最後の手紙

烏兎の庭 - jardin dans le coeur

第五部

遊歩道

2/28/2015/SUN

「思春期を考える」ことについて:中井久夫コレクション3、中井久夫、ちくま学芸文庫、2011

セラピスト、最相葉月、新潮社、2014

「思春期を考える」ことについて セラピスト

中井の著作は『徴候・記憶・外傷』に長い感想文を書いてから、何冊か読んできたけど感想文は残してはいない。それ位『徴候・記憶・外傷』を読んだときの衝撃が心に深く、強く、刻まれている。

「衝撃」というのは、今の自分の気持ちを言い当てられたように思うところが多かったこと。本書についても同じことが言える。いくつもの文に蛍光ペンで線を引いた。

手の込んだ精神療法がうつ病に奏効しないのは、うつ病患者がそもそも内面の感情を語り合う対人関係に馴染んでいないせいもあり、どうせわかるものかという気持も湧くかららしい。(軽症うつ病の外来第一日

通院しているS医院の先生が話すことと矛盾するところがないのもうれしい。

書店では、薬物治療を非難する本や、うつ病患者を攻撃するような過激な本がいくつも並んでいる。見ないようにしていても、ふと目にしてしまい、いまの治療は正しいのか、という不安をもつこともある。

医師と治療法に対する信頼感は精神疾患の治療ではとくに重要。病んだ心で医師を信頼できなかったら、病状が快方に向かうはずがない。

本書を読むと、S先生の言動と一致することが多く、これまで受けてきた治療に対する信頼も深まる


何度も繰り返される「せっかく病気になったのだから…」という言葉を大切にしたい。

再発問題には「治るとは元の生き方に戻ることでない。せっかく病気になったのだから、これを機会に前より余裕のある生き方に出られれば再発は遠のいていく」むね告げる。三十代後半から四十代ならば「せっかく病気になったのだから生き方を少しひろやか(のびやか)にされては?」と水を向ける。この「せっかく」は土居健郎のよく使うことばで実にうつ病の人によい。(軽症うつ病の外来第一日)
 あまり以前の生き方に戻ろうとする場合は、「せっかく病気をしたのだから少し生き方を変えてみてもいいのでは」という。「せっかく」ということばは、病気にも長い目でみて積極的意義を認めようとするものである。(精神科の外来診療について(うつ病を中心に)——大阪・兵庫診療所医会における講演より)

うつ病で休職するならば、金に対する強欲仕事中心の生活を見直す契機にしたい。


ほかの人も指摘しているように中井久夫の文章には、いかにも有名な医者という圧力がない。読んでいると、白衣を着た医師がどっかりと座っている診察室ではなくて、大学の大教室でもなく、心地よい待合室にいる気分になる。

松田道雄大原健士郎の文章にも通ずるものがある。

最相葉月『セラピスト』によれば、中井の診察室では待合室にいるクライエント(セラピーでは患者のことをそう呼ぶらしい)を看護師が呼ぶのではなく、医師自身が扉を開きクライエントを招き入れるという。

私が通院しているS医院でも同じ。これまで特別なこととは思っていなかった。

思い返せば、ほかの病院では、看護師に名前を呼ばれ自分が扉を開け座っている医師に会う。「招き入れる」ことは「あなたの話を聞きましょう」という姿勢が患者に伝わるのだろう。


『セラピスト』は面白く読んだ。これまで中井自身の著作をいくつか読んでいたので、話し言葉のインタビューはやや物足りなく感じた。

精神疾患やカウンセリングについて興味はあるがよく知らない、という人にとっては、まさに扉を開けて招き入れてくれるような本といえる。

「セラピー」と最相が呼んでいるのは、S医院の領収書に「精神療法」と記載されいるものだろう。優れた医師であれば、箱庭のような道具も有効に使うだろうし、道具がなくても、患者の発する言葉の中身よりも、話し方や表情や顔色をみて、病状を診察し、薬のように効果のある反応を言葉や身振りで返す。

他愛ない世間話をしているようで、自分でも気づいてないことを指摘されて驚くことがある。7年という長いつきあいということもあるが、S先生は、実に細かいところを診ている


さくいん:中井久夫S先生