日本の土地法制の変遷からみた土地所有と借地制度

この解説は、(社)日本不動産鑑定協会・指導研修委員会・不動産鑑定実務研究会の編集の「継続賃料」(昭和58.3.31、住宅新報社)のうち、

「第1章 継続賃料の基本的な考え方(鵜野和夫)」

の一部を転載したものです。

同書は、同協会の会員むけの研修のテキストを基に作成されたものです。

(目次)

はじめに

T.大化の改新から戦国時代まで

U.太閤検地から江戸時代末期まで

 

はじめに

 1 日本の土地法制の変遷を検討することの意味

  さて・継続賃料の増額の決定が経済的合理性から乖離し,経済現象的色彩

を薄め,法律現象あるいは社会現象といったものになっており,特に継続地代

の増額決定にあってその傾向が強いということを1で述べてきました。

 そして,継続賃料の増額決定がこのような性格を帯びるにいたった直接的な

原因として・借地法または借家法があり,そして,その運用と,それを支える

社会意識、または,社会が法に対して抱いている期待があることを述べまし

た。

 そして、継続地代の底にある借地という制度を考えていくと,その奥に日本

人の土地の支配と利用に関する伝統的な意識,また,土地の支配と利用とがど

のようにあるべきであるかという意識が横たわってているわけです。

 それで、現行の借地法または借家法の検討に入る前に,やや回り道をするよ

うな感がなきにしもあらずですが、日本の土地法制の移り変わりをみながら,

日本人が土地をどのよう支配し,利用してくべきだと意識していたのか,

そして実際にはどのよう支配し利用してきたか,ということみてていく

ことにします。

 2 日本歴史上の土地改革,その変化と定着を検討することの意味

 ある国民、あるいは民族が、どのような土地支配と利用の仕方を理想の形と

意識していたかを理解するのには,その国で行われた土地改革の歴史を見るこ

とが手つとり早いと思います。

 そして・その国では・どのような土地支配と利用の仕方が,その国の国土と国民性あるいは民族性に現実的に適合しているのかを理解するのには,その土

地改革で創りだされた土地制度が,どのように変化し定着していったかを見る

ことが有用であろうと思います。

 ここでは,そのような見地から日本の土地制度の改革と変化と定着とを見てい

こうと思います。

 さて,日本での土地改革というと,

 (イ)大化の改新による土地改革冒

 (ロ)太閤検地による土地改革

 (ハ)第二次大戦後の農地解放による土地改革

の三つをあげることが妥当であろうと思います。'

 大化の改新というのは,7世紀の中頃,中兄皇子(後の天智天皇)が蘇我入鹿をクーデターで倒し,天皇政権を確立し,日本を中央集権国家に統一した革

命的事件で,その古代律令国家の基礎として行われたのが,公地公民制による

この土地改革でした。

 太閤検地というのは,16世紀後半,豊臣秀吉が天下を統一するのにともなっ

て始めた検地で,その後,徳川家康の江戸幕府によって引きつがれた制度で,

この検地によって農地の支配・利用の制度が改革されたものです。

 第二次大戦後の農地解放というのは記憶に新らしいと思われます。明治以来

の農地の地主的経営が廃止され,自作農を創設した土地改革です。

 そのほか,土地制度の大きな事件として,明治維新を契機として行われた地

券交付に始まり,民法典の制定で一応の確立をみた近代的土地所有権の確立と

いうことがありますが,これは後で述べますように,旧来の土地の支配・利用

制度を改革したというより,旧来の土地の支配権を確認し,その近代化をはか

ったということで、以上に掲げた三つの土地改革とは,本質的に異なるものです

ので,一応,別のものとして扱うことにします。

T.大化の改新から戦国時代まで

1.大化の改新による土地改革とその崩壊

  〜班田収授制から荘園制へ

 (1)大化の改新と公地公民制の創設

 大化の改新というのは,前述しましたように,皇極天皇の4(西暦645)

,中兄皇子(後の天智天皇),藤原鎌足等とともにクーデターを起こし,

当時の朝廷の実質的支配者であった蘇我入鹿とその一族を倒し,天皇政権を確

立し,日本を中央集権的官僚国家に統一した革命といっていいでしょう。

 それ以前にも,天皇家を中心とした朝廷があって,一応は国家としての形を

なしていたのですが,有力な豪族(氏族)の連合国家という形のもので,土地

と人民とは,天皇家を含めた各豪族が私有していました()

 大化の改新の翌年(大化2)1,改新の詔を発して,天皇領(屯倉・みやけ)

含めて,豪族領(田荘・たどころ)とその人民を没収して,国家の所有とし,すなわち,

公地公民としました。

 そして,有名な班田収授制という土地制度を創設します。

   () 大化の改新の直後に発せられた大化元年9月の詔で「古より以降,天皇

     の時ごとに,代の民を標(あら)わし置き,名も後に垂る。其の臣連等伴造国造

     等,情に忽せて駆使す。又,国県の山海林野池田を割きとりて,以て己が財

     と為し,争戦して已まず。或る者は数万頃の田を兼井し,或る者は全く容針

     の少地も無し。調賦を進むる時に及べば,其の臣連伴造等,先ず自ら収敏め

     て,然る後,分ち進む。(中略)方今,百姓,、猶乏し。而るに,勢有る者は水

     陸を分ち割きて,百姓に売り与え,年ごとに其の価を索(もと)む。今より以後,

     地を売ることを得ざれ。妄りに主と作(な)りて,劣弱を兼井すること勿れ。」

      (竹内理三編r土地制度史1」山川出版社)

     と述べていますが.これが大化の改新前の豪族と百姓との関係を,簡単明瞭

     に物語っていると思います。

      なお,「百姓に売り与え,年ごとに其の価を索む。」といっている売り与え

     というのは,1年限りの売買,〜すなわち,1年ごとの貸地で,其の価と

     いうのは、後世でいう小作料にあたるものだと思います。

 (2)班田収授制のシステムとその性格

 班田収授制というのは,その基本的構造をみますと,このようにして国家に

帰属することになった土地について台帳(計帳という)を作成し,公民につい

ては戸籍を編成して,各公民に一定の基準によって口分田(くぶんでん)を

給付(班給という),6年ごとにこれを回収して,再び給付するという制度です。

そして,公民は,これと引き替えに,税として,(稲による納税),(労役による納税),

調(織物その他の物品による納税)を負担することになりました。

 さて,この班田収授制による土地制度の性格ですが,まず,従前と異なっ

,一つの土地を一人の人間(または家族)が直接に支配して使用(耕作)

,その反面,税を直接に国家に納付するということです。国家と土地使用者

(人民)とを直結させ,豪族またはこれに代わる中間搾取的存在を排除してい

る点が,この制度の大きな特長であるといっていいと思います。

 そして,班田収授制では,田地のほかに,園地()や宅地も給付していま

すので,自分の家族の衣食住については,これらの土地によって,自分の責任

で自活しろという方針であったとみるべきであろうと思います。また,稲で納

める租は,100把につき5把という,非常に軽い税率になっています。この

ようなことから,給付した班田は,それを人民に耕作させ,その生産物()

を貢納さぜて国家財政をまかなうという目的でなく,田地と園地と宅地とを与

えて,公民の農民としての自立生活を確立させようということが主な目的であ

ったと思われます。

 もっとも,租が軽かったからといって,トータルな税負担が軽かったという

わけではありません。この時代の税の中心は,,すなわち,労役による納税

です。国庫財政のために留保された官有田,また,かつて豪族であった貴族

に支給された官給田等などを耕作する労役は,順番制で,班田の給付を受けた

公民の労役納税にかかってきたわけです。そして,これらの田の農繁期と自分

の班田の農繁期とは一致するわけですから,その負担はかなり苦痛であったろ

うと思います。また,労役納税の必要性は,農地灌漉施設や都の建造物築造の

ための土木工事や建築工事,声るいは軍役などもありました。そして,この矛いることは,長い日本の土地制度史からみると,後述する太閤検地の前後第

二次大戦後の農地解放以後と並んで,非常に短期間の現象であり,また,そう

いう意味で,ユニークな土地制度の最初ともいえると思います。

  (注1)賃租については,他人に耕作さぜて・収穫物の一部を対価(賃料)として収受する制度で,耕作前に前払いを受けるのを「賃」,収穫後に後払いを受けるのをr租」といっていました。

  (注2)口分田については公有主義説(国家に所有権があり,農民の権利は用益権

     に過ぎないとする説,国家のそれは上級所有権であり,農民のそれは下級所

     有権とする説等)と私有主義説(宅地・園地の無期永代的所有権に対し・口

     分田は有期的所有権であり,所有権の歴史的一形態とする説等)があります。

 (4)三世一身法,墾田永世私有令等による公地公民制の解体

 さて,このようにして創設された班田収授制も,人口の増加とこれに対応し

て給付すべき口分田が増加しなかったことによっていきづまってきます。

 国家としても,開墾による田地の増加の努力はしていたわけですが,開墾し

た田地がやがて国家に公収されてしまうということが開墾の意欲を減退さぜた

のでしょら。

 養老7年(723年)に,「頃年百姓漸多,田地窄狭(この頃,百姓はだんだんと増加しているが,田地は牢狭である)」という詔を発して,三世一身法とい

う制度をつくっています。これは,新らしく溝池を造って開墾した場合は三

,旧溝池を修復して開墾した場合は一身(一代)限りで,田地の期限付私有

を認めようという制度です。これによって,民間(貴族,寺社など)の新田開

墾の意欲が刺激され,その効果はえられたのですが,しかし,上記の期限後に

は公収されるということから,公収時期に近づくと耕作が不良化し,荒廃化す

るという現象が生じてきます。

 それで,天平!5年(743年)には,墾田永世私有令を発して,開墾面積と開

墾期日を限定して,所有期間,処分を制限しない墾田の永年私有(所有権化)

を認めて,開墾を奨励するという制度がとられるようになりました。

 .土地の国有と国家の直接経営というものは,机上プランとしては理想的な

のなのでしょうが,実際には効率が悪く,現実性を欠くということの一つの証

でしょう。

 それはともかく,貴族,・寺社等にある土地の大規模所有大規模農地経営が

始まり,大化の改新によって創出された公地公民制,班田収授制は、なしくず

しに崩れていくことになります。

 班田収授制がっくられてから,墾田永世私有令が発せられるまで、わずか,

100年足らずでした。

 そして,このようにして成立した貴族,寺社等の私有農地の耕作労働の提供

者となったのは,庸役の重さに耐えかねて口分田を放棄し,逃散し,浮浪化し

た公民(農民)です。そして,口分田を放棄しても受入先のあることが公民

(農民)の逃散,浮浪化を促進したともいえるでしょう。

 逆に,このように農民が逃散した後の口分田が荘園にとりこまれていきま

す。

 また,出挙(すいこ)といって,春に種まき用の稲を貸し付け,秋にこれに

利息をつけ

て返させるという制度があり,官が貸し付ける場合と,有力者が貸し付ける場

合とがあり,後者の場合を私出挙といい,かなり高率の利息を収得していまし

たが,この債務を返済しきれずに,荘園に吸収される口分田もありました・

 このように口分田が荘園に吸収されていく背景には,6年ごとに行われるこ

とになっていた班田収授が,給付する田の不足から長いこと行われず,口分田

が公民の私有地化していたことが,あげられます。

 (5)荘園の経営形態          

 このようにして形成されていった荘園の経営形態として,荘園領主の直営方

式と賃租方式とがあります。

 荘園領主の直営方式というのは,田のみならず,耕作用農具,種などを領主

が所有し,農民を使役して耕作させる方式です。使役される農民には,当初は

領主に所有を留保されていた奴碑があてられ,また,逃散し浮浪化した公民な

どがあてられています。

 賃租方式というのは,荘園内の田を農民に貸し付け,その収穫の一部を租と

して納めさせる方式で,現物地代にあたるといってよいでしょう。

 

 荘園制の初期には直営方式が多く,次第に賃租方式が増えていきました。

 (6)不輸・不入と荘園制の確立

 さて,このようにして形成された荘園を,さらに強固なものとするのに,

園に対する国家の不輸と不入があります。

 不輸というのは,国からの課税の免除です。免除された課税は,荘園領主が

収得することになります。

 そして、国家による課税がなされなくなるわけですから,国の検田使や,

納使は荘園に入る必要はなくなるわけです。荘園領主からみれば,荘園に入ら

せない権利です。これが不入ですが、さらに国使の不入権などを通して、,荘園

領主の荘園に対する行政権,裁判権なども確立し,さらに進んでは警察権まで

も確保し,中世の領主的性質を強めていきます。

 そして,中央の荘園領主である権門貴族・寺社などは,中央での政治権力を

用いて,容易に不輸・不入の権利を獲得していきます。

 (7)荘園制の展開

 さて,荘園として認められ,その権利を確保するためには,その境界を明ら

かにし,国家による公の認可を受けなければなりません。

 地方の中小の地元有力者は,この認可を得,また,認可された権利を確保す

るため,その開墾地を寺社に寄進して,自分がその管理者(荘官)となると

いう形をとるようになりました。管理者といっても,実質的には荘園の所有者

(領主)であり,形式上の領主となった貴族や寺社へは自分の収得分の一部を

上納するという関係です。

 また,寄進を受けた貴族や寺社が,中央での勢力が弱い場合,または,弱く

なった場合,さらに有力な中央の権門貴族や寺社に寄進をするという形をと

,この場合は,その上納分の一部をさらに上納するということになります。

 このようにして,荘園は中央の権門貴族や大寺社に集中していきます。

 荘園が増加してきますと,そこからの国家税収は減少していくわけですか

,国家財政の基盤が危なくなってきます。したがって,天皇家そのものも荘

園をもたなければ,経済的にやっていけなくなっていきました。 天皇家その

ものが,荘園という私有地を所有しなければならないというと、

現在のわれわれの感覚からは奇異に感じられますが・明治からつい最近の第二

次大戦の敗戦まで,天皇は膨大な御料林を所有し、日本一の大地主といわれて

いたことを考えると,さほど奇異なことではないでしょう。

 しかし,大化の改新に始まる律令制は,前にも述べましたように,天皇家の

私有地まで没収して公地としたことに,一つの大きな特長があるのですから,

天皇家まで荘園を私有し,その領主になったところに,古代律令制国家と中世

荘園制国家の本質的な差異がうかがわれるでしょう。

 さて,この荘園領主は,荘園の土地所有者としての性格を荘園内の立法権、

行政権,裁判権,警察権までを包括する公的支配者との性格をそなえているこ

とになりますが,土地所有者という面では,土地寄進者という実質的土地所有

者がいるわけですから,実質的には課税徴収権のみをもった形式上の所有者と

いうことに変わっていくでしょう。

 その後,中央の権門貴族・寺社に頼らないで自立しようとした関東武士団

(開墾農場経営者,所有者)が擁立した源頼朝による鎌倉幕府が成立し(1192

),公領,荘園領,武家領とが入り込んで並存するというように,平面的にも

複雑な土地所有関係になっていきますが,貴族・寺社の荘園内に武家(地頭)

が入り込み,警察権を行使し,さらに,収得分の一部を蚕食し始めるという,

垂直的にも重層的な土地所有関係が成立するようになってきます。

 その後,後醍醐天皇による建武の中興(1333)を経て、足利尊氏による室

町幕府,そして戦国時代へと入っていき,土地法制、そして土地所有と利用形

態も大きく変化していきますが,これについての検討は省略することにいたし

ます。

U.太閤検地から江戸時代末期まで

 1 太閤検地による土地改革による自作農創設から地主の発生へ

 (1)太閤検地の実施

 つぎの全国的な土地改革は,戦国時代の大名割拠による分裂状態であった日

本を統一した豊臣秀吉によって始められることになります。

 いわゆる太閤検地といわれるもので,天正10(1582)の山城国検地には

じまり,天下を統一するにつれて,その検地を全国に及ぼしていき,秀吉没

,徳川幕府に引き継がれて,江戸時代をかなりはいってから完了していま

す。

 検地そのものは,戦国時代の末期ごろから軍事力の基礎となる租税確保のた

めに実施していた大名もありましたが,太閤検地は,統一した基準で,全国的

規模で行われ,そして,この検地を通じて確立された土地法制が,部分的には変

形しながらも,江戸幕藩体制を通じて維持されたということに大きな歴史的な

意味があるわけです。

 検地というのは,領内の田畑の面積を測量して,米その他の農作物の収穫最

を把握し,田畑ごとの所有者(納税義務者)を確定することです。

 太閤検地の特長は,この田畑の測量を全国共通の尺度を定めて行ったことで

す。これによって,たとえば一反の面積とタテ・ヨコの長さが全国共通になり

ました。そして,田畑を上中下のランクに分けるとともに,それぞれの田の標

準収穫量を石高で表示するだけでなく,畑についても収穫を米に換算して石高

で表示し,宅地まで石高で表示し,これを集計して村の石高となり,さらに集

計して藩領の石高,たとえば,加賀百万石というように表されるように定め,

この石高で各藩の格式や幕府に対する奉仕義務が定められました。

()検地を通しての自作農の創設と一物一権主義の復活

つぎに,検地の目的は租税(年貢)を貢納する納税義務者を確定することで

すが,これを田畑の所有者としました。そして,この所有者をだれにするかと

いうところで,太閤検地が,大化の改新以来の革命的な土地改革であるという

歴史的意味が登場してきます。

大化の改新で創出された公地公民制による一物一権主義が,荘園制度によっ

て崩れ,鎌倉時代に入ると一つの土地に重層的な支配・利用権がかさなり合つ

てきたことを前に述べましたが,その中の上級支配権(上級所有権),土地

の直接的支配権(所有権)という性格を薄めて,租税徴収権ないし行政的支配権

という性格のものに変わっていき,太閤検地の直前ぐらいには,土地の直接的

支配権(不動産物権,職という)は地主職(地主)と小作職(小作人)という

形になっていました。また,土地所有者が自ら耕作する作職(自作農)もあり

ました。

太閤検地では,独立の自作農である作職を所有者(名請人)としただけでなく

,地主職の存続を否定し,小作職(小作人)を従来から耕作していた土地の

所有者(名請人)としました。その目的は,地主職という収穫物の中間搾取的

存在を排し,余剰生産物のすべてを年貢という形で領主に帰属さぜ,大名によ

る全国統治体制の財政的基礎を確立さぜようとしたことですが,結果として,

これは一種の小作農を独立さぜる農地解放政策であり,現行の農地法1条で宣

言している「農地はその耕作者みずからが所有することを最も適当であると認

めて」にも通じてくるわけです。

また,太閤検地で行われた自作農創設は,従来の所有権の確認でなく,創設

であったことも特長的なことです。

土地台帳(検地帳)が作成され,上記によって土地所有者となった百姓は,

その所有地(名請地,所持地)について登録されましたが,この登録によって

所有者(名請人)としての権利が与えられ,その以後は,これが従来の権利関係

と相違していても異議を申し立ててくつがえすことはできないものとされま

した。

 そして,この権利の内容として

 (ア)土地使用については,耕作内容が規制され(作付制限)

  () 処分については,売買が禁止きれ(永代売禁止)

 ていることなどの制限が付けられており,また,耕作者(所有者)自身の移

動も禁じられておりますので、そういう意味では近代的土地所有権とはへだた

りがありますが,江戸時代の300年を通じて,これらの制限が緩和されつつ,

明治になって,フランス革命で確立されたヨーロッパ式の近代的土地所有権を

受け入れる素地につらなっていくわけです、

 学者は,幕藩体制下でのζのような制限付の所有権を所持権と呼んでいま

す。

 (3)領主の地主的性格の希薄化と農民の土地所有意識の定着化

 また,太閤検地と並行して行われました刀狩りは,農民の保有していた武器

を取り上げることによって,武器を保有して支配する階級(武士)と反抗の手

段としての武器を有しない被支配階級(農民等)にはっと分け(兵農分

),体制の維持を目的とするものでありますが、この兵農分離政策は・武

士を知行地(農地)から城下町に集中させることによって,武士階級と土地

とのつながりを希薄化し,中世以来の武士の農場経営者的性格、地主的性格を

消滅させることを決定的にします、この政策によって,領主は,農場経営に

は直接関係することなく,単に租税(年貢)を徴収し,その家臣は徴税きれた

租税から俸給(知行)をもらうという性格が確定しました。

 その結果,土地は自作農である本百姓がみずから所持し,耕作し,そして,

租税(年貢)を納めるという制度が確立されたわけです、

 そして,豊巨秀吉の桃山時代から江戸時代を通じてしばしば行われた大名等

の領主の転封(国替),領主と土地,または領主と農民との結合の希薄化を

促進し,領主の領土に対する所有意識を大きく変化させていきます。

 この領主の意識の変化を表現ずるものとして,藤堂藩の「殿様は当分之御国

,田畑は公儀の田畑jというのがあります。公儀というのは幕府のことで

す。殿様は日本国の田畑を幕府から当分の間預かって,これを

治めているだけだという意識です。また,この意識をさらに具体的に表現したのに,

岡山藩主池田光政の「上様ハ日本国中の人民を天より預り成され候。国主ハ一国の

人民を上様より預り奉る」という蕎葉があります。国主(藩主だけでなく,上様

(徳川将軍)を含めて,人民(土地を含めて)を私有しているのでないという

意識です。

 これは,平安朝末期の武士が,家子郎党を協力させて自分で開墾した土地

(一所)の所有権を命を懸けて守る,すなわち,一所懸命のために源頼朝をか

ついで鎌倉幕府を設立した時代にくらべて,まさに,土地所有意識のコペルニ

クス的な転換といっていいでしょう。

 そして,国替によって領主は変化しても,農民は移動することなく,また,

農民の所持する土地関係になんらの変化を及ぼさなかったので,農民の土地の

所有意識をかえって強いものにしていき蓑した。

 (4)田畑永代売禁止令鷹よる地主制度復潰の抑制策

 さて,太閤検地によって創出された田作農制度は,地主による中間搾取を排

除し,余剰生産物をすべて年貢という形で領主に帰属させることを第一の目的

としたものですから、富農等に再び土地が集中して地主が発生することを制度

的に抑制するために,田畑の売買を禁ずるという法令,すなわち,田畑永代売

禁止令といわれるものを定めています。

 これは,三代将軍家光の治世寛永20(1643)3月に幕府から代官あてに

出された「堤川除普請其外在方取扱之儀二村御書付」全7ケ条の中の第3

,同年同月に農民あてに出された「在々御仕置之儀ニ付御書付」全17条の中

の第13条の総称です。

 前者は,「豊かな百姓は田地を買い取ってますます豊かになり,反対に貧乏

な百姓は田畑を売り払って,ますます暮しむきが悪くなるので,今後田畑の売

買は禁止する」という文意のものであり、後者は「畑の売買をしてはならな

い」(「田畑永代之売買仕間敷事j」となっています。

 そして,違反に対する罰則として同年同月に「田畑永代売御仕置」を出して

違反については,売主は入牢の.上追放,買主は入牢,買い取った田畑は没収,

証人も入牢という重い刑罰を定めています。

  しかし、このような厳しい禁止をもうけていたにもかかわらず,田畑の質

入れ質流れ等の形での脱法行為を通じて,富農への田畑の手中がすすみ,

らしい地主階級が誕生し,成長していくことになります。

 (5)江戸時代の地主階級の発生の経済的基盤

 では,このような制度をつくって,地主が発生することを厳しく抑制してい

たのにもかかわらず,なぜ,地主が誕生したのでしょうか。

 地主が誕生しうるためには,まず,地代が誕生する経済的基礎と,これを許

容する法制がなければなりません。

 この体制では,農作物のうち,単純な再生雇に必要な部分を残して、その他

の余剰生産物はすべて年貢という形で,領主に納めるようになっています。

 ですから、まず,生産性が向上し,最低生存費,従来の年貢以上の生産物が

生産され、その増加分の全部または一部が年賞として徴収されないで農民の手

もとに残るということが必要です。

 年貢は,4

4公6民とか55,あるいは,64民とかいうように,生産

物に対する率で定められていました。55民といえば,年貢率が50%という

ことになりますが,この場合,年貢率を変えなければ増加した生産物の50%が

農民の手許に残るということになります。

 また、田畑について定められた石高は,その後,毎年の収穫量の増減と関係

なく据え置かれる傾向になっています。したがって,生産性が向上したにもか

かわらず,この石高に同じ年貢率を乗じて,年貢を割り出せぱ,増加した生産

物の全部が農民の手許に残ることになります(このように石高を固定して年貢

を定める方法を定免法(じょうめんほう)といって、江戸時代を通じる原則的な

課税方法となっています。

これに対して,毎年の収穫量を検査して,実収量をもとにしてその

年貢を定める方法を検見法(けみほう)といって,この方法で課税した時もあります。

いずれも一長一短あるため不定期的にどちらかの方法を採用していましたが,定免法

が基本的な課税方法であったといえるでしょう。

 つぎに,農民の手許に残った増加生産物がどのようにして,地代という形で

地主の手許に移って行く経済的仕組みが生じたかということを見ていくことに

します。

 当時の年貢は、村全体の石高を基準として定められ、これを村に割当て、村民

は連帯して納税義務を負うように定められていました。

 これを村請制といっています。

この分担方法は、村に課せられたのと同じ年貢率で各戸の年貢を定めていました。

 現在の所得税では、各人の所得に応じた累進税率をとって、所得の大きい人には

高率の税金を、所得の少ない人には相対的に定率の税金を課するようになっていますが

、当時の年貢の定め方は、累進税率という考え方はなく、収穫量に関係なく同じ税率(年貢率)で割り当てていました。

そうすると、田畑を多くもっている者には、年貢を納めた後に最低生活費を上回る分が残り

、田畑の少ない者には、年貢を納めると最低生活費分も残らなくなるということが生じます。

 しかし、年貢は村請制ですので、村としてこの不足分を遣り繰りしなければなりません。

そこで、余裕のある者が、余裕のない者へ、米を貸すか、恵んでやるか、ということになります。貸す場合には、がっちり証文をとり、利子をつけて返させ、あるいは、土地の一部を質入させます。もともと、余裕がなかったのですから返済できず、質流れとなり、土地の所有権

は移り、地代を払って土地を借りて耕すということになります。恵んでもらった場合は、農耕を手伝って、すなわち、労働力で恩を返すということになります。

 このようにして、新たな地主が生まれ、地代が発生していきました。

  (注)このような地主の発生について、佐々木潤之介「大名と百姓」(中公文庫・日本の歴史 15)の「不公平な剰余の成立」で、具体的に分かりやすく説明されている。


これらの流れをみてみますと,英国の借地人である産業資本家的観点から生
まれたリカード及びこの系譜にある経済学者の差額地代論と,まったく異なっ
た基盤と思考方法一すなわち,地主である商業資本家的・金融資本家的観点
から地代論が展開されていることに興味をひかれます。
 この両者の差異をさらに比較解明することは,わが国の地代意識を把握する
のに役立つと思われますが,これ以ヒは,現在の筆者の力の及ばないところで
あり,今後機会があれば研究をしてみたいと思っています。


(3)江戸時代の田畑の収益価格の算定

 さて,前述した田中丘隅の「民間省要」の説を読みますと,田畑を買う場合
に,税引後の所得が投下資本の7〜10パーセントに回らねば買っても益ないこ
とを述べていますが,それぞれの田畑の収穫量,年貢は所与として与えられる
ものですから,徴収できる小作料<地代)も所与のものといえるでしょう。
 そうすると,7〜10パーセントの利回りで小作料(地代)から割り出した税
引後所得を還元すれば,それがその田畑に対する投下資本の上限ということに
なり,すなわち,その田畑の収益価格になるわけです。
 このことから,江戸時代における元本(田畑の価額)と果実(小作料・地
代)との関係が,密接に関連し,直接的な関係として,少なくとも地主側の意識とし
て定着していたであろうことを推測させます。
 また,江戸時代においても,河川改修などの場合に,田畑を公収(収用)すること
がありましたが,この場合の補償額の算定にあたって,税引後の純収穫量(平均)を
出し,これを還元して収益価格を求め,これを補償額とすることが行われていました。
 下記の図表―1に掲げた例は,享保10年(1725年)に行われた鬼怒川改修工事において,川敷になる田畑公収の補償額算定の例です。
  この例では,公収田畑を上中下にならし,その田畑の10ケ年の平均年貢量
 (この田畑の年貢率が5公5民であったので,この年貢量が税引後の純収穫量
に等しくなる)を出して,それを幕府の米の公定価格というべき御張紙値段で
金に換算し,その金額を年1割の利回で元本に換元して,補償額に還元してい ます。
  なお,通常では,地主の純取分である作得を金利によって還元して求めます
が・この例では・その地方の作得を把握できなかったので,上記の方法によっ て求めたということです。


(4)江戸町地の地主的土地所有

 

 これまで,田畑についての所有関係,地主・小作関係そして小作料としての
地代をみてきましたが,つぎに,江戸の市街地について,町地の所有,貸借関
係と地代についてみてみたいと思います。
 江戸時代に江戸とよばれているのは,正式には御府内と称した地域です。そ
の範囲はそれほど固定したはっきりしたものでなかつようですが,文政元年
(1818年),朱引絵図をそえて,東方は亀戸,小名木村あたり,西方は角筈村,
代々木村あたり,南方は南品川町あたり,北方は尾久村あたりまでと,幕府が
示しているのがあります。
 そして,御府内が,武家地,寺社地と町地とに分かれます。
 町地というのは町屋敷ともよばれ,町人の居住する地域です。
' 町地については現代の権利書にあたる沽券が交付され,沽券地ともよばれ
ている土地が代表的なものです。そして,この沽券地については近代的な所有
権にほぼ近い所有権が与えられて、この沽券をもってほぼ自由に売買され
ていました。ただし,百姓に売買譲渡することは禁じられていました(逆に田
畑を町人が取得することは認められていました)。
 町地には草創地(昔からの居住地主の居住地,沽券は発行されていない)や
拝領地(御用商人が拝領した土地)などがありました。
 そして、町地については・田畑の検地帳にあたるものとして水帳というもの
があり,名主が保管し,権利の変動をこれに記載しています。
 下記の図表―2に掲げたのは,江戸の堀江町4丁目(現在の中央区小網町2丁目にあた
る)の水帳の一部です。
 これを見てみますと,地主はすべて堀江町には居住していまぜん。紀州(和
歌山県)などいう遠隔地方に居住する地主も見うけられます。それと地主がし
ばしば変更していることも目につきます。
 これらのことは,地主が沽券地を買い受けるのは,一定の期間は地代を収受
し,ある時期がきて土地が値上りすると,売り払って値上り益を得るという、
まったくの投資目的で行われたことを物語っているのでしょう。
 また,沽券地を担保としての金融手段に,家質(かじち)という方法がありました。こ
れは,質という名称ですが,沽券地の占有を債権者に移さず、そのまま債務者
が占有して使用・収益し,債務不履行の場合に引き渡すという制度で,現在の
代物弁済予約などの仮登記担保と似ているといえます。
 この場合の利息は年3〜6パーセントと低利です。これは沽券地の担保価値
が高かったからです。
 なお,地子(ちし)(土地に対する税金)は免除されていましたが,その代わり・江
戸城内御用の歩行人足を提供する義務(公役・くやく)を負担することとされており・
後に,直接人足を提供することをやめ,銀(公役銀)で納めるように変わって
います。
明治初頭になされた地租改制,地券交付による近代的な土地制度は・沽券地
についてのほぼ近代的な土地所有権とそれに関する制度が,江戸時代を通じて
確立され,またこの沽券制度を基準として行ったからこそ,明治の土地制度の
近代化があのようにすみやかに確立されていったのだといわれています(注)。
   (注)石井良助 第31回「江戸と大坂の町地」