車のイグニッション・キーを捻った時から新しい旅立ちが始まります。 また、いつも通い慣れた道を少し外れて見ると意外な発見をしたりする ものです。 私は、年数回の長距離旅行の他に、日帰りのドライブや自分の足を使っ た散策も楽しんでいます。 近場でもちょっとした旅と洒落込むと結構楽しいものです。 そんな中で、またあれこれ起こった事を「藤次郎放蕩記」として書き綴 って行きたいと思います… −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 藤次郎放蕩記 第20話 「三笠…その勇士」 2000/08/09の話。  半年くらい前から、その刷り込みは行われていたように思います。  会社で定期購読している雑誌に付いてくる書店の小誌の横須賀海軍基 地に関する特集記事。会社の売店で販売している「横須賀海軍さんのカ レーパン」。JR横浜線で売っている「横須賀海軍さんのカレー」。町 田東急デパート内の「横須賀カレーパン屋」など立て続けに目にしまし た。  …とうとう、TVでも「海軍で金曜にカレーが食べられるようになっ たのは、横須賀が最初」と言うレポートを見たからには、行かずばおれ ない気持ちになりました。  以前から横須賀にある三笠という日露戦争当時、あの日本海海戦で旗 艦を勤めて帝政ロシアのバルチック艦隊をうち破った戦艦があると言う ことを知り、それを見たいと思っていました。  私の祖父は横須賀鎮守府に所属する駆逐艦の乗組員だったそうです。 その関係で、戦争中父が祖父に連れられて三笠を見に行ったことがある そうです。  また、通称どぶ板通りと呼ばれる通りには、米軍放出品の店が数軒あ り、御徒町の中田商店より安いと言うことを聞いていました。  でも、なぜか横須賀と鎌倉という場所はなかなか行く機会がない場所 でした。  で、今回行くことにしましたが、それでも横須賀巡りを最初から意図 した物ではなく、八景島シーパラダイスに行ったときのついでになりま した。  八景島シーパラダイスのアクアミュージアムでの魚の展示やイルカの ショーなどを楽しんだ後、京浜急行金沢八景の駅から三崎行きの急行電 車に乗り込みます。  汐入駅で下車して横須賀方面に向かってどぶ板通りを歩いていきます。  以前父や人に聞いた話から、私はどぶ板通りは狭くて汚い場所と言う イメージを持っていました。しかし、実際には綺麗に舗装された細い道 でした。  店は、ファッション関係や飲食店が主で、渋谷の裏通りを感じさせま す。肝心の米軍放出品の店はその中で3軒程度しかなく、売っている物 も横須賀だからNAVY(海軍)中心と思いきや、ARMY(陸軍)が 主で、値段はそこそこ安いのですが、いずれも中古品ばかりで新古品は 私には見つかりませんでした。  ちょっと残念に思って、そのまま通り過ぎます。ただ、金物屋の店先 に無造作に陳列されている銃剣(模倣と思われる)やコンバットナイフ が独特の雰囲気を醸し出していました。  そのままどぶ板通りを抜けて、戦艦三笠が展示されている三笠公園に 向かいます。どぶ板通りと平行する国道16号線の向こう側は、米軍横 須賀基地です。  迷彩服を着た兵士がゲートをガードしています。その前を通り過ぎ、 三笠公園に向かいます。  しばらく歩くと、公園らしき場所が見えてきます。またしばらく歩く と、銅像(東郷平八郎元帥像)の建った噴水の向こうにグレーに塗装さ れた無骨な建物が見えます。よく見ると、大砲が積まれています。  …それが三笠で、横浜の氷川丸や日本丸みたいに喫水線(船で常に水 に浸かっている部分と水から上に出ている部分の境目)の下が海水では なく、明治時代から地面に埋まっているのです。  三笠は、日露戦争直前に英国で当時の最新の技術を持って建造されま した。当時の日本はこれほどの大きな戦闘艦を造る技術を持っていなか ったので、日露戦争に参戦した大型戦闘艦はみんな海外製です。その後 ご存じのように東郷平八郎連合艦隊司令長官の旗艦として日露戦争を戦 い抜き、大西洋からはるばる遠征してきた帝政ロシアのバルチック艦隊 を日本海でうち破ります。  そこまでは、大抵の人は知っていますが、その後の三笠がどうなった かあまり知られていません。  有名な日本海海戦で勝利した三笠は結構ひどい損害を受けていました が、無事連合艦隊の主力艦と共に佐世保に帰投します。  東郷司令長官と秋山参謀達が明治天皇に先勝報告をするために東京に 向かった直後、火薬庫の爆発であっけなく佐世保の港内に沈没してしま いました。  その後苦労して引き上げに成功した三笠は、先勝記念館として世界中 に賛同されて横須賀の今の位置に残されることになったそうです。  その後、先の第二次世界大戦まで記念艦として国民に親しまれたそう ですが、敗戦濃い時期には地上要塞の役割をしていたそうです。  今は、機関区は砂に埋まって立ち入ることができませんが、と言うよ り現在は煙突自体がダミーでしかも砲塔機構もない、当時は動力系や砲 塔が生きていたみたいです。  終戦後、横須賀に駐屯した米軍が三笠を接収したそうですから…  でも、敗戦直後のどさくさで、三笠の細かい部品は持ち出されて無惨 な姿になっていたそうです。  それでは、あまりにかわいそうだと言うことで、当時の連合国軍太平 洋艦隊司令長官ニミッツ提督や連合国軍の雄志や国内でも三笠を保存し ようとする人々が費用を出し合って、今の形に修理して今に至るそうで す。  ですので、当時の姿をとどめているのは船の枠だけで、中身は展示施 設になっています。  当時の姿を期待した私には、残念に思われてなりません。  日本海海戦に参戦した他の主力艦達は、以外と長生きした艦がいて、 戦艦出雲は、中国で揚子江を溯って砲艦として活躍したし、戦艦富士は 練習艦として終戦まで活躍しています。  三笠の周囲を一通りビデオに納めて、三笠公園を後にしました。  その足で横須賀駅の方面に歩いて行き、家路につきました。  …結局、横須賀海軍カレーは食べずじまい…家路についた途中で 「しまった!」と思いました。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  まあ、今回はこんなとこで…(^^;) P.S.米軍横須賀基地のゲートを警備する兵士のガンベルトに市販の     携帯用の電子蚊取り機が…あれ、個人装備なんだろうなぁ… 以上、藤次郎でした。