日本の石塔 五輪塔・その他       

             

        主に五輪塔を、そして五輪卒塔婆、笠塔婆など、その他の石造美術に
       付いても探訪してみたい。中世以降、従来は五輪思想を象徴する供養塔
       であったものが、次第に墓碑として建立されるようになった。
        従って、五輪塔の探訪は必然的に墓地を歩くことになる。旅に出て墓
       の写真ばかりを撮っている小生の姿を、友人達は不思議がるばかりだ。
              













 
五輪塔群
 
石塔寺
 
滋賀県蒲生町
 どんな信仰が
 こんな景観を生む
 のだろうか。
         

     
     
     興融寺五輪塔 (奈良県生駒市)
     
     
   前述の円福寺で宝篋印塔の傑作を見た後、同じ生
  駒有里の二つの寺、竹林寺とここ興融寺に残る五輪
  塔などを見るために訪れた。
   鎌倉後期の端正な竹林寺五輪塔と比べると、この
  塔はいかにも荒削りであり、はじめの内は素朴さと
  言うよりも稚拙さの方が強く感じられたのだった。
   だが、表面的に感じていた印象とは別に、写真を
  撮るためにファインダーを覗いていると、フォルム
  全体に漂う落ち着いた貫禄と、プリミティブな美し
  さを備えていることに気が付いた。
   てっぺんのずっしりとした空輪、厚めの火輪、少
  し肩の張った水輪など、古武士の様な風貌である。
   水輪の四方に梵字が彫られている。摩滅して判然
  としないが、どうやら金剛界四仏ではないだろうか
  と思う。
   基礎の地輪部分に年号らしき文字が彫られている
  が、拓本にでも採らねば判らないだろう。鎌倉中期
  は下らないはずである。
   帰る頃には、立ち去りがたいほどの愛着を感じる
  までになってしまった、不思議な五輪塔との出会い
  であった。
         

  
   
     額安寺五輪塔 (奈良県大和郡山市)
     
    
   鎌倉時代の窯跡で知られる額田部という集落に
  この寺が在り、集落北側の鎌倉坂を登ったところ
  に寺の古い墓地がある。
   ここに八基の五輪塔が一列でカギ形に並んでお
  り、その全てが鎌倉時代後期のものである。
   しかも一括して重要文化財に指定されている、
  というのは大変珍しい。
   写真はその内の一基で、一番南側に建つ最大の
  五輪塔である。高さは2.8m弱という大きな石塔
  で、ここから西大寺忍性の墓誌を刻んだ蔵骨瓶が
  発見されていることから、忍性の分骨をした塔で
  あろうと思われる。
   各輪の均整が取れた見事な造形であり、特に笠
  火輪の軒両端の反りが鎌倉らしく剛毅である。
   空・風輪の姿も堂々としており、水輪のバラン
  スも申し分ない。
   他の七基にも質の高い造形が成されており、そ
  の内の二基には、永仁五年(1297)の年号が刻まれ
  ている。
   なお、額安寺には、門前の池の中島に建つ美し
  い宝篋印塔が在るのだが、雑草や植栽が繁茂して
  いてほとんど見えなかった。
          

   
   
     当麻北墓五輪塔 (奈良県葛城市)
     
     
   当麻寺の北側斜面に古い共同墓地があり、その
  登り口付近に中世の十三重石塔などと共に、この
  いかにも古そうな五輪塔が一段高い墓所の中に建
  っているのが見えた。
   最初の印象は、五輪塔というよりも宝塔ではな
  いかと思ったのだが、それは通常は球形に近いは
  ずの水輪が、ここではやや細長い壺型をしていた
  からだろう。
   しかし、五輪塔の四方門を表す梵字種子が刻ま
  れているので、すぐに第一印象が間違いであった
  事を知った。

   写真は東側の発心門を表す「キャ・(カ)・(ラ)
  ・バ・ア」なのだが、風輪と水輪の梵字は摩滅し
  て見えない。梵字は誠に雄渾な筆致であり、古色
  を示す深い薬研彫りの手法で刻まれている。
   笠の屋根の傾斜は緩やかであり、軒反りは堂々
  として厚く、地輪は低くどっしりとした感じを抱
  かせてくれた。
   まことに古色蒼然とした名品であり、その大ら
  かな荘重さは鎌倉時代を越え、平安末期をも想定
  させてくれる。
   この石塔が国の重要文化財に指定されている、
  と聞いて驚いた。卓越した見識を持つお役人も居
  たのだ、と認識を改めたのである。   
        

   
   
     不動院五輪塔 (奈良県山添村)
     
     
   奈良の都からは約20Kmと近いのだが、大和
  高原の東山中と呼ばれるこの辺りはいきなり山
  里へ飛び込んだような風情が感じられる場所で
  ある。
   この寺は春日という集落の奥まった所にひっ
  そりと建っており、境内はのどかな山寺の雰囲
  気であった。
   小さな山門を入ると、すぐにこの五輪塔が目
  に入る。
   写真には写っていないのだが、基壇の側面は
  二区に仕切られ、各区に格狭間が刻まれている。
   その上に複弁反花座が設けられ、さらにその
  上に五輪塔が載るという、大和に多い様式であ
  るとはいえ、山里の小寺とは思えぬ誠に立派な
  構成になっていた。
   基壇も入れて1.8mの高さなので、格別大き
  くはないのだが、きりっとした立ち姿が上へと
  伸びて行くような鋭さを感じさせた。
   火輪の軒は分厚く、両端が豪放な反りを見せ
  ており、やや扁平な水輪など鎌倉後期の優等生
  といった愛すべき作品である。
   地輪には法華経の中の偈が彫られ、正和二年
  (1313)という年号が記されている。
   ここにはもう一基、文保元年(1317)の銘があ
  る美しい宝篋印塔を見逃してはならない。
           

   
   
     西大寺奥の院五輪塔 (奈良県奈良市)
    
      
   現在の西大寺の寺域からは西北に約1Km離れ
  た場所に、石塔院または奥の院と呼ばれる一画
  が在る。そこが西大寺中興の祖である興正菩薩
  叡尊の霊廟であり、写真の壮麗な五輪塔が祭ら
  れていた。

   高さ3m以上の雄大な塔で、切石を組んだ二
  段の基壇を築き、さらに繰形座を設けてその上
  に五輪塔が据えられている。威風堂々たる格式
  と、雄渾な造形性に圧倒され、思わずは目を見
  張らされてしまった。
   やや裾広がりな台形状の地輪の上に、どっし
  りと扁平な球体の水輪が載っており、質実な安
  定感を感じさせる。
   火輪の軒は厚く、その両端が微塵の躊躇も無
  く強く反っている。
   鎌倉時代後期の最も完成された様式の典型、
  とも言えるような見事な五輪塔だ。余りに隙が
  無さ過ぎて、やや愛嬌に欠けるとすら思えてし
  まうほどの絶品だと思う。
   旅の途上で、こうした歴史的名作に出会える
  ことは無類の楽しみであり、更なる未知の美し
  い作品に対する好奇心を一層刺激されてしまう
  ことになるのである。
  
             

   
   
     忍辱山墓地五輪塔 (奈良県奈良市)
    
     
   忍辱山円成寺に詣で運慶の傑作を拝した後、私
  たちは山門を出てから、反対側の山へ続く細い道
  を登って行った。この地区の老人達が楽しむゲー
  トボール用のグランドの脇を抜けると、そこが昔
  からの共同墓地になっている。一人の老婆が、五
  輪塔の所在と行き方を教えてくれた。
   この墓地は大層古いようで、中世の石仏や石塔
  が至る所に散在しており、まるで石造博物館を逍
  遥する気分である。
   五輪塔は松林に囲まれた一番高い位置に建って
  おり、墓地全体を供養するための塔としての役割
  があったものと思われる。
   火輪の軒の厚さや反り具合は典型的な鎌倉後期
  の様式を示しているのだが、水輪の球形にやや不
  安定な感じがするのは、下へ向かってややすぼん
  でいるからだろうか。
   地輪の部分に元亨元年(1321)とあり、鎌倉末期
  を証明している。
   基礎に複弁反花座が設けられているのは、いか
  にも大和様式を象徴しているように感じられる。
   麓へ戻る私と家人に、ゲートボールに興じてい
  た老人達が手を振っていた。
   
         

     
     伴墓五輪塔(奈良県奈良市)
      
      
   三笠山山麓にはかつて東大寺の末寺が在ったが、
  現在は三笠霊園となっており、その一画が東大寺
  墓所となって伴(とも)墓と呼ばれている。
   急な斜面を登った場所で、般若寺方面に眺望が
  開けている。
   片隅にひっそりと建つこの五輪塔は、よく見る
  と通常のものとは違う事が判る。それは火輪(笠)
  が通常の四角錐ではなく三角錐であること、また
  笠の下端に軒の厚さが無いことである。
   しかし、変則的な形式にもかかわらず、全体の
  フォルムがまことに美しい。
   空輪が扁平であり、笠の屋根の線が外へ膨らん
  でおり、水輪がやや下膨れであることなどが、大
  層古い形式である。
   この五輪塔は、元は東大寺の境内に建っていた
  のだが、江戸時代にここへ移されたらしい。俊乗
  房重源との関係が考えられるが、現在五輪塔の横
  に「俊乗房重源之墓」と記した石碑の信憑性は不
  明である。
   この三角五輪塔を真似た後世の五輪塔が、同じ
  墓所内に数基建っていた。
         

     
     上品蓮臺寺真言院五輪塔 (京都市上京区)
       
     
   上品蓮臺寺は十二の子院が在ったことから、
  十二坊と呼ばれるほどの京都有数の古刹であっ
  た。現在は四院を残すのみだが、それでも千本
  通りに面して長い築地塀が続き、かつての威容
  を留めている。
   本寺の北に隣接するのが四院の一つ真言院で
  あり、その本堂裏の墓地の中央に写真の五輪塔
  が建っている。
   余り有名なものではないが、鎌倉期の特徴を
  備えた美しい塔である。
   ふっくらとした空輪、力強さの見える笠の軒
  反り、球形のわりと高い水輪などが、鎌倉も比
  較的後期ではないかと思わせる。
   後述の知恩院のものにとても似ているような
  気がした。
   五輪塔に興味の無い人の目には、どれもこれ
  も同じ単なる墓石としか写らないらしい。しか
  し、部品は同じでも微妙な形の差や配列の違い
  によって、千差万別となる人の顔に似て、たっ
  た五つの要素から成るこの塔も、まことに様々
  な表情を見せてくれるところが面白い。
   源頼光が大蜘蛛を退治したと伝えられる頼光
  塚が、墓地の隅に在った。
   
          

       
       
     行願寺五輪塔 (京都市中京区)
     
    
   行願寺は俗に革堂と呼ばれ、西国札所第十九番
  の霊場である。京都御所に近く、寺町通りに面し
  て建っている比較的こじんまりとした寺である。
   私達は今回二度目の西国巡礼のために訪ねたの
  だが、前回見落としていたこの五輪塔を観る事も
  目的の一つだった。
   本堂の十一面観世音に詣でてから、境内の北西
  隅に建っている写真の五輪塔を観た。高さが3m
  はありそうで、かなり大きい事に驚いた。
   寺は桃山時代に一条からこの地へ移転して来た
  そうで、五輪塔もそれに伴い移築されたという。
  平安時代の開基が加茂明神を勧請して建立された
  石塔と伝えられるが、塔の様式は明らかに鎌倉期
  のものなので単なる伝承だろう。
   火輪(笠)の形がなんとも美しい。微妙な反り
  がこの時代の美意識を象徴しており、軒裏にもう
  一重の垂木型作り出しが彫られているのが珍しい。
  鎌倉後期ではないかと思う。
   五輪塔の建立に直接関係は無いが、この塔は京
  都に伝わる忌明(いみあけ)塔の一つで、七七忌
  の喪明けに詣でるという室町時代以降の習俗があ
  ったという。
        

      
       
     宝篋院五輪塔 (京都市右京区嵯峨)
      
      
   嵯峨野は何度も歩いていたのに、釈迦堂清涼寺の
  近くに在るこのお寺には一度も入ったことが無かっ
  た。その名のとおり宝篋印塔が在るものと信じきっ
  ていたのだが、今回初めて訪ねて驚いた。
   ここでの「宝篋院」は室町幕府の二代将軍足利義
  詮の法名であり、境内に建っていた石塔は左に三重
  石塔、右に写真の五輪塔の二基だったのである。
   三重石塔は義詮の墓であり、五輪塔は楠木正行の
  首塚であるらしい。南朝方の敵ながらその人柄を慕
  った義詮が望んで、その傍らに葬ったとされている。
   三重塔は古式であり、おそらく鎌倉初期、五輪塔
  も笠の一部が欠けているものの、上から「キャ・カ
  ・ラ・バ・ア」の梵字も揃っており、笠の反りから
  も鎌倉末期は下らないだろうと思われる。
   とすれば、初期とはいえ南北朝時代の正行と義詮
  では、どうしても若干のズレが出てきてしまう。
   言い伝えの真偽はともかく、嵯峨野の一画に古い
  五輪塔が在ることは事実である。それも、風格と品
  位のある、まことに優雅な石塔なのである。
   考古学者ではない私達は、伝説を信じても何の損
  にもならないのだから、信じてみるのもまた楽しい
  ものではある。  
          

    
        
     知恩院五輪塔 (京都市東山区)
     
      
   知恩院に鎌倉後期の五輪塔が在ると知り、
  かつてなかなか見ることの出来なかった庭園
  も拝観したかったので、久し振りにこの著名
  な寺を訪ねてみた。
   南北朝の雰囲気を残す庭園は大きな収穫だ
  ったが、この五輪塔の所在が判らず境内中を
  探して歩いた。
   結果的には、御影堂と阿弥陀堂を結ぶ渡り
  廊下の脇に在ったのだが、案内等は一切され
  ていない。鎌倉期の石造美術より、甚五郎の
  忘れ傘などといった怪しい名物のほうが大切
  らしい。
   高さが2m以上ある大きな五輪塔だが、形
  の良い空輪と風輪、力強い軒反りを示す火輪、
  ぽってりとした水輪など、完璧な保存状態の
  均整のとれた美しい塔である。
   奇妙な場所に位置しているのは、旧寺時代
  から行願寺と同じ忌明塔とされていたため、
  なかなか手がつけられなかったのではないか
  という説があるらしい。
          

      
        
     安楽寿院五輪塔 (京都市伏見区)
      
     
   のどかだった竹田の里の安楽寿院周辺は、近年
  住宅地として変貌している。境内のお堂の前に在
  ったと思っていた五輪塔は、なんと老人ホームの
  玄関脇に申し訳無さそうに建っていた。土地が切
  り売りされてしまったようだ。
   しかし、五輪塔の建つ一画は確保されており、
  重要文化財として保護されているのは嬉しい。
   高さ3mの大塔で、四方の梵字は無いが、五輪
  全てが見事な統一感ある美しい姿をしている。
   空輪と風輪がどっしりとした大きさであり、塔
  全体に落ち着いた安定感を作り出していることに
  気がついた。また、火輪の軒の厚さが堂々として
  おり、両端の反り具合に風格が感じられる。
   近世の粗悪な五輪塔は、その辺りの要素が欠け
  ており、なんとも薄っぺらに見えてしまう。時代
  の変遷と共に美意識も変化し、様式は多様に変化
  していくのは当然なのだが、表面的な技術ばかり
  が進歩し、オリジナルの持っていた素朴な美しさ
  や精神性を凌駕したケースは、どの芸術の分野で
  もほとんど無いというのは不思議である。   
          

     
        
     木津惣墓五輪塔 (京都府木津川市)
      
     
   惣墓というイメージから、町外れの墓地を連想
  していた。いくら探しても見つからないので、町
  役場の観光課で尋ねてようやくたどり着けた。
   判らぬ筈で、現在惣墓は喪失し、周辺はすっか
  り宅地化され、なんと目指す五輪塔は幼稚園の敷
  地内に建っていたのである。
   高さが4m近くある大型の五輪塔で、地輪に造
  立銘が刻まれている。これによると、旧惣墓の総
  供養塔として建立されたようで、正応五年(1292)
  という年号が見える。
   梵字は水輪の正面のみに刻まれ、従来の水輪を
  表す「バ」ではなく、阿弥陀の種子「キリーク」
  が見える。これも総供養塔の性格を物語っている
  ようだ。
   全体にどっしりとした重量感が感じられるのだ
  が、写真でも判るように、空輪と風輪がやや小振
  りで浮いているように見えた。案の定、これは近
  世の追補によるものらしい。
   このような鎌倉後期の石造美術品が、例え町中
  とはいえ、囲いも無く野晒しで残されているのは
  感動ものである。出来れば周囲の環境が、野辺の
  路傍であってくれればというのは、今やとても叶
  わぬ贅沢というものだろう。   
         

     
   
     西南院五輪塔 (和歌山県高野町)
    
    
   高野山の大門に最も近いこの寺には、現
  代庭園の鬼才重森三玲氏の作品が在る。そ
  の庭園の最奥に、美しい四基の五輪塔が並
  んでいた。
   いかにも古びて苔むしてはいるが、均整
  のとれた何と素晴らしい石塔であろうか。
   右端は弘安七年(1284)の作で、梵字は下
  から「ア・ビ・ラ・ウン・ケン」という大
  日報身真言が刻まれている。
   二番目の五輪塔は弘安四年(1281)で、梵
  字は五輪塔の種子である「キャ・カ・ラ・
  バ・ア」が見える。
   三番目は弘安六年(1283)で、種子は大日
  報身真言である。
   一番手前は地輪に建長八年(1256)の銘が
  あるが、上部は後補である。
   中の二基は一石で彫られているが、笠の
  反り具合や風輪と火輪の一体化など、全体
  にキリっとした美しさを見せている。
   奥の院に並ぶ桃山・江戸期の一連の武将
  の五輪塔を見ると美意識の退化は歴然とし
  ており、名品遍歴は自ずと鎌倉期へと回帰
  せざるをえなくなるのである。
          

     
     
     箱根山五輪塔 (神奈川県箱根町)
     
     
   曽我兄弟と虎御前の墓として案内されており、箱
  根の旧道を車で走れば芦ノ湯近くで目に付く。私は
  箱根へ行くたびに、この三基の五輪塔の前で車を止
  めることにしている。

   五輪とは、順に空輪・風輪・火輪・水輪・地輪の
  五つである。塔の形というのは不思議なもので、宝
  珠・請花・笠・塔身・基礎の五つが共通しており、
  五輪塔はその究極の姿という気がする。密教におけ
  る梵字では、キャ・カ・ラ・バ・アで表現される。
   二基の塔身部には、水輪を表す梵字「バ」の代わ
  りに地蔵菩薩立像が彫られており、この地に有った
  地蔵信仰の痕跡と考えられる。曽我兄弟の伝承は、
  各地の墓伝説の一つだろう。
   火輪の笠は時代が下がる程妙に反り返ってくると
  同時に、塔身とのバランスが崩れてくる。どの時代
  にも、誰もが美しいものを造ろうとしているのに、
  ほとんどの場合古いもの程良い。創造当初の美意識
  や情熱が失われ、技術や上辺の様式のみが継承され
  てしまうからである。
   その意味で鎌倉後期のこの作品は、五輪全ての均
  整がとれた最も石造美術の爛熟した時代に咲いた美
  しい花の一つだ。
          

  
   
     称名寺五輪塔 (神奈川県横浜市)
    
    
   北條実時が蒐集した金沢文庫で知られる称名寺
  には、金沢氏歴代の五輪塔が伝えられている。実
  時の子が二代顕時であり、三代から金沢氏を名乗
  って金沢貞顕と称した。
   実時が大和西大寺の叡尊に深く帰依したことが、
  鎌倉文化の資質に大きく影響したことは間違いな
  いだろう。
   文庫へ通じる道の右上小高い場所に、二基の五
  輪塔が祭られている。写真は向かって右の塔なの
  だが、従来は三代貞顕のものとされてきた。しか
  し、修復の際に左右が逆で、こちらが二代顕時の
  ものであることが判明したという。
   火輪の反りはやや弱弱しいが、厚みは当代を十
  分物語っている。関東式の基礎には格狭間が彫ら
  れるが、ここでは基礎が見られず、直接反花座の
  上に五輪塔が載っている。基礎が埋まっているの
  かどうか判らないが、大和様式の影響は出ている
  ものと思われる。
   従来顕時塔と言われていた左側の貞顕塔は、反
  花座に関東風の子持複弁が用いられており、また
  顕時塔に比して全体的に華奢な感じがするので、
  ほとんど鎌倉末期の作だろうと思われる。
   現在でも、逆のままの表示が刻まれた石碑が建
  っている。
          

   
   
     東昌寺五輪塔 (神奈川県逗子市)
     
      
   ついこの間まで、浪子不動と呼ばれた高養寺と
  いう寺院に在った石塔で、現在は同じ池子のこの
  寺の境内に移されている。
   全体のバランスを見たとき、地輪がやや高く造
  られていることに気付く。偈文を刻むスペースが
  必要だったからかもしれない。
   そこには、この石塔が行心という人の墓碑であ
  り、乾元二年(1303)の帰寂であったと記されてい
  るのである。
   この年代は鎌倉後期の中でも、石造美術が最も
  充実した時代であり、箱根の五輪塔に次ぐ傑作と
  してこの塔は重要文化財に指定されている。
   高さが1.4mとやや小振りながら、空輪・風輪
  の均整がとれ、火輪の軒は厚く豪壮で豪快に両端
  が反っている。
   水輪の正面にのみ、梵字の種子「バン」が刻ま
  れている。金剛界大日如来を象徴するのか、五輪
  の菩提門水輪を表すのかは判らない。
   地輪より下の基壇部分は後補なので判らないこ
  とばかりだが、反花座や格狭間は似合いそうもな
  いので、箱根のものと同様に関西式に近かったよ
  うな気がする。  
          

     
   
     中尊寺釈尊院跡五輪塔 (岩手県平泉町)
     
    
   写真の五輪塔は、有名な中尊寺金色堂の裏山の、
  全く観光ルートから外れた場所にひっそりと立って
  いる。一般は立ち入り禁止区域なので私達は寺務所
  にお願いをし、特別に見学を許可していただいた。
  熊の出没を注意されたので、ちょっと怖かった。
   
   鬱蒼として昼なお暗い雑木林の小高い所が墓地の
  ようになっており、かつて釈尊院という寺院が在っ
  た場所らしい。石塔や板碑が並んでいて、石造美術
  ファンにはたまらない環境である。

   とりわけこの五輪塔は、日本最古のものとして国
  の重要文化財に指定された貴重な遺品である。
   五輪を象徴するキャ・(カ)・ラ・バ・アの梵字と
  共に、仁安4年(1169)という飛び切り古い紀年銘が
  彫られている。
   風輪は喪失したらしいが、火輪の笠の反りが少な
  いことや厚さが無いこと、水輪が円形ではなくずっ
  しりと角張っていること、などがいかにも平安期と
  いう飛び切り古い時代を物語っている。
   鎌倉期より古い石造物には滅多にお目にかかれな
  いが、これは正に優美な稀代の傑作である。
           

   
        
     大聖寺跡五輪塔群 (大分県国東市)
    
    
   素晴らしい国東宝塔と板碑を保存す
  る長木家墓地が在る堅来からほど近い、
  来浦という集落の外れにこの寺院跡が
  ある。偶然通りかかって発見した場所
  である。古びた五輪塔が、私達を呼び
  止めたかの印象を受けた。
   大聖寺は延文三年(1358)の創建だか
  ら、南北朝中期ということになる。
   この地の豪族の供養塔群らしいが、
  ここには新旧取り混ぜて祀ってある。
  写真は特に古そうな部分を撮ったもの
  である。
   右端の五輪塔が一番気に入ったもの
  で、笠の傾斜である流れが直線的であ
  り、軒が薄く反りが緩やかであること
  や、水輪が扁平で大らかであることな
  ど、鎌倉初期をも思わせる風貌ではな
  いだろうか。寺の建立以前の墓とも考
  えられる。
   荒廃しきった寺院の跡、つわもの達
  の夢や怨念を連想するに相応しく、苔
  むした五輪塔達は無言のままだった。
             

    
   
     般若寺笠塔婆 (奈良県奈良市)
    
   
   この笠の付いた石塔婆は、かつては般若野と呼ば
  れた埋葬所に立っていたが、明治時代に般若寺境内
  に整備されたという。
   この塔婆が並立している姿は境内に異彩を放ち、
  何とも美しいのだが、それはきっと、鎌倉期らしい
  笠の軒反りや宝珠の形などと共に、塔身に彫られた
  梵字の見事さに起因しているらしい。
   石工の始祖伊行末の子伊行吉が、両親の菩提の為
  に建立したとされる高さ5mの見事な塔婆である。
   右の塔上部の梵字は釈迦三尊と胎蔵界五仏を、そ
  して左は阿弥陀三尊と金剛界五仏をそれぞれ種子で
  象徴しているのである。大日・阿しゅく・宝生・阿
  弥陀・不空成就の金剛界五仏はなんとかなるが、胎
  蔵界については、大日以外何かの本を見ないと思い
  付かない。
   知らないことを書いても仕方ないから書かない事
  にするが、「アーク・ア・アー・アン・アク」と読
  むことは出来そうだ。
   いずれにせよ、刷毛書の梵字の美しさには、見惚
  れてしまう程の魅力が感じられる。
           

      
     妙覚寺笠塔婆 (京都市上京区)
     
    
   堀川紫明から少し入った所に、日蓮宗由緒寺院
  の一つである妙覚寺が在る。
   永和4年(1378)の創建で、かつては塔頭百余と
  言われるほどの栄華を誇った。豊臣秀吉の時代に
  現在地に移転したという。
   本寺境内から少し北西に離れた場所に、妙覚寺
  墓地が在る。狩野元信・永徳など、狩野一族の墓
  が在ることで知られている。
   その墓地の一画に、写真の三基の笠塔婆が並ん
  で建っている。手前から日像・日蓮・日朗の報恩
  供養塔で、三菩薩題目笠塔婆と称している。
   応永7年(1400)の銘が刻まれており、移転前の
  草創期以来の石碑であることが判る。室町初期で
  あり、石造美術的にはやや衰退期となるのだが、
  写真で御覧の通り大変優雅で品格の備わった笠塔
  婆として貴重である。
   宝珠がやや扁平であることや、笠の縁取り装飾
  など、南北朝から室町にかけての特色が見える。
  南無妙法蓮華経の題目は見事な筆で、台座の反花
  装飾とともに風格を示している。
   
            

    
      
     談山神社摩尼輪塔 (奈良県桜井市多武峰)
      
      
   日本に残る唯一の木造十三重塔を観
  に、私達はこの美しい朱塗りで総桧皮
  葺の神社を訪ねた。紅葉で有名な多武
  峰(とうのみね)だが、この時は新緑
  の鮮やかな季節だった。
   俗界から仏界までの五十二位を一町
  毎に示した丁石の終点に、この妙な形
  の石塔が建っていた。
   柱身が八角の笠塔婆であり、摩尼輪
  塔と呼ばれている。乾元二年(1303)の
  刻銘があり、確かに笠の反りなどに鎌
  倉中〜後期の特徴が見て取れる。
   月輪内の梵字は胎蔵界大日如来を表
  す種子「アク」であり、塔身の八面は
  胎蔵界中台八葉院という曼荼羅を示し
  ている。梵字は薬研彫りの雄渾な筆致
  であり、とても美しい。
   類例のない石塔としても貴重な存在
  で、周辺の景色をも緊張させる存在感
  がある。
          

      
             
     飛鳥田神社御旅所五輪卒塔婆 (京都市伏見区)
    
     
   桂川下流、羽束師橋のたもとに、横大路中ノ
  庄という集落がある。この卒塔婆と五輪塔の所
  在を尋ねて御旅所まではたどり着いたのだが、
  それからが全く不明だった。困惑する私たちを
  救ってくれたのは、近所に住む歴史愛好の奥さ
  んだった。
   彼女の案内で、路地の奥、民家の陰の狭い空
  き地に、この五輪卒塔婆と五輪塔を発見するこ
  とが出来た。
   形の良い五輪塔と角柱が一石で彫られ、柱上
  部に定印の阿弥陀如来坐像、柱側面に脇侍の観
  音・勢至を梵字で刻んでいる。浄土信仰の現れ
  た三尊来迎像で、文永11年(1274)という銘が
  入った秀麗な供養目的の卒塔婆である。
   石表面の茶色の染みには、切られた怪異の血
  という奇談が残っているそうで面白い。
   写真の手前に少し写っているが、横に在る五
  輪塔も時代はほぼ同じと考えられ、五輪四方の
  梵字がきっちりと彫られた傑作である。
   何故このような辺鄙な場所に、隠れるように
  して建つに至ったのか、という両塔の遍歴の由
  来については結局判らなかった。
         

     
   
     高野山町石五輪卒塔婆 (和歌山県高野町)
    
    
   高野山の麓の慈尊院から壇上伽藍を経由して
  奥の院まで、一町毎に217基立てられた町石
  で、五輪塔の地輪を長くした卒塔婆である。現
  存する当初のものは180基弱とのことで、写
  真は奥の院20番の町石である。
   文永二年(1285)から年々造立されたといわれ、
  近年改修されたものも在ると聞く。写真のもの
  がいつ造立されたかは不明だが、火輪の笠の反
  り具合や各輪の姿からは、鎌倉後期の美意識が
  感じられ、古いものであることは確かである。
   彫られた梵字は上から五輪塔の種子「キャ・
  カ・ラ・バ・ア」だが、その下の本尊とおぼし
  き種子は苔むして判断出来なかった。
   それにしても、鎌倉期の石造卒塔婆を一町毎
  に見ながら、奥の院弘法大師廟所まで参詣をす
  るという、何とも贅沢な旅であった。
   御廟橋より奥は撮影禁止だったので、御廟の
  脇に在った36番目の町石と嘉元二年銘の美し
  い五輪塔は、眺めるだけでその写真は諦めた。
            

        このページTOPへ  次のページへ  前のページへ  石造美術TOPへ
  
     日本庭園TOPへ 
ロマネスクTOPへ 古代巨石文明TOPへ 総合TOPへ 掲示板へ