板碑紀行(武蔵以外全国の板碑)
    
     
   板碑といえば一般的には武蔵
  の青石塔婆が先ず挙げられるの
  だが、同じ青石の阿波板碑や、
  他の石を用いた魅力的な板碑が
  全国に点在している。
   東北、阿武隈、阿波、国東な
  どの板碑を探訪する旅に皆様も
  どうぞお出かけください。








                  本篠板碑
           
大分県杵築市山香
            建武元年(1334)
     国東半島には古式の板碑が多い
    
       
     

    
 
     中別所板碑群 (青森県弘前市)
     
    
   満開の桜を見物するために訪れた弘前
  で、鎌倉期の自然石塔婆が近くに在ると
  聞き訪ねてみた。
   そこはリンゴを栽培する果樹園の真っ
  只中で、若葉の向こうに雪の岩木山を望
  めるという絶好の眺望が開けていた。
   木の柵に囲まれて、大小三十基余りの
  石塔婆が保存されている。
   そのほとんどが鎌倉中期から後期のも
  ので、最古は弘安十年(1287)との事だが
  大部分は摩滅して読めず、また資料不足
  のためどれかは確認出来なかった。
   写真は並んだ塔婆群の最奥で、種子は
  金剛界大日如来を象徴する「バン」が多
  く、中には右側の阿弥陀三尊の種子であ
  る「キリーク・サ・サク」も見られた。
   自然石ならではの豪放な塔婆であり、
  板碑かどうかを論ずる前にすっかり感激
  してしまった。
   大半はこの地方の豪族の建立であり、
  辺境に於ける中世の信仰の形態が推測で
  きて興味深い。
            

   
   
     東正寺磨崖板碑 (山形県南陽市)
   
   
   南陽市の赤湯温泉街から、山形へ向かう
  旧街道を少し行くと、左手に小高い岩山が
  見えてくる。道側に面した岩壁の上下二段
  に、十数基の陽刻された板碑が並んでいる
  のが下からも見えた。
   写真は最も重要な上段の五基で、梵字種
  子は左から「アク・キリーク・サク・キリ
  ーク・サ」である。
   最初の二基は不空成就如来と阿弥陀如来
  を表しており、下部に永仁二年(1294)の銘
  が彫られている。逆修とか為往生浄土とい
  った文字が見え、造立の意図が知れる。
   右の三基は、併せて阿弥陀三尊となって
  いる。同じく永仁二年の銘が見え、為悲母
  幽儀とか為逆修善根などと彫られていて、
  死者の供養と自分の逆修を意図していたこ
  とが良く判る。
   磨崖板碑とはいえ、鋭い山形や剛毅な額
  や梵字など、単体の板碑と変わらない荘厳
  な美しさを示している。
         

      
      
     漆山大仏板碑 (山形県南陽市)
      
      
   南陽市の各地には、比較的大型の板碑が数多く残
  り幅広く分布している。
   “大仏”というのは地名で、「おおぼとけ」と読
  む南陽市の西部漆山地区にある字名なのである。

   付近に大きなお寺でもあるのかと思っていたら、
  何と板碑は雑木林の中に孤高な姿でポツンと立って
  いた。
   先ずは4m以上あると思われる、その高さに圧倒
  された。大きければなんでも良いというわけではな
  いが、石が高く屹立することから生じる緊迫感は格
  別である。美しさを有していれば、なお素晴らしい。

   九州の板碑の様式に似て、頭部に二条線を彫り、
  額が大きく弧状に張り出している。これは、南陽市
  の他の板碑群にも共通した特徴である。
   種子はキリーク(阿弥陀)で、蓮座に乗った形で
  やや浅いが薬研彫りで表されている。
   全体の剛毅なプロポーションに比して、梵字が華
  奢な観は間逃れ得ないような気はする。それは、文
  和三年(1354)という銘が示すように、南北朝前期と
  いう時代性を物語っているのだろう。
   鎌倉期の豪壮な筆致、豪快な薬研彫りと比べてし
  まえば見劣りはするが、鄙にも稀といった風情を感
  じさせるには十分である。
       

      
      
     竹原三間地板碑 (山形県南陽市)
      
     
   先述の大仏板碑から国道113号線を西へ4Km
  ど行くと、
JRの梨郷(りんごう)駅に出る。駅から
  北へ500mほど行った山裾のお堂の脇に、三基の
  板碑が並んで建っていた。
   多くの資料には「梨郷如来堂板碑」と記されてい
  るのだが、現地には「竹原三間地板碑群」と表記さ
  れていたのでこちらを採用した次第である。

   三基の内の左端に建っているのが写真の板碑で、
  種子はア(胎蔵界大日)、蓮座に乗った大らかな筆
  致である。
   写真では良く見えないが、蓮座の上、梵字を囲む
  五重の線で円形の月輪が彫られているのが珍しい。
   蓮座の下中央に、正元元年(1259)という鎌倉中期
  の魅力的な年号が刻まれている。山形県下の在銘板
  碑としては、間違いなく最古のものだろう。
   種子の筆致が大胆で、薬研彫りの角度が緩いのは
  鎌倉中期以前の特徴であるが、ここでもその時代性
  が明らかである。おそらく関東で修行したような、
  きちっとした石工が当地方に存在していたのだろう。

   中央に建つ板碑は似た形式なのだが、惜しいこと
  に江戸期に己待供養塔と追刻されてしまっている。
   右端の板碑は摩滅しており、種子も消えてしまっ
  ていた。
        

       
      
     大友氏邸板碑 (山形県南陽市)
      
    
   前述の竹原三間地板碑群から山裾伝いに西へ行く
  と、同じ竹原の里の外れあたりに大友氏のお宅があ
  る。裏山への立ち入りをお許しいただき、少し登っ
  た所にこの堂々とした板碑が立っていた。

   頭部の山形、二条線の切り込み、額部両端の面取
  りなど、様式は前述の二基ととても似ている。
   この板碑の種子はバンで、金剛界大日如来を象徴
  している。梵字の筆致は剛健で、薬研彫りの深く鋭
  いことが鎌倉中期以降の最盛期を物語っているよう
  に感じられた。
   摩滅した碑面からは明確に読み取ることは出来な
  かったが、資料によれば嘉暦二年(1327)という年号
  が彫られているらしい。

   青石(緑泥片岩)に彫られた梵字の美しさに魅了
  されて始まった板碑行脚なのだが、こうした素朴な
  中に深い信仰心と時代の美意識が詰め込まれたよう
  な地方の板碑の魅力にも、またなかなか捨て難いも
  のが感じられて嬉しい。

   この板碑まで登って行く山道の途中、ちょっと崖
  を下ったあたりにもう一基の板碑が立っていた。
   小振りだが同じ形式であり、種子も同じバンだっ
  た。嘉暦板碑を模して造立された、後世の模碑だろ
  う。
         

      
    
     八斗蒔板碑群 (福島県須賀川市岩瀬)
    
    
    阿武隈川流域には、阿弥陀三尊の来迎板碑が数多く
  分布している。北は福島市から、南は白河市までの狭
  い範囲であるが、鎌倉から南北朝を中心とした時代に
  造立されたものが大半である。

   写真の板碑は、旧岩瀬村の柱田という場所に在る。
  ここには、かつて近辺に散在していた石田・横耕地の
  もの各一基と、写真の八斗蒔のもの二基、計四基の板
  碑が集められている。いずれも、阿弥陀三尊来迎図像
  が浮き彫りされており、四基の並ぶ様は周囲の景観も
  併せ壮観だった。
   雲に乗り、西方浄土の極楽から迎えに来る阿弥陀様
  への信仰は、闇黒の中世ならずとも、充分今日でも通
  用しそうだ。阿弥陀如来の両脇で腰をかがめ、迎えの
  意志を切に表現する、観音菩薩と勢至菩薩の図像もま
  ことに美しい。

   彫刻の技術としてはさしたる逸品とも思えないが、
  浄土への想いが創出した像容が放つ情念が、野仏の如
  き末路の哀れさと重なって、まことに美しい叙情的風
  景となっている。板碑というよりも、野仏と考えたほ
  うがふさわしいのかもしれない。 
         

      
     
     宝来寺板碑 (福島県須賀川市)
    
    
   須賀川駅は市の中心からは少し離れており、その
  北側に森宿という地域が広がっている。この寺はそ
  の中の下宿という集落に在る、住職不在の小さな寺
  である。
   本堂の前に三基の図像板碑が並んで建っていた。
  いずれも阿弥陀三尊来迎図像板碑で、三基並んだ姿
  は大変荘厳に見えた。
   写真は左端のもので、高さは1m弱、凸型にくり
  抜かれた中に、三尊像が浮き彫りにされている。
   阿弥陀如来は飛雲に乗った豪華な蓮座の上に、正
  面を向きながら来迎印を結んで直立している。なか
  なか威厳に満ちたお姿である。
   左の勢至菩薩は中央を向き、少しだけ腰を曲げ、
  両手を合わせて合掌している。頭部が損傷している
  のが残念である。
   右は観音菩薩で、更に深く腰を曲げながら、蓮華
  を捧げ持って来迎の意図を伝えている。
   難解な梵字や経文が示す教義に比べ、図像が表現
  する説得力は、庶民にとっては最も端的に理解しや
  すい具象だったのだろう。図像による表現という意
  味では、西洋のイコンや柱頭彫刻に似ているのかも
  しれない。
        

     
      
     芦田塚板碑 (福島県須賀川市)
      
      
   須賀川市外の東側を流れる阿武隈川に沿って
  浜尾という地域が広がり、その鹿島という場所
  の保育園敷地内に、この珍しい双式来迎板碑が
  保存されている。
   一つの石を二つの凸型にくり抜き、二組の阿
  弥陀三尊来迎の図像が彫られているのである。
  梵字による双式は知られるが、図像によるもの
  はこの阿武隈川流域に数基見られるだけかもし
  れない。
   右の三尊図像はやや摩滅しているが、正面に
  阿弥陀如来立像、左右に脇侍の観音・勢至両菩
  薩が向かい合っているという、前述の図像とも
  似た様式である。
   問題は左側の図像で、三尊とも右下方を向い
  ており、今にも左上方から飛雲に乗って降りて
  くるといった動きの感じられる場面である。
   さらに、勢至菩薩が先端に何かが付いた長い
  竹ざおの様なものを捧げているが、これは来迎
  する死者を荘厳するための宝蓋だろうと思う。
  図像板碑では大変珍しい表現である。
        

    
             
     陽泉寺板碑 (福島市)
    
    
   前述の通り、福島県の阿武隈川流域には、阿
  弥陀三尊来迎図を描いた板碑や石仏が数多く分
  布している。
   この陽泉寺のものは中でも最高傑作とされ、
  石仏として扱う向きもあるが、表面を加工され
  た余り厚さの無い自然石に図像が薄肉彫りされ
  ているので、ここでは前述のものと同様に、板
  碑として掲載した。
   境内の小さなお堂に祭られているのだが、格
  子が邪魔をして写真を撮るのは至難である。
   極楽浄土から観音・勢至の両菩薩を脇侍に従
  え、雲に乗って来迎する阿弥陀如来を描いてい
  る。頭光が放射状に輝き来迎印を結ぶ弥陀、蓮
  台を前に差し出す観音、合掌する勢至、全てが
  左上から右下へと流れるような動きとして描か
  れている。
   磨耗も激しいが、荘厳な場面を描写した美し
  い図像である。正嘉二年(1258)という鎌倉中期
  の作であり、石造美術の最も充実した時代の貴
  重な遺産のひとつである。
         

     
       
     柏木板碑 (群馬県神流町)
    
    
   群馬県と埼玉県との県境を流れる神流(かんな)
  川の上流に位置する万場町は、近年さらに上流の
  中里村と合併して神流町となった。合併すると、
  唐突であったり無意味であったりする名前が多い
  のだが、この神流(かんな)というのはとても魅
  力的な良い名前だ。

   旧万場町の柏木という集落の、辻のお堂の中に
  古い板碑が数基祀られていた。
   一基は阿弥陀三尊板碑だが、表現が華奢なので
  やや時代は下がるかもしれない。
   注目したのは、写真の阿弥陀三尊来迎図像板碑
  である。
   乾元二年(1303)という、れっきとした鎌倉後期
  の紀年銘が確認できる。
   雲に乗った三尊の立像で、阿弥陀の後光や蓮台
  や雲の陰刻が見事である。ライティングが無いの
  で、その美しさを写真で表現するのは難しいが、
  その荘厳な雰囲気は想像出来るはずである。
   同じような形式の図像板碑が埼玉県の児玉にも
  見られるが、この辺りは群馬県とはいえ、武蔵板
  碑の分布圏であり、大きな影響を受けたものと考
  えられる。
         

     
      
     慈尊寺板碑 (三重県上野市)
     
    
   名阪国道を白樫インターで下り、西北に進むと
  白樫の集落がある。慈尊寺はその奥のほうの高台
  に建っており、苔むした石垣や石段が風格のある
  寺風を伺わせた。

   板碑は屋根のついた囲いの中に、光背のある地
  蔵石仏と並んで立っていた。
   石質が安山岩であり、月輪や蓮座が線彫りなの
  でやや荒削りな印象を受ける。しかし、梵字種子
  のキリーク(阿弥陀)は流麗な筆致であり、その
  彫りは薬研彫りの美しいものである。

   しかし、この板碑の特徴は、元亨元年(1321)と
  いう鎌倉後期の年号と共に、碑面下部に五行でび
  っしりと彫り込まれた願文にあるだろう。在俗出
  家した尼とその一族が、いかに信仰篤く帰依した
  かが彫られ、極楽浄土への強い欣求が込められて
  いる。
   板碑とはいったい何を目的として建立されたの
  だろうか、という疑問に明確な答えとなるであろ
  う貴重なテキストの一つである。

     
     
     了蓮寺板碑 (京都市左京区)
     
     
   了蓮寺は百万遍として名高い知恩寺の塔頭の一
  つであり、境内の東側に位置している静かな寺で
  ある。
   一般的な拝観は難しいが、事前にお願いしてあ
  ったので、書院へと通していただき拝見すること
  が出来た。
   石の材質が京都には無い結晶片岩であることか
  ら、阿波の板碑が連想されたが、どういう経緯の
  石なのかは確証が無い。
   高さ2mの大型板碑で、中央に阿弥陀如来の図
  像が陰刻で彫られている。光明を四方へ放つ来迎
  相の阿弥陀立像であるが、写真でも判る通りかな
  り摩滅しているのがとても残念である。
   下部の蓮座は深く彫られているので良く見える
  が、その両側に宝瓶の無い供花のみが描かれてい
  るのは余りはっきりとはしない。
   いずれにせよ、京都では類例の無い阿弥陀図像
  板碑であり、神々しいまでに荘厳な雰囲気を示し
  ていることに感動した。
   京都では、西向寺の地蔵図像板碑、東山正法寺
  の阿弥陀三尊種子板碑と併せて、三板碑と呼ばれ
  ているそうである。
         

     
     
     天王極楽寺板碑 (京都府京田辺市)
    
    
   関西にも板碑は分布しているが、武蔵や阿波のよう
  な青石板碑は少ない。京都では、西向寺の地蔵板碑、
  了蓮寺の弥陀板碑、正法寺の青石板碑を併せて、京都
  の三板碑と称しているが、元来板碑の文化はさほど定
  着しなかったようである。
   写真の板碑は、府下田辺市天王の極楽寺に在る、正
  中二年(1325)という鎌倉時代の銘の入った貴重品であ
  る。同市高船の同じ極楽寺という名前の寺にも、やや
  細長い鎌倉期の板碑が在るが、梵字の美しさで天王の
  ものに魅力を感じる。
   元来は天王集落の共同墓地に立っていたそうで、保
  護のために極楽寺境内へ移築したとのことであった。
   花崗岩製で高さは107cm、ややぼてっとした厚み
  がある。青石の薄さが身上の武蔵型板碑を見慣れた目
  には、やや違和感が拭えないが、しばらく眺めている
  内に次第に愛着を感じてくる。素材としての石が示す
  多様な表情が、とても温かいのである。
   梵字の種子はここでも御馴染み阿弥陀三尊で、「キ
  リーク・サ・サク」がそれぞれ阿弥陀・観音・勢至を
  表している。薬研彫りではないが、細く深く刻まれた
  種子には、それなりに優雅な美しさが感じられた。
           

      
      
     高船極楽寺板碑 (京都府京田辺市)
     
    
   既述の天王極楽寺からさらに南へ1Kmほど行っ
  た奈良県境に近い高船の里にも、同じ極楽寺とい
  う名前の寺がある。

   この細身の板碑は高さが
177cmという大型で、
  花崗岩で出来た何とも姿の美しい板碑である。
   頭部山形の形状が特徴的である。内側への反り
  が大きいので、先端が鋭く尖って見える。
   彫りの浅い二条線や小さな額は天王極楽寺の正
  中板碑にとても類似しているのだが、こちらには
  銘が彫られていないのでどちらが影響したのかは
  判らない。

   梵字種子はキリーク(阿弥陀)一尊で、月輪は
  薄い浮彫のようにも見えるが蓮座は無い。
   これだけ完成度の高いフォルムを造り出してお
  きながら、種子の下部の細長いスペースに何も彫
  られていないのが不思議であり、もしかすると未
  完成の板碑なのかも知れない。

   いずれにせよ、国東財前家墓地の板碑にも似た
  美しい形状で、おそらくは鎌倉末期を下ることは
  ないだろうと思う。
   
       

     
    
     熊野速玉大社板碑 (和歌山県新宮市)
    
   
   熊野三山の新宮であるこの社に、鎌倉期と思われ
  る板碑が在ることは知っていた。しかし社務所の若
  い宮司に尋ねてみても、その所在は不明だった。
   境内を隅々まで探し、参道から外れた殿舎の脇に
  祀られたこの二基の板碑をようやく発見した。
   右は高さ60cm強という小柄な板碑だが、何とも
  魅力的だ。低い山形と額部分の意匠が簡潔であり、
  梵字や蓮座のバランスがとても美しいからである。
   種子は「キリーク」で、阿弥陀如来を表現してい
  る。神社にキリークは不似合いだが、ここは熊野、
  神仏混
淆の名残なのだろう。
   種子は薬研彫りで端正な書体であり、それを囲む
  月輪や蓮の台座は半肉彫りで少し浮き出ており、地
  味だが洒落たデザインとなっている。
   石の材質は石英を含んだ火山岩らしく、青石とは
  全く異質の素朴な美しさである。
   左の小さい方の板碑は、やや時代が下がるかもし
  れない。梵字は「ア」で通常は胎蔵界大日如来を表
  すが、いかにも彫りが弱々しく、南北朝から室町初
  期のものかもしれない。
            

    
    
     下浦板碑 (徳島県石井町)
    
    
   武蔵の青石(緑泥片岩)に匹敵する結晶片岩の産地
  であった阿波の吉野川流域には、庭園文化が開けた事
  のほかに、高度な造形美を持った板碑の分布が見られ
  る。四国八十八ケ所巡拝の折に、阿波の板碑の代表作
  を十数基見たのだが、この優雅な板碑が最も印象に残
  った。
   素材は結晶片岩で白く苔むしており、摩耗も進んで
  梵字などの切り口も損傷していた。それでも気に入っ
  たのは、この板碑独特の大らかな優しさから、関東武
  士の逆修とは異質の温厚な信仰が想像されたからだっ
  た。
   種子は最も事例の多い阿弥陀三尊で、前述の板碑と
  も共通の梵字「キリーク・サ・サク」が、月輪に囲ま
  れて大きな連座に乗っている。
   彫りは薬研彫りだが線が柔らかいので温和であり、
  まことに風格と品位に満ちた美しい板碑である。
   背面に年号が刻まれており、文永七年(1270)と読め
  る。後日資料で調べてみると、阿波最古の在銘遺品と
  のことで、改めて感慨を覚えた記憶がある。
   基盤をコンクリートで固めてあったが、板碑や石造
  品の保存方法は難しい問題である。在るがままで自然
  消滅も止む無しとするか、本物は博物館に入れて完璧
  なレプリカを据えるかのどちらかだろう。「野暮な」
  囲いや柵は論外である。 
           

    
    
     権現谷曼荼羅板碑 (福岡県飯塚市庄内町)
     
   
   九州の庭園、特に英彦山の遺構群を見るために
  北九州を訪ね、その機会にかねてより切望してい
  た石造美術も併せて見る事が出来た。
   数ある中で最も印象に残った二つの作品を、紹
  介させていただきたい。 
   その一つが、庄内町筒野という山の中に在るこ
  の板碑である。曼荼羅板碑という特異性もさる事
  ながら、刻まれた梵字の美しさに圧倒されてしま
  った。
   胎蔵界の大日如来を表す種子アークを中心とし
  た、曼荼羅の中心部である中台八葉院が梵字で描
  かれ、上部に五智如来像、下部に英彦山三所権現
  の神像三体が描かれている。英彦山への裏街道に
  位置しているのだという。
   養和二年(1182)の造立銘があり、資料として
  も貴重な存在である。厚手の自然石が使われてお
  り、デザインとしても見事な板碑だろう。
   関東の武蔵型板碑と比較するとかなり古いにも
  かかわらず、薬研彫りされた梵字は素朴ながらキ
  リリとした彫りで、上下の像と見事に調和してい
  るのである。まことに重厚で、美術的にも迫力に
  満ちた傑作であると言える。
         

    
    
     鎮国寺板碑 (福岡県宗像市玄海)
    
   
   同じく北九州で見た美しい石塔婆であり、我が国最
  古の板碑であるとも言えるのである。
   鎮国寺本堂の東北に小さな丘が在り、その雑木林の
  中にポツンとこの阿弥陀如来石塔婆が立っていた。
   この板碑の所在について尋ねた寺の若い僧は、その
  存在すら知らなかった。年輩の僧が教えてくれたのだ
  が、礼を言って失礼する私達の背後で、若い僧を叱責
  する先輩僧の声が聞こえた。
   板碑に描かれた線彫りの阿弥陀如来像は、素朴なが
  ら温かさの感じられる美しい図像であった。
   苔むし変色してはいるものの、二重円の光背を持つ
  穏やかな表情の阿弥陀像には感動した。線彫りは決し
  て安易な表現方法ではなく、むしろ信仰心を込めねば
  決して彫れない至難の技なのだという。
   像の下に願文が彫られており、元永二年(1119)と
  いう年号も鮮明に見る事が出来る。板碑としては最古
  の年号なのである。
   様式化された武蔵の青石塔婆の美しさは周知だが、
  自然石に近いこの板碑の持つピュアな雰囲気がとても
  新鮮に感じられてならなかった。純粋な信仰が描く図
  像が持つ、技術以前の精神が示す説得力なのだろう。
          

    
    
     其ノ田板碑 (大分県豊後高田市)
    
    
   国東半島の名刹富貴寺前の田んぼの真中に、この二
  基の板碑が人知れず立っている。寺への観光バスは数
  多いが、畦道を歩いてこの板碑を訪れる人は全くいな
  い。
   安山岩で青石の味わいは無いが、かえって朴訥とし
  た安らぎが感じられる好みの板碑である。
   右の板碑の梵字は主尊が「キリーク」、下の段の種
  子は右が「サ」左が「サク」で、それぞれが阿弥陀如
  来・観音菩薩・勢至菩薩の阿弥陀三尊を表現している
  のである。
   左の板碑は、二尊の種子を重ねた珍しいもので、上
  の梵字が「アン」下が「マン」で、普賢菩薩・文殊菩
  薩を表している。いずれも、釈迦如来の脇侍菩薩であ
  る。
   どちらの板碑も建武元年(1334)の銘が在り、南北朝
  の最初の年号である。武蔵型と比較すると、碑の整形
  や梵字の彫り方などは全く異なるものの、塔としての
  表現には共通したものが有る。

   こんな素晴らしい環境の中に、670年も前の石造
  品がひっそりと野晒しで立っている事だけで感動して
  しまうではないか。
          

    
   
     塔の御堂板碑 (大分県豊後高田市)
    
   
   国東半島の板碑は青石ではないが、堂々とした見事
  な作品が半島全域に分布している。
   写真の板碑は、安山岩製の力強い傑作で、梵字は額
  に月輪を付したバン(金剛界大日)、主尊はキリーク
  (阿弥陀)、脇侍は右がサ(観音)左がサク(勢至)
  の阿弥陀三尊である。
   関東の板碑などに見られる薬研彫りのイメージに近
  いが、やや彫りは浅く完全なV字ではない。
   梵字の雄渾な筆致から鎌倉時代を想定できるが、下
  部に請花・反り花式の蓮座が彫られており、大変珍し
  い様式で鎌倉末期ということになりそうである。
   型にはまらぬ大らかさが命で繊細さには欠けるが、
  鎌倉時代の不器用だが剛直な美しさを見事に保ってい
  る。

   山の中の荒れ果てた小堂の横にこの板碑はひっそり
  と立っているのだが、すぐ脇に見事な国東塔も並んで
  立っている。この地はまことに仏教の聖地であり、特
  に磨崖仏や石塔・板碑など、石造美術文化の密集地で
  ある。
   こうした知られざる石塔や板碑を想うと、すぐにで
  も国東半島へ飛んで行きたくなってしまう。
           

      
      
     梅遊寺板碑 (大分県豊後高田市)
     
    
   この寺は両子寺や財前家墓地からは至近で、豊
  後高田市と国東市の境界に近い走水峠山麓の一畑
  というところにある。
   山内の一画に、石造美術の愛好家ならば胸を躍
  らせるような石塔がゾロっと並んでいる。
   何と言っても有名なのが、応永二十一年(1414)
  の十三仏板碑だろう。資料としての価値は無類な
  だが、室町初期という時代からも梵字がチマチマ
  していて、小生の好みから言えば余り好きな板碑
  ではない。
   その点、この建武三年(1336)の胎蔵界大日種子
  (アン)板碑は、鎌倉期の豪放なイメージと南北
  朝の完成された優雅さとを併せ持っている、とい
  った風情を感じさせてくれる逸品だった。
   植栽繁茂のために下部が隠れてしまっているが、
  高さが
160cmという見た目よりは大きい板碑だ。
   “ほあぐら好み”という言い方を無理にすれば、
  板碑に関しては梵字が好きなので、その書体が美
  しく彫りが堂々としていることが第一の条件であ
  る。かつては、武蔵型の青石に彫られた端正な梵
  字に魅了されていたが、近年はこうした地方の荒
  削りだが野性味の感じられる梵字にも魅力を感じ
  るようになって来ている。
   国東や山形の板碑を探訪する内に、“ほあぐら
  好み”の巾がやや広がってきているようだ。
       

     
      
     財前家墓地板碑群 (大分県杵築市)
    
    
   財前家墓地は墓地全体が一括して史跡に指定さ
  れているという、中世の墓地の雰囲気を現在にま
  でそのまま伝えている素晴らしい場所である。
   おまけに、国の重要文化財に指定された国東型
  宝塔を筆頭に、無数の宝塔や五輪塔が累々と連な
  っている石造美術の宝庫でもある。

   板碑は種子の明確なものだけで十基在り、さな
  がら板碑のコレクションのようである。
   写真の板碑は、上部に額が張り出した国東特有
  の形で、少し内側に反った姿は丸でお辞儀をして
  いるように見える。高さは163cmで、安山岩の板碑
  としてはかなり細身のほうだろう。

   種子は釈迦三尊で、上部に釈迦如来を表す「バ
  ク」、下部は右が普賢菩薩の「アン」、左が文殊
  菩薩の「マン」である。もろい材質にしては、き
  りっと彫り込まれた好みの梵字である。
   塔身下部には墨書で銘文が書かれていたようだ
  が、現在は消滅して判読は不可能である。
   注目すべきもう一基は、バン(大日)・カーン(不
  動)・バイ(毘沙門)という特殊な三尊種子を彫った
  ものである。
            

     
     
     佐田神社板碑群 (大分県宇佐市)
     
     
   旧安心院(あじむ)町の佐田という集落に在る
  神社で、林の中の霊気に満ちた場所に苔むした数
  基の板碑が立っていた。
   注目すべきは最も背の高い方錐形の塔婆で、厳
  密には「板」碑ではなく、角塔婆または柱状碑と
  でも言うべきかもしれない。
   しかし、上部の山形や二段の切り込み、突き出
  した額などは板碑の形式と全く同じである。
   珍しいのは、それが方形の四面に共通すること
  であり、各面に梵字種子が彫られていることであ
  ろう。
   写真は西向きの面で、上から「キリーク・サ・
  サク」の阿弥陀三尊を表している。その下に、元
  弘三年(1333)の紀年銘が彫られている。
   方形の北面には、釈迦の脇侍である普賢菩薩と
  文殊菩薩を表す「アン・マン」が、背面つまり東
  面には不動明王の「カーンマーン」が彫られてい
  た。南面は「バイ」の変化した梵字で、何と読む
  のか判らなかったが、いずれにせよ四方仏を彫っ
  たものらしい。
   左から二番目の板碑は「キリーク」で、阿弥陀
  一尊を表しており、正慶元年(1332)の銘がある。
   
          

      
      
     大年神社板碑 (大分県宇佐市安心院)
     
       
   旧山香町から旧安心院町へと通じる地方道の
  途中に、山蔵という集落がある。ここに地元の
  氏神として祭られた神社があり、小さな社殿へ
  と登る石段の両側に苔むした板碑が数基立って
  いた。
   主要な板碑は二基で、在銘中最も古い板碑を
  代表として記載した。
   形状は国東の板碑に共通した様式で、やはり
  堂々としていて見応えがある。
   主尊梵字種子はバン(金剛界大日)で、薬研
  彫りの溝は深く雄渾である。
   中心に建武元年(1334)の年号をはっきりと見
  ることが出来る。南北朝の始まりの年であり、
  鎌倉後期の風貌を残していることが年号からも
  納得出来た。
   額の張り出し方や面取りの優雅さが、レヴェ
  ルの高い石工の仕事であったことを証明してい
  る。この時代以降、様式はどんどん固定化して
  しまい、力のこもった作品は滅多に見られなく
  なっていくのである。
   もう一基は、胎蔵界大日(ア)を主尊とした
  暦応四年(1341)の板碑で、額部の出方が大きい
  という特徴のあるものであった。
     

     
    
     護聖寺板碑 (大分県国東市安岐町)
     
    
   安岐町には国東塔や板碑など、数多くの石造美
  術が残されていて、旅する私達を魅了する。
   中でも、久末という集落の外れに在るこの護聖
  寺には、まことに剛毅な板碑が二基、地に根を生
  やしたようにどっしりと立っていた。
   竹やぶを背景にした板碑の姿そのものに感動し
  たが、さらに右側の板碑には、現在は判読不明だ
  が、正応四年(1291)という豊後板碑最古の紀年銘
  が入っているというので驚いた。しばらくじっと
  眺めてみたが、全く判らなかった。
   いずれも阿弥陀三尊を表す「キリーク・サ・サ
  ク」の種子で、右は彫りがやや浅く流麗であり、
  左は彫りの深い豪快な梵字表現である。
   どちらも安山岩製であり、右が180cm、左は168
  cmという堂々たる大型板碑である。
   但し後で知ったことだが、右の板碑の、前へ飛
  び出した額より上の頭部は、別の石がはめ込まれ
  ているとのことである。ほんの少しだけがっかり
  したが、実物の前で受けた感銘は深く、今でもそ
  の時の強い印象を覚えている。頭はカツラでも人
  格は変わらない、と言いたいが、あまり上手い洒
  落ではなさそうだ。
           

     
      
     岩尾板碑 (大分県国東市安岐町)
    
    
   旧安岐町の弁分という里は石造美術の宝庫
  で、釜ケ迫の国東塔の他にも塔ノ尾、八坂神
  社、そしてここ岩尾に板碑がある。
   岩尾の板碑が最も堂々とした美しさを誇っ
  ており、周辺の環境の良さも含め取り上げて
  みた。

   石質は安山岩で、高さは
168cmだが底辺の
  巾が
82cmなので、将棋の駒のような形状に
  見える。
   梵字種子はキリーク(阿弥陀)・サ(観音)・
  サク(勢至)の阿弥陀三尊で、
亨四年(1324)
  という鎌倉後期の年号が彫られている。
   中央のキリークを初め、その筆致は当代の
  豪胆さを発揮しており、薬研彫りも深く磊落
  なイメージになっている。
   額の両端は角を削ったようにして面取りが
  されており、弧状に張り出す様式ではない。
      

       
      
     鳴板碑 (大分県国東市国東町)
      
     
   鳴板碑と呼ばれているが、所在する場所は国東
  型宝塔でも取り上げた長木家の墓地の中に建って
  いる。
   この墓地は財前家の墓地と共に、石造美術の展
  示場といった趣で、重要文化財の宝塔の他にも南
  北朝以前の板碑が三基も建っているのである。

   鳴板碑が最も古く、県の重要文化財に指定され
  ている。長木家の当代当主が書いた下部の長い願
  文の最後に、元亨二年(1322)という年号を見るこ
  とが出来る。

   高さは
3m以上もある国東屈指の板碑で、種子は
  「マン」で文殊菩薩を表すものである。
   豪快な筆致と彫りが見事だが、何より印象的な
  のは先述の少林寺板碑のバンの上部の「ン」を表
  す空点(横線と点)である。ここでは梵字「マ」
  の上に書かれたその表現が、あたかも連続した草
  書体のような大らかな表現になっていて大変珍し
  い。

   碑面が上下方向にも左右方向にも微妙に湾曲し
  ているのが最大の特徴で、それが板碑全体に柔軟
  なイメージを持たせているようだ。
   額の部分や頭部にも、面取りの技法や曲線が用
  いられている。
  
         

     
      
     左荘両面板碑 (大分県国東市国東町)
       
     
   国東町から両子寺へと向かって車を走らせて
  いた時、赤松という集落への分岐点に「左荘板
  碑」と記された石碑が建っているのに気が付い
  た。何の躊躇も無く、車を赤松へと続く細い道
  へと乗り入れていた。
   この板碑は赤松の集落の外れ、宇土と呼ばれ
  る場所にあり、椎茸栽培の農園の手前左側の草
  地の中に立っていた。
   静かな里で、村の人とは誰とも会わなかった。
  そのためなぜ「左荘」と言うのかは、最後まで
  判らなかった。
   板碑の種子はバン(金剛界大日)で、そのす
  ぐ下に正仲三年と記されており、これは正中三
  年(1326)と同じことだ。
   高さは
130cmほどの小振りだが、梵字種子の
  彫りは深く豪放で素晴らしい。
   最大の特色は、背面にも梵字が彫られた両面
  板碑であることだ。裏には地蔵を現す「カ」と
  いう種子が彫られている。

   近年(2008年)、近くを通ったので懐かしく、
  ちょっと寄って見て驚いた。周辺は荒れ果て、
  額を含んだ割れ目から上部がそっくり喪失して
  いたのである。何処へ行ってしまったのだろう。
   この写真は1994年に撮影したものである。
       

     
      
     少林寺板碑 (大分市木の上)
    
    
   大分市の西、旧豊後街道を行くと、大分川の支
  流七瀬川を渡る胡麻鶴橋の手前の山裾に、広大な
  寺域を持つこの寺がある。
   本堂の真裏に人がようやく入れるほどの大きさ
  の石窟があり、その内部左右両側の壁に立てかけ
  るような格好で板碑が五基立てられている。
   写真は左側の三基であり、右側にもう二基が立
  っているのである。
   左の一番大きな阿弥陀種子(キリーク)板碑が
  
162cmで、貞和六年(1350)という南北朝中期の年
  号が入っている。
   年号は他の四基も同じで、それぞれに「逆修」
  や「追善」という文字が刻まれている。
   生前に自身の死後菩提を供養した者が極楽往生
  出来る、という「逆修」の文字が実際に願文とし
  て刻まれているのが貴重である。
   また、中央の大日種子(バン)板碑には、地蔵
  菩薩本願経に書かれた「七分全得」という言葉が
  彫られているそうで、とても珍しいものだと言わ
  れている。
   右は文殊種子(マン)板碑で、いずれも額部の
  高さの巾が大きく造られている。
   他の二基は、阿弥陀種子(キリーク)と地蔵種
  子(カ)板碑である。
   時代は鎌倉からやや下った頃のものだが、篤い
  信仰が背後に見え、五基揃った姿がとても美しく
  感じられた。
     

     
      
     寺小路三連板碑 (大分県臼杵市野津町)
    
    
   旧野津町寺小路の城ノ平公園という所に、何と
  も珍しい三連板碑があると聞いた。公園なら直ぐ
  に分かるだろう、と行ってみたのだが見つからな
  い。人に聞いてみても、誰も知らないのだ。
   役場で尋ねてようやく分かった。公民館のすぐ
  裏の山がそれで、登るのにやや危険があるため現
  在は立ち入り禁止となっているという話だった。
   私達は役場の特別許可を戴いて、その元公園へ
  と登った。
   鉄柵と屋根で覆われて、この三連板碑が立って
  いるのが見えた時には、憧れの恋人にやっと会え
  たかのような感動を覚えたものだった。

   板碑の高さは小生の上背と全く同じなので、約
  
170cmである。写真から抱くイメージよりは、か
  なり大きいだろう。
   一石に三連の板碑を彫り込んだもので、中央に
  元弘三年(1333)という鎌倉最末期の年号が見える。
   梵字は左からバク(釈迦)、バン(胎蔵界大日)、
  キリーク(阿弥陀)という大層欲張った種子であり、
  願文は無いが多くの仏にすがろうとする供養者の
  切なる願いが伝わってくるような気がした。
   梵字は小振りながら、鎌倉期の期待を裏切らな
  い大らかな筆致であることが嬉しかった。
      

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