済生会勉強会の報告 2017
 

平成29年12月13日の勉強会の報告

報告:第262回(17-12)済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。
演題:患者になってからの20年をふり返って私が伝えたいこと
 講師:関 恒子(長野県松本市)
【講演要約】 
1)始めに
 私が両眼に近視性の黄斑変性症を発症してからほぼ21年になる。発病当初はあらゆる物がはっきり見えないと安心できなかったものだが、今ではぼんやりしか見えなくてもそれなりに満足して生きていることが不思議に思える。病状の変化と共に様々な視力を経験し、様々な治療やリハビリを受け、それに関わる様々な人たちに出会ってきた。今日はこの21年間をまとめてみたい。
2) ショックと理解力
 私は20年前左眼、18年前右眼に黄斑移動術を受け、視力は一旦改善したものの、現在両眼共に視力0. 1程で、網膜萎縮による視力低下と視野欠損が緩やかに進行しつつある。
 私の眼の異変は、21年前左眼の小さな歪みから始まった。今では黄斑変性症はよく知られ、有効な治療法もある病気だが、当時は歪みが起こっても、自分で黄斑変性症を疑うことはなかった。歪みが大きくなった10日後に漸く行った開業医の先生から、黄斑部の出血の為に視力が低下することと確かな治療法がないことを告げられて驚き「では治療法もないまま、やがて失明するのか」と失明の恐怖に襲われた。その後、大学病院で出血は黄斑中心窩にあり、近視性の新生血管黄斑症と診断された。後で考えると、先生は失明するとは言わなかったのに、視力が落ちて行けば当然その先は失明だと思い、最悪の事態しか考えられなくなっていた。私は近視眼だったが、それまで眼に特別な注意を払ったことがなく、当時は情報も少なかった為、診断は思いがけないものだった。その為ショックが大きく、平常なら理解できることも十分に理解できず、聞き逃したりもしたのだと思う。
3)情報・知識があれば
 症状が悪化していくのに治療ができない苛立ちが大きくなってきた矢先、発症から10月後だったが、右眼にも発症がわかった。今度は左眼の時と違い、過剰な心配はせず、冷静に受け止めることもできた。それは開業医の先生から頂いた近視眼についての本を読み、強度近視眼のリスクについての知識を得ていたからである。予めの情報や知識は、ショックをやわらげ、病気を正しく理解するのに役立つ。
4) 自分の人生を自分で決める 〜 自己決定
 既に両眼に発症し、左眼視力が0.3に低下した時、私は重要な決定を迫られた。視力回復の可能性があるという新しい手術、黄斑移動術を大学病院の先生から提案されたからである。視力が取り戻せるかもしれないと思うと嬉しく、どんな手術か聞かないまま私は即座に承諾した。その頃の私は患者としての経験が浅く、先生に質問することに遠慮があった。そんな私を助けてくれたのは大学病院を紹介してくれた開業医の先生で、手術を再検討する為に、最新手術に関する米国と日本の論文収集を協力してくれた。再考後も何もせずにいるより視力向上の可能性に賭けようと決心した私に対して、先生はより慎重であったが、結局私の意思が尊重された。その時自分の決定に対する責任を強く感じた。自分の将来を左右する重要な決定は自分自身がすべきであり、そうすることで自分の将来に責任を持つことができる。手術後、合併症と再発の為何回も手術を繰り返し、再び視力が低下する結果になったが、手術を受けたことを後悔したことは一度もない。私の決定を助けてくださった先生には今も感謝している。
5) 「今ならできる」 〜 新しいことへの挑戦
 左眼の手術から2年後、右眼にも黄斑移動術を受けることを勧められたが、今度は直ぐに承諾できなかった。それは、網膜剥離の合併症や手術後も繰り返した再発、手術でできた新たな暗点、視力表の視標が読めても生活に役立たなかったり、却って邪魔になる視力があること等様々な問題をこれ迄に経験したからである。視力には自分でしか評価できない部分があることも実感した。先生の熱心な説得と術法を変えるという言葉に、漸く手術を承諾したものの、結果に対する不安で一杯だった。幸いなことに、術前0.1位に低下した視力が0.6まで改善し、上方の暗視野、色の識別、暗順応がやや気になったが、歪みも小さく見え方の質が良いことが何より嬉しかった。右眼の視力が改善されたことで、私の意識はできるようになったことの方に向き、それがポジティブに生きることへのきっかけになったと思う。その一方、左眼のように再発して再び視力が低下する危惧を抱き、今のうちにこの視力を有効活用して今を大切に生きることを心に決めた。その為には何をしようかと考え、最初に実行したことは、読書に困難があったが(近く用の眼鏡の他に拡大鏡も必要だった)、 大学に通ってドイツ文学を学ぶ事だった。私は大学では薬学を学び、文学は全くの初心者だった。又毎年の海外旅行も「今ならできる」と思って始め、毎回来年はもう駄目かもと思いつつ10年程続いている。旅行といっても、1ヶ月程の滞在型で、自分で計画・手配し、一人で行く。文学も旅行も私の新たな挑戦の一環で、症状が進行する中、できなくなるかもという不安な気持ちが活動の源になっている。今ならできると奮起し、どこまでできるか挑戦することが私の今の課題である。
6) 早期のリハビリ
 視機能低下の為にできなくなった事や、能率が悪くなった事、不便になった事は沢山ある。それでも私が行動範囲をそれ程狭めず、自立した生活を維持できるのは早くからロービジョンケア(LVC)に接する機会があったからだと思われる。発症して間もない頃、新聞が読み難いことを先生に話すと、先生は私に拡大鏡を下さった。視野の中心に歪みがあっても拡大鏡を使えば楽に読めることをこの時知り、今思うと、これが私のLVC初体験だった。遠くが見えない不便さを訴えた時に単眼鏡を下さったのもこの先生だった。発症後数年は専ら医学的治療で回復することを願い、視覚リハビリなどは治療を諦めた時でいいと思っていたのだが、私はごく早期に既にLVCを受けていたのである。私が今も活動を維持できているのは早期からのリハビリがあったからだと思う。
7) 面倒がらずに補助具を使い、使いこなす
 私の経験では道具を使うことはかなり面倒なことである。外出先でカバンから取り出すだけでも億劫である。だがこれを乗り越えないと「見えない」「できない」ままになってしまう。今日常生活や外出先で私が最も重宝しているのはiPadで、私の毎年の海外滞在時に周囲がよく見えないのに道に迷わず歩き回れるのはiPadのお陰である。生活の幅を狭めない為に、又生活の質の向上の為に、適切な補助具をうまく使いこなしたいものだ。
8) 最後に
 20年間を振り返えると、私は信頼できる先生方と医療スタッフの方々に出会えて患者として幸せだったと思う。現在も通院しており、視機能低下によって活動が低下しないよう願い、LVCに相談もしている。この20年の間に黄斑変性症の治療法が確立され、現在新しい治療法も開発されつつあることを思うと、私のような患者にも明るい未来が予感できることが大変嬉しい。

【略 歴】:松本市在住
富山大学薬学部卒 薬剤師
1996年左眼に続き右眼にも近視性血管新生黄斑症を発症
1997年と1999年に黄斑移動術を受ける。
この経験を生かして『豊かに老いる眼』を翻訳 (田野保雄監訳 文光堂)
趣味はフルートの演奏、ドイツ文学研究、旅行など

【後 記】
関さんは、ご自身の身に降りかかった病と真摯に向き合い、前向きに取り組んでこられました。また自分の障害のことや、その時の感情などを非常に理性的に説明して下さいます。そのため新潟での勉強会に何度も松本からお呼びしています。患者さんにはもちろん、医療関係者にとってもとても参考になることをお話し下さいます。今回も期待どおりでした。



平成29年11月08日の勉強会の報告

報告:第261回(17-11)済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。
演題:「視覚障害者支援における課題の変遷」
 講師:仲泊 聡(理化学研究所 研究員;眼科医)
【講演要約】 
 私は、ごく普通の眼科医としての教育を受けたのち、1995年に神奈川リハビリテーション病院に勤務するようになって以来、20年余りを視覚障害者の皆さんとともに歩いて参りました。これまでに私が見聞きし、働きかけてきた視覚障害者支援の現場について、この機会にまとめてみました。まず、20世紀に起きたこと、そして、21世紀になってからは概ね10年ごとに区切り、最後には2021年からの10年についても展望したいと思います。
 私が研修医をしていた頃、白内障手術に大きな変革の波が来ていました。そして、その技術が日に日に改良され、どんどん素晴らしい技術に発展する時代を過ごしてきました。私の同僚たちは、すべて手術に魅了されていきました。じつは、私が眼科医を目指したのは、分子生物学にハマって生化学教室に出入りしていた学生時代に、視神経再生の研究をしていた眼科の大学院生に出会ったのがきっかけでした。だから、卒業したら「研究」ができると思っていました。ところが周囲は手術一辺倒で、ちょっと違うなーと感じていた頃に、指導教授から研究テーマが与えられました。それが、なんと「大脳での色覚がどうやって生まれるかを調べよ」という課題でした。
そこには、分子生物学とはまた違う魅惑の「脳科学」の世界が広がっていました。そして、その研究を深めるために私は神奈川リハビリテーション病院に赴任しました。
 ところが、そこで出会ったのは、大勢の視覚障害者の皆さんでした。正直言って「えらいところに来てしまった」と思いました。なぜなら、視力をよくするのが眼科医の仕事だと刷り込まれて6年もたっていましたので、治療ができない目の見えない患者さんというのは、私にとっては「申し訳ない」という以上の「恐ろしい」対象となっていたからです。しかし、そのような環境に私は13年も身を置くことができました。それは、慣れたということでなく、素晴らしい視覚障害者の友人をたくさん持つことができたからだと思います。目の不自由さを乗り越え、社会復帰している方達は、一様にコミュニケーション能力に長けた聡明な紳士淑女でした。そして、その病院と併設していた七沢ライトホームの職員のおじさんたちから私は多くのことを学ばせていただきました。
 20世紀の最後の5年を私は、そこで過ごしました。その期間は、実は視覚障害者支援のこれまでで最も元気な時代の最後のときだったのです。ライトホームの利用者さんの主な疾患は、ベーチェット病、網膜色素変性症と先天眼疾患でした。皆で登山を楽しむこともありました。しかし、世界ではその背景として大変な思想の転換が生じていたことを当時の私は知る由もありませんでした。戦後から障害者を庇護する政策が当たり前に続けられてきたなかで、1964年の世界盲人福祉協議会での「盲人の人間宣言」で、この庇護政策を『これほど盲人の人権を無視したシステムはない』と批判する方向性が打ち出されていました。
 ライトのおじさんたちは、その動きを察知していました。そしてあの頃、私に課題は、1) 手帳の有無による大きな格差 2) 点字・白杖などステレオタイプな対応 3)障害者は守られるべきものと思われていること 4) 軍人になれなかった障害者に対する差別の因習 5) だから障害者にはなりたくないと手帳申請しない人がいること 6)障害者には経済的支援さえすればよいという行政等にあると聞かされていました。
 21世紀になるとさすがの私もその異変に気づくようになりました。このままだと視覚障害者支援システムが崩壊してしまうという危機感をライトのおじさんたちと共有しました。そして、実際に障害者支援施設をゆるがす制度改革が次々に始まっていきました。措置に基づいて行われていた支援が、支援費制度になり、そして障害者自立支援法が2006年に施行されました。ライトホームの安泰の時代から徐々に入所者への対応の仕方が変わり、そして希望者激減の時代を私は彼らとともに歩きました。制度が庇護から自立へ変換するなかで、お金を払えない当事者や先を見通せない当事者が引きこもり、盲学校やリハ施設から姿を消していったのです。
 そのような中で世間に先駆けていち早く行ったことは、地域での連携でした。現在の神奈川ロービジョンネットワークの前身となる会合を最初に開催したのが1999年2月のことでした。県内の4つの大学病院と県眼科医会に呼びかけ、それまでの教育と福祉主体の視覚障害者支援から医療と連携した支援体制の必要性を訴えました。なぜなら、視覚障害者の8割が眼科には通院しているという統計があったからです。リハの必要性を訴える場として、医療現場は欠かせないと考えたわけです。
 この時代、私たちはこの先リハをする専門職がいなくなってしまうと考えていました。利用者が減るということは、行政から見れば需要がなくなったと解釈され、職員数が減らされます。自立支援法で障害の範囲が広がり、その区別がなくなったことから様々な特性を持った障害者が集まってきます。利用者の減少に歯止めをかけたくて施設側もそれまで拒んできた慢性疾患患者、高齢者、知的障害者を利用者として認めざるをえなくなっていきます。そして、それによって職員の視覚障害に対する専門性が奪われ、そして育たなくなっていくと考えました。
 私は、2008年に神奈川を離れ、所沢の国立障害者リハビリテーションセンターに異動しました。異動の動機は一言では言えませんが、そのなかにこの重大問題をなんとかしなければという気持ちもありました。そして、そのポストを利用して学会などに働きかけ、教育・福祉の医療との連携を呼び掛けてきました。1) スマートサイト 2)中間型アウトリーチ支援 3) ファーストステップ と様々な仕込みをしてきました。 そして現在を含む2011年からの10年には、日本眼科医会や日本眼科学会が福祉・教育との連携を真剣に考えてくれるようになり、この考えが当たり前のこととして受け止められるようになりました。
 そして、次の10年、何をすべきかについて考えました。現在、大勢の同志が立ち上がり、視覚障害者支援のサービスの質と量を担保するために働いてくださっています。しかし、それでもなお、そのサービスの行き届かない地域があります。これをなくすのは一筋縄ではいきませんが、現在のICT技術は、ほんの10年前には想像していなかったほどに発展しています。これを使って遠隔でも支援ができないものかと現在はその技術開発に取り組んでいます。さらに、その方向性を確認するために、障害者権利条約の26章のリハビリテーションのところを読み解いて、1) 障害者相互の支援2) できるだけ早期に 3) できるだけ近くで という3つのキーワードを指針として、これからの計画を立てていきたいと思っております。
 今年の12月1日には、神戸アイセンターがオープンします。NEXT VISIONという公益法人の活動として、上述の方向性をしっかりと見据えた活動をしてまいりますので、皆様、今後ともよろしくお願いいたします。

【略歴】
 1989年 東京慈恵会医科大学医学部卒業
 1995年 神奈川リハビリテーション病院
 2003年 東京慈恵会医科大学医学部眼科講師
 2004年 スタンフォード大学心理学科留学
 2007年 東京慈恵会医科大学医学部眼科准教授
 2008年 国立リハ病院 第三機能回復訓練部長
 2010年 国立リハ病院 第二診療部長
 2016年 神戸理化学研究所 研究員

【後記】
 大学の准教授から国立障害者リハビリテーションセンター病院の部長職を8年間務めた後、研究所の一研究員に身を投じた気概の眼科医仲泊聡先生が、ご自身の半生と視覚障害者支援の歴史を絡めた素晴らしい講演でした。
 得てして大真面目に本筋を語るよりも、ポロリと本音を語る場面は人を引き付けます。私は冒頭の5分間で魅了されてしまいました。・視力をよくするのが眼科医の仕事であり、どれだけの視力を良くしたかが通信簿、・視力の悪い患者さんは、申し訳ないというよりも怖い存在、・視力の不自由さを乗り越えた(目の前にいる)患者さんは素晴らしい人たち、、、、、
 講演では、目の不自由さを乗り越え、社会復帰したコミュニケーション能力に長けた聡明な紳士淑女、そして病院に併設されていた七沢ライトホームの職員のおじさんたちから学んだこと断りながら、障害者を庇護する時代から自立支援への変革の理念と問題点等々が語られました。難しいイデオロギーや言葉・文章でしか得られなかった事柄が、平易な言葉で皮膚感覚で語られました。さらには現在の問題点、今後の展望も盛り込んだ膨大な講演でした。
 今後はNEXT VISIONという公益法人に身を置き活動していかれるとのこと、益々のご発展を祈念しております。



平成29年10月18日の「目の愛護デー講演会」の報告

報告:第260回(17-10)済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。
演題:「90歳が究め続けた緑内障の素顔と人生と」
 講師:岩田和雄(新潟大学名誉教授)
【講演要約】 
 90歳の自覚が全くない自分が、「90歳が究め続けた緑内障の素顔と人生」などと題して話をする矛盾に我ながらむしろ興味がある。 一句「卒寿とは おれのことかと 大笑い」。
研究歴60有余年、永くもあり短くもあり。世に「風評」という現象がある。「流行」という現象もある。「情に棹させばながされる」は漱石の有名な言葉である。人間がすることであるから、学問にも類似の現象がある。華やかで、分かりよく、人口に膾炙しやすい安易な流れは、一世を風靡するかにみえるが、桃山文化の如くやがて消える宿命にある。そして、歴史の本流は何ら影響なく、決して流れの本態を変えることはない。それが真実というものだ(但し、教育は別)。
 長いようで短い人生、いろいろのことがある。今日はアカデミックなお話ではなく、問わず語りで思いつくままに、面白そうなお話をしてみたい。
 小学校3年生の受け持ち先生に言われたことが今でもよく覚えている。曰く、「お前たちは、こういうものになりたい、なりたいと、思い続けていると、いずれ、そういうことになるものだ、面白いだろう!そしてお前たちが将来どんなに偉くなっても、俺が教えたことを忘れるな!」
 私が中学生の時の東大哲学を専攻した校長の話が面白かった。曰く、「ある禅僧が雨宿りに入った洞穴に、空腹の虎がやってきた。虎に喰われない方法は??禅僧の解答は???」。その答えは、食われるのでなく、食わせるのだというものだった。その趣旨は、どんな時でも自分が主体にならねば事は成就しないということだ。
寺田寅彦(漱石門下、東大物理学教授)曰く、「頭のいいひとは恋ができない。恋は盲目だからだ。科学者になるには自然を恋人としなければならない。自然はその盲目な恋人にのみ、真心を打ち明けるものだ。頭の悪い人は、駄目に決まっていることでも一生懸命続け、いつか、それをしなかった人には、決して出会はない、特別のチャンスに巡り逢うことがよくあるものだ」。
 人は誰でも(医学研究者ももちろんのこと)、教科書やガイドラインをマスターしても、わからないことが山の如くに立ちふさがる。もっともらしい解説で満足すると峠を越えたように錯覚し、安堵してしまう。そうすると深山はその本態を隠してしまい、真実はあざ笑ってカスミの彼方に消える。例えば近視とは、すぐに理解できるがでは、なぜ、そしてなぜ、と何故を3回繰り返すと世界でも一番レベルの高い最高の話題となる。
 セレンデピテーSerendipity(幸運な偶然)という言葉がある。セイロン島の3人の王子が、島めぐりで思いもかけなかったことを発見する童話で、それに因み、幸運な偶然をセレンデピテーと表現するようになった。勿論、己の好奇心と知的高レベルが必要な条件である。1754年の造語である。ぺニシリンの発見のように、ノーベル賞受賞の研究には予知できない偶然の発見が多いのだ。
 私は大戦後の何もない時代の昭和28年に新潟大学眼科教室に入局した。当時、眼科学では伝統的に眼圧が高いものが緑内障ということになっており、眼圧ばかり測っていた。偶然にステロイド点眼が緑内障を誘発した例を発見し発表、学問に興味を持ち始めた。文献もなく、外国雑誌に投稿できる状況になく、後刻文献で、ベルギーのフランソワ教授に次いで世界で2番目の発見になるべきことがわかった。数年後有名なゴールドマン教授がコーチゾン緑内障と命名、やがてベッカー教授のステロイドリスポンダー説へと発展。このことから反省した。一つ目は、わが未成熟、二つ目は、指導者がいなかったこと、三つめは、学問発展の方法論がなかったこと、四つ目は、欧英文発表のすべがなかったことだ。
 ひょんなことから新天地がひらけた。人生は面白い。入局後、連日医局で夜遅くまで研究していた。ある時、教授が帰宅後に教授室に入り、その屑籠から(フンボルト)海外留学の応募用紙を見つけた。これはチャンスと、応募してみたところ見事に受理された。ドイツ、ボン大学留学(昭和36−38年)が叶ったのだ。どんなに狭き門でもおそれることなく、なんでもやってみることだ!
 一途にやってきた緑内障の病態研究では、常に自身を叱咤激励して「白紙主義」を通した。つまり、敢えて既成概念を無視して真実にせまる主義に徹してきた。眼圧上昇の原因が隅角にあるから、前房隅角を究めようと思った。1950年代から電子顕微鏡が応用されるようになったが、当時大学眼科には電顕がない。そこで岩田式隅角鏡を開発し隅角の超拡大に挑んでみると、サルコイドーシスの患者の隅角に思わぬ発見をした。あまりの特徴に、サルコイドシスspecific な結節と主張したが、学会で反対されたり無視されたり。彼らはただの結節で、他のブドウ膜炎結節と同じ結節に過ぎないと反対した。注意深く拡大観察すれば、際立った特徴なのに、ただの結節としか見れず反対する低いレベルにあきれたものだ。後日、瀬川雄三教授(信州大学)が病理学的に岩田説を実証した。究極的には正道が次第に理解されるようになるものだ。
 思い込んだら徹底して究明を続けること!臨床とか研究とかいうものはそうゆうもの!じっくり付き合うと、次つぎと、新事実や疑問がでてきて、止まらなくなる。あとは、センスと意欲次第。
 一人の臨床研究者の60数年にわたる経験、研究課程の一端を吐露した。人それぞれに、ひとは膨大なエネルギーを秘めているものだ。己を高めつつ、常に白紙のつもりで問題に対処すれば新たな世界が開けるものだ。今回の話が 何かの参考になればと期待している。

【略 歴】
 1954年 新潟大学眼科入局
 1961−3年 BONN 大学眼科留学(フォン・フンボルト奨学生)
 1972年 新潟大学眼科教授
 1993年 同定年退官、名誉教授
  日眼総会宿題報告、日眼総会特別講演、臨眼総会特別講演
  日本緑内障学会須田記念講演、国際緑内障研究グループ、メンバー

【後 記】
 恩師、岩田和雄新潟大学名誉教授にお話して頂きました。パワーポイントを駆使して、きれいな眼底写真や緑内障のスライドを交えての熱演でした。こういう人になりたいと思い続けることが大事、禅僧との問答、寺田寅彦の教えなどを交え、60年間緑内障を追及してこられた先生の眼科医としての一生を振り返り、多くの示唆に富んだ講演でした。若い医師にも聞いてもらいたい講演でした。今年(2018年9月の)緑内障学会で講演を担当されるとのこと、今回お聞きした内容は多くの経験ばかりでなく、事実と確信と信念に基づいた斬新な内容でした。講演の成功間違いなしと確信しました。
 何よりもおいくつになっても(卒寿を迎えられても)変わらぬ探究心は、私達門下生にとって、「常に目標に向かって歩み続けよ」という何よりの力強いメッセージでした。ありがとうございました。
参加者の一人から、以下の様な感想が届きましたので紹介します。
 Ullmanの「青春」を想起する岩田教授の講演でした。「人は希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる」。卒寿を目前にして、なお信念と希望に満ち溢れているお姿に感動しました。とはいえ、心身ともに健康でなければ研究は続けられません。不断の努力は学問だけでなくご自身の健康にも注がれているのだと感じました。“幸運な偶然”といえど、多くの試行錯誤や失敗、自由な発想や独創的な発見からたまたま面白いことを見つけ出す。そのプロセスこそ大事にしなければならないことを細菌学のPasteurは「偶然は準備のない人を助けない」の一言で表しました。お聞きしてこの格言を思い出しました。心に残るお話の帰路、バスの車窓にぼんやり映る自分を、少し悔やんでいました。日頃の怠慢を振り返る機会をいただきました。



平成29年09月13日の勉強会の報告

報告:第259回(17-09)済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。
演題:視覚障害研究・開発の過去・現在・未来
 講師:小田浩一 (東京女子大学教授)
【講演要約】 
1.はじめに
 研究者・大学教員としてのキャリアは、今年で33年。残り10年で定年退職の節目になるので、これまでの自分の仕事を振り返りながら、未来を展望してみた。振り返ってみると、これまでに研究に従事してきたテーマは以下の4つである。ICTと視覚障害、フォントの研究、ロービジョンの視機能と行動の関係、ロービジョン・リハビリテーション。以下、順に述べることとする。
2.ICTと視覚障害
 1984年旧国立特殊教育総合研究所に赴任した当時に与えられたテーマは、コンピュータの視覚障害教育への応用であった。これは今流に言えば、ICTと視覚障害という大きなテーマになるだろうが、教育現場にまだPCが普及していない時代であり、テーマを与えた小柳恭治部長は慧眼ではあったが、ほとんどの同僚や研修生の態度は否定的で、PCを操作していると自閉症だの宇宙人だの、マシンが障害児の役に立つはずがないだのと冷たい批判を受けたことをよく覚えている。
 オーストラリア商務省から補助金をもらい、メルボルンに1ヶ月出張してユリーカA4という視覚障害のユーザ専用のPCの開発もした。視覚ディスプレイがなく、点字キーボードというシンプルなデザインはスティービーワンダーのお気に入りになったことで知られている。現場でのICTへの抵抗があまりにも大きいので、普及のためにPC講習会を開催したり、東京女子大学に転職後は大学のサーバをつかって全国規模のメーリングリストや視覚障害補助具のデータベースの公開などもした。
 1996年視覚障害の支援関係の情報資源をまとめたVIRN (Vision Impairment’s Resource Network)というサイトは、当時非常によく閲覧されていたようで、今では、VIRNという略語はnet辞書にも登録され、カナダの団体の名前にも使われている。米国連邦政府調達庁が公開していたWebアクセシビリティのガイドラインを許可を得て日本語訳して公開するなど、VIRNを使って初期の普及活動もした。杏林アイセンターでもロービジョン外来開設時はPC訓練にかなり力を入れていた。
 そのうちどっとブームが来たので、このテーマには少し距離を置いて、自分にしかできない研究に路線を変更していくことにした。現在はスマートフォンやタブレットPCが全盛で、今後はAIやVRがまた新しい可能性を開いていくと思われる。会場でデモをしたアプリ、写した対象をAIで認識して音声読み上げするTapTapSeeなどは、ICTが視覚障害を支援する姿の今後をよく示しているように思われる。
3.フォントの研究
 1987年にApple社のMacintoshというGUIのPCが出ると、フォントが自由に変えられることとマウスで図表が簡単につくれることに注目して、触図をつくるシステムを提案した。そのときにオリジナルの点字フォントを開発した。日本ではMS-DOSが全盛でWindows3が出る5年前だったこともあり、日の目は見なかったが、その後意外と海外でもよくつかわれていることをAppleのSpecial Education Officeの人たちに教えてもらった。フォントの研究もそこから研究テーマの1つになった。
 2000年ごろ、国立障害者リハビリテーションセンター研究所との共同研究の中で、後天性の盲ろうの人たちの文字として触覚でも視覚でも読みやすいフォントの開発をした。研究成果はAdobeのフォントデザインをしていた山本明彦さんが形にしてくれて2002年にForeFingerMとして世に出た。2006年にイワタのUDフォントが出る3年前の話である。これはカタカナだけのフォントで一般的には使いにくい仕様だったが、その後、類似のフォントが次第によく使われるようになった。タイプバンクのUDタイポスが一番似ていて使いやすいのではないだろうか。
 2013年ごろから共同印刷との共同研究で新しいUDフォント小春良読体を開発した。 これは最近の読み研究の中で少しホットになっている読み分け困難(crowding)を減らすデザインになっている。そのために小さいサイズで読みやすい特徴がある。最近一般に市販することになった。
4.ロービジョンの視機能と行動の関係
 テーマの3つ目は、大学・大学院時代からの専門である視覚心理の関心を伸ばしていったもので、全盲の生徒が視覚を活用している様子に衝撃を受けてから、ロービジョンの視機能と行動の関係がどのようになるのかを研究するものになる。1987年にニューヨーク大学に留学してロービジョンと読書の心理学を勉強してもどってから、読書行動をメインの研究テーマにすることになった。
 1998年ミネソタ大学のロービジョン研究室のMNREADという読書評価チャートの日本版の開発を軸にして、多くの研究が生まれている。読書に影響しそうないろいろなパラメータを眼疾患に関連づけて地味に調べてきたが、今年2017年の国際学会では、欧米の研究者から今後そういう研究が必要だという意見が出ていた。
5.ロービジョン・リハビリテーション
 1991年故樋田哲夫教授の肝いりで杏林大学眼科にロービジョン外来が誕生した。 1994年教え子の田中恵津子さんがロービジョン外来に関わることになり、ロービジョン・リハビリテーション自体が4つ目のテーマになった。1999年杏林大学付属病院の新外来棟建設に伴って杏林アイセンターが発足、アイセンターの目玉の一つはロービジョン外来であった。
 ロービジョン研究ディレクターという形で、田中恵津子さん、西脇友紀さん、新井千賀子さん、尾形真樹さんらロービジョン外来メンバーの研究・実践を後方支援した。以下のことは実際はこれらの杏林スタッフの仕事で僕はスーパーバイズしていただけである。
 臨床から生まれるさまざまなニーズが重要な研究や実践を導いてくれた。病院内の資源が限られていたので、東京のいろいろな視覚障害支援団体・施設と連絡をとり連携体制をつくり、連携時の個人情報の安全な交換法を決め、病院の内装の見えにくさを複数の患者とチェックして輝度コントラスト50%を確保する建物のアクセシビリティの研究をして、改装をしてもらったりというのが初期の実践研究だった。
 インテーク時にもれのないようにするQOL評価はVFQの初期のものを参考に日本人の生活に合わせたものをつくり、事後評価でどう改善がみられたかも評価できるように改良した。さらに、個々の項目に対して、どういう支援の手立て、外部連携先、情報があるかのリストを整備して、どのニーズにもなんらかの対応ができるような工夫をした。
 QOL評価は、ロービジョンサービスの効果を測定して改善していくPDCAやEBMのための大事なツールとなる重要なものであるが、開発後少しすると杏林でもルーチンで利用されるということがなくなっていた時期がある。そのQOL研究の中では、高齢のロービジョン患者に対する余暇活動の影響がはっきりしてきた。余暇活動のニーズは患者から言い出しにくいものなので丁寧なインテークが求められる。
 これらと並行して、MNREAD-Jを開発し読書評価をして拡大率を決めたり、いろいろな拡大補助具の特性・メガネとの関係を適切に調整する専門的な知識を月例ロービジョン研究会を通して蓄積・学習していった。ロービジョン外来は杏林アイセンターの1つのユニットとして、治療と並行したリハビリの提供や、リハビリを想定した治療方針の設定というように、整形外科とPTのような良い共生関係が生まれている。
5.おわりに
 今年2017年の国際ロービジョン学会で見学した、オランダのVisioという組織が提供しているロービジョン・リハビリテーションのあり方を紹介した。月額100ユーロという医療保険の中で提供されるサービスで、車の保険のように、ニーズが生じればいつでも決まった担当者に電話して対応をコーディネートしてもらうことができる。 多種多様な専門家が多くは非常勤で所属する組織で、個々の利用者の電話での要望に応えられるようにしている。
 「ユーザーベース」というのは大きな発想の転換だが、考えてみれば無駄のないシステムで日本の今後はこのようにすると良いのではないかと思われた。

【略 歴】
 1981年 千葉大学人文学部心理学専攻卒業
 1984年 東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退
 1984年 国立特殊教育総合研究所視覚障害教育研究員
 1987年 アメリカ合衆国ニューヨーク大学在外研究員
 1992年 東京女子大学現代文化学部講師
 2009年〜 東京女子大学現代教養学部教授

【後 記】
 東京女子大学の小田浩一教授にご自身の研究の過去・現在・未来について講演して頂きました。思えば1998年ごろから私が勝手に小田研の研究会に参加するようになり20年近くになります。
 先生は視覚心理物理学の大家で、これまで視覚心理の手法を用いて視覚障害者の抱える問題について先頭に立って学問を進めてこられました。
 講演ではこれまでのそして現在のお仕事をまとめてお話し下さいました。MNREAD-Jを開発し読書速度の評価、視覚障害者にも強いフォントの研究、視覚障碍者のwebアクセシビリティの研究、さらには杏林大学眼科ロービジョン外来立ち上げにも参画しています。
 未来のお話として、2017年国際ロービジョン学会での話題やオランダの視覚障害への対応Visioなども紹介して下さり、目から鱗のお話満載でした。  日本のロービジョンケアをリードする小田浩一先生の研究の足跡を直接伺うという贅沢をたっぷりと堪能しました。



平成29年08月09日の勉強会の報告

報告:第258回(17-08)済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。
演題:済生会が目指すソーシャル・インクルージョンの実現〜人々の「つながり」から学んだこと〜
 講師:小西 明(済生会新潟第二病院医療福祉相談室)
【講演要約】 
1 はじめに
 近年、国家財政の悪化を理由に医療費の患者負担の増額、介護や社会保険料の引き上げなどが行われ、国の医療や介護、福祉経費は抑制され厳しさを増している。一方で障害者だけでなく低所得世帯の子どもや高齢者、引きこもりなどによるニートやホームレスなど、さまざまな理由による生活困窮者がマスコミで取り上げられている。総じて行政は、法制度の枠組みの中でのサービス給付は得意だが、非定型なニーズに対して実効性のある支援は苦手と言われている。社会には「公共の手」からこぼれ落ちる人たちがいて、昨今は、そういう人たちが増えている。
2 ソーシャル・インクルージョン(social inclusion)
 1950年代、デンマークのバンク・ミケルセンは第二次世界大戦後に、知的障害者を持つ親の会の運動に関わっていた。当時の知的障害者は、隔離された大規模施設に収容され、非人間的な扱いを受けていた。そのような状況下で、親が「親の会」を結成して組織的に反対運動を展開した。ミケルセンは「どのような障害があっても、一般の市民と同等の生活・権利が保障されなければならない。障害者を排除するのではなく、障害をもっていても健常者と均等に当たり前に生活できるような社会こそがノーマルな社会である。」とした、ノーマライゼーション(normalization)の理念を提唱した。   
 ソーシャル・インクルージョンは、ノーマライゼーションを発展的に捉え、障害者だけでなく「全ての人々を孤独や孤立、排除や摩擦から援護し、健康で文化的な生活の実現につなげるよう、社会の構成員として包み支え合う」という理念である。炭谷茂済生会理事長は、ソーシャル・インクルージョンを済生会の目指す地域サービスの基本と提言している。
3 済生会のあゆみ
 済生会は明治44(1911)年2月、明治天皇が「恵まれない人々のために施薬救療による済生の道を広めるように」との済生勅語に添えて、150万円を下賜されたことが始まりである。時の総理大臣桂太郎は、この御下賜金を基金として全国の官民から寄付金を募り、同年5月30日恩賜財団済生会が設立された。以来、100年以上にわたり創立の精神を引き継ぎ、保健・医療・福祉の充実・発展に必要な諸事業に取り組んでいる。医療によって生活困窮者を救済しようと明治44(1911)年に設立した。100年以上にわたる活動をふまえ、現在では、日本最大の社会福祉法人として全職員約59,000人が40都道府県で医療・保健・福祉活動を展開している。 4 済生会の事業  社会福祉法人済生会は、定款の第1条に「本会は 済生会創立の趣旨を承けて済生の実を挙げ、社会福祉の増進をはかることを目的として全国にわたり医療機関及びその他の社会福祉施設等を設置して次の社会福祉事業等を行う。」とある。全国に病院・診療所などの医療機関を中心に、児童福祉施設や障害者福祉施設、高齢者福祉施設や看護専門学校の事業を運営している。
5 済生会新潟第二病院の特長
 当院は生活保護法患者の診療及び生計困難者のための無料又は低額診療等を実施している。減免相談対象者は、生活保護適用外の生計困難者(年金生活、不安定就労など)やDV被害者、人身取引被害者等の社会的援護を要する方々などである。加えて、昨今の社会経済情勢の中で、医療・福祉サービスにアクセスできない人々が増加しつつあることから、済生会創立の理念に立ち返り、福祉の増進を図るため済生会生活困窮者支援事業「なでしこプラン」を積極的に展開している。
 事業は、@DV被害者支援  A更生保護施設「新潟川岸寮」の医療支援・社会貢献活動・研修会 B外国籍住民のための医療相談会 C東日本大震災避難者支援である。
 また当院眼科では、地域貢献活動として、どなたでも参加できる眼科勉強会・新潟ロービジョン研究会・市民公開講座が開催されている。地域連携福祉センターでは、市民向けおきがる座談会、事業所向け出前講座などを開催している。
6 展望
(1)障害者をはじめ、全ての人々にやさしい病院
 障害者をはじめ、子どもや高齢者など社会的弱者に「医療関係事業者向けガイドライン」に基づいた合理的配慮の視点による、より「やさしい病院」を目指してほしい。
(2)医療と教育の連携
 県内にこども病院、小児療育センター、児童発達支援センターの開設が望まれる。また、 特別支援学校生徒の当院院内実習を通して、障害者の自立や社会参加への支援、職員への理解啓発を図っている現状を報告した。
(3)ソーシャル・ファームの開設
 通常の労働市場では就労の機会を得ることの困難な者に対して.通常のビジネス手法を基本にして仕事の場を創出する。主たる対象は障害者であるが、高齢者、母子家庭の母親ニート・引きこもりの若者、刑余者、ホームレスなどである。当院がリーダーシップを発揮し、ソーシャル・ファームが早期に開設されることを望む。
(4)知的障害者の福祉型大学
 インクルーシブ教育システム推進の観点から、将来は知的障害者が高等教育機関で学ぶことができる課程の創設が望まれる。当面は高等部卒業後の進路選択肢の拡大を目指し、現状の福祉制度を活用した類似施設の開設が考えられる。

【略 歴】
 1977年 新潟県立新潟盲学校教諭
 1992年 新潟県立新潟養護学校はまぐみ分校教諭
 1995年 新潟県立高田盲学校教頭
 1997年 新潟県立教育センター教育相談・特殊教育課長
 2002年 新潟県立高田盲学校校長
 2006年 新潟県立新潟盲学校校長
 2015年 済生会新潟第二病院医療福祉相談室勤務

【後 記】
今回は、小西明先生にお話して頂きました。小西先生は、長い間新潟県の教育畑に在籍し、主に視覚障害児の教育に関わってこられました。高田盲学校・新潟盲学校の校長を歴任され、退職後当院にお呼び致しました。
当院では、医療福祉相談室に勤務され多くの方面で活躍されています。一口に医療と教育の連携と言いますが、こうした人的交流がひとつの突破口になるのではないかと思います。
医療の現場での常識は、必ずしも教育の現場での常識ではありません。その逆も真なりです。小西先生の院内での発言は私たちに大きな影響力を持ち始めています。 今後ますますの小西先生のご活躍を祈念しております。



平成29年07月05日の勉強会の報告

報告:第257回(17-07)済生会新潟第二病院眼科勉強会  新潟盲学校弁論大会 イン 済生会の報告です。
 1.「一人で生きないで」 中3年 女子
 2.「ブラインドサッカー」  高2年 男子
【講演要約】
1.「一人で生きないで」 中3年 女子
 「あなたは一人で生きようとしていませんか?」 私にもそういう時期がありました。ですが、この間私はライブに行ってきて、その演出の中で、「あなたは一人じゃない」と言われました。その言葉を聞いて、今まで思っていた「一人で頑張ろう」とか、「誰にも頼らない」というような考えが消えて、「少しくらい人に頼ってみようと思うようになりました。
 私は前まで「一人で何でもできる」と思っていました。きっとそれは何か私の中でプライドのようなものがあり、一人でやることが「カッコイイ」とでも思っていたのでしょう。ですが、「あなたは一人じゃない」というこの言葉を聞いて、今まで自分がとんだ勘違いをしていたことに気がつきました。一人でできると思っていたことも、誰かがいなければできないということ。そんなことに今気づく自分が恥ずかしいです。
 私は、周りの人に助けられたおかげで、「一人でできることをたくさん経験しました。例えば身近なことでいうと、「学校に行く」ということがあります。私は毎日電車通学なので、毎日親に駅まで送ってもらいます。そして、電車に乗り、新潟駅まで着いたら、スクールバスで学校まで向かいます。単純なことのように見えますが、この三つの移動だけでも、親、電車の運転手さん、スクールバスの先生や運転手さんなど、たくさんの方から助けてもらっていることがわかります。
 それに、私は視覚障害者なので、周囲の状況をつかみにくいため、いろいろな場面で助けが必要になります。この発表の最初にお伝えしたライブの時も、双眼鏡を落とし、かなり困ってしまいました。なかなか見つけられず、辺りを見回していると、周りの方が私に気づいて、ライブを見たいはずなのに、一緒に探してくれました。私は感謝の気持ちと申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。そして、これからは困っている人を見かけたら、声をかけて助けてあげられる人になりたいと思いました。
 私ができることは限られているかもしれません。ですが、その中でできることで人助けをしていきたいです。「私は一人じゃない。」これからは、困っている時はお互い様で助け合いながら、一人で頑張らずにみんなで支え合っていきたい。だから・・・、あなたも私も一人じゃない。

2.「ブラインドサッカー」  高2年 男子
 「ボイ」「ボイ」という選手たちの大きな声。シャカシャカと鳴るボール。指示を出すガイドや監督。壁にぶつかる音。ブラインドサッカーでは様々な音が響きあいます。ブラインドサッカーは、視覚障がい者のために考案されたサッカーです。
 小4の総合学習で初めてブラインドサッカーを体験し、目が見えなくてもサッカーができることを知りました。「もっと知りたい。」「プレーしたい。」と思い、体験会に参加し、練習を見学しました。はじめはボールに触って練習するだけで楽しかったのですが、中学時代は「試合に出たい!!」と思うようになり、ブラインドサッカーに対する思いが強くなっていきました。
 高1の6月に本格的にブラインドサッカーを始めました。選手はアイマスクをしているので、意思表示や自分の位置を把握するために、声でコミュニケーションをとります。危険な衝突を避けるため、ボールを奪いに行く際は必ず「ボイ」と大きな声を出します。スペイン語で「行くぞ」という意味です。審判にこの「ボイ」が聞こえないと「ノースピーキング」とみなされ、ファウルになってしまいます。私は、最初は大きな声が出ず、何度も注意されていたので、審判にも聞こえるよう、大きな声を出すことを意識しながら練習に励みました。
 昨年7月には、日本選手権に初出場し、緊張と不安でボールの音に反応するので精一杯でしたが、もっと上手くなりたいという気持ちが出てきました。課題もたくさん見つかりました。その後の体験会や練習試合を通して、私の課題の一つであった「自分の位置を把握すること」ができるようになりました。少しずつ大きな声も出せるようになってきました。そして我が新潟チームは、北日本リーグを全勝で優勝し、クラブチーム選手権への出場権を得ました。この大会には招待チームで世界王者ブラジル代表が出場します。ブラジル代表と対戦し実力を知るためにも、私たちはたくさん練習しました。
 大会はブラジル代表が優勝し、我がチームは6位に終わりました。残念ながらブラジル代表とは戦えませんでしたが、見学してみて、スピードや風格は別次元でも、細かい技術では日本のチームも負けていないと思いました。この大会で私は、フリーキックやトップのポジションなど初めての経験が多くありました。これからはいつどのポジションを任されても対応できるように、また、チームで2人目の日本代表に選ばれるように日々の練習を頑張っていきます。
 以前は、やる前から自分にはできないと決めつけ、あきらめることが多かった私ですが、ブラインドサッカーの試合で活躍できるようになり、自信がつき積極的に行動するようになりました。自分がしなければいけないことを理解し、行動するようにもなったのです。まだ、直さなければいけないところが多くありますが、自分で見つけて直せるように努力していきます。人生へのチャレンジ、「ボイ!」

【後 記】
7月の勉強会は毎年、新潟県立盲学校の生徒に来て頂き弁論大会を行っています。私達にとっては、盲学校の生徒さんの主張をお聞きするいい機会ですし、また生徒にとっては、多くの市民の方に聞いてもらえるチャンスです。
毎年感じるのですが、盲学校の生徒の弁論は感動です。真直ぐです。前向きです。新潟にいながら、日本を、世界を見ています。この子供たちが、このまま成長してくれたらと願います。

@新潟県立新潟盲学校
 http://www.niigatamou.nein.ed.jp/



平成29年06月14日の勉強会の報告

第256回(17‐06) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「視覚障害者とスマホ・タブレット 2017」
 講師:渡辺哲也(新潟大学准教授:工学部 人間支援感性科学プログラム)
 視覚障害は情報障害である。今や携帯電話・スマートホンは、全盲を含めた視覚障害者にも生活必需品である。今回の講演は、視覚障害者におけるデジタルデバイス(スマートホン・タブレット端末機器)の使用状況についてのレポートであった。大いに関心を呼んだ。渡辺先生は、2013年にも同様な調査をしており、今回は2017年度版で前回との比較も示して下さった。わが国でこのような報告は他になく、貴重な報告であった。
【講演要約】
1. はじめに
 厚生労働科研費を得て、視覚障害者のICT機器利用状況調査を実施した。今回の調査の主たる関心事は、スマートフォン・タブレットの利用率は上がったか、視覚障害者用のアプリはどのくらい使われているか、スマートフォン・タブレットにおける文字入力方法はどのようなものか、などである。
2. 調査の実施と回答状況
 調査の実施は、中途視覚障害者の雇用継続を支援するNPO法人タートルに委託した。タートルは、視覚障害者が主に参加する約50のメーリングリストで回答者を募集した。調査期間は2017年2月20日からの1ヶ月である。
 有効回答者は305人(男性192人、女性113人)、全員メールで回答をしており、情報機器を使い慣れている人たちである。障害等級は1級の人が最も多く208人(68.2%)、2級のヒトが69人(22.6%)だった。視覚的な文字の読み書きができるかどうかという質問に「できる」と答えた人をロービジョン、「できない」と答えた人を全盲とすると、ロービジョンの回答者が90人(全回答者の29.5%)、全盲の回答者が215人(同70.5%)だった。
3. ICT機器の利用率
 携帯電話(いわゆるガラケー)の利用率は全盲の人で60.9%、ロービジョンの人で54.4%だった。スマートフォンの利用率は全盲の人で52.1%、ロービジョンの人で55.6%だった。タブレットの利用率は全盲の人で14.4%、ロービジョンの人で38.9%だった。
 2013年に同様な調査をしたときの結果と比べると、全盲の人、ロービジョンの人ともに、スマートフォンの利用率が倍増した。タブレットの利用率はロービジョンの人では約2倍まで伸びたが、全盲の人では伸び率は1.5倍程度であった。他方で携帯電話の利用率は、2013年のとき全盲の人で85.8%、ロービジョンの人で73.7%だったのに比べると20%程度低下した。
 年齢別にスマートフォンと携帯電話の利用率を見ると、全盲の人、ロービジョンの人ともに、年代が下がるほどスマートフォンの利用率が高く、携帯電話の利用率が低い傾向が見られた。
 スマートフォンやタブレットを使い始めた理由としては、様々なアプリが使えて便利と、読み上げ機能が標準で付いていることが上位の回答となった。
 逆にこれらの機器を使わない理由としては、現状の機器で十分と、タッチ操作ができない、難しそうという回答が多かった。
4. 機種
 スマートフォン利用者157人(全盲の人107人、ロービジョンの人50人)に利用している機種を尋ねた。全盲の人、ロービジョンの人とも最も利用者が多かった機種はiPhoneで、全盲者の91.1%、ロービジョン者の80.0%が利用していた。Android端末の利用者数は全盲者で7人(16.3%)、ロービジョン者で9人(18.0%)と少なかった。全盲のらくらくスマートフォン利用者の数は4人(3.6%)に留まった。ロービジョン者でらくらくスマートフォンを利用する人はいなかった。2017年3月時点で、日本におけるiPhone利用率が45%であることと比較すると、視覚障害者のiPhone利用率は非常に高い。
5. アプリ
 スマートフォンで利用しているアプリを、全盲の人とロービジョンの人の回答を足し併せて多いものから並べると、通話、メール、時計、アドレス帳、電卓、歩数計、ブラウザ、スケジュール、写真を撮る、という順序になった。スマートフォンで使えるようになった便利な機能として、画像認識、光検出、GPS/地図/ナビゲーションなどがあるが, GPS/地図/ナビゲーションの利用者は全盲の人で20人足らずであり、利用者が多いとは言えなかった。
6. 文字入力
 スマートフォンにおける文字入力方法を詳細に尋ねた。文字入力手段としてソフトウェアキーボードの利用者数が、全盲の人とロービジョンの人の両方で最も多かった。全盲の人では、音声入力とハードウェアキーボードの利用者も多かった。
 ソフトウェアキーボードの種類としては日本語テンキー、ローマ字キーボード、50音キーボードがある。全盲の人ではローマ字キーボードと日本語テンキーの利用者が多く、それぞれの利用率は61.1%と55.8%であった。ロービジョンの人では日本語テンキーの利用者が最も多く、利用率は76.1%、        ローマ字キーボードの利用率は大きく下がり39.1%だった。
 音声読み上げ(iPhoneではVoiceOver)をオンにすると、日本語テンキーにおける文字の選択・確定方法が変わり、ダブルタップ&フリック、ダブルタップ、スプリットタップなどのジェスチャが利用できるようになる。このうち、利用者が多かったのはスプリットタップとダブルタップであった。
7. 今後の仕事
 スマートフォン・タブレットの利用状況の詳細のほかに、携帯電話・パソコンの利用状況についても、今後データを整理し、公表していく。

【略 歴】
 1993年 北海道大学大学院工学研究科生体工学専攻修了
 1994年から2001年 日本障害者雇用促進協会 障害者職業総合センター(Windows用スクリーンリーダ95Readerの開発ほかに従事)
 2001年から2009年 独立行政法人 国立特別支援教育総合研究所(漢字の詳細読み「田町読み」の開発ほかに従事)
 2001年から現在 国立大学法人 新潟大学工学部(触地図作成システムtmacsの開発ほかに従事)
 併任で、筑波技術大学 非常勤講師、国立身体障害者リハビリテーションセンター学院非常勤講師、NHK放送技術研究所 客員研究員



平成29年05月10日の勉強会の報告

第255回(17‐05) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:地域包括ケアシステムってなに??新潟市における医療と介護の連携から?
 講師:斎川 克之(済生会新潟第二病院 地域連携福祉センター副センター長  新潟市医師会在宅医療推進室室長)
【講演要約】
■新潟市の概況
 政令指定都市新潟市の概況は、以下のとおりです。人口80万、65歳以上の高齢者27.5%、75歳以上の後期高齢者13.6% 地域包括支援センター27カ所、要介護者数40,000人。急速に高齢化が加速している状況であり、2025年には、人口約76万人、65歳以上の高齢者30.3%、75歳以上の後期高齢者17.2%と試算されています。
■医療機関について
 地域包括ケアシステムにおける医療の役割は極めて重要です。地域住民にとって最も身近で日々の健康相談含めたプライマリケアを担当してくださるのがクリニック・診療所です。初期診断と治療、そして場合によっては適切な病院への紹介など豊富な経験で地域の住民のかかりつけ医として機能を発揮します。また、関係機関にとっても地域住民にとっても圧倒的な信頼感と安心をあたえることのできる存在、それが病院です。病院にもいろいろな種別が存在します。大きくは4種類あり、高度急性期、急性期、回復期、慢性期です。それぞれの病院が機能と役割を果たしています。
■当院の概況
 当院は、新潟市西部にある425床の地域医療支援病院です。当院がある新潟市内は、高度急性期や専門性の高い医療を担う医療機関が集中している地区です。その中にあり、当院の強みはまさに地域からの信頼の指標である「連携」です。医療連携を柱としながらも、近年は地域の多職種連携を含む地域連携に対する取り組みを積極的に行ってきました。その最前線で機能を発揮する部署が、地域医療連携室・医療福祉相談室・がん相談支援室・訪問看護ステーションの4部署から成る地域連携福祉センターです。
■医療福祉相談について
 地域の方々にとって、最も知っていたきたい病院の窓口、それが医療福祉相談室、そして医療ソーシャルワーカーです。医療ソーシャルワーカーは、患者さんの病気の回復を妨げている色々な問題・悩みについて、本人(ご家族)と共に、主体的に解決していけるように相談に応じています。特に近年の急速な超高齢社会においては、退院支援の相談が最も多く、在宅での療養生活を見据えた丁寧な援助を行っています。
■地域の連携が強まるように
 他の医療機関から、いかにスムーズに紹介患者を受け、またその後に地域に帰すか。そこには地域からの強い信頼関係を基盤とした連携の仕組みがあればこそであり、院内だけの取り組みだけでは不十分です。自院だけでなく「地域力」をいかに高めることができるか、地域の全体最適を考える必要があります。地域の各医療機関が持つ医療資源やマンパワーを合わせて、最大限に個々のパフォーマンスを発揮できるようにするための「接着剤」が地域医療連携室の役割だと考えます。新潟市では、市内8区に在宅における多職種が連携を深める会である「在宅医療ネットワーク」が20団体あり、各職種の相互理解、課題解決へのアプローチなどそれぞれの取り組みを積極的に行っています。当院は、西区を対象に「にいがた西区地域連携ネットワーク」の事務局を担い、会の企画運営などを行っています。
 一方、介護保険法の地域支援事業には在宅医療・介護連携推進が大きく謳われております。そしてその推進の指標として(ア)から(ク)の項目を平成29年度中に実施すべきとされています。その中の1項目に「多職種連携の構築支援、関係機関からの相談窓口」があります。これを新潟市は、先に述べた在宅医療ネットワークの事務局を担ってきた病院の連携室に業務を委託する形をとり、名称を「新潟市在宅医療・介護連携ステーション」(以下連携ステーション)としました。またその連携ステーション11か所を束ねる役割として「新潟市在宅医療・介護連携センター」を新潟市医師会に委託しました。いわゆる在宅医療介護連携のノウハウを持ち合わせた病院の連携室に、この事業の最前線を委ねた結果となりました。地域住民の相談窓口である地域包括支援センターと連携ステーションの両輪が機能を発揮しているところが新潟市の大きな特徴です。
■地域包括ケアシステムとは
 地域包括ケアシステム構築の取り組みにおいて、近年、医療介護分野では目まぐるしく制度の変革が行われてきました。現在、全国の各市町村は主体的に、この地域包括ケアシステムの構築を進めています。これまで述べてきたように、新潟市においては、病院や診療所などの医療機関と介護・福祉の事業所などとの協力体制を強めてまいりました。今一度、地域包括ケアシステムとは何か。正直に言って「これ」と指を指せるものはありません。言葉で表現するならば、「地域のみなさんが、健康な時も、病気になった時も、どんな時も、今まで住み慣れた地域で安心して暮らすことのできるまちづくり・地域づくり」を根底とし、市区町村が中心となり、「住まい」を中心に「医療」「介護」「生活支援・介護予防」を包括的に体制整備していくこと。その実現のためには、医療と介護、そして福祉の途切れのない連携体制はもちろんのこと、ヘルスケアに関連するさまざなまな領域の方々、そしてもっとも主役となる地域の住民の方々との広い連携、そして参加できる場が最も重要となります。
【略 歴】 斎川 克之(さいかわ かつゆき)            
・社会福祉法人恩賜財団済生会 済生会新潟第二病院 地域連携福祉センター 副センター長・一般社団法人 新潟市医師会 在宅医療推進室 室長
 職種:社会福祉士、医療ソーシャルワーカー、医療福祉連携士
 平成 7年/新潟県厚生連・在宅介護支援センター栃尾郷病院SWとして就職
 平成 9年/済生会新潟第二病院に医療社会事業課MSWとして就職
 平成22年/地域医療連携室 室長
 平成27年/地域連携福祉センター 副センター長
 平成27年/新潟市医師会在宅医療推進室長 併任

【後 記】
 斎川氏は当院ばかりでなく全国でも活躍している医療福祉支援の専門家。流石に非常にわかりやすく、しかも丁寧なお話でした。参加者の関心も高く、盛り上がった勉強会になりました。
 講演後のフリートークでは、「包括さん」には大変お世話になったなどの好意的な発言もありましたが、容赦のない発言・質問も炸裂。・「自分ファースト」の時代に共生社会を作ろうというのは、「絵に描いた餅」ではないか? ・医療介護連携の区割りが、病院ベースだ。町内会や小学校校区ベースがしっくりする。・学生からは、学生実習で南魚沼に行ってきたが、4世代家族の奥さんは生き生きしていた。新潟との違いを感じたとのコメントもありました。
 なんといっても印象的だったのは、斎川さんの非常に真摯な姿勢でした。ICTが流行っている世の中ですが、こうした人と人の触れ合いが物事を進めていくのだと、斎川さんを見て学びました。
 議論百出で終わりそうにない勉強会でしたが、こんなコメントで締めくくりました。「自分の健康や親の介護を人任せではなく、先ずは自分で考え、こういう包括システムを学ぼうということが大事ではないか。かつては「長男の嫁」が親の介護を担ってきた。しかし世界にも稀な長寿国となると、それも難しくなってきた。今、国は大きく体制を変えようとしているが、その実態は地方自治体に任されている。そんな状況下で、なんとか皆が上手く生きていこうという社会を作るために、多くの困難に立ち向かっている斎川さん達の活動を、私たちが支援したい。」



平成29年04月12日の勉強会の報告

第254回(17‐04) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「私たちの出前授業45×2〜目の不自由な人の未来のために、子どもたちの“今”のために〜」
 講師:小島紀代子、小菅茂、入山豊次、吉井美恵子、三留五百枝(NPO法人障害者自立支援センターオアシス)
【講演要旨】
平成10年、「総合学習」が創設。地域の多様な立場の人と交流・体験を通し、「思いやりの心、生きる力」を育てる学びの場が地域に拓かれました。平成9年、オアシス主催「第1回学生、子どもたちのためのサマースクール」が、「目の不自由な人をもっと知ってもらうために」「誰もが誘導歩行できる社会に」を目指し開催、昨年20回を迎えました。
1.出前授業の変遷
 「見えない人の体験談・誘導歩行」の依頼を受け、双方が戸惑いながらの始まりでした。体育館で当事者が一人で語り、そのあと二人一組になり「誘導歩行体験」。子どもたちは、「見えないと怖〜い。大変。だから道で会ったら助けようと思います。」の感想が大半でした。 
 私たちは、「総合学習」のあり方に疑問を感じ検討しました。・アイマスク体験は、怖い思いと「かわいそう」だけが残り、逆効果の恐れ。・ひとり語りは、特別な人に感じられ真の姿が届きにくい。そこで、@ 視覚障害者の全体像を伝えるために、「言葉」だけでなく「映像の力」を。A 体験談は、一人語りからインタビュー形式に。B 体験学習はグループ別に分けて行う 「誘導」、「機器や道具」、「弱視メガネ・白杖」。C 障害者の差別偏見と「今」の子どもたちの問題から、『感じ・考える』授業に。
2.小学校4年生の最近の授業風景
 1) 〜スライドを映しながら〜
・視覚障害者の全体像(全盲・ロービジョン・中途・先天盲。見え方のいろいろ)。・オアシス物語(一人の自殺者と内科医師の取組み)。・目のリハビリテーション(こころのケア・歩行・調理・化粧・パソコン・機器・道具の訓練)。・オアシスの特徴(次の人のために教え合い、支え合う教室)
 〜目をつむっての体験〜〜
 Q.もし君たちが見えなくなったらどんな気持ち?
 A.隣の人がみえない、いやな気持ち。 どこにいるかわからない、不安になる。
 Q.見えなくなったら、何もできなくなるのかな?
 ・「みかんや物を触ってもらう」・・・他の感覚を使う。 
 ・「自分の名前を書いてもらう」・・今までの経験の力を使う。
 2) 〜インタビュー形式の語り〜
 当事者の以前の職業などを映し、子どもたちからスライドを説明してもらう。当事者の心の内をカミングアウトする。
 Q. 見えなくなって困ることは?
 A. 死にたくなった、つらかった、白杖が持てない、好きなこともある。元気になれたのはネ。
 Q. 見えなくなって、よかったことは?
 A. 「よいことなんか、ひとつもないけど、君たちに会えた」「小さいことにも感謝できる」「本当の仲間に出会えた」「パソコンができた」  @悲しみ・苦しみから、楽しみ、喜びなど、ありのままを真剣に語る当事者と聞く子どもたち。
 3) 〜「パソコン・iPad・機器・道具」の紹介〜
 @子どもたちは、驚き、それを使い生活する当事者へ尊敬のまなざし。
 4) 〜『考える』授業〜
 Q1.「もし、君たちのお父さん、お母さんが見えなくなって、白杖が持てないと言ったら?」
 A.・僕が誘導するからいい。 危ないから家族を説得する。 オアシスに相談する。
 ・お父さんの誕生日に盲導犬をプレゼントする、それまでは仕方ない。
 Q2.「もし君たちが見えなくなったら、白杖持てますか?」 
 A.(持ちたくないと答えた子) ・だって見下されるから ・恥ずかしいから ・もちたくないから
  (持つと答えた子) ・仕方ないじゃん、生きていかなければならないから。
   Q3.白杖と盲導犬だったら、どっち?
 A.ひとりで歩くと淋しい、不安だから盲導犬を持つ ・僕は白杖も盲導犬も持つ。
 Q4.「点字ブロックは、車椅子の人には迷惑、視覚障害者には必要。どうしたらいいかな?」
 A.「簡単じゃん・・・片方は車いす用に、もう片方は、点字ブロックを敷く。」
3.中学校 「いじめ」問題を意識しての授業
 重複障害で重い障害のAさんは、周囲に助けを求め仕事を継続。軽い障害のBさんは、周囲に助けを求めず隠していたため孤立化し仕事を辞めた。Aさんは「反対の立場だったら私も隠した」と。Bさんは、淡々と苦しみを語り、中学生も先生も共感!感じてもらえた授業。
4. 最近の子どもたちの感想文
・白杖を持ちたくない気持ちが、すごーくわかりました。・目の不自由な人は、かわいそうではありません。普通の人と同じことができて凄い。・「目のリハビリ」があることにびっくりした。(多くの子どもたちからも)・調理したり、パソコン、アイパッド、携帯電話が使える。拡大読書器もすごいです。・目が不自由でも、楽しいことがあるということ。仲間が増え、パソコンができること。・ぼくは、差別しないと決めました。なんでもない人でも困っていたら、「どうしましたか?」って聞いて助けてあげます。・仕事のこと、いやな思い、見えなくなった時のショックなど、悲しい気持ちで聞きました。・話したくないことを話してくれた。感謝しています。強い人でした。・目の不自由な人が次の人に教えてあげる。気持の分かる人が教えるのはいいことです。
5・まとめ
 最後に、見えない人のハーモニカで力強く歌い、「ありがとう」と握手する子どもたち。まっすぐな心で感じ、聴いてくれた子どもたちが教えてくれました。
 「仕方ないじゃない・・生きていかなければだめだから」「僕は白杖も盲導犬も持つ」「私はデイズニーランドのキャスターになりたい。もし働くことになったら、不自由な人のために、いっぱいアイディアをだしたい」 (4年女子)
 「出前授業45×2」は、私たちに「生きる勇気」を、未来に「希望」を感じさせる時間でした。
【メンバー紹介】
 小島紀代子(事務局・相談員・視覚障害リハビリテーション外来)
 小菅茂  (福祉機器普及員・テープ起こしワーク員)
 入山豊次 (福祉機器普及員・グループセラピー・テープ起こしワーク員)
 吉井美恵子(パソコン指導員・同行援護養成講座指導員・盲ろう者通訳介助員)
 三留五百枝(フットケア&健康相談員・テープ起こしワーク員・看護師)

NPO法人障害者自立支援センターオアシスの紹介
1.「視覚障害リハビリ外来」1994年開設(月2回)
 中央から視覚リハ専門の先生お2人と眼科医・内科医による、「就労・進学などの悩み相談」「移動・歩行のリハビリテーション」「拡大鏡・遮光眼鏡の選択、指導」「パソコン・iPad・拡大読書器」「日常生活用具」「福祉制度」の紹介と使い方指導等。
2.「日常生活訓練指導」〜リハビリ外来と連携〜(週4回)
 「パソコン・機器の使い方指導」「調理・化粧教室」「転倒予防運動」等。
3.「こころのケア」
 外来の先生方によるカウンセリング、「グループセラピー」「昼食会・カフェ」ほか。お茶やお話を楽しむ方、いろんな方たちとの交流の場を提供。
4.「地域社会貢献〜地域の人と共に〜」
 「白杖・誘導歩行・転倒予防講習会」「サマースクール」「看護学生実習施設」「同行援護従業者養成講座」「出前授業」等。スタッフは眼科医・内科医、日常生活訓練士、元盲学校の先生、栄養士、看護師、保健師、MSW、機能訓練士他さまざまな職種の方、視覚障害者、その家族、ボランティア。
*「獲った魚を与えるよりも、魚の獲り方を教えよ」の精神で自立支援を行い23年。就労者の増加、「今」を受け止め明るく暮らす方たちが「希望」です。
http://userweb.www.fsinet.or.jp/aisuisin/
【追 記】
オアシスグループの見事なステージでした。小菅さんを中心に練りに練ったスタイルで、小島さんのナレーション、入山さんの語り、吉井さんと三留さんのプレゼンと時間いっぱいに使ったショー形式の講演でした。 子どもたちに目の不自由な人の生活を教えるだけでなく、感じてもらう、考えてもらう工夫が溢れていました。私たちは時々参加しながら、なるほどなるほど、ほーそうだったのか、と感心しながら拝見していました。まさに「子供は未来」と感じました。そして子供と接することで、関わった大人達も生き生きしてくることが良く判りました。 オアシスの皆さん、ありがとうございました。



平成29年02月08日の勉強会の報告

第252回(17‐02) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「物語としての病い」
 講師:宮坂道夫(新潟大学医学部教授)
【講演要約】
 21世紀の医療には、あまり目立ちはしないが「物語論」という静かな潮流がずっと流れ続けている。日本語の「物語」は、英語のstoryやnarrativeに対応している。このうちnarrativeという英語が、最近の医療ではカタカナでそのまま使われることが増えている。物語論の考え方を応用した様々な実践がなされていて、これを一括りにして「ナラティヴ・アプローチ」とか「ナラティヴ実践」と呼んでいる。
 ナラティヴ・アプローチにはきわめて多様なものが含まれるが、「物語への向き合い方」という視点で捉えれば、3つの系統に分類できる。まず、医療者が患者という「他者」の経験を、当人の文脈のなかで理解しようとする実践群がある(これを仮に「現象学的実践」と呼んでおく)。
 1990年代末に、「エビデンス・ベイスト・メディスン evidence-based medicine」(文献的根拠に照らして最善の治療法を選択しようという考え方)の行き過ぎを憂慮した医師たちが提唱したのが「ナラティヴ・ベイスト・メディスンnarrative-based medicine」であったが、そこには、「医療者は専門性の枠組みの中で病気を捉えるが、病気を抱えているのは患者であり、その経験は医療者にとって容易に理解できるものではない」という問題意識があり、治療方針の選択については「疾患が患者にもたらす影響は、その当人の人生史や価値観によって左右されるのだから、医療者は文献上のデータではなく、個々の患者の人生の文脈において最善と評価できる治療・ケアを選択すべきだ」という発想の転換があった。
 第2の系統は、「物語」をケアとして用いる実践群である(仮に「ケア的実践」と呼んでおく)。  これは、1970年代に心理療法の中から誕生したナラティヴ・セラピーと呼ばれる一群の実践に端を発している。そこでは、患者の「自己物語」と「認知・経験」とが矛盾することで心理的問題が生じると見なされ、治療者が患者に「自己物語の書き換え」を促すことが、ケアの目標となる。ナラティヴ・セラピーは、気分障害、発達障害、トラウマ、アディクション、摂食障害、DV等々の多岐にわたる「心の病」を抱える人たちのためのものであるが、そこに散りばめられていた斬新なアイデアは、もっと広い範囲の対象に適用できるのではないかという期待を強く抱かせた。
 講演では、食事を取ったことを忘れてしまった認知症患者への声かけを考えた。認知症患者の脳は、認知機能は低下するが情動機能は維持されているとされる。そのため、食事をしたことを思い出させようとするあまり、相手の自尊感情を損なうようなコミュニケーションは望ましくない。「食事を取らなければいけない」という患者の「自己物語」を他人が無理に変更させることで、患者の脳では「否定された」という情動が働いてしまう。むしろ、「わかりました。ご飯の準備をしておきますね」等と、自尊感情に配慮した声かけをすることで、「認知・経験」との矛盾を拡大させずに、「食事を取らなければいけない」という気持ちがやわらぐのを待つ方がよい。
 第3の系統が、筆者が専門的に取り組んできた、医療倫理の方法論としてのナラティヴ実践である。そこでは「倫理的問題は当事者の物語の不調和で生じる」と見なして、「対立し合う物語の調停」を試みる(仮に「調停的実践」と呼んでおく)。
 講演では、意識回復が望めない脳梗塞患者に胃瘻を造設するか否かが問題になった事例を考えた。妻は「本人は延命治療をしないでほしいと言っていた」と反対し、息子は「このまま死なせるのは忍びない。打てる手があるならお願いしたい」と実施を求めた。ここにあるのは、患者との関わりや、歩んできた道のりの違いに根ざす「思い」のズレであり、このズレを「妻の物語と息子の物語の不調和」と捉えることで、それを解消するためにどんな対話をこの2人としていけばよいのかを考える道が開けてくる。例えば、妻は患者の気持ちを代弁しているように思えるが、自分自身の気持ちはどうなのかを聞いてみてはどうだろうか。息子が抱いている父親への思いには大いに共感できるが、胃瘻の効果を医学的に考えてみると、この状態の患者に「胃瘻を作らない」ことが、必ずしも「何も手を打たないこと」とは言えないように思えることを伝えてみてはどうか。
 以上が講演の概略であるが、これらが眼科領域にどのように適用できるのかは、これまでほとんど考えたことがなかった。特に、ナラティヴ実践の中には視覚的なもの(紙芝居や絵本を作ったり、写真やビデオを用いたりする実践など)もあるが、これらはそのままでは適用することができない。しかし、講演後に視覚障害を持つ方から出された感想や意見をうかがうと、彼らが私の話を細部に至るまで丁寧に聞いてくれており、しかも自分の経験に照らして様々な発想を展開していることに驚かされた。視覚障害者にとっての「物語」の豊かさを感じたとともに、彼らとともに様々なナラティヴ・アプローチを試みることも、眼科の医療にとって意味があることのように思えた。
【略 歴】
 1965年長野県松本市生まれ。
 早稲田大学教育学部理学科生物学専修卒業、大阪大学大学院医学研究科修士課程修了、東京大学大学院医学系研究科博士課程単位取得、博士(医学、東大)。専門は医療倫理、ナラティヴ・アプローチ(医療における物語論)など。
 2011年より新潟大学医学部保健学科教授。
 著書に『医療倫理学の方法 - 原則, 手順, ナラティヴ』(医学書院)、『ハンセン病 重監房の記録』(集英社)、『専門家をめざす人のための緩和医療学』(共著、南江堂)、『ナラティヴ・アプローチ』(共著、勁草書房)など。
 宮坂道夫研究室ホームページ
 http://www.clg.niigata-u.ac.jp/~miyasaka/

【後 記】
 宮坂道夫先生は、全国区で活躍している生命倫理の大家です。眼科領域でも臨床眼科学会で講演して頂いたり、「日本の眼科」に投稿して頂いています。  今回のお話は、「病いの物語」という演題でお話して頂きました。EBM(evidence-based medicine,根拠に基づく医療)が大流行りの今日、NBM(Narrative Based Medicine)をテーマとしたお話です。
 私が理解した先生のお話は、、、物語(ナラティブ)に基づいた医療。物語とは何か?アリストテレス(BC384年 - 322年)によると、物語は「再現・シークエンス(展開)・登場人物・感情を揺さぶる」と集約できる。 NBMでは、傾聴・関係性・ケアが基本。一言でいうと、医師は医療の標準化を求めEBMに精を出す。一方、NBMは患者目線での個別化医療。以下の言葉が、印象に残りました。他者理解のNBMとケアの実践のNBM、「無知のアプローチ」、「スニーキー・プー」、問題の外在化、「人生紙芝居」  今回も、色々な角度から物事の本質を見つめる宮坂先生の世界を知り、大変勉強になりました。  宮坂先生の益々のご活躍を祈念致します。



平成29年01月11日の勉強会の報告

第251回(17‐01) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「ブラインドメイクは、世界へ−視覚障害者である前に一人の女性として−」
 講師:大石 華法(一般社団法人日本ケアメイク協会)
【講演要約】
 視覚に障害がある女性を対象に,自分自身で鏡を使わずにフルメーキャップができる化粧技法「ブラインドメイク」を考案したことをきっかけとして,2010年10月10日よりケアメイク活動をスタートし,6年間の活動を経て,2016年12月5日に一般社団法人日本ケアメイク協会を発足しました.  今,「ブラインドメイク」は,日本の視覚障害女性の笑顔支援に留まることなく,世界の視覚障害女性の笑顔支援につながっています.
1.視覚障害者に化粧は不要か?
 「視覚障害者に化粧のニーズがあるのか?」「化粧をしても目が見えないのに,化粧する意味があるのか?」「目が見えないのに,化粧をさせるとは無茶なことだ」「そもそも彼女たちに化粧の話をすることは(出来ないのに)失礼なことだ」など意見が飛び交うなか,視覚障害の女性は,視覚に障害があるけれども「女性」であることに晴眼者の女性たちと何ら変わりはない.女性は死んでも死化粧をする.そこまで化粧は女性にとって重要なものとして扱われている.化粧は女性の尊厳を支えるアイテムであると言っても過言ではないと考えました.そのため,視覚に障害があることで,本当に化粧を諦めてもいいのだろうか?しなくていいのだろうか?それが本当に彼女たちの望んでいることなのだろうか?いや,そんなはずはない.私と同じ「女性」なのだから.と自問自答を繰り返す日々が続いていました.
2.視覚障害者理解不足が「障害」に?!
 ある日,一人の視覚に障害のある女性が「私はいつか目が見える時がきたら,化粧をしたいの・・・」と言って,1本の口紅を鞄の中に入れて持ち続けている女性の姿を見て,視覚障害の女性は目に障害があっても「女性だ!」と強く認識しました.  それからは,視覚障害の女性と出会っても,同じ「女性」のスタンスで接することで,「目が見えない人」ということが気にならなくなりました.それどころか,一緒に“女子トーク”を楽しみ,“視覚障害者のアルアル話”を彼女たちとするようにまでなりました.
 ここで分かったことは,視覚障害者は,確かに身体の目の部分に「障害」はあるけれども,晴眼者側に視覚障害者理解が足りておらず,その理解不足の部分が,各自の思い込みや先入観(私はこのことを晴眼者側の「障害」と呼んでいます)を作りだしているのではないかということでした.
3.女性の「美しくなりたい」という気持ちに寄り添う
 ブラインドメイクを指導する化粧訓練士の研修生たちに「視覚障害者と同行している時に,目の前に階段とエレベーターとエスカレーターがあれば,援護者はどうしますか?」と質問します.そうすると,「エレベーター」「エスカレーター」と,身体に負担が少ない,あるいは,容易に行く方法を考えます.しかし,答えは「本人に尋ねる」がよいことを話します.そして,目の前に「階段」「エレベーター」「エスカレーター」があるという情報を提供することの大切さを教えています.この回答を述べると,皆が「そっか!」と認識します.つまり,どうするかは援護者側が勝手に良かれと思ったことを実行するのではなく,本人にまず情報提供をして,本人が決めるという自己決定を尊重することの意味を話します.
 そして,次の質問では「視覚障害の女性はお化粧するしないは誰が決めるのでしょうか?」それは「本人」が決めることで,周囲が勝手に視覚障害者は化粧を「する」「しない」「できる」「できない」を決めるのではないことの理解を深めていただいています.
 最後に,「よく『当事者の気持ちに寄り添うことが大切だ』と言われていますが,視覚障害の女性の気持ちに寄り添えることは何でしょう?」という部分に触れます.回答は,「視覚に障害がある前に,その人を一人の『女性』であるということ.女性であるならば『美しくなりたい』という気持ちがあることを,認識して理解すること」と述べています.これらの回答は,ブラインドメイクができるようになった視覚障害の女性たちが,ケアメイク女子会で述べていたことを参考にしました.
4.「ブラインドメイク」は世界へ
 「ブラインドメイクは我々医療では手の届かない患者さんを笑顔にする不思議な力を持っている」と安藤伸朗先生(済生会新潟第二病院)は,仰ってくださっています.ブランドメイクは,単に視覚障害者が鏡を見ないで,綺麗にフルメーキャップすることができる化粧技法のみではなく,“笑顔”につながっています.その笑顔は,見ている晴眼者の顔にも“笑顔”にする力があります.ブラインドメイクは「笑顔支援」だと言っていますが,その笑顔支援は今や国境を越えて世界へ広がっています.
 それはなぜでしょう?世界にいる視覚に障害のある女性たちも,障害がある前に,一人の「女性」だということです.
【プロフィール】大石華法(おおいし かほう)
大阪府生まれ。日本福祉大学大学院福祉社会開発研究科社会福祉学専攻博士課程。高齢者・認知症患者・視覚障害者・精神障害者を対象とした、化粧の有用性に関する研究を行っている。
主な研究論文に「ロービジョン検査判断材料としてのブラインドメイクの検討」「Family Support for Self-realization of the Visually Impaired Woman with Hereditary Blindness in a “Blind Makeup Lesson Program”」など。 一般社団法人日本ケアメイク協会理事長。
日本ケアメイク協会:http://www.caremake.jp/
Facebook:https://www.facebook.com/caremake
活動履歴 http://www.caremake.jp/?page_id=42

@本勉強会で「ブラインドメイク」の講演は3年連続。  2年前この勉強会で、大石華法さんにブラインドメイクの講演をして頂き、昨年は岩崎さん・若槻さんが講演。今回の大石さんの講演で3年連続になります。
【後 記】
 新潟で行われた勉強会にもかかわらず、わざわざ大阪と神戸から2名の参加があり、地元新潟の化粧訓練士・訓練生・視覚障害者を加えた5名が会場前方で揃ってブラインドメイクの実演、まさに壮観でした。  講演もパワフルで大石節全開でした。今回の講演で、ブラインドメイクのことを「たかがお化粧」などと言ってはならないことを再度確認できました。それまで家にこもりがちだった視覚障害の方が、お化粧することで生き生きとしてきて、本人が変わるだけでなく、家庭も地域も明るく変えるのです。また認知症の方へのメイクが効果あるというお話も新鮮でした。ケアメイクをするようになって娘さんと女子トークが出来るようになったというお話にも感動しました。これは実際にそういう方を見てみないと分からないのですが。私自身、新潟の視覚障害をお持ちの女性が、ブラインドメイクのお蔭で、どんどん見違えるように活発になっていくさまを目の当りにして、感動しました。  まさに医療ではできない笑顔を取り戻すことを可能にする魔法だと思いました。大石さんの、一般社団法人日本ケアメイク協会のブラインドメイク、ますますの発展を応援したいと思います。

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