The Extended Mind

Andy Clark and David Chalmers

1. 導入

どこで心が終わり,残りの世界が始まるのだろうか.この問いは二つの標準的答えを呼ぶ.ある者は皮膚と頭蓋骨での線引きを受け入れ,そして身体の外が心の外であると述べる.他の人々は,われわれの言葉の意味は「頭の中にない (just ain't in the head)」という論証に影響され,この意味の外在主義は心に関しても持ち込まれると考える.われわれは大きく異なった種類の外在主義を主張する.それは能動的外在主義 active externalism であり,認知活動が行われる際の環境の能動的役割に基礎を置くものである.

2. 拡張された認知

三つのケースを考える.

1. 誰かがコンピュータのディスプレイの前に座って,色々な幾何学的図形を見せられる.そしてまたディスプレイに表示される「穴」にその図形がはまるかどうか尋ねられる.質問に答えるためには心の中で図形を回転させなくてはならない.

2. 同じように質問に答えるのだが,今度は,回転ボタンを使って図形をディスプレイ上で実際に回転させるか,心の中で回転させるかあらかじめ選ぶことが出来る.ディスプレイ上で回転させる方が少し速いと想定することが出来る.

3. サイバーパンクな未来で,同じことをする.コンピューターが埋め込まれているので,図形の回転を頭の中で回転ボタンを用いるのと同じ速さで行うことが出来る.ここでも埋め込みコンピューターか昔ながらの心の中での回転かを選ばなくてはならない.一時に両方は使えないとする.

われわれは,三つの事例とも同じだけの認知が存在すると考える.埋め込みコンピューターを用いる(3)と(1)は同じように思える.回転ボタンを使う(2)と(3)は同じコンピュータの構造を示すだろう.(2)のコンピューターは外部にあり,(3)のは内部にあるが,もし(3)が認知的であるならば,(2)も根本的にそれと異なる事例とはならないであろう.

今述べた例はその第一印象ほどヘンテコなものではない.一般に人間は推論中外部環境に大きく依存する傾向があるのだ.かけ算をする際の紙と鉛筆,計算尺,言語や本,図や文化などを思い浮かべよ.これらのすべての例において,個々の脳は一定の役割を果たすが,一方で他の役割は外部メディアの操作に委ねられている.脳の機能が異なっておれば,タスクの分担も変わっていただろう.

テトリスを思えば,(1), (2)は現実にある.David Kirsh と Paul Maglio は,物理的にブロックを90度回転させるためには,100ms回転に,プラス200msボタンを選ぶのに時間がかかると計算した.心の中で同じことをするには1000msかかった.そして,物理的な回転は,ブロックを隙間にはめるためだけではなく,隙間にはまるかどうか決定するためにも用いられるとした.それは認識的 epistemic 行為であり,世界を変えることによって識別や探査などの認知活動を助けるのである.

 認識的行為は認識的クレジット epistemic credit の分散を必要とすると我々は考える.もし何らかの課題に直面したとき,頭の中でなされたならば認知プロセスとはっきり認めるプロセスとして,世界の一部が機能するならば,その世界の一部は認知プロセスの一部である(とわれわれは主張する).認知プロセスは頭の中に(全く)ないのだ.

3. 能動的外在主義

人間は外部の存在者とつながり,連結したシステムを生む.システムのすべての成分は能動的,因果的役割を担い,外部の成分を取り除くとシステムの能力が低下する.脳の一部を取り除くとシステムの能力が低下するのと同じことである.頭の中にあろうとなかろうと,このような連結したプロセスは認知プロセスとみなせる,というのが我々の説である.

これはパトナムやバージが唱えた通常の外在主義とはかなり異なる.そうした外在主義によると,信念の差異に関連する外在的特性は遠位かつ歴史的であり,現在の特性は関連しない.もし私が双子地球にテレポーテーションしてXYZに囲まれたとすると,私の信念は普通の水に関するものだろう.私がH2Oに囲まれて育ったからである.ここで信念に関連する外在的特性は受動的であり,私の今ここでの認知活動に対していかなる役割も果たさない.

外在的特性が能動的であるとき,それらは人間の組織と連結しており,人間の行動に直接的影響を及ぼす.関連のある世界の部分は因果的に影響を与えている最中なのである.

多くの者が,通常の外在主義が内容に関して正しくとも,外在的要因が行為の生成において因果的あるいは説明的役割を担うのか疑問を呈してきた.外部の状況は刻々と変化しながら,内部は変化せず行動も一定である場合は十分にありうるからである.そうしたとき内在的構造は決定的な役割を担う.能動的外在主義にとってこの問題はあてはまらない.連結したシステムにおける外在的特性は脳の特性と同様抜き去り難い因果的役割を果たすからである.

能動的外在主義をとることで,すべての種類の行為により自然な説明を与えることができる.Scrabble(アルファベットを並び替えて単語をつくるゲームらしい)をするとき,アルファベットの書かれたタイルを並べ替える.これを内部プロセスとインプットと行為の連なりとして説明してもよいが,無駄に複雑である.この並べ替えは字義通り思考の一部なのである.

ここで唱えられている見方は,状況認知や幼児発達の動的アプローチなど認知科学上の進展の影響を受けたものである.認知を拡張されたものとしてとらえるのは用語上の問題だけではない.科学的探求の方法論に重要な影響を与えるのだ.「内的」プロセスだけに適用可能と考えられてきた説明方法が外部の研究にも採用され,認知の理解がより深まるであろう.

このような外在主義を快く思わない人もいるだろう.その理由の一つは,認知を意識と同一視するからかもしれない.意識が頭の外に広がるとは考えにくい.しかし通常の用法においても,すべての認知プロセスが意識的プロセスというわけではない.記憶の呼び起こしや言語活動は無意識的であるが認知プロセスである.

もっと興味深い反論として,本当の認知プロセスは持ち運び可能 portableでなくてはならないという考えがあるかもしれない.局所的な環境に左右されずに,認知的課題に用いられる,(情報)資源と操作手順を集めたパッケージとしての心という考えだ.この観点から見ると,連結したシステムの問題はそれがすぐに分裂してしまう点にある.本当の認知プロセスはシステムの定常的な核に備わっているというのである.

再反論はある.偶然的に連結することが認知状態にあることを排除するわけではない.遠い将来,短期記憶の増設などが可能となるかもしれない.そうしたモジュールが埋め込まれたとき,それと関連するプロセスはずっとそこにあったかのように認知的である.

もし持ち運び可能性を心の規準に据えたとしても,能動的外在主義の脅威とはならない.持ち運び可能性の議論における重要な教訓は,連結したシステムが認知の核に関わるためには信頼性のある連結が要求される,ということである.信頼性の高い連結は脳内でたまたま生じている.同じような連結は環境とも成立するはずだ.電卓やシステム手帳がいつでも必要になときに手元にあれば,それは信頼性のある連結をなしている.実質的に,それらは私が日常世界で使用できる認知資源の基本パッケージの一部なのである.連結の解消や誤作動を起こしうるからといってこれを非難することは出来ない.脳も同様にいつでも損傷する危険はあるからである.

さらに,生物学的な脳は,事実,信頼性をもって出現する外部環境を取り入れながら進化してきたかもしれない.局地的環境に寄生して記憶容量の負荷を軽減したり,(脳が解く)計算問題の性質を変換したりするのである.視覚系は色々な形で環境に依存している.光景の偶然的な構造を利用したり,身体運動により計算の短縮を行ったりする.環境を認知の一環とする例はもっと多く発見されるだろう.そうすると,外在的連結はやはり認知資源の基本パッケージの一部であるといえる.

言語は認知プロセスを世界にまで拡張する中心的な方法である.皆でアイデアを出し合ったり,何かを書き留めながら考えをまとめる場面を想像して欲しい.このように連結したシステム間で認知資源を拡張するため,言語は進化したのかもしれない.

個々の有機体に目を転じても,個体の学習は認知の拡張物に依存しながら脳を形成する.言語,数式などは認知の拡張物として子供に教えられていく.認知の進化と発展を制約する環境の重要な役割を自覚するなら,拡張された認知が認知プロセスの付けたしではなく核であることが判るであろう.

アナロジーとしては魚の泳ぎが挙げられる.魚は自らの運動と水中環境の連結システムであると考えられる.水中の渦のもつ運動エネルギーは魚の運動の要である.魚は自然発生の渦と,鰭によって作り出した渦を利用しているのだ.魚にとっての海は人間にとっての言語である.人間は生まれたときから言葉の海に囲まれている.可塑的な人間の脳は,そのような環境を信頼性のあるものとして自らの内蔵認知システムに取り込んでいくだろう.魚が鰭で渦を生み出すように,われわれは様々な言語媒体を用いて進行中の内部プロセスを助けるのである.

4. 認知から心へ

これまで「認知プロセス」について述べてきた.その結論はどうでもいいものと思われたかもしれない.確かに何らかの「認知プロセス」が外部で生じているかもしれないが,信念や欲求や感情といった他の心的状態は内在的なものではないかのか,と.

我々はさらに論を進める.外在的な要素が重要な寄与をなす場合は存在する.認知プロセスが行われる際,環境の特性がある種の働きをなすとき,その環境の特性は「信念」を部分的に構成している.この主張が正しければ,心は世界にまで広がる.

まず記憶内に信念がある通常の例を見てみる.インガは友達から近代美術館で展覧会があると聞いて,見に行こうと思った.そのとき美術館は53番通りにあることを思い出したので,53番通りに行って,美術館を訪れた.彼女は美術館は53番通りにあると信じており,記憶を参照する前から,美術館は53番通りにあると信じていたと言えるだろう.それは生起中の occurent 信念ではなかったが,記憶のどこかでアクセスされるのを待っていた信念である.

次にオットーの例を見てみる.オットーはアルツハイマーに罹っており,生活のリズムを保つため,環境内の情報に頼っている.オットーは肌身離さずノートを持ち歩き,何か情報を得るとそれを書き留め,必要なときにこれを参照する.彼のノートは脳の記憶と同じ役割を果たしている.ある日オットーは近代美術館での展覧会について聞き,行こうと思った.ノートを見ると美術館は五三番通りにあると書いてあったので,53番通りに行って美術館を訪れた.

明らかに,オットーが53番通りに行ったのは,美術館に行きたいという欲求があり,53番通りに美術館があるという信念を持っていたからである.インガは記憶を参照する前から信念を持っていた,と考えられるように,オットーもノートを参照する前から信念を持っていた,と考えられる.というのもこの二つの例は全く類似であるからである.ノートは通常の信念が構成する情報と同じように機能する.ただ,この情報は皮膚の外にあるだけなのだ.

別様に述べられるかもしれない.オットーはノートを参照するまで信念を持っていなかった.せいぜい,オットーは,美術館はノート中の住所にあると信じていた,と言えるだけである,と.しかしこの語り方はオットーにとって不自然である.彼は当然のように常時ノートを用い,それはあらゆる種類の状況において彼の行為の中心を占めている.記憶が通常の生活の中心を占めるのと同じことである.同じ情報が繰り返し登場し,それはまた時に,ノートにしまわれる際少しずつ修正されている.双方の例とも,情報は信頼性をもって必要なときにそこにあり,意識に上り,行為をガイドする.それは我々が想定する信念の務めである.

信念と欲求が説明的役割によって特徴づけられる限り,オットーとインガの例は同等である.インガの行為を,美術館に行きたいという彼女の欲求と,美術館は53番通りにあるという彼女の信念によって説明できるならば,オットーの行為も同じように説明すべきである.反対者は,オットーは美術館に行きたいという欲求と,美術館はノートに書かれた住所にあるという信念を持っており,そして美術館は53番通りにあるとノートは述べているので,彼は美術館に行った,と説明するかもしれない.しかし,インガの行為を,彼女が自分の記憶に対してもつ信念に言及して説明しなくてもよいように,これは無駄に複雑である.説明においては,単純さは力である.

上記が正しければ,双子オットーについても語ることが出来る.オットーと双子オットーは全く物理的に同一であるが,双子オットーは間違って自分のノートに美術館は51番通りにあると書いている.この場合,オットーは美術館は53番通りにあると信じているが,双子オットーは美術館は51番通りにあると信じている.信念は頭の中にないのである.

これはパトナムとバージの見解を反映しているが,やはり大事な点で異なっている.パトナム/バージの例では,信念の差異に寄与する外在的特性は遠位かつ歴史的であり,双子は区別不可能である.われわれの例においては,関連する外在的特性は今ここで能動的な役割を担っており,双子の行動は異なってくる.外在的信念内容は必ず説明的に関連性をもってくる.というのも,それは説明的役割を果たすために導入されたからである.この双子の事例においては,パトナムらのと同様,指示と真理条件に変化が見られるが,それだけでなく,認知のダイナミクスの変化も生じているのだ.

何かを信念足らしめるのはそれが果たす役割であり,関連する役割を果たすものが身体の内側になくても構わないのである.

これに反対する者は,「信念」の通常の用法に照らし合わせると,オットーは美術館は53番通りにあると信じている,と言えるわけではないと主張するかもしれない.何が通常の用法かについて議論する気はないが,大事な点は,オットーがそういう信念を抱いていると言えるように,信念の観念は用いられるべきであるというところにある.オットーの例はあらゆる面から見て信念の例である.これを取り込むような広い形で「信念」の観念を使えば,それは説明の場面でより役に立つ.

もし有効な反論をなしたいのであれば,オットーとインガの例の間に何か重要な差異を発見しなくてはならない.それは何か基本的な差異である.

オットーのノートは簡単に取り上げられると反論するかもしれない.しかし,この例においてオットーは肌身離さずノートを持ち運ぶため,信頼性は保たれているのである.もちろん完璧な信頼性は維持できない.しかしそれはインガの場合も同様である.事故,卒中,アルコールなどいくらでも脳を痛め記憶を消失させる危険性はある.だからといってインガはしかじかと信じてはいない,と述べられるだろうか.

実際問題,肌身離さずノートを携えるわけにはいかないのではないか,と危惧されるかもしれない.シャワーを浴びているときや真っ暗で何も見えないときはどうなのか,と.しかしこれは問題とはならない.インガにしても,寝ているときや薬物中毒に陥っているときなど,一時的に情報と切り離されている場合はある.こうした場合彼女はかくかくと信じていない,と出来るであろうか.大事なのは,主体が必要としたときに情報を入手できるか否かという点であり,双方の例ともこれを充たしている.

インガとオットーの差は,インガの方が情報に対するよりよいアクセスをもっているところにあるのかもしれない.脳内で処理をするインガの方が高速大容量のリンクを有しているのは明らかである.しかしこの点だけで,信じていると信じていないの違いは出てこない.インガの友達ルーシーを想像して欲しい.彼女は発達過程に不幸があり,生物学的に低効率な中心神経系を持っているため,美術館が53番通りにあることを思い出すのにひどく時間がかかる.それでも,われわれは,ルーシーは美術館は53番通りあると信じている,と述べるであろう.

別の論点として,オットーは知覚を通じてしか関連する情報にアクセスすることが出来ないが,インガは内省などのもっと直接的手段を有している,という意見があるかもしれない.これも問題をねじ曲げた考えである.われわれは,オットーの内的なプロセスとノートが一つの認知システムを形成していると主張してきたのだ.このシステムから見ると,ノートからオットーの脳への情報の流れは知覚的ではない.むしろ脳内の情報の流れに近い.オットーの場合には情報を得る際知覚現象が結びついているかもしれない.しかし,どうして結びついた現象が信念の身分の差異に関連しなければならないのであろうか.現象的体験は視覚では全くない.

これらの小さな違いは浅い違いでしかない.

もしかすると,オットーが持つのは本当の信念ではないという疑念は,本当の信念は生起中の信念のみであるという考えによるのかもしれない.この考えによると,われわれが日常生活で帰属させるほとんどの信念は信念ではなくなる.もっとも,オットーの信念を排除するにはこの立場が一番適切かもしれない.もう少し穏健な立場をとってしまうと,例えば,信念は意識にとって利用可能でなくてはならない,としてしまうと,ノートは記憶と同等に信念となりうる.傾向的な信念を信念とひとたび認めたならば,ノートが十分な傾向性を持つことを認めなくてはならない.

5. 外部境界をこえて

以上の論説を受け入れるとすると,われわれはどこまで進めばいいのだろうか.あらゆる難題が湧いてくる.システム手帳の情報は記憶とみなしてよいのだろうか?まだ読んでいないページの内容をわれわれは信じているのだろうか?認知状態はインターネット上にも広がっているのだろうか?

これらの問いにまとまった答えを与えることは出来ない.しかし,拡張された信念の帰属を理解するために,その観念が明らかに適用できる中心的な例の特性について考察してみよう.第一に,ノートはオットーの生活において定常不変である.参照することなしに滅多に行動しない.第二に,ノート中の情報は支障なく利用可能である.第三に,オットーはノートからの情報の取得を無意識的に保証する.第四に,ノートの情報は過去のある地点で意識的に保証されている.

徐々に珍奇さを増して複雑になる事例がこれらの特性を無くしていくと,「信念」という概念の適用可能性が下がっていく.もし私がシステム手帳を必ず参照して行為するならば,私の認知システム中の手帳の身分はオットーのノートと似てくるが,参照しなければ,手帳内の情報が認知システムの一環であるとは言いにくくなる.中間的な事例において,そこに信念があるかどうかについて,非決定性は出てくるであろう.しかし中心的な事例においてはそうではない.

社会的な認知の拡張についてはどうだろうか.私の心的状態は部分的に他者の心的状態によって構成されているのだろうか.そうでないとは言えようか.大事なことは,高い信頼性とアクセス可能性である.社会的な場面において,これらの規準がはっきりと充たされることはないかもしれないが,限定的局面においては充たされうる.例えば,よく行く店の給仕は,自分の好みの食事についての記憶を肩代わりしてくれているかもしれない.また,自分の信念が秘書によって,会計士によって,共著者によって具現化されているかもしれないのである.

どの例においても,主体間の連結は言語によってなされている.言語抜きには,われわれはデカルト風のバラバラの内的な心に近づくだろう.しかし言語の発明は,内部処理における負担を世界に拡散させることを可能とした.こう解釈したとき,言語は内的状態の鏡ではなく,それを補うものである.内蔵デバイスには不可能な認知の拡張を果たす道具として働くのだ.進化論的に最近起こった知性の爆発は,内的な認知資源の発達と,言語を通じた認知の拡張によるのかもしれない.

自我についてはどうだろうか.拡張された心は拡張された自我を意味するように思える.もうすでに,自我が意識という境界を超えていることを誰もが認めるであろう.傾向的な信念も自己を形成する一部である.ならば境界が皮膚を離れても構わないであろう.オットーのノートは彼の自己同一性の中心を占める.さらに言うならば,オットー自身が拡張された認知システムであるととらえることが出来る.主体それ自身,世界に広がっているのである.

自我について再考を迫るように,以上で述べてきた発想は重大な帰結を有す.哲学的見解における影響,認知科学の方法論における影響,さらには,道徳的社会的領域における影響が考えられる.

何にせよ,ひとたび皮膚と頭蓋骨の支配権が剥奪されるならば,われわれは,自分自身をより正しく,世界の中の生物として見ることが出来るであろう.