サハリンの春は遅い。空の色が薄いきれいな水色になると春なのだ。こうなると外は少し暖かになる。午前中なら家の庭へ出て、三輪車で遊んだりゴザを敷いてもらってままごと遊びなどして楽しむこともできるようになる。やがて庭の中央に大きな黄色のアヤメが咲き、郊外の丘にスズランが香るともう夏なのであった。
 しかし私は幼少だったので、その話は大人たちの話を聞いていただけで現実に景色を見たことはない。丘の奥には、母が卒業し姉が入学した女学校が建っていた。自分も大きくなったらそこへ通うものと思っていたのだが、日本が戦争に負けたために、その丘の道を歩いたことはない。町の中央にあった小学校は窓から日本へ行き来する連絡船や漁船などが見えた。丘の中腹からフレップ(こけもも)とガンコウランと松の木が自生していた。
 フレップは熟して美味になる頃、つまんでは口に運んでよく食べたものである。口がチクチク痛むと少し休んで、2〜3日するともう食べ始めて道草をしてから家に帰ったものである。樹の高さは20cmぐらい?で地面を這うようにして密生している。子どもの小さな手で花を見つけつまみ、実ができると、親指と人差し指でひょいと採れてとても楽々と付き合える樹だった。葉の一枚一枚は大人の小指の爪ほどの大きさでつやつやしていた。実はブルーベリーの実と同じぐらいのまるい実で、食べ頃にはワインレッドになった。花は小さくて白っぽい色で、カスミソウによく似ていたように思う。
 フレップはロシアパン(今はイギリスパンといわれている山が二つある食パン)につけておやつによく食べたものである。イチゴよりは少々酸味が強いのだが、戦争の終わる2〜3年前に開発・市販されたリンゴジャムに比べると、とろりとした感じもずっと上等だった。しかしあれから56年も経って今考えると、それはただ食べ慣れて親しんでいたというだけなのかもしれないとも思うのだが。
 昭和20年8月、日本が戦争に負けた日の夜、我が家は連絡船を利用して日本へ帰った。それから十数年してフレップに再会した。場所は奥日光の中禅寺湖の売店だった。塩漬けでビン詰めで売っていた。ジャムを捜し求めたが塩漬けしかないということだった。店の人の説明では、高山植物の実で「こけもも」という名でジャムにはしないということであった。サハリンほどの多収穫ではないからだろうと私は思った。貴重品なのだろうと。
 数年後の昭和35年頃からは日光の塩漬けのフレップは姿が見えなくなった。とうとう食用禁止にでもなったのであろうか。

    フレップ(こけもも)  
三土とみ子

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