済生会勉強会の報告 2015
平成27年12月2日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第238回(15‐12月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「フィンゲルの仲間と取り組んだ出前授業
〜工夫を重ねて子供たちの心をキャッチ〜」
講師:田中正四 (胎内市)
【講演要約】
私の所属する(新発田音声パソコン フィンゲル)は、1996年に寄贈された1台のデスクトップパソコンと五名の視覚障がい者と五名のボランティアスタッフにより音声ワープロ教室としてスタートした。
翌年には、市内のサマーキャンプ・フェスティバルに参加し、障がい者理解の浸透を目的に学校訪問を精力的に取り組み、同年には、市内の商業高校の文化祭にて、音声パソコンによるデモ実演を成功させるに至った。以来、今日まで地域の小・中学校を主とした学校訪問を(出前授業)と称して継続してきたが、歴史の長さと共に近年では諸問題に直面する事となった。
今回私の報告は、その歴史と先輩諸氏の努力により築き上げた(出前授業)の変化と、地域独特の活動の困難を乗り越え、さらには、ボランティアスタッフの減少の中で、障がい者自から取り組んだ数々の工夫と改革の一例を紹介するものである。
その改革は、2012年に永年私達のスタッフとして指導や運営を担っていただいたスタッフの退会により、(出前授業)の依頼の日程調整から、授業内容の決定、メンバーの構成と時間配分にいたるまで、私達障がい者の手で立案し、実践する事となったのである。
(出前授業)では、視覚障害の解説や、日常生活の様子、白杖や盲導犬の有効性などが主な内容であるが、小、中学校の子供たちに障害の理解と工夫や努力を伝えるためには、作文を読むような内容では、理解されない。回数を重ね、反省と改善により、毎回の(出前授業)では、アイディアいっぱいの説明が聞かれるようになった。
私は会社務め時代に学び得た(計画・実行・確認・改善)のサイクルを繰り返す事の重要性を再認識させられた。そんな仲間達の改善例を紹介したい。
その1)子供達を集中させるために、ゲームやクイズで声を出させ、体を動かして、やわらかな雰囲気を作る。しかし、このゲームやクイズは、答えの中に視覚障害に対する思いや声かけの必要性、又、覚えてほしい事などを織り込むのである。
その2)家庭生活の様子では、いかに上手に料理ができるかの説明だけではなく、(少しくらい大きさが異なっていても、口の中に入れれば、おんなじ食べ物ヨ。)と、障害であるために時には、寛容な考え方もしなくてはならない事を理解させる。
その3)音声パソコンを指導する仲間は、あえて画面をクローズし、音声を聞いて文字を聴きとらせ、簡単な文章を完成させる。必ず2〜3人のグループで構成し、数回の予習復讐ができるように工夫を加える。
その4)白杖、盲導犬の解説では、その有効性に加え、思わぬ危険性やお願い事項を織り込んで説明する。例えば、白杖での歩行時のヒヤリ体験や(盲導犬は、信号の色が判断できない)などと、安全確保の重要性や意外な事などを紹介するのである。
その5)視覚障害の説明では、小学校の高学年や中学生には、統計的数字を加えた説明を行い、印象深い説明を心がける事ができた。
さらに、今年から取り組んだ事として、障害経験の浅い会員にも(出前授業)に参加していただいた。経験の浅い人の苦労話や、失敗談が子供たちに視覚障害をより理解して貰えると考えたのである。もちろん、本人と家族の了解のもと同意を得て、奥様にも同席していただいた。(階段で転倒した事・食事のおかずを全てご飯に乗せてドンブリ飯にした)と失敗や食事の楽しみを失った事を説明し、奥様からは、(階段を腕を組み、数えながら一緒に上った。仕切りのある食器を用意して、時計方向におかずを説明した。)などと家族の工夫を話していただき、私達も初心に帰った思いであったし、子供たちには当事者と、家族や周囲の協力、そして、本人の努力が重要である事を教える事が出来たと考える。
現在、次年度の目標も検討中である。現在ブラインド体験や、誘導歩行の説明を晴眼者にお願いしているが、説明解説を私達自身で実践したい。又ブラインド折り紙などにより、その困難性やカン・コツをポイントで説明できないもか検討中である。さらには、盲導犬のスーツ・ハーネス等の意味や必要性、加えて補助犬法についても解りやすい解説ができたらと考えている。
フィンゲルの(出前授業)のカリキュラムは多種であるが、学校や地域の求めに応じてさらに可変的に対応したいものである。今回の私の報告内容は、決してめずらしいものではないが、参加していただいた方や、読んでいただいた皆様の参考になればと願うものです。
【略 歴】
1952年 長岡市(旧越路町)生まれ
1968年 日立制作所入所
2003年 腎不全により透析開始
2007年 視覚障害1級
2007年 日立製作所退社
2010年 盲導犬貸与される
【後 記】
盲導犬が5頭参加しての勉強会。何よりも、田中さんお話を聞いている時の参加者の楽しそうな笑顔が印象的でした。
いつも田中さんは、つかみが上手い。今回の講演はこんな小噺から始まりました。「以前、初孫が大きくなったらおじいちゃんの眼を治してあげると言っていたが、今は断念したようだ。そのかわり二人目の孫が、将来は消防士になりたいと言い出した。「消防士になるなら、イッパイ勉強しないといけないよ」と言ったら、『消防士になれなかったら医者になる』と言っています。」
今回のお話で、障がい者理解の浸透を目的に学校訪問を、自ら工夫を重ねて精力的に取り組んでおられていることを知りました。素晴らしい活動です。応援していきたいと思います。
平成27年11月11日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第237回(15‐11月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「臨床からの学び・発展・創造・実現」
講師:郷家和子(帝京大学)
【講演要約】
1.視覚欠陥学講座との出逢い
学部3年生からの専門課程には教育哲学・行政学・社会学・心理学の4学科があり、その中の心理学科心身欠陥学視覚欠陥学講座を選択した。その理由は、1963年作家の水上勉氏が重複障害児への療育サービスを求めた「拝啓池田総理大臣殿」という公開状(中央公論6月号)や島田療育園を見学した兄の話からの影響、さらに進路選択での視覚欠陥学講座の小柳恭治助教授の助言等であった。
2.東北大学教授時代の原田政美先生
原田先生は、1965年に東京大学医学部附属病院から視覚欠陥学講座の教授として赴任された。赴任以前から眼科のリハビリテーションに関心を示され、すでに弱視レンズの開発・普及に取り組まれていたし、大学においても小柳助教授とともに東北大式盲人用レーズライタを考案された(1967年東北大学教育学部研究年報:「盲人用レーズライタの試作とその性能に関する実験」)。
先生からは眼科に関する医学的な基礎知識や種々の検査技術、アメリカでの晴眼児と視覚障害児の統合教育についての演習、宮城県内の視覚障害者判定業務である巡回相談に同行し現場での診療や相談のあり方に関する臨床学習も体験させていただいた。先生は常に物事を考える際に「Neues(新しいこと) は何か。」、また「それは視覚障害者・児に役立つ実践的な有効な方法および補助具になり得るのか。」を検証するよう求められた。
なお、先生は大学を3年勤められた後、美濃部都政2年目の1968年に民政局技監として心身障害者福祉センターの初代所長職に就かれ、リハビリテーションの分野に身を置かれることになった。
3.東京都心身障害者福祉センターの職務内容
当時センターは1)障害者更生相談所業務、2)リハビリテーション業務、3)地域支援業務、4)開発業務等を職務とする全国でも最先端の施設であった。開発業務で生まれたロービジョン者向けの視覚補助具には、拡大読書器と遮光眼鏡がある。拡大読書器は1971年に視覚障害科科長村中義夫氏と株式会社ミカミとの共同開発により製品化され、1993年に日常生活用具に指定された。遮光眼鏡は1989年にレンズメーカー・ホヤと共同開発し、1992年に補装具として認定された。
4.センターでの訓練・支援業務
私が係わった訓練および支援業務で特に印象深い8事業を年代順に紹介したい。
1)視覚障害者電話交換手養成訓練(1971年)
視覚障害女性の経済的自立を目的とした職業訓練の電話交換手養成に携わるために1ヶ月間電話交換手養成機関で学び資格を取得した後、センターの電話交換機保守点検担当電話局から交換機2機の寄贈を受け訓練環境を整備した。視覚障害者の着信ランプ確認速度を高めるために感光器(ライトプルーブ)をセンター内併設財団法人心身障害者職能開発センターとの協力により開発した。
電話交換手は当時視覚障害者の新職業として関心がもたれ、訓練を受けるために都内に住所を移動する方々が少なくなかった。1960年に身体障害者雇用促進法は制定されていたが、弱視者の就職に比して全盲者は困難であった。
この養成訓練は一定の成果を得たことにより、開始2年後に上記の併設心身障害者職能開発センターに業務移管され、視覚障害科での養成訓練事業は終了した。
2)盲人用読書器オプタコンによる指導(1974年)
オプタコンは1971年にアメリカで開発され、1974年に日本に導入された。この器機は紙面上の文字を小型カメラで捉え、その文字の形を人差し指の指先位の大きさの触知盤に表示されるピンの振動パターンに変換して呈示するもので、視覚障害者が普通の文字をそのまま読めるという画期的な器械であった。文字ではなく世界初の楽譜読みの指導法を開発したことは、私にとって大きな誇りとなっている。
オプタコンは視覚障害者の職域拡大や中途失明者の現職継続を可能にし、かつ現在でも種々の場面で使用され続けているものの、技術の進歩により音声パソコン使用へと大きく変遷した。
3)視覚障害者の司法試験受験時間延長への支援(1978年)
司法試験管理委員会宛に強度の弱視者2名の受験に際して拡大読書器・弱視眼鏡の持ち込みと受験時間延長の必要性について、実証研究の結果を受験者の要望書に添えて提出した。2名は補助具の持ち込み及び試験時間の1.5倍延長が認められた。
これ以降、大学入試や公務員試験等でも補助具持ち込みの弱視者に対する試験時間延長が一般化し、試験の延長時間は全盲1.5倍、弱視1.33倍とされた。
4)網膜色素変性症者支援(1988年)
センター来所の網膜色素変性症者への精神的な支援が必要との判断から、障害福祉サービスの情報提供とグループ別懇談をセットにした懇談会を9年間毎年3回実施した。より充実した懇談会発展のために10回のピアカウンセラー養成講習会を開催し、個別支援援助の手法学習会も設定した。
事業終了後は、センター方式のピア懇談会や種々の自助グループ設立へと継続され、活動を続けている。
5)「視覚障害理解」の出前講習会(1995年)
講習会は3年間にわたって、希望病院の医療従事者を対象に業務終了後出張して実施した。身体障害者手帳取得後の福祉サービス、病院内誘導法、視覚補助具やADL関係の便利グッズの紹介等を行った。看護師が失明した入院患者さんに持参した用具を試用し、見えなくてもできることがあると新たな生活の再構築を目指す生活訓練施設入所まで発展した事例もあった。
6)指定医講習会開催(2003年)
指定医に補装具取り扱い改正等に関する情報提供の必要性があると考え、指定医を対象とした定期的な講習会開催を提案した。以来センター主催で身体障害者指定医講習会が毎年実施され、併せて身体障害者手帳診断書作成の手引き書が指定医に配布されることとなった。
7)補装具遮光眼鏡給付対象者の要件改正(2010年)
補装具遮光眼鏡の適用範囲は、1991年網膜色素変性症に限定、2005年に網膜色素変性、白子症、先天無虹彩、錐体杆体ジストロフィーに拡大されたが、遮光眼鏡が他の眼疾患にも効用ありとの論文が多数発表された。2006年に日本ロービジョン学会内に岡山大学守本典子眼科医と大阪医科大学眼科中村桂子視能訓練士と私の三人で補装具遮光眼鏡検討委員会を立ち上げ疾患名廃止への検討を重ね、その後厚生労働省に補装具遮光眼鏡検討委員会7名の名で4疾患以外への適用要望書を提出した。厚生労働省との膨大な量の交信を3年余行い、2010年3月31日に厚生労働省から疾患名の廃止という一部改正の通知が発出された。
8)教材・教具・指導書等刊行物
所属部署では視覚障害児者のさまざまな指導訓練に関する専門技術の確立と体系化の成果を技術書として刊行した。福祉保健局長賞受賞刊行物には、1991年「弱視レンズの選択と指導」、1994年「ガイドヘルパーの技術書」、2005年「身体障害者福祉法・知的障害者福祉法実務手引き書」がある。
5.まとめ
私は原田先生ご在職中のセンター、まさにリハビリテーション業務の最盛期に在職したことで、利用者の方々から多くを学び同僚と議論しあいスーパーバイザーから指導を受け、常に新しいことに挑戦し続けられたという幸運に恵まれた。臨床で提示された課題から解決に向けてこれまでにはなかった発想から指導法を考案し実現できたときには、役に立てたという安堵感とともに次の仕事への活力を得ることができた。
本年ノーベル医学・生理学賞を受賞された大村智(さとし)氏が「研究は研究のためにやるのではなくて、人に役立つ、人のための研究をすることが大事」と言われたが、まさに原田先生からの教えを聞く思いであった。
現在視能訓練士を目指す学生たちの教育に携わっているが、患者さん一人ひとりのために何をすべきかを考え実践できる精神を持ち続けられる学生を育成するためにも、私自身もさらに研鑽・努力していきたい。
【略 歴】
1971年 東北大学大学院教育学研究科修士課程修了
1971年 東京都入都(心身障害者福祉センター)
1973年 ドイツ Bethel(重度障害者施設)研修
2004年 東京都身体障害者福祉司
2009年 帝京大学医療技術学部視能矯正学科講師
2013年 日本ロービジョン学会理事
2014年 帝京大学医療技術学部視能矯正学科非常勤講師
現在にいたる。
【後 記】
素晴らしい講演でした。今回郷家先生に講演を依頼したのには目的がありました。
東北大学教育学部に存在した「視覚欠陥学講座」は、日本で一番最初にできた視覚リハビリテーションを研究する講座です。その初代教授の原田政美先生は、東大眼科の萩原朗教授門下で斜視弱視を研究していた眼科医。萩原教授の退官と共に、東北大学教育学部の教授に就任しています。そこで行ったことは、視覚障害者のためのリハビリテーション。
私が知る限り、我が国の国立大学でこの分野では草分けです。神経眼科で有名な桑島 治三郎先生も東北大学教育学部視覚欠陥学講座の教授です。一流の眼科医が視覚リハビリの研究をしていたことに感嘆しました。
今、原田政美先生を知る人は少なくなりました。そこで東北大学での愛弟子であり、東京都心身障害者センターでも一緒に仕事をなされた郷家先生に、原田政美先生、東北大学教育学部視覚欠陥学講座のことをお話し下さるようにお願いしました。
郷家先生は、このような無理なお願いにもかかわらず、丁寧に欠陥学講座のこと、原田先生のことをお話しして下さり、そしてご自身が関わってきた視覚障害リハビリのお仕事をお話しして下さいました。実は、この部分がとても魅力的でした。
アッという間の50分でした。常に患者さんの一人一人のためを思い続けて研究してきたこと、新しいものを求め続けたこと、大いにインスパイア―されました。
郷家和子先生の益々のご発展を祈念致します。
平成27年10月14日の勉強会 目の愛護デー記念講演会 2015】の報告
安藤@済生会新潟です。
第236回(15‐10月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:眼を見つめて50年ー素晴らしい眼科学の進歩と医療現場における問題を顧みる
講師:藤井 青(ふじい眼科)
【講演要約】
演者が眼科医となって約50年になるが、この間の眼科学の進歩には誠に目覚ましいものがあった。医療現場にも新しい検査法、検査機器が導入され、多くの疾患概念が塗り替えられた。当然のことながら治療法も変わった。処置や手術法も日進月歩の変遷で、眼科医療は所謂「レッドアイクリニック」から「ホワイトアイクリニック」へと一変した。しかし、この素晴らしい医学の進歩が現実の医療に本当に生かされているのか? 過去を顧みながら日常的な問題について、いくつか振り返ってみた。
今回の研究会の参会者は眼科医療従事者でなく一般の方だったので、まず現在の眼科医療の実態を過去と比較しながら説明、その後、医療現場でよく遭遇する眼科医療の問題について検討した。徒然なるままに、さまざまな話に脱線しながらの講演であったが、日常的に経験する点眼薬治療における問題点を中心に以下に要約する。
薬剤が病巣部に効率良く到達し、関係のない組織には行かないというのが薬物療法のポイントである。全身投与では薬剤は主に血液を介して病巣部へ運ばれるが、全身への副作用が懸念されるだけでなく、眼内には血液に対するいくつかの関門があるので効率が悪い。眼疾患では点眼が薬物療法の基本となる。50年前には想像できなかったほど多くの点眼薬が開発され、様々な病変に対応できるようになった。しかし、実際に適切に使用され、治療効果が得られているのであろうか?という疑問がある。
1)処方した点眼薬の使用量(残薬)のチェックが必要!
結膜嚢の中に入る液量はたかだか30?。点眼瓶の形状や材質にもよるが、ここからの1滴は約50?とされるので、点眼量は1滴で十分ということになる。
点眼液量を増やしても眼外へあふれ出るか、涙液と同様に、瞬目によって涙点から涙嚢、鼻涙管、鼻腔へと排出されてしまう。点眼量を増やしても効果が期待できないだけでなく、鼻腔などからの吸収による全身への副作用が強まる危険がある。点眼薬がすぐなくなるという人にはきちんと点眼方法を指導する必要がある。一方、残量の多い人も少なくない。点眼忘れもあるが、極端に結膜嚢に近づけて点眼するために、一度結膜嚢に入った薬液を点眼瓶のスポイト作用で再吸引して、薬剤が汚染されている場合があるので注意したい。
処方後の経過日数からして残薬があるとは思えないのに薬が無くなりそうで再来したという人もいる。少なくとも開封して1ヵ月以上経過した点眼薬は捨てるように指導したい。
2)点眼薬の性質、効能効果と副作用の観点から点眼方法を再考する!
@薬剤ごとに異なる点眼回数
点眼薬の濃度は、一般に眼内の最高濃度が最少有効濃度の5〜6倍程度になるように設定されているが、最少有効濃度までに低下する時間は、薬剤と作用すべき眼組織によってそれぞれ異なる。そのため1日の点眼回数は薬剤ごとに異なっている。1日2回しか点眼できない事情のある人には、1日4回用の薬を2回点眼するよりは1日2回点眼でよい薬剤を選択すべきである。
アドヒアランスの問題もあり、点眼回数の少い薬が増加、配合剤の開発も進んでいることは喜ばしいことではあるが、点眼回数の少ない薬の中には水に溶けにくく吸収されにくいものがあるので、他剤との点眼間隔や順序に対する配慮が必要である。
A多剤点眼の場合の点眼順序
水溶性点眼薬同士であれば、より効果を期待したい薬を最後に点眼する。水溶性点眼薬と懸濁性点眼液であれば水溶性を先に点眼する。懸濁性点眼液やゲル化する点眼液は最後に点眼する。
B点眼後両閉瞼、涙嚢部圧迫、2剤以上点眼では5分間隔を間けるという方法が本当にベストか?
点眼薬が2種類、時に3種類以上処方されることがある。点眼直後にかなりの量の薬が涙嚢に吸い込まれ、さらに点眼の刺激で涙が出て結膜嚢内の薬物濃度は急激に薄まる。点眼直後に50%程度に減少するが3分後でも?%程度は残っているといわれている。結膜嚢内に未だ残っている薬剤を次の点眼薬で洗い出さないために5分位間隔を開ける必要がある。
全身への副作用の懸念される点眼薬では、薬の効果を高め、副作用を減らすためには、薬が涙嚢に吸い込まれないように工夫する必要がある。これには点眼直後に両眼を閉瞼し、眼と鼻の間の涙嚢の上を指で押さえる方法が推奨されている。演者もβ遮断点眼薬の全身性副作用の回避のため、この方法を追試したことがある。そして、この方法の有効性は確認できたが、同時に、患者自身に行ってもらった経験では、涙嚢部が正確に同定できないために指の動きで涙嚢にポンプ作用が起こり逆効果となるという不確実性も体験している(s遮断剤チモプトール点眼の全身への影響と対策 特に点眼方法について,眼臨,1198ー1201,1984)。現在、演者自身は両眼の閉瞼のみを指示している。
3)緑内障の点眼薬治療における問題点
・リズモン TG、チモプトールXE、ミケランLA、エイゾプトなど、水に溶けにくく吸収されにくい薬剤の点眼の留意事項は前項で述べた通りであるが、通常は単剤投与されるので問題ない。
・点眼方法に於ける一般的留意点も前項で述べた通りである。
・問題点は、現在第一選択として評価されているプロスタグランジン関連製剤の点眼方法である。
特に調剤薬局(特にまじめなスタッフの多い薬局)における点眼指導が時に問題になる。眼圧下降の得られない患者にどのように点眼しているか聞き直すと、点眼後まもなく風呂に入り顔を洗っているという人が結構いる。薬局などでかなり強調して説明を受けている例もあるようである。青い目で肌も白い人種と違って日本人ではさほど強調すべき副作用であろうか? 治療の目的を理解して本末転倒にならないような説明を期待したい。
一方、本剤の無効例があることが知られているためか簡単に他系列の薬剤に切り替えられことも少なくない。しかし、緑内障の治療は一生続く治療である。有力な治療薬を簡単に無効として切り捨ててよいものであろうか? もしかしたら点眼方法が不適切であったということはないか? 再検討する必要を強調したい。
4)薬の名前がわからない(・・・色の薬がほしい)
・患者さんにとって薬の名前を正確に記憶することは至難なことではないか? 一番多いのが青色の薬 が無くなったというような色による情報だが、瓶の色であったり袋の色であったり、キャップの色で あったり、掴みどころがない。我々としては一日4回点眼の薬? 2回の薬? などの質問で絞ってさらに写真や実物を見せて確認するしかないが、後発薬品が際限なく増加するとお手上げになる。
5)後発医薬品とはなにか?
日本の眼科医療における問題点・日本の後発薬品と欧米のジェネリック医薬品とは異質なものである。欧米のジェネリックは主成分だけでなく添加物なども先発薬剤と全く同じものだが、日本は主成分が同じであれば同じ薬と認めているものである。
・前述した緑内障治療薬の原点ともいえるプロスタグランジン(商品名:キサラタン)を例示する。日本緑内障学会の調査結果では後発薬品が23種類もあった。国の方針にそって今後更に後発薬品の増加が予測されるが、名前も異なれば容器(色)も全く異なる後発薬品による現場での混乱は想像を絶するものがある。
@後発薬品:日本緑内障学会の調査結果
http://www.ryokunaisho.jp/infomation/data/eyewash_ver3.31.pdf
6)薬の販売申請(適応、薬価、など)
有用でも薬が眼科の適応がない薬。保険採用されても適応が狭い薬。高額で眼科医療を圧迫する薬。
薬剤の製品化、薬価などは製薬、販売会社の経営方針が先行し、ユーザー(医療機関)のニーズにはなかなか答えてくれない現実がある。先発メーカーや後発メーカーで競い合うのではなく、患者のためにどのようにするのが良いか、営利だけでなく、医療の原点に立ち返って検討してほしいと願っている。
【略 歴】
1970年 新潟大学大学院医学研究科修了後、新潟大学文部教官医学部(医学博士)
1973年 新潟市民病院に転任。眼科部長、地域医療部長、診療部長を歴任。
2004年 新潟市民病院定年退職。新潟医療技術専門学校視能訓練士科教授就任。
にいつ眼科名誉院長、新潟県眼科医会会長として地域医療に係る。
現在は、新潟市江南区ふじい眼科名誉院長、新発田市今井眼科医院顧問
【後 記】
長い間、新潟市民病院の眼科部長を務められ、新潟県眼科医会会長も歴任された藤井青(ふじい しげる)先生が、眼科医としての50年を振り返り、眼科の疾患の診断と治療の歴史を、問題点も含め丁寧に解説して下さいました。
70枚を超えるスライドを駆使し、体験してきた約50年間の眼科医療を振り返りながら、素晴らしいこの眼科学の進歩をいかに眼科医療の現場に生かすべきかについてお聞きした貴重な講演でした。いつもながら、豊富な知識と奥深い思慮に感服致しました。
藤井先生には益々お元気でお過ごし下さい。そして、我々後輩のご指導ご鞭撻をお願い致します。
平成27年9月9日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第235回(15‐09月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:街歩きを通して考える社会の視覚障害者観と当事者の心理
講師:清水美知子(フリーランスの歩行訓練士)
【講演要約】
視覚障害がある人の歩行訓練は人々が活動している実環境で行われることに大きな特徴がある。そこで訓練士は視覚障害がある人と街の人、そして双方のインターラクションを観察する。
南雲(2002)は、障害によってもたらされる心の苦しみには、自分の中から生じるものと、自分と社会の関係から生じるものがあり、前者の苦しみを軽減するためには新たな自分を知り受け入れる「自己受容」が、後者のためには社会が障害者を受け入れる「社会受容」が必要であるとしている。
私は「街を歩く」ことがこの二つの受容を進めるのに役立つと考えている。視覚障害がある人は、街を歩く自分と自分に対する街の人の態度を観察することを通して自分を再形成する。一方、街の人は視覚障害がある人を見たり言葉を交わしたりすることで、各々の障害者観を形成していく。
「街を歩く」ことは、街の人々(社会)に対して自分をさらけ出すこと(Coming-out)でもある。視覚障害を隠すには、動かなければよい。視覚障害のある人が座って前を見ているだけでは、その人の視覚障害を疑わせる手がかりを見つけるのは難しいが、その人が立ち上がり一歩足を前に踏み出せば、視覚障害の存在を隠すのは難しい。つまり視覚障害のある人にとって街に出ることは、否応のない自己開示なのである。
街には、見返すことのできない視線、予測できない態度の人々が待ち受けている。そのような好奇な眼の中へ足を踏み出すのは、自分が思っている以上に心の強さが要る。
視覚障害によって自尊心が傷つき自信を失っている状況にある人にとっては、さらにその負担は大きい。障害を負った後、自分自身を再形成する段階では、自分を周囲にどう見せようか迷っている状態のため、外には出たいが、自己開示はしたくないという気持ちになる。足元が見えにくく歩くのに不安を抱えながらも、あたかも眼は悪くないかのように振る舞いがちである。そのため、外出中、白杖を出したり、場所や状況によって折りたたんで鞄の中にしまったりしながら歩く人もいる。社会に対する自己開示のハードルは決して低いものではない。
今回の勉強会に参加した盲導犬使用者のひとりが「盲導犬と出かけたら度胸が決まり、乗り越えられないでいた垣根を越えられた」「杖は折りたためるけど、盲導犬は折りたためない」と語ったが、それはこのような状況での話だろう。
対人関係における自己開示、コミュニケーション、気づき、自己理解などを説明するのに、「ジョハリの窓」というモデルがある。そのモデルでは自分を「公開された領域」「隠された領域」「自分は気づいていないが他人には見られている領域」「自分には他人にもわからない領域」の4つの領域に分けている。
障害を負うとそれまで認識していた自己概念や自尊心が壊れ、それを再認識しないと新たな自分を形成できない。自分がよくわからない段階では解放された領域が小さい。
例えば、今自分が外を歩いたらどのように歩くか、見えなくなって家から出てない人にはわからない。街に出て自分の歩く姿を人に見せ、見た人のリアクションを受け止めることは、自分自身を知るプロセスとして大切である。そしてそれは同時に街の人の意識を変えることにも役立つ。
講演後、視覚障害のある参加者(盲導犬使用者5人、白杖使用者1人)に街を歩いているときに経験したことについて質問した。多くの回答は街の人から受けた親切で優しい応対についてであった。そこで、あえて嫌な思いをしたことや辛かった経験についても聞かせてもらった。以下はその一部である。
・突然、汚い言葉や罵声を浴びせられた
・「俺がお前を襲ったら、この犬(盲導犬)はどうする?」と脅された
・帰路、付きまとわれたので、遠回りをして家に帰った。
・「他のお客さんに迷惑なので」とコンビニや飲食店で入店を拒否された
・「見えない者は外を歩くな、見えないのになぜ外を歩く」と言われた
そのほか、遠慮のない好奇心から質問された、上からの物言いをされた、無視された、避けられた等の経験談が挙げられた。
一般に障害がある人に対する街の人の態度を決める要因には、知識、接触経験、能力観、価値観、ステレオタイプ、相手の態度などがあるといわれる。当事者の数少ない体験談、テレビ番組で紹介される「がんばる障害者」などが、個々の街の人が時折視覚障害のある人と遭遇したときに示す態度に影響を与えているのであろう。社会の障害者への態度は一朝一夕に変わるものではなく、法で規制できるものではない。街の中での一期一会が、社会の障害観を形成するひとつの要因として機能するものと思われる。
今回の勉強会で、視覚障害のある人から、移動支援、買物介助、代筆代読、通院介助等、福祉サービスが濃くなることで、視覚障害のある人と街の人との直接的な交流が少なくなってきているのではないかと心配する発言があった。視覚障害のある人の多くは高齢で、加齢に伴う身体機能や認知機能の低下を考えると、同行援護従業者、ホームヘルパーなど福祉専門職との外出機会が増えていると思われる。外出のための支援が、一方では街の人との間の垣根となる側面があることを、サービスを提供する側も利用する側も共にしっかり認識しておく必要がある。
(参考資料)
・南雲直二(大田仁史監修):リハビリテーション心理学入門 人間性の回復をめざして. 荘道社. 2002
・清水美知子:「Coming-out, 自分になる」、済生会新潟第二病院眼科勉強会. 2002年8月
・ジョハリの窓:https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョハリの窓
【略歴】
1979年〜2002年 視覚障害者更生訓練施設に勤務、その後在宅視覚障害者の訪問訓練事業に関わる
1988年〜 新潟市社会事業協会「信楽園病院」にて、視覚障害リハビリテーション外来担当
2002年〜 フリーランスの歩行訓練士
参考までにカミング・アウトに関する清水先生の過去の講演録を、以下に記します。
●報告:第76回(2002‐9月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会 清水美知子
日時:2002年9月11日(水)16:00〜17:30
演題:「Coming out --人目にさらす」
講師:清水美知子 (信楽園病院視覚障害リハビリ外来担当)
http://andonoburo.net/on/4023
●報告:第87回済生会新潟第二病院眼科勉強会 清水美知子
日時:2003年8月20日(水) 16:30〜18:00
演題 「Coming-out Part 2 家族、身近な無理解者」
演者 清水美知子(歩行訓練士)
http://andonoburo.net/on/4030
【後記】
清水先生は、障害者の目線でお話の出来る方です。「NBM(Narrative-based Medicine;物語と対話による医療)」とか、「社会受容」ということを最初に教えて頂いたのが清水美知子先生でした。
当院で開催する講演会や勉強会には清水先生を、ほぼ毎年をお呼びしていますが、先生の講演の日は、いつも多くの視覚障害者の方が出席します。どうしてなのか不思議でしたが、答えが判りました。今回の勉強会に、こんな感想が届きました。「清水先生のお話を聞くと『あるある』とか『そうそう』とか『そうなのよ』とうなづくことばかりで、どうしてそんなに分かるのかなあといつも不思議にさえ思います。でもだからこそ、この人は私達、視覚障碍者のことが分かる人、と安心して心が開けるので人気なのでしょう」。
平成27年8月5日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第234回(15‐08月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「人生いろいろ、コーチングもいろいろ
高次脳機能障害と向き合うこと、ピアノを教えること」
講師:立神粧子 (フェリス女学院大学教授)
【講演要約】
1.高次脳機能障害とは
高次脳機能障害は脳外傷、脳卒中、脳腫瘍などを原因とする器質性の後遺障害である。とくに前頭葉の認知機能の働きに問題が生じる。認知機能とは、@覚醒と周囲への意識と心的エネルギー、A感情をコントロールする抑制と発動性、B注意と集中、C情報処理、D記憶、E遂行機能と論理的思考力、などの諸機能のこと。これらを下から順番に階層にして示しているのが「神経心理ピラミッド」の図表である。ピラミッドには最下層に“リハビリに取り組む意欲”が置かれ、最上層には“受容”と“自己構築”が置かれている。ピラミッド型が示すように下位の機能が働いていないと上位の機能はうまく機能しない。と同時に、諸機能は連動し相互に作用する。
脳損傷の特殊性として、脳細胞の欠損は身体の他の臓器と異なり再生しないことが挙げられる。しかも脳の機能はその人固有の人生の学習の記憶によって成り立っている。人それぞれ歩んできた人生が違うので、AさんとBさんとは神経回路のつながり方は全く異なる。本人に障害が残った自覚がない場合や、家族が症状の本質を理解しないために的確な支援ができない場合もある。そのため、症状自体に加え治療の目標も個々で異なり、リハビリは困難を極める。
2.Rusk研究所における脳損傷通院プログラムとは
夫は2001年の秋に重篤な解離性椎骨動脈破裂によるくも膜下出血を発症し、脳損傷(高次脳機能障害)が残存した。2004?05の1年間、夫と筆者はNew York大学医療センター・リハビリテーション医学Rusk研究所の「脳損傷通院プログラム」で機能回復訓練を受けた。Ruskの通院プログラムは神経心理学を学問的基盤としたホリスティックなアプローチで、対人コミュニケーションを中心とした療法的プログラムである。
20週を1サイクルとする訓練は個々のゴールにあわせて周到に計画され、理論と実践が巧みに組み合わされ構造化されている。訓練生は規則的な訓練の中で、症状の本質の理解と補填戦略を繰り返し学ぶことになる。
Rusk研究所での夫の訓練が終わるとき、Ben-Yishay博士から「君たちが訓練に成功したのは、君たちが成熟した音楽家で、訓練ということの意味を理解していたからだ」と言われた。このことについて考えてみたい。
3.ピアノを教えるとは
ピアノを教えるとき、専門家を育てるだけでなく、初心者、子供の情操教育、大人の趣味など、対象者は多岐にわたる。脳損傷が個々のケースで全く異なるように、年齢、習熟度、目的が一人一人異なる。ピアノを教えるということは、Ruskでの訓練と同じように、@多様なゴールを理解する、A個人の特性に合わせて(=相手の脳と心になり)指導する、Bその都度ゴールを定めて、技術と考え方の両面からゴールの達成に向け訓練する、C教え込むのではなく自分でできるように導く、Dほめて育てる+厳しく指摘する、などを意味する。
良いピアノの指導者(=コーチ)は、@この上なく音楽を愛する、A情報交換を怠らずよく勉強する、B相手を知ろうとする、Cレッスンの目的・方法論を明確にもつ、D渾身のレッスンをする、などの資質を持つことが望ましい。指導者は改善すべきところを見つけ、理論的かつ実践的に技術と方法を示す。生徒の側も、主体的にその道の専門家のアドバイスに耳と心を傾け、順応性をもって素直に訓練を受ける態勢になることが大切である。指導の目的は生徒が「自分で自分を改善させる」ことができるようにすること。つまり、自分の音を批評できる能力、悪いところを自分で気づき予防できる能力、様々なテクニック(戦略)を知り自分で使いこなす能力などを、訓練によって身につけさせることである。これらはそのまま高次脳機能障害のコーチングの技術に当てはまる。
4.高次脳機能障害のコーチング
脳損傷者のコーチングには重要な前提条件がある。第一に、訓練生が落ち着いていて客観的な時にのみコーチングする。イライラしていると抑制困難症を引き起こし、コーチングが逆効果となる。第二に、訓練生が疲れすぎていない時にコーチする。神経疲労を起こしていると、コーチングを受け取る集中力も情報処理力も十分に働かない。第三に、コーチされる側も活発にコーチングを求める意欲を持つ。本人に改善する意志がないと意味がない。
そして脳損傷のコーチングの原理としては、@ひとつの問題に焦点を当て,選択的であること、A問題は具体的に指摘し、慎重に戦略を選び、具体的に解決策を示す、B良いことも具体的に指摘する、C改善すべきことを良いことの指摘に挟む「サンドイッチ効果」の技法を使ってコーチする、Dユーモアを忘れないように、などである。
5.受信情報を確認しながら会話しよう
例えば、会話の訓練がある。隣の人と会話をしてみよう。その際に、受信情報を確認する〈確認の技〉や、相手の言葉を借りる〈語幹どりの技〉などを使ってみると、発動性のない人も、抑制困難な人も、それぞれの問題にとって助けになる戦略を用いて会話を進める事ができる。戦略を使うことで発動性のない人には発話のきっかけとなり、抑制困難症の人には話の筋道からそれないようにすることができる。
会話の訓練以外にも、何か動作を覚える時の確認の手順や、日常生活を構造化することで動きの流れを作っていくことなど、症状に合わせてそれぞれの戦略を用いて一歩先のゴールを設定して地道に訓練することで、日常生活をよりスムーズにする事ができる。障害の完治は期待できないが、訓練により戦略を用いる技術を習慣化する事はできる。
6.コーチングの意義
脳損傷者がこうした技術を身につける事ができれば、家族や周囲の人たちとの共同生活の中でも、自分の存在に価値がある事を自ら感じる事ができる。コーチングの技術、コーチを求める順応性のある心と意欲が双方に求められる。ケアマネージャーやヘルパーさんたちとの連携も必要である。最終的には、自分で自分を改善できる力を持ち、相手との良い関係を再構築できるようにしたい。コーチする人もコーチされる人も、その時の問題にひとつずつ取り組み、落ち着いて訓練してつねに改善することが肝要である。
音楽の訓練を通じて「訓練」や「技術の獲得」ということの本質を理解していた我々だったので、Ben-Yishay博士は「訓練は成功した」と言及したのだろう。それほど、脳損傷者にとって自分の症状を理解し、それに対する戦略の習得から習慣化に至る地道な繰り返しの訓練が必要、ということである。
【略 歴】
1981年 東京芸術大学音楽学部卒業
1984年 国際ロータリー財団奨学生として渡米
1988年 シカゴ大学大学院修了(芸術学修士号)
1991年 南カリフォルニア大学大学院修了(音楽芸術学博士号)
2004-05年 NY大学医療センターRusk研究所 脳損傷者の通院プログラム参加
治療体験記を『総合リハビリテーション』(医学書院)に連載(2006年)
2010年 『前頭葉機能不全その先の戦略』(医学書院)
現在:フェリス女学院大学音楽学部音楽芸術学科教授、音楽学部長、
日本ピアノ教育連盟評議員、米国Pi Kappa Lambda会員。
【著 書】
『前頭葉機能不全/その先の戦略:Rusk通院プログラムと神経心理ピラミッド』
立神粧子著 (2010年11月 医学書院)
医学書院のHPに以下のように紹介されている。
「高次脳機能障害の機能回復訓練プログラムであるニューヨーク大学の『Rusk研究所脳損傷通院プログラム』。全人的アプローチを旨とする本プログラムは世界的に著名だが、これまで訓練の詳細は不透明なままであった。本書はプログラムを実体験し、劇的に症状が改善した脳損傷者の家族による治療体験を余すことなく紹介。脳損傷リハビリテーション医療に携わる全関係者必読の書」
http://www.igaku-shoin.co.jp/bookDetail.do?book=62912
【後 記】
素晴らしい講演でした。ご夫婦で東京芸大出身の音楽家。立神先生はピアノ、ご主人はトランペット。ヤマハ楽器にお勤めだったご主人が「くも膜下出血」を発症。その克服にご夫婦で立ち向かい、ニューヨークで約一年の研修を受け、その後も地道な訓練をひたすらに続け、生活を取り戻した(今でも進行形)壮絶なお話。訓練と戦略のおかげで、絶望的だった夫との生活は奇跡的に改善され、希望が持てる人生を歩みだすことができた。後半ではご主人のユーモア溢れる講演もお聞きした。
こうした経験から立神先生は、神経心理ピラミッドに則った訓練は、脳損傷リハビリにもピアノ教育にも有効なツールとなっていることに気が付いたという。すべてのリハビリあるいは習い事のいいお手本となるお話を、感動と共に拝聴しました。
立神先生ご夫婦の健やかなお暮しを祈念致します。この度は、誠にありがとうございました。
平成27年7月8日の済生会新潟第二病院眼科勉強会 盲学校弁論大会の報告
安藤@済生会新潟です。
第233回(15‐07月) 済生会新潟第二病院眼科勉強会 盲学校弁論大会の報告です。
「新潟盲学校弁論大会 イン 済生会」
(1)「僕の父」 中学部3年
(2)「夢は地道にコツコツと」 高等部普通科3年
(1)「僕の父」 新潟県立新潟盲学校 中学部3年
僕は、月曜日から木曜日まで寄宿舎に泊まります。中学部になってから、父と毎日会えません。だから少し淋しいです。
僕の父はやさしいです。休みのときは父と一緒にお風呂に入ります。僕の身体をごしごし洗ってくれます。そんなときは、「お前、小さいときよく泣いてたな。お父ちゃんのくしゃみや鼻かむ音で泣いてたな」と僕の子供の頃の話をしてくれます。
また、 「お出かけについて」話をします。お出かけに連れて行ってくれます。僕の好きな巫女爺や熱気球大会や花火大会を見に行ったり、いろいろな所に連れて行ってくれます。今年のゴールデンウィークは、毎日、柏崎や長岡に連れて行ってもらいました。行事のときは、家族みんなを学校まで送ってくれます。体育祭のときは「がんばれ、がんばれ」と応援してくれました。
文化祭では作業で作ったフォトフレームをよくできた」と言ったり、有志のステージ発表で、僕たちがよさこいソーランを踊ったときは、「上手だったよ。」と、ほめてくれたりしました。
僕とよく遊んでくれます。総合体育館に行って、僕の手を引いて走ります。そのとき父は飛ばします。速いので僕が手を離しそうになると、「おい、お前なにしてやんだ。」と言います。
家ではウィーでゲームをしてくれます。座禅やスキーのジャンプのゲームを教えてくれます。父は、「飛べ!飛べ!前、前、前、前・・・」と、ジャンプのタイミングを指示してくれます。僕が上手に飛べると、「123メートルだって。いったねえ。」と、ほめてくれます。テレビで「お宝鑑定団」やニュースをよく見ています。
父は電気工事士をしています。仕事に出かけるとき僕に「よし、お父ちゃん仕事に行ってきますよ」と言って出かけます。そんな父はかっこいいと思います。
僕は父が一番大好きです。これからも元気でいて下さい。お父さん。
(2)「夢は地道にコツコツと」 新潟県立新潟盲学校 高等部普通科3年
今から話しをするのは、二年間話すことが出来なかった中学校の時の話です。
私は、生まれつきの弱視ですが、勇気が出せず、本当に信用している友達にしか目が悪いことを打ち明けていませんでした。だから私は他の友達に気づかれないように学校生活を送っていました。高校受験も、盲学校進学ではなく、普通校進学を希望していました。なぜなら私は、盲学校は目が全く見えない人が通うところだと勘違いしており、盲学校に進学することで、目が悪いことがみんなに知られてしまうのを恐れたからです。
私は、普通校合格のために必死に勉強しました。入試当日、教室に書見台が用意され、拡大された答案用紙が配られました。他の受験生たちがじろじろと見ているのがとても恥ずかしかったし、視線を怖く感じました。それでも、入試を出来る限りがんばりました。休み時間には友達が面白い話や、「俺だめだった」みたいな話をして私を勇気づけてくれました。志望した高校には、友達が多く受験していたので、緊張せずに取り組めました。入試が終わったあと、『やることはやった!がんばった!』という達成感よりも、『無事に高校に入学できるか』という不安でいっぱいでした。
志望校合格発表の日。自分の受験番号を一生懸命探しました。1、2、3、4……数が近づいてくるにつれ、私の心臓はバクバクしました。結果は不合格でした。私は、頭が真っ白になりました。理解できずに何度も何度も探しましたが、番号はありませんでした。
私は、二次の新潟盲学校受験を頑張ろうと思い、再び努力しました。そして、新潟盲学校に合格しました。うれしいのですが、素直に喜べませんでした。目が見えない人がいく学校で、自分の目が悪いことを知られてしまうと思ったからです。友達に「どこ入学するの?」と聞かれて盲学校と答えるのが嫌でした。私の不安は無事に入学できるかというものから、盲学校ってどんなところなのかというものに変わっていき、入学式が近づくにつれてその不安がどんどん大きくなりました。ついには盲学校入学が決まっているのに、「普通校に行きたい」「普通校で勉強したい」とさえ思ってしまいました。
しかし、その不安は入学式で生徒会長からのお祝いの言葉を聞いたときに全て吹き飛びました。しっかりハキハキと言っている姿を見て「本当に目が悪いのか?」と思いました。学校生活が始まり、グランドソフトボール部の先輩たちがアイマスクをしていても、普通に投げたり打ったり、走ったりしているのを見て「すごいなぁ」と思いました。さらに、寄宿舎でも私よりもよっぽど小さな子が一人暮らしをしていてすごいと思いました。
盲学校に来たばかりで何も知らなかった私に気軽に話してくれる人ばかりでした。
私のことを大好きと言ってくれる人もいました。私は、とてもうれしかったです。私は、『盲学校入学は、間違いじゃなかったんだ、もし私が普通校に合格していたら、こんなすてきな友達と出会えなかったし、私のことをわかってくれる先生方もいなかった!普通校に落ちたから今の私がある!』と思っています。
三年生になり、たくさんの友達といつもわいわいしながら学校生活を送っています。そんな私には今、夢があります。それは、パン屋になるという夢です。私がパン屋を意識したのは、中三の時です。「焼きたてジャパン」というテレビアニメにハマり、家でパンを作り始めたのがきっかけです。目盛りやはかりの線が見えにくい私にとって、非常に難しい夢だと思います。しかし、その夢をあきらめたくはありません。なぜなら、私はパンが好きだからです。
私は、二年生の時から「産業社会と人間」という授業を選択しています。その授業では、日頃のあいさつ、礼儀、作業など就職に関したことを学んでいます。慣れてくると現場実習があり、二週間の現場実習を行いました。金具組み立てや段ボール作りなどを一日六時間以上やるので、とてもくたくたになりましたが、この実習を通して仕事の大変さや辛さがしみじみとわかりました。今年も七月にまた実習があります。
就職に向けて大変な実習もがんばっていきたいです。
さて、みなさんは、連続テレビ小説「まれ」を知っていますか?夢が嫌いなまれが言った言葉に「人生は地道にコツコツ」という言葉があります。まれは夢が嫌いですが、私は夢が大好きです。夢がなかったら人生は楽しくないし、夢が無いと何事もがんばれないと思います。みなさんも夢に向かって地道にコツコツとがんばりましょう。たとえ大きな障害があり、それがどんなに暗闇に包まれたとしても、続けていれば必ず夢に近づいて行くはずです。私もパン屋という夢に向かって走り続けていきます。
これで発表を終わります。ご清聴ありがとうございました。
【後記】
済生会新潟第二病院眼科勉強会の七月は、毎年新潟盲学校の生徒による弁論大会を行っています。盲学校生が胸に秘めた熱い思いを弁論は、毎回好評です。
今回も二人の弁士は、一所懸命に時に身振りを交えて弁論してくれました。参加者からも多くの賛辞が寄せられ、感動の弁論大会でした。
@全国盲学校弁論大会弁論47話「生きるということ―鎖の輪が広がる―」
http://www.kyoikushinsha.co.jp/book/0103/index.html
平成20年度で77回目を迎えた全国盲学校弁論大会の発表作品は、“こころ”の課題を抱える現代の児童生徒、学生にインパクトとともに大きな勇気を与えている。学校、家庭での読み聞かせにお勧めの一冊。
平成27年6月3日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第232回(15‐06月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「我が国の視覚障害者のリハビリテーションの歴史」
講師:吉野 由美子 (視覚障害リハビリテーション協会)
【講演要約】
はじめに
リハビリテーションという言葉の定義は、元々がキリスト教における「波紋を解き、身分を回復する」という意味から派生して「再び相応しい状態に戻す」という意味から、人生の半ばで何らかの障害を負った方たちに対して、生活や社会活動において失われた機能を回復させるための様々なサービスを表す言葉となった。しかし、私がここでお話しする視覚障害者に対するリハビリテーションは、幼い頃からの視覚障害者や中途視覚障害者等すべての方たちの生活を向上させるためにおこなわれている医療・福祉・教育に関わる広範囲なサービスについての我が国における歴史的展開についてである。
1 特殊コミュニティーから盲学校を中心としたコミュニティーへ
9世紀頃視覚障害者は、琵琶法師として、また歌舞音曲を行う者として細々と生計を立てており、その技術を伝え自らを守るために、当道座という独特の組織を成立した。江戸時代になると、杉山検校とその弟子たちが、梁・灸等の技術を確立し、その治療で将軍の病気を治したことなどが認められて、検校を頂点とする独特の階級社会を作り上げ、「あ・は・き業」の独占をはじめ、様々な特権を得た。
この特権は、明治維新と共に、1871年当道座の解体と共に廃止されることとなり、視覚障害者は、「あ・は・き」等の今まで培ってきた知識を次世代に伝える手段を失った。そこで、盲学校設立の運動が巻き起こり、1878年には京都盲唖学院が開設され、1880年に石川倉治によって開発された日本式点字を使った教育法と共に、全国に広まった。
2 戦争と傷痍軍人と中途視覚障害者のリハビリテーションの芽生え
日清・日露戦争後の傷痍軍人対策として、障害を持った者に対する機能回復訓練や職業訓練という考え方が我が国にも芽生えた。視覚障害者に特化した施設としては、岩橋武雄らの提唱により1938年に設立された「失明軍人寮」が最初である。
傷痍軍人対策としてのリハビリテーションは、敗戦後占領軍により排除されたが、そこで培われた方法・技術は受け継がれ、国立リハビリテーションセンター、塩原視力障害者センターなど、各地に中途視覚障害者のリハ施設が開設された。
また、1948年に、ヘレンケラーの二度目の来日を機に日本盲人会連合(日盲連)が結成され、視覚障害者の生活向上に向けての様々な運動が開花した。
3 目標は経済的自立、単独視覚障害者を対象、収容型中心の視覚リハの時代
1949年に成立した身体障害者福祉法の目的は、「障害者が経済的に自立し、社会に貢献する」ことを目指したサービスを制度化することであった。そのため、視覚障害者に対するリハは、三療業(あ・は・き)を中心とする職業訓練で、幼い頃からの視覚障害者については、盲学校で、中途視覚障害者に対しては、国立視力障害者センターを中心に収容型施設で行われた。訓練しても経済的自立が望めない、視覚と他の障害を合わせ持つ人や、主婦層や高齢の方に対する生活訓練などは、初期の頃は対象外とされた。
1970年に日本ライトハウスにおいて歩行訓練士養成講習会が行われたのが、我が国における視覚リハ専門家の養成という意味では初めてのことで、その後、1990年に国リハ学院に「視覚障害生活訓練専門職員養成課程」が開設されたが、視覚リハの専門職員養成は、福祉の側からの働きかけによって行われ、肢体障害者のリハに携わる理学療法士等が医療の要請の中から生まれたこととは大きく異なっており、その後の視覚リハの展開において大きな影響を与えた。
4 制度と対象の激変時代
1980年から始まった国際障害者年やノーマライゼーション思想の我が国への浸透を経て、障害者リハの目標は、経済的自立から社会への参加を目指すものに変化し、在宅による訓練も少しずつ開始されたが、基本的には大きな変化はなかった。しかし、2005年に成立した障害者自立支援法は、身体・知的・精神と言う3障害を同一施設でサービス対象とすることと、作業や訓練を行う施設と生活や介護を行う施設とを大きく区分すると言うことが打ち出され、サービス体制が激変した。
また視覚障害の原因の激変により、幼い頃からの視覚障害者が減り、中途障害者が増加、また、60歳以上の視覚障害者が視覚障害者全体の70%を占める事態となった。
2014年に、我が国は障害者の権利に関する条約を批准、リハビリテーションは、誰でも、どこに住んでいても、性別や年齢に関わりなく、受傷後できるだけ早期に受ける権利を障害者が有し、国はその権利を実現するための環境を整える義務を負うこととなり、現在視覚リハサービスの体型を見直さざるを得ないと言う激変期にいたっている。
5 まとめ
概括してきたように、我が国の視覚障害リハにおいては、幼い頃からの視覚障害者が中心となり生活のために作ってきた特殊コミュニティ−と、そのもとで育まれた「あ・は・き」と言う職業等を中心として展開されてきた。しかしながら、視覚障害となる原因の激変、制度の激変、高齢視覚障害者の急速な増加により、単独視覚障害者中心の教育や職業訓練を中心とする体制は維持できなくなってきている。
このことを踏まえ、広く一般社会への啓発と制度サービス体制の見直しが必要な時期が今まさにきているのである。
【プロフィール】
1947年 東京生まれ 67歳
1968年 東京教育大学(現筑波大学)付属盲学校高等部普通科卒業
1974年 日本福祉大社会福祉学部卒業後、名古屋ライトハウスあけの星声の図書館に中途視覚障害者の相談業務担当として就職(初めて中途視覚障害者と出会う)
1991年 日本女子大学大学院文学研究科社会福祉専攻終了(社会学修士) 東京都立大学人文学部社会福祉学科助手
1999年4月から2009年3月まで高知女子大学社会福祉学部講師→准教授 高知女子大学在任中、高知県で視覚障害リハビリテーションの普及活動を行う。
2009年4月より任意団体視覚障害リハビリテーション協会長(現在に至る)
【後記】
素晴らしい講演でした。視覚障害と肢体障害の重複障害をお持ちの当事者個人の視点と、視覚障害リハビリテーション協会会長としての視点から、「我が国の視覚障害者のリハビリテーションの歴史」を語って頂きました。
視覚障害者に対するリハビリテーションというものを、先天性視覚障害者や中途視覚障害者等すべての方たちの生活を向上させるためにおこなわれている医療・福祉・教育に関わる広範囲なサービスと捉え、我が国におけるその歴史的展開について言及しました。
今後の我が国の視覚障害者に対するサービスの未来を考える時の一つの問題提起としてお聞きしました。吉野先生の益々のご活躍を祈念致します。
平成27年5月13日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第231回(15‐05月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「(仮称)障がいのある人もない人も一人ひとりが大切にされいかされる新潟市づくり条例検討会に参加して」
講師:遁所 直樹(社会福祉法人 自立生活福祉会事務局長)
【講演要約】
「はじめに」
障害者権利条約(Convention on the Rights of Persons with Disabilities)とは、あらゆる障害者(身体障害、知的障害及び精神障害等)の、尊厳と権利を保障するための人権条約です。
このたび新潟市に障がいを持った人を差別しないでほしいという条例が 5月8日新潟市に提出されました。障害者の権利に関する条約(国連障害者権利条約)が国連総会で満場一致採択(2006年12月13日)。世界は障害者福祉について、障害者を保護・擁護するということから、権利を尊重するという方向に舵を切りました。わが国は、2007年9月28日に署名。6年半の歳月を要して2013年12月4日、日本の参議院本会議は、障害者基本法や障害者差別解消法の成立に伴い、国内の法律が条約の求める水準に達したとして、条約の批准を承認しました。
2014年2月19日「障害者の権利に関する条約」が発効。千葉県を皮切りに各地で条例作りが進んでいます。新潟市も2年半をかけて条例づくりを行い、10月には条例公布・一部施行の予定という段階まで来ています(新潟県は着手していない)。この度、条例素案に対する意見募集(パブリックコメント)が、いよいよ始まりました。
「日本が署名から批准に年月を要した理由」
すべてのベースは国連障害者権利条約 ( 2006年12月13日国連総会で満場一致採択)から始まっています。日本は 2007年に署名を済ませすぐにでも批准を目指したいとこだったのですが、障害者団体が署名に待ったをかけました。なぜならば日本の障害者の法律が理念法にとどまり障害者権利条約の求めるものにほど遠いものだったからです。
こどもの権利条約の時は署名をしてすぐに批准をしたのです。しかしその時は、日本のこどもの法律が理念法にとどまり深く議論されることなく、新潟市のこども権利条例も成立には至らなかった経過があります。
こどもの権利条約のときの経緯を踏まえ、今回の批准に向けた動きについて慎重に行うということで障害者団体が大きな力を発揮します。民主党の政権の波もうけ、内閣府で障がい者制度改革推進会議が開かれ 50人以上の委員が討論をしてその経過もオンデマンドですべての国民に公開するというものです。障害者基本法が改正され、手話が言語として認められ、障害者総合福祉法骨格提言を受け、障害者総合支援法、障害者差別解消法などの法的整備が整い署名まで至りました。
「Nothing about us without us」
“Nothing about us without us”(私たち抜きに私たちのことを決めるな)というスローガンのもと千葉県が初めて条例を作ったのです。障がいを持った人が理不尽を感じたときそれを意思表明できる場所が必要です。新潟市でも条例を策定すべく施策審査会の委員で策定委員会を作りその骨子を市長に提出し条例部会が発足したのです。
「条例の名称」
新潟市では、条例の名称からいろいろ意見が交わされました。当初の仮称は「障がいのある人もない人も一人ひとりが大切にされいかされる新潟市づくり条例検討会」でした。それが「障がいのある人もない人も共に生きる新潟市づくり条例」と名称が提案されたのです。共に生きるという言葉についてもやもや感があったのですが、障
がい者と健常者が対峙するかのように両輪のたとえではないか、一人ひとりが生かされるという言葉で当初条例の名前が仮として紹介されたのですが、ペアであってペアーズとならないというご指摘いただきました。
「条例を審議するうえでの問題点が続出」
新潟市の条例案は障害者差別解消法ができてからの条例となります。そのため十分な論議をしないと障害者差別解消法を踏襲してしまい特色ある条例とはならないことが心配されました。今回の検討会で不慣れなことがいっぱい出てまいりました。義務と努力義務、不当な差別行為と合理的配慮の不提供、新潟市の責務、新潟市民の責務など行政の提案通りに進めばシャンシャンとなりますが一つ一つ丁寧に検証していくと義務と努力義務では大きな違いがあります。
「努力義務と法的義務」
障害者差別解消法では民間事業者に対する合理的配慮を努力義務としています。しかし、努力義務では、障がいのある人に対する誤解や偏見を取り除く、話し合いのテーブルに着かないことが考えられるため、市条例では法的義務としています。ただし、法的義務であっても、条例に従うことを強制するのではなく、話し合いにより互いの理解を深めることで解決を目指します。
「合理的配慮」
民間事業者に対する合理的配慮の不提供について法的義務としたことはこの条例の目玉の一つです。努力義務でよい事業所さんはもともと理解があり合理的配慮をしてくださいます。話し合いのテーブルについていただくために法的義務としたのです。
中間まとめで8区をまわった時はこの部分は努力義務でした。議論を重ねていうちに上記の理由から法的義務と修正したのです。
不当な差別行為とは障害そのものに対する差別、車いすでは電車に乗ることができないなどの拒否がありますが東京オリンピック、パラリンピックに向け新潟市だけでなく全国で街づくりをユニバーサルの視点で行い不当な差別行為を軽減していくことも期待されています。
「バリアフリーよりユニバーサルデザイン」
合理的配慮の不提供についてそもそも合理的配慮とは、障がいを持った人が世の中に出ていくためのスタートラインを平等にするという解釈を私はしています。その視点はやはりユニバーサルデザインであり、障がい者にだけ便利(バリアフリー)なということでなく、すべての人に便利であることが合理的配慮です。具体的には車いす利用者のためのリフトバスよりも高齢者から幼児、お祭りに行くため着物の人たちにも使いやすい低床バスが普及することにより、合理的配慮も抵抗なく受け入れられるということです。
「おわりに」
この条例が議会で可決され公布されたところから権利擁護が始まります。この条例で元気をつけた障がいを持った人が社会の理不尽さを自ら考え、人に発信していく。
そして話しを聞いてくれる人を増やしていくこと。最終的にはこの条例が血の通ったものとなることを願っています。
PS:お願い『声を届けましょう』
募集中『(仮称)障がいのある人もない人も共に生きる新潟市づくり条例素案に対する意見募集(パブリックコメント)』
〜 締切:6月19日(金曜)
http://www.city.niigata.lg.jp/kurashi/shimin/public/publiccomment/fukushi/shogai/jyoureipabukome.html
【問い合わせ先】
新潟市福祉部 障がい福祉課 共生社会推進担当 (市役所第一分館2階)
〒951-8550 新潟市学校町通1番町602番地1
電話:025-226-1248 FAX:025-223-1500
Eメールアドレス:shogai.wl@city.niigata.lg.jp
【遁所 直樹:プロフィール】
新潟大学大学院博士課程1年時頚椎 4番5番骨折頚髄損傷
平成10年から介護老人保健施設ケアポートすなやま勤務
平成12年から NPO法人自立生活センター新潟勤務
平成23年から社会福祉法人自立生活福祉会事務局長
新潟市障がい者施策審議会委員
(仮称)障がいのある人もない人も一人ひとりが大切にされいかされる新潟市づくり条例検討会委員
【後記】
先進諸国に遅れ、我が国でもやっと「障害者の権利に関する条約」が2014年2月19日発効し、千葉県を皮切りに各地で条例作りが進んでいます。新潟市も2年半をかけて条例づくりが行われ、今年2015年10月には条例公布・一部施行の予定という段階まで来ています(新潟県はまだ着手していません)。こうした状況は、案外多くの方に知られていないのが現状ではないでしょうか?今回、新潟市の条例作成委員の一人である遁所直樹氏をお迎えして、これまでの経緯、全国の状況、新潟市での状況をお聞きしました。
こうした条例作りには、行政の思惑や、企業等の利害、障害者の人権に対する思い入れなどの違いなどがあり、策定上は様々な困難があることが予想されましたが、今回のお話をお聞きしてより深く知ることが出来ました。
「障害者の権利に関する条約」に関する条例を各地で策定するということは、障がいを持った人が理不尽を感じたときそれを意思表明できる場所を作ることと理解しました。すなわち、この条例が議会で可決され公布されたところから権利擁護が始まるという、遁所氏の主張が良く理解できました。
新潟市での意見募集(パブリックコメント)は、もうじき締め切られますが、多くの声を行政に届けたいと思います。また、全国の皆様のお所でも行われているであろう条例作りに、多くの方が関心を持つことを希望します。
平成27年4月8日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第230回(15‐04月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:知る・学ぶ、そしてユーモアを忘れずに挑戦していくことの大切さ
―「慢性眼科患者」の経験から私が学んだこと―
講師:阿部直子(アイサポート仙台 主任相談員/社会福祉士)
【講演要約】
両目のまぶたに先天的な症状を持って生まれた私は、生後まもなくの頃から眼科とのおつきあいが始まりました。以来、40数年経った今も年数回の眼科受診を続けながら日常生活を送っています。
紆余曲折の末に辿り着いた大学院教育学研究科で学んだことが活かせる職種の職員募集が仙台市の市政だよりに載っていることを私に教えてくれた教官のおかげで、大学院修了後はさまざまな障害を持つ方の生活相談支援を担う部署に相談員として就職しました。人よりけっこう遅い「社会人1年生」のスタートを切ったことになります。そして、たまたま同じ時期に始まった仙台市の地域リハビリテーションモデル事業で視覚障害者支援に関するプロジェクトのいわば「現場スタッフ」の仕事も担当させていただくことになりました。このモデル事業が基盤となって仙台市中途視覚障害者支援センターが仙台市単独事業として2005年に始まりました。今年(2015年)の春でちょうど10周年です。
支援センターでのもっとも中心となる業務は相談です。視覚障害を持つ方やその家族などから寄せられる相談に応じ、情報提供したり、福祉サービスの利用を円滑に受けられるようにするために福祉事務所等での手続きを支援したり、あるいは経済的な基盤を確保するために障害年金の請求手続きに必要な書類集めのサポートをしたり、病気や症状への適応の過程で生じる心理的葛藤につきあったり、見えない・見えにくい状況で生活する上でのちょっとした工夫(感覚の活用、道具の活用など)を助言したり……と、その内容はさまざまです。市民(視覚障害を持つ人ご本人や家族)から直接連絡をいただく以外にも、例えば病院の眼科や糖尿病内科などに勤務する医師や看護師から入院中の患者さんのことで支援協力の依頼が入り、病棟を訪問して本人・家族とお会いし、退院して後の自宅での生活再開に向けて必要な情報を提供したり手続きを支援したりすることもおこなっています。
お互いになかなか出会う機会がなく、それゆえ、ともすると孤立しがちな中途視覚障害者やその家族を主な対象とした「目の不自由な方と家族の交流会」を毎月1回開催しています。さらに、支援者どうしが分野や組織の枠を超えて交流し、お互いの専門分野を話題提供して学びあったり人脈づくりをしたりすることを目的として2000年の夏に始まった「仙台ロービジョン勉強会」の事務局役割を2006年から引き受け、こちらも毎月1回開催しています。
このようにさまざまな視覚障害者の生活設計・生活再建、あるいは眼科の患者さんやその家族が直面する心の動揺や葛藤を整理していく過程にソーシャルワーカーとして直接・間接にかかわる現在の業務を個人的なライフヒストリーを交えながら振り返ってみた時、「自分の体験だけでモノゴトのすべてを考えてはいけない」と思いつつも、ものごころつく頃からの眼科での患児・患者としての経験から得たこと、社会全体からみればマイノリティ(少数者)であるロービジョンの状態で育ち生活してきた体験から学んだことが今の私に少なからぬ影響を与えていると気づかされます。
私の場合、「低い視機能(ロービジョン)のために生じる『見える・見えないを行ったり来たり』とどうつきあうか?」という要素と、「義眼の管理や人工涙液の頻回点眼、痛みや疲れの軽減対策など、いわば『目の内部障害』とどうつきあうか?」という要素に整理されるのではないか、と自分の状況をとらえています。そして、「症状の変化(進行)に対して、心理的に、あるいは具体的な行動技術や道具の活用の工夫などによってどのように適応していくか?」を考えなければいけない場面に直面した時、しんどかったりつらかったりすることがないわけではない、というのが正直な状況です。
しかし、小児眼科(こども病院)時代に患児として眺めた医師をはじめとする多様なかかわり手どうしの連携と役割分担の姿や、国際障害者年(1981年)の1年間にテレビや映画で接した、国内・海外に暮らすさまざまな障害者が自身の障害とつきあいながらも社会の中でいきいきとその人・その人の役割を果たしている/果たそうとしている姿から学んだことは現在、私にとって「思考の基本・お手本」としてとくに強い影響を与えているように思います。
そんな慢性眼科患者としての生活過程を振り返ってみて、疾患(やそのために生じる機能低下・喪失)とよりよくつきあいながら暮らしていくうえで重要なことを考えてみました。
(1)「私もあんなふうになりたい」「なれるかも…」と思えるような良き手本となる人の行動・生きざまに触れることによって気持ちの上で強くなれるように思います。
(2)世界の多様な多民族・多文化事情やマイノリティ事情、弱さに起因する社会問題を知ることによって、疾患や障害のために直面する課題を客観的・相対的にとらえる視点を育むことができるように思います。
(3)失敗や挫折、困難や苦労を「何事も経験」ととらえ直すことによって、心の余裕が生まれるように思います。
(4)教育の力・笑いの力は困難な状況をのりきっていくうえで重要ではないでしょうか。
【略 歴】
兵庫県出身。関西と関東を行き来しながら子ども時代を過ごす。
1995年 同志社大学文学部文化史学専攻卒業
2001年 東北大学大学院教育学研究科教育心理学専攻修士課程修了
2001年 (財)仙台市身体障害者福祉協会に仙台市太白障害者生活支援センター相談員として入職。この間、仙台市地域リハビリテーションモデル事業運営協議会ワーキンググループ委員(2002年〜2004年)、中途視覚障害者への地域リハビリテーションシステム研究事業ワーキンググループ委員(2004年〜2005年)を経験。
2005年 視覚障害者を支援する会(現在のNPO法人アイサポート仙台)に仙台市中途視覚障害者支援センター相談員として入職
@NPO法人アイサポート仙台
http://www15.plala.or.jp/isupport/
【後記】
阿部直子さんは、魅力いっぱいな素敵な女性でした。アイサポート仙台は、相談も患者さんのみでなく、医師や医療関係者が訪れるというのはビックリでした。行政と対決するのでなく、味方につけての活動は、時として制約もあろうかと思いますが、ことをなす王道です。今年創立10周年を迎えたということですが、色々な職種の方々が集ってここまで続けてこられたのは素晴らしいものです。「中途視覚障害者交流会」(毎月)、「仙台ロービジョン勉強会」(毎月)も充実しているようです。
「慢性眼科患者」としてのライフヒストリーでは、ご自身の障害のことをカミングアウトして頂きました。医師は病気の診断と治療を行いますが、生活上のご苦労はあまり知りません。貴重なお話を伺いました。最後に強調された、知る・学ぶ、ユーモアを忘れずに挑戦していくというくだりは、納得して聞くことが出来ました。阿部先生のお話をお聞きして、改めて魅力をいくつも発見しました。参加者から「軽い語りかけで救われる」という感想もありましたが、明るい語り口は魅力です。ご両親の愛情をたっぷりと受けて育ったのだろうと感じました。
蛇足になりますが、我が国におけるロービジョンケアの先駆者として、弱視学級設立に尽力した小柳美三東北大眼科教授(初代)が、日本眼科学会創立100周年記念誌に紹介されています。「1929年に小柳美三東北大眼科教授がLV児の特殊教育の必要性を訴え、1933年に南山尋常小学校(東京麻布)に全国初の弱視学級が開設された。」
加えて、東大眼科の原田政美先生が、1965年に東北大学教育学部教育心理学科の視覚欠陥学講座に教授として赴任し、視覚障害リハビリテーションに尽力されています。こうしたことから「仙台が日本のロービジョンケア発祥の地なのでは?」という思いを強くしています。
このような背景を知ると、阿部先生が作り上げてきたアイサポート仙台は、偶然ではないという思いがします。創立10年を迎え、これからますます飛躍の時だと思います。今後の活躍を祈念しています。
平成27年3月11日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第229回(15‐03月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「視覚障害者の求めた“豊かな自己実現”―その基盤となった教育―」
講師:岸 博実(京都府立盲学校教諭・日本盲教育史研究会事務局長:注1)
【講演要約】
T 琵琶法師・按摩師〜「見えない歴史や見えない体内」を記憶と手の力で
古来日本の盲人は、「見えない歴史や見えない体内」を記憶と手の力で操作し、琵琶法師や按摩師などの業を獲得して来ました。江戸時代、当道座(注2)が自治権を認められ、幕府に重用される盲人も現れました。1682年(天和2)、盲人に鍼を教える学校「杉山流鍼治導引稽古所」(注3)も開設しました。バランタン・アユイが、世界最初の盲学校であるパリ青年訓盲院を設立した1784年よりも100年以上早かったのです。
U 明治政府の施策
明治政府は長年続いた当道座を廃止します。状況を打開する第一着手は教育でした。1878年(明治11)京都盲唖院発足、2年後、東京楽善会訓盲院も授業開始。京都の古河太四郎は「自己食力」を構想し、楽善会はその基調に自助論を据えていました。いずれも古い徒弟教育を否定し、普通教育の上に職業教育を築きました。中村正直(注4)の「天は自ら助くる者を助く」論は自我形成と生存競争、二つの課題を盲人に課しました。
V 初期の日本盲教育
京都も東京も、点字がない現実から始まりました。木に刻んだ文字、紙を用いた凸字、紙にカナカナをプレスしたイソップ物語、鍼理論を漢字・仮名交じりに成形した凸文字教科書などが作られました。墨字の書き方の練習もしました。しかし、明治10年代の盲生にとって学習は著しく困難でした。退学が相次ぎました。
W 点字の登場
事態を根本から変えていくのが点字です。人類の文字は凹字から始まりましたが、紙の発明によって平らな字に変わり盲人が読み書きし難くなりました。盲字用凸字から12点点字に飛躍し、ルイ・ブライユが6点方式に改革したことを通じて、世界の盲人にとって自由に読み書きできる文字が獲得されました(注5)。私は、アーミテージの「盲人に対する最善なるものの唯一の審判者は盲人」という提言も重要であったと考えています。
わが国では、英国の盲人アーミテージによる『盲人の教育と職業』という書籍がそれを持ち帰った手島精一から小西信八東京盲唖学校長の手に渡り、石川倉次の点字研究が始まります。その出発点で、高田出身の小林新吉少年がアルファベット点字の読み書きを円滑に行ったことが決定的な駆動力となりました。
X 小西信八の功績
明治期後半からの盲教育においては、東京盲唖学校長・小西信八の認識がもたらした影響が重要です。彼は1896年(明治29)から1898年(明治31)にかけて、欧米の障害児教育を視察しました。国家による教育を受ける権利が、盲児、聾唖児にもある(「天賦人権論」に立った認識であったかどうかは吟味を要しますが)と、はっきり主張しました。
1906年(明治39)聾唖教育全国大会 3校長(小西信八・古河太四郎・鳥居嘉三郎)の「文部大臣建言」『上申書』・・・盲ト聾トハ全ク性情ヲ異ニシ盲者ノ為ニ考慮ヲ尽シタル成案モ之ヲ聾者ニ適用スベカラズ聾者ノ為ニ工夫ヲ凝ラシタル良案モ之ヲ盲者ニ利用ス可カラズ・・・・
Y 盲・聾 教育の義務化と分離
明治から戦時中にかけて続けられた帝国盲教育会などによる運動の結果、盲・聾教育の義務化と分離は、1947年(昭和22)教育基本法、学校教育法によって果たされました。最後に盲・唖分離が行われたのは石川県で、それは1965年(昭和40)でした。特別支援教育制度の下、今後の視覚障害教育はどのような方向に向かうのか、気にかかっています。
Z 日本盲人会
1906年(明治39)には日本盲人会も結成されました。東京と京都の教員とその教え子たちが呼びかけ人に名を連ねました。メンバーの一人、左近允孝之進は点字新聞「あけぼの」を創刊し、『盲人点字独習書』という書物も発行しています。文部省が『日本訓盲点字説明』を出すより6年も早く当事者である左近允がこの仕事をしたのです。
[ 同窓会
それらに先立って、同窓会作りが1902・3年(明治35、6)に東京でも京都でも始まり、全国の盲唖学校へと広がって行きます。自らの団体を結成して歴史を一歩前に進めようという動きの基盤になったことは間違いないと考えられます。京都府立盲学校の同窓会は、昭和の初めに国産第1号として点字タイプライターを製造・販売しました。点字盤も「京盲同製」と彫り込んで販売しました。状況に対応して生きるだけでなく、状況を変える主体者として、当事者集団が立ち現れてきたことの意義は大きかったと思われます。木下和三郎の盲人歩行論にももっと注目すべきでしょう。
自己実現を求め続ける「主体」が形成・確立されてきた過程を掘り起し、公助の範囲を縮小していくかのような今日の流れを超える力はどこから生まれてくるのかを考察したいと思っております。
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注1)「日本盲教育史研究会」
2012年10月13日発足。全国各地方・学校などに埋もれている史料の発掘、保存、活用を追求し、調査・研究の成果を交流・共有。日本の明治期以降の歴史を研究することにより、今後の盲教育の方向を示唆することを企図して有志により作られた。
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「日本盲教育史研究会公式サイト」
http://moshiken.org/index.html
注2)「当道座」
江戸時代に幕府から承認された視覚障害者の組織(西洋諸国のギルドにあたる)。自治権が与えられ、検校・別当、勾当、座頭の位があり、さらに細かく全部で73階級に分かれていた。当時3000人くらいがこの組織に属していた。
注3)「杉山流鍼治導引稽古所」
小川町邸の後、本所一つ目弁財天社内に開設(江戸時代後期より本社二の鳥居の手前、南側に四間余り五間の教育施設)。 この場所は、杉山和一が徳川綱吉から拝領した。現在江島杉山神社(東京都墨田区)。1682年(天和2)9月18日、家塾を改め杉山流鍼治導引稽古所を設立。アユイによる視覚障害者教育(パリ・1784年)より100年以上前のこと、世界の教育史上特筆すべき初の盲人教育である。
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「杉山流鍼治講習所」
http://www13.plala.or.jp/sugiyamakengyou/kousyuujyo.html
注4)「中村正直」 1832年〈天保3年〉- 1891年〈明治24 年〉
西国立志編(自助論)〜1870年(明治3年)11月9日に、サミュエル・スマイルズの『Self Help』を『西国立志篇』の邦題(別訳名『自助論』)で出版、100万部以上を売り上げ、福澤諭吉の『学問のすすめ』と並ぶ大ベストセラーとなる。自助論の序文にある‘Heaven helps those who help themselves’を「天は自ら助くる者を助く」と訳した。
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「中村正直 | 近代日本人の肖像 - 国立国会図書館」
http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/305.html
「中村正直 - Wikipedia - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%AD%A3%E7%9B%B4
注5)「ルイ・ブライユ Louis Braille」 1809年〜1852年
アルファベット6点式点字の開発者
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「ルイ・ブライユ - Wikipedia - ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%A6
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追補 「新潟の先達たち」
1.小西信八(こにし のぶはち)1854年(嘉永7)―1938年(昭和13)
長岡藩医小西善硯の次男として越後国古志郡高山村(現・長岡市高島町)に生まれ、1876年(明治9)東京師範学校中学師範科に入学し、1877年(明治10)、東京高等師範学校教諭(付属幼稚園主任を兼務)、1878年(明治11)には文部省四等属に任ぜられて訓盲院掛事務となります。そして1879年(明治12)に東京盲学校教諭兼幹事となり、さらに1882年(明治15)の同校校長心得を経て、1885年(明治18)に39歳で同校校長となっています。そして、1902年(明治35)に東京盲学校が東京盲学校と東京聾学校に分離した際、後者の校長として1925年(大正14)まで務めました。
盲唖学校・聾唖学校校長、初期聾唖教育・盲教育の充実に努め、欧米歴訪で国家の教育を受ける「権利」・義務制の主張を明確化する。石川倉次と共に6点点字の開発。盲・唖分離論を唱えました。明治・大正という、障害者教育の黎明期に大きな足跡を残しました。
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「点字教育と新潟 - 博物館学を読む - Yahoo!ブログ」
http://blogs.yahoo.co.jp/rekitomo2000/64943722.html
2.大森隆碩(おおもり りゅうせき)1846 年(弘化3)―1903 年(明治36)
「医学と英語の英才」
1846 年(弘化3)高田藩医の長男として誕生。15 歳からは江戸で眼科の勉強をし、1864 年(元治1)に高田で眼科医を開業します。そしてさらなる医学の上達を志し、英語を学ぶため大学南校(現・東京大学の前身の一つ)に入学します。ヘボン式ローマ字で知られる医師ヘボンにも師事し、ヘボンの和英辞典編さんを手伝うまでに英語が上達しました。
「訓盲談話会」の設立
再び高田へ戻った隆碩は自らも失明の危機を経験したことから、目の不自由な人たちの教育について考えるようになります。1886年(明治19)には医師や視覚障害者たちとともに「訓盲談話会」を設立し、幹事長に就任。翌年には早くも高田寺町の光樹寺(寺町2)で、目の不自由な子どもたちを集め、鍼灸・あんま、楽器などの授業を始めることになりました。この光樹寺の学校が、のちに高田盲学校へと発展していくのです。この間、隆碩は「医事会」「高田衛生会」などの医療団体の設立にも尽力しています。
「高田盲学校」
1891 年(明治24)、隆碩は再三の申請の末ようやく県から認可を受けて、私立高田訓矇(くんもう)学校を設立し、校長に就任します。日本で三番目の盲学校の誕生です。隆碩はその私財の多くを訓矇学校の運営費に充てていました。またこの頃、隆碩は中頸城郡立産婆養成所の設立にも貢献し、その所長も務めています。1903 年(明治36)、療養中だった東京で亡くなりました。享年57 歳
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「日本3番目の盲学校を開校 大森ヘ碩」
https://www.city.joetsu.niigata.jp/uploaded/attachment/92476.pdf#search='%E5%A4%A7%E6%A3%AE%E9%9A%86%E7%A2%A9'
「開学の精神」後世に
http://www6.ocn.ne.jp/~oasisu/igyouden.htm
「高田盲学校の設立に尽力した眼科医・大森隆碩」
http://andonoburo.net/on/3488
3.大森ミツ(高岡清次と結婚し、高岡光子)
大森ヘ碩の次女 東京盲唖学校訓導。1904年(明治37)国定教科書「地理書」に挿入する『内国地図』を亜鉛版に打ち出し発行(初の触地図)。翌 1905年(明治38)8月には『外国地図』を発行。1914年(大正3)には辞書『言海』の点字訳を成し遂げました。夫・高岡清次は東京帝大を卒業後に中途失明した法学徒であり、光子はその学問をも支えました。なお、1909(明治42)年2月国に対して「点字公認ニ関スル請願」が提出され、あと一歩で採択されるところまで進展しましたが、内閣法制局の「点字は文字にあらず」という判断によって葬り去られました。この請願に高岡清次も加わっています。
4.市川信夫 1933年(昭和8)−2014年(平成26)
新潟県上越市出身。高田瞽女の文化を保存・発信する会代表。児童文学者。新潟大学教育学部に学び、各地の小学校に勤めた後、盲学校・養護学校などで障害児教育に当たりました。高田瞽女研究の第一人者と言われた父、市川信次の指導で瞽女研究をはじめました。退職後は知的障害者通所作業所所長、上越市文化財審議委員などを歴任。坪田譲治氏に師事して学んだ児童文学の分野では、代表作に「雪と雲の歌」や映画化された『ふみ子の海』(理論社)があります。その映画のキャッチコピーは「ほんとうに大切なものは目に見えない」でした。
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「児童文学者・高田瞽女研究家、市川信夫さん死去 功績たたえ、急逝を悼む」
http://www.j-times.jp/news.php?seq=9555
「瞽女文化」
http://goze.holy.jp/goze/hennaka2/itikawa.html
「ふみ子の海」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B5%E3%81%BF%E5%AD%90%E3%81%AE%E6%B5%B7
5.高田訓矇学校は「日本最初の盲学校」
(点字毎日連載『歴史の手ざわり・もっと!第10回』より)
明治10年代、東西二校の他に、大阪や石川などで盲教育が試みられました。しかし、条件が熟していなかったため、いずれも挫折してしまいました。従って、1891年(明治24)創立の高田盲学校が「3番目の盲学校」と言い習わされてきました。現在(執筆・掲載時点)は、県立上越養護学校内に同新潟盲学校高田分校となっています。
高田盲学校の歴史は幾つかの際立った特色を持ちます。まず、2006年(平成18)まで、一度も「盲唖学校」に変容することなく、徹頭徹尾「盲学校」として存在し続けた点です。京都も東京も、「盲唖」校であった時期に、高田は視覚障害に特化した学校づくりを初心としました。地元には、聾唖生の受け入れを望む動きもありましたが、それをあえて退けました。この経緯をふまえると、高田は「3番目」でなく、「日本で最初の盲学校」と称えるのが相応しいとさえ言えます。
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「点字毎日 2011年10月27日 歴史の手ざわり・もっと」 岸博実
http://blogs.yahoo.co.jp/kishi_1_99/GALLERY/show_image_v2.html?id=http%3A%2F%2Fblogs.c.yimg.jp%2Fres%2Fblog-b1-f4%2Fkishi_1_99%2Ffolder%2F557467%2F59%2F38786859%2Fimg_0%3F1321074146&i=1
これらの方々の足跡・業績をいっそう体系的に掘り起し、顕彰していきたいと念じます。高田盲学校の史料、市川信夫氏の仕事をどう継いでいくか、関係者のご尽力に期待しています。
PS:ささやかなお土産として、「高田盲学校30周年記念」(点字)を墨字に起こして持参いたしました。
【略 歴】
1972年(昭和47年) 広島大学教育学部卒業
1974年(昭和49年)〜 京都府立盲学校教諭
2011年(平成23年)〜 点字毎日・点字ジャーナルに盲教育史連載
2012年(平成24年)〜 日本盲教育史研究会事務局長
2013年(平成25年)〜 滋賀大学教育学部非常勤講師
6月 盲人史国際セミナーinパリで招待講演を担当
2014年(平成26年)7月 第23回視覚リハビリテーション研究発表大会で教育講座を担当
【後記】
とにかく視覚障害者への教育の歴史に対する岸先生の真摯さ優しさを感じる講演でした。一つ一つは知っている積りでしたが、歴史の流れの中で語られた視覚障害者(児)の教育の話は新鮮でした。衝撃でした。最初に述べられた、琵琶法師・按摩師は、「見えない歴史や見えない体内」を記憶と手の力で操作した人たちという認識も新鮮でした。わが国には、古くから視覚障害者に対する施策や教育があったこと、明治を機に大きく制度改革が行われたこと、視覚障害者のために点字の開発が大きかったこと、盲・聾 教育の義務化と分離に長い年月を要したこと(最近は逆に統合が進められている)。自己実現を求め続ける『主体』が形成・確立されてきた過程を知るにつれ、公助の範囲を縮小するかのような今日の流れに危惧を覚えます。
新潟の先達の働きも再認識しました。同時に、貴重な資料の保存も気になりました。あいにくの天候の中、京都から新潟(そして上越・高田)までお出で頂いたことに感謝します。
岸博実先生の、今後益々のご活躍を祈念致します。
平成27年2月28日の公開講座2015の報告
安藤@済生会新潟です。
『済生会新潟第二病院眼科 公開講座2015「細井順講演会」』の報告です。
演題:生きるとは…「いのち」にであうこと 〜死にゆく人から教わる「いのち」を語る〜
講師:細井順(ヴォーリズ記念病院ホスピス希望館長;近江八幡市)
【講演要約】
ホスピスという場で患者さんと共に時間を過ごしていると、患者さんの死から、私は生きていく力をもらっているのではないかと思うようになった。ホスピスケアは、人に生きていく力を与えることができる。ホスピスケアを通して、人類に通底する「いのち」に気づく。人はひとりぽっちではなくて、他者とのつながりの中で生きていることを知る。「いのち」は死を貫いて遺る者に受け継がれていく。
ホスピスケアは、その人がその人らしく尊厳をもって人生を全うすることを援助することである。痛みなどの症状を除くことがゴールではなく、死の孤独に寄りそうことが真のホスピスケアと考えているが、そのためにヴォーリズ記念病院ホスピスで心がけていることを述べてみたい。
(1)患者さんと話す時間を多くとる
現代医療は、高度に専門化、細分化が進んでいる。狭い領域で専門的治療を受け、医療システムの流れに乗って効率良く連携されていく。がんのように高度の先進的医療が求められる分野では、なおさらこの傾向が強い。病人は多くの医療機関を転々として、数多くの医療者の関わりの中で、診断から治療、あるいは終末期ケアまで流れていく。いくつもの診療科で診てもらうので、かかわる医師の数も増えてくる。がんの進行度に応じて何人もの医師に治療が引き継がれていくことになる。
ここで問題になるのは、各々の医師は、それぞれの専門領域を診るにとどまり、病気の治療全体の責任の所在が明確でなくなっている。つまり、主治医が誰なのかわからないということである。患者さんは、病気が治るか否かという大きな不安を抱えている。また、治療のためにどれだけ仕事を休まなければならないのか、治療終了後に仕事に復帰できるのかなど、これから先の生活のことがとても気がかりになっている。ホスピスではまず、患者さんの言葉に耳を傾けることが基本である。
(2)かなしみへの気遣い
ホスピスで過ごす患者さんが感じることは、人生の悲哀ではなかろうか。死の影が忍び寄る胸の内を分かちあいたいということだろう。患者さんの持つ陰性感情は隠れやすいとされる。「かなしい」「つらい」「苦しい」「むなしい」「切ない」などの思いに気づくことが大切である。そして、医師と患者の立場を超えて、同じ死にゆく運命を共有する弱い人間同士という気持ちで、その場と時間を共に過ごすことである。医療者として「何とかしてあげねばならない」と気負うことなく、いずれ死にゆく仲間同士という意識で、「とことんつきあおう」ということではないかと考えている。
(3)患者さんの心の旅路につきあう
ホスピスで過ごしている患者さんたちは、誰もがこれからどのような苦しみが待っているのか、死ぬときは苦しまないだろうか、などと日々起こってくる身体の変化のひとつひとつに不安を覚える。全人的ケアという意味合いを考えると、身体症状の原因には、精神的な要素、社会的な要素、スピリチュアルな要素が含まれているということである。たとえば、「食事ができなくなった」という患者さんの訴えの場合、その言葉の背後に思いを巡らせることが大切である。決して胃腸の問題だけではない。
薬が効かないというイライラが募っているかもしれないし、家族の見舞いが減っていることが気になっているのかもしれない。また、これから自分にどんなことがおこるのか不安でいっぱいになれば、食事もできないであろう。患者さんが何を思って「食事ができなくなった」と口に出したのか、この言葉をきっかけに、患者さんの心の旅路につきあうことがホスピスケアである。
(4)人生の流れの中で現在を見つめ直す
人生は物語にたとえられる。ひとりひとりの人生は、生まれてから死を迎えるまでの一巻のオリジナルな物語である。ホスピスでの時間は、その物語の大団円を迎えるときである。患者さんには、自分の人生を振り返ってもらうことがとても大切だ。今日この時まで生きてきたこと、人生で輝いていたときのこと、苦しかったときのことなどを思い返してもらい、人生が一連のつながりの中にあることを感じられたら死にゆく状況も納得しやすい。
現代日本は、団塊の世代が平均寿命を迎える10年後に多死時代を迎えるといわれている。その時を憂える声があり、死の準備を怠らないことが現代人に突きつけられた喫緊の課題である。死から学ぶことは大きい。
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【プロフィール】
1951年、岩手県盛岡市の生まれ。小学二年生のとき、医師だった父の異動で京都に引っ越し、以来、大学卒業まで京都で育つ。クリスチャンホームで、物心つく前から教会に通い、中学一年生で受洗した。父親は法医学の大家、四人の叔父は外科医。
1978年大阪医科大学卒業。自治医科大学消化器一般外科講師を経て、淀川キリスト教病院外科医長となった。その時父親を胃がんのために同病院ホスピスで看取った。このことをきっかけに96年ホスピス医に転向。2年間研修後、愛知国際病院ホスピス長を経て、2002年よりヴォーリズ記念病院にてホスピスケアを行っている。
2004年、自身も腎がんで右腎摘出術を受けた。その後、自らの体験を顧みつつ、「死の前では誰もが平等、お互いさま」をモットーにしてケアを実践している。その様子がドキュメンタリー映画「いのちがいちばん輝く日〜あるホスピス病棟の40日〜」として2013年春から全国公開され、ホスピスからのメッセージを多くの人たちに届けている。
@淀川キリスト教病院 http://www.ych.or.jp/
1973年に日本で最初にホスピスケアを行い、1984年には日本のホスピスの生みの親、柏木哲夫氏(現・同病院理事長、名誉ホスピス長、金城学院長)により国内二番目のホスピスが開設された。細井氏はホスピス医としての指導を受けた。
@ヴォーリズ記念病院ホスピス http://www.vories.or.jp/medical_dep/kanwacare.php
@ドキュメンタリー映画『いのちがいちばん輝く日〜あるホスピス病棟の40日』
http://www.inochi-hospice.com
「著 書」
『こんなに身近なホスピス』(風媒社、2003年)
『死をおそれないで生きる〜がんになったホスピス医の人生論ノート』(いのちのことば社、2007年)
『希望という名のホスピスで見つけたこと〜がんになったホスピス医の生き方論』(いのちのことば社、2014年)
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【後 記】
ホスピス医の細井順氏をお招きしての講演会。当院で3回目となりますが毎回多くの参加者があります。今回も新潟市、新潟県は勿論、神奈川県・宮城県・長野県・山形県からも参加頂き、80名を超える参加者で盛況でした。
細井節は快調でした〜「いろいろな方々との最後の時を一緒に過ごし学んだことは多い。死にゆく人は遺される人に生きていく力を与える。この力が『いのち』と呼ばれるものではないのだろうか。ホスピスでは生死を超えた『いのち』にであうことができる。。。。。」
講演の後で会場から沢山の質問も頂きました。最後までみてくれるホスピスを探すにはどうしたらいいのか?認知症の方とのコミュニケーションをとることは可能か?ターミナルケアと緩和ケアというのはどう違うのか?音楽療法は行うのか?最期を看取るのは長い間診てくれている開業医の先生ではダメなのか?ホスピス医と家庭医の違いは何?医者の勧める治療法を受け入れたいが、自分の生き方とぶつかることもある。如何にしたらよいか?多くの悩みを抱え、余命いくばくと宣告された方と如何に向き合えばいいのか?ホスピスには宗教的なバックボーンは欠かせないのか?医師は患者と向き合いエビデンスに基づいた治療を行うが、同時に患者に寄り添うホスピス的なケアを同時に並行して行うことは可能なのか?、、細井先生はこれら多くの質問に丁寧に答えてくれました。
今回初めて講演会終了後、細井氏著書の販売/サイン会も行いました。多くの方が事前に購入し読了してから参加しており参加者の意識の高さを知ることができました。書籍販売の本屋さんはがっかりでしたが、、、
死は誰にでも訪れるものですが、準備ができているかと問われて大丈夫と答えることの出来る人は少ないのではないでしょうか?細井氏は死について、そして死を迎えた人との向き合い方について淡々と語りました。その普通の語り方に凄さを感じました。ホスピス医は、時に「死神が来た」と揶揄されることもあるそうです。
でも、「あなたのことを私は最後までみます」と言われたら、その人はどんなに安心するでしょう。現在の医療は、多くの部分を専門家が担っています。自分の専門のとこ
ろが終了すると次のところを紹介という医療が最前線と考えられがちです。こうした医療の在り方、そして己を見つめ直す機会となりました。病を治すことが医療者の仕事です。しかし、メスや薬では治らない場合、「やすらぎ」を感じてもらうような医療を提供することも大事なことだと思い至りました。
講師の細井氏、最後まで熱心に講演会に参加された方々、会場の準備・整理をして頂いた方々、講演会の模様を中継して頂いた方々、会場を提供してくれた病院関係者等々、すべての方々に感謝致します。
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【さらに細井順を知りたい方へ】 「いのち」について(細井順:死にゆく人に生かされて. 環境と建康27巻4号pp.416-426、2014を再構成した 細井順)
(1)木村敏に学ぶ
私のホスピス観を表すと、「生死を超えたいのちの在りかを共に探し求め永遠を想い、現在を生きる」となる。ここで平仮名の「いのち」について考えてみたい。
「いのち」についての考察を深めるために、臨床哲学者木村敏の生命論的差異という考え方を援用したい。木村は、生命を個別的生命である「生」と、普遍的生命である「生それ自身」との二つに分けて考えた。個別的生命「生」は、死で終わる有限なものであり、普遍的生命「生それ自身」は、すべての生きものに通底し、死で区切られない無限性を持つ。「生」と「生それ自身」とのあいだを「生命論的差異(=主観性)」と言う。この誰にでも通底している普遍的生命が「いのち」の素になっている。
(2)「いのち」の誕生
今、ある二人の人物が出会っているとしよう。A氏とB氏である。A氏とB氏はそれぞれに「生」と「生それ自身」を持ち、そのあいだを「主観的」に生きている。そのふたりが出会ったときには、A氏の主観とB氏の主観とのあいだに「間主観的」といわれるあいだができる。そのあいだを「いのちが生まれる空間」といい、人と人はこの「いのちが生まれる空間」で出会う。人と人との出会いは様々である。A氏、B氏ともに健康で、死を特別に意識せずに日常性のなかで出会うなら、この間主観的というのはそれぞれの個と個とが出会い、各々の「生」が中心となり、「生それ自身」は背後に隠れる。
「生それ自身」は通常の関係性の中では特に意識されることなく、両者が健康で、競い合っているような場合には問題にならない。しかし、A氏、B氏の両者、あるいは片方に死が迫っているような、非日常的な場面では、ふたりに通底する「生それ自身」が表に出てくる。そして、日常的・個別的な「生」は後退し、ふだんは深奥で隠れている「生それ自身」が呼び覚まされてくる。このようなときには、ふたりの個別性が強調される方向ではなく、ふたりの共通性が優位になってくる。ふたりに通底する「生それ自身」が前面に現れたときに、A氏とB氏のあいだに生ずるのが「いのち」と呼ばれるものだと考える。生命の危機に臨んで、普遍的生命がふたりを結んだときに「いのち」が生まれる。
そう考えると、死を通路にして「いのち」が生まれるということになる。「いのち」は生まれるものなのだ。最初から備わっているものでなくて、出会いの中で生まれるものを指す。死という有限性を持つ人間が、無限に開けた存在となるために、「いのち」があると考えている。人間とは、ひとりの人間存在としてあるのではなく、誰かとの関係、木村の言葉では「あいだ」の中にある。そうだとしたら、私がいのちの臨床で感じる、「ひとはひとりでは生きられない、死ねない」ということも説明できるように思われる。
(3)「いのち」は受け継がれていく
ホスピスで死にゆく人たちとのあいだに生まれた「いのち」は、「普遍的生命」に根ざしたものである限り、私ひとりが生きていく力となるばかりではなくて、遺された家族、かかわってきたホスピスのスタッフにも、あるいはその患者さんと深いかかわりのあった全ての人たちの生きていく力になっていくものだと考えたい。
愛する人を亡くするかなしみは個人的なものである。だが、誰もが持っている普遍的生命(「生それ自身」)が「いのち」の素となって、そこで「いのち」が生み出される
ならば、それは、死の通底性から多くの人とのあいだにも「いのち」が生まれていくのである。そして、その広がりはついにひとつの「いのち」に還元されていくように思える。「いのち」とは、このように普遍的なものである。「いのち」は死を超えて次の世代に受け継がれていき、無限に続くものである。
人間はつながりの中でしか生きられず、そのつながりこそ、平仮名の「いのち」であると考える。「いのち」は、各々の生活の中にあって、他者との出会いを生き生きとしたものに換え、喜怒哀楽を演出して、人から人へと代々受け継がれていくのである。人生は物語にたとえられると前述した。ここでもうひとつの物語を考えたい。前述したものを横の物語とするなら、ここでは縦の物語と名づけよう。親から受け継ぎ、幾世代にもわたって綴られ、同時代の人々と和してひとつの章節を書き込み、次の世代に引き継がれる「いのち」の物語である。この物語は一人ひとりに生きる意味を与えてくれる。こうして、ホスピスでの死にゆく人たちとの出会いは私に生きる力を与えてくれるのである。
平成27年2月4日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第228回(15‐02月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「視覚障害者の化粧技法について〜ブラインドメイク・プログラム〜」
講師:大石華法(日本ケアメイク協会)
【講演要約】
1.現在化粧の動向と視覚障害者
化粧は,顔の容姿を美しく装うだけのものではなく,社会人女性としての「身だしなみ」と言われるまでになっている.現在では1人の成人した女性として社会に参加するには,「身だしなみ」の1つとして化粧することが習慣化されている.
女性が美しくなることに関する研究や商品開発は止まることを知らず,綺麗な容器に身を包んだ化粧品や美容アイテムが次々と生産されて女性を魅了し続けている.昨今では若者女性の間で,目を大きく魅力的に見せるアイメイクの流行により,マスカラ,付け睫毛,アイライン,カラーコンタクトレンズなどを着用し,華やかで個性ある化粧を施す女性が多くなった.
今や化粧は社会人女性としての「必須アイテム」となり,「アイデンティティ」の確立に寄与しているとさえいわれている.また化粧の本格的な習慣化は,成人としての社会参入条件であるとの指摘もある.これらの報告から現在社会における化粧は,女性にとって,自身の生き方や社会生活と大きく関連するものであることが指摘できる.
2.化粧と視覚障害者の現状
化粧社会と言われるなかで,視覚に障害を有することで自分自身の顔を鏡で見ることが不自由な女性は,化粧をしなくなる傾向がある.その背景には,視覚に障害を有しながらも化粧を試みるが,他者からの低い評価を受けたことで自信を失い,自己肯定感が低くなるなどの心理的な影響によるものが多い.低い評価の例として,「化粧がムラになっている」「チーク(頬紅)やアイブロー(眉毛)が右対称ではない」「口紅がはみ出している」「化粧が濃すぎる」などがあげられている.
このような低い評価を受けたことで,化粧することに対して不安や恐怖を感じて,化粧をしなくなる傾向にある.また,化粧したくてもできないことでコンプレックスを持つ女性も多い.これらから,視覚に障害を有する女性にとって化粧をしたくてもできないことは,化粧社会の女性の中で疎外感を持つことにつながり,女性性を低下させる要因の1つになっているのではないかと考えた.
3.視覚障害者に向けた化粧支援
演者は化粧活動の中で,化粧したくてもできないことでコンプレックスを抱えている視覚障害者に多く出会った.この出会いがきっかけとなり,視覚障害者に化粧の色彩や仕上がりを音声にした情報を提供することに関心をもった.
化粧品や色彩などの美容情報を口頭で伝えながら化粧施術をすることで,視覚障害者は自身が化粧により綺麗になっていく工程を化粧施術者の音声情報により認識して,化粧を楽しむことができた.また他者から「綺麗」「可愛い」「美しい」など女性特有の称賛を受けることで自信を取戻し,外出支援に繋がると期待された.
しかし,この活動には限界があった.それは化粧技術者が視覚障害者に化粧を施した直後の場合では綺麗に仕上がった状態であるが,「食事をすると口紅が落ちた」「汗で化粧が崩れた」など化粧にはパーマネント性がないため,1度化粧崩れしてしまうと「化粧直し」という2次的な支援まで活動が行き届かないことであった.
4.「ブラインドメイク・プログラム」の開発
そこで演者は,視覚障害者に化粧施術者によって化粧すること自体を抜本的に見直した.視覚障害者が他者からの施しによって化粧されるのではなく,自分自身で化粧ができる「化粧の自己実現」に意義があると考えた.この考えから,2010年に鏡を見なくてもフルメイクアップができる「ブラインドメイク」の化粧技法を開発した.
そして,化粧の仕上がりは結果主義や成果主義であることから,化粧工程に工夫とテクニックを組み入れた.化粧の仕上がりを「バランスの取れた自然な仕上がり」に見せることを課題として合理的かつ効率的な化粧技術を追求した.この研究から無駄な動きを省いて合理的かつ効率的に鏡を見なくても化粧することができる「ブラインドメイク・プログラム」を完成させた.(映像視聴:12分30秒)
5.障害者ではなく,ひとりの女性として
ブラインドメイクができるようになった視覚障害者の女性は,「自信が持てる」「外出したくなる」「人と話がしたくなる」(心理的有効性),「元気になる」「食欲が増す」(身体的有効性),「周囲の人が親切になった」「声掛けや手引きをしてくれる人が多くなった」(社会的有効性)と述べている.これらから,社会的視点では,視覚障害の女性を“障害者”ではなくひとりの”女性”として認識し,尊重した接し方をしていると考えることができる.また,視覚障害者からの視点では,ひとりの女性として社会的配慮ができるということ,そして社会へ参加する前向きな意思があるという周囲へのアピールになっていると考えることができた.このような取り組みが社会に向けた視覚障害者からの理解を深める1つの活動につながり,彼女たちの声掛けや手引きにつながっていると考えている.
追伸 「理美容ニュース」で,昨年,日本美容福祉学会で発表しましたブラインドメイクの研究が取り上げられて,記事になりました.ご一読いただけましたら幸いです.この発表がきっかけで,今年の秋から,美容専門学校のメイク科で,ブラインドメイクを科目に入れていただくことになりました(大阪市中央区)。私のもう一つの役割として,ブラインドメイクを通して,広く社会に視覚障害者を理解してもらうことと考えています.
http://ribiyo-news.jp/?p=13994
【略 歴】
1995年,中央大学 法学部法律学科 卒業
2010年,大阪中央理容美容専門学校 卒業
2012年,日本福祉大学 福祉経営学部 卒業
2013年,日本福祉大学大学院 社会福祉学研究科 在学中
日本ケアメイク協会 会長(2010年〜2014)
http://caremake.on.omisenomikata.jp/
【後記】
大石さんは、中央大学法学部出身、理容師の資格を持ち、普段は司法書士として仕事をし、かつ福祉大学の大学院で学んでいます。そして目の見えない方のためのメイクを独自の手法で開発し、広めているのです。浪速っ子。講演は、パワーに溢れていました。ユニークでした。有意義でした。楽しかったですし、元気をもらいました。
講演を聞きに来た方々を巻き込み、突っ込みをいれての熱演でした。初めから笑いの連続であっという間の90分でした。
曰く、・女性には化粧が大事。・化粧のコツは、左右対称にするために両手を使う。・筆より指がいい。・メイクの中心は「目」。・目を大きく見せる・睫毛は長く見せることが大事。・褒める、でも悪いとこはしっかり伝えるも大事。・私は綺麗という自信(勘違い)が大事。・キレイニなることで、社会への参加の機会が増える。・いつまでも異性に対するワクワク感、トキメキ感が大事。・環境や周囲の理解が大事。・福祉関係の人にメイクに関心がない人が多い、、、、、、、、、「小じわが気になるんです」というと、よく「そんなの心配ない。私はもっとある」とか言われてしまう。そんなことを言われたら、(あなたはそれでいいのかもしれないけど、私は嫌だ)と思う。。。。。
実際のところ、視覚障害者にとって先ずは日常の生活ができるようになることが求められ、化粧は次の段階であろうと思います。化粧品の購入にはお金もかかります。
しかし視力を失い多くのことを諦めるようになった方々が、(特に女性の場合)「ブラインドメイク」によって、諦めた多くのものを取り戻せるきっかけになるのではないかと強く感じた次第です。
大石さんの今後の益々の活躍を応援したいと思います。このプロジェクトが発展し、多くの視覚障害者に希望をもたらしてくれることを祈念します。
平成27年1月14日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第227回(15‐01月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「視覚障がい者としての歩み〜自分と向き合いながら、社会と向き合いながら」
講師:青木 学 (新潟市市会議員)
【講演要旨】
1. 視力を失って
小学6年の時、網膜色素変性症のため、視力を失いました。6年の初めころまでは野球や自転車に乗ることができるくらいの視力がありましたが、急激に下がっていきました。見えなくなったことは当然ショックでしたし、それと同時に、自分は目の見えないだめな人間なんだ、何もできないだめな人間なんだという気持ちも強く持つようになりました。そしてこのように見えなくなった自分の姿を周りの人に見られたくないという気持ちも強く、近所の人が家に来るとすぐに奥の部屋に隠れたりしていました。
2. 盲学校入学
中学から新潟盲学校へ進みました。周囲の生徒、教員、寄宿舎の先生方は視覚障がいというものに慣れており、私自身、見えない状態で生活を送ることに比較的早く順応できるようになりました。視覚障がい者用にアレンジされた野球やバレーボールなどのスポーツ、またギターを始めるなど、楽しい中学生活を送っていました。
ただ、今では体の一部のようにして使っている白状を持って外を歩くことはとても屈辱的なことでなかなかできませんでした。
3.盲学校の外の世界へのあこがれ。
楽しく過ごしていた中学生活が終わり、高校生になったころから、もっと多くの人と出会って、もっと広い世界を見てみたいという気持ちが膨らんできましたが、一方で目の見えない自分には何もできないと自分の気持ちを押さえつけていました。
そして3年の進路相談の時、担任の先生から「外の世界を見てみないか、例えば一般大学に行ってみるとか」と言われました。当時の私には想像もできない世界であるとすぐに断りました。その後、私もその先生の言葉をじっくりと考え、自分自身も以前から外の世界を見てみたいという気持ちを持っていたので、どんなに失敗したとしても命まで取られることはない、後で後悔するよりもやれることをやった方がいいと思い、思い切って大学進学を決意しました。
4. 大学進学への挑戦
1年間視覚障がい者用の大学進学準備課程ある京都府立盲学校で受験勉強をし、そこでボランティアに来てくれていた大学生と交流したり、英語を専攻しようという目標も定まり、とても有意義な時を過ごしました。
そして何とか目標校であった京都外国語大学英米語学科に入学することができました。入学の手続きの際、職員から「あなたが見えないからといって、大学側は特別なことはできない」とまず念を押されましたがそれは自分が勝手に大学進学を希望したのだから当然のことと思いました。教科書の点訳などは自分でボランティアを探して依頼し、授業に間に合わせるようにしていました。周囲の学生たちとの関係では、お互いに最初はぎこちなく接していましたが、時間が経つにつれ、ごく自然に付き合えるようになりました。
4. アメリカ留学
卒業後については、入学当初に出会った先生の影響もあり、アメリカに留学したいという目標を立てていました。そして多くの方のご協力もあり、それを叶えることができました。
アメリカでは、専攻の英語学を深めるということが一番の目的でしたが、それと同時に、障がい者の受け入れ態勢が進んでいるとも聞いていたので、どのようになっているのかその点にも興味がありました。大学では、スペシャルサービスという機関があり、そこが中心となって障がいのある学生に必要な支援を行うシステムになっていました。そのサポートを受け、障がいのある学生も他の学生と同じようにキャンパスの中で学び、生活をしていました。
こうした体験を通じ、それまでは目の見えないことを自分個人の欠陥と捉えていましたが、初めて社会との関わりの中で捉え、考えるようになりました。
5.日本に帰国し市議会へ
社会に対する疑問は、それを感じた当事者が、当事者の言葉で周りに伝えていかなければ社会は変わらないと想い、新潟に戻ってから様々な市民活動や障がい者運動に参加するようになりました。その中で、長年にわたって、この日本そして新潟でも、障がい当事者の運動を続け、様々なことを改善してきた実績に触れ、私のそれまでの世界の狭さを思い知らされ、反省させられました。
私自身、就職の壁に突き当たり、試験や面会の機会すら与えず、視覚障がい者であるということを理由に門前払いする事業所の対応に本当に強い怒りと悔しさを覚えました。そして活動を通じて出会った友人から、やはり政策決定の場に、障がい当事者が参画していく必要があるとの話をもらい、紆余曲折を経て、市議会に立候補することになりました。そして多くの方のご支援とご協力をいただき、現在まで5期20年を務めさせていただいている次第です。
6.進む法整備
国連の場で、2006年に障害者の権利条約が採択され、その後、日本でも批准に向け、障がい者団体が国内法の整備を求め、広範な運動を展開してきました。そして2011年に障害者基本法が改正され、障がい者への差別の定義とその禁止が盛り込まれました。そして2013年には障害者差別解消法が制定され、2014年にはついに日本でも障害者権利条約が発効されました。
私は2008年、国内法の整備と並行して、障害者の権利条約の理念を踏まえ、新潟市として市の実情を踏まえた条例の制定を目指すべきとの提案をし、市長から前向きな答弁がありました。その方針に沿って、現在(仮称)障がいのある人もない人もともに生きる新潟市づくり条例の検討がすすんでおり、来年度中の制定を目指しています。もちろん条例が制定されただけですべてが大きく変わるわけではありませんが、この条例とあわせ、各種施策を充実させながら、また市民から関心を持ってもらい、意識を高めてもらうための啓発活動も粘り強く進めていかなければなりません。
こうした努力を積み重ねながら、新潟市が真に一人ひとりの存在を尊重し、安心して暮らせるまちであると実感できるように、多くの皆さんと今後とも活動を進めていきたいと思っています。
【略 歴】
1966年 旧亀田町(現新潟市)に生まれる。小学6年の時に失明。
新潟盲学校中・高等部、京都府立盲学校専攻科普通科を経て、京都外国語大学英米語学科。
1991年 同大学卒業。米国セントラルワシントン大学大学院に留学。
1993年 同大学院終了。帰国後、通訳や家庭教師を務めながら市民活動に参加。
1995年 「バリアフリー社会の実現」を掲げ、市議選に立候補し初当選を果たす。
2011年 5期目の再選を果たし、2年間副議長を務める。
現在議員の他、社会福祉法人自立生活福祉会理事長、新潟市視覚障害者福祉協会会長、県立大学非常勤講師としても活動中。
http://www.aokimanabu.com/
【後記】
青木さんとは長いお付き合いです。視覚障害者で市会議員ですから、いろいろな機会にお会いしていました。しかし、ご自身のことをお聞きしたのは今回が初めてでした。感動しました。どんな演説より雄弁でした。
目が見えなくなったころの少年時代。盲学校での生き生きした生活。京都府立盲学校での受験勉強、京都外国語大学での生活。留学時代のお話、そして市会議員へ。サクセスストーリーではありますが、大いに共感し感動しました。
幾つかのフレーズが印象に残っていますが、日本の大学での入学の手続きの際、職員から「あなたが見えないからといって、大学側は特別なことはできない」と言われたこと。米国の大学に留学した時、スペシャルサービスという障害者のための支援をするところで、「あなたが学ぶために、私たちにできることは何ですか?どういうサポートが必要ですか?」と言われたとのこと。こうした体験を通じ、それまでは目の見えないことを自分個人の欠陥と捉えていたが、初めて社会との関わりの中で捉え、考えるようになったといいます。
青木さんは、1995年に新潟市市会議員となり、現在5期を務めています。今後も新潟市のため、いや日本の障害者のために活躍して欲しいものと祈念しております。
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