エピソード Episode
    















 
サプンツァの陽気な墓
 
Cimitirul Vesel
 
SAPANTA
  
生涯を描いた絵物語で飾られた
 墓碑の並ぶ美しい墓地

 
(ルーマニア・マラムレシュ地方)

     「美の世界」への紀行の途中で巡り合ったエピソードを記録します。

   
  本文に記載出来なかった部分を補足したり、より詳細に御案内出来た
    らいいなとも考えています。
     また、本文とは全く関係の無い話題や、小さな旅や散歩の途中で気の
    付いたものも御紹介したいと思っています。

   
    
Index

        Episode 8 
トルコ/カッパドキアの洞窟教会
        
Episode 7 五島列島・平戸・長崎のカトリック教会巡礼
        
        
Episode 6 ルーマニアの壁画修道院群

        Episode 5  謎の飛騨金山巨石群
        Episode 4 霊山寺の塔身輪式宝篋印塔
        
Episode 3 永福町に謎の石塔二基
        
Episode 2 板碑の種子に見る梵字
        
Episode 1 伝通院の塔身輪式宝篋印塔
           
 

     
     
   

Episode 8  トルコカッパドキアの洞窟教会
        
                   (独自のサイトへ移動します)
          

Episode 7  五島列島・平戸・長崎のカトリック教会
        
                   (独自のサイトへ移動します)
          

Episode 6  ルーマニアの壁画修道院群
          (世界遺産ブコヴィナ地方のフレスコ画)
    
     ルーマニアの北部、ウクライナとモルドヴァに国境を接するブコヴィ
    ナ(Bucovina)地方はモルダビア(Moldavia)地方とも呼ばれ、世界遺産
    に指定された美しいフレスコ壁画の描かれた修道院が密集している。
     今回の旅で私達はその内の7ヶ所を訪ねた。素朴な集落を巡るドライ
    ブは、粗悪な道路に悩まされたものの、それを遥かに凌駕する感動を与
    えてくれたのだった。
     15〜16世紀に描かれたものが中心で、特に外壁に描かれたフレス
    コ画の密度と鮮やかな色彩には驚嘆した。ルーマニア正教の東方ビザン
    チン的古典と、モルドヴァの民俗性が混合した独自の表現には、とても
    優しい美しさが感じられた。
     修道院巡りの中心となる町はスチェヴァ(Sceava)で、私達はここに
    2泊し、ルーマニアの田園地帯ならではの風物に接することが出来た。

        
  プロボタ修道院 (Probota)  スチェヴァの東南50Kmの辺鄙な村の外れにある、1530年創
                建の修道院。
     [左上写真] 外壁に描かれたフレスコ画「最後の審判」が見所。やや褪色しているが、リン
           ゴの樹に囲まれた冥想に相応しい、心洗われる静寂に包まれた空間であった。
     [右上写真] 聖堂内の壁一面にフレスコ画が描かれている。かなり修復されたものが目立つ
           が、鮮やかな色彩と壮麗な図像は見事と言うしかない。
       

        
  パトラウチ修道院 (Patrauti)
  スチェヴァの東北10Kmに位置する。
  1487年の創建の古い修道院である。
   [左上写真]  まことに愛らしい聖堂である。外壁のフレスコは正面ファサード部分に残るの
          みだが、残念ながら内陣へは入れなかった。
   [右上写真]   扉口右上に描かれているフレスコで、大天使ミカエルなど「最後の審判」の場
          面である。ビザンチンの雰囲気が色濃く感じられるが、このフレスコが描かれた
          のは1550年とのことだ。
         

          
  アルボレ修道院 (Arbore) スチェヴァの西北西38Kmに位置する小さな村に在る。林の中の静
               かな一画で、塔の無い聖堂建築はとても質素だった。1502年の
               創建である。
     [左上写真]  船をひっくり返したような形の屋根が特徴。影になって見えないが、正面
            の半円アーチ内壁に描かれたフレスコは圧巻だった。入口の有る南側の壁
            の壁画も見事だ。内部は修復中だった。
     [右上写真]  正面のフレスコ画である。多彩な色が使用されており、1541年にアル
            ボーレ公の娘アナによって描かれた。マリア伝など端正な画風が印象的で
            美しい。
          
             
  スチェヴィツァ修道院 (Sucevita)
      アルボレの西20Kmの原野の中に在る。
      1586年の創建である。 
   [左上写真]  美しい景観だが、建築年代は少し新しい。だが、均整のとれた塔と後陣の佇ま
          いは見事だ。
   [右上写真]  北側壁面に描かれた「クリマコスの梯子」で、右上半分に圧倒的な数の天使達
          が、そして左下には地獄に落とされる亡者達が描かれている。
          最後の審判と同義の主題であり1596年の作である。特異な意匠と色彩がと
          ても衝撃的だった。
         
              
  モルドヴィツァ修道院 (Mordovita)   
        スチェヴィツァからシウマルナ峠を越えて、南西に35Km行くとこの修道院に着く。
        手付かずのルーマニアの自然が味わえる素晴らしいドライブだった。
    [左上写真]  壮大な玄関間の有る正面入口が特徴の建築で、1532年に建てられた。ここ
           も隙間の無い程の密度で、外壁がフレスコ画で覆われている。壁画は1537
           年の作になるそうだ。
    [右上写真]  南側壁面に描かれた「コンスタンティノープル包囲攻撃」の一場面で、全体が
           壮大な絵巻物になっており、フレスコ画としては一級品の美しさだ。
        
        
  ヴォロネツ修道院 (Voronet)   スチェヴァの西約30Kmに在り、モルドヴィツァから南下
            出来る。シュテファン大公により、1488年に創建された由緒を持つ。
   [左上写真]  山里の雰囲気に満ちた村で、日暮れが早かった。東側の後陣から南壁にかけて
          は、青を基調にしたフレスコがびっしりと描かれている。壁に彫られたアーチ
          列は、ロマネスクのロンバルディア帯にも似た建築装飾だ。
   [右上写真]  西正面の壁面一杯に描かれたフレスコ画である。西日と樹木の影が不思議な模
          様を作っていて綺麗だった。ここでも「最後の審判」が表現されており、啓蒙
          を目的に描かれたルーマニア正教の遺産だろう。
         
        
  フモル修道院 (Humor)  ヴォロネツの南9Kmという至近に在る。1530年の創建である。
    [左上写真]  夕日が影を長く落としていた。外壁にはモルドヴィツァと同じような、コンス
           タンチノープル包囲が描かれていた。モルダヴィアでは最も古いフレスコの一
           つである。
    [右上写真]  西正面扉口の上に描かれた大天使ミカエル。ヴォロネツと似た「最後の審判」
           の中の一部である。この部分はやや新しいが、ビザンチンの古典的な雰囲気に
           満ちていて美しい。玄関間の意匠もヴォロネツとそっくりだった。
   
                       
東方ビザンチン紀行(4)トルコ/シリア/ルーマニアへ戻る
              

    
     
Episode 5  謎の飛騨金山巨石群
      
    毎年恒例となった郡上踊りに参加するために、今夏も八幡市内に丸三日滞在
   した。情緒に満ちた踊りには、毎度ながら感動する。絶品の吉田川産鮎と地元
   の冷酒という隠れた楽しみに、引き寄せられているというのが本当のところで
   はあるのだけれど。
    さて、話題の下呂市金山巨石群までは車で小一時間、遺跡近くまで道路が通
   じているので拍子抜けするほど楽だった。
    巨石群は三つの場所に分かれており、第一が「岩屋岩蔭跡巨石群」、第二が
  「線刻石のある巨石群」、第三が「東の山巨石群」である。
    第一群と第二群は数十メートルしか離れていないが、第三群だけはやや離れ
   た山の上なので見学を断念した。
     
   岩屋岩蔭跡巨石群
  
    馬瀬川に造られた岩屋ダムの
   直ぐ下流に位置している。
    左の写真はその全景で、神社
   の参道のような石段を登りつめ
   た所に、三つの主要な巨石によ
   って構成された遺跡が見える。
    鬱蒼とした森の中で、谷間の
   急峻な斜面でもあり、地理的に
   農耕民族の住む場所とは考え難
   い、というのが第一感だった。
    
    第二の線刻石のある巨石群は
   写真の右側、ずっと下の斜面に
   在る。
    
  上2枚は岩屋岩蔭跡の三つの巨石の写真である。
  覆い被さる庇のように斜めに飛び出した青黒い石が中心で、左の石はやや丸みを
 帯びながら細長く延び、右の石は鋭利な刃物で削ぎ取られたかのような斜面を見せ
 ている。
  木柵の中には入れないが、太陽の光が差し込む神聖な石室として保護されていた。
     
     
   上3枚の写真は、その詳細部を写したものである。真ん中の庇石は真南に向かって開
  かれており、傾斜は約40度、南中する太陽光が冬至の時最奥の石室まで差し込む。そ
  して、その前後60日つまり計119日の間だけ石室まで光が届き、後は庇が邪魔で光
  は石室まで全く届かないのである。
   石室の中央に測定石が在り、左の石との隙間(左の写真)から差し込む夕日と、右の
  石との隙間(真ん中の写真)から差し込む朝日が照らす軌跡を観測することで、春分と
  秋分前後の暦を知ることが出来ると立証されているそうだ。
   右の写真は右の石だが、中央の庇も併せ、自然の石の組み合わせとすれば奇跡的な偶
  然だし、縄文人の仕業による人工とすれば、削られたように見えないこともない。
     
                                                 
   線刻石のある巨石群                            
                                        
    左の写真は線刻石と呼ばれる巨石を、南側から眺めたものである。この石の下に
   空洞が有り(現在発掘中)、夏至の前後74日間に岩の隙間から差し込む太陽光の
   スポットを観測し、月日を確定出来るそうだ。岩屋岩蔭跡も併せ、4年間、1,461
   日を1サイクルとすることで、閏年すら知ることが出来るというのには驚いた。
    右の写真は、線刻石に隣接する巨石で、用途は不明だがV字形に割れたような断
   面は、太陽光の測定方向を暗示しているようで興味深い。
        
   周辺には巨石という名に相応しい、想像
  を絶するような巨大な石が累々と重なって
  いる。近辺の山が岩山かというとそうでも
  なさそうで、周囲に大きな岩がゴロゴロと
  いった環境ではなさそうだ。
   かと言って、大坂城の石垣ほどもありそ
  うな巨石を、縄文人がこの山奥まで担ぎ上
  げたとは考えられない。
   もし人工であるなら、従来から在った巨
  石群に、最小限の加工調整を加えたものと
  考える方が妥当だろう。石の産地も気にな
  るところであろう。
   左の写真に見られるような隙間は、いか
  にも人の手によって光を取り入れるために
  組まれたか、或いは削られたかのように見
  えてならないのである。
   自然の岩石を利用したにせよ、人工的に
  構築したにせよ、縄文の時代に天文観測が
  行われたことを想像するのは楽しい。
   この地の祭司が太陽光の軌跡を論拠に、
  祭祀を司っている姿が見えるようだ。   
    

   
         
Episode 4   霊山寺の塔身輪式宝篋印塔
     
      小生が見た近江の百済寺のもの、Nittaさんが訪ねられた島田の慶寿寺・榛原の
    清浄寺勝間田墓地のものは、いずれも鎌倉期の塔身輪式の宝篋印塔でした。
    小生の資料によれば、同類の石塔がもう一箇所現存するとされ、それがここ
   静岡県沼津市の霊山寺裏墓地でした。
    市の教育委員会が文化財として指定しており、正和三年(1314)の銘が見られ
   る鎌倉後期の「変形宝篋印塔」と記してありました。
    他にも同様の「変形」が三基、合計四基の宝篋印塔が保存されています。小
   生とNittaさんで命名した「塔身輪式」が、「変形」などという曖昧な呼び方
   に比べ、いかに優れているかを感じ悦に入った気分でした。
    参考までに、隣接して建っていた五輪塔の写真を一基だけ掲載しました。
      
図1                      図2                      図3

   
図1と図2が年号の銘の入った塔である。笠と基礎以下は歴然とした宝篋印塔だが、相輪部
 分には五輪塔の空輪・風輪と思しきものが載っている。全体の調和からして、この部分だ
 けは後補かもしれない。
  そして肝腎の塔身は、やはり五輪塔の水輪に似て球形である。但し、四方仏像が彫られ
 ているので、宝篋印塔の塔身としての矛盾は無い。材質が白く見えるが、図5の五輪塔の
 水輪を見ると、どうやら風化してこうなったようだ。
  笠の段状や小さな隅飾りは、関東式のものや奈良正暦寺のものに似ている。基礎の反花
 や格狭間も見事だ。
鎌倉期塔身輪式の傑作がまた増えた。
  図3は、通路を隔てて建つ別の一基である。相輪部分はやはり五輪塔の空風輪で、明ら
 かに後補であると判る。以下は同様の様式だが、塔身の風化が激しく、四方仏の存在すら
 確認することが出来なかった。
 
     図4                               図5

  
 図4に写っているように、同墓地には全く同じ様式の宝篋印塔がもう二基在った。塔身が球
 形であること以上に、相輪部分が四基とも空風輪形であることが不思議でならない。
  当然のことながら、後世に部品の組換えが行われたのではないか、という危惧を抱かざ
 るを得ないが、相輪部分以外は図1同様当初からのものと考えたい。
  図5の五輪塔は、その重厚さ故に印象に残ったが、宝篋印塔と同じ材質でほぼ同時代の
 作と考えられ、石の変質を物語る適切なテキストと考え掲載した。
  五輪塔はもう一基在り、当墓地は石塔ファンにはたまらない空間であった。
     
       

    
      
Episode 3    永福町に謎の石塔二基
      
  永福寺の三層石塔
        
    MONKさんからその存在を御教授頂いた、杉並区永福町の永福寺に建つ謎の石
   塔を拝見しました。実物に接して見て正直仰天しましたのは、私達が02年に訪ね
   た韓国に、数多く残されていた統一新羅時代(7〜10世紀)の石塔と、全く変わ
   らない様式だったからです。その絶品とも言うべき美しい石塔を御紹介します。
    
   図1 南西からの眺め       図2 北西から見る           図3 西正面
                
    図4 東南から見た基壇       図5 南側から見上げる        図6 南西からの全景
            
    図1から図6までが、永福寺で観た謎の石塔をいろんな角度から撮影したもので
   ある。MONKさんのサイトで写真を見た時から、韓国統一新羅時代の三層石塔に
   違いないと思っていたが、実物をこの目で見て更に確信を深めたのだった。
    最下段の基壇と最上部の露盤などの上輪部は、どうやら後世の補修がなされてい
   るようだが、全体のフォルムはまことに優美で、統一新羅の美意識を充分備えた石
   塔の傑作であるといえる。
    やや不鮮明だが、図4の基壇(甲石)には格狭間が彫られている。また各層の塔
   身には、四隅の柱をイメージした浮き彫りが成されている。
          
           図7 韓国箕城洞の三層石塔        図8 韓国桐華寺の三層石塔
     
    韓国を旅した時に観た統一新羅時代の石塔の中から、永福寺の石塔に類似した事
   例を二つ御紹介する。
    図7は漆谷郡の箕城洞に在る三層石塔、図8は大邱の桐華寺毘蘆庵に在る三層石
   塔で、いずれも慶州周辺で観た統一新羅時代の名品である。とてもよく似ているよ
   うに思えるのだが、いかがだろうか。特に永福寺の図6と、桐華寺の図8とを見比
   べてほしい。瓜が二つ有るではないか。
    図7の基壇には、永福寺と同様の格狭間が彫られている。
    永福寺の三層石塔はれっきとした統一新羅時代の石造美術である、と勝手に決め
   てしまったのだが、どういった経緯でここに建っているのかは小生には判らない。
   しかし、こんな美しい統一新羅期三層石塔の傑作を、都内で観る事が出来るとは何
   と素晴らしいことだろう。
         
    
  大円寺の宝篋印塔

    もう一つの謎の石塔は、永福寺から程近い大円寺で偶然見つけた石塔だ。
    ここは、数ある松平家の中の五井松平家や、上総富津保科家の菩提寺として知ら
   れる寺で、薩摩島津家の菩提寺の一つでもあった。その薩摩藩が寄進した石塔が写
   真の石塔であり、塔身下の円筒形の部分を除けば、以前「ままま」さんが見つけら
   れた奈良・喜光寺の尊賞親王墓石塔のイメージにわりと近いと感じたのだが、いか
   がでありましょうや。
     
   図1 東側からの眺め       図2 北側からのシルエット       図3 南側から見た妙な石塔
      
    図1は東から、図2は北から、図3は南から撮影したのだが、残念ながら図3以
   外は皆逆光だった。満開の桜に誘われ、ふらふらと境内へ入ってきて、この石塔の
   存在に気が付いた。
    看板には宝篋印塔と記してあるのだが、隅飾りの突起らしきものは在るものの、
   笠には段が見られない。この部分はかなり違っているかもしれない。
    塔身が輪式であり、その上下に請花のような飾りが付いている点は、尊賞親王墓
   にとてもよく似ている。
    塔身の下の円筒形が余分で、この塔が島津綱久公の供養のために寄進されたこと
   が記されているらしい。没年は寛文13年(1673)とのことだが、供養塔は幕末の
   ものとも記されている。
    年代はともかく、江戸期にはこのような宝篋印塔とも宝塔とも、或いは五輪塔と
   も区別のつかないような石塔が、ごく稀に建立されていたようだ。
      
           

     
      
           
Episode 2    板碑の種子に見る梵字
        
    板碑の中心には本尊を表す種子が梵字で彫られています。板碑造立の最盛期であ
   った鎌倉時代には、浄土信仰が盛んであったので、阿弥陀如来を表す「キリーク」
   が圧倒的に多いのですが、来迎思想の普及と共に阿弥陀三尊が彫られました。
    他にも色々な種子が見られますので、どうぞじっくりと御覧下さい。
        
  図1 願成寺板碑群(飯能市)             図2 慈光寺板碑群(都幾川村)
     
    左写真の五基、及び右写真の左側四基は、全て
キリーク(阿弥陀如来)である。
   いずれも武蔵型を代表する傑作ばかりである。
    時代によってやや書体がことなるものの、種子を代表する美しい梵字である。
    図1の左から二基目はキリークの筆記体で、上部に丸三つ(イの三点)を施した荘
   厳体と呼ばれるものである。
    図1の右端は建長の古碑で、おおらかな書体が魅力的である。それ以外は全て、
   蓮座の上に梵字が乗っている。
     
  図3 伊藤家墓地板碑(小川町) 図4 大橋堂傍板碑(小川町)  図5 六地蔵板碑(越生町)
    
    図3、図4、図5は、いずれもキリーク(阿弥陀如来)の種子事例である。キリ
   ークの字体がはっきりと判るだろうと思う。
    図3は建武の碑で、やや定型化しているが端正で完璧な書体。
    図4と図5は
阿弥陀三尊板碑で、キリーク(阿弥陀如来)を頭に、右がサ(観音菩
   薩)、
左がサク(勢至菩薩)を表している。これは広範に造られた共通の様式である。
       
  図6 長念寺板碑(飯能市)  図7 妙光寺板碑(鳩山町)     図8 大英寺(騎西町)
       
    余り頻繁にはみかけないが、貴重で美しい種子の事例を幾つか御紹介したい。
    図6は
釈迦三尊を表す種子。上にバク(釈迦如来)、下部右はマン(文殊菩薩)
   左は
アン(普賢菩薩)である。やや書体が変形しているので見難いが、釈迦三尊は珍
   しい。
    図7は
バン(金剛界大日如来)一字で、日輪に囲まれ蓮台に乗っている。
    図8は贅沢な二尊種子で、上が
バク(釈迦如来)、下がキリーク(阿弥陀如来)
   やや崩した書体である。この二尊の組み合わせは、珍しいほうである。
   
  図9 円正寺板碑(鳩山町)  図10 吹上板碑(毛呂山町)   図11 護国寺(富士見市) 
       
    図9は、図10はアーンクで、ここではいずれも胎蔵界大日如来を表してい
   る。ア字は変容してアー、アク、アン、アーンクとなるが、アにクやンの表記が組
   み合わさって、表音が変化するところは朝鮮のハングルに似ているかもしれない。
    図11は二尊種子で、上が
バン(金剛界大日如来)下がウーン(降三世明王)であ
   る。かなり古い板碑で、書体もかなり異体に見えるが、こういうものもある、とい
   う見本である。
      
図12 智福寺板碑(毛呂山町) 図13 慈光寺板碑(都幾川村) 図14 不退寺五輪角塔婆(奈良市) 

    図12は上はキリークだが、下は珍しい種子で
カンマーン(不動明王)だろうと
   思う。書体は筆記体で難しく、この梵字には異形もおおく難解である。
    図13は十三仏板碑で、それぞれが種子で彫られている。最上部は
アーンク(
   蔵界大日如来
)で、右側は上からカーン(不動)、バク(釈迦)、アン(普賢)、マン
   (文殊)、カ(地蔵)、ア(胎蔵界大日)である。
    左側は上からバイ(薬師)、サ(観音)、サク(勢至)、キリーク(阿弥陀)、バン(金
   剛界大日)、バーンク(金剛界大日)である。
    右側最下はユ(弥勒)の間違いという説もある。
    図14は板碑ではなく、方形の五輪塔婆である。
五輪塔を表す梵字が刻まれてお
   り、写真は南へ結界する修行門で、上から
キャー(空輪)、カー(風輪)、ラー(火
   輪)、
バー(水輪)、アー(地輪)を表している。
         
                

    
     
          
Episode 1   伝通院の塔身輪式宝篋印塔
      
    変形の宝篋印塔が話題となりました。石田茂作先生はその御著書に、「球
   心宝篋印塔」が東京の伝通院に在る、と書かれておられますので、早速見に
   行ってきました。以下はそのレポートです。
       
  左2枚の写真は、徳川
 家康の生母「於大」の墓
 である。
  院号は「伝通院」で慶
 長七年(1602)八月二十
 九日没。
  墓地の中央に堂々と建
 つ姿は、徳川の基礎を築
 いた英傑の生母に相応し
 い、大層豪快なフォルム
 である。桃山期の闊達な
 息吹の名残が、少なから
 ず感じられる。
  石造文化衰退期にあっ
 て、塔身輪式の不自然さ
 を感じさせない逸品だろ
 う。
 左の写真は、於大
の墓に隣接して建っ
ている大きな墓碑。
 法名「興安院」は
二代将軍秀忠の息女
初姫である。寛永七
年(1630)三月四日
没。
 塔身輪が小さくな
り、ややバランスが
崩れ初めている。
 法名「天樹院」
は、数奇な運命を
たどった、秀忠の
息女千姫のもので
ある。
 没年は寛文六年
(1666)の二月六
日である。
 笠が小さくなっ
ており、何とも不
思議な姿としか言
いようが無い。
  この墓地は、時代と共に塔の形がいかに変わっていくかを、じ
 っくりと観察出来る石塔の見本市のようだ。それも、江戸初期の
 約百年間において、である。
  於大の墓の豪快さは、時代が下がるに従って失われ、笠の段数
 が減り、隅飾りが異常に反り始めるのである。

  左の写真は、三代将軍家光の正室であった孝子の墓碑である。
 院号は本理院で、延宝二年(1674)六月八日の没。孝子は関白鷹
 司家の出身で、生涯武家の風習には馴染まなかったそうだが、他
 の石塔に比べ、心なしか優雅さと寂しさの漂う姿である。

    左の写真は、手前から順に、知法院童女(綱吉の養女善知姫・元禄十一年夭逝)、
   理岸院童子(家宣の子大五郎・宝永七年夭逝)、月渓院(家光の子亀松・正保四年没)
   の墓である。
    右の写真は、手前が智幻院大童子(家宣の子家千代・宝永四年没)、奥は隆崇院(家
   光の子甲府徳川綱重の正室・寛文九年没)の墓である。
    九基の塔身輪式宝篋印塔が、他の大きな五輪塔や宝篋印塔に囲まれて建ち並ぶ光景は
   壮観であった。徳川初期将軍家所縁の婦女子の墓が中心となっている。
    全ての塔身輪(球心)に、「キリーク・サ・サク」の梵字が刻まれている。これは、
   阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の弥陀三尊を表しており、浄土信仰が熱烈に信じられ
   ていたことを物語っている。これらの石塔は宝篋印塔でも五輪塔でもなく、様式だけが
   踏襲された墓碑であったのだろう。

    於大の慶長七年(1602)から、大五郎の宝永七年(1710)までの108年間、この伝通
   院では徳川家のために塔身輪式の宝篋印塔が墓石の様式として伝えられたようだ。
    小生が考えた「塔身輪式」、石造ノートの著者嘉津山先生の「輪篋折衷」、そして石
   田博士の「球心」という呼称は、時代の差、様式の微妙な違い等あるにせよ、どうやら
   同類項として括弧でくくれそうである。
             

       

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