車のイグニッション・キーを捻った時から新しい旅立ちが始まります。 また、いつも通い慣れた道を少し外れて見ると意外な発見をしたりする ものです。 私は、年数回の長距離旅行の他に、日帰りのドライブや自分の足を使っ た散策も楽しんでいます。 近場でもちょっとした旅と洒落込むと結構楽しいものです。 そんな中で、またあれこれ起こった事を「藤次郎放蕩記」として書き綴 って行きたいと思います… −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 藤次郎放蕩記 第21話 「横浜巡り」  横浜と言うと、皆さんは何を想像しますでしょうか?  ランドマークタワーを中心としたみなとみらい21地区?現在の横浜 駅周辺?山下公園付近の港町?…中華街,元町等を想像する方が多いと 思います。  しかし、横浜に古くから居る方々に言わせると、”横浜”とは、JR 桜木町駅の野毛山方面から山手の方面を指すのだそうです。  以前、江戸時代(幕末期)の横浜周辺の地図を見たことがありますが、 現在の横浜駅周辺一帯は芦が生い茂る草地だったらしいです。  その証拠に、東海道は神奈川の宿(現在京浜急行神奈川駅周辺)から、 それまでの海岸沿いの道筋を変えて丘の方を通って保土ヶ谷の宿(現在 JR東海道本線保土ヶ谷駅周辺)に続いています。  いわば、現在賑わっている横浜駅周辺〜桜木町〜伊勢佐木町〜中華街 〜元町,山手と言う場所は、横浜港が開港されるまでただの漁村だった そうです。(ご存じのように、みなとみらい21地区は海の底)  それが、幕末の黒船来航〜横浜港開港と言うことになり、今の山手〜 中華街の辺りに外国人居留地ができて、外国との貿易が始まると、鉄道 が通るようになり、桜木町に駅ができました。  横浜駅から京浜急行に乗り換えて黄金町駅で降ります。  この辺りが、伊勢佐木町の商店街の終点となっています。  この辺りの商店はその辺の普通の商店街の様相を見せていますが、中 には掘り出し物を沢山売っている店などに行き当たったりして、驚かさ れます。ここから、JR根岸線関内駅に向かって伊勢佐木町の商店街を 歩いて行きましょう…  歩く毎に商店街の様相が見る間に変わって行きます。と同時に、商店 街の幅もメインストリートは元より裏道のまたその裏道も商店や飲食店 が発達していきます。  この辺は子供の頃に父に連れられてやってきたときとはずいぶん違う 雰囲気になっています。今でもありますが、「黒田救命堂(通称:蛇屋)」 と言う漢方薬屋の店先は今でこそ、おとなしいディスプレイ(でも、蛇 の剥製が飾ってありますが)ですが、昔は学校の理科準備室の様なホル マリン漬けの蛇や兎などが沢山ショーウィンドーに飾られていた店でし た。  そのまま進むと、国道16号線と交差する箇所があり、この界隈が一 番賑やかになっています。この辺の裏通りに風俗店に混じって現在のす き焼きのルーツである牛鍋の老舗が数軒あります。以前、食べたことが ありますが、みそ味の独特の味はなかなか美味でした。ただ値段が高い のと、最低2人からなので、一人で行動する事の多い私ではそうそう食 べられません。…ちなみに、ランドマークプラザの中に1人前から牛鍋 が安く食べられる店があります。  国道16号線を渡ると、この辺から先はデパートや大きな書店などの 店舗が並んでいます。  昔、紀伊国屋書店の裏側に「博雅」と言う中華料理店があり、私も子 供の頃食べた覚えがありますが、おいしい店でした。ここの焼売は美味 しいとの評判でした。でも、潰れてしまいました。その焼売は一時期、 ”幻の焼売”とまで言われたそうです。でも、そのレシピは受け継がれ、 現在では横浜高島屋の地下食料品売り場で手に入れることができます。  今、この近所に「博雅」と言う中華料理屋がありますが、ここは違う 料理人が商売しているとのことです。  伊勢佐木町を抜けて、JR根岸線のガードをくぐりその先を左に曲が ります。  しばらく行くと、炎の料理人周兄弟の弟の方の周富輝さんの経営する 「清香園(ちなみに2号店)」があります。ここから海岸に向かう通り が、通称「馬車道」です。この界隈は老舗の飲食店が多く、また、日本 初のアイスクリームなどの数多くの外来食の日本発祥の地です。  馬車道には、先ほどの「清香園(1号店)」を初めとして、多くの飲 食店がありますが、その何店かは創業が明治,大正に遡る程の老舗にな ります。  そこから、先ほどの伊勢佐木町から延びる道に戻ります。  海岸の方に更に向かって進むと、神奈川県立博物館の前を通ります。 この県立博物館の建物は旧横浜市役所の建物だそうです。モダンな建築 様式の建物は古き良き時代を思うことができます。  今は移動しましたが、横浜銀行の本店の建物も昔はこの通り沿いにあ りました。  大きな通りを渡ってしばらく行くと、海岸通りと言う通りとの交差点 に行き当たります。このまままっすぐ橋を渡ると赤煉瓦倉庫街に行く事 ができますが、今回は海岸通りを歩きます。  この辺りから山下公園に続くこの道は、五月三日に催される毎年恒例 の横浜港祭りの仮装パレードの通る道です。  右手に日本郵船の建物があり、この裏側に資料館があります。この会 社の所有している、あるいは所有していた外国航路を航行する船の資料 があります。  日露戦争当時、対馬海峡を通過しようとする旧帝ロシアのバルチック 艦隊を発見し、「敵艦見ユ」と言う無電を当時朝鮮半島の鎮海湾に停泊 していた日本帝国海軍旗艦三笠に打電した”信濃丸”とか、山下公園に 繋留されている”氷川丸”とかは、この会社の所有でそれぞれ戦争中に 徴用されて活躍した商船です。(ちなみに、前記の”信濃丸”も先の大 戦後引き揚げ船として使用されました)  また歩くと、開港資料館に行き当たります。横浜開港当時の貴重な展 示物を見ることができます。  その次は大桟橋入り口です。運が良ければ、外国航路を航行する客船 が停泊しているかもしれません。代表的なのはイギリスのクイーンエリ ザベス2世号です。他にも香港,ロシアなどの定期客船が見られます。  他にも、日本の飛鳥や日本丸,海洋丸なども停泊しますが、ここの繋 留費用がかなり高いと言うことで、バブル以降あまり船が停泊すること がなくなりました。  その先に山下公園があります。私の子供の頃の思いでは、父の手に引 かれて、大桟橋入り口の市電の停車場に降り立ち、本牧埠頭に荷物を運 ぶ貨物専用線の高架をくぐり、父の肩車で見た氷川丸の風景が今も残っ ています。今は高架線がなくなり、すっきりしましたが、氷川丸は相変 わらずその姿を留めています。  山下公園に繋留(固定)されている氷川丸は元は外国航路の客船で、 柔道の生みの親である加納治五郎も乗り込んでアメリカに行くのに使用 した船です。  戦争中に海軍に接収され、病院船として従事し、敗戦後復員兵を乗せ て、引き揚げ船として活躍したそうです。  そこから目を転じると、マリンタワーが見えます。マリンタワーは横 浜港の灯台としての役割を今も担っています。  マリンタワーの横を抜けてJR根岸線石川町駅に向かって歩くと、中 華街に行き当たります。  中華街は四方を四神(東:青龍 南:朱雀 西:白虎 北:玄武)に を祀った門の内を示します。  青龍門から中華街中央の大門に至るメインストリートにある電柱には 中国で有名な物語の一つである水滸伝の豪傑達が描かれています。但し、 電柱が108本あるかどうかは知りませんが…  中華街では、中国の雑貨や中華料理の材料,中国茶等が売っています。  毎年冬になると、私はここに来て肉まん等の食べ歩きをします。ネッ トで知り合った友人達とオフ会をすることもあります。  ここで大抵ウケるのが、中国の雑貨で鍼灸のツボの描かれた人形や手 や耳の模型です。  中華街を一通り、朱雀門を抜けて川を渡ると、すぐ元町に至ります。 元町は伊勢佐木町と違い、ファッションの店が多いです。  町を歩いている人達の年齢層も伊勢佐木町より若いです。  元町から急な坂を登ると、そこは山手…  下の賑わいとうって変わった静かな住宅街です。  ここは、江戸末期から明治時代に横浜にやってきた外国人達(特に白 人系)の居留地でした。建っている建物は洋館が多いです。  先の大戦で敗北した日本は、進駐軍に本牧埠頭とここ山手から本牧 (現在のマイカル本牧付近)一帯を接収されました。  その後、徐々に日本に変換され、ここに日本人なども住みましたが、 今では大体が華僑の人達の住居だそうです。  今は少なくなりましたが、洋館の佇まいや外人墓地などの風景。ここ は、異郷を感じることができます。また、山手の奥には今でも小さな牧 場があると聞いています。  …ここまで歩いてくると、もう夕方。港の見える丘公園の展望台から は、横浜の夜景が綺麗に見えます。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  まあ、今回はこんなとこで…(^^;) 以上、藤次郎でした。