日本の石塔
五輪塔
五輪卒塔婆・笠塔婆など
| 主に五輪塔を、そして五輪卒塔婆、笠塔婆など、その他の石造美術に ついても探訪してみたい。中世以降、従来は五輪思想を象徴する供養塔 であったものが、次第に墓碑として建立されるようになった。 従って、五輪塔の探訪は必然的に墓地を歩くことになる。旅に出て墓 の写真ばかりを撮っている小生の姿を、友人達は不思議がるばかりだ。 宇宙を構成する五輪(空・風・火・水・地)は、梵字種子(キャ・カ ・ラ・バ・ア)で表される。 |
![]() |
五輪塔群 石塔寺 滋賀県東近江市蒲生町 どんな信仰が こんな景観を生む のだろうか。 |
|
| |
| 不動院跡五輪塔群 (大分県国東市国東町) |
| |
![]() |
国東半島の東、旧国東町の浜崎という集落の 西側、小さな丘状の森の中に、写真のような奇 妙な形の五輪塔が七基、不規則に並んでいる。 かつては九基在ったそうだが、「浜崎祖形五輪 塔群」と呼ばれる史跡として保存されている。 通常の五輪塔は、空輪と風輪が一体化する場 合は多いが、基本的に五輪は別石である。 ここの祖形五輪塔は七基とも通常のものとは 違って、一石から五輪が彫り出されている。 五輪それぞれの形もユニークであり、押しつ ぶされたような何とも異様な風貌である。 火輪(笠)にはほとんど反りが見られず、水 輪は偏平な球体というよりはタイヤ状といった ほうが近いかもしれない。 この古式一石五輪塔は畿内や関東ではほとん ど見られないのだが、後述の大分臼杵の中尾五 輪塔にかなり類似していると思う。 中尾のものには嘉応二年(1170)という平安末 期の年号が彫られているのだが、残念ながらこ ちらには見られない。だが、屋根の反りや球体 の偏平度合いから、時代的にはこちらのほうが やや古いのではないかと思われる。 |
|
| |
| 大聖寺跡五輪塔群 (大分県国東市) |
| |
![]() |
素晴らしい国東宝塔と板碑を保存す る長木家墓地が在る堅来からほど近い、 来浦という集落の外れにこの寺院跡が ある。偶然通りかかって発見した場所 である。古びた五輪塔が、私達を呼び 止めたかの印象を受けた。 大聖寺は延文三年(1358)の創建だか ら、南北朝中期ということになる。 この地の豪族の供養塔群らしいが、 ここには新旧取り混ぜて祀ってある。 写真は特に古そうな部分を撮ったもの である。 右端の五輪塔が一番気に入ったもの で、笠の傾斜である流れが直線的であ り、軒が薄く反りが緩やかであること や、水輪が扁平で大らかであることな ど、鎌倉初期をも思わせる風貌ではな いだろうか。寺の建立以前の墓とも考 えられる。 荒廃しきった寺院の跡、つわもの達 の夢や怨念を連想するに相応しく、苔 むした五輪塔達は無言のままだった。 |
|
| |
| 最明寺五輪塔 (大分県宇佐市安心院町) |
| |
![]() |
今は宇佐市に併合されているが、かつては宇佐 郡の安心院(あじむ)町であり、このお寺は下毛 という集落の中にある。 寺の建築は再建された新しいものだが、境内入 口近くの塀の内側に沿って、五輪塔が三基、基礎 をコンクリートで固めた状態で並んでいた。 写真の五輪塔はその内の一番右側に建っている 塔で、形の良いアングルということで、塀越しの 斜め背後から撮影したものである。 高さは106cmで凝灰岩製、塔の四方に五輪 塔四門の梵字(東門はキャ・カ・ラ・バ・ア)が 月輪の中に彫られている。 写真に見える面の梵字は五輪塔南門で、上から キャー・カー・ラー・バー・アーを表している。 梵字の彫りがやや浅いことや、火輪(笠)の反 りが小さいこと、また笠の上部に風輪の乗る露盤 のような作り出しがあること、などが大層古風な 風貌を示していると言える。確かに、水輪部分に は正元々年(1259)という鎌倉中期の銘が見られ、 こうした印象を裏付けている。 月輪の中に梵字の彫られた五輪塔は品格に満ち ており、かなりの上流階級の供養塔(または墓) と見てよいと思う。 |
|
| |
| 御霊神社五輪塔群 (大分県別府市) |
| |
![]() |
別府温泉郷八湯のひとつ亀川温泉から山手へと 入ると、そこは血の池地獄などで知られる柴石温 泉へと通じている野田という地区である。そこか らさらに山へ分け入った羽室という鄙びた集落に、 この神社がひっそりと建っていた。 小さな社殿の背後左右両側に、五輪塔・国東型 宝塔・角塔婆・板碑など二十基余りの石塔が祀ら れていた。 鎌倉から室町期にかけてこの地を治めていた、 竈門(かまど)氏一族の墓所と考えられるらしい。 写真は、本殿左に建つ四基の五輪塔の内で最大 の塔で、高さは220cmある剛毅な佇まいだ。 以前、嘉元四年(1306)という年号の五輪塔の存 在が確認されたというのだが、該当する銘の彫ら れた五輪塔は現存せず、摩滅してしまったのか、 またこの塔がそれに当たるのかもはっきりしない。 しかし、この五輪塔の風貌からも、鎌倉末期は 下らないであろうことは明白であり、石塔群の中 の白眉であることには違いは無い。 二重台座で上段は側面二区の格狭間が彫られ、 別格の人物を祀った可能性が強い。 最大の特徴が梵字で、写真の正面は下から「ア ・ビ・ラ・ウン・ケン」と彫られている。これは 大日如来三身真言の内の報身真言である。 右側に見える梵字は、やはり下から「ア・バン ・ラン・カン・ケン」で同じく三身の内の法身真 言であり、他の二面には応身真言と金剛界五仏の 種子が彫られている。 大層珍しい梵字の配列だが、豊後には事例も在 るそうで、事実次の大野ですぐ遭遇することとな った。 |
|
| |
| 常忠寺五輪塔 (大分県豊後大野市大野町) |
| |
![]() |
豊後大野市は、かつての大野郡大野町や犬飼、 三重、緒方など、石造美術には縁の深い七町村の 合併で出来た広範な市である。 このお寺は、旧大野町の藤北という大層鄙びた 山村に、小さなお堂としてひっそりと建っていた。 本堂の背後の小高い場所に、大小十数基の五輪 塔が並んでいた。 中でも一番目を引くのが写真の五輪塔で、高さ は2mちょっとありそうだった。 地元では、豊後守護職であった大友氏初代大友 能直の供養塔とされており、もしそうだとすれば 当然鎌倉期の塔ということになる。 しかし、水輪がやや細長め球形であり、空輪と 風輪の背が余りにも高いことから、私の見た限り でも鎌倉期の様式とは異なった、かなり近世の塔 だと思えないこともない。 次の問題は梵字である。写真の梵字を下から読 むと「ア・ラ・ハ・ウーン・バン」である。そん な配列は在り得ず、これは前述御霊神社のものと 同じ大日如来応身真言「ア・ラ・ハ・シャ・ナウ」 と金剛界五仏「アク・キリーク・タラーク・ウー ン・バン」とが混在しているものと思われる。 つまり、上部の空輪・風輪の向きが違っていた らしい。現地で判っていたら直したのだが、市の 文化財だけに早急に向きを直していただきたい。 大日如来三身真言を彫った石塔の大半が鎌倉期 のものであることから、市も鎌倉期のものとして 指定しており、何とも謎めいた石塔である。 |
|
| |
| 日吉神社五輪塔 (大分県臼杵市深田) |
| |
![]() |
臼杵の石仏群を巡る遊歩道の途中、山王石仏と 古園石仏とのほぼ中間に、左手の山の上にある日 吉神社へと通じる小路がある。 急坂を登り、日吉社を左に見ながら更に登った 左手の薮の中に、この小さな五輪塔が石柵に囲ま れて祭られていた。 高さは1m余りだが、地輪の高さが不明なので 正確には判らない。 一石から彫り抜いた石塔で、堂々たる風輪、軒 の反りが少なく屋根の傾斜が小さい笠(火輪)、偏 平な球体の水輪など、小振りながらまことに剛毅 で端正、まことに均整の取れた美しい五輪塔であ る。 紀年銘など一切無いので、年代は形態から判断 するしかない。まあ、これが最高の楽しみのよう なものではあるのだが。 後述の中尾にある承安塔に類似していることか ら、制作時代は平安末期から鎌倉初期にかけての もの、と言っておけば間違いは無いだろう。 特に、笠の形態がとても似ており、同じ一石五 輪塔でも後述の備後尾塔の笠と比べれば、明らか にこちらの方が古式であろう。 材質はこの地に多い凝灰岩でやや荒削りにも見 えるが、五輪塔そのものが示すほのぼのとしたフ ォルムの原形を見るような気がして嬉しい気分に なっていた。 |
|
| |
| 中尾五輪塔 (大分県臼杵市深田) |
| |
![]() |
日吉神社の五輪塔からさらに山道を進み、竹薮 を抜けた辺りから少し崖下へ下って行く。 そこはちょうど、臼杵石仏群の堂ケ迫石仏背後 の崖上に当たる場所である。 木造の覆屋の中に、大小二基の一石造り五輪塔 が保存されている。 写真は大きい方で154cmあり、地輪の梵字 「ア」の右側に「嘉應弐」と記されていて、この 塔が平安末期を示す嘉応二年(1170)に制作された ことが判る。 国東の不動院跡でこの手の古式五輪塔を見てい たのでそれ程驚かなかったが、初めて見ればやは りかなり衝撃的なフォルムだろう。塔のルーツが インドのストゥーパにある、という説の証しにな っているかのようだ。 梵字は下から「ア・バン・ラン・(カン・ケン)」 で、これは豊後各地で見た大日法身真言である。 他の二面に報身真言・応身真言が彫られて大日 三身真言を構成していることは共通しているのだ が、もう一面に胎蔵界五仏の種子が彫られている のが珍しかった。他は全て金剛界五仏である。 小さい方の一石五輪塔は102cmで、前述の 日吉社五輪塔にとてもよく似ている。 こちらには承安二年(1172)という、これも平安 末期の銘がある貴重な遺構だ。梵字は四面共、大 日法身真言の五文字が下から刻まれている。 |
|
| |
| 備後尾五輪塔 (大分県臼杵市野津町) |
| |
![]() |
この辺りは現在は臼杵市に併合されたが、かつ ては大野郡野津町であった。 旧野津町の八里合という地区にこの五輪塔があ ることは知っていたのだが、備後尾(びごの)五 輪塔とか都留平(つるびら)五輪塔などと表記さ れているので、正確な所在は不明だった。 レンタカーのナヴィゲーター地図に、重要文化 財五輪塔として∴印が記されていたので、その地 点まで行ったのだが、そこは会社の倉庫だった。 会社の方に伺って、裏山に整備保存されている 五輪塔までようやくたどり着くことが出来た。 この五輪塔も凝灰岩製で高さ106cmという 小振りな一石造り五輪塔で、近年建てられたと思 われる立派な覆屋の中に鎮座していた。 ふっくらとした宝珠(空輪)と半球(風輪)が 笠(火輪)に食い込むように載っている。 やや厚みのある軒は美しい反りを見せ、水輪の 球体は押しつぶしたような偏平な形である。 銘文が、写真にも微かに写っているが、笠 (火 輪)部分の梵字「ラン」の両側に記されている。 年号は弘安八年(1285)で、右為?蓮?と彫られて いるので、?蓮という人の供養塔として建てられ たものだろう。 四方に五輪塔四方門の梵字(種子)が彫られてい るが、写真に見える梵字は西側の菩提門であり、 上から「ケン・カン・ラン・バン・アン」と読む。 鎌倉中期とは思えない程の、古式の風格を備え た逸品だろう。 |
|
| |
| 松尾五輪塔 (大分県臼杵市野津町) |
| |
![]() |
前記の八里合から県道を西南にしばらく走ると、 亀甲という地域に入る。ここから右へ折れれば野 津の中心街へ、直進すれば水地の石造九重塔から 風連鍾乳洞へと通じる分岐となっている。 そこから左折して山裾の方へ向かい、これ以上 車が進めなくなった所で、右手の小高い丘へと登 って行くと、この堂々たる五輪塔が私達の訪問を 待っていたかのような風情で建っていた。 実は、案内の標識に従って行けたので、迷うこ とが少しも無かったのだった。 私はこの五輪塔を見て、即座に前述の宇佐安心 院の最明寺五輪塔を思い出していた。 最明寺の五輪塔の特徴であった笠上部の露盤は 見られないのだが、全体のシルエットはとても類 似しているように思えたのである。 笠の傾斜が緩いこと、軒が薄く反りが少ないこ と、水輪の球形がやや偏平なこと、梵字が月輪の 中に彫られていること、などがそうした印象に繋 がったものと思われる。 梵字は、五輪塔四方門が、塔の四方に彫られて いる。写真に写っているのは北側涅槃門で、上か ら「キャク・カク・バク・ラク・アク」と読む。 銘文は無く、制作年代は不明で、大半の石造美 術書には取り上げられていないが、鎌倉期は下ら ない傑作のひとつだと確信する。 |
|
| |
| 一乗寺五輪塔 (兵庫県加西市) |
| |
![]() |
ここは西国三十三観音巡礼の第二十六番札所で、石 段で通じる山腹の本堂へと先ず詣でた。御本尊は聖観 音菩薩である。 境内は広く、石造美術の宝庫と言われるだけに、随 所に古びた石塔が数多く残されている。 奥の院の石造宝塔などを見た後、石段の下の林の中 で、木製の柵に守られたこの写真の五輪塔をようやく 探し当てた。 隙間の狭い柵が邪魔になって、側面からの写真を撮 ることがどうしても出来なかった。 苦肉の策で、上方からワイドレンズで撮ったのだが、 五輪塔のあるべき美しさが表現出来なかったのは残念 だった。 火輪の屋根の勾配がやや強く、少し厚めの軒の両端 がキュっと反っている。 写真では判らないのだが、水輪は球形の下部が細ま った縦長の壺形である。また、基礎地輪の下部の巾が 上部より少し狭まった矩形になっており、同じ鎌倉期 にあってもかなり後期の様式を示すものだろう。 地輪正面に刻銘があり「権律師、元亨元年(1321)」 と読める。どうやら没年らしく、五輪塔の様式もその 年号から近い鎌倉末期と考えられる。 四方の梵字は四方門種子で、写真では北側涅槃門の 「キャク・カク・ラク・バク・アク」と、西側菩提門 の「ケン・カン・ラン・バン・アン」が上から読める。 |
|
| |
| 勝尾寺五輪塔 (大阪府箕面市) |
| |
![]() |
箕面の応頂山勝尾寺は、西国三十三ケ所観音霊 場巡りの第二十三番札所である。 近年の観光化は著しく、巡礼者にも入山には拝 観料がかかる。山門をくぐると、歓迎の意味なの か噴水が上り、水煙がたちこめる仕掛けがしてあ る。霊場がテーマパーク化しているかの様相だが、 「これも仏縁」と言うには、ちょっと違った方向 を目指しているように見えてならない。 御本尊の十一面千手観音に詣でた後、私達は伽 藍の横から奥の院へと通じる石段を登って行った。 写真の五輪塔にたどり着くまでには、相当の石段 に汗を流さねばならず、あんなに大勢いた観光客 の姿はここには全く見当たらない。 久しぶりに見る抜群の造形美に、私達は思わず 見惚れてしまっていた。 剛毅さの中に、大らかな気品とはかなさを感じ させる静かな存在感。 誰もが蓮の花の蕾と称する宝珠(空輪)が大ら かであり、火輪(笠)の屋根の勾配や軒の反りが 泰然と緩やかで、水輪が少し歪んだ球形であるこ と、などからは、この五輪塔が平安末期の上質な 品性を遺伝子的に受け継ぎながら、鎌倉期の磊落 な造形へと進んでいく過程で咲いた大輪、といっ たイメージを受けた。 四方の梵字は五輪塔四方門種子で、浅い薬研彫 りの書体はやはり気品に満ちている。 |
|
| |
| 西南院五輪塔 (和歌山県高野町) |
| |
![]() |
高野山の大門に最も近いこの寺には、 現代庭園の鬼才重森三玲氏の作品が在る。 その庭園の最奥に、美しい四基の五輪塔 が並んでいた。 いかにも古びて苔むしてはいるが、均 整のとれた何と素晴らしい石塔であろう か。 右端は弘安七年(1284)の作で、梵字は 下から「ア・ビ・ラ・ウン・ケン」とい う大日報身真言が刻まれている。 二番目の五輪塔は弘安四年(1281)で、 梵字は五輪塔の種子である「キャ・カ・ ラ・バ・ア」が見える。 三番目は弘安六年(1283)で、種子は大 日報身真言である。 一番手前は地輪に建長八年(1256)の銘 があるが、上部は後補である。 中の二基は一石で彫られているが、笠 の反り具合や風輪と火輪の一体化など、 全体にキリっとした美しさを見せている。 奥の院に並ぶ桃山・江戸期の一連の武 将の五輪塔を見ると美意識の退化は歴然 としており、名品遍歴は自ずと鎌倉期へ と回帰せざるをえなくなるのである。 |
|
| |
| 高野山町石五輪卒塔婆 (和歌山県高野町) |
| |
![]() |
高野山の麓の慈尊院から壇上伽藍を経由して 奥の院まで、一町毎に217基立てられた町石 で、五輪塔の地輪を長くした卒塔婆である。現 存する当初のものは180基弱とのことで、写 真は奥の院20番の町石である。 文永二年(1285)から年々造立されたといわれ、 近年改修されたものも在ると聞く。写真のもの がいつ造立されたかは不明だが、火輪の笠の反 り具合や各輪の姿からは、鎌倉後期の美意識が 感じられ、古いものであることは確かである。 彫られた梵字は上から五輪塔の種子「キャ・ カ・ラ・バ・ア」だが、その下の本尊とおぼし き種子は苔むして判断出来なかった。 それにしても、鎌倉期の石造卒塔婆を一町毎 に見ながら、奥の院弘法大師廟所まで参詣をす るという、何とも贅沢な旅であった。 御廟橋より奥は撮影禁止だったので、御廟の 脇に在った36番目の町石と嘉元二年銘の美し い五輪塔は、眺めるだけでその写真は諦めた。 |
|
| |
| 談山神社摩尼輪塔 (奈良県桜井市多武峰) |
| |
![]() |
日本に残る唯一の木造十三重塔を観 に、私達はこの美しい朱塗りで総桧皮 葺の神社を訪ねた。紅葉で有名な多武 峰(とうのみね)だが、この時は新緑 の鮮やかな季節だった。 俗界から仏界までの五十二位を一町 毎に示した丁石の終点に、この妙な形 の石塔が建っていた。 柱身が八角の笠塔婆であり、摩尼輪 塔と呼ばれている。乾元二年(1303)の 刻銘があり、確かに笠の反りなどに鎌 倉中~後期の特徴が見て取れる。 月輪内の梵字は胎蔵界大日如来を表 す種子「アク」であり、塔身の八面は 胎蔵界中台八葉院という曼荼羅を示し ている。梵字は薬研彫りの雄渾な筆致 であり、とても美しい。 類例のない石塔としても貴重な存在 で、周辺の景色をも緊張させる存在感 がある。 |
|
| |
| 興融寺五輪塔 (奈良県生駒市) |
| |
![]() |
円福寺で宝篋印塔の傑作を見た後、同じ生駒 有里の二つの寺、竹林寺とここ興融寺を訪ねた。 境内に残る石造五輪塔を見るため、である。 鎌倉後期の端正な竹林寺五輪塔と比べると、 この塔はいかにも荒削りであり、はじめの内は 素朴さと言うよりも稚拙さの方が強く感じられ たのだった。 だが、表面的に感じていた印象とは別に、写 真を撮るためにファインダーを覗いていると、 フォルム全体に漂う落ち着いた貫禄と、プリミ ティブな美しさを備えていることに気が付いた。 てっぺんのずっしりとした空輪、厚めの火輪、 少し肩の張った水輪など、古武士の様な風貌で ある。 水輪の四方に梵字が彫られている。摩滅して 判然としないが、どうやら金剛界四仏ではない だろうかと思う。 基礎の地輪部分に年号らしき文字が彫られて いるが、拓本にでも採らねば判らないだろう。 鎌倉中期は下らないはずである。 帰る頃には、立ち去りがたいほどの愛着を感 じるまでになってしまった、不思議な五輪塔と の出会いであった。 |
|
| |
| 額安寺五輪塔 (奈良県大和郡山市) |
| |
![]() |
鎌倉時代の窯跡で知られる額田部という集落に この寺が在り、集落北側の鎌倉坂を登ったところ に寺の古い墓地がある。 ここに八基の五輪塔が一列でカギ形に並んでお り、その全てが鎌倉時代後期のものである。 しかも一括して重要文化財に指定されている、 というのは大変珍しい。 写真はその内の一基で、一番南側に建つ最大の 五輪塔である。高さは2.8m弱という大きな石塔 で、ここから西大寺忍性の墓誌を刻んだ蔵骨瓶が 発見されていることから、忍性の分骨をした塔で あろうと思われる。 各輪の均整が取れた見事な造形であり、特に笠 火輪の軒両端の反りが鎌倉らしく剛毅である。 空・風輪の姿も堂々としており、水輪のバラン スも申し分ない。 他の七基にも質の高い造形が成されており、そ の内の二基には、永仁五年(1297)の年号が刻まれ ている。 なお、額安寺には、門前の池の中島に建つ美し い宝篋印塔が在るのだが、雑草や植栽が繁茂して いてほとんど見えなかった。 |
|
| |
| 当麻北墓五輪塔 (奈良県葛城市) |
| |
![]() |
当麻寺の北側斜面に古い共同墓地があり、その 登り口付近に中世の十三重石塔などと共に、この いかにも古そうな五輪塔が一段高い墓所の中に建 っているのが見えた。 最初の印象は、五輪塔というよりも宝塔ではな いかと思ったのだが、それは通常は球形に近いは ずの水輪が、ここではやや細長い壺型をしていた からだろう。 しかし、五輪塔の四方門を表す梵字種子が刻ま れているので、すぐに第一印象が間違いであった 事を知った。 写真は東側の発心門を表す「キャ・(カ)・(ラ) ・バ・ア」なのだが、風輪と水輪の梵字は摩滅し て見えない。梵字は誠に雄渾な筆致であり、古色 を示す深い薬研彫りの手法で刻まれている。 笠の屋根の傾斜は緩やかであり、軒反りは堂々 として厚く、地輪は低くどっしりとした感じを抱 かせてくれた。 まことに古色蒼然とした名品であり、その大ら かな荘重さは鎌倉時代を越え、平安末期をも想定 させてくれる。 この石塔が国の重要文化財に指定されている、 と聞いて驚いた。卓越した見識を持つお役人も居 たのだ、と認識を改めたのである。 |
|
| |
| 不動院五輪塔 (奈良県山添村) |
| |
![]() |
奈良の都からは約20Kmと近いのだが、大和 高原の東山中と呼ばれるこの辺りはいきなり山 里へ飛び込んだような風情が感じられる場所で ある。 この寺は春日という集落の奥まった所にひっ そりと建っており、境内はのどかな山寺の雰囲 気であった。 小さな山門を入ると、すぐにこの五輪塔が目 に入る。 写真には写っていないのだが、基壇の側面は 二区に仕切られ、各区に格狭間が刻まれている。 その上に複弁反花座が設けられ、さらにその 上に五輪塔が載るという、大和に多い様式であ るとはいえ、山里の小寺とは思えぬ誠に立派な 構成になっていた。 基壇も入れて1.8mの高さなので、格別大き くはないのだが、きりっとした立ち姿が上へと 伸びて行くような鋭さを感じさせた。 火輪の軒は分厚く、両端が豪放な反りを見せ ており、やや扁平な水輪など鎌倉後期の優等生 といった愛すべき作品である。 地輪には法華経の中の偈が彫られ、正和二年 (1313)という年号が記されている。 ここにはもう一基、文保元年(1317)の銘があ る美しい宝篋印塔を見逃してはならない。 |
|
| |
| 西大寺奥の院五輪塔 (奈良県奈良市) |
| |
![]() |
現在の西大寺の寺域からは西北に約1Km離れ た場所に、石塔院または奥の院と呼ばれる一画 が在る。そこが西大寺中興の祖である興正菩薩 叡尊の霊廟であり、写真の壮麗な五輪塔が祭ら れていた。 高さ3m以上の雄大な塔で、切石を組んだ二 段の基壇を築き、さらに繰形座を設けてその上 に五輪塔が据えられている。威風堂々たる格式 と、雄渾な造形性に圧倒され、思わずは目を見 張らされてしまった。 やや裾広がりな台形状の地輪の上に、どっし りと扁平な球体の水輪が載っており、質実な安 定感を感じさせる。 火輪の軒は厚く、その両端が微塵の躊躇も無 く強く反っている。 鎌倉時代後期の最も完成された様式の典型、 とも言えるような見事な五輪塔だ。余りに隙が 無さ過ぎて、やや愛嬌に欠けるとすら思えてし まうほどの絶品だと思う。 旅の途上で、こうした歴史的名作に出会える ことは無類の楽しみであり、更なる未知の美し い作品に対する好奇心を一層刺激されてしまう ことになるのである。 |
|
| |
| 忍辱山墓地五輪塔 (奈良県奈良市) |
| |
![]() |
忍辱山円成寺に詣で運慶の傑作を拝した後、私 たちは山門を出てから、反対側の山へ続く細い道 を登って行った。この地区の老人達が楽しむゲー トボール用のグランドの脇を抜けると、そこが昔 からの共同墓地になっている。一人の老婆が、五 輪塔の所在と行き方を教えてくれた。 この墓地は大層古いようで、中世の石仏や石塔 が至る所に散在しており、まるで石造博物館を逍 遥する気分である。 五輪塔は松林に囲まれた一番高い位置に建って おり、墓地全体を供養するための塔としての役割 があったものと思われる。 火輪の軒の厚さや反り具合は典型的な鎌倉後期 の様式を示しているのだが、水輪の球形にやや不 安定な感じがするのは、下へ向かってややすぼん でいるからだろうか。 地輪の部分に元亨元年(1321)とあり、鎌倉末期 を証明している。 基礎に複弁反花座が設けられているのは、いか にも大和様式を象徴しているように感じられる。 麓へ戻る私と家人に、ゲートボールに興じてい た老人達が手を振っていた。 |
|
| |
| 伴墓三角五輪塔(奈良県奈良市) |
| |
![]() |
三笠山山麓にはかつて東大寺の末寺が在ったが、 現在は三笠霊園となっており、その一画が東大寺 墓所となって伴(とも)墓と呼ばれている。 急な斜面を登った場所で、般若寺方面に眺望が 開けている。 片隅にひっそりと建つこの五輪塔は、よく見る と通常のものとは違う事が判る。それは火輪(笠) が通常の四角錐ではなく三角錐であること、また 笠の下端に軒の厚さが無いことである。 しかし、変則的な形式にもかかわらず、全体の フォルムがまことに美しい。 空輪が扁平であり、笠の屋根の線が外へ膨らん でおり、水輪がやや下膨れであることなどが、大 層古い形式で、鎌倉初期まで想定出来そうである。 この五輪塔は、元は東大寺の境内に建っていた のだが、江戸時代にここへ移されたらしい。俊乗 房重源との関係が考えられるが、現在五輪塔の横 に「俊乗房重源之墓」と記した石碑の信憑性は不 明である。 この三角五輪塔を真似た後世の五輪塔が、同じ 墓所内に数基建っていた。 |
|
| |
| 般若寺笠塔婆 (奈良県奈良市) |
| |
![]() |
この笠の付いた石塔婆は、かつては般若野と呼ば れた埋葬所に立っていたが、明治時代に般若寺境内 に整備されたという。 この塔婆が並立している姿は境内に異彩を放ち、 何とも美しいのだが、それはきっと、鎌倉期らしい 笠の軒反りや宝珠の形などと共に、塔身に彫られた 梵字の見事さに起因しているらしい。 石工の始祖伊行末の子伊行吉が、両親の菩提の為 に建立したとされる高さ5mの見事な塔婆である。 右の塔上部の梵字は釈迦三尊と胎蔵界五仏を、そ して左は阿弥陀三尊と金剛界五仏をそれぞれ種子で 象徴しているのである。大日・阿しゅく・宝生・阿 弥陀・不空成就の金剛界五仏はなんとかなるが、胎 蔵界については、大日以外何かの本を見ないと思い 付かない。 知らないことを書いても仕方ないから書かない事 にするが、「アーク・ア・アー・アン・アク」と読 むことは出来そうだ。 いずれにせよ、刷毛書の梵字の美しさには、見惚 れてしまう程の魅力が感じられる。 |
|
| |
| 上品蓮臺寺真言院五輪塔 (京都市上京区) |
| |
![]() |
上品蓮臺寺は十二の子院が在ったことから、 十二坊と呼ばれるほどの京都有数の古刹であっ た。現在は四院を残すのみだが、それでも千本 通りに面して長い築地塀が続き、かつての威容 を留めている。 本寺の北に隣接するのが四院の一つ真言院で あり、その本堂裏の墓地の中央に写真の五輪塔 が建っている。 余り有名なものではないが、鎌倉期の特徴を 備えた美しい塔である。 ふっくらとした空輪、力強さの見える笠の軒 反り、球形のわりと高い水輪などが、鎌倉も比 較的後期ではないかと思わせる。 後述の知恩院のものにとても似ているような 気がした。 五輪塔に興味の無い人の目には、どれもこれ も同じ単なる墓石としか写らないらしい。しか し、部品は同じでも微妙な形の差や配列の違い によって、千差万別となる人の顔に似て、たっ た五つの要素から成るこの塔も、まことに様々 な表情を見せてくれるところが面白い。 源頼光が大蜘蛛を退治したと伝えられる頼光 塚が、墓地の隅に在った。 |
|
| |
| 妙覚寺笠塔婆 (京都市上京区) |
| |
![]() |
堀川紫明から少し入った所に、日蓮宗由緒寺院 の一つである妙覚寺が在る。 永和4年(1378)の創建で、かつては塔頭百余と 言われるほどの栄華を誇った。豊臣秀吉の時代に 現在地に移転したという。 本寺境内から少し北西に離れた場所に、妙覚寺 墓地が在る。狩野元信・永徳など、狩野一族の墓 が在ることで知られている。 その墓地の一画に、写真の三基の笠塔婆が並ん で建っている。手前から日像・日蓮・日朗の報恩 供養塔で、三菩薩題目笠塔婆と称している。 応永7年(1400)の銘が刻まれており、移転前の 草創期以来の石碑であることが判る。室町初期で あり、石造美術的にはやや衰退期となるのだが、 写真で御覧の通り大変優雅で品格の備わった笠塔 婆として貴重である。 宝珠がやや扁平であることや、笠の縁取り装飾 など、南北朝から室町にかけての特色が見える。 南無妙法蓮華経の題目は見事な筆で、台座の反花 装飾とともに風格を示している。 |
|
| |
| 行願寺五輪塔 (京都市中京区) |
| |
![]() |
行願寺は俗に革堂と呼ばれ、西国札所第十九番 の霊場である。京都御所に近く、寺町通りに面し て建っている比較的こじんまりとした寺である。 私達は今回二度目の西国巡礼のために訪ねたの だが、前回見落としていたこの五輪塔を観る事も 目的の一つだった。 本堂の十一面観世音に詣でてから、境内の北西 隅に建っている写真の五輪塔を観た。高さが3m はありそうで、かなり大きい事に驚いた。 寺は桃山時代に一条からこの地へ移転して来た そうで、五輪塔もそれに伴い移築されたという。 平安時代の開基が加茂明神を勧請して建立された 石塔と伝えられるが、塔の様式は明らかに鎌倉期 のものなので単なる伝承だろう。 火輪(笠)の形がなんとも美しい。微妙な反り がこの時代の美意識を象徴しており、軒裏にもう 一重の垂木型作り出しが彫られているのが珍しい。 鎌倉後期ではないかと思う。 五輪塔の建立に直接関係は無いが、この塔は京 都に伝わる忌明(いみあけ)塔の一つで、七七忌 の喪明けに詣でるという室町時代以降の習俗があ ったという。 |
|
| |
| 宝篋院五輪塔 (京都市右京区嵯峨) |
| |
![]() |
嵯峨野は何度も歩いていたのに、釈迦堂清涼寺 の近くに在るこのお寺には一度も入ったことが無 かった。その名のとおり宝篋印塔が在るものと信 じきっていたのだが、今回初めて訪ねて驚いた。 ここでの「宝篋院」は室町幕府の二代将軍足利 義詮の法名であり、境内に建っていた石塔は左に 三重石塔、右に五輪塔の二基だったのである。 三重石塔は義詮の墓であり、五輪塔は楠木正行 の首塚であるらしい。南朝方の敵ながらその人柄 を慕った義詮が望んで、その傍らに葬ったとされ ている。 三重塔は古式であり、おそらく鎌倉初期、五輪 塔も笠の一部が欠けているものの、上から「キャ ・カ・ラ・バ・ア」の梵字も揃っており、笠の反 りからも鎌倉末期は下らないだろうと思われる。 とすれば、初期とはいえ南北朝時代の正行と義 詮では、どうしても若干のズレが出てきてしまう。 言い伝えの真偽はともかく、嵯峨野の一画に古 い五輪塔が在ることは事実である。それも、風格 と品位のある、まことに優雅な石塔なのである。 考古学者ではない私達は、伝説を信じても何の 損にもならないのだから、信じてみるのもまた楽 しいものではある。 |
|
| |
| 祇王寺五輪塔 (京都市右京区嵯峨) |
| |
|
嵯峨野の奥、平家物語で知られる白拍子祇王ゆ かりの尼寺だが、寺とは名ばかりで、楓の繁る苔 庭の中に小さな庵が残されているのみである。 庵の脇の高みに、二基の石塔が建っている。 左が三層の石塔で、写真の石造五輪塔が右側に 祀られている。 寺の案内によれば、層塔が祇王、その妹の祇女、 母刃自の三人の墓であり、五輪塔は平清盛の供養 塔であるという。 言い伝えはそれとして、写真の五輪塔は間違い なく鎌倉期の、それも完存する形で残されている。 空輪の張り、火輪の軒反りの力強さ、やや偏平 な水輪など、鎌倉中後期の特徴を良く表した見応 えのある五輪塔であると言える。 珍しいのは水輪に彫られた梵字で、正面にタラ ーク、左にキリークが読める。柵が設けられてい るので、背後の確認は出来なかったが、おそらく 金剛界四方仏の種子が彫られているようだ。 タラーク(宝生)キリーク(弥陀)アク(不空 成就)ウーン(阿閦)がそれである。 墓の伝承のある層塔は、三つの屋根が不揃いで あり、鎌倉期を感じさせるがおそらくは寄せ集め の石塔ではないだろうか。 |
|
| |
| 神護寺五輪塔 (京都市右京区梅ケ畑) |
| |
![]() |
紅葉と密教の仏像で知られる高雄神護寺の金堂 へは、かなり厳しい石段を登らねばたどり着くこ とが出来ない。 ところが、写真の石造五輪塔へは、金堂の脇か ら続く急坂の山道をさらに30分登ることとなる。 一般の観光客が先ずは立ち入らないであろう聖地、 なのである。 眺めの良い山上のこの地は、平安末期に当寺を 再興した文覚(もんがく)上人の廟所の在った場 所なのである。 二基の石造五輪塔が建っており、右は性仁法親 王の墓であり、左が写真の文覚上人の墓であると されている。 どちらの五輪塔も、空輪、風輪の形の良さや、 火輪(笠)の軒反りの緩やかさがまことに古風で あることから、鎌倉期のかなり早い時代に造られ たであろうことが想像できる。 軒の薄いことが繊細な美意識を感じさせ、貴族 的な品位をも想起させるのだろうか。 この廟所は五輪塔を覆った宝形造の木造建築だ ったようで、屋根の上に載せた石造のが露盤が基 壇の脇に置かれていた。石造は珍しいもので、宝 珠も一体で彫られている。 |
|
| |
| 知恩院五輪塔 (京都市東山区) |
| |
![]() |
知恩院に鎌倉後期の五輪塔が在ると知り、 かつてなかなか見ることの出来なかった庭園 も拝観したかったので、久し振りにこの著名 な寺を訪ねてみた。 南北朝の雰囲気を残す庭園は大きな収穫だ ったが、この五輪塔の所在が判らず境内中を 探して歩いた。 結果的には、御影堂と阿弥陀堂を結ぶ渡り 廊下の脇に在ったのだが、案内等は一切され ていない。鎌倉期の石造美術より、甚五郎の 忘れ傘などといった怪しい名物のほうが大切 らしい。 高さが2m以上ある大きな五輪塔だが、形 の良い空輪と風輪、力強い軒反りを示す火輪、 ぽってりとした水輪など、完璧な保存状態の 均整のとれた美しい塔である。 奇妙な場所に位置しているのは、旧寺時代 から行願寺と同じ忌明塔とされていたため、 なかなか手がつけられなかったのではないか という説があるらしい。 |
|
| |
| 安楽寿院五輪塔 (京都市伏見区) |
| |
![]() |
のどかだった竹田の里の安楽寿院周辺は、近年 住宅地として変貌している。境内のお堂の前に在 ったと思っていた五輪塔は、なんと老人ホームの 玄関脇に申し訳無さそうに建っていた。土地が切 り売りされてしまったようだ。 しかし、五輪塔の建つ一画は確保されており、 重要文化財として保護されているのは嬉しい。 高さ3mの大塔で、四方の梵字は無いが、五輪 全てが見事な統一感ある美しい姿をしている。 空輪と風輪がどっしりとした大きさであり、塔 全体に落ち着いた安定感を作り出していることに 気がついた。また、火輪の軒の厚さが堂々として おり、両端の反り具合に風格が感じられる。 近世の粗悪な五輪塔は、その辺りの要素が欠け ており、なんとも薄っぺらに見えてしまう。時代 の変遷と共に美意識も変化し、様式は多様に変化 していくのは当然なのだが、表面的な技術ばかり が進歩し、オリジナルの持っていた素朴な美しさ や精神性を凌駕したケースは、どの芸術の分野で もほとんど無いというのは不思議である。 |
|
| |
| 飛鳥田神社御旅所五輪卒塔婆 (京都市伏見区) |
| |
![]() |
桂川下流、羽束師橋のたもとに、横大路中ノ 庄という集落がある。この卒塔婆と五輪塔の所 在を尋ねて御旅所まではたどり着いたのだが、 それからが全く不明だった。困惑する私たちを 救ってくれたのは、近所に住む歴史愛好の奥さ んだった。 彼女の案内で、路地の奥、民家の陰の狭い空 き地に、この五輪卒塔婆と五輪塔を発見するこ とが出来た。 形の良い五輪塔と角柱が一石で彫られ、柱上 部に定印の阿弥陀如来坐像、柱側面に脇侍の観 音・勢至を梵字で刻んでいる。浄土信仰の現れ た三尊来迎像で、文永11年(1274)という銘が 入った秀麗な供養目的の卒塔婆である。 石表面の茶色の染みには、切られた怪異の血 という奇談が残っているそうで面白い。 写真の右側には古びた石造五輪塔が一基建っ ているのだが、時代はこの卒塔婆とほぼ同じだ と考えられ、五輪四方の梵字がきっちりと彫ら れた傑作である。 何故このような辺鄙な場所に、隠れるように して建つに至ったのか、という両塔の遍歴の由 来については結局判らなかった。 |
|
| |
| 石清水八幡宮五輪塔 (京都府八幡市) |
| |
![]() |
石清水八幡宮の正面一の鳥居の内側、お旅所の 西のほうに広々とした空地が在り、そこにこの見 上げるように膨大な五輪塔が建っている。建つと いうより、座しているというほうが合っているか もしれない。 高さが6mもあるということは、石造五輪塔の 想像域を遥かに超えており、粗悪で悪趣味なもの が連想されるのだが、ただ大きいだけではない明 晰な審美眼が背景に感じられて驚嘆した。 空風輪のバランスの良さ、火輪の軒の厚さと軒 両端の微妙な反り具合、やや偏平な火輪の球体、 堂々たる地輪の重厚感、さらに洗練された蓮弁彫 刻の見られる反花座(最下部)など、全て一級品 の造形美と風格を備えている。 この五輪塔をそのまま縮小していけば、通常の 大きさの見事な五輪塔になるだろう。 伝承によれば、承安年間(平安末期)に建立さ れたことになっているそうだが、それでは臼杵の 中尾古塔と同年代になってしまう。第一、かくも 洗練された五輪塔が、平安期に存在したとは考え られない。 大方が想定している鎌倉中末期説が正しいだろ う、と私も感じた。 |
|
| |
| 木津惣墓五輪塔 (京都府木津川市) |
| |
![]() |
惣墓というイメージから、町外れの墓地を連想 していた。いくら探しても見つからないので、町 役場の観光課で尋ねてようやくたどり着けた。 判らぬ筈で、現在惣墓は喪失し、周辺はすっか り宅地化され、なんと目指す五輪塔は幼稚園の敷 地内に建っていたのである。 高さが4m近くある大型の五輪塔で、地輪に造 立銘が刻まれている。これによると、旧惣墓の総 供養塔として建立されたようで、正応五年(1292) という年号が見える。 梵字は水輪の正面のみに刻まれ、従来の水輪を 表す「バ」ではなく、阿弥陀の種子「キリーク」 が見える。これも総供養塔の性格を物語っている ようだ。 全体にどっしりとした重量感が感じられるのだ が、写真でも判るように、空輪と風輪がやや小振 りで浮いているように見えた。案の定、これは近 世の追補によるものらしい。 このような鎌倉後期の石造美術品が、例え町中 とはいえ、囲いも無く野晒しで残されているのは 感動ものである。出来れば周囲の環境が、野辺の 路傍であってくれればというのは、今やとても叶 わぬ贅沢というものだろう。 |
|
| |
| 笠置寺五輪塔 (京都府笠置町) |
| |
![]() |
笠置山は京都府下の南山城に属し、奇岩怪石 の霊場として知られている。山腹に建つ笠置寺 は、天武天皇を開基とする奈良朝に所縁の古い 寺で、境内の大きな岩に彫られた磨崖弥勒石仏 を訪ねた方は多いかもしれない。 寺の本堂へ向かう途中から右手の山道に入り、 谷を隔てた小道をかなり歩いた所に古い墓地が ある。そこにこの見事な五輪塔が八角形の基壇 の中央に建っており、笠置寺中興の祖である解 脱上人貞慶の廟塔とされている。 上人は平安末期以来の末法思想からの人々の 救済のために、笠置寺を道場として弥勒仏の信 仰を広げた高僧であった。 空輪と風輪は、平安末期から鎌倉初期にかけ てのゆったりとした雰囲気を持っている。火輪 の笠は屋根の勾配が緩やかで、軒両端の反りは いかにも鎌倉初期らしい形だろう。 水輪の少しだけ押しつぶされたような球体は、 全体を少し遠目から眺めた時、石塔のプロポー ションとしてとても均整のとれた絶妙の大きさ であることに気が付く。 薬研彫りで見事に彫られた梵字は、四方とも に五輪塔種子である「キャ・カ・ラ・バ・ア」 である。大胆に彫られた梵字はまことに雄渾な 筆致であり、大好きな五輪塔の一つとしてどう しても取り上げてみたかったのである。 |
|
| |
| 智恩寺三角五輪塔 (京都府宮津市) |
| |
![]() |
切戸の文殊で知られる天橋立智恩寺に詣でた後、 JRの天橋立駅から少し北へと歩いていった。踏 み切りの反対側の路傍に、柵に囲まれてはいるも のの、訪れる人も無く荒れ果てた風情で珍しいこ の古塔が建っていた。 何故珍しいかというと、通常は四角錐であるは ずの笠(火輪)の部分が、ここでは三角錐になっ ていることなのである。 火輪は三角とするという密教教義に即して、立 面だけでなく平面まで三角にした造形とも考えら れ、銅製の三角五輪塔を製作した東大寺俊乗坊重 源の影響があったものとも思われる。 類例は希少で、当サイトでも取り上げた奈良東 大寺の伴墓五輪塔のほかに、高野山の奥の院で見 た伝親鸞上人五輪塔くらいしか見た記憶が無い。 塔全体の高さが巾に比して大きく、ひょろりと した印象を受ける。背丈は250cmはある。 堂々とした空風輪、屋根の傾斜が強く軒の厚さ が少ない火輪、そして下部がやや細長くなってい る球形の水輪、など何とも華奢な印象で、制作年 代の推定を断念した。古塔の要素を持ちながら、 鎌倉期特有の重厚な風格には乏しく、南北朝や室 町の繊細さも持っているという、美しくも不可解 な五輪塔ではある。 ちなみに、市の教育委員会設置の案内板によれ ば、鎌倉時代後期の作と記されていた。 |
|
| |
| 阿弥陀寺五輪塔 (滋賀県高島市新旭町) |
| |
![]() |
このお寺は旧新旭町の町のほぼ真ん中に位置 しており、湖西線の新旭駅からはまことに程近 い場所である。 お寺の裏側の一画が小さな墓地になっている のだが、そこはかなり古い石塔が何基も見受け られる魅力的な場所だった。 墓場に魅力を感じるなどという物好きは、石 造美術愛好家以外には有り得ないだろう。 しかし、ここの墓場は物好きどころではなく、 飛び切り貴重な一級品の石塔が二基建っている 重要な場所であった。 写真はその内の一基で、まことに形の良い石 造五輪塔である。 脇に立つ看板によれば、正安という年代が記 されていたそうで、とすれば鎌倉後期の作とい うことになる。 空輪の形や軒反りの緩やかなことから、実は 私の第一感は鎌倉中期までもって行けるか、だ った。正安は中期に近い後期なので、まあいい かといったところである。 時代考証はともかく、全体に均整の取れた美 しい五輪塔であることには間違いない。 もう一基の傑作石造宝塔は、「宝塔・多宝塔」 のサイトに掲載の予定である。 |
|
| |
| 石塔寺五輪塔 (滋賀県東近江市) |
| |
![]() |
最古の石造三重塔で知られるこの寺だが、一 体全部で何基の石塔が境内に祀られていること だろう。三重塔周辺だけでも、無数の五輪塔で 埋め尽くされている感がある。夥しい数の人達 の信仰の累積、としか言い様もない。(このサ イトの表紙写真参照) その中で、一段高い場所に置かれているのが 写真の二基である。いずれもが、重要文化財に 指定されている、というので驚いた。 左の塔の基礎には嘉元二年 (1304) 鎌倉後期 の銘があるのだが、空風輪が不釣合いであり、 偏平な水輪にのみ梵字「バ」が彫られているの が奇妙である。 右の塔には貞和五年 (1349) 南北朝前期の銘 が見られるが、五輪の梵字の内水輪のみが異体 であり、これもまた奇妙である。 学術的にも貴重な銘文が確認されたことで重 要文化財に指定されたらしいが、部材が寄せ集 めの可能性もあり、全体的には秀逸な五輪塔と は申せ、疑問だらけの重文指定と言わざるをえ ない。 |
|
| |
| 雲光寺五輪塔 (山梨県山梨市) |
| |
![]() |
知られざる五輪塔を御紹介しよう。 ここは甲州の中央、塩山に近い下井尻という里 で、私達が訪れたのは春四月、桃の花の咲き乱れ る美しい季節だった。 雲光寺の寺域から少し離れた草地の中に、大き な三基を中心として、六基の見事な五輪塔が祭ら れていた。 市の教育委員会によれば、この五輪塔群は甲斐 源氏の将であった安田氏一族の墓標であるらしい。 写真の塔は、右が安田義定のものであり、左が その子義資のものだという。 一族は平家討伐に功績を残し一帯を所領とした が、謀反の嫌疑から建久五年(1194)に滅亡した。 空輪の宝珠形は平安調、風輪は右が枡形で左は 椀形、水輪の笠は屋根の傾斜がやや強く、軒の反 りは緩やかである。 ただ、水輪の大きさに比して、笠が大き過ぎる ように思える。この点は、畿内の洗練された古塔 に比べると、やや田舎くさい観を呈している。 水輪の球体は偏平で、古式な伝統の面影を示し ているが、やはり笠の大きさから不安定な印象を 受けてしまう。 梵字は水輪の四方にのみ彫られている。「バン」 や「バク」が見られ、どうやら水輪「バ」の四転 「バ・バー・バン・バク」が彫られているようだ。 |
|
| |
| 願成寺五輪塔 (山梨県韮崎市) |
| |
![]() |
以前は墓域の片隅に雑然と置かれていたのだが、 墓地の修理の御蔭と言うべきか、三基の五輪塔は立 派な囲いの中の基壇上に祀られていた。 石材質が安山岩であり、相当に苔むした観が強い ことからかなり古そうである。おまけに、この塔が 文治二年(1186)に没した武田信義の墓である、とい う伝承があるため、更に判定の支障となってしまう のだという。 空輪・風輪は塔全体の形からすると、古式ながら やや小振りすぎるだろう。 火輪は屋根の傾斜がやや強く、軒の厚みはそれほ ど大きくはなく、両端の反り具合も微妙だ。全体に 落ち着いた荘重な火輪である。 水輪はやや高さのあるもので、太鼓や臼のイメー ジに近い。研ぎ澄まされたような感覚を持つ勝尾寺 の五輪塔などとは対極に位置する、野放図で大らか な造形感覚も存在するのか、と感じさせられるよう な、また別次元の伸びやかな魅力を示している。 水輪の梵字は、何と前述の雲光寺五輪塔と同様、 五輪塔四方門種子の水輪四方を表す「バ・バー・バ ン・バク」が月輪の中に刻まれている。 総合的には、武田信義の没年とは全く無関係であ り、おそらくは鎌倉時代末期に近い年代に制作され たものであろうと思う。捨て難い魅力を持った石塔 であることに変わりは無い。 |
|
| |
| 箱根山五輪塔 (神奈川県箱根町) |
| |
![]() |
曽我兄弟と虎御前の墓として案内されており、箱 根の旧道を車で走れば芦ノ湯近くで目に付く。私は 箱根へ行くたびに、この三基の五輪塔の前で車を止 めることにしている。 五輪とは、順に空輪・風輪・火輪・水輪・地輪の 五つである。塔の形というのは不思議なもので、宝 珠・請花・笠・塔身・基礎の五つが共通しており、 五輪塔はその究極の姿という気がする。密教におけ る梵字では、キャ・カ・ラ・バ・アで表現される。 二基の塔身部には、水輪を表す梵字「バ」の代わ りに地蔵菩薩立像が彫られており、この地に有った 地蔵信仰の痕跡と考えられる。曽我兄弟の伝承は、 各地の墓伝説の一つだろう。 火輪の笠は時代が下がる程妙に反り返ってくると 同時に、塔身とのバランスが崩れてくる。どの時代 にも、誰もが美しいものを造ろうとしているのに、 ほとんどの場合古いもの程良い。創造当初の美意識 や情熱が失われ、技術や上辺の様式のみが継承され てしまうからである。 その意味で鎌倉後期のこの作品は、五輪全ての均 整がとれた最も石造美術の爛熟した時代に咲いた美 しい花の一つだ。 |
|
| |
| 称名寺五輪塔 (神奈川県横浜市) |
| |
![]() |
北條実時が蒐集した金沢文庫で知られる称名寺 には、金沢氏歴代の五輪塔が伝えられている。実 時の子が二代顕時であり、三代から金沢氏を名乗 って金沢貞顕と称した。 実時が大和西大寺の叡尊に深く帰依したことが、 鎌倉文化の資質に大きく影響したことは間違いな いだろう。 文庫へ通じる道の右上小高い場所に、二基の五 輪塔が祭られている。写真は向かって右の塔なの だが、従来は三代貞顕のものとされてきた。しか し、修復の際に左右が逆で、こちらが二代顕時の ものであることが判明したという。 火輪の反りはやや弱弱しいが、厚みは当代を十 分物語っている。関東式の基礎には格狭間が彫ら れるが、ここでは基礎が見られず、直接反花座の 上に五輪塔が載っている。基礎が埋まっているの かどうか判らないが、大和様式の影響は出ている ものと思われる。 従来顕時塔と言われていた左側の貞顕塔は、反 花座に関東風の子持複弁が用いられており、また 顕時塔に比して全体的に華奢な感じがするので、 ほとんど鎌倉末期の作だろうと思われる。 現在でも、逆のままの表示が刻まれた石碑が建 っている。 |
|
| |
| 東昌寺五輪塔 (神奈川県逗子市) |
| |
![]() |
ついこの間まで、浪子不動と呼ばれた高養寺と いう寺院に在った石塔で、現在は同じ池子のこの 寺の境内に移されている。 全体のバランスを見たとき、地輪がやや高く造 られていることに気付く。偈文を刻むスペースが 必要だったからかもしれない。 そこには、この石塔が行心という人の墓碑であ り、乾元二年(1303)の帰寂であったと記されてい るのである。 この年代は鎌倉後期の中でも、石造美術が最も 充実した時代であり、箱根の五輪塔に次ぐ傑作と してこの塔は重要文化財に指定されている。 高さが1.4mとやや小振りながら、空輪・風輪 の均整がとれ、火輪の軒は厚く豪壮で豪快に両端 が反っている。 水輪の正面にのみ、梵字の種子「バン」が刻ま れている。金剛界大日如来を象徴するのか、五輪 の菩提門水輪を表すのかは判らない。 地輪より下の基壇部分は後補なので判らないこ とばかりだが、反花座や格狭間は似合いそうもな いので、箱根のものと同様に関西式に近かったよ うな気がする。 |
|
| |
| 中尊寺釈尊院跡五輪塔 (岩手県平泉町) |
| |
![]() |
写真の五輪塔は、有名な中尊寺金色堂の裏山の、 全く観光ルートから外れた場所にひっそりと立って いる。一般は立ち入り禁止区域なので私達は寺務所 にお願いをし、特別に見学を許可していただいた。 熊の出没を注意されたので、ちょっと怖かった。 鬱蒼として昼なお暗い雑木林の小高い所が墓地の ようになっており、かつて釈尊院という寺院が在っ た場所らしい。石塔や板碑が並んでいて、石造美術 ファンにはたまらない環境である。 とりわけこの五輪塔は、日本最古のものとして国 の重要文化財に指定された貴重な遺品である。 五輪を象徴するキャ・(カ)・ラ・バ・アの梵字と 共に、仁安4年(1169)という飛び切り古い紀年銘が 彫られている。 風輪は喪失したらしいが、火輪の笠の反りが少な いことや厚さが無いこと、水輪が円形ではなくずっ しりと角張っていること、などがいかにも平安期と いう飛び切り古い時代を物語っている。 鎌倉期より古い石造物には滅多にお目にかかれな いが、これは正に優美な稀代の傑作である。 |
|
このページTOPへ 武蔵の板碑 (次 )へ 宝塔・多宝塔(前)へ 石造美術TOPへ
日本庭園TOPへ ロマネスクTOPへ 古代巨石文明TOPへ 総合TOPへ 掲示板へ