が付いていました。戦後この蓋をプラスチ ック成型としたのですが、メスの金型にプラスチックの粉を入れて、オス金型で押して熱を かけていました。型離れが悪いし製品も回転する羽布で磨かないと市場に出せませんでし た。この金型のオス・メスに硬質鍍金をかけ鏡面にすると、焼き付きなく型離れするだけで なく、取り出した製品も鏡面になったのです。そのうちこの鍍金を掛けない金型は市場性が なくなり、金型の製作段階で鍍金シロだけ小さく製図されるようになりました。
 やがてロールの軸受け部分や建設機械のロットなど、摩耗した部分の復寸から始まり、こ れらも製図段階から鍍金シロを取って作られるのが当たり前になりました。
 自動車エンジンのピストンロットに鍍金を付けたり、発電所のタービンの軸受け部分だけ がすり減ったので、ここの部分だけにメッキで盛り上げてタービンを再生するなどその用途 は手探りで開発されました。
十河信二氏は、1909年に大学を卒業して鉄道院に入庁し、1年間米国に留学し国力の差を痛 感しました。関東大震災(1923年)の復興のために造られた帝都復興院に出向し、土地売 買に関わり、贈収賄疑惑で逮捕されました。無罪となった後、1930年南満州鉄道(株)に 46歳で入社し理事を務めています。終戦直前に帰国し、戦後愛媛県西条市長に就任、1年で 市長を辞任して鉄道弘済会会長に就任しています。
 昭和30年に71歳で国鉄総裁に就任し、技師長に島秀雄氏を迎え日本初の新幹線の開発に 係わりました。新幹線の建設費は3000億円が想定され、多くの反対がありましたが、あえ て低く見積もった予算(1972億円)で国会の承認を取りつけ工事を進めました。建設予算 は大幅に膨らみ、当時の国家予算では到底賄えない金額でしたので、氏は日本で初めての世 界銀行からの借款を取りつけ、昭和39年のオリンピック開催の10日前に新幹線を開通させ ました。しかし、氏は建設費が膨大に膨らんだ新幹線開通の責任を取り、開通の直前に総裁 を辞任したので、「新幹線を作ったが開通式に呼ばれなかった男」と言われています。
大塚栄治郎氏は、十河信二氏の知遇を得て、十河氏の私設秘書の役目を務めていました。梶 原計国氏と並んで政財界の世話役として、在京愛媛県人の間では広く知られていました。そ れまで十河氏の代行者として硬化クローム工業(株)に続き、大森クローム(株)にも勤務 していましたが、昭和30年10月に、十河氏の勧めで資金面の協力も得て、江戸川区東小松 川4丁目に国内3番目の硬質クロームメッキの加工工場、信栄鍍金株式会社を設立し、工場 長に硬化クローム工業に呼んでいた森田三郎氏を迎えました。信栄鍍金の信は十河信二の 信、栄は大塚栄治郎の栄です。
 大塚栄治郎氏は、電力界切っての実力者松根宗一氏の信頼も厚く、電気事業連合会嘱託と して、また国鉄総裁十河信二氏の懐刀として、さらに財団法人南予奨学会の明倫館館長とし て、あるいは関東愛媛県人会、宇中同窓会世話役として東奔西走しました。
栄治郎氏の宇和島中学時代の同級生は、四国電力支配人の山口恒則氏、近畿電気工事の松浦 久夫氏、大成建設の土谷義雄氏、日本発条の茅田厚兄氏など第一線で活躍されました。
 大塚栄治郎氏の長女の和子氏は、三菱商事勤務の瀬戸新策氏と結婚し、栄治郎氏の逝去後 に母大塚美津子氏を会長として、信栄鍍金の社長を務めていましたが、夫君のロンドン駐在 に同行するために社長を辞任し、大内正氏を信栄鍍金の後任社長としました。
 私は宇和島にいるときに、大塚栄治郎氏の実兄大塚国武氏から「弟の会社に手伝いに行っ てくれないか」と声を掛けられ、信栄鍍金の設立の翌年に上京し、20年間事務部員として勤 務し、大塚の代行者として市ヶ谷の自衛隊のそばにあった十河信二氏の邸宅で、財産管理の 帳簿付けにも何度か行きました。
            
           右から大内正、大塚栄治郎、十河信二、永原正雄(公認会計士)、森田三郎、河野善福
                     昭和34年頃 信栄鍍金にて


TOPに戻る