済生会勉強会の報告 2014
平成26年12月10日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第226回(14‐12月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:視覚障害児者の福祉・労働・文化活動への貢献 〜盲学校が果たした役割〜
講師:小西 明(新潟県立新潟盲学校)
【講演要旨】
T 最近の障害児者をめぐる法整備
平成26年(2014)2月19日「障害者の権利に関する条約」が発効しました。我が国において障害者等が積極的に社会参加できることや、相互に人格と個性を尊重し支え合い、人々の多様な在り方を相互に認め合える全員参加型社会の形成への取り組みが、今後一層進展するものと期待されています。教育においては、こうした共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための様々な施策が推進されています。
このことは平成18年(2006)国連総会において「障害者の権利に関する条約」が採択されたことにはじまります。我が国は、平成19年(2007)9月に同条約に署名し、6年半後に発効にこぎ着けました。
この間、下記のとおり批准に向けて必要な国内法の整備が進められ、障害児者に関わる法制度改革がなされてきました。今後も整備の充実や一層の改善が求められています。
平成23年(2011) 8月 障害者基本法の改正
平成24年(2012)10月 障害者虐待防止法
平成25年(2013) 4月 障害者総合支援法
平成25年(2013) 4月 障害者雇用促進法の改正
平成25年(2013) 4月 障害者優先調達推進法
平成25年(2013) 6月 障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律
平成25年(2013) 9月 学校教育法施行令の一部改正
U トータルサポートセンター
障害児者に関する教育や福祉等に係る法整備は、この四半世紀に大きく前進しました。遡って盲聾学校の義務制が布かれた戦後間もなくの頃は、まだまだ未整備であったことは周知のことです。今から140年ほど前、明治11年(1878)日本ではじめての盲学校、京都盲唖院の開校から現行法制度に至までの過程で、全国盲学校は教育に留まらず、視覚障害者にとってトータルサポートセンターとしての役割を担ってきました。例えば、三療や音曲などの職業教育、公立点字図書館設置運動、三療以外の職業開拓、視覚障害者のスポーツ振興など、ニーズに応じ積極的に支えてきた歴史があります。法整備が整うまでの長い間、盲学校は教育のみならず福祉・労働・文化・スポーツなど、様々な分野で先導的な役割を果たし、時代の先駆けを担ってきたのです。
V 視覚障害者を支えた組織
1 御大典記念新潟県立新潟盲学校奨学会
盲聾学校の義務制が、昭和23年(1948)4月より小学部1年生から学年進行ではじまりました。制度は整ったのですが、実際には家庭の経済的な問題、いわゆる貧困により、盲学校や聾学校に就学したくてもできない未就学が大きな課題でした。そこで、昭和26年6月に「盲学校、聾学校、養護学校への就学奨励に関する法律」が施行されました。教科書などの教材費、給食費、舎食費など就学に関わる費用の一部が国庫や県費から支出されるようになりました。これより以前、このような公的支援がない時代、昭和3年(1928)8月当校では独自の奨学金制度を立ち上げていました。それが御大典(ごたいてん)奨学会です。昭和天皇の皇位継承を記念して、篤志家から寄付を募りこれを基本金として、その利子を貸し与えるというものでした。当校には、奨学会設立趣旨書や定款が残されています。
2 新潟県盲人協会
現在の社会福祉法人「新潟県視覚障害者福祉協会」の前身である、「新潟県盲人協会」は、大正9年(1920) 6月19日に、刈羽郡柏崎町の中越盲唖学校で開催された県下盲唖学校出身者による連合有志会で設立されています。 設立時の会長は、新潟盲唖学校教員の高橋幸三郎、副会長は、中越盲唖学校教員の姉崎惣十郎の2人、理事8人の体制でした。事務所を、西堀通3番町にあった新潟盲唖学校内に置き、昭和5年(1930)に新潟盲学校が関屋金鉢山に移転すると、そこに移動しています。会長が新潟盲学校教員であり、事務局を所属学校としていたので、実質は盲学校で運営していたといえます。 事業として、設立当初から、点字雑誌を年4回発行。当時貴重だった点字図書を県内5カ所で巡回文庫として設置(大正15年より点字図書館に統合)。出張講演会の開催。点字の普及や三療など職業に関する座談会の開催など多岐にわたっています。 戦中、戦後の混乱期を経て昭和25年4月、県立第7代校長塚本文雄先生が、初代新潟県盲人福祉協会長として就任されました。会員の福利厚生を図り、視覚障害者相互の共励と親睦、研修に敏腕を発揮されました。
3 新潟盲学校同窓会
当校同窓会は、開校5年後の明治45年(1912)3月23日の第1回卒業式で4名の卒業生を送り出した日から始まります。同窓生が少なかったことから発足から、昭和2年(1927)までの15年間は、在校生も含めた組織でした。事務局は母校内とし、母校教員が事務処理を担当しました。この体制は同窓会設立から102年を経過した現在も変わりません。
昭和10年(1935)からは、同窓会長を校長が兼務することとなり、県立第5代校長樋口嘉雄先生が就任されました。学校は同窓会を支え、あるいは一体となって、同窓生の福利厚生や就労の支援をしていたのです。点字機関誌「舟江の六光」の発行や総会の開催から懇親会、あるいは被災同窓生の募金まで手がけました。また、日常生活に欠かせない白杖、点字盤、点字紙、ゲーム用品、糸通し、醤油差し等々を当校購買部が同窓生に小分けしていました。現在のように宅配便やネット販売など無かった時代ですから、当校が視覚障害者用具の卸や販売部の役割をしていました。
W 就労
1 明治維新以後の視覚障害者
明治4年、それまでの当道座が廃止され、同7年の医制発布により、鍼灸業者は西洋医家の管理下に置かれることになりました。更には、明治18年の「鍼灸術営業差許方」の発令で、営業の可否審査が行われるようになり、明治44年「按摩術営業取締規則」「鍼術灸術営業取締規則」で、営業を行うには、試験に合格するか、指定学校を卒業して地方長官(知事)の免許鑑札を受けることが義務づけられることになりました。江戸時代までの視覚障害者は、当道座により男性は琵琶、琴、三味線等の音楽、鍼灸、あん摩、貸金業等、女性は瞽女等なんらかの仕事に就くことが可能でしたが、それができなくなりました。
2 盲学校(視覚障害教育)のはじまりは職業教育
@<鍼灸、あん摩> 明治18年10月、新潟の鍼按業関口寿昌(としまさ)は、盲人教育と鍼灸師養成は、それまでの徒弟制度ではなく、学校教育によらなければならないとして「盲人教育会」を設立しています。関口の死後、盲人教育会は消滅してしまいましたが、これが当校の前身、新潟盲唖学校設置の母体といえるようです。
一方、上越では中頚城郡高田町(上越市)に、明治19年(1886)訓盲談話会が組織され、同21年には、「盲人矯風研技会」に改名し、盲児に鍼按、琴などの指導を始めています。このように、学校設置により教育を行い、手に職(鍼灸・あん摩)をつけさせ、視覚障害者の生活を安定させたいというのが関係者の切なる願いでした。
A<音楽> 音楽は、盲学校の職業教育として鍼按とともに早くから取り上げられ重視されてきました。音楽科教育のはじまりは、楽善会訓盲院で明治14年、箏曲をはじめとする邦楽を教授したのが始まりです。次いで、洋楽の指導も始まりました。
音楽科の設置は、全国十校ほどありましたが、昭和三十年代、四十年代に閉科し現在では2校となっています。
B<理学療法> 昭和三十年代半ば頃から、障害者に対する医学的リハビリテーションの推進策が政府をはじめ重要課題として取り上げられるようになりました。そこで、理学療法士、作業療法士の養成することが急務となりました。昭和39年(1964)4月に、現在の筑波大学附属視覚特別支援学校と大阪府立盲学校の二校に理学療法士養成課程が設置され、後に徳島県立盲学校にも設置されました。卒業生は国家資格を取得後、病院やリハビリテーション施設で活躍しています。
C<情報処理> 1990年代からIT機器の飛躍的な進展により、視覚障害者が使いこなせる情報機器やソフトの開発が活発になりました。これを受け平成3年(1991)4月筑波技術短期大学(現:筑波技術大学)に情報処理に関する学科が開設されるとまもなく、平成5年(1993)4月大阪府立盲学校高等部専攻科に情報処理科が設置されました。IT機器が各盲学校に導入され、自立活動の時間を中心に積極的に活用されるようになりました。この頃から情報処理技術の活用により、視覚障害者が一般企業へ就労するようになりました。
D<その他> 昭和36年度から、当時の文部省では視覚障害者にふさわしい新職業の開拓が始まりました。盲学校及び聾学校の特殊教育職業開拓費として、十学級(一学級十名)六百万円が計上され、盲学校では5校にそれぞれ一学級の新職業科が設置されました。 北海道庁立札幌盲学校(農産物栽培科―椎茸)岩手県立盲学校(養鶏科) 神奈川県立平塚盲学校(電気器具組立科) 大阪府立盲学校(ピアノ調律科) 徳島県立盲学校(養鶏養豚科)
これらの新職業科の中で、ピアノ調律科以外は短期間で閉鎖され、ピアノ調律科も、後に山形県立山形盲学校にも設置されましたが、大阪府立盲学校ともに、平成に入る頃までに閉鎖されました。
3 三療(あはき)業団体と盲学校
三療業者は、視覚障害者、晴眼者を問わず三療に就業している人々が団体を組織し種々の活動しています。代表的な団体は、いずれも公益社団法人である「全日本鍼灸マッサージ師会」「日本鍼灸師会」「日本あん摩マッサージ指圧師会」です。これら三団体の設立や運営に、盲学校理療科教員が深く関わっていた経緯があります。戦後の盲学校理療科教員は生徒の学習指導とともに、卒業後に三療で自立した職業人として仕事が進められるように、法整備から社会への理解啓発まで、多彩な活動を展開しました。現在では、各団体組織が独自に法人運営を行い、教職員が関与することはありません。
4 三療研修と盲学校
三療の組織的な研修は盲学校がはじまりです。現在では使用されていませんが、当校は長い間、卒業生の三療研修の場、実習室等が研修会場でした。 歴史を紐解くと、休日に「鍼研究会」とか「スポーツマッサージ研修」 「卒後研修」等が学校開放され開催されていたようです。講師は盲学校理療科教員が担っていました。盲人協会と同様に、盲学校が職業教育(三療)の先頭に立って牽引していたのです。
5 福祉作業所と盲学校
平成25年4月1日から「障害者自立支援法」が「障害者総合支援法」へと移行されるとともに、障害者の定義に難病等が追加され、平成26年4月1日から重度訪問介護の対象者の拡大、ケアホームのグループホームへの一元化などが実施されました。福祉サービスは、通所サービス(就労継続支援A・B型、生活介護等)居住サービス(グループホーム等)に再編整備されました。
振り返って、昭和40〜50年代(1970〜80)は障害児者の福祉や労働に係る法制度が未整備な段階でした。当時、全国の盲学校では高等部重複障害生徒の進路先が一部の施設に限られ、卒業後の在家解消が大きな課題でした。当時は作業所等の福祉施設が少なく、視覚障害者が入所できる機会に恵まれないケースが多かったのです。そこで、盲学校の保護者・教職員・卒業生が施設建設に立ち上がったのです。地元、新潟市江南区の「のぎくの家」をはじめ、現在では社会福祉法人として大組織となった福井県鯖江市の「光道園」や同千葉県四街道市の「ルミエール」など、当初は盲学校関係者の小さな力の集まりでしたが、次第に地域の理解・支援を得て、現在では安定した施設運営がなされています。
X 文化・スポーツ
<文化>
1 点字図書館
現在の新潟県点字図書館(ふれあいプラザ内)のはじまりは、中越盲唖学校教員であった姉崎氏によるところが大きく、研究者によれば、わが国最初の点字図書館の可能性が高いといわれています。その後、当校内に設置されたり、県立移管後は当校校長が館長を兼務したりするなど盲学校とともに歩んできた歴史があります。
大正 9年12月 中越盲唖学校教員(現:柏崎市)の姉崎惣十郎氏が自宅で「姉崎文庫」を開設する。
大正14年10月 「姉崎文庫」新潟県盲人協会に引き継がれる
昭和20年 4月 点字図書館が新潟県立新潟盲学校盲学校内に移転される
昭和33年 4月 任意団体盲人福祉協会立の点字図書館が新潟県に委譲され同時に、新潟県立新潟盲学校(新潟市金鉢山)隣接地に移転し、塚本校長が点字図書館長を兼務する
昭和44年 4月 点字図書館が新潟市川岸町一丁目に新設・移転される
平成 9年 3月 点字図書館、新潟ふれ愛プラザ(亀田町向陽)内に移転
〜 以下略 〜
2 点字にいがた
点字にいがたは、新潟県施策の広報を目的に、昭和44年(1969)第1号が発行されて以後、本年夏号で第253号となりました。現在は、編集・印刷を新潟県視覚障害者福祉協会が担当していますが、点字印刷が普及していなかった昭和の時代は、当校で点字印刷され配付されていました。亜鉛板を二つ折りにし製版機で点字を打ちます。折られた亜鉛板の間に点字紙を挟み点字印刷機と呼ばれる2つのローラーの間を通すと点字が打ち出される仕組みです。 その後、広報は「県民だより」となり、平成4年(1992)には点字版とともに音声版の「ボイスにいがた」も発行されるようになりました。当校は毎号「教育の窓」欄に新潟盲学校の様子や児童生徒の作文などを掲載しています。
3 全国盲学生短歌コンクール
コンクールは、岐阜盲学校高等部生徒会の主催で実施され、平成26年度で第58回を迎えます。目的は、短歌を通じて豊かな感性を育て、同じ境遇におかれた盲学生相互の心の交流を図ることです。全国盲学校の児童生徒からたくさんの応募があります。
新潟県視覚障害者福祉協会では、例年秋に視覚障害者文化祭が開催され、その場で俳句・短歌の表彰がおこなわれています。今年で64回を迎えますが、伝統を築いたのは全国盲学校の教育です。当校も例外ではなく、戦前から俳句・短歌の指導に力を入れ、盛んに詠まれました。昭和30年代の当校「PTAだより」にも生徒や職員の作品が掲載されています。
<スポーツ>
4 グランドソフトボール(盲人野球)
盲学校でおこなわれる野球、現在のグランドソフトボールのルーツについては、よく分かっていません。伝えられているところによると、昭和の初め頃(1926頃)今から約90年前、すでに各地の盲学校の体育の時間や放課後に行われていたようです。ただし、当時野球は、今のようにしっかりルールがあるものでなく「投げて、転がす」単純な遊びに近い野球だったようです。その後、改良され現在のルールに近いものとなりましたが、第二次大戦で中断します。戦後、盲学校生の間にも野球熱が高まり、昭和26年(1951)7月点字毎日創刊30周年を記念して、第1回全国盲学校野球大会が大阪府立盲学校グランドで開催されました。昭和42年から平成8年まで中断されましたが平成9年から再開され、平成18年度第21回の新潟大会を数えるまでになり、ルールも整備されました。こうして盲学校を中心として行われていた盲人野球は、盲学校の生徒だけでなく、卒業生にも浸透し、国体後に開催される全国障害者スポーツ大会の正式種目となり、各地において社会人チームが結成され、地区大会が開催されるようになりました。このように盲学校が築き上げてきた伝統を、これからも継承してほしいものです。
5 柔道
わが国発祥の柔道や相撲は、盲学校では大正時代から遊びとして取り入れられていました。競技としては、昭和30年代から盲学校で指導されてからです。戦後、中学校で武道が授業で取り上げられるようになり盛んになりました。当校でも昭和30年代から課外活動として「柔道部」が創部され、北信越盲学校柔道大会で幾度も優勝しています。現在は、中高等部の体育授業で柔道の指導がおこなわれていますが、残念なことに北信越盲学校柔道大会は出場者減少により平成17年度で中断しています。盲学校での柔道経験をもとに、日本視覚障害者柔道連盟が主催する全国大会が毎年開催され、国際大会ではパラリンピックの競技種目となっています。視覚障害者柔道の特色は、競技規則で試合開始時(再開時含)に、対戦者同士が向かい合い、片手を相手の柔道着の袖、もう片手を反対側の襟をつかんでいることと、主審の始めの合図があるまで動くことが許されないことです。
6 盲学校から始まった競技
盲学校で考案され、改良された運動競技はたくさんありますが、紙面の都合で一部を紹介します。
(1)フロアバレーボール(盲人バレーボール) 北信越地区盲学校大会有
(2)サウンドテーブルテニス(盲人卓球) 北信越地区盲学校大会有
(3)全国盲学校通信陸上競技大会(単独・音源走、幅跳び、投てき競技)
(4)マラソン 日本盲人マラソン協会による各地の開催
(5)その他 現在、一部の盲学校でおこなわれているスポーツ
ゴールボール、ブラインドサッカー、ブラインドテニス、スキー
【略 歴】
1977年 新潟県立新潟盲学校教諭
1992年 新潟県立はまぐみ養護学校教諭
1995年 新潟県立高田盲学校教頭
1997年 新潟県立教育センター教育相談・特殊教育課長
2002年 新潟県立高田盲学校校長
2006年 新潟県立新潟盲学校校長
@新潟県立新潟盲学校
http://www.niigatamou.nein.ed.jp/index.html
【後記】
今回は、新潟県立新潟盲学校の小西明校長先生に、新潟盲学校が視覚障害児者の教育を担うと共に、福祉、労働、文化の牽引役として果たしてきた内容を時系列で紹介し、今後の盲学校(視覚特別支援学校)の在り方を展望して頂きました。
膨大な資料を基に時間いっぱいの講演でした。長い歴史の中で盲学校の果たしてきたお仕事を拝聴し、まさに盲学校が我が国の視覚リハビリテーションの一翼を担ってきたのだということを理解しました。
小西先生の益々のご活躍を祈念致します。
追記 小西先生は、前回平成24年1月は新潟盲学校の学校要覧をもとに、在籍者数、教職員数、眼疾患、教育内容、学校行事等について概観して下さいました。
平成26年11月5日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第225回(14‐11月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「世界一過酷な卒業旅行から学んだ、小さな一歩の大切さ」
講師:岡田果純(新潟大学大学院自然科学研究科専攻修士課程2年)
【講演要約】
私は1999年6月、小学校3年生の時に1型糖尿病を発症し、以来15年間毎日インスリン注射をしています。1型糖尿病とは、体内からインスリンというホルモンが分泌されなくなり、エネルギーが作られなくなる病気です。そのため、食事の前などに注射をして自分でインスリンを補う必要があります。このインスリンの調整が非常に難しい病気ですが、発症当時の主治医が「インスリン注射をしていれば、なんでもできるよ」と言う言葉をくれました。その言葉通り、病気とうまく付き合いながらバスケ、スキー、マラソンと様々なことに挑戦してきました。そして、病気になったおかげでたくさんの仲間ができました。特に同じ病気の仲間は大切な存在です。
新潟小児糖尿病キャンプという、1型糖尿病の子供が集まるキャンプに参加した時、そこでできた友達が「私は給食の前に教室で注射をしているよ」と話してくれました。それまで人前で注射をすることができず、自分の病気を友達に話すなんて考えられなかった私にとっては、衝撃的でした。この話を家に帰って両親に話し、両親が学校にも伝えてくれたおかげで、私も教室で注射をすることになりました。クラスの友達に自分の病気を話した後、友達から言われたのは、「話してくれてありがとう」という感謝の言葉でした。自分が協力をお願いしたのに感謝されるとは思いませんでした。驚いたのと同時に嬉しかったです。それが、私が最初に病気を人に話したときでした。このおかげで友人や両親の温かさに気付くことができました。
大学では、アルバイトに旅に、新しい世界を知ることが楽しくなっていきました。
そんな時、世界一過酷と言われる砂漠マラソンに挑戦するという先輩の話を聞きました。アタカマ砂漠は南米のチリにあり、平均標高2000m、世界で最も乾燥している地域、昼夜の気温差は40度という環境。そんなところを、食料など自分の荷物は自分で背負い、テント泊をしながら7日間かけて250km走るのがアタカマ砂漠マラソンです。
これを聞いた瞬間、「面白そう!」と思い、挑戦を決めました。
挑戦を決めてから本番まで、様々な準備と対策を講じました。あのときはがむしゃらでしたが、今考えると「人に話す」「自分にできることをやる」ということを繰り返していました。
特に私は1型糖尿病を持っているため、病気のない人よりも多くの準備をしました。具体的には、インスリンの保冷、血糖値変動の細かい観察、食べ物の準備です。
インスリンの保冷はアウトドアメーカーの方に相談してタンブラーを用いる保冷方法を考えてもらい、それを薬科大学の教授に相談して温度変化を検証してもらいました。血糖値変動の細かい観察は、新潟大学病院の小児科の先生に相談して、CGMという機械を借りました。これは、5分おきに血糖値を自動で測る装置です。走っているときや、夜中の血糖値の変動も観察できます。これによって走った日の血糖値の変動とそれに対するインスリン量の調整の対策をとりました。食事については、砂漠マラソン経験者や同じ病気のランナーからアドバイスをもらってそれを参考にしました。
繰り返しになりますが、こうして挑戦を決めてから本番を迎えるまでは、とにかく「人に話す」「自分にできることをやる」という、小さなことを繰り返しやり、一つ一つ解決しながら進んで行きました。
そうして迎えた本番も、小さな1歩の積み重ね、30cm足を前に出すことの繰り返しでした。過酷なマラソンなだけに体験したこともない巨大な足のまめや、重たい荷物を背負うことで生じた肩の痛みとの戦いでもありました。しかし、辛いことだけではなく心が震えるような感動もたくさんありました。目の前に広がる景色は、今まで見たことがないものばかりで、どこまでも続く山脈に巨大な砂丘に突き抜けるような青い空。そして同じゴールを目指す世界中のランナーとの交流も楽しかったし、多くの
勇気をもらったおかげで前に進むことができました。諦めず、ただひたすら一歩一歩足を前に出す。その繰り返しで、250kmを完走することができました。
このマラソンから学んだこと、それは自分を信じることの大切さと大変さです。人から何を言われても、自分を信じ、ポジティブに考えることで、強い気持ちを持つことができました。しかし、ひとりでは決してこれを続けることができず、応援してくれる人多くの人の支えによって頑張ることができました。自分は1人じゃないということがどれだけ心強いことか、実感しました。
「ちょっと言ってみよう」、と人に話して、協力してもらう。「ちょっとやってみよう」、とできそうなことから始めてみる。全て小さな一歩の積み重ねでした。そして何よりも、「病気という難が有ることは、私にとって有難いことだ」と気付き、何事にも感謝の気持ちを持とうと思うようになりました。
【略 歴】
1990年 長野県生まれ 新潟県妙高市育ち
1999年 1型糖尿病発症
2009年 新潟県立高田高校卒業
2013年 アタカマ砂漠マラソン(Atacama Crossing 2013)完走
新潟大学卒業
2014年現在 新潟大学大学院修士課程2年
[参考]
社会人になったら、もっといっぱいレースに出たい!
http://runport.jp/runner_okada-998.html
アタカマ・マラソン ムービー
https://www.facebook.com/video.php?v=678209355558261&set=vb.409871089058757&type=2&theater
糖尿病でも何でもできるっていうのは本当にそうだと思います T型ひろば
http://www.dm-town.com/iddmpark/voice6.html
【後記】
メモを取る手が忙しい講演、キーワード満載でした。
●逆境が機会である。ネガティブにとらえるのではなく、ポジティブに置き換えると、自分自身の大きな力となってくる。
●出来ない理由もたくさんある。出来る理由もたくさんあるはず。
●ちょっと言ってみよう。ちょっとやってみよう。
●非日常の中でも、やっていることは日常の繰り返し。
●走れない時は歩け、歩けない時は笑え。
●難が有ることは、有難いこと。
●いつも感謝の気持ちを忘れずに。。。。。
いつも感じることがあります。何かを成し遂げる人は元気(覇気)がある。周りの人も明るくする。岡田さんを見ていると正にそのような人だなと思う。もちろん彼女の人生はこれで終わりでなく、これからなのですが。
来年は、いよいよ社会人。岡田果純さんの今後の活躍を祈念しております。
平成26年10月8日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第224回(14‐10月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会 「目の愛護デー記念講演 2014」の報告です。
演題:「視力では語れない眼と視覚の愛護」
講師:若倉雅登 (井上眼科病院;名誉院長)
【講演要約】
眼の病気と言えば、ドライアイや白内障、緑内障、加齢黄斑変性など、メディアなどで聞きなれた眼の疾患を思い起こす人が多い。だが、眼科の領域は実は非常に広い。神経眼科、心療眼科を専門として40年近く診療を続けてきた中で、快適な視覚を得るためには、眼球と脳、とりわけ高次脳機能との精緻な共同作業が必要なことを学んだ。しかも、左右眼のバランスは、その機能を発揮する上で非常に大切で、逆にアンバランスは眼精疲労の原因になるだけでなく、日常視、日常生活に甚だしい支障をもたらし、時には心の問題も惹き起こす。
眼はものを見る器官だから、一般人も眼科医も「目」といえば「視力」のことばかり考える。だが神経眼科のフィルターを通してみると、左右眼の視力がいかに良好であっても、見ることに不都合が起こる可能性のある病態が沢山あり、多くが見落とされてきたことに気付く。
快適な日常視とは、必ずしも視力や視野だけでは語れないものである。 眼科で測定する視力や、視野は非常に理想的な環境で測っており、日常生活で使っている視機能、つまり実効視機能を反映しているとは限らないことに思いを致すべきである。
たとえば、「かすむ・ぼやける」といえば、一般の眼科医は眼球そのものに存在する病気を考えるが、私の視点だと、調節・輻輳、両眼視機能など高次脳機能の障害が頭に浮かぶ。「しょぼしょぼする」「眼が痛い」と言えば、普通はまず角膜や結膜、涙器などの疾患を考えるが、私は神経薬物(とくに睡眠導入剤や安定剤として多用されるベンゾジアゼピン系の薬物)の副作用や、「眼瞼痙攣」という開瞼が自在にしにくく眼は正常でもうまく使えず、それだけでなく眼や眼周囲にまぶしさや不快感が出現する脳の神経回路の故障が原因となる病気が隠れていないかと気になる。 ちなみに、この眼瞼痙攣という疾患は決して珍しいものでないが、大抵ドライアイと誤診されている。
両眼で見るとものがふたつに見える「複視」には、脳内病変や、眼球を動かす脳神経や筋肉の病気を考え、多くの眼科医は脳外科などに送って脳の画像診断を試みるが、もしその患者が、日本人に多い強度近視で、かつ「遠方のものが二つに見える」のであれば、私たちのグループが見つけた「眼窩窮屈病」(Kohmoto etal:Clin.Ophthalmol5.5-11.2011,若倉:臨床眼科 67:1458-63,2013)の存在を考えるべきである。このように少し見方を変ずれば、視力検査などでは気付かない原因の視覚の不都合が、我々の周囲に少なからず潜んでいる。
さて、医師が求める医療と患者が求める医療は、同じように見えて必ずしも同じではない。医師は病を医学的に考えて治療する。医師にとって患者の自覚症状は、診断するための手がかりではあるが、患者が一番治してほしいのは日常生活に支障をきたす自覚症状であることを忘れやすい(拙著:三流になった日本の医療PHP研究所、2009)。
私は臨床に携わった約40年の間に、教科書の記載として残るだろう疾患や病態を見つけてきた。難しいことではなく、なぜ、これまで医師が気付かなかったのだろうと思うようなことばかりだ。副腎ステロイドによる中心性漿液性網脈絡症、睡眠導入剤による眼瞼痙攣の発症、眼瞼痙攣の軽症例への認識、眼窩窮屈病の存在、レーベル遺伝性視神経症では対光反射が良好であり、中心耳側(もしくは耳上側)の感度低下からはじまる臨床像の特徴を見出したことなどである。
いろいろな眼や脳の病態のために、見え方の左右差が大きすぎたり、治療をしても代償できない複視に、積極的に単眼視を導入することで、患者の辛い日々を半分程度は改善させられることにも気づいた。 見え方の左右差や複視は「耳鳴り」ならぬ「目鳴り」を発生させ、日常視が苦しく、ひいては日常生活に大きな苦痛を与えるからである。これは、これまでなぜか、どの眼科医も関心を示さず実行されてこなかったことである。
臨床現場における私のスタンスは、@常識や教科書にとらわれず常に患者の愁訴や所見から学ぶ、A患者の実感に思いを致しながら、相手の話を傾聴し、B視力視野にとらわれず実生活での視機能(見え方や眼の使い心地)を重視するというものである。そして、C判らないことは判らないと正直にいうものの、自分はこう考えるという「見立て」も必ず添えて、患者さんとともに、治療や対策を考える。 そのことで、今日の医学では十分治せない疾患や病態に対しても「医師は患者の最大の味方」であることを少しでも実現させたいとの気持ちで、やっている。「見立て」とは随分と古めかしい言葉だが、患者医師関係をしっかり築いてゆくには必要なことである。
少しだけ自慢するのを許していただけるなら、そういう私の虚心坦懐に、目線を低くして患者の訴えに耳を傾ける姿勢でこそ、上記のような成果を得ることができたのだと思う。
今、ロービジョンという概念の中には、視力低下や視野の異常は存在するが、本日私が挙げたような両眼視や中枢性視覚障害は入ってこない。患者の立場でみると、後者のような病態も視力視野の異常をきたす疾患と同等か、それ以上に生活の質を落としている。 私はそういうものをも含めて「Visual handicap」という概念を導入したいと提案する。Visual handicapを伴う方々の眼科的、精神的ケアこそ「眼の愛護」と呼びたいのである。
【略歴】 若倉雅登(わかくらまさと) (2014年4月現在)
1976年3月 北里大医学部卒
1980年3月 同 大学院博士課程終了
1986年2月 グラスゴー大学シニア研究員
1991年1月 北里大医学部助教授
1999年1月 医)済安堂 井上眼科病院 副院長
2002年1月 医)済安堂 井上眼科病院 院長
2012年4月 医)済安堂 井上眼科病院 名誉院長
ほかに現在:北里大学医学部客員教授、東京大学医学部非常勤講師、日本神経眼科学会理事長、日本眼科学会評議員など
【後記】
毎年、10月の勉強会は「眼の愛護デー」に関したお話を眼科医にお願いしています。
今回も素晴らしい講演を拝聴できました。
目の病気というと視力ばかりが話題となりますが、視力が良くても不自由を感じているものも少なくありません。そうした不自由をお聞きすることは簡単なことではありません。また理解できない訴えを聞き続けることは、実は結構しんどいことです。
「医学では十分治せない疾患や病態に対しても『医師は患者の最大の味方』であることを少しでも実現させたい」との言葉には重みを感じます。
今回の勉強会で、一番勉強になったのは誰でもない、実は私ではなかったかと思っています。
平成26年9月10日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第223回(14‐09月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「地域連携って何?−済生会新潟第二病院の連携室を通じて−」
講師:斎川克之(済生会新潟第二病院 地域医療連携室長)
【講演要約】
■はじめに
当院は、新潟市西部にある425床の地域医療支援病院です。当院がある新潟市内は、高度急性期や専門性の高い医療を担う医療機関が集中している地区です。その中にあり、当院の医療連携に対する姿勢は、保健医療福祉をトータルに合わせ持つ済生会病院の使命として、自院のみならず地域の連携体制構築に力を注いできました。その取り組みは、医師会との登録医制度を基盤として、病院機能を開放するオープンシステム稼働、開放型病院の認可、そして新潟県内初となる地域医療支援病院の承認など、医療連携の重要性が認識されるかなり早い段階から「連携」を強みとしてきた歴史があります(注1)。
■診療報酬改定とこれからの地域連携とは
4月の診療報酬改定(注2)での重点課題は、まさに一点「医療機関の機能分化・強化と連携、在宅医療の充実」、連携が主役であるという色が大きく出されたものとなりました。いわゆる地域包括ケア概念のもと、入院、外来共に医療機関の役割分担の推進が今まで以上に大きく謳われました。今回の改定は、2年に一度の通常の改定の意味合いだけではなく、今秋と謂われる病床機能報告制度へつながる重要な位置づけとなる改定であることを認識すべきだと思います。これも全ては超高齢社会を迎える2025年に向けたロードマップの一連の施策です(注3)。先の「社会保障・税一体改革」で示された2025年の姿までもう間近、連携実務担当者はどう業務を行っていくべきなのか真摯に受け止めたいところです。連携室が設置されてから約10年、その業務は複雑、多岐に及び大きな変化と変遷を辿ってきました。
連携室自体この10年を振り返ると、事務職員が中心となり予約システムを構築し、地域から紹介患者を獲得することに力を注いできたフェーズから、MSWや看護師が職種間の連携により入退院調整を深化させてきたフェーズへ移行、そして現在の地域包括ケアの時代に入りました。これからは、もう一段階ステップアップし、院内外での地域連携の役割の重要性を経営層に的確に伝えていくことが病院運営に必要な時代に突入しました。地域連携、地域包括ケアシステムの推進が謳われている状況においては、地域における自院の立ち位置の理解と、実際に地域のかかりつけ医や病院との医療連携をいかに上手く展開できるかが経営に直結することとなります。
■地域の連携が強まるように
他の医療機関から、いかにスムーズに紹介患者を受け、またその後に地域に帰すか、そこには地域からの強い信頼関係を基盤とした連携の仕組みがあればこそであり、院内だけの取り組みだけでは不十分です。自院だけでなく「地域力」をいかに高めることができるか、地域の全体最適を考える必要があります。地域の各医療機関が持つ医療資源やマンパワーを合わせて、最大限に個々のパフォーマンスを発揮できるようにするための「接着剤」が連携実務担当者の役割だと考えます(注4)。
数年前から新潟市では、市内8区に在宅における多職種間の地域連携ネットワークを構築することに力を入れてきました。当院も新潟市と連携しながら、市内に「多職種連携の会」を立ち上げています。そこでは、かかりつけ医間の連携強化、顔を合わせお互いを知る場と学ぶ場作り、情報共有と相談の場(メーリングリスト)の提供などを行っています。また、当院は2014年度から新潟県在宅医療連携モデル事業の一つとして承認を受け、当院のある西区を中心に在宅医療での連携ツールとしてIT活用や、当院がこれまで培ってきた連携を推進・強化するための企画や運営を展開していく予定です。当院は、かねてから新潟市保健所や新潟市医師会と日常の業務において連携を密に活動してきました(注5)。
地域医療支援病院として、地域の連携システム構築は使命です。国の示す地域包括ケアシステムには、市町村が積極的に関係機関との調整を行い整備していくべきと謳われています。連携実務担当者として、今こそ現場の連携の声・実態を行政・医師会に伝え、共に問題解決に向かい地域力を高める活動につなげていくことが重要です。
■まとめ
先にも述べてきたように、今回の診療報酬の改定は、高度急性期・急性期・亜急性期をより明確に区分していく意思表示がはっきり見えており、自院のこれから先を見据えた重要なタイミングとなっています。その地域の患者動態、急性期病床数と亜急性期病床数などの的確なデータ把握と分析が連携室から出され、それらを基に院内で活発に議論がなされ、これからの病院の方向性を定める。そうしたストーリーが、病院一丸となった自院の総合力の強化につながります。我々は、そうした場作りをするためにも、常日頃から連携実務担当者としての「ブレない」姿勢を持ち業務に望み、自院のみならず地域の実態を含めた情報提供と問題提起をすること、また院内にその議論の土壌を作ることが使命となります。
(注1)済生会の歴史
明治44年2月11日、明治天皇は時の内閣総理大臣桂太郎を召されて「医療を受けることができないで困っている人たちに施薬救療の途を講ずるように」というご趣旨の『済生勅語』に添えてその基金として御手元金150万円を下賜されました。これをもとに伏見宮貞愛親王を総裁とし、桂総理が会長となって同年5月30日、恩賜財団済生会を創立。それ以来、社会経済情勢の変化に伴い紆余曲折を経ながらも創立の精神を引き継ぎ、保健・医療・福祉の増進・向上に必要な諸事業を行ってきました。
http://www.ngt.saiseikai.or.jp/04/gaiyou.html#05
(注2)平成26年度診療報酬改定の概要 - 厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-12400000-Hokenkyoku/0000039891.pdf#search='%E8%A8%BA%E7%99%82%E5%A0%B1%E9%85%AC%E6%94%B9%E5%AE%9A+2014'
(注3)2025年の超高齢社会
平成27(2015)年には「ベビーブーム世代」が前期高齢者(65〜74歳)に到達し、その10年後(平成37(2025)年)には高齢者人口は(約3,500万人)に達すると推計される。
http://www.mhlw.go.jp/shingi/2006/09/dl/s0927-8e.pdf#search='2025%E5%B9%B4%E5%95%8F%E9%A1%8C'
(注4)済生会新潟第二病院の取り組んでいる地域医療連携
http://www.ngt.saiseikai.or.jp/04/chiikirenkei.html
(注5)新潟県在宅医療連携モデル事業
http://smc-kanwa.jp/images/download/model_gaiyo.pdf#search='%E5%A4%9A%E8%81%B7%E7%A8%AE%E9%80%A3%E6%90%BA%E3%81%AE%E4%BC%9A++%E6%96%B0%E6%BD%9F%E5%B8%82'
【略 歴】 斎川 克之(さいかわ かつゆき)
社会福祉法人恩賜財団済生会 済生会新潟第二病院 地域医療連携室長 兼 医事課長
職種:ソーシャルワーカー、社会福祉士
昭和46年/新潟県新潟市に生まれる
平成 7年/東北福祉大学・社会福祉学部・社会福祉学科卒業
平成 7年/新潟県厚生連・在宅介護支援センター栃尾郷病院SWとして就職
平成 9年/済生会新潟第二病院に医療社会事業課MSWとして就職
平成22年/地域医療連携室 室長
平成25年/地域医療連携室長 兼 医事課長
新潟医療連携実務者ネットワーク代表世話人
新潟市医療計画新潟市地域医療推進会議在宅医療部会委員
新潟市在宅医療連携拠点整備運営委員会委員
【後記】
斎川さんとは何度もお会いしていますが、恥ずかしながら今回のようなお話をお聞きしたのは初めてでした。高齢化社会の実情と今後の経緯、国の政策、それに準じた地域・病院での対策と連係の構築、、、素晴らしい講演でした。現場の医療者は眼の前のことで手が、そして頭がいっぱいになってしまいますが、こうして全体像を把握してやるべきこと、進むべきことを示して頂きスッキリしました。
「地域の各医療機関が持つ医療資源やマンパワーを合わせて、最大限に個々のパフォーマンスを発揮できるようにするための「接着剤」が連携実務担当者の役割だと考えます」、、、そうだったんですね。院内での多職種との連携の必要性も感じました。
斎川さんはじめ、地域医療連携室の皆様の仕事を理解する機会を持てたことを嬉しく思います。斎川さん・連係室の皆様、今後とも宜しくお願い致します。
平成26年8月6日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第222回(14‐08月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「視覚障害によって希望を失わないために」
講師:竹下義樹 (社会福祉法人日本盲人会連合会長、弁護士)
【講演要旨】
はじめに
失明や視力低下が日常生活や社会参加にとって大きな困難をもたらすことは明白である。そして、苦しくて悲しいことである。しかし、それが直ちに不幸をもたらすか否かは別である。少なくとも、失明しても不幸にならなかった人はたくさんいる。その分かれ道はどこにあるのだろうか。
1.小学校〜中学校
63年前、石川県輪島市に生まれる。生来強度近視で矯正視力0.2くらいだった。
小学校の頃は、複式授業。1〜2年生の頃の担任の先生は視力の悪い私を可愛がってくれた。そのおかげで、将来共に頑張れたのだと今も感謝している。小学校でも中学校でも、眼が見えないために、いじめに遭った。
輪島は、相撲が盛んなところで、中学3年のころ163cm80kgだったので相撲部に勧誘された。中学3年の頃(昭和40年ごろ)、相撲が影響してか、両眼外傷性網膜剥離になり、父が山ひとつ売って金沢大学・順天堂大学・京都大学等々で診察してもらったが、手遅れと言われた。
最後に京都府立医大で診てもらった時、どこまで治るかわからないが、やるだけやってみようと手術を勧められ、網膜復位術を2度受けた。何とかサインペンで書いたものは見える程度の視力を得ることが出来た。いずれは全盲となったがこれは大きかった。今でもその時の主治医の先生と教授には感謝している。
2.盲学校時代
盲学校に入学、針・灸・按摩に励んだ。
いろいろな経験をさせてもらった。それまでは漫画しか読まなかったが、次第に本を読むようになった。「車輪の下」「夜間飛行」、、、
人前で話すことが苦手だったが弁論大会に出るように言われた。初めての弁論大会は失敗だったが、いい刺激をもらった。そうした中で、普通高校の生徒と交わりを持つことが出来た。彼らがいろいろな夢を語るのが眩しかった。負けるとナニクソとやる気が出て、何度も挑戦した。色々なテーマで挑んでいるうちに、自分の夢を語れるようになった。全国盲学校弁論大会に出場し、「弁護士になります」という夢を堂々と語った。その他、@ボランティア、A一流の大学に進学するだけが人生ではない、針灸按摩も大事な仕事だ、B受験勉強は要らないというのは間違っていた。自分の目標に向かい努力することは素晴らしい、、、などのテーマで弁論した。
3.大学時代から司法試験合格まで
TVで宇津井健主演の弁護士物語があり、単純に弁護士を格好良く思っていた。2浪して龍谷大学法学部に入学した。入学して、抱負を語る機会があり、全盲ではあるが弁護士になりたいと語った。当時の龍谷大学は法学部が出来て3年目であり、まだ司法試験に合格した者はいなかった。周囲の人は、何を言っているんだと取り合ってくれなかった。今思えば、このころから目標を言葉に出して自分をしばる(有言実行)タイプであった。
そこでまた負けず嫌いの反骨芯が芽生えた。大学で自分の人生にレッテルを張ることはない。当時は、司法試験は点字での受験は認めてもらえなかった。法務省に問い合わせると、盲人の受験は不可能ですとの回答。そこで上京して法務省で訴えた。何度も訴えているうちに、朝日新聞の記者が一人で訴えてもダメ、仲間を集いなさいとアドバイスをくれた。そこで京都を中心に20名位の「「竹下義樹を弁護士にする会」を形成した。すると朝日新聞で取り上げてくれて、国会も動き出した。
昭和48年点字での受験が可能となった。大学3年で受験した。問題は試験官が読み上げる、地方での受験は認められず上京する、時間延長なし等々のハンデがあった。点字六法は全51巻、12万円もした。ボランティア仲間がカンパを集めて買ってくれた。そのうちに、地方での受験も認められ、時間も延長するように制度が改革された。
学生結婚。二人の子供を授かった。収入もなく、マッサージをやりながら生活した。1981年、9回目の受験で合格した(30歳)。当時は年間の合格者数が300〜400名の時代で、今よりは大分厳しかった。その時には、点字図書は200冊、録音テープは1000本になっていた。
一人の障害者に試験等の条件を整えるということは、世の中の発達度が関わっていることと痛感した。司法試験の準備は目いっぱいやった。多くのボランティアの方々に協力して頂いたことを今も忘れない。
4.弁護士になって31年
弁護士は情報が勝負。事実はひとつだが、真実はいくらでもある。法廷にどのような証拠を提出できるかで判決は決定する。司法試験合格後の進路は、裁判官と弁護士があるが、弱者と共に闘う弁護士を選んだ。先輩の一言が後押ししてくれた。「どれだけ見通せるかが大事だ」。
弁護士としての看板を持とうと思った。障害者問題、医療過誤、過労死、貧困、、、。
見えないことは、情報を得ることは苦手だが、他人の協力で補うことが出来る、見えないからこそ頑張れる自分がいることに気付いた。様々な情報に対して常にアンテナを張っておくことが大事だと学んだ。
5.日本盲人会連合 (日盲連)会長
2012年日盲連の第7代会長に就任した。これまでの会長はボスであり、視覚障害者が困らないような世の中を作ることが主な活動であった。
今後は理念を掲げることにした。同行援護の推進、視覚リハビリの推進等々。日盲連にもさまざまな人間がいる。組織改革が今後の課題である。
おわりに
私は14歳で失明した。失明によって失ったものはたくさんある。遊び、趣味、そして文字。でも、私は不幸にならなかった。友達は失うどころか新たに貴重な友人が増えたし、失明によって気づいたこともたくさんある。とりわけそれまで見えていなかったもの、気づいていなかったものが見えるようになった。そして、夢を見つけた。しかもでかい夢を。それは将来の職業だったのである。
私は、貧困問題と取り組む弁護士として、そして視覚障害者が生きがいを持ち豊かな人生を送ることができる社会を築くため日盲連の会長として活動し、充実した毎日を過ごしている。
私が不幸にならなかったのは、友人や指導者に恵まれ、夢を見つけ、それに向かって邁進することができたからである。失ったものにばかり目が向けば不幸が待っている。視覚障害者であっても、リハビリや補助機器などの支援によってできることがたくさんあるという情報を伝えることが視覚障害者に関わった者の責任なのである。視覚障害を不幸にしないためには、視覚障害者に関わる全ての者がそうしたことに気づいて視覚障害者に接するならば、視覚障害者は不幸になることはないのである。
【略歴】
1951年 石川県輪島市生まれ
65年 (中学3 年)外傷性網膜剥離で失明
69年 石川県立盲学校理療科本科卒業(指圧士修得過程)
71年 京都府立盲学校高等部普通科専攻科卒業
75年 龍谷大学法学部卒業
81年 司法試験合格
84年4 月京都弁護士会に所属
2012年〜現在 社会福祉法人日本盲人会連合会長
【質疑応答から】
行政に訴えるには
〜本当に困っている現実を突きつけること。理念・方向を示すこと
病院内での介護
〜医療保険と介護保険の狭間の問題。最近は、ALSの院内での介護等、少しずつ認められるようになってきた
如何に上質の情報を得るか
〜雑学も役に立つ、得られた情報を自分で吟味する。
【追記】
素晴らしい講演でした。感動しました。全盲となってから弁護士をめざし、視覚障害者が試験を受ける環境作りから自らの手で始め、司法試験に合格してからは弱者のために活動を続ける素晴らしい人生を、思う存分に語って頂きました。
どんな講演にもキーとなるセリフがひとつかふたつはあります。今回は、次から次と出てきました。「失明や視力低下は苦しくて悲しいことであるが、それが直ちに不幸をもたらすか否かは別である」「夢を語ることのできる素晴らしさ」「目標を言葉に出して自分をしばる」「負けず嫌いの反骨芯」「大学で自分の人生にレッテルを張ることはない」「一人が皆を、皆が一人を」「一人の障害者に試験等の条件を整えるということは、世の中の発達度が関わっている」「どれだけ先が見通せるかが大事」「事実はひとつだが、真実はいくらでもある」「様々な情報に対して常にアンテナを張っておく」「見えないからこそ頑張れる自分がいる」「理念を掲げる」「見えなくなって、見えてきたものがある」「失ったものにばかり目が向けば不幸が待っている」、、、、、。 さあ、これからやるぞ!の気概に溢れた講演に敬服しました。
弱者のために奮闘する弁護士、竹下義樹先生のますますの活躍を祈念致します。
【追加1:司法試験と地方公務員の点字受験について】
61年の文月会発足後、5年目の大会で決議し、行動しています。48年に先輩の故・勝川武氏が法務省に点字受験を申し入れていましたが、当時は葬り去られるのが当たり前でした。竹下さんらの強い要求もあって25年後に日の目を見ました。
73〜75年は1人ずつ、76年2人、77年と78年4人ずつ、79年5人が点字受験しています。また、地方公務員は東京都一般福祉職で74年に現・全視協会長の田中章治さんと大窪謙一さんが合格して運動は勢いづき広がりました。その後の働きかけで、都は福祉職Cという点字枠を設け、毎年1人は採るとなっていましたが、2000年にチャレンジから受けた1人がパスした以後は採用無しです。都は2007年に2人が受験した以外、応募は0に等しいと言っています。法務省も都も受験者数などは「記録」を探しかねますの一点張りです。
http://www.siencenter.or.jp/sikaku/kouki289.html
【追加2:日本盲人会連合 (日盲連)】
1948年(昭和23年)に設立された社会福祉団体
http://nichimou.org/
【参考:全盲の弁護士 竹下義樹】
著者:小林照幸、出版社:岩波書店
http://www.fben.jp/bookcolumn/2005/12/post_935.html
平成26年7月6日の「学問のすすめ」第9回講演会の報告
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」
人は生まれながら貴賎上下の差別ない。けれども今広くこの人間世界を見渡すと、賢い人愚かな人貧乏な人金持ちの人身分の高い人低い人とある。その違いは何だろう?。それは甚だ明らかだ。賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由ってできるものなのだ。人は生まれながらにして貴賎上下の別はないけれどただ学問を勤めて物事をよく知るものは貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるのだ。(「学問のすすめ」福沢諭吉)
リサーチマインドを持った臨床家は、新しい医療を創造することができます。難題を抱えている医療の現場ですが、それを打破してくれるのは若い人たちのエネルギーです。 本講演会は、若い医師とそれを支える指導者に、夢と希望を持って学問そして臨床に励んでもらいたいと、2010年2月より済生会新潟第二病院眼科が主催して細々と続けている企画です。
1.「学問はしたくはないけれど・・」
加藤 聡 (東京大学眼科准教授)
2.「摩訶まか緑内障」
木内 良明 (広島大学眼科教授)
日時:2014年7月6日(日) 10時〜13時 各講演1時間・質疑応答30分
会場:済生会新潟第二病院 10階会議室 参加無料
http://andonoburo.net/on/2951
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演題:学問はしたくはないけれど
講師:加藤 聡 (東京大学眼科)
講演要旨
現在、医学研究を取り巻く問題が多く、毎日マスコミをにぎわしている。STAP細胞に関する問題が有名であるが、私が所属する東大病院でも降圧薬バルサルタンの臨床研究、白血病治療薬の臨床研究、アルツハイマー病に関する臨床研究、分子生物学教室からの論文の大量撤回などがある。これらの研究では何を目標にして学問をしているのだろうかと考えさせられる。このような問題を見るにつけ、学問の目標が、研究費集めや論文業績をあげるためと思えてしまうが、本来は少しでも良い医療を大勢の人に提供してもらいたいことが、医学における学問の原点のはずである。その為には、学問の順番として@不自由なことが存在し、A不自由なことの原因を追究し、B不自由なことを解決する方法をみつけ、Cその方法を広めるのが、筋道であると考える。
私は新潟大学を卒業して、東京大学眼科に入局し、研修医2年目の頃、おぼつかない白内障手術(水晶体嚢外摘出術)を行うも、糖尿病眼では術後に炎症が強く出てしまい、眼底管理の上で妨げとなる虹彩後癒着を作ることがしばしばあった。その原因を知りたく、ちょうどその頃開発されたフレアメータにて炎症を定量化し、また電子顕微鏡による研究でその原因を探ることができた。
それがきっかけで糖尿病の眼の合併症、通常の人ならば網膜症に興味を持つところだが、私はもっぱら前眼部の病変に取り組むことになった。女子医大の糖尿病センターに勤務先が異動になり、朝から晩まで網膜光凝固に明けくれる日々のなか、糖尿病眼の白内障術後眼では前嚢収縮や後発白内障が網膜光凝固の妨げとなることを多く経験した。白内障術者にそのことを話してもYAGレーザーで解決されることなので、臨床的に問題ないと相手にしてもらえなかった。そこで、そのことを訴えるために後発白内障を定量化する方法を学んだが、その頃の日本ではSheimpflugカメラを用いた方法が主流で、周辺部の後発白内障の定量が行えなかった。そこで、それを学びに世界で初めて眼内レンズ移植が行われたロンドンのSt Thomas Hospitalに行き、その後の後発白内障を少なくなるための眼内レンズ、手術法の研究を行うことができた。
その後、日本に戻り、東大病院に勤務するようになり、多くの増殖糖尿病網膜症症例の手術を見る機会があったが、中には充分な結果が得られない症例があった。その症例をさかのぼってみてみると、中には充分な光凝固の効果が得られていない例に遭遇することもあった。どんな上手な術者よりも適切な網膜光凝固が失明から救うことが明かであったため、そこからは、研究というよりも網膜光凝固教育に力を入れるようになった。今後は本邦での網膜光凝固の教育と同様に、より低侵襲の網膜光凝固方法の開発に力を入れたいと考えている。
その他に現在はロービジョンケアの普及にも力を入れている。ただし、ロービジョンケアを取り巻く問題は多く、その中でもロービジョンケアに対する眼科医の関心が少ないことが最も悩ましい。その理由として、ロービジョンケアの研究がサイエンスになりにくく、手術の習得に比べると技量が地味、保険点数の問題、ロービジョン者が眼科にかかる環境を作り上げていないなどがある。今後はロービジョンケアに関する研究・臨床を特殊化しないことが重要と考えている。
以上、今まで自分が関与してきたことを述べてきたが、最終的に学問の結果を世に知らしめることは重要なことの一つであり、私自身の論文投稿に対する考えを以下に示す。すなわち、どんなに低いインパクトファクターの雑誌でも掲載されれば、投稿しないことと格段の差があること。それというのも、現在はPubMedなどで検索するために必ずしも有名な雑誌でなくても調べたい項目さえ入力すれば、どんなに無名な雑誌からの論文も読むことができるからである。最終的に、自分の分野の研究を一生懸命見てくれる雑誌と出会うことも重要である。私の場合、最近ではインパクトファクターは2.345とそれほど高くはないが、糖尿病眼合併症領域のことを熱心に読んでくれるEinar Stefansseonが編集長をしているActaOphthalmologicaに好んで投稿している。すなわち、毎晩楽しむ晩酌のお酒でも必ずしも値段が高いものだけがおいしいのではなく、値段的にも自分に適したお酒を見つけるのと同じ楽しみとなる。
初めにも述べたが、現在医学研究をとりまく問題は多いが、少なくとも私は無理やり結果を出す学問をしたくはないと考えている。そのためには、学問と業績を混同させることなく、論文化しにくいnegative dataを大切にし、医療をしていく上で自分が知りたいことを調べ、それを世界に発信し続けられたらと考えている。
【略歴】 加藤 聡 (カトウ サトシ)
1987年 新潟大学医学部医学科卒業
東京大学医学部附属病院眼科入局
1990年 東京逓信病院眼科
1996年 東京女子医科大学糖尿病センター眼科講師
1999年 東京大学医学部附属病院分院眼科講師
2000年 King’s College London, St.Thomas’Hospital研究員
2001年 東京大学医学部眼科講師
2007年 東京大学医学部眼科准教授
2013年 日本ロービジョン学会理事長
2014年 東大病院眼科科長兼任
現在に至る
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演題:「摩訶まか緑内障」
講師:木内 良明 (広島大学眼科教授)
講演要旨
「摩訶」は古代インド語であるサンスクリットの「まはー」に漢字をあてたもので大きいとか、偉大なという意味です。般若心教は摩訶般波羅蜜多経とも呼ばれます。
浄土に至るコツを示した経であると説明されています。緑内障患者にたいして一生懸命治療をしても失明上位疾患にあげられるのは不本意です。また、疾患や失明を恐れるだけでは患者さんを救うことができないわけですから、我々はその原因をさぐり、より良い治療方法を見つけ出さなくてはいけません。緑内障診療の浄土に至る道は遠く険しく感じます。
最近、五木寛之「親鸞」の連載が完結しました。親鸞は浄土真宗の宗祖です。「本願を信じ念仏申さば仏になる」と示されています。浄土真宗は「如来の本願力」(他力)によるものであり、我々凡夫のはからい(自力)によるものではないとし、絶対他力を強調する教えを持っています。法然の浄土宗と並んでこの他力本願の教えは多くの日本人に受け入れられました。今回の公演を行うに当たり、自分が緑内障に関する研究に携わった歴史を振り返えるという作業を行いました。その結果「他力本願」の人生であると改めて感じた次第です。この道一筋といった研究もなく、自分から進んで行った研究もありません。ただ、周りの環境に合わせながら「南無阿弥陀仏」の名号ではなく、ひたすら「なんでや、ほんまかいな」と唱えているだけです。
1983年に広島大学の眼科学教室に入局して、その後数年は自分の頭で考えて何かをするというよりも、命じられた仕事をひたすらこなすという毎日でした。それでも入局4年目ごろに学位は解剖学教室で、眼の発生の研究を行いたいと考えるようになりました。ニワトリの杯にウズラの杯の一部を移植することでニワトリとウズラのキメラを作る研究です。しかし、指導教官が米国留学し、さらに京都府立医大の教授になられました。仕方がないので眼科学教室の緑内障グループに参加することにしました。
【細胞内情報伝達系の研究】
広島大学の緑内障グループは毛様体の細胞内情報伝達系、特にcyclic AMP系の研究を行っていました。当時の三嶋助教授がYALE大学に留学していた時から始めた研究です。cyclic AMP分解酵素を阻害する薬剤を使って、眼圧、房水循環動態、毛様体の形態変化を研究して学位をもらいました。1980年代は細胞内情報伝達系の研究が注目を浴びておりました。特に神戸大学の西塚泰美先生はプロテインキナーゼCを発見し、新しい細胞内情報伝達系を明らかにしました。西塚泰美先生はノーベル賞候補と言われておりました。私のすぐ下の学年の医師も毛様体におけるプロテインキナーゼCの研究で学位をもらっています。三嶋助教授のご縁もあって学位をもらった直後にYALE大学の眼科学教室に留学させていただきました。
【眼圧日内変動の研究】
YALE大学の眼科学教室では眼圧日内変動をコントロールするメカニズムを解明する研究が行われていました。その一つの手段として細胞内情報伝達系の研究が使われていました。研究に専念できる環境は楽しく、有意義なものでした。家兎の眼圧日内変動には交感神経のうちα1受容体を介するシグナルが関与すること、メラトニンが関係しないことなどを明らかにすることができました。
【ラタノプロストの開発】
1993年に帰国するとキサラタンの開発が行われている最中で、キサラタンの開発研究にPhase 1から参加することができました。ラタノプロストの眼圧下降機序、ラタノプロストの眼圧日内変動に関する研究を行いました。やはり自分からの意志で何かを研究しようとしていません。自分の目の前にある餌、あるいは教授や助教授が用意してくれた餌を順番に食べていただけです。臨床は緑内障外来を担当しており、緑内障の手術を主に行っていました。教授が病院長になられて眼瞼下垂、眼瞼や眼窩の腫瘍の治療が回ってきたのは後で役に立ちました。
【難治緑内障の治療】
ちょうどこのころ超音波白内障手術が日本で広まり始めたころでした。小切開白内障手術は患者に大きな福音をもたらします。しかし、広島大学病院という環境ではその手技を習得することは不可能でした。志願して1996年の1年間は広島赤十字・原爆病院に出向して、前眼部から網膜まで幅広い疾患の診療を行いました。大学病院では緑内障馬鹿になっていたことに気づきました。眼科医として良いリハビリになったようです。翌年の1997年4月からは国立大阪病院で勤務させていただきました。実家の眼科が近いという理由もあってよい病診連携をとることができました。大阪というところは眼科の専門分化が進んだところでしたので、再び緑内障を専門としました。
国立大阪病院はそれまでの部長が硝子体手術やぶどう膜炎をご専門にされていた関係から血管新生緑内障やぶどう膜炎に続発した緑内障の患者がたくさんいました。難治性の緑内障に対する手術症例に恵まれ、より良い成績を得る方法を研修医の先生たちと考えました。ウサギ小屋もありましたのでラタノプロストが炎症眼に及ぼす影響を調べることができ、薬剤部の方たちとブナゾシンやドルゾラミドがメラニン色素に吸着する様子も観察しました。2003年から大手前病院に転勤となりました。ここの眼科は前眼部疾患の治療を専門とするところで、角膜移植も年間100件以上行われていました。レーシック用のエキシマレーザーもありました。角膜移植の3大合併症は、感染、拒絶反応、緑内障です。多くの移植後の緑内障の患者さんを診させていただきました。血管新生緑内障であれ、前眼部の病気に続発した緑内障であれ、チューブ手術を行っても眼圧を落ち着かせることができない症例がたまってきました。緑内障診療の地の果てを見た思いです。ここから先は基礎的な研究を絡ませないと臨床の進歩はないと感じていたところに、2006年に広島大学に戻る話が出てw)EUR「C燭錣韻任后・・w)w)【眼に見えない現象を見る研究】 広島大学に戻ったら手術治療の成績を向上させる研究をするぞ、と思っていました。しかし、待っていたのは原爆被爆者の緑内障調査と眼圧測定の様子を高速カメラで撮影するという研究でした。通常の状態では放射線は眼に見ることができません。非接触型の眼圧計で眼圧を測定する様子も眼に見えません。肉眼で見えないものを調べるいずれの研究も重要、かつ面白い研究です。幸い両者とも論文化することができ、第1段階をまとめることができました。放射線の影響を調べる研究の最大の危険因子は政治であることがわかりました。
【この後】
バルベルトインプラントが出てきて小児緑内障を含めて難治緑内障患者を救うことができるエリアが広がってまいりました。しかし、緑内障手術治療の成績改善の研究はまだまだ手につきません。「眼に見えない現象を見る研究」もまだ第1段階が終了しただけで完結していません。
自分一人が面白がって研究を進めても仕方ありません。大学の永遠のテーマですが若い先生の教育が大切です。このテーマも眼の前に転がっている、仕方なしのテーマです。しかも「なんで研究しいのや」と仮説を立てての実験がしにくいのです。南無阿弥陀仏。
【略歴】
1983年 広島大学医学部医学科卒業
1999年 広島大学医学部助手
1990年 Yale大学 Yale Eye Center, Post doctoral associate
1997年 国立大阪病院(眼科)医師
2003年 国家公務員共済組合連合会 大手前病院眼科部長
2006年 広島大学大学院医歯薬学総合研究科視覚病態学 教授 現在に至る
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これまでの「学問のすすめ」プログラムは、下記に記載しました。
http://andonoburo.net/on/2661
平成26年6月27日の勉強会「新潟盲学校弁論大会 イン 済生会」の報告
安藤@済生会新潟です。
第221回(14‐06月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会「新潟盲学校弁論大会 イン 済生会」の報告です。
(1)「歌」 高等部普通科3年
(2)「中学部に入学して」 中学部1年
http://andonoburo.net/on/2955
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『歌』 新潟盲学校 高等部普通科3年
【講演要旨】
私は歌が大好きです。聴くことも好きですが、歌うことはもっと好きです。
私は、生まれた時から歌が好きだという訳ではありませんでした。それどころか、小さい頃は、歌に関心がありませんでした。
幼稚園の卒園式では、歌い終わった後にしゃべったりふざけたりしていたため、何度も何度も歌の練習をさせられました。そのため、同じことを繰り返すのに飽きてしまいました。嫌いというより嫌になっていました。
ある時先生が、「あなたは歌が上手いんだから、ふざけないで練習しましょう。」と、私に言いました。その時初めて気づきました。私は歌が上手いらしいと。卒園式当日は、真剣に歌い、沢山の人からほめていただきました。その時、歌が好きになったような気がします。私は、努力すること、頑張ることが嫌いです。しかし歌は、練習をしなくてもほめてもらうことができました。
中学生の時、友達とカラオケに行きました。当時の私は、自分は天才だ、自分より歌が上手い人はいない、と思っていました。ですから、友人の歌声を聴いた時、とても驚きました。透き通った声は安定していて、力強く心に響く、そんな歌声でした。
私には、友人の歌は完璧に聴こえました。しかし友人は、「全然上手くないよ。音外してるし、高い声でないし。」と言いました。私よりも上手いと思った友人のその歌を、友人は自ら下手だと言ったのです。友人が下手なのであれば、私はド下手ということになってしまいます。その時、私は何の才能も持っていないのだと、自覚しました。けれども、私は何の取り柄もない人間にはなりたくありません。努力することが嫌いな私でしたが、歌の猛特訓を始めました。自分の好きな女性歌手と、同じような声で同じように歌えば、完璧に歌えると考えました。練習の成果もあり、好きな女性歌手の歌なら、真似して歌うことができるようになりました。
これで、私と友人は同等になれただろうと思いながら、再び、友人とカラオケに行きました。自分で言うのも何ですが、前回より断然上手くなったように思えました。
友人も、前回と同じく素敵な歌声でした。『それでも友人は、自分の歌を下手だと言うんだろうな。私もド下手から下手へランクアップできてよかった。』そんなことを思っていると、友人は男性歌手の歌を歌い始めました。私は、好きな女性歌手一本で攻めていましたが、友人は様々な歌手の歌を歌いこなしたのです。私は歌の上手い下手を比べる意味が見いだせなくなりました。そして、歌は競うものではなく、楽しむもの、真似て歌うのではなく、自分のものにするものだと、改めて知りました。
歌が大好きな私ですが、音楽の授業で、歌う人を上手い下手で評価するところがあまり好きではありません。そこはやはり、授業なので仕方がないとは思いますし、一生懸命取り組んでいます。たとえ音痴な人でも人一倍心を込めて歌えば素晴らしいと思います。また、歌が上手いのに、全く心を込めていないのなら、私はあまり感動できません。私も時々、何も考えなかったり、全く違うことを考えながら歌っていたりすることがあります。そんなときに、「上手だね」と言われても、全然嬉しくないし、『こんなんでいいの?』と思ったりします。私はやっぱり自由に歌うのが好きなのです。
私は、楽しい時でも、寂しいときでも、泣きながらでも、風邪を引いて喉が痛くても歌を歌います。歩いている時も、歯を磨いている時も、食事をとる時も、行儀が悪いと分かっていながら、歌ってしまいます。授業中でさえも歌いたくて仕方がありません。
いつでもどこでも歌ってしまう私ですが、私にも歌えない時があります。ひどく落ち込んでいる時や悩み事がある時です。そんな時は、歌を歌おうとも聴こうとも思いません。それでもやはり、私を救ってくれるのは歌です。お店や駅前で流れている音色に、救われます。落ち込んでいる時でも、前向きな気持ちにさせてくれます。
私の隣には、いつも歌がいます。歌がない世界なんて考えられません。「歌うな!」と言われたら、「死ね!」と言われているのと同じです。私にとって、歌は体の一部です。うるさいと言われても、下手だと言われても、私は歌い続けます。
これで終わります。ご清聴ありがとうございました。
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「中学部に入学して」 新潟盲学校 中学部1年
【講演要旨】
私はこの春中学部に入学しました。小学部の頃から私は中学部のことを、「先生も厳しそうだし、やることもとてもたくさんありそうで大変なところなのかな」と、不安に思っていました。
入学式当日、私は入学式という言葉を聞いてもピンときませんでした。制服に着替え車に乗っても、まだ小学生の頃のままの自分がいました。式が始まり、新入生入場になりました。会場にいる人達の拍手を聞きながら、「私は、本当に中学部に入るのかな。中学部を楽しめるかな」と、いろいろなことを考えて席に着きました。そんなことを思っていると、教頭先生に呼名されました。それで「私はもう中学生なんだ」と初めて思いました。と同時に、なんだか少し大人になったような気がしました。
中学部は小学部と違うので、戸惑うことがたくさんあります。教科ごとに先生が変わったり、時間割も、表を見ないと時々忘れてしまったりしてしまいます。また、初めての第1回生徒総会の時に渡された生徒会規約も、何ページもあってとても難しかったです。これからもこんなことがたくさんあるんだと思うと心配になりました。
中学部に入学して1ヶ月たった時、先生から3年間は36ヶ月ということを聞き、36という数字の大きさに、そして中学校生活のその長さにとても驚きました。まだ、1ヶ月しかたってないのに、これからの長い三年間を、どうすごしていけばいいのだろうかと思っていました。
そんな私も、入学式から4ヶ月がたとうとしています。少しずつ中学部のことが分かってきたような気がします。そして私は、中学部のことを知り始めています。先輩達のやさしさ、後輩を思いやる気持ちなど、今の私にとって学ぶことがたくさんあります。来年は2年生になり、後輩ができます。その時、「頼りない2年生だなあ」と思われないように、この1年間でいろいろなことを学び、先輩たちのようにしっかりとした中学生になりたいです。それはきっと3年生になっても同じだと思います。この3年間の学校生活を充実したものにするために、今日からの一日一日を大切に過ごしていきたいと思います。そして中学部を卒業する時、「いろいろ教えてくれて、ありがとうございました。」と、後輩に言われるよう頑張ります。
ご清聴ありがとうございました。
【後記】
新潟盲学校の生徒の弁論大会を当院で行うようになって10数年経ちます。毎年、生徒の弁論に感動を頂いています。今回も視覚に障がいを持つ中学生と高校生が、精一杯に弁論を行いました。
最初の弁論「歌」では、歌が好きで好きでたまらないという高等部の弁論でした。
やる気にさせる上手いほめ方にも興味を覚えました。歌の本質は、うまい下手ではなく、心を込めて歌うことと彼女なりの考えが伝わってきました。何よりも弁論の声が澄んでいて美しかったのが印象に残ります。
次の弁論は、実は当日体調を崩して盲学校の先生が原稿を代読しました。確かに小学校から中学校への進級は、私にとってもひとつ大人への階段を上がったような気がしました。私の頃(50年近く前ですが)、中学生になるとき、男子は髪を丸刈りにし、黒の制服を着たものです。小学生から見ると大人の世界にジャンプするような感覚だったことを思い出しながら拝聴しました。盲学校の小学部から中学部は、同級生もほとんど変わらないということもお聞きしました。それでも生徒会活動などを経験し、いろいろ社会と関わり合いを持つことを学ぶ時期であるとお聞きしました。中学進級が人生の中で大きな節目であることを実感した次第です。
今年も爽やかな感動をもらいました。
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【全国盲学校弁論大会】
大会への参加資格は、盲学校に在籍する中学部以上の生徒。高等部には、はり、きゅう、あんま、マッサージの資格取得を目指す科があり、再起をかけて入学する中高年の中途視覚障害者も多い。7分という制限時間内で日ごろ胸に秘めた思いや夢が語られる。今年で83回を迎えた。
【全国盲学校弁論大会:関東・甲信越大会】
第83回全国盲学校弁論大会の関東・甲信越地区大会(同地区盲学校長会主催、毎日新聞社点字毎日など後援)が6月27日、東京都文京区の筑波大付属視覚特別支援学校で開かれ、9都県の代表ら15人が参加した。県立平塚盲学校高等部普通科3年の八木亮太さん(17)が優勝し、10月3日に水戸市で開かれる全国大会に出場する。
http://10picweb.csdsol.com/detail.html?id=m_100000_0_10788722
平成26年6月11日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第220回(14‐06月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「生きていてよかった!」
講師:上林 洋子(社福:新潟県視覚障害者福祉協会副理事長 同女性部長)
【講演要旨】
「命を断とう」と思ったことがあるからこそ「生きていてよかった!」と思えるのです。
体操が苦手、音楽も苦手、人の前で話すことなど全くダメ…幼いころの私でした。
中学の科学の実験の時に、キラッと光ったビーカーの周りに虹が見えたので、「きれいな虹」と言ったら友達に笑われました。多分これが緑内障の初期だったと思います。
中学卒業した年に、緑内障の手術を受け、看護婦の夢を断たれ、親に有無なく新潟盲学校に入学させられたのでした。ここでの5年間が、消極的だった私の生き方を、変えてくれたのだと思います。視力があるということで、買い物や、学校行事、生徒会でも役が与えられ、人のためになれる喜びを実感することにより、自分に対しても自信が持てるようになりました。
社会人になって間もなく再発。手術を繰り返すたびに「手術は成功しました」と医師に言われるのですが、私としては「見えにくく」なる一方でした。こんな折、手術の前夜に夫から「見える眼と結婚するのではない」と言われ、共に歩むことを決意しました。出産後も手術を繰り返しながら視力は下がるばかりでした。
39歳、激しい眼痛に耐えられず入院した私に、夫は眼球摘出を勧めたのです。眼科主治医・両家の家族が集まり、治療法について相談会を持ちましたが「健康が第一」と言う夫に従い、両眼摘出の手術を受けました。この時「死ぬ」ということを決めていたのです。眼は心の窓、目は顔の中心、その目がなくなるなんて・・・そして、患者から一視覚障碍者になることのむなしさ…。
2〜3カ月後、この日こそ最後だと決め、台所の掃除をしていました。「飯はまだか?」と言った夫に力いっぱい雑巾を投げつけました。「いつまでばかやっているんだ」とかえってきた静かな声。この一言が私を新たなスタートに立たせてくれたのでした。「そうだ!命ある限り生き抜かねば」と。
それからは夫の力を借りながらいろいろなことに挑戦しました。例えば、あきらめていた点字の読み書き、小、中学校で視覚障害についてのお話し会、点字ワープロの会得、喜怒哀楽を三十一文字に託す短歌…。そして、盲導犬との出会いにより広がった世界。山登りの楽しさ、などなど。どれをあげても苦労の後には「喜び」が待っています。この達成感を味わったときに、決まって「生きていてよかった!」と心の中で叫ばずにはいられないのです。
かちゃかちゃと義眼の触れ合う音のして吾の眼(まなこ)の選ばれている
「年相応な眼にしてくださいね、でも、ちょっぴりかわいく…」
半世紀近くも営業してきた治療院をこの春に閉じ、これからは第3の人生を夫と盲導犬と楽しみながら、ゆったりと、そして「可能性」を忘れずに暮らして参りたいと思っております。
子と嫁は一つのスマホを見詰めつつ生れくる男の子(おのこ)の名を語りいる
「お母さん、ちょっと見て」そっとお腹に、確かに大きなお腹。新しい命をそっと撫でてあげました。
【略歴】
京ヶ瀬小学校、京ヶ瀬中学校卒(阿賀野市)
神奈川県内の准看護婦養成所を緑内障発病にて中退
昭和42年、新潟盲学校専攻科卒
昭和44年、鍼灸マッサージ治療院を開業している先輩と結婚
二児出産後、数回の手術の後、四十歳には完全に失明
このころから音声ワープロをマスターし、短歌を詠む楽しさを覚える
平成7年、北海道盲導犬協会に入所し盲動犬ユーザーとなり現在に至っている
【後記】
上林さんの優しい語り口調に吸い込まれ、心地良い感覚でお聞きしました。
「生きていてよかった」ここに、上林さんの人生が集約されているのが、講演を拝聴してよく理解することが出来ました。幾多の苦難を乗り越えて、自らの精一杯の努力と、本気でぶつかり合いながらで築き上げた、多くの理解と愛情の中で、今を生き抜いている。。。。
今後は、上林さんの知識と経験、そしてこの明るさを伴うエネルギーを多くの方々に、短歌を交えながら素敵に語って伝え広めて頂きたいと期待しています。
平成26年5月14日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第219回(14‐05月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「視覚障がい者支援センター・ひかりの森 過去・現在・未来
〜地域生活支援の拠点として」
講師:松田 和子(視覚障がい者支援センター・ひかりの森 理事長)
【講演要旨】
「ひかりの森」を振り返ると、それは希望に満ちた時であり、それよりずっと以前からの私の未来でもありました。
成人式を終えてまもなくの頃、私は気になっていた目について診てもらわなければと、F市立中央病院の眼科を受診しました。「網膜色素変性症で治る見込みはありません。5年で見えなくなるかもしれない。結婚はしない方がいいし、出産して見えなくなった人もいますよ」暗室の中での魔の告知でした。
その当時は、私には普通に生活できる昼間の視力がありましたし、希望に胸膨らむ青春でしたから、魔の告知にはひるまず、自分の意思こそを尊重することに決めました。証券会社に就職し、普通に日常の生活を送り結婚もしました。二人の子どもを出産したのですが、目に影響はありませんでした。あの時のドクターの言葉は一体なんだったのでしょうか…。この経験から、自分のことは自分で守るということを信条としています。
子育てが一段落すると、病院めぐりを繰り返し、様々な検査や薬を試してみました。いよいよ色の識別ができなくなった40代半ば、国立リハビリテーション病院を受診しました。「どんなことに困っていますか?」この様な問いかけは初めてでした。(そうか、困っていることを人に話してもいいんだ!)このことが、ロービィジョンケアの始まりとなりました。魔の告知から50年近く経た現在でも、さまざまな心無い言葉に悩み続けている人達からの電話相談があります。
1995年、JRPS埼玉支部の立ち上げに関わり、副会長として広報や相談支援に励みました。ところが、ホームから転落して大怪我、次いで工事現場に転落し、くも膜下出血を起こし、殆どの視力を失ってしまいました。50歳を迎えていましたし、失明するかもしれないという覚悟はしていたものの、ついにこの時が来てしまったという失望感と落ち込みは、たとえようのない物でした。絶望、孤立、自殺へと追い込んで行く自分自身に疲れ果ててゆくだけの日々でした。
自分の全てを失いそうになった時、救って下さったのは、近所に住んでいる朗読ボランティアの女性でした。2001年、市内に「ロービジョン友の会アリス」を設立。ボランティアをする、される関係を超えた共生のスタイルでイベントの開催や、学校ボランティアにも出かけて行きました。色々な才能を持った方々の集い友の会は、成長し、遂に拠点を持つことへと動き出しました。
2006年、「心身障害者デイケア施設 ひかりの森」を市内に開設。自分たちの拠点を自分たちの手で勝ち得た喜びをかみ締めました。当所は、10名の利用者でしたが、不安を抱きながらも希望に燃えていました。まず、自立訓練をと、移動訓練、音声パソコンそして調理実習から始めました。福祉経験の無いスタッフは、外部専門者から指導や研修を受け、丁寧に利用者に対応しながら、実績を重ねてきました。利用者のニーズに合わせたメニューを取り入れ、活発に活動を展開することで利用者も増員。見学や体験やボランティアで関わる人も増えてゆきました。一方、外部に向けての情報発信にも力を入れ、電話相談や来談者も増えました。
2010年、「NPO法人 視覚障がい者支援協会」を設立。市民活動団体にも積極的に参入し連携しながら理解を求め、地域資源では、フェアや点字教室を開催して、広く市民の方々と交流を持っています。ひかりの森で社会性や自立力を付けて、一人ひとりの利用者が生活の基盤であるコミュニティに参加出来る様、支援の輪を広げています。体験者も多く受け入れ、更に他施設の生活リハを希望する人への中間施設としての役割も担っています。就労を希望する利用者には、必要な支援策を講じ、エクセルやワードの操作にも力を入れ支援しています。すでに2人の女性の就職が決まりました。
送られてきた名刺に点字を打ち込む点字名刺の作業は7年目を迎えて、作業力もアップしています。越谷市の伝統文化「籠染めの浴衣地」でバラの花を作る「浴衣の花グループ」では、商品化を目指しています。この春、ひかりの森の利用者は、49名に膨らみました。
今日と違う明日の現実とどう取り組んでゆくのか。ひかりの森の現場の課題です。
ひかりの森の未来図は、決して夢や理想だけでは語る事が出来ません。
【略歴】
松田和子(NPO法人視覚障がい者支援協会・ひかりの森 理事長)
1995年 JRPS埼玉支部の立ち上げに関り、副会長
1996年 網膜色素変性症と事故により殆どの視力を失う
2001年 ロービジョン友の会アリスの設立 会長
2006年 身体障がい者デイケア施設・ひかりの森 施設長
越谷市障がい者施策推進協議員
2010年 越谷市委託事業の地域活動支援センター ひかりの森 施設長
2010年〜NPO法人 視覚障がい者支援協会・ひかりの森 理事長
NPO法人 視覚障がい者支援協会・ひかりの森
http://npo-hikarinomori.com/
【後記】
埼玉県越谷市から松田和子さんをお招きしての勉強会でした。松田さんは、とにかく前向きで、優しくて、思いやりがあり、思慮深く、品のある方でした。
講演の中に、いくつも心に残るフレーズがありました。
●21歳の時に、網膜色素変性と診断された。その時の医師に、「5年で失明する。結婚はしない方がいい。子どもも作らない方がいい」と言われた。
●プロポーズされた時、「将来失明するかもしれない」とカミングアウトした。そしたら「お手伝いさんになってもらう積もりはない」と言われて結婚した。
●二人の子供を出産。それでも目には影響はなかった。あの時のドクターの言葉は何だったんだろうか?この経験から、「自分のことは自分で守る」ということを信条としている。
●40歳代半ばで色の識別が出来なくなって、国リハを受診。「どんなことに困っていますか?」と聞かれた。このような質問はこれまで受けたことがなかった。そうか困っていることを人に話していいんだ!このことがロービジョンケアの始まりだった。
講演後の討論も充実していました。「視覚障害者の松田和子ではありません。視覚障害というリュックを背負った松田です」「せっかく視覚障害になったのだから、楽しまねば、、、」「ボランティアとの関係 やってくれる人/やってもらう人ではなく、一緒に楽しむ」「苦労は多い。でも大変さの中にこそ、学ぶものがある」「明るいことは重要」
今後も松田和子さん、そして「ひかりの会」を応援していきたいと思います。
平成26年4月9日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第218回(14‐04月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「視覚障害とゲームとQOLと…」
講師:前田 義信 (新潟大学工学部福祉人間工学科)
【講演要旨】
こんにちは,新潟大学のマエダです.こんな私を,第141回(2007年11月),第164回(2009年10月),第218回(2014年4月.今回)と,計3回も話題提供者として本勉強会にご招待下さりまして,安藤先生に深く感謝申し上げます.いつも話ばかりでは面白くないかと思いまして,新潟大学大学院生のマツバヒロシ君に協力してもらい,今回はゲームを持ってきました.皆さんで一緒に遊びましょう!
どうでしたか?楽しかったですか?楽しかったけど,時折飛び出すマエダのボケとツッコミが邪魔でしたって?こりゃ失礼しました.
今回持ってきましたゲームは,私の共同研究者でもある大阪電気通信大学のニイカワ先生(漢字では新しい川,シンカワと書いて新川先生です)のところで開発したキキミミと呼ばれるゲームシステムです.このシステムの中に,トランプゲームのような体裁のゲームをプログラムすると,音声だけで楽しめるゲームが出来上がります.
あまり褒めるとニイカワ先生から「褒め殺しか!」とツッコミ食らいそうですが,何を隠そう!いや,全く隠してませんけど,キキミミは本当に良く出来ています.あまりに完成度が高いので,新潟大学の私の研究室ではこのゲームシステムをオンライン化させてもらっています.
さて,キキミミもそうですし,私の研究室で作っているスゴロクとかザトウイチゲームとかもそうですが,これらは「視覚障害者が晴眼者と“対等”にプレイ可能なゲーム」であることを謳っています.「対等」という漢字は「タイトウ」と読みますが,これを「駘蕩」と表記しても全く構いません.今は春ですしね.春風駘蕩たる雰囲気の中,視覚障害者も晴眼者も老若男女も関係なく全員が楽しめたら,それが一番です.
閑話休題.失礼しました.“対等”の話でした.なぜ対等に拘泥したかと言えば,それはゲームなんかなくても日常生活では何も困らない,まぁ,ゲームというものは,あってもなくても,基本は困らない“役に立たない”ものだからです.逆に役に立つものであれば,例えば,白杖であれ,何らかの音声装置であれ,視覚障害者はそれらの使い方を教えて貰う際にどうしても晴眼者より立場的には下になってしまいます.なぜなら白杖は視覚障害者には必要でも晴眼者には必要ないからです.つまり対等ではないんですね.
これまでの私は「エンジニアとして役に立つものを作れないか」と微に入り細を穿って周囲を眺めまわしては「自分の作るものはまだまだ役に立たない!」と憤慨する若者でした.ですが“役に立つ”とは,一体全体,誰の役に立つのか.仮に視覚障害者の役に立つのだとすれば,それを壮語する私は何様だ?と,うっかり考えてしまったのでした.
誰かの役に立つ研究をすることは,工学の世界では大変重要なことですし,それを目指さないければ,エンジニアの存在価値は社会的にないのかもしれません.ですが,誰かの役に立つのだ,と,誰かさん側ではなくエンジニア側から発言した時点で,エンジニアである私はその誰かさんを「上から目線」で無意識に見ている構造になると気付きました.そして,そんな自分が,突然,嫌になったんですね.
教師と学生の関係も同じ構造ですね.教師が学生を「上から目線」で見ない限り「教育」は成立しない.たとえ人間的あるいは知識的に教師が学生と同じレベルかそれ以下であったとしても「教師が上から目線で学生を見る」構造が成立しない限り講義はできないし教育もできません.そうか!だから私は20年前に大学の先生になるときに悩んだんだなぁと今更ながら自分のことを理解しました.“理解する”の英語は“understand”ですが,理解するときは上ではなく下(under)の立場に立つ(stand)ことなのだと安藤先生から教わりました.なるほど恐れ入りました!
大学の先生は立派な仕事をしている.それに異論はない.そんな職業に憧れるのは当たり前の感情だ.なのに,どうして自分は大学の先生になることを20年前に躊躇し悩んだのか.そうか.やっと分かった.まさにアンダースタンド.教育の場では,教師と学生の間で“上から目線”の関係を無理にでも作らねばならない,それが自分には嫌だったのだ.だから悩んだのですね.
今ではすっかり「上から目線」に慣れてしまったマエダですが,少なくとも研究に関しては,初心に戻って,視覚障害者を“上から目線”で見るのではなく,同じレベルで“対等”に遊んでみようと思ったのであります.すると“役に立つか否か”という概念はどうでもよくなりました.そして,視覚障害者が誰の力も借りることなく楽しめるためには視覚を使ってはいけない.これが必要条件.そして,たとえ視覚を使わないゲームであっても晴眼者が楽しめないと意味がない.これが十分条件.必要十分なゲームとはどんなものかを考えることになりました.今回,持ってきましたキキミミはまさに上記の必要十分条件を満たしたゲームなんです.
よく「その研究にはニーズがあるのか?」ということを学会では問われたりしますが,たとえニーズをくみ取ったとしても,これも「上から目線」の構造であることに変わりはない.本当はニーズなんかあるのかないか誰にも分からない可能性もあるのに,そこから無理にニーズを引き出したとすれば,それも「上から目線」の構造のなせる技ですから.内田樹さんによれば(ちょっと難しいかもしれませんが)「ニーズは“ニーズを満たす制度”が出現した後に,事後的にあたかもずっと以前からそこに存在していたかのように仮象する」ものだからですね.
だから,たとえ宮澤賢治のように「みんなからデクノボーと呼ばれて」も,一度“役に立つか否か”とか“ニーズがあるのか否か”いう概念から解放されたエンジニアに私はなってみよう,と思ったのでした.こんな発言をしたら,学会の偉い方々からしっかり怒られて“パコッ!”とデコピンされるかもしれませんが,そのときはデクノボーではなくデコノボーと呼んでくれましたら誠に幸いです.ああ,やっぱりダジャレで話を終えてしまった.
【略歴】
昭和63年 大阪府立 大手前高等学校 卒業
平成5年 大阪大学 基礎工学部 生物工学科 卒業
平成7年 日本学術振興会 計測制御工学分野 特別研究員
平成10年 大阪大学大学院 基礎工学研究科 修了(博士(工学))
新潟大学 工学部 福祉人間工学科 助手
平成17年 新潟大学 工学部 福祉人間工学科 助教授
平成19年 新潟大学 工学部 福祉人間工学科 准教授
【後記】
講演の冒頭に、「上から目線」「役に立つこととは?」「対等ということ」等々のフレーズについての解釈の紹介がありました。何かしてあげるという姿勢は、上から目線ではないか?本当に対等にお付き合いするにはどうすればいいのか?という問い掛けは、いつも気にしていることです。
こうした考えを背景に考案されたゲームを講演時間大半を費やして行うというこれまでの勉強会にない新鮮な勉強会でした。初めは参加者も戸惑いがちでしたが、そのうちに持ち札に文句を言うもの、「待った」を掛けるもの、ゲーム参加者もそれを見守る観客も、結構マジでエキサイトしていました。
障碍者の機器開発は、生活に役立つものが優先されがちですが、このような視点でのゲームの開発は本当に必要なことだと、ゲームにのめり込みながら感じました。
参加者から、「役に立つ」研究かどうかは気にしなくてもいい。ご自身が面白いと思ってやっている研究ならば、きっといつかは何かの「役に立つ」時が来るのではないかという感想も届きました。
前田先生の、そして新川先生(大阪電気通信大学)の今後の発展を祈念致します。
平成26年3月12日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第217回(14‐03月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「私はなぜ健康ファイルを勧めるのか」
講師:吉嶺 文俊(新潟大学大学院医歯学総合研究科総合地域医療学講座特任准教授)
【講演要旨】
「由らしむべし知らしむべからず」 昭和の良き時代における地域の医者ドンはこういうイメージではなかったでしょうか。「赤ひげ先生」というヒーローは、私が医師になって四半世紀の間に消えつつあります。それは、医療(特に治療医学)の進歩と、それを取り巻く社会と住民の意識の変容に大きく関係しています。日本人が世界最高峰の健康長寿社会を造り上げた背景には、国民皆保険制度、フリーアクセス、自由開業医制そして出来高払いを主体とした診療報酬制度などがありますが、グローバル化の流れで見直しを迫られています。
新潟県は高速道路も新幹線も国際空港も、そして国際貿易港もあるのに、県外からの転入率や県外への転出率が低い状況が続いています。住めば都ということですが、保守的で新しい変化を起こしにくい風土ということになるでしょうか。また新潟市は日本海側で初めての政令都市であり高齢化率25%と全国平均レベルですが、その他の県内地域は高齢化先進地となっています。すなわちNiigataの行く末は日本および世界の未来を占うといっても過言ではありません。
阿賀町は毎年5月3日に催される「つがわ狐の嫁入り行列」で有名ですが、県内で最も高齢化が進んでおり、そこに唯一存在する県立津川病院で私は11年間過ごさせていただきました。病床数67床で病棟は一つ、常勤医師は内科と外科のみという小規模地域病院ですが、いろいろなご支援により14科の外来診療を開設し、在宅療養支援病院として訪問診療に力を入れています。昔ファクシミリが世に出たころに、国のモデル事業として豪雪へき地と津川病院の電話回線を用いた遠隔診療システムが、現在の阿賀町巡回診療の始まりでした。しかしなんとそれ以前にもその地域を訪れた方がいました。
「急病人が出ると村落(ムラ)の人たちが何人も加勢に出て、病人を戸板に載せて二十キロの山道を歩いて街の医院まで運んだ。大雪の頃だと丸一日もかかることがあり、途中の集落の家で休ませてもらいながら、街の病院や医院にようやくの思いでたどり着いた。こうした状況の中では長い間病臥している人や老人の場合には、容態が悪化しても医師の診察を受けることを家族は諦めて、生命を見限ったという。」(命の文化人類学 波平恵美子著 新潮選書) 当時は車も通らない雪深いへき地で冬季中心に始まった診療でしたが、今では高齢者が増えて足が不自由なため通年の巡回診療に変わってきました。
高齢者の生活機能に注目してみますと、早期の適切な医療や介護等の介入により、急性増悪の回数を減らし重症化を抑制し、元気で長生きを目指すというような政策が推し進められています。具合がとっても悪くなってから病院に救急車で運ばれるのを待っている後手の医療ではなく、とても悪くなる前に早めに手当てを打つ早期介入の姿勢が重要だと思われます。それは高度専門病院に「集める」医療だけではなく、訪問診療、訪問看護、訪問薬剤指導など在宅へ「出向く」医療のバランスが重要ということになります。
20世紀は治療医学が優先された時代でしたが(「病院の世紀の理論」猪飼周平著 有斐閣)、これからはQOL(生活の質)を標的とする生活モデルに基づいた包括ケアの時代に入りました。それは医療や介護がサービス提供の場の中心地から支えるメンバーの一員として並び替えられることになります。「赤ひげ先生」時代の終焉から多職種連携協働によるチーム医療の推進は研修医育成や学生教育においても重要です。
超高齢社会における地域医療の経験で気づいたことは、住民と医療者(ケアスタッフも含む)の意識改革でした。保健師さんたちと悩みながら創り出した連携ノートや、成人小児にも応用した健康ファイル は、クリニカルパスなどの医療者側からの視点に相対応する、住民(患者)視点からのツールです。自分の健康や疾病に関する情報を自分で管理するという簡単な作業に、みんなが気付きそして実践していくことが、住民と共に医療提供者側の意識変革をもたらし、ひいては両者の良好な信頼関係構築に繋がるものと期待しています。
*健康ファイルとは
阿賀町で思いついた自己情報管理ツールです。
構造は極めて簡単、A4サイズの二つ穴で保存する紙製のファイルであり、廉価でどこでも手に入るため幅広い応用が可能です。自分の健康や疾病に関連する情報をはさみながら自分で管理するという単純な仕組みであり、使い方を裏表紙に貼りながら参考にしてもらっています。
ファスナー付クリアファイルも付属しており、そこに保険証やお薬手帳などを保管することにより災害緊急時等にも応用できます。さらに主治医が診療経過のサマリーを作成提供してもらうとさらに有用となります。ファイル管理者(患者・住民・場合により家族)を中心に情報共有を行い、医療や介護スタッフとの連携が十分確立されていれば、個人情報保護に関する問題は生じません。
みなさんもぜひ今日からお試しください。
【略歴】吉嶺 文俊 (よしみね ふみとし)
昭和35(1960)年3月28日生まれ。本籍鹿児島県大島郡喜界町。
神奈川県小田原市生まれ⇒佐賀⇒広島⇒千葉を経て中学から新潟市に転入。
新潟県立新潟高校、自治医科大学医学部を卒業し新潟大学第二内科に入局。
県立新発田病院、六日町(現在南魚沼市)立国保城内病院、県立六日町病院、県立妙高病院等を経て、県立津川病院長を10年間務める。
2013年より新潟大学 総合地域医療学講座(特任准教授)。
新潟医療福祉大学客員教授。
自治体病院中小病院委員会委員(北陸信越ブロック)。新潟県病院局参事。
住友生命社会福祉事業団第6回地域医療貢献奨励賞受賞。
専門は内科、呼吸器、アレルギー、リハビリテーション、プライマリ・ケア、地域医療。
【後記】
冒頭に新潟県の様々なデータを示して頂きました。離婚率 全国46位、転入率 46位、転出率 46位、後期高齢者医療費 全国一安い、、、 ぐぐっと興味を増したところで、「新潟から世界を変えよう」とキャッチフレーズを唱え、高齢化先進地の阿賀町での活動を紹介して頂きました。吉嶺先生の手に掛ると、僻地医療が先進医療に変貌してしまいます。
波平恵美子(お茶の水大学、「いのちの文化人類学」)の引用もあり、テーマは重かったのですが、何故か明るく楽しかったのです。曰く、昭和の「赤ひげ」たちの時代は消えつつある。時代と共に問題は、「克雪から高齢化へ」。病院に患者を集める「集約医療」も大事だが、医療者が「出向く医療」も大事。病歴や紹介状、投薬資料、入院時のクリニカルパス等をまとめた「健康ファイル」が重要となる。この普及には住民ばかりでなく医療者の意識改革が必要。。。。高齢化社会を先取りしている先進地・阿賀町での豊富な体験を伝えて頂きました。
迫力ある講演のみならず、寸劇も加えた見事なステージ?でした。拝聴しながら、重い話のはずなのに、何か楽しくお話している様を見て、この明るさが吉嶺先生の魅力と素直に納得しました。不可能を可能にするにはこの明るさが大事なんだと、、、
吉嶺先生のますますのご活躍を祈念致します。
平成26年2月12日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第216回(14‐02月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「黄斑変性患者になって18年ー私の心の変遷」
講師:関 恒子 (松本市)
【講演要約】
黄斑変性症の発症から18年が経過した今、診断から入院治療、そして日常に戻って現在に至るまでを振り返る。心のうちに感じてきた一人の患者の想いに共感と理解を戴けたら幸いである。
◆私の病歴
1996年1月、先ず左眼に、その10ヶ月後右眼にも近視性血管新生黄斑症を発症し、左眼は1997年に強膜短縮の黄斑移動術を受け、右眼は1999年に全周切開の黄斑移動術を受けた。手術後も6年間は合併症や再発のために数度の入院手術を行い、様々な治療を受けている。現在は左眼0.3〜0.4、右眼0.1〜0.2、網膜の委縮のために視野の欠落が進行中である。
◆診断当時のこと ー 家族の支えと良き協力者の存在
発端は起床時左眼に見つけた小さな歪みだった。目の病気に対する知識が皆無だったため、一時的なものかもしれないと様子を見ていたが、歪みは解消せず、拡大したため、1週間後開業医を受診した。直ちに大学病院を紹介され、検査の結果、近視性血管新生黄斑症と診断された。その際「視力は低下していくだろう」ということと、「確立した治療法はない」ということが告げられた。
視力が低下すると聞いた時、先ず私の脳裏に浮かんだのは失明した自分の姿だった。そして字も読めなくなったら、これから先どうやって生きていったらいいのだろうと、思ってもいなかった診断結果に呆然とした。失明への不安と自分の将来への失望はとても大きく、有効な治療法がないということが更に私に打撃を与えた。
私は強度近視を持っていたが、それまで眼で特に苦労したことはなく、眼に特別な注意を払ったこともなかった。視力が低下すると言われて初めて眼の大切さに気付いた程だったが、その思いは「視力を失うくらいなら命を失うほうがましだ。私の眼は命より大切だ」というようになっていた。その私に夫は「命がなくなるわけではないからいいではないか」と言ってくれたが、その時の私には何の慰めにもならなかった。しかし期せずして私の二人の子供がそれぞれ夫と同じ様なことを言い、更に「世の中には全盲の人たちもいて、みんな元気に生きているよ」と息子に言われた時、初めて死んだほうがましだと考えた自分を恥じる気持になった。
動揺している私に対して、家族が少しも動揺を見せず、「生きていればいいではないか」と言ってくれた家族には今でも感謝している。もし家族までが動揺したり、悲しんだりする様子を見せたら、私の心痛は増していたに違いない。
次回の来院の時、開業医の先生は私に近視について書かれた一冊の本をくださった。私はその本によって自分の病気を理解し、冷静に見ることができるようになったと思う。後に症状が進行して行く過程においても、その知識は非常に役立った。過剰な心配や不安を抑えるためにも正しい知識は必要だ。この開業医の先生は、後に手術を決意する際にも多大な協力を惜しまず、現在に至るまで身近な先生として相談にのってくれている。私が発症した当時は黄斑変性症の情報はほとんどなかったが、この先生のような良い協力者がいてくれたことはこの上ない幸せなことであり、大変感謝している。
◆入院治療の日々 ― 自分が選択したことには責任を持たねばならない
発症から10ヶ月経つ頃には左眼で見る景色は何もかもがひどく屈折し、視野の中心にリング状の霞ができ、視力も0.3〜0.4に落ちていた。右眼にも発症したのはそんな時だった。右眼の発症についてはある程度の覚悟はあったが、やはり衝撃を受け、何らかの治療を受けたいと切に願った。有効な治療法がないとされる中、通院していた大学病院から提案されたのは左眼の新生血管抜去術だった。しかし呈示された手術成績に不安を持った私は、開業医の先生に相談して転院し、そこで選択したのは、まだ確立していない最先端の黄斑移動術を受けることだった。
網膜手術の危険性など思い及ばなかった私は、視力改善の可能性があるとだけを聞いて手術を承諾してしまったが、病院を紹介してくれた開業医の先生にそれを報告すると、手術の決断をするには情報が不十分であるとの指摘を受けた。私たちは参考となる論文を取り寄せ、手術医にも説明をお願いし、そして最後の決断は私に任されたが、結局私は手術を受けることを決意した。視力の低下を認識しながら何の治療も受けずにいることの不安と苛立ちは、予後のわからない新しい手術を受けることの不安よりも遥かに大きかったからである。
この手術の結果は期待通りにはならず、不測の事態も様々起きたが、私は手術を受けたことを後悔したことはない。何もせずにいることは私にはできなかっただろうし、手術は当時の私に大きな希望を与えてくれた。選択が正しかったかどうかは見方によって異なるであろう。だが当時の私にとって最善の選択であったと信じ、自分自身の選択には責任を持たなければならないと思っている。
手術後の左眼は合併症や繰り返す再発で入院も長引き、更に数度の入院手術を繰り返したが、2年後には0.1〜0.2になった右眼にも黄斑移動術を勧められた。しかし左眼の術中に生じた耳側の視野の欠損や、見え方の質の大切さを考えると、両眼に移動術を受けることは大いにためらわれた。たとえ視力0.1であっても、中心窩の暗点以外は正常だったので、私は右眼に頼って生活していたからである。右眼に施されようとしている手術は左眼のものと手法が異なる事、早いほうが効果的である事など主治医の熱い説得によって、結局私は手術を承諾した。幸い術後の経過は良好で、合併症や再発は起こらず、視力は0.6に改善し、私は見えるということに感動した。
◆日常に戻って ― 目は見えるうちに…だが目には見えない大切な物もある
6年間に渡る治療が終わり、日常に戻ってみると、右眼には淡色系の色の判別や遠近感、暗順応、両眼視などの問題があったものの、生活の質は向上し、私は感謝の日々を送った。しかし再び視力が低下することが考えられたので、視力が保たれている間に視力を最大限に活用しようと、拡大鏡を使って読書に励み、大学に通ってドイツ文学を学び始めた。これは私の「見える喜び」を更に大きくしてくれた。病を得たことによって失ったものは確かにある。しかし失ったものの数を数えても仕方がないから私は今何ができるかを考えて生きたい。病という負の要素は私に奮起する力を与えてくれた。ドイツ文学も、このところ毎年行っている単身の海外旅行もこれによるものである。
現在私の両眼は網膜萎縮による視野狭窄が進行して術前より状態は悪く、かなり生活を脅かしている。本当の困難はむしろこれからだろうと思っている。
最後に、「見える」ということについて考えてみたい。人は情報の80%を目から得ているという。これを聞く度に低視力者はどうなるのだろうと心配になる。だが、たとえ見えていたとしても本当に見たと言える物はどれだけあるだろうか。人は見える物全てを記憶にとどめる訳ではなく、自分に有用な情報だけを選別している。これは聞こえる物についても同じで、意識の違いによって見える物も聞こえる物も変わってくるはずだ。サン=テグジュペリは『星の王子様』の中で、「物事は心でしか見えない。大切な物は目には見えない」と言っている。私は視覚障害を持って以来、見える世界をとても大切にしてきた。しかしこれからは目には見えない大切な物の世界を探しながら生きたいと思う。
【略歴】
名古屋市で生まれ、松本市で育つ。
富山大学薬学部卒業後、信州大学研修生を経て結婚。一男一女の母となる。
1996年左眼に続き右眼にも近視性の血管新生黄斑症を発症。
2003年『豊かに老いる眼』翻訳。松本市在住。
趣味は音楽と旅行。フルートの演奏を楽しんでいる。地元の大学に通ってドイツ文学を勉強。眼は使えるうちにとばかり、読書に励んでいる。
【後記】
壮絶な18年間のドラマを拝聴した。18年前までは、ごく普通に見える生活を送っていた関さんが、眼科で「近視性血管新生黄斑症」と診断されて以来、生活も人生も大きく変わった。その後の長い闘病生活、治療はまだ手探り状態、そうした中で地元の主治医と相談し、当時最先端の治療を受ける。手術を何度も繰り返した。
そうした過程で、治療を受ける患者の哲学(充分な告知・インフォームドコンセントを受けて、治療法について他人任せにせず自己責任のもとで自己決定しする)を学んでいく。最後に、物事は心でしか見えない。大切なものは目には見えないという境地に至る。今後は眼に見えない大切な世界を探して生きていくと結んだ。
関さんが歩んでこられたこれまでの人生を尊敬し、この勉強会で語って頂いたことに感謝致します。今後、ますます有意義な日々を過ごされることを祈念致します。
平成26年1月8日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第215回(14‐01月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「大震災でつかめない大多数の視覚障害者への強いこだわり
〜 一人の中途失明者に何もできず落ちこんで50年」
講師:加藤俊和(社福:日本盲人福祉委員会災害支援担当)
【講演要旨】
*私は・・・
1945年に京都・西陣で生まれ育ち、高一の1961年から点訳などのボランティア活動を始めました。立石電機(現オムロン)で12年間開発業務に従事した後、1980年から日本ライトハウスで情報やリハの所長など、2003年から京都ライトハウスの点字図書館長に従事して、2010年3月に退職しました。その後、ボランティアで、サピエ事務局長や日本盲人福祉委員会の東日本大震災対策本部事務局長などをしてきました。
*視覚障害者の避難と現状は?
東日本大震災からまもなく3年になろうとしています。私は、避難するときに重要なのは、何よりも持病の薬の持ち出しであること、そして、視覚障害者にとって、避難所で最も大変なのは「トイレの中」であることを言い続けてきました。阪神淡路のときは3年後には復興住宅が完成して仮設住宅がほぼなくなっていましたが、東日本大震災においては復興住宅はまだ数%にすぎません。その中で、仮設住宅などに長期間居住を余儀なくされている障害者の多くは、これまで支えられてきた地域社会が崩壊して、行き先の見通しがまったく立っていないのが現状です。このように困窮とあきらめの中の多数の被災障害者のことはほとんど表面に出ず、深刻化しています。 「早くどこか施設に入りたい・・・」などの切羽詰まった相談が、今も連絡先となっている私の携帯電話に入ってくるのです。
*なぜ私は震災支援に飛び込んだ?
阪神淡路大震災のときにも私は支援に関わりましたが、都市部を中心とした大災害でしたので、東日本大震災のような広い農山漁村が主体の大災害においては、阪神淡路と同じ方法では、支援ができないと思われました。自分から声を出すことができる人たちへの支援もままならず、さらに、大多数となっている中高年から視覚障害となった方々が埋もれて取り残されてしまう、と思われたからです。
*私の心を支えた、故・鳥居篤治郎氏
1961年に私が「奉仕活動」を始めたちょうどそのときに、京都府立盲学校の副校長で日本盲人会連合(日盲連)の2代目会長でもあった鳥居篤治郎氏が、点字図書館など京都の活動の拠点となる京都ライトハウスを設立されました。高校でクラブ活動として日赤の奉仕活動と点訳を始めていた私は、こぢんまりした当時の京都ライトハウスに行き、鳥居先生にお会いして話すことができたのは幸運でした。そのような中で、目が悪くなった人の家に行ってみるか、と言われ、何も考えずに行きました。当時は、自立できる優秀な視覚障害者さえ強い偏見の中に置かれている時代であり、中途視覚障害になりたての人までは手が回ってはいなかったのです。何もできないだろうけれど、ということだったとはいえ、一高校生にとっては話しをすることもできない「苦い体験」でした。視覚障害者には、私たちが接している方々だけでなく、何も言えずに取り残されている中途視覚障害者が多数おられる、ということを半世紀も前に教わっていたことが私の活動の原点になりました。
ところで、鳥居氏は、日盲連の会長に就任されてすぐに、当事者・施設・教育の3分野を統合されて「日本盲人福祉委員会(日盲委)」を1955年に設立され、強い交渉力で大きな成果を積み重ねられておられました。その後、障害者運動は当事者が中心になっていき、日盲委の活動の場は少なくなっていきました。
*「視覚障害者対策」の拠点をどうするか?
東日本大震災は、広範囲に広がる悲惨な状況の中にあり、現地にはすぐには行けなかったこともあって、視覚障害関係団体は支援方法から模索していました。阪神淡路のときは、大阪(被災地から約40km)の日本ライトハウスが拠点となり、「ハビー」というボランティア団体が支援の中心を担いました。しかし、東日本大震災では、被災地の広大さをはじめ状況はまったく異なり、きちんとした団体でないと視覚障害者リスト入手も支援もうんと限られてしまいます。そのため、私は、鳥居先生が作られた日盲委に対策本部を置くしかないと主張して押し進めるとともに、私が視覚障害者に関わってちょうど半世紀になっていたことも運命的に感じて視覚障害者の支援活動に飛び込み、東北と東京が生活の場になりました。
*東日本大震災を支援しての教訓
まず第一は、障害者は誰が助けてくれるのか、です。今やどの障害も7割以上が高齢者となっており、災害時に命を左右したのは、消防団員や警察官などではなく、迅速に避難者を助けた人の多くが、周囲の「隣近所の方々」であったことです。
二つ目は、東日本大震災の視覚障害者支援は、団体や点字図書館のリストにより、4月末の支援は236人で実質上終ろうとしていましたが、その後の「新たな取り組み」によって、支援から取り残されていた1455人もの方々がおられた、という事実です。「表面に出ない視覚障害者が大多数にのぼる」ことを、大きすぎる犠牲によって数字が示した教訓です。私はそれらの対策の必要性を、これからも強く訴え続けていきたいと思っています。
【略歴】
1961年 高1から、視覚障害者支援ボランティア活動
1968年から12年間立石電機(現オムロン)中央研究所。
1980年から日本ライトハウスで、情報関係やリハ所長など。
2003年から京都ライトハウス情報ステーション所長。
2010年3月退職。以降はボランティア活動。
東日本大震災の勃発で日本盲人福祉委員会で支援の事務局長。
現在、全視情協サピエ事務局長、日盲委災害支援担当。
講演など:専門点字・触図、視覚障害リハ・情報、災害等。
【後記】
今年は新潟地震から50周年、中越地震から10周年に当たります。自然災害の時に障害者はどのようにしていたのか?どのような困難があり、今後どのような対策を講じたらいいのか?誰でもが思う疑問を見事に真正面から取り組まれた加藤俊和先生の、想いの籠った(魂の籠った)講演でした。
個人情報のためなかなか情報がつかめない中、視覚障害者の状況を丁寧に集め、支援してきたことは大変感動的でした。何よりも視覚障害者の8割がどこの団体・組織にも属していないことも判明しました。災害時には情報の伝達・発信が重要。そして何よりも自らの手で自らを守ることが求められます。薬を服用する方は、一週間くらいの薬は常備する必要。また薬の名前を覚えておくことも大事なこと。災害に備えるということは、地域の方との接触等も含め、日常の生活が問われること等、教訓も多く含まれていました。
阪神淡路の大震災の頃に比べると、ボランティア活動もだいぶ進歩してきました。
ただボランティアに求められる大事なポイントはリーダーの存在。リーダーの重要な仕事は、ニーズの掘り起こしと明言していました。大多数の「言えない中途視覚障害者」をだれが代弁するのか? 視覚リハ関係者は「それを知っているはず」、「知ってないといけないはず」。初期の中途視覚障害者と最も接点のあるのは、眼科医と視能訓練士。その連携が「8割以上の中途視覚障害者」を助けるとの言葉は心に刻んでおきたいと思います。
加藤先生、本当にありがとうございました。益々のご活躍を祈念しております。
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