済生会勉強会の報告 2016
平成28年12月14日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第250回(16‐12) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:杖で歩くこと、犬と歩くこと、人と歩くこと
講師:清水 美知子(フリーランスの歩行訓練士)
【講演要約】
1. 歩行手段として
視覚障害がある人が街を歩く場合、杖、犬、人の三つの手段があり、外出ごとに行き先、距離、交通機関などを考慮して、一つまたは複数の手段を選択して歩いている。
1)杖(ロングケイン)
物と当たったり段差(例:縁石、階段)を踏み外したりしないよう、杖を身体の前で左右に振り、物や段差を検知して歩くための杖を「ロングケイン(long cane)」と呼ぶ。ほとんどが白色であるため「白杖」と呼ばれることが多い。白杖には他に、ガイドと歩くときに携行するためのガイドケイン、周囲に視覚障害があることを示すためのシンボルケイン(またはIDケイン)、身体を支えるためのサポートケインがある。
杖の場合、杖を持った手より上、すなわち頭部を含む上半身は防御できない。また使用者は進路上の物を検知すべく杖を左右に振るが、進路上に杖で検知し残した区域ができ、この区域に入った交通標識のポールや電柱などが身体に接触する。
2)盲導犬
盲導犬は使用者の「パートナー」などと呼ばれる存在で、使用者の指揮のもと使用者と一体となって障害物を回避し段差や角で停止する。使用者はハーネスを介して知る犬の動きに追随して歩く。盲導犬の場合、前方の障害物を犬が眼で認識し、接触することなく回避ルートを歩くので、歩行は安定的に進行する。
盲導犬との歩行の特徴の一つに「風をきる」ような速い歩行速度が挙げられるが、これは遅い速度で歩くことが苦手ということでもあり、盲導犬使用者にはある程度以上の速度で歩く能力が求められる。また、犬の世話及び健康管理、犬の基本誘導行動の確認と維持は使用者の責任であり、それが行われてはじめて外出時の安全な歩行が確保できる。
3)人
人はガイド(街の人、ボランティア、移動支援従業者、同行援護従業者など)である。人と歩くのも盲導犬とほぼ同じで、人の腕を掴んだり肩に手を置くなどの方法で追随して歩く。盲導犬と歩く時のように人に道順などを指示する。
杖は単なる道具であるが、盲導犬と人は意思と感情を持つ生きた存在である。使用者と盲導犬または人との関係は歩行の安全性や効率性に大きく影響する。特にガイドと歩く場合は互いへの気遣いが必要であるが、使用者の主体性が尊重されなければならない。
2.社会との相互作用への影響
1)杖使用者と盲導犬使用者
外を歩けば、社会との相互作用が生じる。その主な状況が「援助依頼」である。方向を失った時や初めての交差点を横断する時などに街の人に「すみません」「手を貸してください」などと声をかけ、援助を依頼する。近くを通る人がそれに応えるが、時にそれに気づかない、あるいは気づいても応えないこともある。
援助依頼の際、杖使用者より盲導犬使用者の方が、援助が得やすいと言われる。今回参加した盲導犬使用者からも杖を使って歩いている時より盲導犬と歩いているときの方がより頻回に声をかけられるとの体験談が聞かれた。盲導犬は周囲の注意を引き、その場の雰囲気を和ませ、会話のきっかけとなるなど使用者と社会との相互作用を促し促進する存在であると言われている。街の人は一般的に障害者との接触体験が少なく援助の要請にどう応えたらいいのか迷い、対応を躊躇してしまいがちである。
そのような状況で、盲導犬は街の人の心理的な抵抗感やぎこちなさを軽減するための緩衝材あるいは潤滑油のような役割を果たすのかもしれない。
参加者の一人は、盲導犬と社会へ出ていく時の気持ちを妊娠している女性に例え、独りでは街の中に出ていく決断ができなかったが盲導犬の存在が自分を強くしたと語った。また、街で人に声をかけられることを避けていたけれども盲導犬と外出することで人との接触に積極的になった等、同様の体験談が聞かれた。
2)人
人と歩く状況で、一般的なのは同行援護サービスを利用した外出である。同行援護サービスには移動支援以外に、代筆代読支援、摂食や排泄の介護なども含まれている。同行援護従業者は、外出中常に傍にいて視覚障害により生じる情報障害を補償し、視覚障害がある人と社会との相互作用を支援する存在である。
視覚障害がある人の「常に近くにいる専属の支援者」という存在は、安全が確保される一方、時に障害者と社会の間に見えない垣根を立ててしまう危険を含んでいる。
つまり障害者と社会の間で双方から依頼を受け、仲介行為をすることにより障害者と社会との直接的な接触がなくなり、相互理解のための機会が失われてしまうのである。今回、参加者のほぼ全員が、「コンビニが混んでいる時には同行援護従業者に買い物の支払いを頼んでしまう」と話した。社会の側も同行援護従業者に任せ、自分が直接視覚障害がある人と関わらない状況を生みやすい。
視覚障害がある人の外出手段としての杖、盲導犬及び人について話し、参加者と意見を交わした。外出の手段としてそれぞれに一長一短があるが、視覚障害がある人の安全な街歩きのためには、当事者も支援者も、そして社会も、相互作用によって互いの理解が深まることを忘れてはならないであろう。
【略 歴】
1979年〜2002年 視覚障害者更生訓練施設に勤務、その後在宅視覚障害者の訪問訓練事業に関わる
1988年〜新潟市社会事業協会「信楽園病院」にて、視覚障害リハビリテーション外来担当
2002年〜フリーランスの歩行訓練士
【後 記】
流石の清水節でした。改めて、杖で歩くこと、犬と歩くこと、人と歩くことを考えた時間でした。Shared identity という単語も新鮮でした。「白杖」を知らない人が多いことにもビックリでした。
「杖の場合、頭部を含む上半身は防御できない」「盲導犬の世話及び健康管理、犬の基本誘導行動の確認と維持は使用者の責任」「ガイドと歩く場合は互いへの気遣いが必要であるが、障害者の主体性が尊重されなければならない」「援助依頼の際、杖使用者より盲導犬使用者の方が、援助が得やすいと言われる」、、、ほんとそうですね。特に「常に近くにいる専属の支援者という存在は、安全が確保される一方、時に障害者と社会の間に見えない垣根を立ててしまう危険を含んでいる」という指摘は重いと思いました。
「歩く」ということが障がい者自身の生活に必要な行動であるだけでなく、ある意味カミング・アウトであり、自己表現だと改めて感じました。毎回清水さんから教わることは多いです。益々のご活躍を祈念致します。
(参考まで)清水さんは済生会新潟第二病院眼科勉強会で過去9回講演しています。
それらの講演要約はandonoburo.netに掲載しています。
以下に、それらをまとめて列記します。
●第235回(15-09)済生会新潟第二病院眼科勉強会 清水美知子
演題:街歩きを通して考える社会の視覚障害者観と当事者の心理
http://andonoburo.net/on/4065
●第204回(13‐02月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
演題:「歩行訓練40余年を振り返る」
http://andonoburo.net/on/1751
●第183回(11‐05月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会
演題:「初めての道を歩く」
http://andonoburo.net/on/4545
●第160回(09‐06月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会
演題:「杖に関する質問にお答えします」
http://andonoburo.net/on/4550
●第143回(08‐01月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会
演題:『歩行訓練士は何を教えるのかー自分の歩行訓練プログラムを考えるために』
http://andonoburo.net/on/4553
●第122回(06‐5月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
演題:『カタカナ語で見る視覚障害者のリハビリテーション』
http://andonoburo.net/on/4557
●第102回(2004‐9月)済生会新潟第二病院眼科勉強会
演題:「視覚障害者の歩行を分析する」
http://andonoburo.net/on/4561
●第87回済生会新潟第二病院眼科勉強会 清水美知子
演題 「Coming-out Part 2 家族、身近な無理解者」
http://andonoburo.net/on/4030
●第76回(2002‐9月)済生会新潟第二病院眼科勉強会 清水美知子
演題:「Coming out -人目にさらす」
http://andonoburo.net/on/4023
平成28年11月09日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第249回(16‐11) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「視覚障がい者議員としての歩み〜社会の変化に手ごたえを感じながら〜」
講師:青木 学(新潟市市議会議員)
【講演要約】
T.議会での活動
私は1995年4月に行われた新潟市議会議員選挙に「バリアフリー社会実現」を掲げ立候補し、初当選を果たした。以来6期20年余、多くの市民の皆さんのご支援をいただき、また協働して様々な課題に取り組んでくることができた。
当選後、まず最初に私が行ったことは、議会での活動がスムーズにできるよう、議会内の環境整備についての要望書の提出であった。 主な要望項目は@議案や資料など、点字や音声録音による提供、A議会内の各室への点字標記の設置、B課長以上の職員の点字名簿の提供であった。
これらの要望に対しては、執行部側も議会事務局も前向きに対応してくれた。ただ、議案などの点訳については、私にとって最も重要なことであったが、当然市の職員には点字に詳しいものがおらず、点字返還ソフトを駆使しながら、変換ミスも多かったが最低限の資料を用意するという状況だった。その後、職員も点字変換に慣れてきて、審査に関わるものは、図や表以外は相当程度点字で用意されるようになった。またパソコンの活用が進む中で、審査に関わるもの以外のものを含め、様々な資料を電子データとして提供してもらうことが日常的になり、瞬時に情報を得ることができるようになった。
行政側からの情報提供だけでなく、私自身、インターネットを通じて、新聞記事や、その他の多くの情報を得ることができるようになり、IT技術の進歩によって、他の議員との情報格差も格段に縮小されてきたと感じている。
周囲の議員との関係については、私が所属した会派のメンバーは、私の立場をよく理解してくれ、環境整備に関する要望書も私個人ではなく、会派として提出してくれた。また他の会派の議員からは、最初のころは、私が一人で廊下を歩いているのを見て、「青木君、一人で歩けるんだね」と感心したように声をかけてくれる先輩議員もいたが、時間が経つにつれ、ごく自然に接してくれるようになった。
2000年に常任委員会の委員長に就任することになったが、前の年に候補として名前が挙がった時、「他の会派の議員から「青木さん、委員会の運営は大丈夫か」との声があり、一度見送ったという経緯がある。この年については、同じ会派の議員がしっかりと支え、事務局ともしっかり打ち合わせをし準備して臨むということを私からも表明し、委員長就任が承認された。実際の委員会運営では、各委員が発言にあたって挙手をする際、自分の名前を名乗り、執行部側の課長なども同じように対応してくれ、関係者の様々な協力を得て、1年間の任務を終えることができた。
2011年から13年にかけては、副議長を務めさせていただいた。議長、副議長の選任にあたっては、それぞれ初心表明をし、選挙によって選ばれる。これまで議会改革などに一緒に取り組んできた仲間の議員たちから、選挙への立候補を勧められた。そのことはありがたく感じたが、議会全体の運営や対外的な場への参加など、私に十分熟すことができるだろうかという不安が正直頭を過った。私に話を勧めてくれた議員たちから、「自分たちもサポートするから」という言葉をもらい決心した。本会議は、全議員そして市長はじめ、各部長が揃って質疑などを行う場である。ここでも各出席者が発言をする時は、名前を名乗って発言するというルールが確立された。このように、周囲の議員そして執行部の職員などから様々な形で協力してもらいながら、これまで議会活動を続けてくることができている。
U.市民との協力によって進めることができた事業について
ここからは、視覚障がい議員として、多くの関係者と協議、協力しながら取り組んできた主なものを紹介する。
1)情報提供の充実
20年前は「市報にいがた」が週2回ダイジェスト版として発行されていたが、一般のものと同様、毎週の発行となった。現在は点字版、音声版、デイジー版の3種が発行されている。この他にも議会だよりや市の事業に関する資料などが点字などで市民に提供されるようになった。
2)まちづくりにおけるハード、ソフトの整備の推進
点字ブロックの整備はもちろん、超低床ノンステップバスの導入、街中に補助犬用トイレの設置、中央図書館に視覚障がい者のための対面朗読室や音声読み取り装置の設置、そして公共施設の整備にあたっては、その過程で障がい者の意見を聞くことが当たり前のこととして取り組まれるようになった。
3)同行援護と移動支援について
同行援護については、全国的に利用時間や利用目的について一定の制限を課しているところが多いようだが、新潟市においては、ギャンブルなどは目的から除外されているが、基本的に本人の活動の状況に応じて利用時間を設定しており、一律な基準は設けていない。また通所、通学についても、移動支援で週3回まで対応することとしており、これも全国的には希な取り組みである。
4)障がい者ITサポートセンター事業について
政令市としてこのセンターを設置しているところは、新潟市のみであり、新潟大学の林先生のご協力によって、ITの利活用の支援が進んでいる。
5)市職員採用試験における点字受験の実施
これについては2007年度から実施されることになったが、その後、受験者は現れなかった。しかし2013年度に初めて全盲の女性が点字による受験をし、合格した。現在はパソコンなどを駆使しながら、業務に当たっている。
6)「障がいのある人もない人も共に生きるまちづくり条例」の制定
国連で障害者の権利条約が採択されたことを受け、市としてもその理念を生かした独自の条例をつくるべきとの議論が始まり、丁寧な検討を経て、昨年10月に成立、本年4月より施行となった。同月に施行となった「障害者差別解消法」と一体となって効果を表すことが期待される面と同時に、法律の弱点を補完するものになっている。
V.終わりに
国際社会としても、国としても、そして市としても、条約や法律、条例が整備されてきたように、着実に社会も、市民も、障がい者の存在を認識し、当事者の声を大切にしようとする空気が大きく広がってきたと思う。
これからも、障がいのある人もない人も、一人ひとりが大切にされ、共に生きる社会を目指して、多くの皆さんと協力し行動していきたい。
【略 歴】
小学6年の時、網膜色素変性症のため視力を失う
新潟盲学校中学・高等部、京都府立盲学校を経て、京都外国語大学英米語学科進学
1991年 同大学卒業。米国セントラルワシントン大学大学院に留学
1993年 同大学院終了。帰国後、通訳や家庭教師を務めながら市民活動に参加
1995年 「バリアフリー社会の実現」を掲げ、市議選に立候補し初当選を果たす 現在に至る
議員活動の他、現在社会福祉法人自立生活福祉会理事長、新潟市視覚障害者福祉協会会長、新潟県立大学非常勤講師を務める
「青木まなぶとあゆむ虹の会」
http://www.aokimanabu.com/index.html
【後記】
前回は小学6年生の頃に網膜色素変性と診断され、盲学校、京都外国語大学、米国セントラルワシントン大学大学院留学から、新潟市会議員に当選するまでのお話でした。
今回は、新潟市市会議員として21年間の経験と成果についてのお話でした。大変興味深く拝聴しました。色々とご苦労があったと思いますが、サラッと何でもなかったかのようにお話される様に心動かされました。
青木先生には、今後も障がい者を代表して議会で活躍して頂きたいと思います。応援します。
平成28年10月12日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第248回(16‐10) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会(目の愛護デー講演会2016)
の報告です。
演題:「2020年に向けて、視覚障がい者スポーツを応援しよう」
講師:大野 建治(上野原市立病院;山梨県、眼科医)
【講演要約】
T.はじめに
今年2016年、ブラジルのリオデジャネイロでオリンピック・パラリンピックが開催された。今やパラリンピックはオリンピック、サッカーワールドカップに次いで、三番目に大きな国際スポーツイベントになっている。そして、2020年には東京でオリンピック・パラリンピックが行われるために、各所、各分野でスポーツに対する関心が高まっている。
U.障がい者スポーツの特徴である「クラス分け」
障がい者スポーツには、「クラス分け」というシステムがある。障がい者と一言でいっても、障害が軽い選手から重い選手までいるので、競技をすれば、障がいが軽い選手が有利になるのは当然である。そこで、障がいの種類や程度によってグループを分けて、同程度の障がいの選手同士で競技を行う。この障がい者スポーツに特徴的なシステムが「クラス分け」である。
国際試合に出場する選手は、国際試合の前に国際クラス分けを受ける必要がある。
クラス分けの判定で、選手各人に対してのクラスとステータスを決定する。
1)クラス
視覚障がい者スポーツでは視力と視野をもとに、クラスを全盲から弱視まで、B1、B2、B3と3つに分類する。それに該当しない視覚障害選手は競技に参加する資格はなく、NE=不適格となる。
・B1…光覚なし〜光がわかる程度まで
・B2…手の形が認識できるから、0.03まで、視野は半径5度以内
・B3…0.04から0.1まで、視野半径20度以内
・NE…クラス不適格で競技に参加できない
2)ステータス
ステータスにはNew, Confirmed, Reviewの3つがある。
・New…国際クラス分けを未受験の選手
・Confirmed…クラスが将来的に変わる可能性がない選手。原則として、その後にクラス分けを受ける必要はない。たとえば、眼球摘出などをして義眼で視力0の選手に何度もクラス分けを受ける必要はないので、そのような場合はConfirmedとなる。
・Review…視力、視野が今後、変動する可能性がある選手。たとえば、病状が悪化あるいは、改善する可能性があり、将来的にクラスが変わる可能性がある選手はReviewとなる。
V.障がい者スポーツの分類
大きく分けて、リハビリテーションスポーツ、市民スポーツ、競技スポーツの3つに分けられる。この3つはそれぞれ大切な役割を担っている。
・リハビリテーションスポーツ〜病院で病状回復などを目的に身体機能の維持、向上をめざして行うものである。
・市民スポーツ〜生涯スポーツで、自分の好きなスポーツを趣味として行い、健康維持、レクリエーションなどを目的に行う。共通のスポーツの趣味をもつ仲間、友人との交友も楽しみの一つとなる。
・競技スポーツ〜パラリンピックを頂点として、国際国内で競技を追及し、勝負を目的にしている。
W.障がい者スポーツの種目
競技スポーツをメインに、市民スポーツも少し紹介した。
1)パラリンピックの競技種目である、ゴールボール、陸上、水泳、柔道、ブラインドサッカー。
・ゴールボール〜3人対3人で、目隠しをしながら、鈴が入った音の鳴るボールを転がし、相手コートのゴールにボールを入れることで、得点を競うスポーツである。
・陸上競技〜視覚障害の重いクラスでは伴走者とロープをつないで一緒に走る。選手と伴走者の息の合った動きが必要となる。
・水泳〜B1の選手はターンのときとゴールのときに、スタート台付近のプールサイドにいるコーチが長い棒を使って選手の頭を叩き、ターンやゴールのタイミングを選手に教える。このタッピングの良し悪しで大きくタイムが変わるのが見もの。
・視覚障がい者柔道〜基本的に通常の柔道とルールは同じであるが、最初から組んだ状態で試合を始める。
・ブラインドサッカー〜一般的なフットサルのルールに加えて、特別なルールがある。4名のフィールドプレーヤーはアイマスクをつけてプレイし、ゴールキーパーは晴眼者か弱視者が行う。
どのスポーツもルールと注目すべきポイントを知ると、観戦の楽しみが増す。2020東京パラリンピックに向けて、視覚障がい者スポーツの認知度がますます高まっていくことが望まれる。
2)盲学校の授業などで行われ、日本で全国競技大会も行われている、サウンドテーブルテニス、グランドソフトボール、フロアバレーボール。
3)市民スポーツとしてはボーリング、クライミング、ブラインドヨガ。
障がい者のスポーツは、ルールなどを工夫して、障がいがあっても楽しんだり、競ったりできるようになっていて、健常者のスポーツと同様にあらゆる分野のスポーツ種目がある。障がい者自身が興味のもてるスポーツは必ず見つかるはずである。スポーツを通じて健康増進をしながら、仲間を作ったり、生きがいにしたり、ぜひ楽しんでいただきたい。
X.さいごに
2020年のパラリンピックが東京で開催されることで、多くの人が「障がい」というものに関心を寄せるきっかけになってほしい。まず、「障がい」とはどんなことなのか知り、障がいがあろうがなかろうが、皆同じひとりの人間であることを相互に理解し、多様性を認め合えれば、本当の意味でみんなが暮らしやすい社会が実現していくことになるのではないだろうか。
【略 歴】
平成4年 東京慈恵会医科大学卒業
平成6年 東京慈恵会医科大学眼科
平成9年 ミネソタ州MAYO CLINIC 角膜リサーチ、2年間留学
平成21年 視覚障害者用補装具適合判定医
平成24年 障がい者スポーツ医
平成27年 International Visual Impairment Classifier
平成28年 上野原市立病院常勤
【肩 書】
上野原市立病院眼科.東京慈恵会医科大学眼科
【後 記】
248回を重ねるこの勉強会ですが、障がい者スポーツの話題は初めてでした。今回も素晴らしい世界を覗くことができました。障がい者スポーツの歴史や紹介ばかりでなく「目の見えない世界とは?」)等々、深い話題にも考えさせられました。
動画を含めた障がい者スポーツの紹介は、大変楽しく拝聴しました。講演終了後の参加者お話コーナーで、皆で講師の大野先生との会話を楽しみました。
大野先生は、翌日は診療に間に合うため、朝一の新幹線で新潟を発ちました。大変お忙しいところ新潟まで来て頂き、素晴らしい講演をありがとうございました。益々のご発展を祈念しております。
平成28年9月14日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第247回(16‐09月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:新潟市障がい者ITサポートセンターの8年間の挑戦 障がい者・高齢者の技術支援の社会資源化をめざして
講師:林 豊彦(新潟大学工学部教授/新潟市障がい者ITサポートセンター長)
【講演要約】
1.支援技術との出会い
平成10年(1998年)4月、新潟大学工学部に「福祉人間工学科」が新設された。日本社会の急速な高齢化により高齢化率が20%目前となり、高齢者に対する社会保障制度の大きな変革に迫られていた時期であった。2年後の平成12年度には介護保険制度がスタートした。物つくりの面からもそれに対応すべく、文部科学省でも「福祉」がキーワードとなり、多くの福祉関係の大学・学部・学科が相次いで新設された。工学部にも福祉工学の学科がいくつか新設された。
私はそれまで医用生体工学が専門であり、福祉に関してはまったくの素人だった。そこで、白書や専門書を読んで猛勉強した。さらに、ロサンゼルスで毎年開催されている「テクノロジーと障害者国際会議」に参加して、電子情報系の支援機器を実際に見て、教育セッション、講演、研究発表にも出席した。驚いたことは,日本では滅多に見ない多くの機器が市販され,学校や家庭でも使われていたことだった。展示会場には、コミュにケーションエンドを付けた電動車椅子で走り回っている肢体不自由者がなん人もいた。町中には,高齢者・障害者が支援機器を使うことを支援するNPOもあった。多民族国家であるアメリカ合衆国は、障害者に対しても懐が深い社会であることに感銘をうけた。
2.アメリカと日本の法制度の違い
支援技術に関する日米間の違いの原因は何だろう?それが私の素朴な疑問だった。が、大きな要因のひとつは法制度違いであった。その裏には、そのような法律を必要とするアメリカの社会的・文化的背景があった。
私がまだ子どもだった1950年代、アメリカは、南北戦争から100年も経ったにもかかわらず、いまだ人種差別の国であった。第二次大戦後、差別禁止を訴える公民権運動が高まり、1964年についに公民権法(Civil Rights Act)が制定され、法律上では人種差別が解消された。しかし、障がい者の差別の解消には、さらに30年近くの歳月が必要であった。
1990年、障がいをもつアメリカ人法(Americans with Disability Act, ADA)が制定され、ついに障がい者の権利が法律で認められた。例えば、公共交通機関はバリアフリー化が進められた。公共交通機関を自由に使えることが障がい者の「権利」として認められたからである。1997年、個別障害児教育法(Individuals with Disabilities Education Act, IDEA)が改訂され、障がい児が能力に応じて等しく教育を受けるための方法論に明文化された。2003年には、リハビリテーション法第508条が改正され、連邦政府が電子機器・ソフトウェアを調達するとき、できるだけ障がい者も利用できることが条件となった。私が視察に行ったとき、アメリカはそのような状況にあった。残念ながら日本には、IEDAやリハビリテーション法第508条に対応する法律はない。
3.新潟市障がい者ITサポートセンターの活動
日本では支援機器、特に電子情報系の支援機器の普及が進んでいない現状を打破するためには、普及を支援する社会資源を作るしかない。そんな思いから、障がい者団体や自立生活センターと一緒に新潟市障がい福祉課に対して「障がい者ITサポート事業」の予算化を陳情した。足掛け2年の交渉の末、平成20年度に新潟大学自然科学系附置・人間支援科学教育研究センターに事業が委託され、同年10月、ついに悲願の新潟市障がい者ITサポートセンターがオープンした。
最初に行ったのが支援機器の利用調査だったが、結果は散々なものだった。代表的な電子情報系の支援機器を80%以上の障がい者が知ってすらいなかった。そこで戦略として、障がい者が必ず関わる学校と病院を中心に積極的に介入することにした。要するに営業である。その甲斐あって、初年度は半年で83件しかなかった支援件数が翌年度は289件に増加した。その後も毎年増え続け、平成27年度、ついに年間1,000件を超えた。講演会・講座・研修の開催件数も40件以上になった。もはや関連する病院や学校で本センターを知らないところはなくなり、定期的に支援会議を開いている学校もいくつかできた。新潟大学医歯学総合病院のロービジョン外来でも毎月支援を行っている。
現在の体制は、センター長の私を除き、支援員1人(常勤)、事務補助1人(非常勤)、作業療法士(非常勤)の計3人である。本センターのポリシーは、単独では活動せず、「コメディカル(理学療法士、作業療法士、言語聴覚士など)、社会福祉士、教師、保護者などの中間ユーザと協働で、利用者にとって最適な支援を目指す」ことである。支援件数を毎年増やすことができた理由は、このような協働によって、確実に成功事例を積み重ねてきたことにあると考えている。
4.ITサポート機能の社会資源化
支援員1人の現状では、支援件数1,000件/年および講演会等の開催40件以上/年という実績はほとんど限界である。しかし、潜在的な利用者はその何倍、何十倍もいると考えられる。新潟市障がい者ITサポートセンターの8年間の活動は、その社会的機能の必要性を広く世に知らしめることができたが、残念ながら今の事業規模では、その機能を十分には果たせないことも顕在化してしまった。
そこで第3期(平成26年度?28年度)では、ITサポート機能を社会に分散させることを目標とした。具体的には、保護者、教員およびコメディカルに対して支援技術教育を行うことにより、実質的な支援件数を増やすことを試みた。平成27年度、学校・病院において単発で実施した研修・講座は21回に上った。連続講座としては、新潟病院でミニ研修会を全5回、市立西特別支援学校で保護者向けiPad講習を全12回実施した。新潟県作業療法士会・言語聴覚士会との共催で、IT活用サポーター養成講座を全5回(1回3時間)実施し、多くの受講生が福祉情報技術コーディネーター認定試験にも合格した。この講座は平成26年度から毎年実施している。開催場所は、受講生が全県から参加しやすいように、新潟市、燕市、長岡市と毎年変えている。
障がい者ITサポート機能は、新潟県では新潟市が突出している状態であるが、この教育活動を通じて県内にも広めていきたいと考えている。夢は新潟県内の何箇所かに障がい者ITサポートセンターを設置し、連携して活動することである。
【略 歴】
長岡市出身。
1977年(S52)新潟大学工学部・電子工学科卒、1979年(S54)同大院・工学研究科修士課程了、同年同大歯学部・助手、1986年(S61)歯学博士(新潟大)、1987(S62)同大歯学部附属病院・講師、1989年(S64)工学博士(東京工業大)、1991年(H3)同大工学部情報工学科・助教授、1996年(H8)米国Johns
Hopkins大・客員研究員、1998年(H10)同大工学部福祉人間工学科・教授、
2008年(H20)新潟市障がい者ITサポートセンター長(兼任)、2016年(H28)同大地域創生再生機構・副機構長(兼任)。
2017年(H29)同大工学部工学科・人間支援感性科学プログラム・教授(予定)
専門は生体医工学、支援技術、人間工学。
【後記】
視覚障がい者や支援者の前で、自ら立ち上げた「新潟市障がい者ITサポートセンター」のこれまでの8年間の歩みをお話をして頂きました。
日本人の資質や能力の高さを讃えながらも、法整備が欧米に比較すると遅れていることを指摘し、障がいを持っている人の人権は守らなければならないと力説されました。
素晴らしい講演でした。林先生の益々のご活躍を祈念しております。
平成28年8月10日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第246回(16‐08月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:京都ライトハウス創立者・鳥居篤治郎が抱いた絶望と希望とは
講師:岸 博実(京都府宇治市)
【講演要約】
「とりい とくじろう。なんだかお侍さんのような感じの、この名前、あなたは聞いたことがあるでしょうか」――これは、拙作「ぼっちゃんの夢−とりい・とくじろう物語−」の冒頭です。〈鳥居篤治郎〉がこの世を去ったのは1970年でした。すでに半世紀近く経ています。名前を知る人も少なくなりつつあります。私も、実際にお会いしたことはないのです。
しかし、京都では、京都府立盲学校の副校長の任を果たし、京都ライトハウスを創立した先達として今も思慕されています。京都市名誉市民として顕彰もされました。身体障害者福祉法の実現を求める運動に尽力したこと、日本ライトハウスの創設者・岩橋武夫を継いで日本盲人会連合の会長となったこと、ヘレン・ケラーの3回目の来日を準備してホスト役を担ったこと、これらが主な足跡です。
私は、鳥居篤治郎の著書『すてびやく』(京都北部の方言で「ボランティア」に相当する語)などに収録されていない彼の文章−福祉・教育・点字・理療に関する論考、随想・手紙・日記や挨拶文など−を探し出し、集める作業に取り組んでいます。これまでに「様々なメディアに掲載された後、そのまま埋もれてきた」文章がA4用紙で250枚分ほど見つかっています。発掘をさらに徹底して、鳥居全集を編むことを企図していますが、どこまで迫れるでしょうか。まだまだ道通しです。それはともあれ、文章を通して彼の人柄や業績に近づくにつれ、1秒でもいいから同じ職場でともに働きたかったという思いを募らせています。一人でも多くの方に彼の実像を伝えたいと思うようにもなりました。
そこで、まずは、小学生や中学生を対象にできるだけ等身大の鳥居を、易しい言葉で伝えたいと、自費出版してみたのが伝記『ぼっちゃんの夢−とりい・とくじろう物語−』でした。本文わずか12ページのこの冊子を縦糸に、いくつかの横糸を添えてお話しします。
1 ニックネーム<ぼっちゃん>は、幼少の頃からの愛称ではなく、青年期に親交を結んだエロシェンコが名付け親だったようです。
2 京都の北部・大江山の麓で生まれた<ぼっちゃん>は、思いがけない眼病によって幼児期に失明しました。家族の愛情に包まれて育ちますが、特に父親の「目が悪いから、家の外にも出すまい、なんでも代わりにしてやろうというのではなく、まず、どこへでも連れ出す」という子育ての方針が、体験を通じた外界認識を豊かに養い、青年期以降の探究心や行動力の基礎を培いました。
3 <ぼっちゃん>の就学は、一般の子よりも遅れましたが、京都盲唖院や東京盲学校で、普通教科や英語・点字、文学・理療を学びました。京都時代すでに<盲界の改革者たらん>と訴える鋭さを発揮し、東京時代にはロシアから来日した盲目のエロシェンコやハワイから訪れたアレキサンダー女史などとの出会いを通じてエスペラントを学び、世界を意識するようになりました。新宿・中村屋を舞台に、文人や画家との交友も重ねました。
4 東京盲学校を終えた大正期には、幼稚部もある理想的な「日本盲学校」づくりを構想して募金に奔走したり、眼の見えない子のために点字の定期雑誌『ヒカリノ ソノ』を発行したりしました。そのエネルギーの根底には「新しき本を買い来てこの本がみな読めたらと匂いかぎおり」と歌わねばならなかった少年期の絶望感に似た悲哀がありました。
5 昭和期の視覚障害教育・リハビリテーション・福祉・文化を「みじめ」と捉え、その<革新>を求め続ける人生でした。エスペラントを通じて、世界各国の最先端の情報を収集し、ヨーロッパやアジアには足も運んで知見を得ました。<ぼっちゃん>は、後輩たちに「世界に目を」と語り続けたと伝えられています。
6 戦後、ヘレン・ケラーが3度目の来日を果たした折り、彼女は京都府立盲学校の講堂でスピーチを行いました。そのとき、歓迎の挨拶を述べたのが<ぼっちゃん>でした。熱をこめて発された一言一句に、日本の視覚障害者教育・福祉の抜本的な改革を目指す壮大な希望が描かれています。
7 <ぼっちゃん・鳥居篤治郎>は、「盲目は不自由なれど、盲目は不幸にあらず」という有名な詞を遺しました。その先進性を味わい直すとともに、「それならもう一度盲人に生れてもいいかと、問われるならば、それだけはごめんですと、言いたい。殊に、アジアの、日本の盲人として生まれることは、真っ平だと答えます」と述べた「絶望」の淵源に思いを馳せるべきではないでしょうか。そして、それでも、チャレンジし続けた鳥居篤治郎の志と夢を継いでいこうではありませんか。
【略 歴】
1974年〜 京都府立盲学校教諭(2016年2月現在.非常勤講師)
2011年〜 点字毎日新聞に<盲教育史>に関する連載を執筆
2012年〜 日本盲教育史研究会事務局長
2013年6月 盲人史国際セミナーinパリで招待講演
2014年7月 第23回視覚リハビリテーション研究発表大会で講座を担当
2015年3月 済生会新潟第二病院眼科勉強会で発表
2015年6月 「盲人と芸術」国際会議inロンドンで報告
2015年11月 NHK視覚障害ナビ・ラジオに出演(古河太四郎論)
【参 考】
岸博実先生には、平成27年03月11日にも講演して頂きました。講演要約を以下に記します。
報告:第229回(15‐03月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会 岸 博実
演題:「視覚障害者の求めた“豊かな自己実現”―その基盤となった教育―」
講師:岸 博実(京都府立盲学校教諭・日本盲教育史研究会事務局長
日時:平成27年03月11日(水)16:30 〜 18:00
場所:済生会新潟第二病院 眼科外来
http://andonoburo.net/on/3508
【後 記】
「盲目は不自由なれど、盲目は不幸にあらず」という鳥居篤治郎の言葉は有名ですが、実際には続きがあります。・・・「それならもう一度盲人に生まれてもいいかと、問われるならば、それだけはごめんだと言いたい。殊に、アジアの、日本の盲人として生まれることは、真っ平だ」。彼が味わった困難や絶望に思いを馳せながらこの一文を読むと味わい深いものがあります。
毎回、岸先生には素晴らしい講演を頂いております。益々のご活躍を祈念致します。
平成28年7月6日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第245回(16‐07月) 済生会新潟第二病院眼科勉強会 盲学校弁論大会「新潟盲学校弁論大会 イン 済生会」の報告です。
1)中学部 2年 「熊本地震で思ったこと」
2)高等部 普通科 2年 「一番大切なもの」
済生会新潟第二病院眼科では、毎年7月に新潟盲学校の生徒さんをお呼びして「新潟盲学校弁論大会イン済生会」を開催しています。
1)「熊本地震で思ったこと」
新潟県立新潟盲学校 中学部2年
【講演原稿】
4月14日の夜、テレビを見ていたら、急に画面が変わって、地震のニュースが始まりました。熊本で震度7の地震が発生しました。家が崩れて人が生き埋めになり、たくさんの人が助けようとしていました。私はそれを見てびっくりしました。なぜなら親戚の人が熊本市にいるからです。家が崩れてないかケガをしてないか心配しました。母がすぐに電話をしましたが、つながりませんでした。次の日やっと電話がつながり、地震がどうだったかを聞きました。「家は壊れなかったけど、窓ガラスが割れた。すごく怖かったよ。」と言っていました。おばさんが無事でよかったです。
私が熊本の人たちのためにできることは多くありません。ボランティアの人のようにお手伝いに行けません。募金や寄付もあまりできません。でも、熊本の人たちを励ますことはできます。「大丈夫?」や「頑張って下さい。」と手紙を書くことはできます。そして熊本の子供たちの分まで勉強を頑張りたいです。被災地で大変な人たちに負けないように、私もあきらめずに頑張ります。
私が小さいときに新潟で大きな地震が2回ありました。地震はこないほうがいいですが、もしも新潟でまた地震があっても、あわてないで安全に避難しようと思います。日本は地震の国なので、いつきても大丈夫なように防災リュックを準備したり、避難場所の確認をしたりして、地震に備えたいです。
学校の避難訓練は真剣に参加したいです。また、母や祖母だけでなく、近所の人と助け合う気持ち、きずなを大切にしようと思いました。
2)「一番大切なもの」
新潟県立新潟盲学校 高等部普通科2年
【講演原稿】
皆さんは人として何が一番大切だと思いますか?私は人間関係だと思います。でも、それは簡単なことではありません。私は、人間関係を築くのが難しく、人を傷つけたり、自分が傷ついたりしていました。
中学1年の時、私がいきなり怒鳴ったり、誤った言葉遣いをして、不快な思いをさせていた人がいました。ある日その人から帰りのスクールバスで罵倒され続け、さらに周囲の人も同調したため、私も押さえきれずに怒鳴り返して、口論になったことがありました。周りの人が同調したのには理由がありました。怒鳴ったり、場の空気を読まない発言をしたり、声の調子をコントロールせずに話す私に対して、全員が不快だったのです。
この出来事以降、その人だけでなく周りの人も私に対して冷たい雰囲気で接するようになりました。私は、自分のだめな点ばかり気になりました。少しでも人から良く思われたいと思って何かするけれど、かえって人を怒らせました。負のスパイラルに陥った気持ちになるだけで、全く希望が持てませんでした。人はつらいことばかりを抱えて一人で生きていかねばならないと思っていました。
周りの全ての生徒が喧嘩のことを知っていますし、冷たい雰囲気で接する中、Sさんは違いました。Sさんは、喧嘩をした翌年に盲学校高等部に入学してきました。Sさんも他の人から聞いて、喧嘩のことを知っていましたが、毎晩のように私を普通に食堂に誘ってくれ、悩みを聞いてくれました。私は、私の真意を疑わず、私のあら探しをしているとも感じずに、自然に話すことができたので、Sさんになら何でも話せると思いました。
Sさんは、学校全体の人気者でした。女の子からの人気も1番、文化祭や寮祭での出し物も大うけ。食堂に入ってくれば、「Sさんだ、おはよう。」とみんなが声をかけていました。私は、うらやましいと思いました。そして、なんでSさんはこんなに人から愛されるんだろうと思い、ある晩に聞いてみました。
「実は去年こんな喧嘩があって…。」と思い切って一部始終を話してから、「ねえ、何でSさんは人から愛されるの?」と聞くと、「はっきりいうと、君は近寄りがたい。言葉の口調も強いし、よく見られようという気持ちと、褒められようという気持ちがごっちゃになって、よけいなことばかりしたり言ったりしているから。自然でいいんだよ。言葉の一つ一つを考えて、落ち着いて話してごらん。君には愛される要素をたくさん持っているから。」と言われました。私は、初めて、私を認めてくれた最高の友達に出会えたと感じました。
Sさんとの出会いは、私に大切なことを教えてくれました。それは、人としての生き方、人間関係の築き方です。私は今も人間関係を築いていくのが難しいです。まだまだ、努力しなければいけないところがたくさんあります。分かりやすく話すこと、状況に応じた声の大きさを使い分けて会話をすること、ネガティブな考え方をやめていつも明るく元気に生きること、損得を考えて接したりしないこと、などです。
高等部を卒業したら理療科に進み、国家資格を取って理療の道に進みたいという自分の将来を考えたとき、今までの私ではつとまりません。患者さんと他の人と良好な人間関係を築いて、少しでも具合がよくなるように施術できるようになりたい。そして明るく元気に生きていけるようになりたいのです。一番大切なもの、人間関係を築く努力を続けていきます。 御清聴ありがとうございました。
【後 記】
毎年、盲学校の生徒の弁論には心打たれます。ことしは、熊本地震に被災した人に素直に心寄せる心情を語った弁論、人間として成長する過程での葛藤を吐露した弁論、いずれもいいお話でした。彼らの今後のまっすぐな成長を願います。
平成28年6月8日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第244回(16‐06月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「水枯れの大河 信濃川・千曲川に鮭の道を拓く」
〜信濃川・千曲川がつなぐ ”いのち” のリレー
講師:加藤功(NPO法人新潟水辺の会)
【講演要約】
「かつて人は、川から水を引いて田を潤し、米を作ってきた。山では四季折々獲れる山の幸と、川では魚や蟹などを獲り、日々その日の食料としてきた。まさに、山河が人々の生活の源であった。明治以降近代技術の発展によって、川の水の利用範囲は広がり、飲み水、工業用水、水力発電と広がっていった。」
「そして私たちは、山や川や水などを省みることのない生活となり、普段人はその恵みを享受した生活を送っている。今私たちは、川の災害を考えるだけでなく、川からの恵み、川の歴史、川文化を後世に伝えてゆく事が求められている。」
◆信濃川と鮭
信濃川は、甲斐(山梨)、武蔵(埼玉)、信州(長野) 3県境に位置する甲武信岳(2,475m)に源流を発する流路延長367km、年間流量160億m3/s、流域面積11,900km2を有する我が国を代表する河川である。
上流部長野県内では「千曲川」と呼び、新潟県では「信濃川」と呼ばれ、平安時代以降わが国屈指の鮭の生産地として知られ、河口から300km上流の長野県松本や上田まで、秋になると数万尾の鮭が遡上する自然豊かな河川であった。平安初期に書かれた「延喜式」には、信濃国より大和朝廷への鮭の献上記録が多く残されている。
昭和10年代に始まった国策の電源開発により信濃川や千曲川での大規模なダム建設が始まると、ダムの落差による減水区間と無水区間が発生し、信濃川中流域より上流に鮭の姿が消えた。これは生態系や河川環境の保護より、経済やインフラを優先した結果であった。
◆水害と川の恵み、そして食文化
「鮭」は、全国的に「鰤(ぶり)」と並ぶ“年取り魚・食文化”であり、西の「鰤文化圏」に対して、越後以北を「鮭文化圏」と称し、かつてどこの河川でも鮭が遡上していた。流域に住む人々は、遡上する鮭や鱒などの魚を食べ、川と密接な関わりを持っていた。
しかし川は、水害というものを同時に抱えている。経済の発展とともに人々は川に背を向けるようになり、「良い子は川で遊ばない」の看板や川の災害については人が語るが、自然と人間の付き合い方や折り合いについて考えることが無くなっている。
◆鮭の稚魚放流
大河・信濃川・千曲川水系で、産卵・孵化した鮭の稚魚が安全に日本海まで降り、3〜4年後に太平洋で育った成魚が再び河口新潟から長野へ遡上できるかつての河川環境を夢見て、新潟水辺の会は10年前より活動を始めた。
なぜ鮭が遡上出来ないかなどの問題点を調査すると共に、千曲川へ鮭を戻すため、地球環境基金、三井物産環境基金の助成支援を受けて、9年間で190万尾の稚魚を、千曲川・信濃川に放流してきた。
◆65年振りの鮭のヤナ落ち
鮭稚魚放流を始めて3年目の平成22年10月20日、実に65年振りに信濃川の河口より254km上流の上田市の千曲川にある中山ヤナに、体長60 cm、体重1.6 kgのメス鮭が落ちた。(ヤナ場に魚がかかることを上田では「ヤナ落ち」と言う)2年後の平成24年11月13日、同じヤナ場に体長56 cm、体重1.7kgのオス鮭が落ちた。
その後、2016年11月25日から12月3日にかけ立て続けに5尾の鮭がヤナに落ち、連日新聞・テレビで取り上げられた。5尾ヤナ落ちしたことはその数倍の鮭が千曲川へ遡ってきたことを意味している。
◆レッドマウス病の発生、鮭の稚魚偶然の発見
2015年2月上旬、石川県で国が魚類の特定疾患に指定しているレッドマウス病が国内で初めて発見された。この病気は、@人には感染しない、A死亡率は、急性型で30〜70%、B発生水温は13℃以上で、ほとんど全ての鮭科魚類(ニジマス、イワナを含む)に感染する特徴がある。
長野県は海なし県である為漁業は、河川と養魚場の魚をメインとしている。その為長野県より稚魚放流の自粛要請があり、2016年春の稚魚放流を中止した。そんな中の2016年2月、千曲川の中流部において鮭の稚魚1尾が偶然発見された。私たちのこれまでに稚魚放流した鮭が大きくなり、故郷の千曲川に戻ってきたことを意味している。
◆発眼卵の河床埋設放流
当会は鮭を遡上させるだけの団体ではなく、鮭を河川環境回復の指標とし、信濃川・千曲川での生物循環経路を将来にわたり、持続可能な環境での復元を願っている。これまで信濃川の支川・能代川に遡上した鮭を採卵、人工ふ化させ大きくなった稚魚を千曲川へ放流することで千曲川への鮭の回帰を目指してきた。今後は人工ふ化放流に頼るだけでなく、鮭の発眼卵の河床埋設による自然孵化の定着を図る。それが我が郷土の誇りである信濃川を、生物の豊かに生存する普通の河川に戻すことの一環であると考えている。
「人間が生きてゆくための環境は、決して機能や経済効率だけで成り立つものではなく、『記憶』される環境の創造こそが大切なのではないか。今後私たちは、先人の行ってきた「自然と共生してきた人の暮らしや文化を再構築」することが求められている。
@特定非営利活動法人 新潟水辺の会ホームページ
http://niigata-mizubenokai.org/
【後 記】
信濃川のこと、千曲川のこと、鮭の遡上のこと、、、知らないことばかりでした。冒頭の言葉は、重みがありました。「かつて、人は川で魚や蟹などを採り、川から引いた水で田を耕して米を作り日々の糧としてきた。川は人々の生活を支え、そこに生まれた知恵や文化は長く受け継がれてきた。まさに、山河が人々の生活の源であった。」「明治以降近代技術の発展によって、川の水の利用範囲は広がり、飲料水・農業用水だけでなく、工業用水・発電用水として利用されるようになり、私たちはその恵みを一方的に享受するのみで、川や水を省みることのない生活に慣れ、川の自然環境や川文化が破壊されるのを傍観し続けてきた。」
子供が小さいころ、「川のそばで遊ぶと危ないよ」とよく注意したものでした。川の水は、水力発電や水田に利用できる恵みの水とも思っていました。水害から街を守るため堤防が造成され街中ではコンクリートに囲まれた川になっている風景に違和感はありませんでした。でもそうしたことが川を中心とした生態系に大きく影響していたことに初めて気が付かされました。
金言が満載の講演でした。「採れるだけではなく、必要なものだけ採る」「足るを知る」「「鮭が海の栄養を山に運ぶ」「鮭文化」、、、、水力発電は安全な電力を提供してくれると単純に信じていたのですが、川の自然や鮭の遡上に大きな影響のあること、、、、そうだったと納得でした。
そして稚魚の放流を行っている団体のあること、様々な取り組みの成果で少しずつ鮭の遡上が増えてきていること、ダムの放水の工夫により鮭の遡上に効果を上げることが出来ること等々、講演の中では多くの写真や資料を基にお話し頂きました。何よりもこんな活動を地道に行っているグループがあることを知ることが出来、感謝する次第です。
講演の最後は、以下の様なお言葉でした。「当会は鮭を遡上される団体ではなく、鮭を河川環境回復の指標とし、信濃川・千曲川での生物循環経路を将来にわたり、持続可能な環境での復元を願っている。」
自然への深い想いと追求、「新潟水辺の会」の活動に感動しました。 新潟水辺の会の、そして加藤功さんの益々の発展を祈念致します。
加藤さんから、以下のYou Tubeを紹介して頂きました。
我家の盲導犬物語
https://www.youtube.com/watch?v=Xk0R9XvLytg
東日本大震災 藤沼ダム決壊
https://www.youtube.com/watch?v=Li_--_uHW60
私と関屋分水路
https://www.youtube.com/watch?v=aqNWiRUXpVY
平成28年5月11日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第243回(16‐05月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:視力を失ってから「嬉しかったこと、役立ったこと」
講師:大島光芳(上越市)
【講演要約】
1.はじめに
2009年、59歳の時に職場の時計が見えず、移動にも支障をきたしていました。しかし定年退職までまだ1年あり、どうしていいかが分かりませんでした。このとき偶然に大学病院の廊下で、ロービジョン外来の文字を見つけてもらいました。受診したら、少し見通しが立つようになり、これを機会に、病気を理由として休職を決めました。このロービジョン外来を見つけたことが全ての始まりでした。
現在の目の状態は全盲、明るさも暗さも感じません。見えないと目からの情報がないので映像の記憶ができません。記憶が極端に苦手になりました。今日は「音声ペン(タッチメモ)」を利用しながら話します。
2.私の日常
全く見えませんが、家族の配慮があれば日常生活はできます。 道具で最初に使いだしたのは携帯電話でした。携帯電話を音声ガイドがでるように設定してもらい、電話ができるようになると、社会との繋がりが保てました。その後も出会う人毎に番号と名前を登録し、私の脳の外部メモリーとしています。
現在は音声訳された本をCDで聞く時間が一番長いです。聞くには音声再生装置(プレクストーク)を使います。本の選択は主に東京と新潟の点字図書館が紹介してくれた中から選んでいます。去年は 150冊を読みました。
寝る前には「光メロディセンサー」で消灯を確認します。
本を読みだしたのは2011年7月に「防災避難マニュアル」を読んで歩行補助具のパームソナーなどを知ったのがキッカケでした。この歩行補助具も愛用しています。
3.復活を目指して取り組んだパソコン
2010年1月、パソコンのソフトを買いました。
2月、パソコンでNHKラジオ第2放送「聞いて聞かせて ブラインド・ロービジョン・ネット」が遡って聞けるようになり、貪って聞きました。この年は就労支援の工藤正一さんによる「完全マニュアル中途視覚障害からの再出発」と長野県の広沢里枝子さんによる「ピアカウンセリング」と私と同じ年齢の岩井和彦さんによる「15歳の弁論」に励まされました。
遡って聞いた2008年の放送に「検証ガイドヘルプ事業」があり、この放送をICレコーダに収録しパソコンで文章にすることによって、タッチタイピングもできる様になりました。文字入力の習得が先ではなく、楽しみを生み出すために操作を憶えるのが先。入力技術は後からついてきました。
一生懸命にやることができると寂しさが一機に吹っ飛びました。入力ができたらメールも可能になり、市政モニターになりました。町内や市内外のまちづくり活動に居場所もできました。
4.ガイドヘルパーさんに導かれて
私より辛い人の話をして、励ましてくれるヘルパーさんがいました。パソコンに取り組むのを誘発してくれたのもヘルパーさんでした。そして誘導歩行を始めて1年後の2010年9月、ヘルパーさんが、新潟市でのガイドヘルパー養成講座の先生が素晴らしかったと伝えてくれました。
私は10月から1人で列車に乗り、駅員の誘導を利用して新潟へ行くことを始めました。新潟駅に到着すると、新潟の事業所からその先生がガイドにきてくれました。このときに疑問に思っていた誘導歩行のされ方を学び直しました。階段を上る姿勢を教えて頂きながら、生きる姿勢も蘇ったように思います。
翌月にパソコンをきちんと習いたいというと12月に亀田ふれあいプラザで学ぶ機会をセットしてくれました。これが県視障協や点字図書館を頻繁に利用するキッカケになりました。
5.ピアカウンセリングにおける感情の解放
2011年9月に広沢里江子さんに会いたくて長野県上田市でのピアカウンセリング集中講座に参加しました。障害者自身がカウンセラーとなって、障害者に対して行うものをピア・カウンセリングと言います。ピア・カウンセリングでは、時間を対等に分けて、互いに役割を交換しながら聞きあい、相手に心を寄せて傾聴します。
内容は精神的相談から自立生活のための学びまで深いそうですが、大切な目的に自己信頼の回復があり、そのために支えあいながら積極的に感情を解放します。これは抑圧してきた感情を解き放つことで、過去に受けた傷を癒し、回復する事により、より合理的な思考を取り戻すのに役立つとの位置づけでなされます。抑圧は例えば「世話になっているのだから」「障害者なのに我儘だ」と自分を押しこんでしまうことです。私も無意識に鎧をまとっていました。感情の解放は障害者だけで行うからこそ、ここなら話せる、ここなら安全だとの気持ちがありました。加えて私はメンバーにも恵まれたと感じています。弱い立場の初心者を受け止める気持ちを全員から感じました。だからできたのだと思います。感謝しています。
(追記:話したことのある受診時の言葉、福祉関係者の話、近所の人たち、NPO法人オアシスなどは省略しました。)
【略 歴】
1950年 現在の居住地で生まれ、育ち、生活。原因不明の視神経萎縮。
2006年 運転断念、07年通院同伴、08年送迎通勤、09年6月ロービジョン外来受診。
7月に休職、8月に視覚障害者2級、翌年5月1級、7月に定年退職。
2009年 点字図書館登録、NPO法人障害者自立支援センターオアシス会員。
2010年 任意団体上越市視覚障害者福祉協会会員。2011年に社会福祉法人新潟県視覚障害者福祉協会会員、同年に任意団体新潟県中途視覚障害者連絡会会員。
2012年 NPO法人まちづくり学校会員。2013年に任意団体リハ協会会員。
2014年 町内会法人化検討委員。2015年に新潟県中途視覚障害者連絡会 副会長。
【後 記】
講演中の大島さんの静かで落ち着いた口調に、凄みを感じました。
本当に見えなくなって6年生と名乗って講演が始まりました。その後は、携帯電話、音声再生装置(プレクストーク)、DAISY図書、点字図書館、「光メロディセンサー」、パームソナーなどについて、実際のグッズなどを参加者に回覧しながら講演が続きました。
その後、パソコン・ガイドヘルパー・ピアカウンセリングについて詳細に紹介がありました。特にピアカウンセリングにおいて、抑圧してきた感情を解き放つ、自己信頼の回復等々、とても意義深い話をお聞きすることが出来ました。感動しました。
大島さんの、益々の活躍を祈念致します。
平成28年4月13日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第242回(16‐04月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:盲学校理療教育の現状と課題 〜歴史から学び展望する〜
講師:小西 明(済生会新潟第二病院 医療福祉相談室)
【講演要約】
1 最近の街中で目に付く店看板
都会はもとより、地方の新潟市内でも「りらく」「エステ」「てもみ」などの店看板が目立つようになった。新聞の折り込みにも「整体」「全身もみほぐし」などの文字が躍るチラシが見うけられる。エステティックは平成19年(2007)、リラクゼーションは平成25年(2013)に日本標準産業分類に登録された。海外からのインバウンド、企業のメンタルチェック義務化も後押しし、推定一兆円産業ともいわれるようになった。ストレスの多い現代社会で、人々の健康志向や癒しのニーズと合致したのだろう。エステ、リラクゼーション、整体などは、法令で位置付けられている三療(あん摩マッサージ指圧、はり、きゅう)と違い、広告の制限がないため、消費者が欲しがるクリーンで健康的なイメージを植え付けている。
また、柔道整復師の開設する「整骨院」「接骨院」から、はり、きゅうと柔道整復をあわせた「鍼灸整骨院」といった新たな開設が増えている。平成10年(1998)以後、鍼灸学校の新設抑制が自由化され、かつ教育課程が時間制から単位制に改訂された産物といえる。
1999年 → 2009年 → 2013年 鍼灸師養成施設数 27校 98校 101校
定員数(晴眼) 835人 6,009人 5,676人
2 視覚障害者と理療
一方で、伝統ある三療を主とし、それらと関連した手技療法や物理療法、運動療法などを含む非薬物療法の総称を「理療」という。
古代より視覚障害者の男性は、語り部として、あるいは宗教者、平家琵琶の弾奏者の担い手であったが、江戸時代に入り杉山和一の管鍼術をはじめとする理療の知識や技術を獲得していった。これ以後、幾多の変遷はあったが、理療は伝統的に視覚障害者の主な職業として位置付けられ、現在も中心的な役割を果たしている。視覚障害者により数百年にわたり同一職業が継承された事実については、かねてより賛否はあるが、社会で一定の評価がなされてきたことは特筆すべき事項であり、他国に例がない。現在では至極当然のこととされている視覚障害者の理療業であるが、今日までの過程は過酷を究め困難の連続であった。現在の理療業や教育を支えている様々な制度や慣行は、その時々の先人の並々ならぬ尽力奮闘の成果である。
3 明治維新後の視覚障害者
明治に入ると、厳格な官位・職階制の下で組織されていたそれまでの当道座は、中央集権体制の確立を目指す新政府の方針と相容れない存在となり、 明治4年 (1871年)の太政官布告をもって解体される。これに伴って杉山和一創設の鍼治講習所も廃止されるとともに、座からの配当で暮らしを立てていた盲人の生活問題が浮上することになった。
一方、安政5年 (1858年) 7月の長崎に端を発したコレラの大流行に際し、蘭方ないし蘭漢折衷で行われていた当時の医学は無力であった。この教訓から、医学教育を含む学制や近代的な医療制度の確立によって医師の資質を向上させようとする機運が明治政府内に高まった。明治政府は西洋医学を主体とした新制度を、明治7年(1874年)の医制発布により実施した。これにより、あん摩・鍼灸業者は西洋医家の管理下に置かれることとなり、三療・東洋医学は排除された。
4 盲唖学校設立運動
更に、明治18年(1885)には「鍼灸術営業差許方」の発令で、営業の可否審査が行われるようになり、明治44年(1911)「按摩術営業取締規則」明治45年(1912)「鍼術灸術営業取締規則」で、営業を行うには試験に合格するか、指定学校を卒業して地方長官(知事)の免許鑑札を受けることが義務づけられることになった。
一例として新潟県では、職業自立を目指す視覚障害者への支援「手に職をつけて自立してほしい」との先達の熱い思いにより、明治40年7月17日、関係者の念願かない「私立新潟盲唖学校」が県知事より学校設置の認可がなされた。つづいて同年10月10日鍼灸冶組合の粉骨の努力と、多くの協力者を得てついに開校式・始業式が挙行された。
5 あはき法と盲学校理療科
1911年 「按摩術営業取締規則」「鍼術灸術営業取締規則」により試験合格か指定学校卒業後、免許鑑札の義務
1923年 公立私立盲学校及聾唖学校令・規程交付 「盲学校ノ修業年限ハ初等部六年、中等部四年ヲ常例トス 盲学校ノ中等部ヲ分チテ普通科、音楽科及鍼按科トシ・・・」
1947年12月 業界、教育界、視覚障害者団体の業権擁護運動
1948年4月 小・中学校、盲・聾学校義務制
1948年5月 高等部別科(2年)、本科(3年)、第一部専攻科(2年)が設置
1973年4月 改正理療科課程の設置 普通科・本科保健理療科,専攻科理療科
1974年3月 高等部別科廃止
1975年3月 高等部第二部専攻科廃止
1990年4月 あはき法一部改正(国家試験制度の導入) 本科保健理療科 専攻科理療科、専攻科保健理療科 課程開設
1992年2月 第1回 あはき国家試験 開催
6 視覚障害者の理療業
就業あはき師の推移 (2014 衛生行政報告より)
あマ指師:1960年 61.6% → 2014年23.0%
はり師: 1960年 46.3% → 2014年13.1%
きゅう師: 1960年 43.0% → 2014年13.4%
就業視覚障害あはき師の割合及び数は、晴眼あはき師とは逆に年々減少している。
背景として視覚障害あはき師を養成する全国盲学校、国立リハビリテーションなどで在籍者の減少がある。あはき師免許取得後の進路においては、平成15年度と比較して盲学校普通科卒業生の内、盲学校上級課程進学者(専攻科課程)は82人であり、平成25年度はそれからほぼ半減している。
専攻科理療科は、平成15年度卒業生は304人であり、平成25年度と比較して 20%減少している。就職が143人で、64.3%を占めている。企業内ヘルスキーパーや訪問マッサージの会社に就労している。
また、開業は37人で12.2%であったものが、平成25年度は率にして半減している。
7 視覚障害者団体の動向(日本盲人会連合の提案)
(1)あはき法18条の2廃止
ア あはきの社会的信頼を高め、資質向上を図る。
イ 中卒失明者は激減している。例外措置として高卒並みの学力として認め、専攻科に入学させる。
ウ 理療科教員の身分保障を検討する。
(2) あはき法19条死守と視覚障害あマ指師に対する支援
ア 全国の専門学校であマ指師養成課程新増設が続発している。
イ 19条をいつまで保てるか。関係者のコンセンサスは得られるか。
ウ 視覚障害者あマ指師が職業自立するための支援策を実現する。
8 検討事項
・盲学校生徒、保護者、業界を交えた地域での、18条の2、19条に係る検討。
・視覚障害あマ指師が職業自立するための支援策を現行法で実現するための検討。
・理療を含めた視覚障害者の職域拡大と社会で活躍する人材育成。ビジュアル社会の少数派への理解。幼児・児童(低発生頻度障害0.01%)〜成人まで。
◎盲学校の存在意義は、視覚障害者一人一人の夢を実現するためにある。理療を目指す視覚障害者は少なくはなったがゼロではない。理療を盲学校に導入した時代と現在では隔世の感はあるが「視覚障害者の職業自立」は、時々の先人の刻苦奮闘、愛情の賜物により今があることを確認したい。
【略 歴】
1977年 新潟県立新潟盲学校教諭
1992年 新潟県立はまぐみ養護学校教諭
1995年 新潟県立高田盲学校教頭
1997年 新潟県立教育センター教育相談・特殊教育課長
2002年 新潟県立高田盲学校校長
2006年 新潟県立新潟盲学校校長
2015年 済生会新潟第二病院医療福祉相談室勤務
【後 記】
これまで聞いたことのない理療科の歴史と現状でした。
・あはき19条、初めて知りました。
・晴眼者がマッサージをやりがいのある職業として意欲的に取り組んでいる一方で、視覚障碍者が止む無くあはきを選択しているという一面も知りました。
・晴眼者は、国家資格でないため宣伝ができること、一方あはきは国家資格であるため宣伝ができないこと
・視覚に不自由のある人の職業として「あはき」(あんまマッサージ指圧・鍼・灸)のみでなくIT関係も期待できると思っておりましたが、最近は視覚情報化(ビジュアリゼーション)のためこの分野への進出が厳しいという現実も知りました。
実際には各団体のロビー外交などが影響しているのでしょうが、何か理不尽さを感じながら拝聴しておりました。
視覚障害者の就労問題は、大きな課題です。まだまだ勉強しなければならないことが多いことを改めて知りました。
平成28年3月9日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第241回(16‐03月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「『見たい物しか見えない』と『見たい物が見えない』のあいだ」
講師:関 恒子(長野県松本市)
【講演要約】
1)
発症と治療
私は20年前、まず左眼に、その半年後右眼にも近視性新生血管黄斑症と診断され、発症から各々1年後と2年後に黄斑移動術を受けた。左眼は期待した結果が得られず、合併症や再発の為に術後3年間は入院手術を繰り返したが、6年を過ぎた頃漸く安定した。幸い右眼は術後視力が改善し、再発もなかった。しかし現在は両眼共網膜萎縮の進行により0.1〜0.2に低下し、目下の悩みは進行しつつある視野欠損である。
私が発症した20年前は黄斑変性症やロービジョンという語はまだ普及しておらず、何の知識もなかったので、視力低下の可能性があることを告げられた時の驚きは非常に大きかった。また今と違って確立した治療法がなかったことが私に二重の打撃を与えた。私がまだ予後不明の黄斑移動術を受ける決意をしたのは、視力の低下を放置することが何よりも辛かったからで、治療が受けられるということは当時私の大きな救いとなった。
2)
私の挑戦
手術によって左眼は新たな視野の欠損や、様々な見え方の不具合が生じたが、右眼は一時期0.7位まで改善し、私の生活を向上させてくれた。目を大切にする為に目を使うのを避ける人もいると思うが、私は改善した視力を有効に使うことを考えた。視力低下を告げられた時、私の最初の恐れは文字が読めなくなる事と外出が困難になる事だった。“再発によって再び視力が低下するかもしれない。それなら見えるうちに大いに読書や外出をしておこう”と私は考えた。私は近くの大学に通って全くの専門外であるドイツ文学を学び、多くの作品を読んだ。外にも出て見えなくなるかもしれない時の為に外界の物を心して目に焼き付けてきたつもりである。
また私は長年フルートのレッスンを受け続けてきたのだが、術後視力が改善したといっても中心近くの暗点の為に並ぶ音符を即座に読み取ることができず、初見の演奏はできなかった。暗点を追い払うように意識して見なければ見えない。読書も拡大鏡や電子ルーペが必要だった。一旦はレッスンを止めることを考えたが、耳で曲を覚え、楽譜は確認に使うことにし、フルートの先生のご理解を得て今も続けている。目が正常だった頃は耳より目を優先させていた為に、自分の音色に耳を傾け心をこめる事がおろそかになっていたことを反省し、目が悪くなったことが上達の妨げになるとは限らないと今では思っている。私にはまだ耳があるとフルートが教えてくれたような気がする。
私が特に意欲をもってしていることに毎年の滞在型海外旅行がある。旅行社のツアーに参加するのではなく、自分で計画し、単身3,4週間滞在するのだが、旅行には少しだけ目的を持たせている。例えば、この3年間は英国に行っているが、アガサ・クリスティやコナン・ドイルをテーマにしたり、英国流の日常生活を体験する為にホームステイをしたりである。この数年特に視力低下した私が海外に出るには当然様々な困難がある。単眼鏡とiPadを駆使しながらの移動はストレスが多いし、正しい乗り物に乗れるか、いつもハラハラしている。標示や看板が見難い為に乗り継ぎに十分すぎる時間をとったり、ネットで購入できる券類は日本国内で取ったり等、現地での困難を避ける為の対策も必要である。近年はユニバーサルデザイン化が進んできていることを各地で実感でき、とても嬉しい。
3)
終わりに
ドイツ文学もフルートも海外旅行も、全てを私は挑戦と思っている。見たい物が見えなくなるその時まで、できるだけ行動の幅を狭めない為に今の自分にどこまでのことができるか挑戦し、自分を試しつつ来たこの十数年は、平凡ではなかったけれど、私にとって決して無意味なものではなかったと確信する。
最後に、見たい物が見えなくなった時にはどうなるのか、演者の拙い問いに温かく答え、教えてくださった障害を持つ参加者の皆様に感謝致します。
【略 歴】
富山大学薬学部卒業。薬剤師。
信州大学研修生を経て結婚。一男一女の母となる。薬品会社勤務。退社。
1996年左眼に続き、右眼にも近視性黄斑症を発症。
1997年と1998年に黄斑移動術を受ける。
松本市在住。趣味:ドイツ文学研究、フルート演奏、英国文化にも憧憬を持つ。
【後記】
本勉強会には何名かの方が、数度にわたり講師を引き受けて頂いています。今回の関さんもその中のお一人で、今回が5回目の講演でした。ご自身の経験を理路整然とお話しして下さいます。
視力悪化が進行していく時の不安、大きな手術を受ける時の決心、見えているうちにしている幾つかの挑戦(ドイツ文学、フルートの演奏、海外旅行)の話は素晴らしいものでした。
講演後に、関さんが参加された視覚障害の方々に、「どういうときが一番辛かったですか?」「見えなくなってからでも楽しいことはありますか?」という質問をして、その受け答えはとても印象的でした。
挑戦のお話の続きをお聞きしたいと思いました。関さん、今後ますますご活躍ください。
平成28年2月17日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第240回(16‐02月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「ブラインドメイク 実践と体験」
演題1:私の化粧(フルメーキャップ)の自己実現−ブラインドメイクの出会いから1年ー
講師:岩崎 深雪(新潟市;盲導犬ユーザー)
【講演要約】
化粧に全く関心がなかった私が、平成27年2月に大石先生の視覚障害者が鏡を見ないでひとりで化粧ができる「ブラインドメイク」の講演会があることをしりましたが、私には関係ないことと思っていました。でも!私はカラオケ教室に通っているので、舞台に出るときに、もしかして一人で化粧ができるようになれば、人の手を煩わさなくてもいいようになるかも?と思って、同行援護者でもある若槻さんを誘って先生の講演を聞きに行きました。
講演を聞きながら正直「こんなこと私に出来ない。場違いなところに来てしまった。」とその場から逃げだしたくなりました。講演が終わり引き止められるのを振り切ってさっさと帰ってきました。その後「私と一緒にやろうよ。」と若槻さんに熱心に誘われ、とにかく一度行ってみて、それから断っても悪くわないだろうと思い、5月からブラインドメイクのレッスンを受けてみることにしました。
第1回目のレッスン(フェイシャル&スキンケア)後、乾燥していた唇が潤い、肌がツルツルになっていくことを手指で感じることができました。このレッスンで、自分の顔が愛おしく感じるようになり、知り合いからも「会うたびに綺麗になっていくのね」などと言われると、次第に気持ちが楽しくなりました。 レッスンの度に綺麗に化粧ができるようになっていく自分を感じることで自信がつき、内面から変化していくことに気が付きました。そしてとうとうフルメイクができるまでレッスンを受けて、合格をいただきました。
レッスンは70歳を迎える私には、決して簡単なものではありませんでした。アイメイクでは、アイシャドーやマスカラはどこに塗ればいいのか、名前と場所が一致しなかったり、マスキングテープを張るのに四苦八苦しました。でも、今では出かけるときは必ず化粧をするようになりました。化粧をせずにスッピンで出かけた時は、いつの間にか下向きになっている自分に気がつきました。化粧をして出かけると、自分では無意識のうちに背筋を伸ばして、顔を上げて歩いています。
ブラインドメイクができるようになったお蔭で、自信がついて、姿勢もよくなり、気持ちも若返り、健康維持にも欠かせないものとなりました。
フルメイクができるようになっても、口紅がはみ出ていないかしら?チークはどうかしら?アイメイクはきちんとできているかしら?・・・、常に不安はついて回ります。周りに見てもらえる人がいればいいのですが、いないときは不安のまま出かけて、行先で「私のメイクおかしなところはない?」と聞くようにしています。「綺麗にできてるよ」と言われた時はほっと胸をなでおろします。おかしなところがある時などは「お願い!申し訳ないけどちょっと直して!」とお願いするようにしています。でも、残念なことにおかしいところがあっても黙っている人が多いように感じます。 「教えてあげて気を悪くしないかしら?」などと思わずに何気なく教えてくださる方が身近にいてくれると、どんなにか助かることでしょう。教えていただくだけでなく、それを直していただければなお嬉しいです。
そのためにも視覚障害者に関わる方々に、ぜひこのブラインドメイクの化粧技法を覚えていただいて、中途失明で家に閉じこもりがちの女性や視覚障害者の女性に外出の喜びや楽しさを教えていただきたいのです。ブラインドメイクを教えていただける化粧訓練士が1人でも多く私たちのような視覚障害者のためになっていただけることを願っています。
【略 歴】
1962年 3月〜新潟県立新潟盲学校高等部別科卒業
1967年 3月〜結婚
2003年11月〜財団法人アイメイト協会より盲導犬1頭目を貸与。
2011年 1月〜盲導犬引退。引き続き2月に2頭目の貸与
2012年〜新潟市東区河渡本町に転居
2015年 2月〜日本ケアメイク協会、大石華法先生の講演を聞く
5月より大石先生の講座を受け現在に至る
演題2:「女性にとってお化粧とは何でしょう?」
講師:若槻 裕子(新潟市)
【講演要約】
街を歩いていて、お化粧をしている視覚障害の女性に出会うことはほとんどありません。その理由は、自分自身のお化粧した顔を鏡に映して確認することができないことで「お化粧はできないもの」と思い込まれているかたが多いからではないでしょうか?
私は介護福祉士と同行援護の資格を有していますが、友人に視覚障害の岩崎深雪さんという70歳の女性がいます。彼女は自分では化粧することができなかったため、私が彼女にお化粧をすることが当たり前になっていたのですが、彼女はその度に「申し訳ないね」と気遣った言葉を口にされていました。気遣う彼女に対して私は「大丈夫!」という、今となれば何とも無責任な表現しかできなかったのですが「視覚障害者は、自分でお化粧できないのは仕方ないこと」「視覚障害者はお化粧しても色が見えないし、綺麗になっていく姿も確認することができない」「だから他者(私)が彼女にお化粧をするのは当然のこと」と、こうした決め付けや思い込み、先入観がありました。ブラインドメイクに出会うまでは・・・
2015年2月、ブラインドメイクを考案された大石華法先生と運命的な出会いがありました。視覚障害の女性が自分1人で誰の手も借りずに、とても綺麗にお化粧をしている様子を生まれて初めて見て、感動のあまり鳥肌が立ちました。感動が収まらず、翌月から大阪の大石先生の元へ化粧訓練士を目指して新潟から月に1度、ご指導を受けに通うようになりました。そこではブラインドメイクのレッスンに通っている多くの視覚障害の女性との出会いがあり、彼女たちの声を直接聞かせていただくことができました。そこで感じた事は「綺麗になりたい」「綺麗でありたい」「美しくなりたい」との想いは、女性なら誰でも想い願う事であり、視覚障害の女性も美しくなりたいと願う、ひとりの“女性”であることでした。
私が大阪まで通い始めて2か月後のこと。「お化粧は一生出来ない、無用のもの!」と強く拒絶していた岩崎さんに「貴女なら絶対にお化粧できるようになるから!」と誘い、5月から一緒にブラインドメイクのレッスンを受けに大石先生の元へ通うようになりました。70歳の彼女は、ブラインドメイクのレッスンを受ける毎に、パーツ化粧が1つ1つ綺麗にできるようになっていき、12月には、1人で綺麗にフルメーキャップまでできるようになりました。お化粧だけではなく、洋服やお洒落にも気を使うようになり、長い髪をバッサリ切り、毛染めやパーマもして、誰もが見違えるほど若くて綺麗になりました。
少し前屈みに背中を丸くして歩いていた彼女でしたが、背筋が真っ直ぐになって歩くようになりましたし、立ち居振る舞いまで女らしく変わってきたことには驚かされました。周囲からは「明るくなったね!」「綺麗になったね!」「若くなったね!」「素敵ですよ!」と声をかけられることで自然と頬がほころび、嬉し恥ずかしそうな笑顔は、まるで少女のようです。その様子を見た側にいる周囲の人たちまでが笑顔になっていました。そして私自身も笑顔になっていることに気が付きました。視覚障害の女性がメイクをすることで、当事者ばかりでなく、周囲の人たちまで明るく、そして楽しくなることを実感しています。
ブラインドメイクのレッスンを受ける過程で“自分らしさ”をどんどん見出されて、自主性と積極性を持って生き生きとした生活を送られている視覚障害の女性が大勢いらっしゃいます。「お化粧をしたい」と心の底に押しこめられている声に出せない心の声に耳を傾けて、信頼される化粧訓練士となり、ブラインドメイクを広げていきたいと思います。
【略 歴】
2005年 「有限会社 きゃすと」にホームヘルパーとして入社
2012年 介護福祉士を取得
2014年 同行援護応用課程を修了
2015年 日本ケアメイク協会、大石華法先生のご指導のもと「化粧訓練士」を習得中
日本ケアメイク協会 http://www.caremake.jp
【後 記】
勉強会に、テレビ局2社(新潟放送BSN,
新潟テレビUX)とラジオ局1社(新潟放送BSN)の取材がありました。翌日の2月18日夕刻に、テレビ2局(BSNとUX)で早速、放映がありました。勉強会を初めて20年、通算で240回になりますが、本勉強会について新聞報道(読売新聞、新潟日報等)はいくつかありましたが、TVやラジオの取材は初めてのことでした。
今回の話題「ブラインドメイク」は、視覚障碍者の方が自ら行うお化粧です。今回は会場(眼科外来)で、実演をして頂きましたが、鏡も使わず、指を用いてファンデーション、マスカラ、アイシャドー、チークを行っていきます。みるみるうちに綺麗になるばかりでなく、表情が輝いてくる有様は圧巻でした。
丁度1年前のこの勉強会で、大石華法さんに講演して頂いたことが、今回の勉強会に繋がりました。
平成28年1月23日の「学問のすすめ」第10回講演会の報告
安藤@済生会眼科です。
報告:「学問のすすめ」第10回講演会 済生会新潟第二病院眼科 門之園/出田
演題1:「好きこそものの上手なれ;Tell
it like it is !」
講師 門之園 一明(横浜市立大学教授)
演題2:「医療における心」
講師:出田 秀尚(出田眼科名誉院長)
@「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」
人は生まれながら貴賎上下の差別ない。けれども今広くこの人間世界を見渡すと、賢い人愚かな人貧乏な人金持ちの人身分の高い人低い人とある。その違いは何だろう?。それは甚だ明らかだ。賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由ってできるものなのだ。人は生まれながらにして貴賎上下の別はないけれどただ学問を勤めて物事をよく知るものは貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となる。
(「学問のすすめ」福沢諭吉)
演題:「好きこそものの上手なれ;Tell it like it is !」
講師:門之園一明(横浜市立大学医学部視覚再生外科学教室)
【講演要約】
“学問のすすめ”は、安藤先生の主催するいくつかの講演会シリーズの中でも、熱く人生を語るコーナーとして有名で、これまで私自身も感銘を受けたことのある異次元の講演会と認識しています。そこで、まだ道半ばの私が依頼を受けた理由を考えてみました。それは、僕自身の特異性にあるのだと解釈しています。医学会の東大を頂点とする学閥の壁をようやくと乗り越えて、一公立大学医学部出身の僕が彼ら旧帝大出身者と同じようにアカデミアで肩を並べている姿が特殊なのでしょう。
僕の専門は硝子体手術です。日本人眼科医の場合、フェローシステムがないので誰であれサブスペシャリテイ―を語るのは自由であり、仮に僕がぶどう膜ですと言っても誰も信じる人はいないでしょうが、よい訳です。ただ、1996年から硝子体手術を本格的に開始して年間数百の手術を20年以上にわたり休まずに維持し、大学の教官特に、教授職を拝命している以上は、たぶん本格的な硝子体手術の専門と一般に言って良いのでしょう。
僕は、1988年に横浜市大医学部を卒業して脳外科に入れて頂きましたが、あまりの徒弟制度と極め付けはクリスマスをICUで2年連続で迎え、さらに正月も病棟で迎えることになった段階で、顕微鏡手術が出来て、かつ、できるだけ脳に近い網膜に転向する決意をしました。当時の網膜は実に、これまた大変な時代でした。なにしろ、網膜剥離がなかなか治らないのです。当時、網膜剥離手術の大家、京大の塚原教授の述べたとされる“触っただけで7割治る”という言葉が有名でしたが、実にその3割が治らなくて本当に困った時代でした。そのような情報の少ない時代に良くあるのが、権威主義です。とにかく、網膜は極めて神聖な領域であり、少なくともそれを専門とする大学の門下生であることが広く網膜人として認知されるための必要条件でした。
目の前の失明してゆく患者、何度も繰り返し剥離の手術を受け続ける若い患者を前にして、医局制度のガチガチの時代にどうにかして、網膜専門の医局に異動したいと何度も当時の教授に談判したが到底不可能でした。大阪大学、杏林大学、京都大学、東邦大学、以外は当時は硝子体手術を標榜することは難く、田野教授、樋田教授、荻野先生、竹内教授は僕ら世代のスターであり、ある種のロールモデルでもありました。そのような大学を出ていないと網膜の専門と認識されないなんて、僕にはどうにも腑に落ちませんでした。
だから、僕はロールモデルに直接会い行き、勝手に自分の師匠にしました。師匠は初めから決っているものではなく、探すものであり、自分が先生であると決めた人が先生であって、気づいた時に目の前にいた人ではないと思っています。
硝子体手術の創始者のMachemerの有名な言葉に、“Do not do unconventionalways”
というのがあります。田野先生も、”同じことしても、面白くないでー“と同じようなことを良く言っていました。僕は確かに硝子体手術が好きだったので、良く手術中に眼球という小さな空間に自分自身が小人になってあちらこちらを動き回っているような錯覚とらわれることがありました。そうした時間はあふれ出る創造性の中にあり、手術をしながらいくつもの構想や疑問が浮かんで来るもので、解剖学教室に出入りしていたある日、手術中に浮かんだ内境界膜の染色のアイデアを基礎実験で確認してすごい勢いで論文にしました。ネットのない時代なので2回のリバイスの後、毎日郵便箱にArchivesから受理の返事が来ないかと待ち望んでいました。
こうした発見を一流誌の論文にする作業はとても大切であり、ある時、”Publish
orperish”という言葉を鉛筆書きで僕の原稿の余白に、大野教授はメモをしてくれました。また、International
societyへの無料チケットという大きなチャンスを学閥を超えてくれた田野先生の先見性も神さまからの贈り物の一つであり、いつも大切にしています。
医学、網膜、硝子体手術、これらはすべて創造的産物です。およそ世の中で正規的なものはありません。創造的な作業により事実はいつもあたらしく塗り替えられます。創造は最も重要な行為であり、Vitrectomyは、創造的産物の代表です。そして、それを論文にしてその時代の科学的事実とする。創造そして記載、この行為が実に崇高なものであり、人々を興奮させる行為であることを、僕が勝手に選んだロールモデルから学びました。これらはお金で買うことのできない掛け替えのないものであり、これからの時代の若い世代の眼科医には、自分の努力で、創造と記載の楽しみを味わって欲しいと思います。
高所を目指さなくとも、小さなことで良いから発見を通して学問に貢献することは、勿論、患者さんの為ではありますが、同時に成長してゆく自分自身の為でもあります。ロールモデルを持ちそこから学ぶことで、人は成長します。少なくとも僕の特異性はそれで説明されます。
【略 歴】門之園一明
1988年 横浜市立大学医学部卒業
2000年 横浜市立大学眼科講師
2007年 横浜市立大学附属市民総合医療センター眼科教授
2014年 横浜市立大学医学部視覚再生外科学講座教授
「学問のすすめ」第10回講演会 済生会新潟第二病院眼科
演題:「医療における心」
講師:出田秀尚(出田眼科病院名誉院長)
【講演要約】
T.技と心
医療に限らずあらゆる職業において大切なことは、車の両輪としての技と心である。私は、44歳の時から11年間、網膜剥離手術図説を専門誌「眼科」にシリーズとして毎月連載し、これを一冊にまとめた技術編を「図説網膜硝子体手術」として1993年に金原出版社から発行することが出来た。その後、車輪のもう一方である心の問題を取り上げ、「網膜硝子体手術メンタル編」として同じ「眼科」に連載し続けた。56歳から75歳までの20年間で142編となったので、2014年に「医者どんの言志録」として金原出版社より発行出来た
。
技術については理論的に説明できるので書いて伝え易いが、心の方はこれが難しい。以下に、医療における心について掘り下げて考えてみたい。
U.医の倫理と心
医における倫理は医師の心得を,言葉で定めたものである。その歴史はギリシャ時代の、ヒポクラテスの誓いに始まる。近世になってドイツのフーヘランドが「医学必携」を1836年に出版し、杉田成卿により江戸時代に「医戒」として我が国に紹介された。その中には医師の使命として、病者に対する戒め,世間との関わり,同業医師との関係,の三つについてが述べられている。
第二次世界大戦後になって患者の自立尊重の考えが取り入れられ、ついで資本主義制度の中で利益と負担を医療従事者と患者で公平に分担するという、正義原則が持ち込まれるようになった。更に現代では科学の発達に伴って再生医療など生命に関する倫理が介入してきた。
日本医師会では昭和26年に「医師の倫理」が制定され、ついで平成16年に「医師の職業倫理指針」が作成された。日本眼科医会でも倫理委員会設置の声が上がり、5年後の平成24年に「日本眼科医会倫理綱領及び倫理規定」が制定された。倫理綱領は、医師の望ましい心得7項目が示されている。倫理規定は行動の細目にわたってその規準が示されている。
V.心と感性
倫理の深層には、その人の持てる独自の心,もしくは感性或いは性質とも云われる部分が存在し、これを規定として定めることは出来ない。この部分は、眼前の事象をどのように捉えて反応するかということで、これは各人固有の想像力に基づいている。
フランスの近世哲学者バシュラールは、想像力を形式的と物質的の二つに分けている。形式的は体験したことを想像する力、物質的は未経験のことを想像する力で、後者は物を創造する力を有しているので創造的想像力とも呼んでいる。医師ばかりではなく、人が生きていく上で力を発揮するのはこの部分である。
W.感性を醸成する
バシュラールは物質的想像力を醸成する力は、自然の四大元素,地水火風にあるという。この考えは日本の文化の中では、太古の時代からあったものと私は考える。修験者は自然の中で命を懸けた荒修行を行い、それにより創造的な力が得られることを知っていたものと思う。
私が50年以上関わっている武田流流鏑馬は、神話の時代以来皇室に伝わっていた精神を1500年程前に欽明天皇が形で表現した皇室の神事であった。武田流はその後300年程経って武家に継承された流派で、これが熊本に伝わっている。最初に行う天長地久式では、天地人を射る仕草で、過去と未来という悠久の宇宙の流れの中に生きる自分を見よと教えており、天照大神の心とされている。これは
神話の時代もしくは縄文以来の日本人の心であった、いわば人の倫理綱領に相当するものであろうと考えられる。
X.感性を磨く
引き続き行う騎射では三つの的を走る馬上から次々と射て行き、これは五穀豊穣・天下泰平・万民息災の三つを成就するための祈願である。五穀豊穣は豊作を得るための勤勉・忍耐・努力・奉仕・畏敬・感謝・質素などを意味し,天下泰平は戦争をしないための和・尊敬・謙虚・勇気・誠実・正直・恥・秩序・友愛など,万民息災は、同情・共感・協力・激励などを含んでいると解釈する。
騎射は、神武天皇の建国の精神として伝えられており、いわば弥生時代に形成された社会倫理の規範として捉えることが出来る。これらの精神は、日本の様々の文化に形を変え、これを通して日本人独特の感性が磨かれてきたものと考えている。
Y.人は智と情の間を生きる
医療に技と心があるように、人生には智と情がある。理屈に偏りすぎると窮屈になり、情に棹をさせば流されると漱石は云う。そう云いながら人間は物と心に挟まれて生きるのが普遍だと、村上春樹はその作品から云っている。孔子は人が豊かに生きるためには、道・徳・仁と共に芸を上げている。医師は科学や理論に頼りがちなので芸術が必要だ。智と情の間を揺れながら生きていても人は生命が終わり、道元が遺偈(ゆいげ)に云うように「黄泉に陥落」、大自然に帰るのであり、そこに理屈は存在しなくなる。
Z.自然に触れる旅
眼科医として半世紀、失明と闘ってきたが、どうしても治すことが出来ず失明に至る人が居る。そのような人に必要なのは、自ら生きていくための創造的な力である。
人生の終わりに近い人には、自然に帰る準備が必要だ。私自身も含め、そのような人達と、阿蘇や天草を訪れる日帰り旅行、「自然に触れる旅」を4年前から始めた。自然の四大元素に触れ、自らの感性を高め、ゆっくりと自然に帰る準備のためである。
【プロフィール】出田 秀尚(いでた ひでなを)
1963年 熊本大学医学部卒業
1968年 熊本大学大学院修了(眼科),医学博士
1969〜1971年 ニューヨーク市立大学,ニューヨーク医科大学眼科研究員
1972〜1974年 ハーバード大学マサチューセッツ眼耳鼻科病院にて眼科臨床網膜フェロー
1974年 熊本大学眼科講師
1977年 文部省在外研究員
1979年 出田眼科病院々長
2009年 出田眼科病院名誉院長
平成28年1月13日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第239回(16‐01月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「パラドックス的人生」
講師:上林明(新潟市)
【講演要約】
私は昭和19年(1943年)に、今の山形県鶴岡市の個数僅か48軒の小さな漁村に視覚障害をもって生まれた。親は、生後1か月を待たずに新潟大学病院眼科まで出かけ、熊谷教授に治療を嘆願したそうだが、当時は病名すら理解していなかった(注;先天性上眼瞼欠損症)。
昭和24年(1949年)9月、集落の9割を嘗め尽くした大火災が起こった。真夜中なのに真昼のような明るさの炎、逃げ惑う人々の狂気の叫びと、持ち出した家財の投下。漁村なるが故の船舶用燃料用ドラム缶の破裂による大音響と空高く燃え上がる火柱と炎熱地獄。5歳にして命の危機を体験した。
火事は、それはそれは恐ろしかったが、本当の苦しみはその日以降から始まった。
復興をめぐって、陰湿で封建制と差別に満ちた障碍者を理由とした不当不公平な差別と嫌がらせを受けた。宅地の配分でも、村を不幸に陥れる片端もの(しょうがいしゃ)には人と人並みの土地はやれないとの仕打ちを受けた。
母は連日のように「私がお前のような障害時を生まなかったなら、こんな不幸には遭わなかった」と5歳の私に向かってなげき、時には号泣していた。そんなことを何回も聞いているうちに、「死のう」と思って、夜中にこっそり家を出て海に入り沖に向かって歩いた。そこに、祖父が海にいる私を見つけて海に飛び込み、「馬鹿野郎」と言ってぶん殴り、そして抱きかかえてくれた。5歳ではあったが、私の家族と私に襲い掛かってくる数々の難問と差別に押し潰されそうな人生の始まりであった。
祖父は懸命に私を諭してくれた。「負けるな、一つ頭抜けた人間となって見返してやれ」と。この被災が、それからの私の生き方に大きな示唆と生きる力を与えてくれたと思っている。
教育が大事だという祖父の勧めもあり、当時にしては珍しく、学齢6歳にして鶴岡の盲学校・その寄宿舎に入った。小学・中学を終え、昭和35年(1960年)新潟盲学校高等部に入学。山形の本校を選ばず新潟を選んだ理由は新大医学部から講師が派遣され理療科を学ぶことができたから。とはいえ、私は勉強する・努力すると言ったことが身に沿わない人間だったようだ。閉鎖的な東北から比較的開放的な新潟へ来て、勉学に励んだのではなく、当時吹き荒れていた60年安保闘争に、障碍者に対する差別偏見と闘うと叫びつつ、どんどん身を委ねて行ったのだった。校内でも、討論集会や学習会を組織し、将来の障碍者としての生き方、古い体質のマッサージ・はり・灸業界と労働条件の改善を話し合う。
卒業後もそれらの命題を掲げて新しい障碍者運動団体を作り、運動を進めた。生来の音楽好きと、こうした運動とのかかわりから外の合唱団や歌声運動に加わり、校内にも広め、さらにたくさんの晴眼者や団体との連帯が進んだ。障碍者の団結も大事だが、周りの一般社会人との交流連帯によって得たものは大きかったと思う。その結実は、現在「新潟県視覚障碍者友好協議会」として、また「男声合唱団どんぐり」として残り、大きく発展している。
昭和50年(1975年)私なりに一つのけじめをつけ、次のステップに進むこととなった。職業としての新潟県はり・灸・マッサージ業界の理事・理事長として会館建設と健保取扱いの向上、かつての運動当時に培った新潟水俣病現地診療で得た知識と人のつながりを生かして、この施術の開発と公助制度の確立にまい進。テレビ番組によるこれら施術の普及を進めるために準レギュラーとして出演。また、乞われて福祉医療専門学校非常勤講師として教壇にも立った。むしろ学生から学ぶところは大きかった。
それらとともに有線やインターネットを通じて開始されたJBS日本福祉放送の番組制作を13年間務めた。そうした中で、「司会者協会」に参加してイベントや舞台の司会業も側として行ない、多数の歌手のコンサート司会も担当した。
詩吟神風流に入門し42年目となり、現在は会長として教室を県内数か所に開設し、地域の生きがいづくりに貢献を図っている。市・県の連盟理事・コンクール審査員。視覚障碍者「あいゆー山の会」に参加し、県内の里山や富士山・立山などに山行。晴眼のパートナーを信じ連帯を尊重しつつ上り行く山は、肉体のみならず精神を鍛えてくれると思う。中越地震被害者救援施術を主催したが、この折にも山の仲間は人と物資輸送・受付などを手助けしてくれ、人間としての連帯感を強く感じることができた。
多分、私が晴眼者で生まれたら、当時の世相から親の跡を継ぎ漁民か船員に終わったかと思われる。目が見えず、差別偏見を受けなかったらこの愉快な人生は得られなかったと思う。今日の境遇や多数の人との愛に満ちた連帯に感謝し、残る人生も多数の社会と人と手を携え楽しく愉快な余生を過ごしたいものである。
【略 歴】
1944年 山形県西田川郡加茂町(現鶴岡市)の小さな漁業集落に、視力障害をもって生まれる。
1951年 山形県立鶴岡盲学校小学部入学。
1960年 新潟県立盲学校高等部入学
1963年 按摩・マッサージ・指圧師免許取得
1965年 新潟県立盲学校卒業。鍼師・灸師免許取得。
同年 柏崎市の植木治療院勤務。
1967年 新潟市山ノ下地区(現在地)に「上林鍼灸マッサージ治療院」開業(2014年閉院)。
1969年 結婚。2児を育て現在それぞれ独立。
1975年 詩吟神風流に入門。現在詩吟神風流越水会会長。雅号「神天」。
県・市吟詠連盟理事。全吟連新潟県コンクール審査員。
1994年より2年間(社)新潟県鍼灸マッサージ師会理事長。
視覚障碍者山の会「新潟あいゆー山の会」会員。
【後記】
上林さんの壮大な人生を語って頂きました。5歳の時の大火、その後の差別という試練。祖父の励ましと、見返してやるという覚悟。障碍者に対する差別と闘った青年時代。仕事に邁進しながらも新潟県はり・灸・マッサージ業界のリーダーとしての活躍、そしてJBS日本福祉放送の番組制作と司会者としての活躍した壮年時代。詩吟と山の会で活躍中の現在、、、、、。 目が不自由だったからこそのいい人生を送ってこれたという最後の言葉に心打たれました。
上林さんは、非常に明るく人望があります。幾度の苦難も明るく乗り越えてきた上林さんの、益々の活躍を祈念しております。
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