硝子の林檎の樹の下で 烏兎の庭 第四部
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2011年11月


11/5/2011/SAT

世界 2011年1月号――特集 原子力復興という危険な夢、岩波書店、2011

世界 2011年6月号――特集 原子力からの脱出、岩波書店、2011

図書館で、ふだん見ない総合雑誌の棚でふと目についた。原子力という名前の特集なのに、2011年1月号とある。つまり、この特集は福島原発事故以前に発行されていた。

複数の記事から構成された特集では、以下のことが事故発生以前に指摘されている。

原発の事故発生後、対策が後手になる民主党政権を自民党が批判するのは、筋違いと思っていた。原発を推進してきたのは、むしろ自民党のほうで、民主党はその後始末を“偶々”いま政権にあるためにやらされているように見えていた。

ところが、事実はそうではないらしい。確かに原子力発電を開始し、日本全土に拡大させてきたのは自民党政権だった。しかし、政権交代後、民主党はそれを見直すどころか、「逆コース」と呼びたくなるような勢いで原発の輸出を強力に推進しはじめていた。


事故は起こるべくして起きた。そして、海水注入など被害拡大に対する初動が遅れたこと、政府と東京電力が共謀して事故を小さく見せようとしていることも偶然ではなかったこと、つまり、それは民主党政権自身に原因があった。

事故が発生してから、名前を広く知られるようになった(私自身もその一人)原子力工学研究者の小出裕章が『世界』6月号に掲載されているインタビューで指摘している。

事故後、原子力発電についてさまざまな議論がされている。新聞雑誌やウェブ上の意見を読んだうえで思うこと。

この問題は結局のところ、ある科学技術が安全かどうかという単純な問題ではなく、ある政策なり事業なりを、どう作り、どう動かし、どう制御し、どう止めるか、という政治と経営の問題ではないだろうか。

リスクがあっても、決断し、ある政策を選ぶこともある。いまのところ利益をあげている事業でも、集中と選択の観点から撤退を選ぶ企業もある。その決断は「安全かどうか」「儲かっているかどうか」という単純な二者択一でなされるものではない。

それを決めるものが、政治的判断や経営的判断というものだろう。科学技術の知識はその判断するための材料にすぎない。

自動車を運転する能力があるからといって、すべての人が運転免許を取らなければいけないわけではないし、まして、すべての人がクルマを運転しなければいけないわけではない。


11/12/2011/SAT

赤塚不二夫トリビュート~四十一才の春だから~、DefSTAR RECORDS、2008

混声合唱曲集(1)、日本コロムビア、1990

赤塚不二夫トリビュート~四十一才の春だから~ 混声合唱曲集

東京MXテレビの『天才バカボン』の再放送が終わった。放映していることに気づいたのが遅かったので、見られたのは3分の1くらいか。バカボンのパパがレバニラ炒めを食べているところは見ることができた。バカ田大学の校歌は聞けなかった。

話はもちろんパパの繰り広げるスッチャカメッチャカ。一日の疲れを吹き飛ばすようなバカバカしい話に珍しく腹を抱えて笑った。「来週も見ないと死刑なのだ」の言葉以外、それほど毒気は強くない。むしろ、ほのぼのした話が少なくなった。でも、ママの前で正座をして謝っているパパの姿にはちょっと切ない気持ちになった。これは子どものときに見たときにはなかったこと。

山田康雄や野沢雅子がちょい役で出ているのも楽しかった。

図書館で赤塚不二夫原作のアニメ作品をカバーしたアルバムを見つけた。ライナーノーツでタモリが「白紙の弔辞」で有名になった赤塚不二夫とのエピソードをいくつか書いていた。アルバム名になっている「四十一歳の春だから」が最後に入っている。この曲の前に、赤塚不二夫自身の声で「これでいいのだ!」が聴ける。

この曲は、第二期のエンディング・テーマ曲。すっかり忘れていた。バカボンのパパはちょうどいまの私の年齢とそう変わらない。そう思うと、やはり正座で叱られている姿は見ていて身につまされる。


中学校の合唱祭へ行った。なるべく自分の合唱祭の体験は思い出さないように心掛けてはみたものの、結局は自分がどんな歌を歌っていたか、思い返すこととなった。

昔、歌った記憶がある「気球にのってどこまでも」(東龍男作詞、平吉毅州作曲、1974)や「大空賛歌」(桑原ほなみ作詞、黒澤吉徳作曲、1977)の入った合唱曲集を探してみた。1980年代半ばの中学校ではまだ70年代に作られた作品がよく歌われていた。ほかにも「大地讃頌」(大木惇夫作詞、佐藤眞作曲、1962)や「モルダウ」(岩河三郎作詞、スメタナ作曲)など、さらに前の時代から歌われていた歌も課題に入っていた。

「気球にのってどこまでも」と「大空讃歌」はどちらも「空」について歌っている。しかも、過剰なくらいに清々しい。最近、中学生の合唱用に作られた「手紙~拝啓、十五の君へ」いきものがかり「YELL」は“悩んでいる私”が前面に出ている。そういう曲が続けて作られ、また広く受け入れられるということは、中学生を取り巻く環境が変わったことを示しているのだろうか。70年代の作られた陽気な空の歌が現実離れしていたのだろうか。


少なくとも、私が今年見た合唱祭では、楽しそうな学校生活の一面で“悩んでいる私”は露見してはいなかった。それは、見ている親としてはとてもうれしいことだった。「大地讃頌」はいまでも中学校では歌われることがあると聞いた。

もう一曲「夢は大空を駈ける」(館蓬莱作詞、渡部節保作曲、1974)も歌ったことがあることを思い出した。この歌もさわやかな空の歌。なぜか、この曲のことはすっかり忘れていた。

「夢は大空を駈ける」を聴いていたら、中学三年の冬、公会堂で発表会があったことを思い出した。そのとき、舞台の上で隣で歌っていた女生徒の名前と顔も、それを忘れかけていたことに気づいた。いまから謝ることはおそらくできないけれど、彼女に対して私がみせた不誠実な態度と裏切りとは、私自身のなかでは忘れてはならない。異性だからというのではない、友人として彼女にはたくさん助けてもらったのに、私は恩を仇で返すようなことをしてしまった。

彼女はおそらく私のことなど、名前も顔も忘れてしまっているだろう。そうであっても、彼女には謝らなければならない。少なくとも彼女に謝ることがあるということを、私は忘れてはならない。

よく晴れていたあの日、春一番が公会堂の前の広場を吹き抜けて行き、一人の女生徒のスカートがふわりと舞い上がった。その光景も思い出した。


11/19/2011/SAT

気分乱高下

気分の乱高下が激しい一週間だった。

週の半ば、数年ぶりで大阪に泊まった。関西には頻繁に出張しているものの、大阪へ行くことはほとんどなくなり、まして泊まる機会はなくなった。一時期は毎週泊まり、飲み歩いていたのに。

かつての常宿にチェックインし、まず通っていたうどん屋へ行ってみた。大阪に行ったら、まずはうどん。こんにゃくのきんぴらを肴に瓶ビールをコップで少しずつ呑み、きざみうどんを頼んだ。

勘定をするとき、「久しぶりで美味しかった」と告げると、女将さんの返答は「そんなにしばらくでしたか、よく来ていただいていたので、何年も経っている気がしません」。

社交辞令にも思えなかった。カウンターの向こうからは、こちらが思っているよりよく顔が見えているのだろう。

気分がよくなってきたので、前に行ったことのある他の店にも顔を出してみることにした。その前に、閉店間際の大型書店を一回り。ここにもよく来ていた。気分よく酔いはじめてきたら、山口瞳の文章が読みたくなった。急いで文庫の棚に向かい、山口瞳『酒飲みの自己弁護』(1973、2010)を買う。新潮文庫からちくま文庫に発行元が変わっていた。


5、6年ほど前、大阪に頻繁に来ていた「あの頃」、何度か行った小さなラウンジへ顔を出してみた。会社が変わり、もうしばらく大阪に来ることはないだろうと思い、この店に来たのは、4年前の冬のこと。この店が好きなのは、クラシックギターを聴かせるから。店の女性たちも酌をするだけではなく、楽器を弾いたり歌ったりする

それから、何といってもマスターの人柄。「似而非湘南ボーイ」という名前を私にくれた人。

「一人でもいいですか」と扉を開けると、マスターは「久しぶりやな」。これも客商売の常套句というわけではない。その証拠に彼は私にこの店を教えてくれた友人の名前を口にして「どうしてるかい」と聞いたのだから。

この店にはメニューがない。呑みたいものが呑める。何を呑んでも、何時間いても勘定は同じ。その晩は、ボジョレーを出してくれた。不覚にも私はその日が解禁日だったことを店を出るまで知らなかった。

まだ時間が早いのでほかに客はない。私はこの店に最後に来てからの4年間にあったことを話した。マスターは店を開いてからの25年のあいだのエピソードをいくつか話してくれた。

この夜は、サクソフォンで“Isn't She Lovely”と“カリフォルニア・シャワー”を聴いた。もちろん、マスターの自作「清流四万十」も。

ホテルに戻り、「図書室」という名前のバーへ。ここではシングル・モルトをたくさん教わった。マティーニを一杯飲み干したあと、おすすめのジンを頼むとアイラ島のモルトウィスキーの醸造所で作ったジンを教えてくれた。

一人で呑み歩くなんて慣れないことをしたものだから翌朝、二日酔いにはならずにすんだものの、身体のほうがとても疲れていた。それでもまだ気持ちだけは異常に興奮した状態のままだった。今週は職業上、一つの区切りがついたことも興奮していた大きな要因。


明けて金曜日、仕事でまた数字のミス。いつまでたっても、何回チェックしたつもりでも、まだ数字を間違える。昂揚していた気分が一気に自己嫌悪に急降下した。

一度、不安モードに入るとラッチアップしたLSIにどんどん電流が流れて行くように、どんどん不安が増大していく。深呼吸したり、不安な事柄を確認するために箇条書きにしてみても、止まらない。2年前、不安からパニックになり泣き叫んだ記憶がよみがえり、ますます不安になる。

ブレーキのきかなくなった自動車に乗っているように、あるいは、電源を失った原子力発電所のように、もう自分のことが自分ではまったく制御できないような気持ちになる。


土曜日の朝S医院でこの数日間の気分の乱高下について相談した。「不安が増大するのは、ほんとうに不安なのではなく、半分以上は以前の状態を思い出してしまっているから。いまの状態はほんとうにパニックになっていたときほど悪い訳ではない」と落ち着かせてくれる。

こういうやりとりを精神療法というのだろうか。私はときどき、病院でお金を払って愚痴を聴いてもらい、励ましてもらっているような気がする。

「精神科医は娼婦に似ている」という、半ば自虐的な比喩を中井久夫の文章で読んだことがある。ほんとうはたくさんの人を相手にしているのに、自分が対面しているときは密室で自分だけに応じてくれているような錯覚をもつことに共通点を見たらしい。

その言葉を思い出しながら、待合室を見回すと、「この人たち皆が先生に話を聴いてもらうために来ているのか」という、ささやかながらではあるけれど嫉妬心のような気持ちがあることに気づいた。水木しげる『総員玉砕せよ』の冒頭にあった慰安婦の前で長蛇の列をつくっていた兵隊もこんな気分だっただろうかと考えたりする。


すこし昼寝をしてから、歯医者へ。ところが今度は予約の時間を間違えていた。また数字の間違い。他の患者の隙間に何とか治療はしてもらえたけれど、自己嫌悪と麻酔のせいでぼんやりとしたまま雨の街へ出た。

夜、気の置けない友人が誘ってくれたので、駅ビルにある焼き鳥屋で会った。とりとめもないことをしばらく話していたら、すこし落ち着いてきた。こういうひとときをくれる友人は大切にしなければいけない。


さくいん:S医院中井久夫


11/26/2011/SAT

行動の動機

木曜日、先週に続いて大阪に泊まることになった。かつての常宿は満杯だったので翌日の行き先に近い駅前でビジネスホテルに予約を入れた。

数年前、ほとんど毎週関西圏に泊まりがけの出張があったころ、仕事の仲間と呑むこともあれば、長い夜を一人で過ごすこともあった。今夜は、そんな一夜に似ている。

百貨店の蕎麦屋で湯葉そばを食べた。ターミナル駅にもかかわらず、最上階の食堂街は閑古鳥が鳴いていた。ビールとつまみを買い込みホテルに帰る。家族にメールをして無事を伝えて、ふだんはほとんど見ることがない9時からのテレビ番組を見ながら酒を呑む。

2002年の秋は図書館で借りた『小林秀雄全集』を新幹線でも読み続け、ホテルでは気になったところをパソコンに打ち込み引用データベースまで作っていた。

いまは読書する気力を失っている。辛うじて文章を書く気力はすこし取り戻しつつある。

先週、山口瞳『酒呑みの自己弁護』を再読した。若いときの酒の失敗談を読んでいたら、かつて自分も何度も晒した醜態の記憶とあいまり、読んでいてなんだか悲しい気持ちになった。


最近、気づいたこと。私は行動の動機が“恐怖心”であることが少なくない。要するに何か行動を起こすとき、「怒られたくないから」「怒られないように」している、ということ。とくに職業上はこの傾向が強い。

「こうすれば生産性が上がるだろう」と思うこともないし、まして「お客様の笑顔が見たいから」ということはまずない。「客に怒られないように」前もって動くことは多い。

こんな気分でいて仕事に「働き甲斐」を見つけられるわけがない

思い返すと、これは生来の気質で、それがこの数年さらに強くなっている。

S先生に相談すると、「行動の結果がよければ、いまはその動機まで考えない方がいい」と言われた。

自分の性格や過去の行動を分析しすぎてしまうことにも、自分自身を不安に陥れる要因があると考えているのかもしれない。


さくいん:山口瞳労働


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