日本の石塔 
         多重層塔

                石造三重塔・石造五重塔・石造十三重塔など
      

              
     日本で創作された碑伝(板碑)と、中
   国系の石碑は別として、あらゆる石塔の
   原点はインドのストゥーパに有ると考え
   られる。
    釈迦の舎利を納めたとされ、我が国に
   も奇数に積み上げる層塔の形式で伝来し、
   木造建築と共に多くの石造多重塔が造立
   された。

    鎌倉時代の作品を中心に、関西や九州
   など全国に残る傑作を歩いてみたい。




                 宝積寺九重石塔
                
(京都府大山崎町)
           
仁治二年(1241)の傑作だが、
        元は五重であったという説もある。



       

   
    
     上杉憲方石造七重塔 (神奈川県鎌倉市)
     
    
   この石塔は極楽寺の近くの小高い所に建って
  いるのだが、現在は住宅の真後ろになってしま
  って道路からは全く見えない。

   「道合塔」と呼ぶ人もあるのだが、それは上
  杉憲方の法名である。鎌倉管領の要職にあった
  人で、応永元年に没したという。伝承通り彼の
  墓だとすれば室町最初期の作ということになる
  のだが、確かに全体のプロポーションは弱弱し
  いものになっている。

   屋根の反りも迫力に乏しく、基礎の格狭間や
  初重軸部の四方仏像にも余り魅力は感じられな
  いが、全て輪郭線で囲まれているところは関東
  式の手法である。
   相輪は宝珠、請花が失われ、水烟が先端に来
  ている。露盤にも輪郭が施されており、繊細な
  面を見せている。

   当代の石造美術は、鎌倉時代の質実剛毅な造
  形と比較してしまうと、見劣りは歴然としてい
  る。
   しかし、この塔は、力強さを失いつつ退廃し
  ていく過程での妖しい美しさを見せており、全
  体的になんとも捨て難い魅力を秘めている。
   実は小生、結構好みの塔なのである。
           

  
    
     明泉寺石造五重塔 (石川県穴水町)
     
    
   木造五重塔を模した美しい石造五重塔が能登に
  在る、ということは各種の本で知っていた。実際
  に自分の目で見たこの塔の壮麗さを、一体何に例
  えれば良いのだろうか。

   初層軸部には木製の扉の付いた板石囲いの部屋
  が設けられており、金剛界大日如来坐像が置かれ
  ていた。

   屋根の軒裏には、木造五重塔のような隅木や垂
  木などが彫り出されている。何とも精巧な造りで
  あり、石造層塔としてこれほど精緻で、なおかつ
  優れた作品は他に無いだろうと思う。

   倒壊欠落していたものを1970年に修理補修した
  そうなので、部分的には後補の手が入っているの
  だろう。良く見れば何となく新しいか、と思わせ
  る部分はある。
   しかし、総体的に見ると、まことに秀麗な五重
  塔であり、様式的には鎌倉時代後期の特徴をよく
  表している。

   同様式の五重塔が輪島の白山神社にあるが、先
  般の能登大地震で崩壊している。一刻も早い修復
  を祈念している。
                  

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     八坂神社石造九重塔 (滋賀県米原市)
   
   
     名神高速道路の米原インターを出てから、中山
  道を少し関が原方面に進んだ右奥が三吉という集
  落である。郵便局や小学校に息郷という名前が付
  いているので、従来はそれが町名だったのだろう。
   その小学校の東側の田圃を隔てた山裾に、この
  神社がひっそりと祀られており、社殿へ登る石段
  の右側にすっきりとした形の九重石塔が見えた。

   初重軸部には舟形光背の中に四方仏が浮彫され
  ており、正面の像の左に元亨三年 (1323) 鎌倉後
  期の年号が刻まれている。
   基礎は正面のみに、輪郭を巻いた中に格狭間が
  意匠されており、近江らしい三茎蓮文様が彫られ
  ている。

   全体像が優雅で伸びやかに見えるのは、各層の
  屋根の厚さが薄く横に長いことに由来するからだ
  ろう。或いは、鎌倉期の重厚なスタイルから、端
  正で華奢な南北朝様式へと移行していく端緒が見
  えているのかもしれない、とも思えた。

   この辺りは中山道の番場宿に近く、かすかに旧
  道の風情の残った情緒在る集落が続いている。
  
           

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     松尾寺石造九重塔 (滋賀県米原市)
   
   
     前述の三吉から中山道をさらに東へ行った次の
  集落が醒ヶ井で、ここも旧中仙道の宿場であった。 
   松尾寺に行くには、そこから丹生川渓谷に沿っ
  て南へ4
Kmの山中に在る醒ヶ井養鱒場まで行き、
  さらに林道をかなり登らねばならない。
   林道は山門までで、車を止めるとそこからまた
  急坂と急な石段となり、ようやく本殿にたどり着
  くことが出来た。
   寺は無住だが、境内は以外に整備されていた。
   車とはいえ難儀な道中ということもあって、思
  い入れの濃かった石塔とは、なんとも感動的な出
  会いとなった。

   いかにもどっしりと安定した、秀麗かつ堂々た
  る石塔である。鎌倉そのもの、という第一印象を
  感じたが、文永七年 (1270) 鎌倉中期という銘が
  あるそうで、素人の感も捨てたものではない。
   鎌倉中期ならではの反りの小さな肉厚の笠、舟
  形にくり抜いた光背の中に浮彫された見事な四仏、
  基礎の格狭間に彫られた宝瓶三茎蓮など全てが、
  卓越した古塔のみが示すであろうオーラのような
  輝きを放っている。
   相輪の先は宝珠で、通常はその下に請花がある
  のだが、ここではその代わりに四方仏坐像が意匠
  されているのが珍しい。
   近江屈指の一級品との出会いだった。
           

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     宝厳寺石造五重塔 (滋賀県長浜市竹生島)
   
   
     琵琶湖に浮かぶ竹生島は、以前は東浅井郡びわ
  村に属していたのだが、現在は合併に寄って長浜
  市に編入されている。どうもピンとこないが、致
  し方ない。

   船着場から弁天堂へと続く石段を真っ直ぐ登り
  きった所に、低い柵に囲まれてこの石塔が建って
  いる。

   苔むしているのではっきりとは見えないのだが、
  基礎には輪郭を入れ、その中に格狭間が彫られて
  いるようだ。蓮華などの文様は見当たらない。
   初重軸部には、舟形光背の中に四方仏坐像が半
  肉彫されている。

   年号等の銘は刻まれていないようだ。
   年号が無いと、我々素人にも出番が回って来た
  ようで、つい張り切ってしまうのは何故だろう。
   各層の笠は割と肉厚であって、両端に反りの少
  ない大らかな姿を示している。
   どうやら、鎌倉中期から後期にかけたあたりの
  年代が想定できそうである。

   相輪が当初のものかどうかは不明だが、全体的
  に泰然とした好ましい石塔である。
           

    
   
     石塔寺石造三重塔 (滋賀県東近江市蒲生町)
   
   
   石造の五重塔や十三重塔は多いが、三重塔の事例
  は案外稀少である。
   この石塔は奈良時代の初め、朝鮮百済から来た石
  工の仕事と言われ、確かに従来の日本の石塔の印象
  からはやや異質な感が有る。
   しかし、全景を眺めると、あたかも優雅に舞い踊
  る人の姿のようにも見え、また木造の三重塔のシル
  エットにも近い様な気がして来る。

   塔身とは不揃いな相輪部分は後補だとして、層と
  層の間隔が従来の石塔のものより広いように見える
  が、肉厚で伸び伸びとした屋根の反りと一体化させ
  ることで、見事な均整美を生み出している。

   この清楚で、無駄な装飾の一切無い、研ぎすまさ
  れたような美的感覚に、限り無い尊敬と憧憬を抱か
  ざるを得ない。これほど美しい石塔を、今まで日本
  では見たことが無い。

   先般韓国を旅する機会を得、扶餘の町の郊外、長
  蝦里という農村に残る百済時代の三層石塔を訪ねた
  のだが、その全体像は石塔寺のこの塔にとてもよく
  似ていると感じられた。
   韓国には統一新羅・三国時代の夥しい数の三層石
  塔が残っているが、日本のこの塔も含め百済式の石
  塔は誠に貴重である。
     

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     涌泉寺石造九重塔 (滋賀県東近江市蒲生町)
   
   
     旧蒲生町の鋳物師(いもじ)という、大層珍し
  い名前の集落にある寺である。近江鉄道の朝日野
  駅から近く、牧歌的な風景の中を歩くと、木立に
  囲まれたこの寺の屋根が見えてくる。

   写真は、本堂横の小堂の前に建つ、どっしりと
  した感じのする九重石塔の姿である。
   基礎は失われていて自然石が利用されている。
   初重軸部だけ石の色が白っぽく感じられたが、
  近年洗ったからなのだそうで、四方仏の彫像は見
  事であり、一つの面に永仁三年(1295)鎌倉後期
  の初めという年号が入っている。

   前述の松尾寺の九重塔も同様だが、各層の笠と
  軸部に厚さがかなりあるので、堂々としているも
  のの塔全体が細長く感じられる。
   洗練されたスマートなデザインとは言い難いが、
  これは“近江らしさ”であり、私は実はこの素朴
  さ故に近江が贔屓になっているのかもしれないの
  である。

   この旧蒲生町は層塔の密集地で、前述の石塔寺
  を筆頭に、鎌倉以前の古層塔が私の知る限りでも
  八基は数えられるほどである。ここ涌泉寺のほか、
  前述の石塔寺、後述の赤人寺のものと、三基の層
  塔が国の重要文化財に指定されている。   
           

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     赤人寺石造七重塔 (滋賀県東近江市蒲生町)
   
   
     前述の涌泉寺から北へ約1Kmのところに、下
  麻生という集落がある。ここは山辺赤人の生ま
  れた地と言われ、赤人を祭る山辺神社が鎮座し
  ている。神社に隣接してこの寺のお堂が建って
  おり、“あかひと”寺とも“しゃくにん”寺と
  も呼ばれるらしい。

   本堂の真裏の狭い庭の片隅に、この荘重な花
  崗岩の石塔が建っていた。
   相輪が失われているのが残念だし、笠のあち
  こちに損傷が見られるものの、全体的な立ち姿
  から受ける印象はとても美しい。基礎から軸部、
  そして笠に至るバランス感覚が抜群に優れてい
  るからなのだろう。

   基礎には輪郭の中に格狭間を刻み、さらに三
  茎蓮が線刻されている。
   初重軸部には金剛界四方仏が梵字で表現され
  ており、趣味の良い書体で薬研彫りしてある。
  写真に写っている梵字はウーン(阿閦)で、そ
  の左が正面に当たるタラーク(宝生)である。
   銘が刻まれていたがはっきりしなかった。資
  料に寄れば、文保二年 (1318) 鎌倉後期制作と
  のことで、笠の両端がピンと反っていることか
  らも、文保はともかく後期ということは想定出
  来るだろう。
           

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     旭野神社石造七重塔 (滋賀県東近江市蒲生町)
   
   
     この塔の建つ旭野神社は、実は先述の赤人寺
  と涌泉寺の間にある上麻生という集落にある。
  二つの重要文化財に指定された石塔を訪ねた後、
  もう一基重要な七重塔が在ることを知り、再び
  戻ったのだった。

   全体の塔の印象は、先述の赤人寺のものと比
  べると、やや鈍重な感は拭えない。おそらくは、
  笠の肉厚なところが重々しさとなって伝わるか
  らなのだろうが、これはこれで近江らしいと言
  うことが出来るかもしれない。

   それに引き換え、この塔の洗練された存在感
  を伝えるのが、基礎の格狭間に刻まれた近江式
  孔雀の図柄であろう。羽を広げ、悠々と飛ぶ一
  羽の孔雀の像が、優雅に彫り込まれている。
   これを見るために戻った、と言えるかもしれ
  ない。写真の正面がそれだが、他の面は三茎蓮
  文様だった。これらの近江式文様と呼ばれる意
  匠は、西へは伝わったのだが、関東では余り見
  かけられないものだ。

   基礎上部の単弁反花の意匠が層塔には珍しい
  し、初重軸部の梵字四方仏も見事な薬研彫りが
  成されていて見所となっている。写真にはタラ
  ーク(宝生)が写っている。
           

       
       
     最明寺石造五重塔 (滋賀県守山市)
        
       
   JR守山駅の西方、密集した住宅地の中にこの
  小さな寺が建っている。山門を入るとすぐ鐘楼が
  見えるが、石造五重塔はその脇左側、本堂との間
  にさりげなく置かれている。

   解説板によれば、建長二年(1250)に北条時頼に
  よって建てられたらしい。寺伝では、と但し書が
  あることから、確証は無いのだろうが、石塔の風
  格や様式から、ほぼその時代に近い造立であるこ
  とは間違い無さそうだ。

   最初に目に入るのは、初層軸部の四方仏である。
  各仏像を特定するのは難しいが、いずれも舟形の
  光背を持ち、蓮華座に坐した仏像が彫り込まれて
  いる。
   やや磨耗が激しいが、屋根の軒はたおやかな反
  りを示しており、後期の剛毅な反りへと移行する
  前手の様式ではないかと思う。大らかでゆるやか
  な曲線を描いているから、なのである。
   相輪は失われているが、全体に古風な美しさを
  見せているこの塔は国の重要文化財の指定を受け
  ている。

  守山市は石造美術の密集する近江にあって、特に
  優れた作品が格別に集中した地域であり、国の文
  化財に指定されたものも数多い。   
         

    
    
     東門院石造五重塔 (滋賀県守山市)
    
    
   前掲の最明寺からは歩いて10分ほどの位置に
  あり、かつては壮大な寺域と格式を誇っていたと
  いう。現在は大きなお堂も無く周辺はひっそりと
  しており、がらんとした境内の隅に鎌倉期の宝篋
  印塔や宝塔など、数基の石塔が並んでいる。その
  中央に建っているのが、この写真の石造五重塔で
  ある。

   基礎の石が低いこと、初重軸部の奥と手前に二
  石を使用していること、屋根の勾配がゆるく直線
  的であること、軒の反りが微妙であること、など
  など鎌倉時代も中期以前、かなり古式の前期まで
  さかのぼれるかも知れない。

   軸部は二石を合わせた格好になっているため、
  前に薬師、後方に阿弥陀の各像が彫られ、側面に
  は何も彫られていない。これは、百済石塔の様式
  を示す石塔寺三重塔と似ているらしい。

   相輪が失われているのは淋しいが、何にしても
  古式の風格の漂う美しい塔であり、近江では石塔
  寺に次ぐ古い遺構である。
         

      
         
     来迎院石造三重塔 (京都市左京区)
      
       
   観光客でにぎわう大原三千院には入らず、手前
  を山手に向かって折れ、しばらく谷川沿いに登れ
  ば来迎院の山門が見えてくる。三千院の喧騒が嘘
  のように思える程の静寂に包まれている。
   本堂の美しい仏像に詣でてから、私達は右手奥
  に有るこの石塔を目指した。

   鎌倉中期とされるが、軸部の高さが古塔の風格
  を示しており、反りの美しい屋根との均整の取れ
  た形には感動した。
   相輪部分も当初のものと思われ、余計な装飾の
  一切無い、「かたち」そのものの美しさをここで
  も感じることが出来た。
   難を言えば、塔周囲に設置されている石柵が、
  写真を撮りにくくさせていたことだった。

   三重石塔はその作例が稀少なので、その意味か
  らもこの塔に会えたのは大きな喜びであり、また
  その質の高いことが無性に嬉しかった。
   私達は三千院の前を素通りし、大原問答の勝林
  院で鎌倉後期の宝篋印塔を見てから大原を後にし
  た。
           

    
    
     東福寺五社明神石造十三重塔 (京都市東山区本町)
   
    
   東福寺へは何度も訪れていて、本坊や光明院の
  庭園を見学するたびに日下門から入り、東司や僧
  堂、本堂の建ち並ぶ境内を抜け、三門から出て行
  ったものである。
   しかし、三門を入って右手奥、石段の上に五社
  明神が在り、その境内に重要文化財の石造十三重
  塔が建っていることを全く知らないでいた。

   今回初めて訪ねたのだが、いかにも優美な佇ま
  いの美しい塔であったことが私達を喜ばせた。
   屋根の軒反りが少ないことや、下層の幅の小さ
  いことなどから、鎌倉期の剛健な様式から時代の
  下がった南北朝から室町期ではないか、と想像し
  た。基礎に康永二年(1343)とあり、南北朝の前期
  であることが確認される。

   初重軸部の四方に梵字が見えるが、キリーク・
  アク・ウン・タラークで、其々が金剛界四仏を表
  している。基礎は格狭間によって装飾されている
  が、やや様式的になっている。
       

    
    
     長法寺石造三重塔 (京都府長岡京市)
    
   
   西国三十三観音札所の善峰寺に詣でた帰りに、
  直ぐ近くに点在する石造美術を見て歩いた。

   京都府西南の西山山麓に広がる長岡京市は、今
  や完全にベッドタウン化しているが、長法寺辺り
  の町外れは閑静な環境を維持している。

   さして大きな寺ではないが参道が有り、その右
  側に小振りだがいかにも古式な風貌をした三重塔
  と宝篋印塔が建っている。
   宝篋印塔はやや時代が下がった南北朝と思われ
  るが、三重塔の方は、笠の反り具合や全体に均整
  のとれた美しさから判断して、どうやら鎌倉初期
  から中期あたりの制作だろう。前出の来迎院三重
  塔に、とてもよく似ている。

   笠や各層の軸部がそれぞれ独立して積み重ねら
  れており、材質は花崗岩と思われる。
   初層軸部には四方仏図像が彫られており、やや
  摩滅はしているものの、古塔らしい大らかな美し
  さを演出している。

   来迎院のものと共に、京都における鎌倉期の貴
  重な石造三重塔の一つである。
     

    
    
     金輪寺石造五重塔 (京都府亀岡市)
    
    
   木造の塔では三重塔と五重塔が圧倒的に多い
  が、石造ではその事例は案外と少ない。今まで
  に見た石造五重塔の中ではベストとも言える、
  何とも秀麗な石塔に巡り会った。

   亀岡市の西北端、宮川という集落の外れの山
  奥にこの寺は在る。鬱蒼とした参道が、石塔の
  建つ素晴らしい環境を予感させた。

   見るからに均整の取れた美しい塔で、各層別
  石ながら相輪から基礎までが完備している。
   延応2年(1240)という鎌倉前中期の作との事
  だが、総体的に古調を示していて格調高い。特
  に反りの少ない笠の緩やかさは、石塔寺のイメ
  ージにも似て素晴らしい。

   初層軸部に四方仏が彫られ、その下の基礎石
  には梵字の四方仏が彫られていた。梵字にはア
  やアンが見られることから胎蔵界四仏だろう。
   古ければ何でも良い、というわけではないの
  だが、良いものは古いというのは事実である。

   境内にはこの塔と並んで、正応5年(1292)の
  石造九重塔が在る。やや笠の反りが目立つが、
  これも鎌倉後期の名品である。
       

    
   
     延福寺石造十三重塔 (京都府亀岡市)
    
    
   亀岡市に優れた石造美術品が、かくも数多く
  保存されているとは知らなかった。この寺も江
  戸期の庭園が在ることでマークはしていたもの
  の、石塔を見てその美しさに圧倒され、庭の印
  象はどこかへ飛んで行ってしまった。

   湯の花温泉の奥、本梅という集落の外れに在
  る静かな寺で、長い石段を息を切らせて登った
  所に、この優雅な石塔が建っていた。
   石塔、ましてや十三重というイメージから受
  ける重量感や威圧感は全く感じられず、あたか
  もガラス細工ではないかと思える程の洗練され
  た華奢な美しさが示されていることに驚いた。
  層塔に対して、このような印象を持ったのは初
  めてだった。

   高さが3mとむしろ小柄であること、笠の大
  きさが上部に向かって余り逓減されていないこ
  と、笠の反り具合が優しいこと、などがそう感
  じさせる要因らしい。
   延文3年(1358)の作で、鎌倉期の豪放な造形
  とは異質の、南北朝ならではのまことに温雅な
  たたずまいであった。
        

    
    
     白山神社石造九重塔 (京都府宇治市)
    
   
   宇治の平等院から、宇治川に沿って南東にさか
  のぼると、直ぐに白川の里に着く。静かな山里だ
  が、その集落から少し離れた場所に白山神社が在
  り、その参道にこの秀麗な塔が建っている。
   集落の中に地蔵院というお寺が在り、元来はこ
  この寺域であったらしい。確かに、地蔵院九重塔
  と明記した専門書を見たことがあるが、実際は現
  在の白山神社に在るので、ここでは白山神社九重
  塔と記しておく。
   やや小高い台地に建っているので、近付くにつ
  れて少し見上げるようになり、やがて優美なその
  姿に接することが出来た。

   花崗岩製でやや小振り、基礎には格狭間、初重
  の軸部には金剛界四方仏を意味する梵字種子が月
  輪の中に彫られているが、かなり摩滅していて写
  真でははっきりしない。
   相輪は後補なのだろうが、各層の屋根の端がや
  や反っており、全体の華奢なイメージと併せ、ど
  うやら鎌倉末期から南北朝初期にかけて制作され
  たものではないかと感じられた。
        

  
   
     法泉寺石造十三重塔 (京都府京田辺市)
     
     
   桃山期の庭園遺構が残っているということで、
  石塔と共に以前から興味を抱いていた寺だった。
  名園で著名な薪の一休寺にも比較的至近の、草
  内という集落の中に在る小さな寺である。

   庭園はすっかり荒廃しており、かすかに石組
  は残っているものの、ほとんど庭の体をなして
  いないのが残念だった。

   境内入口近くに建つ十三重塔は、古くから知
  られた名品で重要文化財に指定されている。
   笠と軸部を一石で彫り、十三層に重ねるとい
  う古い様式らしいが、多層の石塔には適切な手
  法だろうと思う。
   弘安元年(1278)の作で、鎌倉中期らしい豪放
  さと華麗さを共有した見事な塔だと言える。
   相輪は後補だが、しみじみ見ていても飽きな
  いし、笠の重なりに不自然さが微塵も感じられ
  ないのは、笠の反りや厚さなど落ち着いて均整
  の取れた姿をしているからだろう。

   塔の左側は学校の校舎に隣接しており、背景
  に障害物無しに写真を撮るためのアングルはこ
  れしか無かった。
         

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     新殿神社石造十三重塔 (京都府精華町)
   
   
     京奈和自動車道の山田川インターを下りると直
  ぐに山田の里で、この神社の鎮座する木立のある
  丘が見える。
   重要文化財に指定された石塔が在ると聞き、京
  都から奈良へ向かう途中で寄り道をしたくなった
  のだった。

   本殿へと続く参道の林の中に、この4m近い石
  塔がすっくと建っていた。
   制作年号が彫られており、それは何と延徳三年
  (1491) という室町中期のものだった。鎌倉期か
  らせいぜい南北朝の傑作を中心に観てきた者にと
  っては、最初から知っていたらわざわざ訪ねはし
  なかっただろう。
   しかし、じっと見ていると、やはり傑作だけが
  示すある種の説得力に惹きつけられた。

   定型化した四方仏坐像や、装飾も無く無意味に
  大きい基礎、失われた相輪など、欠点を挙げれば
  きりは無い。
   だが、この塔の存在感を確かなものにしている
  のは、基礎に彫られた「百万遍念仏」の文字や多
  くの法名にあるのかもしれない。
   塔の建立の背景に真摯な信仰の裏付けが存在し
  ていたことを、この塔は暗黙の内に示しているか
  らなのである。    
             

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     天神社石造十三重塔 (京都府山城町)
   
     
     JR棚倉駅の東南に当たる山中に、古美術愛
  好家なら周知の山岳密教の寺神童寺が在る。
   その鎮守社として創建された天神社は、神童
  寺からちょっと奥へ入ったところに在り、鬱蒼
  とした樹木に囲まれる神域となっている。

   写真の石塔は、社殿の奥の小高い場所に、玉
  垣に囲まれて祀られている。
   基礎に建治三年 (1277) と彫られた鎌倉中期
  の遺作であり、弘安元年の法泉寺塔の一年前と
  いうことなので、京都最古の十三重塔だろう。
   全体のシルエットは、法泉寺塔にとても良く
  似て美しく、ずっと見ていても見飽きることが
  ない。

   屋根の軒反り具合は緩やかで、巾の逓減率も
  理想的な美しさを演出している。それにしても、
  屋根ひとつとっても、時代によって変化する美
  意識の流れに従った様式というものが、自ずと
  形成されていくのが不思議でならない。

   初重軸部に彫られた浮彫像は、弥陀・釈迦・
  薬師があることから顕教四仏と思えたのだが、
  残る一つが弥勒に代わった錫杖を持つ地蔵とな
  っていた。何時来るか判らない弥勒より、頼り
  になったのだろうか。

   相輪は立派なもので、上から宝珠・龍車・水
  烟・九輪・請花・伏鉢が完存している。   
             

  
   
     岩船寺石造十三重塔 (京都府木津川市)
      
     
   山深く緑濃い岩船寺境内で、朱塗りの木造三
  重塔と共に、ひときわその存在感を示している
  のがこの石造十三重塔である。

   屋根の反りは微妙であり、その巾の逓減率が
  少ないことが鎌倉末期あたりを示唆しているの
  ではないかと思う。時代が下るほど、上層と下
  層の巾の差が少なくなってくるのである。

   初重軸部には月輪の中に梵字で金剛界四方仏
  種子が刻まれており、5m強の高さながら秀麗
  な姿となっている。
   相輪には宝珠、竜車、水烟、九輪、請花、伏
  鉢が全て完備しており、やや華奢ながら見事な
  造形である。

   訪ねたのは春四月で、境内には種々の花々が
  咲き乱れる石造巡礼には格好の季節であった。

   この寺は石造美術の宝庫で、この他にも鎌倉
  時代後期の五輪塔や、不動明王の浅浮彫を祀っ
  た石仏龕などを観ることが出来る。
   浄瑠璃寺へと続く道に残る当尾石仏群も、こ
  の地を訪ねる楽しみの一つとなっている。   
           

    
   
     般若寺石造十三重塔 (奈良県奈良市)
     
     
   東大寺大仏殿の望める奈良坂にある奈良期の
  古刹だが、境内は荒廃し往時の姿は失われてい
  る。西大寺叡尊による再興時の楼門や文殊菩薩
  像が残るのみであり、また同時代の石造の本塔
  と笠塔婆二基が境内に建っている。

   屋根の軒反りが堂々として力強く、逓減率が
  大きいので、最下層から上部へと向かって立ち
  上って行くような勢いが感じられる。

   近年の解体修理の際に、建長三年(1253)造立
  を示す墨書が発見されたそうだ。当代の大工、
  伊行末の作品であることも判明したという。
   初重軸部には、美しい四方仏が線彫で表され
  ている。
   下から二重目の笠が厚めで、不自然だなあと
  思ったら、やはりこれだけが後年の補修である
  そうだ。
   相輪は明らかにレプリカであり、本物は基壇
  脇に保管されている。

   この石塔の前に立てば、一級品のみが放つ独
  特のオーラを感じる。正に石造巡礼の至福の時
  であろう。
   散り終わりかけた桜の花と、それに換わる満
  開の山吹が境内を鮮やかに飾っていた。
               

      
   
     於美阿志神社石造旧十三重塔 (奈良県明日香村)
      
       
   明日香の檜前(ひのくま)の里にあるこの神社は、
  奈良時代には檜隈寺が建っていた場所だった。
   層塔は社殿横の広々とした草地にポツンと建っ
  ており、やや意外な感じがするが、鉄柵で囲って
  しっかりと保存されていた。

   初見の印象は、屋根の厚みが堂々としているこ
  と、軒の反りがとてもおおらかであること、そし
  て、下から上への屋根の巾の逓減の度合いが何と
  も優雅であることだった。
   これらの特徴だけでも、鎌倉期の技巧的な意匠
  とは違った朴訥とした伸びやかさが感じられて、
  おそらくはそれ以前の平安期のものであることが
  小生にも想像出来た。

   数えてみると層は十一しかなく、逓減の具合か
  ら上部二層と相輪は喪失したらしい。
   軸部の四方に、底面の平らな浅彫りで梵字種子
  が彫られている。顕教四仏のバク(釈迦)、キリー
  ク(阿弥陀)、ユ(弥勒)で、もう一つは薬師を表す
  バイが本来なのだが、ここではウーン(阿しゅく)
  が彫られていた。顕教四仏に金剛界四仏のウーン
  を取り入れた事例は珍しいが、密教思想に基づく
  ものであるらしい。  
     

    
    
     栄山寺石造七重塔 (奈良県五条市)
     
   
   五条市の宇智川に残る、奈良時代の磨崖碑を見
  た。宝亀七年(776)という貴重な史跡だが、かな
  り摩滅が進行している。

   栄山寺はそこから歩いてすぐの場所に在る。法
  隆寺の夢殿にも匹敵する、天平の遺構である国宝
  の八角円堂に詣でてから、私達は境内に建つこの
  七重石塔を見た。

   かなり苔むしており、いかにも古塔らしい佇ま
  いが気に入った。時として、苔にだまされてしま
  う事もあるが、ここでは、屋根の反りは緩やかだ
  が厚く豪壮であり、間違い無く鎌倉初期の特徴を
  示している。

   上部の相輪には、下から露盤、伏鉢、請花、七
  重相輪、水煙、龍車、宝珠と完璧に揃っている。
   基礎の上の塔身には、薬研彫りで梵字が彫られ
  ている。写真は北面の「アク」で、時計回りに東
  面が「ウン」、南面に「タラーク」、西面に「キ
  リーク」が見られ、これらは不空成就如来、阿シ
  ュク如来、宝生如来、阿弥陀如来の金剛界四方仏
  であろう。
   ずっしりと構えており、まことに重量感に満ち
  た堂々たる秀塔だった。
            

      
       
     大蔵寺石造旧十三重塔 (奈良県宇陀市)
    
    
   大宇陀の集落から少し離れた小高い山の上に
  建つ寺で、車は途中までしか入れず後はかなり
  歩かねばならない。大師堂など貴重な建築も多
  いが、寺内はかなり荒廃している。
   この石塔は現在十重だが、本来は十三重であ
  ったことは間違いない。何度も倒壊したために
  破損が激しいが、スックと建つ細身の優雅さが
  只者ではない美しさを感じさせてくれた。その
  点からは、鎌倉末期が予見される。
   塔身には金剛界四仏種子の薬研彫りが、鎌倉
  中期らしい鋭さを見せているので戸惑う。

   後で見た資料で意外だったのは、基礎部分か
  ら伊行末という名前と延応二年(1240)という年
  号が発見されていた、ということだった。
   既述の奈良般若寺の十三重石塔と同じ作者と
  いうことになるのだが、石塔そのもののフォル
  ムがかなり違うように思えたからだった。
   屋根の巾の逓減率が大きい般若寺の塔と比べ
  ると、ここの逓減率の低さは鎌倉末期以降を示
  している、とも思えたのだった。

   いずれにしても、山道を歩いてようやくたど
  り着いた荒れ寺の奥で、かくも美しい石塔と出
  会えた感動は格別の歓びであった。 
             

       
       
     鹿谷寺跡石造十三重塔 (大阪府太子町)
    
    
   大津皇子の墓で知られる二上山山麓には、難波
  の港と大和を結ぶ竹ノ内街道が通じており、かつ
  てそれは大陸からの仏教伝来の動脈でもあった。
   その二上山の南側中腹に、古代からの石切り場
  でもあった鹿谷(ろくだに)寺の跡地が残ってい
  る。現代の竹ノ内街道である国道166号線に車
  を停め、山道を歩いて上るしか手段は無い。

   写真でも判るように、石塔は一石を彫りぬいた
  ものであり、なおびっくりするのは地面の岩盤と
  も一体であることだった。
   中国や半島の塔を連想させるようなシルエット
  は、各層の軒の彫り込みが浅いこと、厚い屋根の
  反りがほとんど無いこと、などといった印象から
  くるものであろう。

   奈良時代後期のものと言われ、石塔寺三重塔・
  龍福寺層塔・塔ノ森十三重塔などと共に、古石塔
  を代表する最も古いものである。また、ただ古い
  だけではなく、大陸的なおおらかさや、石塔の持
  つフォルムの美しさや優美さを十分備えているこ
  とに驚嘆する。

   塔の傍にある石窟に描かれた線彫の三尊像は、
  同時代の傑作であり見逃せない。   
           

     
     
     般若寺跡石造七重塔 (福岡県太宰府市)
        
   
   31年前の新婚旅行で訪ねた九州の英彦山庭園群
  を再訪する夢がかなった旅で、これまた憧れであっ
  た北九州の石造美術を併せて観る事が出来た。
   数多い収穫の中でも、この石塔は出色の逸品であ
  った。石造美術の専門書には「片野の七重石塔」と
  表記されているが、大宰府市役所の観光課で訊いて
  も現在は片野という地名は無いと言う。古い石塔な
  らこれしかない、という場所を教わってようやくた
  どり着いた。

   周辺はすっかり宅地化され、狭い一画に隠れるよ
  うにこの石塔が建っていた。
   七重や十三重という多層塔を美しいと思ったこと
  は余り無いのだが、西日に輝くこの塔はまことに秀
  麗に見えた。

   笠の重なり具合と塔身とのバランスが極めて美し
  く、笠の反りが古式の荘重さを備えている。塔身の
  梵字も美しいので、私はすっかりこの塔に見入って
  しまった。
   今まで見過ごしていた七重や十三重の塔を、見直
  す必要がありそうだ。
       

     
    
     坂水石造五重塔 (大分県杵築市大田)
      
     
   国東半島の南部を占める大田村に沓掛という集
  落が有り、そこの坂水という地区にこの石塔が建
  っている。

   屋根の張り出しが極端に少なく、各層軸部の高
  さが大きいことなど、第一感は朝鮮の影響かと思
  ってしまった。しかし、山香町の西明寺石造三重
  塔など似た事例も有り、特定の石工による様式が
  この時代に有ったのかもしれない。

   紀銘年は延元4年(1339)とあり、この地の豪族
  であった田原直平の墓塔との伝承が残る。付近に
  は、南北朝期の五輪塔が林立する田原家墓地も保
  存されており、古い格式を有する名門であること
  を示している。
   最上部の相輪は失われており、露盤のみが残っ
  ている。石材は安山岩らしく、笠と軸とは別石を
  積んでいる。

   基礎側面を三つに区切り、それぞれに格狭間を
  入れてあるのが特徴である。輪郭線が二重である
  ところなどに、派手ではないがさりげなく贅沢を
  する奥ゆかしい教養が感じられる。
       

      
            
     吉木石造旧九重塔 (大分県国東市)
      
   
   旧国東町吉木の集落に隣接して、この優美で
  力強い石塔が立っている。
   現在は相輪を失った八重の層塔だが、従来は
  九重石塔であったと思われる。笠の逓減率が大
  きいので、十一重や十三重は考え難い。

   高さ6mという豪壮な塔だが、屋根の軒裏に
  垂木の造り出しが彫られているのでとても優雅
  に見える。
   三重の基壇の上に、側面二区に格狭間を入れ
  た基礎が乗る。初軸部には金剛界四仏種子が、
  力強く薬研彫りされている。写真の正面に彫ら
  れているのは、阿しゅく如来を象徴する“ウー
  ン”という梵字である。

   屋根の勾配は両端が大きく反った形で、とて
  も躍動的な印象を受ける。
   無銘であるために制作年代は諸説あり、鎌倉
  後期から南北朝初期とされるが、豪快さの片鱗
  が残るあたりからも、どうやら鎌倉末期説が正
  しいような気がする。
   どちらにせよ、見る者の心をつかむ感動的な
  名品であることは間違い無い。   
           

       
   
     西明寺石造三重塔 (大分県杵築市)
     
    
   旧山香町内河野という場所なのだが、従
  前はかなりの山の中で場所を探すのに苦労
  した。近年この近くを通ったが、新道が出
  来ており案内の標識が出ていたので、現在
  は迷うことは無いだろう。

   貞和四年(1348)という銘が基壇上部に彫
  られており、南北朝初期のものである。
   相輪は失われているが、雲形文様の露盤、
  蓮華文様の二層目軸部などの細部には、優
  れた技法を見ることが出来る。
   初重軸部には、金剛界四仏種子が月輪の
  中に薬研彫りされており、陽刻された蓮華
  座が見事だ。
   鎌倉期のものと比べると、やや力強さは
  失われているものの、写真のシルエットに
  見る通り全体像はとても優美である。
   塔の周囲を境界壇にしてあり、四隅に方
  錐形の柱状碑が立っている。
          

    
       
     王子石造九重塔 (大分県臼杵市)
     
    
   大分県は市町村合併に熱心だったが、旧地名の頃
  に探訪した小生にはどうも今ひとつピンとこない。
  ここもかつては野津町王子だったが、現在は臼杵市
  と合併している。
   水田やビニールハウスの並ぶ農地の中にポツンと
  立っているのだが、延万寺の跡と伝わっている。

   豊後の石塔を代表する傑作で、初重軸部に文永四
  年(1267)という銘が彫られている。鎌倉中期という
  魅力的な年代だが、軸部が大きく笠の軒の出方が小
  さいので見事な安定感を示している。
   前出の吉木層塔と比較すると、こちらの方が総体
  的に野武士のような豪放磊落さが感じられる。

   最大の特徴は、初重軸部の四方に掘り込まれた四
  仏坐像だろう。舟形に彫られた光背の中に、弥勒・
  薬師・弥陀・釈迦の四仏が半肉彫りされている。像
  のすぐ後ろに光背として二重円相が彫られ、外側の
  舟形光背との間が幾重もの羽形線で結ばれている。
   相輪は後補だが、ここではさほどの違和感を感じ
  させない。補修は無理にしないほうが良いと思って
  いるが、この程度が最低限の補修だろう。
   角に面取りをしたような手法が見られる格狭間も
  珍しく、両端に隅柱を立てたような形になっている。
          

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