日本の石塔 五輪塔・その他
| 主に五輪塔を、そして五輪卒塔婆、笠塔婆など、その他の石造美術に 付いても探訪してみたい。中世以降、従来は五輪思想を象徴する供養塔 であったものが、次第に墓碑として建立されるようになった。 従って、五輪塔の探訪は必然的に墓地を歩くことになる。旅に出て墓 の写真ばかりを撮っている小生の姿を、友人達は不思議がるばかりだ。 |
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五輪塔群 石塔寺 滋賀県蒲生町 どんな信仰が こんな景観を生む のだろうか。 |
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| 興融寺五輪塔 (奈良県生駒市) |
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前述の円福寺で宝篋印塔の傑作を見た後、同じ生 駒有里の二つの寺、竹林寺とここ興融寺に残る五輪 塔などを見るために訪れた。 鎌倉後期の端正な竹林寺五輪塔と比べると、この 塔はいかにも荒削りであり、はじめの内は素朴さと 言うよりも稚拙さの方が強く感じられたのだった。 だが、表面的に感じていた印象とは別に、写真を 撮るためにファインダーを覗いていると、フォルム 全体に漂う落ち着いた貫禄と、プリミティブな美し さを備えていることに気が付いた。 てっぺんのずっしりとした空輪、厚めの火輪、少 し肩の張った水輪など、古武士の様な風貌である。 水輪の四方に梵字が彫られている。摩滅して判然 としないが、どうやら金剛界四仏ではないだろうか と思う。 基礎の地輪部分に年号らしき文字が彫られている が、拓本にでも採らねば判らないだろう。鎌倉中期 は下らないはずである。 帰る頃には、立ち去りがたいほどの愛着を感じる までになってしまった、不思議な五輪塔との出会い であった。 |
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| 額安寺五輪塔 (奈良県大和郡山市) |
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鎌倉時代の窯跡で知られる額田部という集落に この寺が在り、集落北側の鎌倉坂を登ったところ に寺の古い墓地がある。 ここに八基の五輪塔が一列でカギ形に並んでお り、その全てが鎌倉時代後期のものである。 しかも一括して重要文化財に指定されている、 というのは大変珍しい。 写真はその内の一基で、一番南側に建つ最大の 五輪塔である。高さは2.8m弱という大きな石塔 で、ここから西大寺忍性の墓誌を刻んだ蔵骨瓶が 発見されていることから、忍性の分骨をした塔で あろうと思われる。 各輪の均整が取れた見事な造形であり、特に笠 火輪の軒両端の反りが鎌倉らしく剛毅である。 空・風輪の姿も堂々としており、水輪のバラン スも申し分ない。 他の七基にも質の高い造形が成されており、そ の内の二基には、永仁五年(1297)の年号が刻まれ ている。 なお、額安寺には、門前の池の中島に建つ美し い宝篋印塔が在るのだが、雑草や植栽が繁茂して いてほとんど見えなかった。 |
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| 当麻北墓五輪塔 (奈良県葛城市) |
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当麻寺の北側斜面に古い共同墓地があり、その 登り口付近に中世の十三重石塔などと共に、この いかにも古そうな五輪塔が一段高い墓所の中に建 っているのが見えた。 最初の印象は、五輪塔というよりも宝塔ではな いかと思ったのだが、それは通常は球形に近いは ずの水輪が、ここではやや細長い壺型をしていた からだろう。 しかし、五輪塔の四方門を表す梵字種子が刻ま れているので、すぐに第一印象が間違いであった 事を知った。 写真は東側の発心門を表す「キャ・(カ)・(ラ) ・バ・ア」なのだが、風輪と水輪の梵字は摩滅し て見えない。梵字は誠に雄渾な筆致であり、古色 を示す深い薬研彫りの手法で刻まれている。 笠の屋根の傾斜は緩やかであり、軒反りは堂々 として厚く、地輪は低くどっしりとした感じを抱 かせてくれた。 まことに古色蒼然とした名品であり、その大ら かな荘重さは鎌倉時代を越え、平安末期をも想定 させてくれる。 この石塔が国の重要文化財に指定されている、 と聞いて驚いた。卓越した見識を持つお役人も居 たのだ、と認識を改めたのである。 |
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| 不動院五輪塔 (奈良県山添村) |
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奈良の都からは約20Kmと近いのだが、大和 高原の東山中と呼ばれるこの辺りはいきなり山 里へ飛び込んだような風情が感じられる場所で ある。 この寺は春日という集落の奥まった所にひっ そりと建っており、境内はのどかな山寺の雰囲 気であった。 小さな山門を入ると、すぐにこの五輪塔が目 に入る。 写真には写っていないのだが、基壇の側面は 二区に仕切られ、各区に格狭間が刻まれている。 その上に複弁反花座が設けられ、さらにその 上に五輪塔が載るという、大和に多い様式であ るとはいえ、山里の小寺とは思えぬ誠に立派な 構成になっていた。 基壇も入れて1.8mの高さなので、格別大き くはないのだが、きりっとした立ち姿が上へと 伸びて行くような鋭さを感じさせた。 火輪の軒は分厚く、両端が豪放な反りを見せ ており、やや扁平な水輪など鎌倉後期の優等生 といった愛すべき作品である。 地輪には法華経の中の偈が彫られ、正和二年 (1313)という年号が記されている。 ここにはもう一基、文保元年(1317)の銘があ る美しい宝篋印塔を見逃してはならない。 |
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| 西大寺奥の院五輪塔 (奈良県奈良市) |
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現在の西大寺の寺域からは西北に約1Km離れ た場所に、石塔院または奥の院と呼ばれる一画 が在る。そこが西大寺中興の祖である興正菩薩 叡尊の霊廟であり、写真の壮麗な五輪塔が祭ら れていた。 高さ3m以上の雄大な塔で、切石を組んだ二 段の基壇を築き、さらに繰形座を設けてその上 に五輪塔が据えられている。威風堂々たる格式 と、雄渾な造形性に圧倒され、思わずは目を見 張らされてしまった。 やや裾広がりな台形状の地輪の上に、どっし りと扁平な球体の水輪が載っており、質実な安 定感を感じさせる。 火輪の軒は厚く、その両端が微塵の躊躇も無 く強く反っている。 鎌倉時代後期の最も完成された様式の典型、 とも言えるような見事な五輪塔だ。余りに隙が 無さ過ぎて、やや愛嬌に欠けるとすら思えてし まうほどの絶品だと思う。 旅の途上で、こうした歴史的名作に出会える ことは無類の楽しみであり、更なる未知の美し い作品に対する好奇心を一層刺激されてしまう ことになるのである。 |
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| 忍辱山墓地五輪塔 (奈良県奈良市) |
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忍辱山円成寺に詣で運慶の傑作を拝した後、私 たちは山門を出てから、反対側の山へ続く細い道 を登って行った。この地区の老人達が楽しむゲー トボール用のグランドの脇を抜けると、そこが昔 からの共同墓地になっている。一人の老婆が、五 輪塔の所在と行き方を教えてくれた。 この墓地は大層古いようで、中世の石仏や石塔 が至る所に散在しており、まるで石造博物館を逍 遥する気分である。 五輪塔は松林に囲まれた一番高い位置に建って おり、墓地全体を供養するための塔としての役割 があったものと思われる。 火輪の軒の厚さや反り具合は典型的な鎌倉後期 の様式を示しているのだが、水輪の球形にやや不 安定な感じがするのは、下へ向かってややすぼん でいるからだろうか。 地輪の部分に元亨元年(1321)とあり、鎌倉末期 を証明している。 基礎に複弁反花座が設けられているのは、いか にも大和様式を象徴しているように感じられる。 麓へ戻る私と家人に、ゲートボールに興じてい た老人達が手を振っていた。 |
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| 伴墓五輪塔(奈良県奈良市) |
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三笠山山麓にはかつて東大寺の末寺が在ったが、 現在は三笠霊園となっており、その一画が東大寺 墓所となって伴(とも)墓と呼ばれている。 急な斜面を登った場所で、般若寺方面に眺望が 開けている。 片隅にひっそりと建つこの五輪塔は、よく見る と通常のものとは違う事が判る。それは火輪(笠) が通常の四角錐ではなく三角錐であること、また 笠の下端に軒の厚さが無いことである。 しかし、変則的な形式にもかかわらず、全体の フォルムがまことに美しい。 空輪が扁平であり、笠の屋根の線が外へ膨らん でおり、水輪がやや下膨れであることなどが、大 層古い形式である。 この五輪塔は、元は東大寺の境内に建っていた のだが、江戸時代にここへ移されたらしい。俊乗 房重源との関係が考えられるが、現在五輪塔の横 に「俊乗房重源之墓」と記した石碑の信憑性は不 明である。 この三角五輪塔を真似た後世の五輪塔が、同じ 墓所内に数基建っていた。 |
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| 上品蓮臺寺真言院五輪塔 (京都市上京区) |
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上品蓮臺寺は十二の子院が在ったことから、 十二坊と呼ばれるほどの京都有数の古刹であっ た。現在は四院を残すのみだが、それでも千本 通りに面して長い築地塀が続き、かつての威容 を留めている。 本寺の北に隣接するのが四院の一つ真言院で あり、その本堂裏の墓地の中央に写真の五輪塔 が建っている。 余り有名なものではないが、鎌倉期の特徴を 備えた美しい塔である。 ふっくらとした空輪、力強さの見える笠の軒 反り、球形のわりと高い水輪などが、鎌倉も比 較的後期ではないかと思わせる。 後述の知恩院のものにとても似ているような 気がした。 五輪塔に興味の無い人の目には、どれもこれ も同じ単なる墓石としか写らないらしい。しか し、部品は同じでも微妙な形の差や配列の違い によって、千差万別となる人の顔に似て、たっ た五つの要素から成るこの塔も、まことに様々 な表情を見せてくれるところが面白い。 源頼光が大蜘蛛を退治したと伝えられる頼光 塚が、墓地の隅に在った。 |
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| 行願寺五輪塔 (京都市中京区) |
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行願寺は俗に革堂と呼ばれ、西国札所第十九番 の霊場である。京都御所に近く、寺町通りに面し て建っている比較的こじんまりとした寺である。 私達は今回二度目の西国巡礼のために訪ねたの だが、前回見落としていたこの五輪塔を観る事も 目的の一つだった。 本堂の十一面観世音に詣でてから、境内の北西 隅に建っている写真の五輪塔を観た。高さが3m はありそうで、かなり大きい事に驚いた。 寺は桃山時代に一条からこの地へ移転して来た そうで、五輪塔もそれに伴い移築されたという。 平安時代の開基が加茂明神を勧請して建立された 石塔と伝えられるが、塔の様式は明らかに鎌倉期 のものなので単なる伝承だろう。 火輪(笠)の形がなんとも美しい。微妙な反り がこの時代の美意識を象徴しており、軒裏にもう 一重の垂木型作り出しが彫られているのが珍しい。 鎌倉後期ではないかと思う。 五輪塔の建立に直接関係は無いが、この塔は京 都に伝わる忌明(いみあけ)塔の一つで、七七忌 の喪明けに詣でるという室町時代以降の習俗があ ったという。 |
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| 宝篋院五輪塔 (京都市右京区嵯峨) |
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嵯峨野は何度も歩いていたのに、釈迦堂清涼寺の 近くに在るこのお寺には一度も入ったことが無かっ た。その名のとおり宝篋印塔が在るものと信じきっ ていたのだが、今回初めて訪ねて驚いた。 ここでの「宝篋院」は室町幕府の二代将軍足利義 詮の法名であり、境内に建っていた石塔は左に三重 石塔、右に写真の五輪塔の二基だったのである。 三重石塔は義詮の墓であり、五輪塔は楠木正行の 首塚であるらしい。南朝方の敵ながらその人柄を慕 った義詮が望んで、その傍らに葬ったとされている。 三重塔は古式であり、おそらく鎌倉初期、五輪塔 も笠の一部が欠けているものの、上から「キャ・カ ・ラ・バ・ア」の梵字も揃っており、笠の反りから も鎌倉末期は下らないだろうと思われる。 とすれば、初期とはいえ南北朝時代の正行と義詮 では、どうしても若干のズレが出てきてしまう。 言い伝えの真偽はともかく、嵯峨野の一画に古い 五輪塔が在ることは事実である。それも、風格と品 位のある、まことに優雅な石塔なのである。 考古学者ではない私達は、伝説を信じても何の損 にもならないのだから、信じてみるのもまた楽しい ものではある。 |
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| 知恩院五輪塔 (京都市東山区) |
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知恩院に鎌倉後期の五輪塔が在ると知り、 かつてなかなか見ることの出来なかった庭園 も拝観したかったので、久し振りにこの著名 な寺を訪ねてみた。 南北朝の雰囲気を残す庭園は大きな収穫だ ったが、この五輪塔の所在が判らず境内中を 探して歩いた。 結果的には、御影堂と阿弥陀堂を結ぶ渡り 廊下の脇に在ったのだが、案内等は一切され ていない。鎌倉期の石造美術より、甚五郎の 忘れ傘などといった怪しい名物のほうが大切 らしい。 高さが2m以上ある大きな五輪塔だが、形 の良い空輪と風輪、力強い軒反りを示す火輪、 ぽってりとした水輪など、完璧な保存状態の 均整のとれた美しい塔である。 奇妙な場所に位置しているのは、旧寺時代 から行願寺と同じ忌明塔とされていたため、 なかなか手がつけられなかったのではないか という説があるらしい。 |
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| 安楽寿院五輪塔 (京都市伏見区) |
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のどかだった竹田の里の安楽寿院周辺は、近年 住宅地として変貌している。境内のお堂の前に在 ったと思っていた五輪塔は、なんと老人ホームの 玄関脇に申し訳無さそうに建っていた。土地が切 り売りされてしまったようだ。 しかし、五輪塔の建つ一画は確保されており、 重要文化財として保護されているのは嬉しい。 高さ3mの大塔で、四方の梵字は無いが、五輪 全てが見事な統一感ある美しい姿をしている。 空輪と風輪がどっしりとした大きさであり、塔 全体に落ち着いた安定感を作り出していることに 気がついた。また、火輪の軒の厚さが堂々として おり、両端の反り具合に風格が感じられる。 近世の粗悪な五輪塔は、その辺りの要素が欠け ており、なんとも薄っぺらに見えてしまう。時代 の変遷と共に美意識も変化し、様式は多様に変化 していくのは当然なのだが、表面的な技術ばかり が進歩し、オリジナルの持っていた素朴な美しさ や精神性を凌駕したケースは、どの芸術の分野で もほとんど無いというのは不思議である。 |
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| 木津惣墓五輪塔 (京都府木津川市) |
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惣墓というイメージから、町外れの墓地を連想 していた。いくら探しても見つからないので、町 役場の観光課で尋ねてようやくたどり着けた。 判らぬ筈で、現在惣墓は喪失し、周辺はすっか り宅地化され、なんと目指す五輪塔は幼稚園の敷 地内に建っていたのである。 高さが4m近くある大型の五輪塔で、地輪に造 立銘が刻まれている。これによると、旧惣墓の総 供養塔として建立されたようで、正応五年(1292) という年号が見える。 梵字は水輪の正面のみに刻まれ、従来の水輪を 表す「バ」ではなく、阿弥陀の種子「キリーク」 が見える。これも総供養塔の性格を物語っている ようだ。 全体にどっしりとした重量感が感じられるのだ が、写真でも判るように、空輪と風輪がやや小振 りで浮いているように見えた。案の定、これは近 世の追補によるものらしい。 このような鎌倉後期の石造美術品が、例え町中 とはいえ、囲いも無く野晒しで残されているのは 感動ものである。出来れば周囲の環境が、野辺の 路傍であってくれればというのは、今やとても叶 わぬ贅沢というものだろう。 |
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| 西南院五輪塔 (和歌山県高野町) |
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高野山の大門に最も近いこの寺には、現 代庭園の鬼才重森三玲氏の作品が在る。そ の庭園の最奥に、美しい四基の五輪塔が並 んでいた。 いかにも古びて苔むしてはいるが、均整 のとれた何と素晴らしい石塔であろうか。 右端は弘安七年(1284)の作で、梵字は下 から「ア・ビ・ラ・ウン・ケン」という大 日報身真言が刻まれている。 二番目の五輪塔は弘安四年(1281)で、梵 字は五輪塔の種子である「キャ・カ・ラ・ バ・ア」が見える。 三番目は弘安六年(1283)で、種子は大日 報身真言である。 一番手前は地輪に建長八年(1256)の銘が あるが、上部は後補である。 中の二基は一石で彫られているが、笠の 反り具合や風輪と火輪の一体化など、全体 にキリっとした美しさを見せている。 奥の院に並ぶ桃山・江戸期の一連の武将 の五輪塔を見ると美意識の退化は歴然とし ており、名品遍歴は自ずと鎌倉期へと回帰 せざるをえなくなるのである。 |
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| 箱根山五輪塔 (神奈川県箱根町) |
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曽我兄弟と虎御前の墓として案内されており、箱 根の旧道を車で走れば芦ノ湯近くで目に付く。私は 箱根へ行くたびに、この三基の五輪塔の前で車を止 めることにしている。 五輪とは、順に空輪・風輪・火輪・水輪・地輪の 五つである。塔の形というのは不思議なもので、宝 珠・請花・笠・塔身・基礎の五つが共通しており、 五輪塔はその究極の姿という気がする。密教におけ る梵字では、キャ・カ・ラ・バ・アで表現される。 二基の塔身部には、水輪を表す梵字「バ」の代わ りに地蔵菩薩立像が彫られており、この地に有った 地蔵信仰の痕跡と考えられる。曽我兄弟の伝承は、 各地の墓伝説の一つだろう。 火輪の笠は時代が下がる程妙に反り返ってくると 同時に、塔身とのバランスが崩れてくる。どの時代 にも、誰もが美しいものを造ろうとしているのに、 ほとんどの場合古いもの程良い。創造当初の美意識 や情熱が失われ、技術や上辺の様式のみが継承され てしまうからである。 その意味で鎌倉後期のこの作品は、五輪全ての均 整がとれた最も石造美術の爛熟した時代に咲いた美 しい花の一つだ。 |
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| 称名寺五輪塔 (神奈川県横浜市) |
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北條実時が蒐集した金沢文庫で知られる称名寺 には、金沢氏歴代の五輪塔が伝えられている。実 時の子が二代顕時であり、三代から金沢氏を名乗 って金沢貞顕と称した。 実時が大和西大寺の叡尊に深く帰依したことが、 鎌倉文化の資質に大きく影響したことは間違いな いだろう。 文庫へ通じる道の右上小高い場所に、二基の五 輪塔が祭られている。写真は向かって右の塔なの だが、従来は三代貞顕のものとされてきた。しか し、修復の際に左右が逆で、こちらが二代顕時の ものであることが判明したという。 火輪の反りはやや弱弱しいが、厚みは当代を十 分物語っている。関東式の基礎には格狭間が彫ら れるが、ここでは基礎が見られず、直接反花座の 上に五輪塔が載っている。基礎が埋まっているの かどうか判らないが、大和様式の影響は出ている ものと思われる。 従来顕時塔と言われていた左側の貞顕塔は、反 花座に関東風の子持複弁が用いられており、また 顕時塔に比して全体的に華奢な感じがするので、 ほとんど鎌倉末期の作だろうと思われる。 現在でも、逆のままの表示が刻まれた石碑が建 っている。 |
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| 東昌寺五輪塔 (神奈川県逗子市) |
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ついこの間まで、浪子不動と呼ばれた高養寺と いう寺院に在った石塔で、現在は同じ池子のこの 寺の境内に移されている。 全体のバランスを見たとき、地輪がやや高く造 られていることに気付く。偈文を刻むスペースが 必要だったからかもしれない。 そこには、この石塔が行心という人の墓碑であ り、乾元二年(1303)の帰寂であったと記されてい るのである。 この年代は鎌倉後期の中でも、石造美術が最も 充実した時代であり、箱根の五輪塔に次ぐ傑作と してこの塔は重要文化財に指定されている。 高さが1.4mとやや小振りながら、空輪・風輪 の均整がとれ、火輪の軒は厚く豪壮で豪快に両端 が反っている。 水輪の正面にのみ、梵字の種子「バン」が刻ま れている。金剛界大日如来を象徴するのか、五輪 の菩提門水輪を表すのかは判らない。 地輪より下の基壇部分は後補なので判らないこ とばかりだが、反花座や格狭間は似合いそうもな いので、箱根のものと同様に関西式に近かったよ うな気がする。 |
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| 中尊寺釈尊院跡五輪塔 (岩手県平泉町) |
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写真の五輪塔は、有名な中尊寺金色堂の裏山の、 全く観光ルートから外れた場所にひっそりと立って いる。一般は立ち入り禁止区域なので私達は寺務所 にお願いをし、特別に見学を許可していただいた。 熊の出没を注意されたので、ちょっと怖かった。 鬱蒼として昼なお暗い雑木林の小高い所が墓地の ようになっており、かつて釈尊院という寺院が在っ た場所らしい。石塔や板碑が並んでいて、石造美術 ファンにはたまらない環境である。 とりわけこの五輪塔は、日本最古のものとして国 の重要文化財に指定された貴重な遺品である。 五輪を象徴するキャ・(カ)・ラ・バ・アの梵字と 共に、仁安4年(1169)という飛び切り古い紀年銘が 彫られている。 風輪は喪失したらしいが、火輪の笠の反りが少な いことや厚さが無いこと、水輪が円形ではなくずっ しりと角張っていること、などがいかにも平安期と いう飛び切り古い時代を物語っている。 鎌倉期より古い石造物には滅多にお目にかかれな いが、これは正に優美な稀代の傑作である。 |
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| 大聖寺跡五輪塔群 (大分県国東市) |
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素晴らしい国東宝塔と板碑を保存す る長木家墓地が在る堅来からほど近い、 来浦という集落の外れにこの寺院跡が ある。偶然通りかかって発見した場所 である。古びた五輪塔が、私達を呼び 止めたかの印象を受けた。 大聖寺は延文三年(1358)の創建だか ら、南北朝中期ということになる。 この地の豪族の供養塔群らしいが、 ここには新旧取り混ぜて祀ってある。 写真は特に古そうな部分を撮ったもの である。 右端の五輪塔が一番気に入ったもの で、笠の傾斜である流れが直線的であ り、軒が薄く反りが緩やかであること や、水輪が扁平で大らかであることな ど、鎌倉初期をも思わせる風貌ではな いだろうか。寺の建立以前の墓とも考 えられる。 荒廃しきった寺院の跡、つわもの達 の夢や怨念を連想するに相応しく、苔 むした五輪塔達は無言のままだった。 |
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| 般若寺笠塔婆 (奈良県奈良市) |
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この笠の付いた石塔婆は、かつては般若野と呼ば れた埋葬所に立っていたが、明治時代に般若寺境内 に整備されたという。 この塔婆が並立している姿は境内に異彩を放ち、 何とも美しいのだが、それはきっと、鎌倉期らしい 笠の軒反りや宝珠の形などと共に、塔身に彫られた 梵字の見事さに起因しているらしい。 石工の始祖伊行末の子伊行吉が、両親の菩提の為 に建立したとされる高さ5mの見事な塔婆である。 右の塔上部の梵字は釈迦三尊と胎蔵界五仏を、そ して左は阿弥陀三尊と金剛界五仏をそれぞれ種子で 象徴しているのである。大日・阿しゅく・宝生・阿 弥陀・不空成就の金剛界五仏はなんとかなるが、胎 蔵界については、大日以外何かの本を見ないと思い 付かない。 知らないことを書いても仕方ないから書かない事 にするが、「アーク・ア・アー・アン・アク」と読 むことは出来そうだ。 いずれにせよ、刷毛書の梵字の美しさには、見惚 れてしまう程の魅力が感じられる。 |
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| 妙覚寺笠塔婆 (京都市上京区) |
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堀川紫明から少し入った所に、日蓮宗由緒寺院 の一つである妙覚寺が在る。 永和4年(1378)の創建で、かつては塔頭百余と 言われるほどの栄華を誇った。豊臣秀吉の時代に 現在地に移転したという。 本寺境内から少し北西に離れた場所に、妙覚寺 墓地が在る。狩野元信・永徳など、狩野一族の墓 が在ることで知られている。 その墓地の一画に、写真の三基の笠塔婆が並ん で建っている。手前から日像・日蓮・日朗の報恩 供養塔で、三菩薩題目笠塔婆と称している。 応永7年(1400)の銘が刻まれており、移転前の 草創期以来の石碑であることが判る。室町初期で あり、石造美術的にはやや衰退期となるのだが、 写真で御覧の通り大変優雅で品格の備わった笠塔 婆として貴重である。 宝珠がやや扁平であることや、笠の縁取り装飾 など、南北朝から室町にかけての特色が見える。 南無妙法蓮華経の題目は見事な筆で、台座の反花 装飾とともに風格を示している。 |
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| 談山神社摩尼輪塔 (奈良県桜井市多武峰) |
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日本に残る唯一の木造十三重塔を観 に、私達はこの美しい朱塗りで総桧皮 葺の神社を訪ねた。紅葉で有名な多武 峰(とうのみね)だが、この時は新緑 の鮮やかな季節だった。 俗界から仏界までの五十二位を一町 毎に示した丁石の終点に、この妙な形 の石塔が建っていた。 柱身が八角の笠塔婆であり、摩尼輪 塔と呼ばれている。乾元二年(1303)の 刻銘があり、確かに笠の反りなどに鎌 倉中〜後期の特徴が見て取れる。 月輪内の梵字は胎蔵界大日如来を表 す種子「アク」であり、塔身の八面は 胎蔵界中台八葉院という曼荼羅を示し ている。梵字は薬研彫りの雄渾な筆致 であり、とても美しい。 類例のない石塔としても貴重な存在 で、周辺の景色をも緊張させる存在感 がある。 |
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| 飛鳥田神社御旅所五輪卒塔婆 (京都市伏見区) |
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桂川下流、羽束師橋のたもとに、横大路中ノ 庄という集落がある。この卒塔婆と五輪塔の所 在を尋ねて御旅所まではたどり着いたのだが、 それからが全く不明だった。困惑する私たちを 救ってくれたのは、近所に住む歴史愛好の奥さ んだった。 彼女の案内で、路地の奥、民家の陰の狭い空 き地に、この五輪卒塔婆と五輪塔を発見するこ とが出来た。 形の良い五輪塔と角柱が一石で彫られ、柱上 部に定印の阿弥陀如来坐像、柱側面に脇侍の観 音・勢至を梵字で刻んでいる。浄土信仰の現れ た三尊来迎像で、文永11年(1274)という銘が 入った秀麗な供養目的の卒塔婆である。 石表面の茶色の染みには、切られた怪異の血 という奇談が残っているそうで面白い。 写真の手前に少し写っているが、横に在る五 輪塔も時代はほぼ同じと考えられ、五輪四方の 梵字がきっちりと彫られた傑作である。 何故このような辺鄙な場所に、隠れるように して建つに至ったのか、という両塔の遍歴の由 来については結局判らなかった。 |
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| 高野山町石五輪卒塔婆 (和歌山県高野町) |
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高野山の麓の慈尊院から壇上伽藍を経由して 奥の院まで、一町毎に217基立てられた町石 で、五輪塔の地輪を長くした卒塔婆である。現 存する当初のものは180基弱とのことで、写 真は奥の院20番の町石である。 文永二年(1285)から年々造立されたといわれ、 近年改修されたものも在ると聞く。写真のもの がいつ造立されたかは不明だが、火輪の笠の反 り具合や各輪の姿からは、鎌倉後期の美意識が 感じられ、古いものであることは確かである。 彫られた梵字は上から五輪塔の種子「キャ・ カ・ラ・バ・ア」だが、その下の本尊とおぼし き種子は苔むして判断出来なかった。 それにしても、鎌倉期の石造卒塔婆を一町毎 に見ながら、奥の院弘法大師廟所まで参詣をす るという、何とも贅沢な旅であった。 御廟橋より奥は撮影禁止だったので、御廟の 脇に在った36番目の町石と嘉元二年銘の美し い五輪塔は、眺めるだけでその写真は諦めた。 |
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