車のイグニッション・キーを捻った時から新しい旅立ちが始まります。 また、いつも通い慣れた道を少し外れて見ると意外な発見をしたりする ものです。 私は、年数回の長距離旅行の他に、日帰りのドライブや自分の足を使っ た散策も楽しんでいます。 近場でもちょっとした旅と洒落込むと結構楽しいものです。 そんな中で、またあれこれ起こった事を「藤次郎放蕩記」として書き綴 って行きたいと思います… −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 藤次郎放蕩記 第16話 「諏訪,甲府」  真夏の暑い日にいつもながら唐突に思いついて、私は愛車で中央自動 車道を走っていました。  目的地は、諏訪地方。諏訪大社には4つの神社が在ることを知ったの で、行ってみることにしました。  諏訪大社は ・上社本宮 ・上社前宮 ・下社春宮 ・下社秋宮 と言った、諏訪湖を挟んで上下各二つの宮に分かれていて、しかも四つ の神社が同格で、諏訪の神様が一年を通して巡ると言う珍しい神社です。  武田信玄公の旗に、孫子の「風林火山」が有名ですが、もう一つ「南 無諏訪南宮上下大明神」と言う旗があります。この旗は、武田信玄が諏 訪大社を信仰していたからです。  中央高速道路を諏訪ICで降りて、すぐそばに上社本宮が在りますが、 一端それの前を通過して、上社前宮に行きます。  前宮は、行ってみるとこれが諏訪大社と言うような趣ではなく、田舎 の神社と変わらない規模でしたが、神社を囲む四本の御柱が諏訪大社の 威厳を醸し出しています。  前宮を参拝し、来た道を引き返して上社本宮に向かいます。  ここは、さすがに全国一万余の末社を持つ諏訪大社の本宮だけであっ て、立派で大きな物でした。  私はてっきり御神体は諏訪湖だと思っていましたが、本殿の後ろの山 が御神体なのだそうです。  そこから、諏訪湖畔に沿って時計回りに走って下社春宮に向かいまし た。  春宮も本宮に負けず大きな境内でした。  次に下社秋宮に向かいました。秋宮に着いたとき、船の形をした山車 を作っていたので、聞いてみると秋宮の祭りの準備をしているのだそう です。  秋宮も春宮に劣らず大きな境内でしたが、本宮に比べるとこちらの二 社の方が華やかな気がしました。  下社秋宮を後にして、まだ日が高かったので国道20号線を東京方面 に向かうことにしました。  のんびりと国道20号線を走って甲府に近づいてきたとき、「そうだ、 武田神社に行ってみよう」と言う気になり、甲府市街で進路を変更しま した。  甲府の駅から一直線に延びる坂道を登り、武田神社に着きました。  武田神社は、武田氏が勝頼公の代までが住んでいた躑躅が先館と言う 館の跡地に在ります。  勝頼公の父武田信玄公は生涯城を持たなかった戦国大名で(厳密に言 うと武田家は、裏山に山城と言うか砦を持っていた)、勝頼公の代に織 田信長公に対して初めて城を構えます。その城も今の甲府城ではなくて、 韮崎観音がある場所付近に建てています。甲府城は徳川幕府時代に建て られた物です。  そこから裏道を抜けて石和温泉方面に向かっていると、「武田信玄公 墓」とある看板が在りました。  私は木曽の長福寺と塩山の恵林寺でも武田信玄公の墓と言う物を見て いるだけに、不思議に思って立ち寄ってみました。  そこはお寺でもなく、ただ道端に立派な墓があるだけでした。元々、 武田信玄公の遺体は、どこに埋葬されたのか今でも解明されていません。  一応、礼拝して行くと、今度は「善光寺」と言う看板を見つけました。  この善光寺は武田信玄公が越後(現在の新潟県)の上杉謙信公と有名 な川中島の合戦を行った際に、長野の善光寺に戦災が及ぶのを恐れ、長 野の善光寺の本尊や僧侶をここに移した物で、”甲斐善光寺”と言いま す。(後に織田信長公によって尾張に善光寺が作られ、そこに移され、 徳川幕府によって再び長野の善光寺に戻ってくることになる)  私の持ってる道路地図に載っていなかったので、驚いたのですが、探 していた場所で会ったため、何の躊躇もなく立ち寄りました。  参拝していると、参拝客が私一人であったためか、坊さんが親切に応 対してくれて、長野の善光寺と同じ御胎動巡りをさせて貰いました。  善光寺を後にして勝沼でワインと葡萄ジャムを買って勝沼ICから家 路に着きました。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−  まあ、今回はこんなとこで…(^^;) 以上、藤次郎でした。