土を掘る 烏兎の庭 第三部
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11.25.06

善の研究1911初版、1921、1936、1950、1979、岩波文庫)、西田幾多郎、下村寅太郎解題、岩波文庫、1979

西田幾多郎随筆集、上田閑照編、岩波文庫、1996

善の研究、小坂国継全注釈、講談社学術文庫、2006


善の研究 西田幾多郎随筆集 善の研究 全注釈

『西田幾多郎—没後六十年 永遠に読み返される哲学』を入口にして、西田幾多郎を読みはじめた。読んだのは、あまりにも有名な『善の研究』と同じ文庫にあった随筆集。岩波文庫にあった初期の随筆を集めた『思索と体験』は、いまは絶版になっている。あちこち探してはいるけれど、まだ見つからない

そもそも西田幾多郎を読みはじめたきっかけは、三木清の随筆だった。そのせいか、はじめから西田幾多郎の哲学よりは西田幾多郎という人間に興味を覚えていた。言葉をかえれば、西田を読む関心は哲学的というよりは思想的で、論文というよりはエッセイを読む気持ちだった。

西田は、最初から哲学者になろうとしていたわけではないし、哲学を研究しようとしていたわけでもない。彼はただ考えることにとりつかれていた。考えていることをそのまま言葉で表わすことを重ねているうちに、それは哲学と呼ばれる器に入り、彼は哲学者と呼ばれるようになった。哲学を、彼は目指していたのではない、彼の目指していたことが哲学と呼ばれるものだった。

少し見方をかえると、西田が目指していたのは、西洋哲学でもなければ日本の哲学でもなく、それらの融合でも架橋でもなかった。彼の目標は、自分の思想を打ち立てることにあった。


たとえば随筆「ケーペル先生の追懐」のなかで、西洋哲学を理解するためにはギリシア語とラテン語ができなければならないという師の言葉を引く一方、「初から先生と傾向を異にしていた私は、先生の教について今日まで何一つ実行したものがない」と断言している。

もし目標が西洋哲学を理解することにあるならば、ギリシア語やラテン語をまず学ぶ必要がある。しかし西田の目標は、そこにない。むしろ、ギリシアやラテンの古典のないところに生まれ育った自分にとって哲学とは何なのか、その意味を探ろうとした。それは外国語は要らないと開き直ることではない。もし、その目的のために必要となれば、他の言葉も哲学も学ぶ。この順序は、重要。

学校制度や学問体系も定まっていない時代に思索をはじめた西田にとっては、研究のために思索があるのではなく、思索のために学問があった。

『善の研究』は日本の哲学史上の名著と言われる。西田幾多郎その人も大哲学者と言われる。しかし、『善の研究』は、京都大学名誉教授が書いた作品ではない。名前が知られているわけでもない、学歴はほとんど聴講生のようなものでしかない大学講師がこつこつと書きあげた本。しかも、その人は生い立ちから結婚してから後までも、ずっと苦労を重ねている。

初版の本はどのように売られていたのだろう。平積み、帯つき、手書き広告つきでは、おそらくなかっただろう。

無名の人が書いた文章と思って読むだけでも、『善の研究』は、ただならない意欲をもって書きあげられたことが想像できる。


『随筆集』と『善の研究』を同時に読んでみてまず気づくのは、西田のふだんの文章はかなり平明であること。私的な手紙以外でも、哲学書の書評や短い文章では、哲学的な内容であっても、特別に難しい言い回しも使っていない。彼は、けっして難解な文章しか書けなかったというわけではない。

とすれば、『善の研究』など彼の哲学的論考に見られる難解な文章は意図してそう書いていたことになる。

『随筆集』では、身近な出来事、それも不条理で不幸な出来事について、彼が真剣に悩み、考えたことが私的な書簡や短歌にも込められている。哲学論文より文学的な表現に馴染んだ身には、こちらだけでも十分に西田の奥深い思索が感じられる。

でも、西田自身はそれだけでは飽き足らなかった。彼は日常生活の中で起きるさまざまな不条理を、自分自身に説明し、納得し、理解したいと思っていたし、そうしなければならないと思っていた。そして彼はそのために考え続け、言葉を紡ぎ続けなければならなかった。

しかも、考えを深め、表現する道具である言葉は、西田にとって出来上がっているものではなかった。

『永遠に読み返される哲学』のなかで、安藤礼二は、西田は政治や思想だけではなく、言葉としてみても、過渡期の時代を生きたと話していた。彼自身も、言文一致の文章はあとで学んだと「始めて口語体の文章を書き出した頃」で書いている。

西田の哲学的な文章は、自分の思想を表現する試行錯誤であり、しかもそれを表現する言葉じたい、古い時代から新しい時代への過渡期にあった。西田の文体は二重の意味で流動的と言える。

こんな風に思うのは、哲学からではなく、人間の側から西田幾多郎の作品を読みはじめたからだろう。これは、哲学の学習としては間違っているかもしれない。でも私自身の読書としては、これでよかったと思う。


西田幾多郎が大哲学者に、『善の研究』が名著になって、あらかじめて刷り込まれていると、このような読み方は難しい。歴史上の一人物になってしまった今のほうが、彼の思想も生涯も遠望できる。彼が生きていた同時代では、名を成した大人物だったので、運動としての思想は見逃されがちだったかもしれない。

たとえば、入門書にもよく引用される小林秀雄の西田批判。

   西田氏は、たヾ自分の誠實といふものだけに韡つて自問自答せざるを得なかつた。自問自答ばかりしてゐる誠實といふものが、どの位惑はしに充ちたものかは、阳樣だけが知つてゐる。この他人といふものの抵抗を全く感じ得ない西田氏の孤獨が、氏の竒怪なシステム、日本語では書かれて居らず、勿論外國語でも書かれてはゐないといふ竒怪なシステムを創り上げて了つた。氏に才能が缺けてゐた爲でもなければ、創意が不足してゐた爲でもない。(「學者と官僚」『全集 第六卷』)

西田の文章が日本語でも外国語でもないという評価はある意味で正しい。彼の言葉は、まだ現代の日本語として出来上がってはいない時代のものであったし、外国語をそのまま翻訳したものでもなかった。確かにそうなってしまったのは、西田一人の責任ではない。

「惑はしに充ちた」というところに小林の西田に対する否定的な見方が現われている。他者性、もしくは社会的視野に乏しいことが西田の欠点であると小林は見ている。彼は文学に対して、哲学をより社会的な影響力を有するものと考えていた節がある。そもそも小林秀雄の出発点は、マルクス主義哲学は文学を硬直させる「意匠」に過ぎないと批判するところにあった。

   わが國の哲學者は凡そ二つのタイプに分れてゐる。一つは文學的スタイルを嫌厭してひたすら純粹な思索の道を辿つたが、遂に社會的思想として人々を動かす哲學を建設出來ずにゐるもの、一つは純粹に思索する努力が重荷になつて文學的スタイルと妥協しデレッタントの地位に止まつてゐるもの。この兩方に飽き足らぬところに恐らく三木氏の進んで行かうとする道の新しさがある樣に思はれる。今に氏の歩く道について行かうとする人が現はれて來るだらう。現はれて來なくてはならぬ。(「三木清「時代と道徳」」『全集 第五巻』

哲学は社会を変えるものか。変えるものでなければならないのか。哲学が人間を変え、その人間が世界を変えるのではないか。見方をかえれば、マルクス主義は何よりも、人間が変らないでいても社会は変えられるという発想を持っていたがために、公式化し、教条化したのではないだろうか。

少なくとも西田の思想は社会を変えるよりも、まずその前に、自分自身を変えることを目指していた。小林が三木清に期待したものの先がけを西田に見なかったのは、彼が西田幾多郎の思想を完成品として見ていたからもしれない。それだけ西田幾多郎という名前が当時、どれほど大きかったかが伺われる。


余談。この頃の小林秀雄は、国家主義と戦争にまだ楽観的でいる

   疑はうとすれば、今日ほど疑ひの種の揃つてゐる時はないのだ。一切が疑はしい。さういふ時になつても、何故疑へば疑へる様な観念の端くれや、イデオロギイのぼろ屑を信ずる様な顔をしてゐるのであらうか。疑はしいものは一切疑つてみよ。人間の精神を小馬鹿にした様な赤裸の物の動きが見えるだらう。そして性慾の様に疑へない君のエゴティスム即ち愛国心といふものが見えるだらう。その二つだけが残るであらう。そこから立直らねばならぬ様な時、これを非常時といふ。(「神風といふ言葉について」『全集 第六巻』)

中井久夫は、第一次大戦で戦地とならなかった日本は、近代戦争の過酷さに対する認識が20年遅れていたと書いている。小林秀雄が時局の厳しさを潜り抜け「俺は反省しない」と自分自身に向き合うまでにはまだ長い時間がある。戦後の小林秀雄が、西田幾多郎をどう考えていたか、この問題は興味深い。

蛇足。西田の文章が「竒怪なシステム」というのなら、小林秀雄が戦中に書いた「無常といふ事」も奇怪な体系と言わずにいられない。


西田の言葉は難解で、そのうえ断定的と言われている。確かに現代の言葉の尺度で見れば、そう見えるかもしれない。でも、二重に流動的な言葉の世界にいた当時、それほど断定的な気持ちで西田は書いていたのだろうか。

西田の文章に数多く登場する「でなければならない」。いまの日本語では、「でなければならない」は圧倒的に必要・義務の意味で使われている。でも、西田の使い方を見てみると、必要・義務というよりは、当然や推定の意味で使っていることも少なくない。

   何処かの土の中から石が掘り出されたとする。それが単に一つの石であるといふ意味に於いては、何等の歴史的意義を有たない。若しそれが古代都市の何処かの礎でもあつたといふ場合、それは単なる自然物ではなくして、歴史を語るものでなければならない、それは歴史的世界に属するものでなければならない。かういふ意味に於いて、言語文章といふものは、それ自身が歴史的産物たると共に、歴史的内容を語るものとして最も自由に、最も適当なる表現といふことができる、歴史は書かれたものとも云ふことができる。(「歴史」『西田幾多郎全集 第十二巻』(岩波書店、1966)

上の文章にある「でなければならない」は、遺跡の石はその場所の歴史を語るに違いない、語るはず、という意味だろう。石にそうでなければならないと言ったところで、石に義務は生じないのだから。

このように、西田の「でなければならない」は、こう考えるなら当然こうなるはず、という論理的帰着を意味していることが少なくない。

英語のmustにも、必要・義務のほか、当然の用法がある。言葉に複数の用法がある場合、どの意味か分析することはできても、使うときにはどの用法が気にすることはまずない。それは、もともと人の気持ちは言葉の意味ごとにわけられているのではないから。一つの気持ちが、二つの意味をもつ言葉を選ぶ。

では、なぜ二つの意味のある言葉を使うのか。気持ちがまったくちがうのならば、それぞれに違う言葉を当てればいい。それをしないのは、もともとの気持ちに、二つの意味が混ざっているから。


このことを西田の思想にもう少し即して考えると、彼の思想は、「したい」と「しよう」と「しなければならない」の三つの気持ち、そのどれか一つではなく、三つがちょうど重なるところを目指しているように思う。

『善の研究』では、「心の欲する所に従いて矩を踰えず」という『論語』の言葉が何度か引かれている。何かをしようと思うとき、それが矩を越えない。また何かをしなければならないと思うとき、行動は自然に矩に従う。矩が何を示すかひとまず措くにしても、行動が自然で、ある枠に沿っていることを示している。

西田は、芸術家の無心の一筆についてもよく言及する。画家は、上手に描こうと思いながら描いたのでは上手に描けない。音楽でも、指をどう動かすかなどと頭で考えているうちはたどたどしい演奏にしかならない。言葉は必要でなくなるほど、練習すると自然に絵が描け、曲が弾ける。『善の研究』「第三編 第十三章 完全なる善行」の最後にあるジョットの円の逸話は、こうした芸術家の無心の一筆をもっとも象徴的に表わしている。

現代では、スポーツにおける快心の一撃にも同じことが言えるだろう。コースや回転を言葉で考えていたら、スポーツはできない。考える前に手が出る、しかもそれが理想的な形でできるようになるまで、選手は練習する

こういうことは、することとしないことの両方、日常生活にもある。早起きをする、酒を辞める。しようと思うだけではなかなかできない。しなければいけないと誓いを立てたり、規則を決めてもうまくいかないし、うまく行っても、どこか自分でしている気がしない。

ところが、あるとき突然、特別に意識をしないでもできてしまうことがある。無理にしている感じもしない。もちろん、それが長続きすることもあれば、三日坊主に終わることも少なくはない。ともかく、自分の意志や外部の規則によってではなく、ごく自然に行動が変わってしまうことは、おそらく誰にでもある。

西田は、そうした修練が道徳的な世界でもすることができるし、しなければならないし、また、そうしたいと自身で考えていたのだろう。「したい」「しなければならない」「しよう」、そして「できるはず」が混沌としているところから言葉のない行為を取り出すこと、そこに彼の真意があったように思う。


無心の道徳的行為。それは瞬間的には可能であるとしても、それが社会的歴史的な文脈でも有効とは限らない。これは、芸術やスポーツについても言える。素晴らしい円が描けても、全体を上手に描けなければ、作品としては台無しになる。快心の一打が出せても、試合全体はその積み重ねだから、最後に勝てるとは限らない。相手がいればなお難しい。自分では快心でも、相手はそれを待ち構えているかもしれない。

版画家の長谷川潔は、「巨匠は、ただ一筆で巨匠」という言葉を残している(齋藤磯雄「長谷川潔画伯近況」『日本現代版画 長谷川潔』)。一方、そうした巨匠の一人と言っていいルオーは、サインをしたあとでもすべての作品は未完成と考え、実際、買い手から取り戻して手直しすることもあったという。

瞬間的には傑作、快心、有徳であっても、空間的、時間的に全体のなかで見てもそうなるとは限らない。空間的時間的に、有徳であることを目指すためには、過ぎた一瞬の行為が全体のなかでどのような意味をもっていたかを吟味しなければならない。つまり、どれほど傑作、快心、有徳であっても、それを否定し、批判した上で、次の瞬間の行為を生み出していく必要がある。

西田の思想全体をとらえた檜垣立哉の新書を読むと、西田は次第に経験から直覚、直覚から行為、行為が生まれる場所、そして、行為の連続性や歴史性へと視点を変えていった。『善の研究』では焦点は瞬間的な無心の道徳的行為にあり、これだけを読むと微視的で静的、硬直的にすら感じられるところがないわけではない。

「この他人といふものの抵抗を全く感じ得ない西田氏の孤獨」との小林秀雄の批判がこの辺りを指しているのであれば、私も同意しないものではない。ただし、西田の立場に立てば、社会的な意味、歴史的な意味は、そうした孤独をかいくぐって初めて問うことができる、と応えるのではないだろうか。


孤独に耐え抜き、無意の行為ができる人。そのように書くと、西田幾多郎は求道的で強靭な人間像を描いていたように感じられる。硬質な文章や、後半生の成功や名誉は、そうした印象を強める。でも、私には、『善の研究』を書いた名もない学校教員が、そのような人間像を最初から持っていたとは思えない。

確かに西田は、統一的人格という言葉を使う。この言葉も、強い人間像を感じさせる。さまざまな経験や性質をもった多面的な自己を上から支配し、制御する王のように君臨する自己。

その一方で、『随筆集』や三木清の文章で垣間見られる西田の私生活や性格は、次々に降りかかるこの世のままならない出来事にうろたえたり、考えることに憑かれた「デモーニッシュ」な一面を持っている。ここでも、大哲学者、偉人という先入観があると、西田の人間観からは離れていってしまう気がする。西田幾多郎の人間像は、もっと頼りなく、それでいて捨て身ではない

そもそも西田にとっては、「個人あって経験があるのではなく、経験があって個人あるのである」。強力な自己が経験を制御するのではなく、経験が個人の人格を生み出していく。問題は、生み出される人格と経験の関係。


すこし突拍子のない考えを持ち出す。『善の研究』を読みながら、西田のいう人格は、ロシア民話の『空とふ船と世界一のばか』に似ているような気がした。

世界一のばかと呼ばれた若者は、空飛ぶ船に乗り、仲間を見つけながら王様のいる都へ旅をする。田舎者を追い返すために王様は難題を繰り出す。これを若者は解決し、最後にはお姫様との結婚を勝ち取る。

この若者は、自分では何もできない。けれども、出会う人々を次々に受け入れ、船に乗せてやる。この若者の船に乗り込む、さまざまな才能をもった人々が経験。経験は、それ自体では何もできない。ただ、若者が困ったときに「オレを忘れてもらっちゃ困る」と出てきて難題を解決する。

難題を解決するのは、若者ではない。だから、若者は偉そうな素振りは最後まで見せない。若者の存在は強大ではないけれども、若者がいなければ、空飛ぶ船は進まない。

以前、逆境からカムバックしたマラソン選手が「自分をほめてやりたい」と言ったことがあった。勝利した自分が、負けそうになっていた自分を賞賛し、肯定するとすれば、何もできないはずの世界一のばかが自分一人で王様に勝ったと思い込むことと同じ。でも、何もできないとうつむいていた自分が、何かをできた自分を認めることは、自己のあり方として健全ではないだろうか。


西田の思想の基本概念である純粋経験。『善の研究』の最初に置かれたこの章は、実はあとから書かれたという。西田自身は、第二章から読みはじめて、最後に第一章を読むことを入門者には奨めている。私も、その指示に従った。

純粋経験には、二つの側面がある。あるいは、まったく別の性質をもつものにあえて純粋経験という一つの言葉を西田はあてている。善や神についての探求のあとで純粋経験の章を読み終えて、そう思った。

純粋経験の二つの側面、あるいは二つの純粋経験は、仮に原初的、行為的な経験とそれぞれ名付けておける。原初的な経験は、何かを感じること、体験すること。行為的な経験は、無心の道徳的行為が生れるような経験、というよりも人間全体のあり方。

二つの純粋経験に共通しているのは、そこには言葉がないこと。純粋という言葉は、言葉を媒介にした解釈がないことを意味するととることもできる。

ふつう、人間は何かを感じると、それをすぐ言葉で解釈し、解釈に沿って行動に移る。のどに何か感じる、これは渇きだ、水を飲もう。本能が欠けている人間は、感覚と行動のあいだに必ず解釈をする。行動が起きると、最初に感じたことは忘れられるか、言葉によって解釈されたうえで、あとでほかの感じ方と程度や質を比較する参照先として、脳や身体に記憶される。

何か感じる、のどが渇いている、暑い、冷たい水を飲みたい、ほかにも感じる、お腹もすいている、食べるものも探そう。

ところが、感じたことのすべてが解釈され、行動に移るわけではない。まったく解釈を受け付けない感覚というものもある。何かを感じているのに、それが何だかわからない。それを表わす言葉も見つからない。ましてどんな行動に結びつくのか、想像もできない。


そのような言葉による解釈のない原初的経験は、特別なものではない。日常生活にもあふれている。美しい風景を見たとき素敵な音楽を耳にしたとき誰かの笑顔が急に輝いて見えたとき。何と言ったらいいか、どうしたらいいかはわからないけれど、何かの行動に変えたい気持ちになる。実際、そこから言葉もなく行動が生れることもある。

言葉で解釈できない原初的経験の、もう一つの端的な例が身近な人の、突然の死。悲しいという言葉は知っていても、悲しいという感じがしない。涙も出ない。ただ、何だかわからない衝撃が自分の奥底にまで突き刺さり、行動を起こそうにも自分の存在全体が繭に包まれているような気持ちがする。

西田幾多郎自身が、そのような気持ちを書きとめている。

誠というものは言語に表わし得べきものでない、言語に表し得べきものは凡て浅薄である、虚偽である、至誠は相見て相言う能わざる所に存するのである。我らの相対して相言う能わざりし所に、言語はおろか、涙にも現わすことのできない深き同情の流が心の底から底へと通うていたのである。(「我が子の死」)

言葉にできない感覚は、それでも似た体験を持つ人と共有することができる。ただし、行為はここからは生れない。

では、なぜ二つの純粋経験に西田は同じ言葉をあてたか。それは、原初的な経験を掘り下げることでしか、道徳的行為の生れる純粋経験には至れないと、彼が考えていたからではないだろうか。

その道筋を照らす光が、宗教体験であり、その道筋を歩む力が、哲学と西田が呼んでいるものかもしれない。善行とは、その足跡だろう。


言葉にできないような強烈な体験というものは、確かにある。でも、それが誰でも必ず純粋経験と呼べるような経験になるわけではない。のどの感覚が渇きと解釈されて水を飲むように、感覚は即座に解釈され行為に移される傾向にある。感覚をそのままにしておくことに、人間は耐えることができない。だから、強烈な体験ほど、単純な言葉で解釈され、安直な行為に変換されやすい。

「いい勉強になった」「いい経験だった」。事態を直視しないことが「前向き」になることと思わせる常套句は豊富にある。

試練、敗北、死などの過酷な体験が、希望、平和、反省などの安直な言葉にすりかえられていく例は、身のまわりにいくらでもある。たった一人の死でさえ、それを受け止めるには一生かかるかもしれないのに、多くの人の死をまとめてたった一語で片付けてしまう人の何と多いことか

たった一人の無念の死を真剣に受け止め、自分の生き方を見つめなおす人もいる。思えば、世代を越えて継続する宗教には、そうした性質がある。

どれほど立派な人でも、死んだあとに忘れられてしまえば、宗教として成り立たない。直接にその人を知っている人が生きている間だけは続くかもしれないけれども、彼らがいなくなれば、それで終わる。だから、宗教が持続するためには、二つの契機が必要になる。一つは、宗祖が死んだあとに、その人を知っていた人が忘れないでいること。もう一つは、宗祖を直接知らない人に、宗祖の死の意味づけがされること、つまり、一人の生と死が普遍的な意味をもたされること。

宗教に関わる人間の側から見ると、この二つの契機の存在は大きな矛盾をはらむ。宗祖一人の死は、普遍的な意味を持たなければ、直接に知らない自分に意味はない。しかし、宗祖一人の死を、直系の弟子たちがそうしたように、一人の人間の死として受け止めることができなければ、そこにも、やはり意味がない。単なる「昔の偉い人」になってしまう。

西田は、『善の研究』「第四編 宗教 第二章 宗教の本質」で、「宗教とは神と人との関係である」と明言している。以後の議論に宗祖や教団は出てこない。個人の直接的な「心霊的体験」が強調されている。

神と自分との無媒介な交信ということを、私は想像することができない。そういうものが宗教の原理であるかもしれないとしても、それが人間世界でそのまま宗教となるとも思えない。ここでは同時代で自分の周囲にいるはずの他者もいないし、自分の前に存在していた人々の歴史もない。

後年、西田が他者や歴史との関連を模索していったことは想像できる。重要なことは『善の研究』で他者や歴史の観念が欠落しているということではなく、それらを差し置いて自己の純粋経験や、神との直接的な関係を思索の出発点に据えたことにある。

社会や歴史を無視したわけではおそらくない。社会や歴史を考えるときにも、個人の存在、一人の人間の意識のあり方が、「アルファでありオメガであるといわねばならぬ」と西田は考えていたのだろう。


言葉にならない体験や感覚を、言葉にしないまま、安易な解釈を与えないで、行為が自然に湧き上がるようになるまで深めていく。純粋経験の立場をそうとらえると、自分の体験を純粋なものとして直視することが、まず難しい。原初的な経験を行為的な経験に変えていく以前に、「原初的な経験を認識する」ということが、すでに矛盾を含む困難さを意味する。原初的な経験は、知覚されていないからこそ、言葉にならずに自分の内奥に潜んでいるのだから。

同じ「経験」という概念を自らの思想の中心にすえていた森有正は、この点に注目し、西田を批判している。

   西田哲学の最大の、そして唯一の欠陥は、純粋経験を可能なものと前提したことであった。ところが現在はそれがすでに失われている。だからその出発点自体を求めることに人の一生は消尽されるほどである。(日記、1957年1月27日、『エッセー集成1』

西田が純粋経験を到達可能なもののように書いていると読めてしまう理由には、哲学という学問の性質もある。物語として時間の流れに沿って叙述したり、本質をあえて空洞にして表現することもできる文学とは違い、哲学的な表現は体系を志向する。

西田は、純粋経験を到達不可能と考えてはいなかったろう。それでいて、そこに到るために一生の時間がかかることを、彼はよくわかっていたと思う。『随筆集』に伺われる彼の苦悩に満ちた生涯の歩みが、それを語っている。森が言うように、また彼がそうしたように、西田もまた、その出発点自体を求めて一生を費やしたといってもいい。

言葉にできない感覚がある一方で、人間にはあらゆる感覚や経験を解釈して行為に変えたい欲求がある。だから純粋経験をとらえるということは、経験を表現すると同時に安易な解釈や行為を拒否することでもある。「そうでなければならない」。

自らの、言葉にならない経験を言葉で、それもできるだけ客観的で体系的に表現することを求めながら、同時に、表現した体系を崩しては、言葉にならない感覚へと何度でも戻してやる。西田の哲学的な探求は、そういうものであったと感じる。

多くの入門書が、彼の思索は主題を変えていったわけではなく、同じ主題をさまざまな角度から、何度でも考えなおしたものと説いている。

『善の研究』の最初に置いた純粋経験の章を、入門者には最後に読むことを西田は奨めている。純粋経験は、最初に立つ出発点でありながら、同時にそれは、長い旅路の果てに到達できる出発点であると彼が考えていた証左になると思う。


ここまでひととおり書き終えてから、『善の研究』の註解書が新しく出ていることを立ち寄った大型書店で知った。同書は、ページ数では岩波文庫版のおよそ倍。人名、用語の解説と丁寧な解釈。

『善の研究』には、西田哲学の基本概念がすべて盛り込まれていること、以降、西田の視点は歴史から個人を見る立場に転換したこと、純粋経験は多義的、多層的であること、この時点での宗教観は体験的、直接的であること、などが指摘されている。

読み取って、自分なりの言葉で書いてきたことが、それほど的外れではなかったようで安心した。執筆の経緯から受容のされ方、哲学史上の意義、東洋思想との関連なども詳しく書かれている。学問的な解説と比べてみると、私の読み方が、『善の研究』を執筆していた時の西田幾多郎以上に「意識の立場」「心理主義」に傾いていることがわかる。

『善の研究』初版は、おそらく千部も売れなかったということも、解説に書かれている。

西田は、思想を学ぶにあたっては、すべてを読むより、その人の「物の見方考え方」「刀の使い方」を手に入れることが肝要と随筆「読書」に書いている。その意見に従えば思想と事業の出発点となった作品と生涯の岐路で書かれた随筆を読み込んで、思想家西田幾多郎の「刀の使い方」はだいぶわかってきたように思う。

ただし、西田は「書物を読むということは、自分の思想がそこまで行かねばならない。」とも書いている。こう言われると、まだ到達はおぼつかない

西田の哲学的な論考は、確かに簡単明瞭とは言えない。でも、よく吟味された文章は独特のリズムをもって、よくわからなくても耳に残る一種の経文のように引き込んでいく。

唱えられるようになるまで読める、そう読ななければならない、そう読んでも、なお深い味のある本。『善の研究』は、そうした意味合いのすべて詰まった本になるだろう。


さくいん:西田幾多郎



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