| 日本の石塔 宝篋印塔 |
石造美術に余り馴染の無い方には、 とても奇怪な形に見えるかもしれない が、鎌倉前期から造立され、五輪塔と 共に石塔の主流となった。 源流は中国で、呉越の王「銭弘俶」 が宝篋印心呪経を籠めた小銅塔を八万 四千個造立し、全国に配布したと伝え られているが、それが宝篋印塔の形に 似ているのである。実物を京都博物館 で見ることが出来る。 近年、中国国内で、石造の宝篋印塔 そのものの事例が発見された、と聞い た。 段状の笠(屋根)と隅飾と呼ばれる 四隅の突起が最大の特徴である。 見慣れてくると、鎌倉期から南北朝 にかけての時代に制作されたものが、 いかに美しいかが見えてくる。 全国の名品を巡拝してみよう。 宝篋印塔 (鎌倉時代) 均整のとれた優美な石塔である。 善峰寺 <西国第二十番札所> 京都市西京区大原野 |
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| 深田宝篋印塔 (大分県臼杵市) |
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写真は“日吉塔”と呼ばれるこの宝篋印塔の背 後から撮影したもので、前方の山裾に見える大き な屋根は臼杵石仏群の古園石窟の覆いである。 塔の左手は、石造五重塔や石造仁王像のある満 月寺であり、臼杵の磨崖仏群の全てを遠望出来る という素晴らしい立地条件である。 基礎は二区に分けて格狭間が彫られており、一 段付けて塔身が乗っている。 塔身の正面は入口の様になっていて、内部を刳 り抜いて室内らしき空間を造ってある。扉を吊り 込む穴までが設けられている。 石造の厨子のような造りで、他にほとんど類例 は無いだろう。 塔身の大きさが、全体におおらかな安定感をも たらしているように思える。 笠は六段だが、やや偏平な印象を受ける。 巾のある軒は、両端が微かに反っている。この 感じは鎌倉期のもの、と直感した。 隅飾は二弧輪郭付きの意外に小振りなもので、 石は独立しており、ほぼ垂直に立っている。 全体的な落ち着き、軒の反り、直立する隅飾、 きりっとした格狭間など、鎌倉後期を推定させる 材料が揃っている。それだけに、相輪はオリジナ ルとされているが、時代的にやや細いのではない か、と私には思われた。 |
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| 広峯神社宝篋印塔 (兵庫県姫路市) |
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西国三十三観音巡拝で書写山円教寺へ詣でた 帰りに、ふとこの宝篋印塔の存在を思い出し、 車を飛ばし同じ姫路の北の広嶺山へと向かった。 山腹の神社までは車道が通じていて、アクセ スには何の問題も無かった。 文化財にも指定された重厚な社殿に詣でた後、 楼門の石段下にあるこの宝篋印塔を鑑賞した。 好天は幸運だったが、石の白さに陽射しが強 過ぎて、写真撮影には最悪の条件となった。 2m以上もある大型の石塔だが、昭和になっ てから神社周辺に埋もれていたものが発見され たとのことである。石の表面の劣化や褪色も少 なく、時代の経過を感じさせない石の白さは、 そこに要因があったのだった。 大きな特徴は、宝篋印塔が乗る台座に、複弁 反花が彫られていることだろう。類例は多いが、 丹後縁城寺や桃島など、播磨や丹波を中心にし た南北朝時代の作品に多く分布しているようだ。 銘は無いが、相輪以下全てが完全に揃ってお り、これが宝篋印塔のお手本です、と言ってい るように感じられた。しかし、全体的な主張の 無さや笠の弱弱しさから、南北朝初期と考える のが妥当なところだろう。 |
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| 温泉寺宝篋印塔 (兵庫県豊岡市城崎町) |
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城崎温泉街から少し歩いた山の中腹に建つ、創 建が天平時代という由緒正しい古寺である。秘仏 の十一面観音像拝観は、2017年まで待たねば ならないそうだ。 この宝篋印塔は本堂から少し石段を登った高台 に建てられており、温泉三昧のついでに立ち寄る には勿体無いほどの“絶品”であった。 相輪から基礎・基壇まで完璧な形で残っており、 改めて洗練された宝篋印塔の美しさを見直させら れてしまった。 写真の基礎の格狭間は側面で、正面には飾りの 付いた格狭間が配されている。 最大の特徴は、基礎上段に細く一段設けた上に 複弁反花が彫られていることだろう。大きな段を 造った事例はあるが、このような繊細な意匠は見 たことが無い。 笠は通例通りの六段で、下は二段となっている。 輪郭の付いた隅飾はやや外側に傾斜しており、鎌 倉から南北朝への移行期を感じさせる。 全体的には泥臭さの微塵も感じられない洗練さ れた南北朝的な意匠ではあるが、相輪の豪快さや 笠と基礎に残る力強さが感じられるので、限りな く南北朝に近い鎌倉末期、という推定をしたい。 |
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| 桃島宝篋印塔 (兵庫県豊岡市城崎町) |
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城崎温泉から約1キロという至近で、JR山陰 本線の踏切の手前の路傍に、この宝篋印塔がさり げなく建っている。こんな場所にこんな古塔が見 られるというのも、やはり関西ならではで、それ だけでも感動的な出会いだった。 三段の基壇に乗る高貴な塔で、おまけに上段に は複弁の反花座が設けられている。 基礎の裏側に応安五年(1372)という銘があり、 この宝篋印塔が南北朝の中頃の作であることが知 れるのである。 写真は背後からであり、写っているのは側面で はっきりしないが、基礎の格狭間に特徴がある。 普通の単純な波型花頭曲線ではなく、複雑な線で 模様が付いているのである。峰山の縁城寺でも見 られたが、この飾り付き格狭間は丹波・但馬地方 に多く分布しているのだという。 塔身には、月輪内に金剛界四仏の種子が、蓮座 に乗った形で彫られている。写真は右がアク(不 空成就)、左がウーン(阿しゅく)である。 笠は六段だが、段が低いので、全体が偏平な印 象を受ける。隅飾は二弧輪郭付きで、背面以外の 三面に「ア」(金剛界大日)が彫られている。 隅飾はかなり外へ向かって傾斜しており、笠全 体のシルエットにはやや重厚さが欠けるようにも 見えてしまうのは、南北朝という制作年代を知っ てしまった先入観によるものなのだろうか。 |
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| 金禅寺三重宝篋印塔 (大阪府豊中市) |
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そもそも宝篋印塔を三層に重ねる、という意匠 そのものに違和感を覚えていた。だが、三重塔の 屋根の部分を、宝篋印塔の段と隅飾に置き換えた もの、と考え直して訪ねてみることにした。 阪急豊中駅から山手へ少し行った所にある寺で、 三重宝篋印塔は本堂の石段左手に建っていた。 石山寺や都島神社に類例は在るが、相輪以外が 完備している事や、初重の塔身に彫られた阿弥陀 如来像が気に入ったこと等が、ここを掲載した理 由となった。 基礎部分に銘が在り、貞和五年(1349)つまり南 北朝初期に当たる年号が彫られている。 最大の特徴は塔身で、正面は阿弥陀如来の坐像 が陽刻さられているのだが、他の面には梵字が彫 られていた。左から「アク・ウーン・サ」と読む ことが出来た。これはあまり見かけない組み合わ せと言えるのだが、「サ(観音)」が「タラーク (宝生)」に変れば、通例の金剛界四仏になる。 どういった解釈が成されたものかは不明だ。 三重の笠が上へ行くほど小さくなっていくのは 条理だが、こうして見ると微妙な意匠で逓減させ ていることが判る。 豊中には宝珠寺というお寺にも、銘は無いが鎌 倉後期とされる三重宝篋印塔があり、何らかの地 域的な宗教観や石工技術が存在したのかもしれな い。 |
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| 円福寺宝篋印塔 (奈良県生駒市) |
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石造美術に興味の無い方には見慣れぬ塔なの だが、五輪塔などと共に古くから伝わる塔の様 式である。良く見ると、宝珠・(相輪)・請花 ・笠・塔身・基礎と塔の役者が揃っている。大 きな特徴は、笠の四隅に付けられた耳のような 隅飾の存在である。 ここ円福寺には、南北二基の塔が有る。写真 手前の北塔は、塔身を梵字の種子で四方仏を表 現しており、永仁元年(1293)の銘が有る。 南塔の方は梵字ではなく、仏像そのものが彫 られており、銘は無いが、北塔とほぼ同じ鎌倉 中期の作だ。 隅飾が垂直に立っているもの程古いのだが、 この塔は微妙に反り始めているので鎌倉中後期 あたりだという目安になる。 川越辺りで江戸時代に作られた宝篋印塔を見 ると、隅飾が異常に反り返っており、どう見て も落ち着きの無い塔としか見えないが、前例と は少し違ったものを創作しようという意識の累 積が、時代の経過と共にここまで変化してしま うのか、と驚いた経験が有る。 二基共技巧的な装飾は無いが、全体のバラン スがすこぶる美しく、清楚で古風ではあるが洗 練の兆しを見せる秀塔である。 |
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| 輿山往生院宝篋印塔 (奈良県生駒市) |
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生駒から平群一帯の里はまことに石造美術の 宝庫であり、私達は何回かここを歩いている。 大阪と奈良の中間であり、近鉄沿線の開発は 著しいが、生駒山麓のこの地区には古い文化の 名残がまだ脈々と生きていた。 本堂の北側にこの塔は堂々と建っており、い かにも雄渾であると同時に、古式の見事な美し さを示している。 最大の特徴は笠(屋根)の隅飾で、一弧の直立 形であり、軒と一体になっていることだろう。 相輪は後補かもしれない。 塔身には正元元年(1259)とあり、大和では最 古で、鎌倉中期の充実した造形美をたっぷりと 見せつけている。 梵字は金剛界四方仏で、その脇に「釈迦入滅 一千八百六十七年、弥勒仏」とあり、未来仏弥 勒の一日も早い現出を願った信仰が生んだ石塔 なのだろう。 宝篋印塔の美しさは何と言っても笠の造形そ のものと、塔身の姿とのバランスにある。その 最も優れた見本の一つがここに在る。いつまで 見ていても飽きない、小生好みの石塔の一つで ある。 |
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| 正暦寺宝篋印塔 (奈良市菩提山) |
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奈良市内とは思えぬほど奥まっており、渓流 沿いの参道には苔むした石垣がかつて隆盛した 寺坊を偲ばせている。 境内はさながら石造美術の展覧会場のようで、 南大門から本堂へ至るそこここに、石仏・板碑 ・層塔・笠塔婆・五輪塔などが見られた。年代 も鎌倉から江戸までと豊富である。 中で最も注目したのが、写真に在る三基の宝 篋印塔だった。 笠の段に比して隅飾が小さいのが特徴で、さ らに、二重輪郭線に月輪内の金剛界四仏種子の 塔身、二区画の格狭間、複弁の反花座などが目 に付く。 中央の塔は相輪を欠くが、全体に荘厳のため の美しい装飾が成されており、装飾過剰な後世 の塔に比べるとまことに優雅な雰囲気を醸し出 している。洗練された意匠からは、鎌倉後期を 予測させられたが、清水俊明先生の著書には鎌 倉中期と記されている。前記の輿山往生院の作 例がちらついて、どうしても同時代の作品とは 思えないのは、所詮素人の浅知恵ということだ ろう。 |
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| 壺阪寺宝篋印塔 (奈良県高取町) |
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西国第六番の札所であり、境内には木造三重 塔などの伽藍が建ち並ぶ壮麗な寺院である。 以前、札所巡礼で訪ねたことがあり、今回は 二度目の訪問だった。前回の時には、この宝篋 印塔の存在は知らなかった。 三重塔の南庭の片隅に、他の数基の石塔と並 んで、写真の宝篋印塔が建っていた。 最初の印象は京都清涼寺のものに似ているな と感じたのだが、川勝先生のお説はこちらの方 が古い鎌倉中期のものであるらしい。 だが私の直感も捨てたものではなく、笠の下 が大変珍しい三段であること、隅飾りが三弧で 中に梵字「ア」が刻まれていることなど、清涼 寺のものとは共通点が多い、とのことであった。 全体のプロポーションが余りにも似ているの で、同じ作者によるのではないか、と私は思っ ているほどである。 搭身四方に梵字種子による金剛界四仏が彫ら れ、その下に反花座が有るが、基礎に格狭間な どの装飾は無い。 相輪が見事であり、上から宝珠・竜車・水烟 ・九輪・請花・伏鉢と並んだ完璧な作例である。 |
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| 観音院跡宝篋印塔 (奈良県高取町) |
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明日香の南、高取町には、西国札所として著名 な壺阪寺がある。その入口である近鉄壺阪山駅の ところから、高取城址へ向かって登って行く道が ある。 車で行けるのは宗泉寺までだが、そこから高取 城址方面へは向かわずに、宗泉寺の横から山道を 抜けて裏山の横へと出たあたりに、現在は廃寺と なってしまった観音院の跡がある。 荒れ果てた境内の一画に、掃き溜めの鶴とでも 言えそうなほど秀麗な宝篋印塔が建っていた。 相輪が半分に折れているが、塔全体は当初から の完存塔で、古い様式を伝える貴重なものである。 笠の上部は六段で、その上に露盤があり、各面 に二区の格狭間が彫られた繊細な造りである。 四隅の隅飾は二弧で、格別の彫刻は無い。真っ 直ぐに立った様は古式で、輿山往生院や為因寺の 事例にとても似ている。 塔身の四方に半肉彫りの四方仏像が彫られてい るが、最大の特徴は笠の下部と基礎の上、つまり 塔身の上下が蓮弁で飾られていることだろう。上 部は単弁、下部は複弁反花座がとても美しい。 基礎に銘が彫られており、弘長三年 (1263) と いう魅力的な年号が確認できる。大和では輿山往 生院と額安寺に次ぐ、鎌倉中期の作なのである。 |
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| 清涼寺宝篋印塔 (京都市右京区嵯峨) |
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京都や近江は石造美術の宝庫で、宝篋印塔の 主要な作品を見て歩くだけでも数週間が必要だ ろう。 秘仏釈迦如来像公開で訪れた嵯峨釈迦堂清涼 寺の境内で、私が眼を釘付けにさせられてしま った宝篋印塔である。 限られた巡歴の中でも、栂尾高山寺、為因寺、 鎌倉覚園寺のものと共に深く印象に残っている。 やや頭でっかちに見えるが、じっくりと見て いる内にそれがかえって絶妙の均整と優美さを 生んでいることに気が付く。 塔身の梵字が摩滅しているのが残念だが、反 花座と笠は見事な細工である。最大の特徴は、 笠下が三段になっている(通常二段)ことと、 隅飾が三弧で、その中に梵字「ア」が彫られて いる事だろう。 写真でははっきりしないが、蓮座の上に有る 月輪の中に「ア」が彫られ、誠に洒落た意匠が 感じられる。 源融公の塔との伝承が有るらしいが、それに ふさわしい落ち着いた優雅な美しさである。 私は、石塔の中では国東半島の宝塔と鎌倉以 前の宝篋印塔が好きだが、嵯峨野にひっそりと 立っているこの塔は、その中でも格別の好みの 一つである。 |
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| 高山寺宝篋印塔 (京都市右京区) |
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鳥獣戯画で名高い栂尾高山寺の石水院を訪 ねたならば、そこから少し登った所にある開 山廟まで足を延ばしたい。 何故なら、その境内に後述の為因寺のもの にとてもよく似た宝篋印塔が保存されている からである。 鬱蒼とした杉木立の中で、苔むしたこの古 塔は静謐なたたずまいを見せてくれた。石塔 の置かれる環境として、これ以上は無いだろ うと思える程の仙境であった。 為因寺のものと並んで古式の代表とされる だけに、とてもよく似ているのだが、こちら の方がやや線が細いように見えてならない。 先ず四隅に立つ隅飾りの印象が違う。堂々 と直立しストレートな円弧の為因寺塔に比べ、 こちらは微妙に波形の付いた二弧式である。 相対的に洗練されており、時代はやや下が るのではないかと思うのだが、まあ素人ので まかせと聞き流していただきたい。 いずれにせよ、どちらも古式宝篋印塔を代 表する名品であり、二塔の巡覧をお奨めする。 なお、写真に写っている右側の石塔は、如 法経塔というこれも鎌倉期の傑作である。 |
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| 為因寺宝篋印塔 (京都市右京区) |
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高雄へ通じる周山街道に梅ケ畑地区が有り、 そこの奥殿という静かな部落にこの寺は在る。 京都市内とは思えぬ、情緒に満ちた集落で ある。 宝篋印塔は山門の脇に、隠れるようにして ひっそりと立っていた。 風貌はまことに古式で、栂尾高山寺の開山 廟に有る宝篋印塔にとてもよく似ている。隅 飾の内側は一弧で、装飾は一切無くしかも直 立しており、なんとも堂々たる美しさである。 文永二年(1265)の文字が塔身背後に、そし て前面には阿難塔と刻まれているらしいのだ が、明確には判読出来なかった。 いずれにせよ、鎌倉中期の簡潔かつ重厚な 傑作である事に変わりは無い。 ここや高山寺のような古石塔を見てしまう と、以後の時代の作品はことごとく貧弱で陳 腐なものに見えてしまうから恐ろしい。 宝篋印塔そのものは、中国の宝篋印心呪経 を篭めた銅塔がその起源だと言われており、 実物が京都博物館に展示されているらしいの でぜひ見たいと思っている。 |
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| 覚勝院墓地宝篋印塔 (京都市右京区嵯峨) |
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小生の好きな宝篋印塔が在る嵯峨清涼寺の北 側に隣接して、大覚寺子院である覚勝院墓地が 有る。 その中央に、この優美な石塔が象徴的なたた ずまいで堂々と建っていた。キリっとした清華 な墓地で、美しいものというのは周囲の空気を 引き締めるものだと知った。 写真を撮っている小生に、墓石を修理してい た石工さんが話し掛け、東京から来たことを盛 んに感心していた。仲間の間でも、嵯峨では自 慢の石塔なんだと言う。 相輪は後補だが、笠の隅飾は二弧で月輪をあ しらい、塔身にはくり抜いた円弧の中の蓮華に 座した四方仏が彫られ、基礎は複弁の反花と格 狭間によって飾られ、更に二区の格狭間が彫ら れた基壇に載るという、大変珍しい装飾が完璧 に成された傑作だったのである。 全体に鎌倉期の武骨さは残されてはいるが、 繊細な美意識が典雅な装飾を生み、豪快さが失 われつつあることから、鎌倉後期の作だろうと 勝手に想像した。 |
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| 勝林院宝篋印塔 (京都市左京区大原) |
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大原の石造美術を訪ねた或る日、来迎院で三 重石塔の傑作に接した後、三千院の喧騒を避け るようにしてこの大原問答で知られる勝林院の 境内に入った。 三千院の阿弥陀三尊来迎像に未練が有ったが、 杉木立の中に佇むこの石塔を拝した途端に、そ んなことはすっかり忘れてしまっていた。 石塔は建っている事それだけで美しいのだが、 ここでは更に建っている環境が抜群であること に感動した。 すっきりと延びた相輪が見事で、輪郭線の入 った三弧の隅飾が存在感を示している。生き生 きとした生命感に満ちていて、様式美に陥る直 前の輝きとも写る。 また、正和五年(1316)という年号からは、鎌 倉末期の最も充実しきった美意識が見ても取れ る。 笠や相輪に対する、塔身の程好い大きさがこ たえられない。素晴らしいバランス感覚だと思 う。 写真の梵字種子は「アン」で、他に「アク」 「ア」「アー」が見られ、胎蔵界四方仏である。 |
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| 大原北墓地宝篋印塔 (京都市左京区大原) |
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前回大原を訪ねた時には勝林院の宝篋印塔に感 動し、そのまま帰ってしまった。しかし、大原に はもう一基の見るべき重要な宝篋印塔が存在して いたことを、後になって知ったのだった。 一年後に再訪した私達は、勝林院の境内を抜け、 裏山に通じる道を登って行き、大原北の共同墓地 を訪れることが出来た。 墓地の入口付近に、古い石仏や無縁墓の石塔な どを集めた一画が在り、そこに写真の宝篋印塔が 堂々と建っていた。 基礎には格狭間、塔身には胎蔵界四仏を象徴す る梵字の種子が刻まれている。隅飾は二弧で輪郭 が付いており、相輪も堂々としている。 やや摩滅しているのが残念だが、全体に均整の 取れた秀麗な塔だと感じた。 正和二年(1313)の建立で勝林院より3年古く、 洗練されてはいないものの、腰の据わった野太い 美しさを感じさせる好みの塔であった。 基礎に「念仏諸衆為往生極楽」と刻まれており、 この石塔には、ひたすら念仏を唱えるしか方法の 無かった庶民の切ない願望が集約されているので ある。 |
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| 大宮神社宝篋印塔 (京都府宇治田原町) |
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京田辺市の中心である田辺から木津川を渡り、 青谷梅林の横を抜けて伊賀の信楽方面を目指す。 十一面観音像や五輪塔で知られる禅定寺へ通じる 分岐点あたりの集落が岩山で、神社はこの旧道か ら少し山際へ入った所にある。 社殿手前の巨杉の下に、堅固な石柵に囲まれて この宝篋印塔が祀られていた。 塔身が細身の端正な面影で、とても優美な姿と いうのが第一印象だった。 相輪が完備しているのが素晴らしく、塔全体の 容姿の秀麗さを際立たせている。 笠の段が七段であることが特徴だが、何よりも 隅飾の細長い形状に目が行ってしまう。直立した 古式で、二弧の中の蓮華座上の月輪内に梵字「ア ク」が刻まれている。 柵が邪魔して全体の写真が撮れなかったのだが、 塔身四方には月輪内に金剛界四仏を梵字で彫って あった。写真に見えるのは、阿しゅく如来を象徴 する梵字種子「ウーン」である。 そして、柵の隙間からちらりと見えるのが基礎 の格狭間で、近江式の三本の茎のある蓮華文様が 四方に彫ってあった。 年号を表す銘は無く、細い塔身や繊細な装飾性 から南北朝制作とする説もあるのだが、私は隅飾 の美意識は鎌倉期のものと考えたい。南北朝へと 至る、鎌倉末期あたりではないだろうか。 |
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| 金胎寺宝篋印塔 (京都府和束町) |
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和束町と宇治田原町との境界には、鷲峰山と いう標高700m近い山並が続いている。金胎 寺本堂はその山頂近くに建っているのだが、幸 いにも林道が有って石段下までは車で登ること が出来た。 この宝篋印塔は寺からさらに登って行き、眺 望がパッと開ける山頂に建っていた。 切り石の基礎壇上に建ち、塔身・笠・隅飾・ 相輪まで全てが完存する見事な佇まいだ。 塔身の梵字はア・アク・アン・アーで、月輪 内に胎蔵界四仏種子として彫ってある。薬研彫 りの豪快な梵字だ。 隅飾は輪郭を彫った二弧であり、やや反って いるので鎌倉後期かと思った。しかし、銘には 正安二年(1300)とあるので、もっと古い中期で あった。 相輪下部の伏鉢に反花が彫られており、なん とも荘厳で品位を感じさせる装飾である。 汗を流して登って来る価値の充分ある、惚れ 惚れするような美しい石塔だった。 |
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| 湯船宝篋印塔 (京都府和束町) |
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和束町にはもう一基、決して見逃してはなら ない宝篋印塔が存在することを知っていた。し かし、この町には文化財を誇る精神は無いよう で、いくら探しても案内一つ無かった。 私の資料で五ノ瀬という場所に在ると判って いたが、そこでさらに地元の方に案内して頂い て、ようやく“不動堂”に在ると判明した。 巨杉が林立する荒れ果てた境内に、写真の如 く傾いた格好で無造作に置かれている。いくら 文化財に指定されていないとはいえ、弘安十年 (1287)という刻銘もあるれっきとした鎌倉中期 の石塔である。町のこの扱いは、文化行政のレ ヴェルの低さを示しているとしか思えない。 塔身の梵字は金剛界四仏の種子で、上品な薬 研彫りである。隅飾は金胎寺と同じ、二弧輪郭 付きの控えめな姿である。 相輪は後補らしいが、全体的には均整の取れ た、至極品位のある美しい塔である。年代も金 胎寺より古く、為因寺や高山寺に匹敵するもの だけに、相応の管理を切に望むものである。 |
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| 船井神社腕塚宝篋印塔 (京都府南丹市八木町) |
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2010年の夏に京都に滞在していた時、思い 立って丹波の石造美術を再度探訪した。未見だっ た亀岡北之庄の磨崖仏や八木大日寺の五輪塔、そ してこの宝篋印塔などが主な目的であった。 八木町の船枝という集落の中心に船井神社があ り、その正面鳥居の左側に腕(かいな)塚という 小さな社が祀られている。 安倍貞任の腕を埋めた塚に建てられた石塔、と いう言い伝えが残っているという。 社の背後に建つ宝篋印塔が余りにも接近してお り、竹で組んだ柵が厳重なために、思ったような アングルの写真が撮れなかった。 相輪は完備しており、笠上段は六段である。特 徴は、三弧の大きな隅飾が、外側にやや反り気味 であることだろう。これは、素人でも見当が付く 宝篋印塔の見分け方であり、概ね反りが大きいほ ど時代は下がっていくのである。 基礎には格狭間が彫られ、その上部に複弁の反 花をやや大袈裟に彫り出している。 塔身の四方には、月輪内に金剛界四仏を梵字で 薬研彫りしてある。鎌倉期のものと比べると、彫 りはやや華奢かもしれない。 266cmもある大型の宝篋印塔で、かなりの 存在感を示している。 銘は無く、南北朝初期の作とされている。 |
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| 智恩寺宝篋印塔 (京都府宮津市) |
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天橋立へと通じる瀬戸である切戸に、奈良桜井 の安倍の文殊、山形亀岡の文殊と共に、三大文殊 の一つとされる“切戸の文殊”智恩寺がある。 知恵の神様とあれば、詣でない訳にはいかない。 そして、寺域からはやや離れた所にある三角五輪 塔と、この宝篋印塔とが次の目的であった。 山門を入ると、正面に本堂文殊堂、左手に室町 期の貴重な木造建築である多宝塔が見える。 「和泉式部の歌塚」と書かれた看板が立ってい るこの石塔は、右手の木立の中に建っていた。 全体に大らかな佇まいで、どっしりと構えた風 貌は間違いなく鎌倉期の石塔だろうと直感した。 相輪は九輪の上部が欠落しており、六輪の上に 宝珠が載せられている。 笠の上部は六段で、輪郭だけが彫られた三弧の 隅飾はやや外側に傾斜している。下部は型通り二 段だが、通常よりはやや高さがあるようだ。 笠の大きさに比して塔身の巾が大きめで、全体 的にはややずんぐり型と言えるだろう。 四方に彫られた梵字は金剛界四仏を表す種子で、 線は細いが月輪で囲われている。梵字は堂々とし た薬研彫りで、正面はキリーク(阿弥陀如来)、 右はタラーク(宝生如来)である。 基礎は、背面を除く三面に、格狭間が彫られて いる。 写真の右奥に、知恵の輪灯篭が切戸に面して建 っていた。 |
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| 縁城寺宝篋印塔 (京都府京丹後市峰山) |
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旧峰山町は周辺の町村と合併し、現在京丹後市 と名乗っている。住民が賛成したのであれば、旅 行者があれこれ言うことは無いだろうが、些かの 違和感は禁じえない。 久美浜温泉に数日滞在し、丹後半島を巡った際 に、かつて二十五坊を誇ったとされるこの名刹を 訪ねた。静まり返った境内の清浄な雰囲気はさす がだったが、秘仏千手観音像の安置された本堂は、 朽ち果てて今にも倒壊しそうな状況だった。 境内の左手に建つこの荘重な宝篋印塔だけが、 重厚な寺の歴史を語っているように思えた。 裏面を除く三面に、飾り付きの格狭間が基礎に 意匠されており、その下の基壇には複弁の反花座 と細長い三区の格狭間が意匠されている。これだ けでも、滅多に見られない壮麗な装飾が成された 豪華な宝篋印塔である、と言える。 塔身には、月輪内に金剛界四仏の梵字が彫られ ている。写真の梵字はアク(不空成就如来)と、 その右側のキリーク(阿弥陀如来)である。 笠上部は六段であり、隅飾がやや外側へ反って いる。 南北朝の作として重要文化財に指定されている そうだが、塔全体から受ける印象は鎌倉期の剛健 さだろう。彫られた「正平六年」と読めそうな文 字からの推量と、装飾性豊かな意匠からの推定に よるものと思われる。 近年の貧弱で劣悪な教育文化行政を嘆いておら れた御住職夫人の姿が印象的だった。 |
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| 石山寺宝篋印塔(滋賀県大津市) |
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石山寺の梅を観に訪れた際、文化財としても著 名な三重宝篋印塔を観た。しかし、その物珍しい だけの姿には少しも美しさは感じられず、正直余 り好きにはなれなかった。 がっかりしながら歩いた境内で、国宝の木造多 宝塔にたどり着き、そこで鎌倉期の石造宝塔と、 亀谷禅尼供養塔と書かれた二基の宝篋印塔を見つ けた。写真はその内の左側のものである。 二基は双式のようで、右塔の塔身には金剛界四 仏種子が彫られ、その下は反花座となっているの に対し、左塔には胎蔵界四仏が彫られ、下は段状 になっている。 両塔共輪郭線の在る三弧の隅飾を持っており、 前出の勝林院塔にかなり似ているようにも見えた が、こちらの基礎には格狭間が彫られている。 制作年代は不明だが、隅飾の反り具合からも、 鎌倉中期から後期にかけたあたりと推定した。 小振りだが大変美しい塔で、宝塔と共にとても 感動した記憶がある。 それにしても、宝篋印塔の美の世界というのは、 何と奥の深いことであろうか。 |
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| 明王院宝篋印塔 (滋賀県大津市葛川) |
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行政は大津市だが、ここを訪ねるのは京都の大原 を通り、鯖街道と呼ばれる若狭へと通じる花折隧道 を抜けて行くことになる。 この明王院については宝塔のページにも記してい るのだが、まことに重要な石造美術の宝庫である。 この宝篋印塔は石段を登った本堂の手前に建って おり、基礎側面から正和元年(1312)という鎌倉後期 の銘が出ている。 隅飾は二弧輪郭付きで、上六段下二段という典型 的な当代の様式を示している。 塔身には、蓮華座に乗る月輪の中の金剛界四仏種 子が、格調高い薬研彫りで彫られている。 基礎には格狭間が、そしてその上部には複弁の反 花が見事に表現されている。 笠の段の背がやや低く、笠全体が偏平な印象を受 けるが、様式美を象徴した泰然とした気品と大らか さが感じられる。 資料に寄れば、年号銘のところに「四村念仏講衆」 という文字が在るそうだが、はっきりと確認は出来 なかった。しかしそこからは、天台念仏信仰を中心 とした葛川四か村の講の人達が、村の安穏を祈願し て建てたこの塔の、生前供養塔のような性格を読み 取ることが出来る。 |
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| 樹下神社宝篋印塔 (滋賀県大津市志賀町) |
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琵琶湖西岸旧志賀町の北小松という所に、この 珍しい名前の神社があった。樹下(じゅげ)神社 というのだが、前に琵琶湖、後ろに比良連峰を望 む、という絶好の立地である。 本殿へと至る緑濃い参道脇に、この優美な宝篋 印塔が静かに建っていた。 基礎部分の下に、三段の基壇が設けられている のが、先ず目に入る。基壇の最上段には、複弁反 花が彫られており、余程の高貴な人物との関連が 考えらそうである。 基礎の四方に格狭間、その中に盛り上がるばか りに開蓮華が彫り出されている。 基礎上部にも複弁反花が装飾されており、壮麗 かつ気品に満ちた意匠が駆使されているようだ。 塔身には四方仏像が半肉彫され、蓮華の上に座 している。 笠の上部六段、下部二段は型通りで、二弧輪郭 付きの隅飾にも、中に蓮座と月輪らしき図が見え る。隅飾の外側は少し反り気味であり、時代は鎌 倉期ではないことを予感させる。 案の定基礎の柱面に、文和五年(1356)という南 北朝前期の銘が彫られている。 宝篋印塔草創期である鎌倉中期の朴訥な力強さ はすっかり失われてはいるものの、かくも均整の とれた眉目秀麗な宝篋印塔はそう在るものだはな いだろう。これ以後、江戸期を経て現代に至るま で、石造美術は衰退の一途をたどる事となるので ある。 |
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| 長谷寺宝篋印塔 (滋賀県高島市高島町) |
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今津町や高島町、朽木村まで含めた六町村が 合併して高島市になった。 この寺は旧高島町のほぼ中心に当たる地域の、 音羽という集落に在る。 薬師如来を本尊とする薬師堂が建っており、 宝篋印塔はお堂の左手に数基の石塔と共に祀ら れている。 均整のとれた誠に美しいプロポーションの塔 で、一目で気に入ってしまった。高さが1.5m と少々という小振りな造りが、端正なイメージ となっているのかもしれない。 基礎の格狭間には開蓮華が美しく、その上の 複弁反花座が力強く彫られている。 塔身の梵字は金剛界四方仏かと思われ、写真 には月輪に囲まれたキリーク(阿弥陀)が写っ ている。 二弧の隅飾りや上部六段、下部二段の笠も見 事な造りであり、全体のバランスからは作者の 卓越した美意識を感じることができる。 堂々とした相輪が完備していることが、この 塔の価値をさらに高めているだろう。 正中三年 (1326) という鎌倉後期の銘が入っ ているらしいのだが、摩滅しているので確認は 出来なかった。 |
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| 新善光寺宝篋印塔 (滋賀県栗東町) |
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林は旧石部の宿から下って来た旧東海道に面した 集落で、新善光寺の本堂の屋根はかなり遠くからで も見ることが出来た。名前通り、信濃善光寺の阿弥 陀如来の分身を祀って、鎌倉期に建立されたという。 この宝篋印塔は墓地の片隅に置かれており、残念 なことに基礎と相輪が完全に喪失している。 現在の基礎には、写真で見る通り、何とも無粋で 荒削りな石が使われている。妙な代用よりは、まだ マシと考えるべきだろう。 それに比して、笠と塔身の美しさは無類で、古式 の塔のみが発するオーラの如き別格の輝きが感じら れた。 笠は、六段の上部と隅飾、軒口と下部二段の全て が一体に造られている。二弧無地の隅飾は、外側は ほぼ垂直で反りが無く、表面が軒口と段差無く完全 に一体化しているのは、輿山往生院(生駒)や妙法 寺薬師堂(八日市)など数例しか無い古式であろう。 塔身は約40cm角の立方体で、月輪の内側に蓮華 座を彫り、その上に金剛界四仏種子の梵字が乗って いる。写真は左側がキリーク(阿弥陀)、右がタラ ーク(宝生)である。彫りはかなり浅く、陰影がは っきりとしない。 しかし何と、この南側のタラーク面に、弘安三年 (1280)という年号が彫られていたのである。近江に は弘安二年銘の宝篋印塔が在るが、塔の部材に問題 があるので、事実上は最古の部類に入る、とだけ申 し上げておく。 |
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| 妙法寺薬師堂宝篋印塔 (滋賀県東近江市<旧八日市>) |
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旧八日市市の妙法寺という集落の真ん中に、 この薬師堂という小さなお堂が建っている。宝 篋印塔はそのお堂のすぐ脇に、花などに飾られ て祭られていた。 塔身正面に彫られた、蓮華に座す阿弥陀如来 像に対する信仰なのかもしれない。 基礎には、両側の余白を広く取って輪郭線を 入れ、中に格狭間を彫っている。 全体がどっしりとして見えるのは、笠の隅飾 りが軒と一体となった直立一弧の古式であるか らだろう。 塔身の阿弥陀像左右に、永仁三年(1295)とい う銘が入っている。鎌倉後期の最初とはいえ、 中期以前には作例のほとんど無い宝篋印塔の中 では、比較的古い方だといえるだろう。 相輪は従前には下半分が喪失していたのだが、 今回は完全な形になっているので目を疑ってし まった。しかし、それほどの違和感は無く、上 手に下半分が修復されたものだろう。 宝篋印塔に限らず、石塔の部材については種 々の問題が提起される。別の部材が組み合わさ れているのではないか、という疑問が最大のポ イントなのだが、歴史的時間の中では当然有り 得ることだろう。様式のズレ、材質の違い、美 意識の違い、などを基準に判断する、しか方法 は無い。 |
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| 光林寺宝篋印塔 (滋賀県東近江市<旧八日市>) |
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前掲の薬師堂と同じ集落で、ここは国道に面 した寺域の大きなお寺である。 本堂の南側が広い墓地になっており、宝篋印 塔はその一画に建っていた。近世の墓石が並ぶ 中で、この鎌倉時代後期の秀麗な宝篋印塔は古 塔ならではのオーラを放っていた。 基礎の四方は格狭間が彫られ、中には蓮華が あしらわれている。 塔身には金剛界四仏が、梵字種子によって表 されている。やや彫りは浅いが、大らかな筆致 である。写真は左が阿シュク(ウーン)、右が不 空成就(アク)である。ちなみに、あとは阿弥陀 (キリーク)と宝生(タラーク)の二仏である。 隅飾りは輪郭の付いた三弧形式で、その中に 蓮華座に乗る月輪に梵字「ア」が刻まれている。 相輪は完存しており、破綻は無い。 基礎に嘉元二二年とあり、嘉元四年(1306)を 表している。鎌倉時代後期ということだが、全 体に洗練され均整の取れた逸品である。 近江には石造品の遺構が多く残されており、 特に宝篋印塔に関しては傑作の密集地であると も言える。 |
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| 地福寺宝篋印塔 (滋賀県東近江市<旧八日市>) |
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八日市市が五個荘や蒲生などと共に東近江市 に統合されてしまい、石造美術や松尾神社の庭 園でお馴染だった“八日市”という地名が消え てしまったのが残念である。 この寺は旧八日市市の東、近江鉄道の市辺駅 に近い糠塚という田園地帯の集落に在る。 門を入った直ぐ左側が小さな墓地になってお り、土塀に沿った場所に建武三年 (1336) とい う南北朝初めの年号が記された宝篋印塔が建っ ている。 基礎には開蓮華が浮き出た格狭間が彫られ、 複弁の反花座に載っている。 塔身の四方には、月輪に囲まれた金剛界四方 仏の種子梵字が彫られている。正面はタラーク (宝生)で、右がウーン(阿閦)である。 笠は下部が二段、上部は五段で、二弧の隅飾 りには輪郭内の月輪に梵字バン(大日)が彫ら れている。小振りな宝篋印塔ながら、なかなか 気の利いた装飾だといえる。 相輪は太い割りに華奢に見えるのは、上部の 宝珠と下部の請花が極端に尻すぼみになってい るからだろう。これは南北朝の特徴で、豪放な 鎌倉期から典雅な様式へと移行しつつある過渡 期の作品であると言えるだろう。 左に立つ板碑は、室町期の名号板碑である。 |
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| 百済寺塔身輪式宝篋印塔 (滋賀県東近江市愛東) |
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湖東三山の一つ百済寺には、先日降った雪が 残っていた。本坊喜見院の庭を見てから、老杉 鬱蒼たる参道の石段を滑らぬように注意しなが ら本堂へと登った。 その名の通り聖徳太子開基という深い歴史を 有していたが、信長の侵攻の際に焼き尽くされ、 現在の堂宇は全て江戸期に再建されたものらし い。 本堂右手の雪の中に、問題のこの石塔が建っ ていた。塔身以外は完璧な宝篋印塔なのだが、 塔身の角が削られて五輪塔の水輪に似た球形と なっていることが最大の特徴である。輪篋折衷 と呼ぶ向きもあるが、これは塔身輪式宝篋印塔 または球心宝篋印塔とでも呼ぶほうが理に叶っ ているかもしれない。 無理矢理組み合わせたのではないか、という 危惧があったのだが、実物を見る限り、相輪・ 笠・球心・基礎など完備しており、違和感は全 く無い。 塔身の四方仏、直立する隅飾、格狭間の蓮華 模様など、鎌倉期らしい剛健さを秘めた落ち着 きを感じさせる美しい石塔である。 |
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| 乾徳寺宝篋印塔 (滋賀県東近江市五個荘) |
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旧五個荘町川並という場所にある寺で、東近江 市という陳腐な命名に些かの噴飯を覚えている。 紅葉の名所として知られる寺だが、江戸時代の 創建なので、何故鎌倉後期の宝篋印塔が存在する のかは明確ではない。 この宝篋印塔は墓地の隅に建っているが、近年 発見されて周辺が整備されたらしい。 何よりも、基礎から永仁五年(1297)という、鎌 倉後期の年号が発見されたことがとても鮮烈だっ た。 写真で見る通り、基礎には優美な格狭間が作ら れ、中に素朴な近江三茎蓮が彫られている。 塔身には、背後をくり抜き半浮彫された四方仏 坐像が意匠されている。 笠は上部六段で、隅飾の先端が微かに反ってい る様に見える。三弧の輪郭内にはそれぞれ小さな 月輪が浮き出るように彫られ、その中に梵字「ア」 が彫られている。 彫刻装飾が過多かとも思われそうだが、石塔全 体の像容がまことに壮麗であり、繊細な品位も感 じられることで見事な均衡を保持しているようだ。 失われた相輪に代わって小五輪塔の部材が置か れているが、全くの無意味であり、古塔の尊厳を 汚すものと考える。 |
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| 梵釈寺宝篋印塔 (滋賀県東近江市蒲生町) |
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日本最古の木像宝冠阿弥陀如来像を拝んだ後、 境内に安置された形の良い宝篋印塔に目が釘付け になってしまった。 嘉暦三年 (1328) という鎌倉末期の銘があるの だが、全体像は中後期の雄渾な面影を残している ようにも見える。 写真の塔身には金剛界四方仏の梵字が彫られて おり、南正面にタラーク(宝生)が見える。その 右側 (東)は通常ウーン(阿閦)なのだが、北側 のアク(不空成就)と入れ替わっている。理由は 不明だが、単純ミスの可能性もある。残りの一つ は西のキリーク(阿弥陀)である。 基礎の側面は格狭間で飾られているが、写真で 見る通り、正面の格狭間内に一羽の孔雀が彫られ ている。他の面には蕾・開蓮華・散蓮華の三種が 彫り分けられており、何とも細やかな配慮の行き 届いた意匠であると言える。 基礎上部の単弁反花がさりげない優雅な装飾で、 このあたりは鎌倉期の武骨さから南北朝の洗練さ れた形式への脱皮を物語っているようにも見える。 相輪は見るからに新しくみえるのだが、実は流 失していたものが門前の田の中から近年発掘され たからだそうで、この塔のものであることが確認 されたそうである。 |
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| 比都佐神社宝篋印塔 (滋賀県日野町) |
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日野町に十禅師という珍しい名の集落があり、 その村外れに木立に囲まれた静かな別天地とも言 える当社が在る。 参道を歩けば、拝殿の手前左手に大きなこの宝 篋印塔を見る事が出来る。 先ず目に入るのは基礎の装飾だろう。四方は輪 郭線に縁取りされ、その中の格狭間には写真の向 かい合った孔雀のほか、蓮華の花や銘文などが彫 り込まれている。特に孔雀が素晴らしかった。 次に塔身の梵字種子だが、ここでは胎蔵界四仏 が彫られている。写真は、蓮座に載った月輪の中 に彫られた「ア(宝幢如来)」である。 笠の隅飾は三弧であり、笠上の段が七段と豪華 な造りになっている。堂々として見えるのは、こ れらの意匠によるものだろう。 塔身に銘文が彫られているのだが、摩滅してい てほとんど読めない。嘉元二年(1304)という紀年 銘があるはずなのだが、言われてみれば微かにと いった程度だった。 相輪は失われているものの、全体に品格の漂う 落ち着いた風格ある宝篋印塔である。近江地方の 鎌倉時代後期を代表する秀作である、と言える。 |
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| 寂照寺宝篋印塔 (滋賀県日野町) |
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日野町の東外れに蔵王という集落があるが、 この寺は街道沿いの小高い丘の上に静かに建っ ている。 本堂の前庭左手に、写真のような宝篋印塔と 宝塔の二基がさりげなくたたずんでいた。 宝篋印塔の隅飾が古式の馬耳状であるのを見 ただけでも、この塔が相当古いものであること が判る。 隅飾は一弧で装飾は無いが、それがかえって 簡素ながら格調高い洗練された味わいを感じさ せる。 塔身には、蓮華座に載る四方仏が半肉彫で表 されており、均整の取れた立ち姿となっている。 基礎には輪郭、格狭間が意匠され、その中に 三本の蓮華が彫り込まれている。やや摩滅して いて、写真ではよく見えない。 塔身や基礎の優れた装飾と、笠の簡素な古式 とはやや異質だが、これは鎌倉中期から後期へ の過渡期だったのではないかと解釈した。 写真奥の石造宝塔も見応えのある作品で、鎌 倉後期のものである。いずれも相輪は後補であ る。 |
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| 阿弥陀寺宝篋印塔 (滋賀県竜王町) |
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このお寺は竜王町の弓削(ゆげ)という里にあり、 近江八幡市とは日野川を境界として隣接している。 訪ねたのは八月地蔵盆の前で、里中に祭られた無 数の石仏それぞれに、色とりどりの可愛い前垂れが 結んであった。里人の篤い信仰心が感じられ、無味 乾燥な都会暮らしを振り返らされていた。 基礎に正安二年(1300)の銘があり、鎌倉後期を代 表する古塔の一つであることが判る。 基礎の格狭間には開いた蓮華文様が浮彫されてい て、関東の質実な宝篋印塔との違いを如実に知るこ とが出来る。 更に、基礎の上段には複弁の反花が彫られている。 塔身の梵字は比較的穏やかで、胎蔵界四仏の種子 を表している。写真は「ア」で宝幢如来を象徴して おり、他の三面の梵字は「アー・アン・アク」であ る。胎蔵界四仏は余り知られていないのだが、ちな みに他の三仏は、開敷華王・無量寿・天鼓雷音、と されている。アン(無量寿)を阿弥陀と解釈する向 きもあり、この件は研究不足をお詫びせねばならぬ。 隅飾は三弧で、輪郭の中に月輪・梵字は通例なの だが、梵字が四方で変っているのが特徴である。写 真の左隅飾は「ア」で、他に「アン・アク」が見ら れた。ここにも、胎蔵界四仏が彫り込まれているよ うだ。 相輪は伏鉢、請花が完備し、九輪の内の二輪が残 されている。 |
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| 鏡山旧西光寺跡宝篋印塔 (滋賀県竜王町) |
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この宝篋印塔の前に立つと、直ぐに気が付く ことが二つある。 一つは塔身の四隅に立った梟(フクロウ)ら しき鳥が彫られていること、もう一つは基礎部 分の格狭間に向き合った二羽の孔雀が彫られて いることである。 塔身の鳥形は宝篋印塔の原形とされる中国の 銭弘俶(せんこうしゅく)塔に由来するもので、 京都の北村美術館に在る旧妙真寺宝篋印塔と並 び称されるものである。 北村美術館の塔はほとんど見学不能であり、 おまけに撮影禁止なので、ここの写真は大変貴 重だと言える。 塔身の梵字は、金剛界四方仏を象徴している。 基礎の格狭間は背面を除く三方に彫られ、中 にいずれも近江らしい模様である孔雀が意匠さ れている。石塔巡りの中で孔雀の文様を発見す ると、とても嬉しく感じるのは何故だろう。 切石による二段の基壇、基礎上部の複弁反花 座などが、この宝篋印塔の印象を壮麗なものに している。 やや反った三弧の隅飾には輪郭・月輪・梵字 が施されており、バン(金剛界大日)とカ(地 蔵)が交互に彫られている。 銘は無いが、総体的に鎌倉後期の塔と考えら れる。 |
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| 篠田神社宝篋印塔 (滋賀県近江八幡市上田町) |
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近江八幡市内に点在する宝篋印塔の内、鎌倉期の 作を三基見た。先述の東川町のもの、池福寺のもの、 そしてここ篠田神社のものである。池福寺の塔は鎌 倉中期と言われているのだが、残念なことにかなり 荒廃してしまっているようだった。 この塔は、神社への参道の西端に祀られていた。 基礎部分に正安三年(1301)の銘があり、鎌倉後期 の作であることが立証されている。時代を物語るよ うに、周囲の空気を緊張させる程の威厳に満ちた壮 麗な佇まいである。 開き蓮華の彫られた格狭間が優雅な基礎、その上 の複弁反花、金剛界四仏の梵字種子が四方に彫られ た塔身など、完璧とも言えそうなバランス感覚で造 立されている。 塔身の種子が、月輪内で蓮華に乗っているという のが珍しいかもしれない。 隅飾が立派で、三弧の輪郭内に蓮華に乗る月輪が 浮彫され、その中に梵字「ア」が彫られている。 年代や地域が似ているからなのか、先述の弓削の 阿弥陀寺宝篋印塔にとても類似しているように感じ られた。 失われた相輪の位置に、小さな宝篋印塔の部材が 置かれている。乾徳寺の項でも述べた通り、こうし た風潮は石造美術界の恥であり、管理者の見識が疑 われるものと知るべきだろう。 |
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| 東川宝篋印塔 (滋賀県近江八幡市) |
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前述の弓削から日野川を渡った所が、近江八幡市 の東川という集落だった。 宝篋印塔は公民館にあるとのことで、訪ねてみる と、館前の広場一杯に地蔵盆の準備のため資材が積 まれていた。 宝篋印塔が目的だと東京からの来意を告げると、 責任者の方は大層驚かれ、撮影が出来るように道具 などを整理して下さった。 高さが265cmもある大型の塔で、何故このよ うな場所にあるのかは町の人も御存知ではなかった が、地元豪族の追善供養塔である事は確からしい。 塔身に正和四年(1315)の銘が在り、れっきとした 鎌倉末期の宝篋印塔なのである。 相輪と基礎は後世のものだが、基礎上部の厚みの ある堂々とした複弁反花に圧倒される。このヴォリ ューム感溢れた事例は、そうは無いだろう。 塔身には金剛界四仏の種子が彫られている。蓮華 に乗る月輪の中に梵字があるが、在銘のアク(不空 成就)部分にのみ月輪は無い。写真はタラークで、 宝生如来を象徴している。 隅飾は別石であり、三弧輪郭付きで微かに外側へ 傾斜している。 部分的に欠落はあるものの、当代の雄渾さを良く 表した秀逸な宝篋印塔だろう。 |
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| 徳源院宝篋印塔群 (滋賀県米原市) |
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伊吹山の南麓、旧山東町の清滝にある名刹とし て知られる。旧中仙道の柏原宿から山間に入った、 静かな聖域である。 三重塔の奥に広大な墓所があり、石段を登った 細長い高台に、先祖代々近江の守護職だった近江 源氏佐々木京極氏の墓塔が十八基、横一列に並ん でいた。 大小の差異はあるものの、いずれも大型の宝篋 印塔であり、古塔を中心に居並ぶ光景は誠に壮観 だった。 初代京極氏信塔の永仁三年(1295)から、十八代 高吉塔の天正九年(1581)までが揃っている。時代 の変遷に伴って、宝篋印塔の様式がどう変わって いくのかを学ぶ最良のテキストとなっている。 写真は、右が初代氏信塔である。隅飾は三弧で、 蓮華座に月輪内の梵字「ア」が彫られている。塔 身には堂々たる筆致の金剛界四仏種子、基礎の格 狭間には近江特有の三茎蓮華を見ることが出来る。 基礎上部には反花も彫られており、鎌倉後期らし い重厚さの中に、卓越した意匠の装飾を施した傑 作であると思う。 左は三代貞宗塔で、嘉元二年(1304)の銘のある、 これもほぼ同様の意匠で飾られた鎌倉後期の秀逸 な塔である。 ちなみに、十九代以下京極高次までの宝篋印墓 塔は、手前の下の段に並んで建っていた。 |
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| 青岸渡寺宝篋印塔 (和歌山県那智勝浦町) |
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熊野詣でと西国巡礼(第一番札所)を兼ねて、 この寺を訪ねた。展望台から眺める三重塔と那 智大滝の絶景に歓声を上げ、それからふと振り 返った時、何とも豪壮なこの塔が目に飛び込ん できたのである。 重要文化財「宝篋印塔」元亨二年(1322)、と 書かれた看板が横に立っている。 京都などのものと比べ、全体に野太い印象を 受けるが、随所に手をかけて施された意匠を見 る事が出来る。 塔身の梵字は金剛界四方仏で、正面の「アク」 から左に「ウン」「タラーク」「キリーク」が 彫られており、其々が不空成就、阿シュク、宝 生、阿弥陀の各如来を象徴している。 見事な格狭間を彫った基礎の上下に複弁反花 が意匠されていて、剛毅な中に繊細な美意識が 散りばめられている感がする。 隅飾はやや小さい二弧式で、輪郭の中に月輪 を浮き彫りとし、中に梵字が刻まれている。 大勢の参詣が有るにも関わらず、この見事な 石塔に目を向ける人がほとんど居ないというの は余りにも残念でならない。 |
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| 浄妙寺宝篋印塔 (神奈川県鎌倉市) |
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金沢文庫から朝比奈峠を越えて鎌倉に入ると、 最初に御目にかかる名刹である。 階段を上り山門をくぐると、そこはもう仙境と いった風情の寺である。 本堂裏手の高台が墓地になっており、この宝篋 印塔はすぐ手前のテラスのような開けた場所に建 っていた。 この搭は石造美術の本で取り上げられることは 比較的少ないかもしれない。紀銘年が室町最初期 の明徳三年(1392)だからであろうか。 私は年号に関係なく、名品として印象に残った ので取り上げてみた。 時代を良く表しているのが、隅飾りの傾斜であ る。時代が下るほど、傾斜が外に向かって開いて くるのが面白い。ここでは、やや傾斜し始めてい る程度であり、南北朝から室町にかけてという時 代が設定できるのである。 搭身の座仏浮彫が印象的だったし、反花座で仕 切られた二段の基礎も鎌倉らしい様式である。上 段は二区に仕切られ、下段は二区格狭間が彫られ ている。 相輪は新しいような気がするが、様式は整って おり、関東様式の宝篋印塔として見応えのある作 品である。 |
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| 安養院宝篋印塔 (神奈川県鎌倉市) |
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安養院は坂東巡礼の第三番札所となっており、 第二番札所のある逗子から通じる街道沿いに在る。 現在の寺域はさして広くはなく、山門を入ると 直ぐ正面が本堂である。 重文に指定されたこの宝篋印塔は、本堂の真裏 に建っている。 基礎の反花座は見事な彫りであり、基礎、搭身、 笠の上の露盤などに至るまでが輪郭線で彫り込ん であるところが関東形式の特徴であるが、当搭は その特徴が最も美しく表現された最高傑作のひと つだと言えるだろう。 高さが3.35mという大型の石塔ながら、各 部分に繊細な表現が成されていて大味な印象は微 塵も感じさせない。 搭身には梵字で金剛界四仏が彫られており、蓮 座と共に洗練された筆致で彫られている。時代が 後期なので、初期の板碑などに見られる雄渾な梵 字でないのは致し方の無いところだろう。左が阿 弥陀如来(キリーク)、右は宝生如来(タラーク)で ある。 相輪はどうやら後補のようである。 基礎の一部に、徳治三年(1308)の紀年銘があり、 鎌倉の宝篋印塔としては御坊谷に在る搭の窪やぐ ら内のものに次いで古いものである。 それにしても、余りの秀麗さに息を呑むようで、 しばらくは立ち去りがたい思いに駆られていた。 |
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| 風立寺宝篋印塔 (山形市下東山) |
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「ふうりゅうじ」と読む寺で、山形から山寺へと 向かうJR仙山線の高瀬駅から、少し山間に入った 場所にある。 ここに東北では貴重な、鎌倉期と思われる宝篋印 塔の遺構が保存されている。 宝篋印塔は阿弥陀堂の右手奥、少し小高くなった 斜面に、写真のように少し傾いて建っていた。 基礎の側面は無地だが、上部に厚みの無い三段が 設けられ、その上に塔身が乗っている。 塔身の正面だけだが、蓮華座に乗る月輪の中に、 梵字「アーク」が彫られている。これは、胎蔵界大 日如来を象徴しており、他の面は無地のままである。 笠は上部五段に二区の露盤、下部は薄い三段とい う変則的な造りである。 最大の特徴は隅飾で、二弧輪郭付きの幅広な形は 余り類例の無い珍しいものと思われる。 軒の両端が斜めにカットされているので、隅飾も その傾斜に合わせてやや外側に反っている。 相輪は失われ、全体的に荒れ果てた印象は拭えな いが、見るからに凛とした古色の風貌と、歴史が醸 し出す立ち上がって来るような香りとが、この旅で 捨て難い感動を与えてくれたのだった。 |
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