済生会勉強会の報告 2012
平成24年12月12日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第202回(12‐12月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「障がい者が、働くことを成功するために大切なこととは?」
講師:星野 恵美子 (新潟医療福祉大学 社会福祉学科)
【講演要旨】
1 なぜ、就労支援なのか=働くことの意味とは
一定の年齢になれば障害の有無にかかわらず「自分の力で働く」ことが大切です。障がい者にとっては働くことは、リハビリテーションの最終目的であると同時に経済的な自立を助けます。また、自分自身が価値があり必要な存在だと認められ、自尊心の向上や社会的な孤立感を防ぐ基礎ともなります。
2 障害者就労の現状(全国、新潟県)
日本では、事業主に一定の割合で障害者を雇用することが義務づけられています(障害者の法定雇用率)。障害者就労の現状を現すこの雇用率は、法定雇用率1.8%のところ、全国平均1.69%で、新潟県1.59%で全国41位であり、不十分な状況であり、障害者就労の改善が必要です。
企業規模別の雇用率では従業員数が1000人以上の大企業は1.9%と雇用率を満たしています。企業規模が大きいほど障害者雇用率は高い傾向にあります。それは大企業では仕事が多様で、障がい者の働くための仕事を算出しやすいことと、障害者雇用納付金(1人当たり5万円/月)の負担が大きいため、障害者雇用に積極的になると考えられます。
3 働く現状、どんな仕事に、従業員の姿
仕事のマッチングが障害者雇用では、重要です。障害別の仕事の実際としては以下の通りです。
・身体障害=事務的な作業。移動が多い営業職や大工、庭師等の外作業は負担が大。
・精神障害=特に制限なし、通院時間を確保する。負荷が高まらないように配慮する
・発達障害=手順や業務内容を視覚化する等の環境設定が重要。
・知的障害=清掃、管理業務補助、継続する作業等、いったん覚えるときちんと正確にこなせて信頼度が高い。
仕事とのマッチングは大切ですが、これが障害者用の仕事というものはありません。業務と環境の改善と適切な配慮と人間関係を良くしていくことが必要です。
・星野ゼミでは、新潟市とともに、障害者雇用企業を訪問しインタビューを行いました。訪問企業〜パワーズフジミ、大谷印章、コジマ電気、間食品、DeNA等 事業主側の理解と障害特性への配慮や工夫がなされており、障害を持つ従業員の方々が生き生きと働いておられたことが印象的でした。
4 視覚障がい者の就労状況(実際の就職事例から)
ハローワーク新潟の今野統括指導官のとりまとめた平成19年ごろの3年間の鍼・灸・マッサージは除く就職事例です。21例の状況からは、三療職以外でも非常にバラエティーが多くの職種で就労されている。中でも事務職が電話交換も含めると10名と5割近い。そのほか調理や看護等の補助業務や、製造業務等幅広い就労状況です。
また、障害程度も幅広く2級の方もおられます。このあたりは、支援機関としてのハローワークの努力も大きいと思われます。
5 働くために大切なことは何でしょう? 社会生活力です。
社会性活力とは? 人間関係力(挨拶、言葉使い、報告)や生活をコントロールする力=朝起床し、3食を食べて、健康に配慮して、元気よく毎日通える体力、勤務時間5時まで毎日働けることや金銭管理をする力等です。
これは、自分の生活の基礎をつくり、日々社会参加しながら自分らしく生きるためにとても大切です。買い物、掃除や安全な生活や男女交際、コミュニケーション、人間関係などは、誰でも生きていくために必要な当たり前のことですが、社会参加や仕事をするうえでの基本的なことで、生活しながら体験的に身に付けていくことです。
就職がすぐできなくて何回もチャレンジすることは、障害の有無にかかわらず、大変なことです。大きな心の試練にもなります。このような時、懸命に努力する力は、小さい時の親子関係やしっかりと愛された実感が土台となって育まれてまいります。
人への信頼感や安心感が大切なベースとなります。
6 就労支援の法制度 「障害者の雇用の促進等に関する法律」
障害者雇用促進と職業の安定を図るため、@障害者雇用率制度、A障害者雇用納付金制度、B職業リハビリテーションの推進等が定められています。
障害者の雇用の推進機関としては、以下の3機関があります。
1)ハローワーク:公共職業安定所:求職登録の上、職業紹介や職業相談等。事業主へ障害者求人の相談や指導、各種助成金の紹介等を行います
2)地域障害者職業センター:職業評価、職業指導、職業準備訓練及び職場適応援助等、雇用管理上の専門的な助言を行います
3)障害者就業・生活支援センター:障害者の職業的自立のため、地域で就職面と生活面の支援を一体的に行います。
このような専門機関を活用すると、良いでしょう。
【略歴】
新潟医療福祉大学 社会福祉学科
新潟県の福祉専門職として児童相談所等の各種の相談機関や障がい者の支援施設 病院等に勤める。
2005年から現職で社会福祉士の育成にあたる。
現在、社会福祉を学ぶ星野ゼミの学生たちと、新潟市の方とともに、障がい者雇用企業に訪問して、働く人たちの声や社長達の思いをインタビューを行い、学びを深めている。
【後記】
今回は、障がいを持つ方の就労について勉強しました。ある視覚障がいの方は、リハビリの目標の一つに働いて税金を納めることといったのを覚えています。その時、税金が高いと文句を言っていた自分を恥じました。
「働くこと、税金を納めることは国民の義務」 ともすると権利ばかり主張していて、義務を顧みない自分に気づかされました。でも障害を持つ方が就職するのは現実的には如何なんでしょうか?障がい者の方から、「障がいを持つ者にとって、結婚と就職は同じくらい大事で難しいことなんです」ということをお聞きしたことがあります。
今回のお話を拝聴しても、そんなに簡単でないこと判りました。でもこのような実態を知ることから解決の第一歩が始まるのだと思います。
福祉の根本を例えて、以下の様なエピソードがあります。高いところにあるものを取れない人がいた時、取ってあげるのではなく、足の踏み台を出してあげること。。
やってあげるのではなく、やることをお手伝いする。人の尊厳を尊重しつつ、如何にその人らしく暮らせるようにするかを考える。
そんなことを考えながら、今回のお話を拝聴しました。
星野先生の益々の活躍を期待したいと思います。
平成24年11月14日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第201回(12‐11月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「活力〜どうやって生み出すかを考えてみませんか〜」
講師:大島光芳 (上越市)
【講演要旨】
2009年6月視神経萎縮で道路の白線が見えなくなり歩行が限界ギリギリの頃に、妻のすすめもあり新潟大学眼科のロービジョン外来で張替涼子先生の診察を受け、よし!この先生について行こうと決意しました。
7月に休職と障害者手続を開始。直ぐに福祉制度による移動支援を受け、やがて家事援助も追加しました。家人は働きに出て、昼間は私一人だからです。
12月に購入したパソコンを持って張替先生から紹介された新潟市の「NPO法人中途障害者支援センター・オアシス」(以後、オアシスと略)(注1)を訪問し、音声パソコンをフルキーで操作する練習ソフトを入れて頂いたのですが、その頃は全然できませんでした。ところが、翌月になると出来ちゃいました。
(注1)「NPO法人中途障害者支援センター・オアシス」
http://www.fsinet.or.jp/~aisuisin/
2010年1月に福祉関係者5人が来宅して支援会議を開催してくれました。これはサポートする側と私との行き違いの是正のためなのですが、見えない私が家に一人だけなのが不安になり、先手を打つために年間活動計画を作成しました。何度も言い直しながらICレコーダー(パソコン購入時に妻が購入)に録音し、相談員に聞いてもらい、プリントして当日持参して頂きました。これで思い通りに事は順調に進みました。ところが、最後に「次回はいつにしますか?」との発言があり、来月と決まってしまいました。来月に再びと言われた時点でパソコンができるようにならねばと思いました。
出来ないのは「できないと思っていたから出来なかった」事に気づきました。
1月にオアシスを訪問すると、操作はできるようになりましたと宣言し、必要そうなソフトは全て入れて下さいと申し出ました。使っているのはマイワードとマイニュースとマイメールだけですが、マイニュースが役立ちました。この中にNHKの「みんなのラジオ 聞いて聞かせて」が遡って聞けるようになっていました。石川充英さん(東京都視覚障害者生活支援センター)や工藤正一さん(タートル)の話を何度も聞いた。何せ時間は無限にありました。
2月はこれを貪って3年前まで聞きました。中でも「完全マニュアル中途視覚障害者からの再出発」は私そのものであり、自分は全国的にみて普通なんだ、何とかなると少し自信がもどりました。「検証ガイドヘルプ事業」と「代読・代筆」は録音してマイワードに打ち込む事で本当にフルキーでの入力もできるようになりましたし、知識も深まりました。
番組に登場した人物にも会いたい希望が湧き、直ぐに県内の視覚障害者の市会議員の青木学さん(注2)とのメール交信が可能になり、翌年2011年には長野放送で「里枝子の窓」のラジオ番組(注3)を持ちパーソナリティーをされている広沢里枝子さんにも会い、今年2012年は大阪府を訪問して岩井和彦さん(注4)にも会いました。彼は1949年の生まれですが、15歳の時の全国盲学校弁論大会優勝の「理解されない盲人」を前出のNHKラジオで聞いた時に、同じ思いをした先人がいると心が震えました。今もこの言葉に勇気をもらっています。初めから計画的だったわけではないですが、方向が掴めると次々と達成はできました。一歩踏み出すことで、多くの方々との出会いが可能になったのです。
(注2)「青木 学」 (新潟市市会議員)
http://www.aokimanabu.com/
(注3)「里枝子の窓」 信越放送(SBC)ラジオの長寿番組
広沢 里枝子 (番組パーソナリティ)
http://r-mado.com/index.html
(注4)「岩井 和彦」
http://www.bunrikaku.com/book1/book1-608.html
4月は障害を理由に断る事もできた半年任期の検察審査会のメンバーを受諾していました。翌月から裁判所で準公務員をつとめるのですからプレッシャーもあり、対応する為に集中して精神力を高めつつありました。
メール交信はオアシスの小島紀代子さんが相手をして下さった事で可能に成りました。5月1日受信したメールに「日本地図を作った男、伊能忠敬は人生後半の56歳から17年間、2歩で一間をかたくなにまもり、2歩目に踏みたくないものがあっても歩き続けた事で完成させた」とありました。そこへ、上越市から応募者が不足なの
で1年任期の市政モニターをして欲しいとの封書が届きました。可能ならアンケートにはメールで回答とあります。既に一つ大役を受けていますから駄目だろうと思って読んでいる妻に、受諾の代筆を頼みました。オアシスからのメールに背中を押されたのです。「踏みたくない二歩目」とはこれだなと思い、お引受けする事にしました。
いま思うと、裁判所へ1歩目を踏み出し、市役所へ2歩目を踏み出した、この2歩目を踏み出した事で体と同じように思考回路のパターンにも完全な体重移動が起こり、前へ前へと歩みだせたのだと思います。思えば、一歩目を踏み出す時は恐々でも出来ますが、二歩目を踏み出すには、前がかりにならないと出来ないのです。
6月新潟大学眼科ロービジョン外来受診では翌月に済生会新潟第二病院で開催の「新潟ロービジョン研究会2010」を紹介され参加。フロアから「私はロービジョンを受診し、既に見えなくなっていた目が見えるようになったわけではありませんが、見通しが立つようになりました。見通しが立つ事は本当に有り難いです。ありがとうございました。」と発言しました。思いのほか反響がありました(注5)。
(注5)済生会新潟第二病院眼科 研究会
「ロービジョン研究会2010」の項を参照ください
http://www.ngt.saiseikai.or.jp/02/ganka/index5.html
2011年6月のロービジョン外来受診では本を読みだすきっかけを頂きました。
知識的に必要で読む本と会話の話題に必要で本を選んでいます。「怒りの正体」、「甘えの構造」、「怒るヒント」、「しつこさの精神病理」、「国家の品格」、「感動する脳」、「脳にわるい七つの習慣」。「サービスの達人たち」、「人は見た目が9割」、「的を椅射る言葉」、そして最近は「細胞生物学」等々「回復力」には、「うつ」になる原因は3つあり、その1)最大の目標が達成されて次が見いだせない5月病のような時、その2)目標設定が高すぎて障壁となり自分を過小評価して動きがとれないとき、その3)先の見通しが立たない時とありました。
新潟ロービジョン研究会での私のコメントは、この3つ目に対して「見通しが立つようになりました」と言ったのだということを、今になって理解できました。
少し戻りますが、2010年11月に初めて済生会病院の勉強会に参加しました。
講師の栗原隆先生(新潟大学人文学部教授)が私の手に分厚い本を乗せ、本を書きなさいと話して下さいました。これがきっかけで翌年1月からメーリングリストへ書き込みました。この勉強会に参加した事で、もう一つおまけが付きました。この時のガイドヘルパーさんが新潟駅で別れるときに、他にして欲しい事はないですかと言われたのがきっかけで翌月に新潟県ふれあいプラザを訪問しました。ここで私が探していた硬式野球部の1年後輩にも会えましたし、1学年上で全国選抜高校野球大会の優勝校を招待試合で破った強打者(肥田野)とも会うことが出来ました。少し動いた事で次々と偶然が奇跡のように起こりました。
「まず一歩、そして二歩目を」。動くことで活力の源泉が生まれたように思います。私のスタートは確かにロービジョン外来受診にありました。その裏には同伴していた妻がロービジョンの文字を見つけ、眼科医に質問してくれました。いま私を精神的にを支えてくれているのは、妻と家族、そして周囲の多くの人たちからの「無償の愛」のように感じ、毎日を暮しております。
【略歴】
1950年 直江津駅から7キロ新潟寄りの海岸沿いの新潟県上越市で生まれ、育ち、生活。硬式野球と地元消防団を経験。
1971年4月 化学会社へ入社、2010年7月定年退職。
2009年7月 アスファルト舗装の歩道の白線が見えなくなり休職開始。
同年8月 視覚障碍者2級、年末には全く見えなくなり翌年5月1級。
視神経萎縮(原因不明)
【後記】
3年前に視力障害のために会社を休職(翌年に定年退職)した大島さんが、如何に活力を取り戻したかについて熱演してくれた。 バリバリの会社員だったが、視神経委縮にて両眼の視力を失う。パソコンは購入したが、さっぱり手につかない。しかし市の社会福祉サービスの方の家庭訪問を機に、ICレコーダーを駆使し、パソコンも使いこなせるようになった。
様々な人との出会いを紹介して感謝した後、何が行動の原点だったかについて「無償の愛」ではなかったかと振り返った。いつも人のことを思い遣り、何か自分に出来ることがないかと想う。60を少し過ぎた素敵な男のロマンを拝聴した勉強会だった。大島光芳さんに幸あれ!!
平成24年10月10日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第200回(12‐10月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「『眼の愛護デー』のルーツを探り、失明予防へ」
講師:岩田 和雄 (新潟大学名誉教授)
【講演要旨】
私が医学生だった60数年前、眼科の有名な教科書の扉に「眼は心の窓、美貌の中心」と書いてあった。現在では更に、脳の窓、全身病の窓、加齢の窓、情報受容の最大センターとなろう。若しも自分が失明したらと考えれば、眼の愛護デーの意義は自ずと明快であろう。
誰もご存じないと思うが、実は「眼の愛護デー」のルーツは新潟県にある。明治11年9月16日、北陸巡幸の明治天皇が新潟に到着時、侍医に、沿道で眼の悪いものが多いから、原因を調査するよう命じられた。そして治療、予防に尽くすよう9月18日に金千円をお下賜になった。新潟県では、それを基金としていろいろな組織が立ち上げられ、活動が開始された。昭和14年、新潟医科大学の医事法制の講義担当の弁護士山崎佐先生の提案で、眼科の学会が9月18日を「眼の記念日」とし、眼の大切なことを宣伝することになった。これが発展して昭和21年から10月10日を「眼の愛護デー」とすることとなり、現在にいたっている。
当時、トラコーマの酷い蔓延、白内障、遺伝病などで失明者が多く、それが27歳の若い明治天皇の眼にとまったものであろう。明治天皇の聖徳を讃える立派な記念碑が、医学部付属病院の坂下で新潟県医師会館横の小公園内に設置されている。以上、ルーツに関するあらましを理解することで、眼の愛護にかんする認識を改めていただきたい。
現在、山中教授のiPS細胞でノーベル賞受賞に湧いているが、一朝一夕に出来上がったものではないし、越えなければならないいくつかの頑強な壁が眼の前に立ちはだかっている。
私は、眼科医としての60年間、現在の大変な進歩にいたる艱難辛苦の過程をつぶさに体験してきた。例えば、白内障の手術と眼内レンズ移植は現在では日帰りでも可能な安全で信頼できる手術となり、日常大量の手術がなされているが、それはこの20-30年のことで、それまでは、牛の歩みよりまだ遅い幼稚きわまりない手術で、術者も患者さんも決死の覚悟に近い心情で手術に臨んだものである。絶対安静1週間以上で、ストレスで寿命を縮めた人も多く、しかも、術後は分厚い重い粗悪なメガネが必要であった。
現在、医学の急速な発展で、治療法の進歩も著しい。それにより難病も治癒できる部分が増えて、有難いことである。これにいたるまでの人類のたゆまぬ努力に感謝せねばなるまい。しかし、いまだ完璧なものはなく、失明にいたるリスクが津波の如くやってくる。果てることのない一層の研究と努力が要請される。
尚、 物が見えるために不可欠な、見えた途端に影像を消し去る不思議な機構や、病気との関連、光凝固療法の発展の苦心、角膜移植、iPS細胞から網膜移植の可能性が近いこと、宇宙飛行士に発生した珍しい眼症状、網膜疾患で失明した人にカメラの影像を網膜内に設置した電極に送り、電気信号を脳の中枢に送り、0.005 まで視力が可能となったこと等などについても解説した。
「眼の愛護デー」を契機に、日常気づかずにいる「見る」ことの大切さを改めて認識し、そのために大変な努力をしているヒトの視機能の生理と病態、失ったものを取り戻そうとする人類の努力に思いを致していただきたい。
【岩田和雄 略歴】
昭和28年新潟大学医学部眼科に入局
昭和36−38年 ドイツのボン大学眼科に留学(フンボルト奨学生)
昭和47年 新潟大学 眼科学 教授
平成 5年 定年退職、新潟大学 名誉教授
専門:緑内障学(病因、病態、診断、治療)
国際緑内障学会理事、日本緑内障学会名誉会員、日本眼科学会名誉会員、日本感染症学会名誉会員、日本神経眼科学会名誉会員など
旧日本サルコイドーシス学会理事、旧新潟眼球銀行理事長
新潟日報文化賞、日本眼科学会特別貢献賞、日本眼科学会評議委員会賞、須田記念賞、日本神経眼科学会石川メダル、日本臨床眼科学会会長賞、環境保全功労賞(環境庁)
叙勲 瑞宝中綬章
【後記】
平成8年6月に開始した済生会新潟第二病院眼科勉強会も200回になりました。この日はたまたま10月10日「目の愛護デー」。当初からこの200回目の勉強会は恩師である岩田先生にお話して頂こうと決めておりました。
講演は図や写真がふんだんで、多くの方に判りやすいものでした。「目の愛護デー」が新潟に由来するものであること、そして「トラホーム」、「近視治療」、「老眼治療」、「白内障手術」、「見えることの不思議 固視微動」、「光凝固」、「角膜移植」、「加齢黄斑症」、「人工網膜」、「宇宙飛行士の眼」、、、幅広い話題に感動しました。
「見る」ために、眼球は絶えず動いて(固視微動)新しい刺激を脳に送ることにより、視覚を得ているとう途方もない努力を不断に行っています(誰も意識していませんが)。そして眼疾患の治療のため、何世紀にもわたり、多くの先達が大変な努力をして今日の眼科学を発展させてきたことに思いを馳せることのできる講演でした。
岩田先生は、私が眼科医を目指して新潟大学眼科に入局させて頂いた時の教授です。大学の医局では教授のことを「おやじ」と言います(現在では言わなくなりましたが)。「おやじ」には叶いません。私が生まれた年に眼科医としてスタートし、これまで60年毎日、現役で眼科学の研鑽と研究に邁進しておられます。
4年前に傘寿をお迎えになりましたが、これからもますます元気で、多くのことを教えて頂きたいものと思います。
PS〜『目の愛護デーの由来』
1)京都盲唖院・盲学校・視覚障害者の歴史(見えない戦争と平和)
「目の愛護デー」由来史料・『陸路廼記』
http://blogs.yahoo.co.jp/kishi_1_99/39536253.html
10月10日は、「目の愛護デー」です。1010を横に倒すと眉と目の形に見えることから、中央盲人福祉協会が1931(昭和6)年に「視力保存デー」として制定したことに由来します(戦力としての視力の保存と言う意味合いがあったようです)。
それに先立って、「目の記念日」行事が取り組まれたことがあります。日付は、9月18日でした。「明治11年9月18日に明治天皇が新潟巡行の折り、沿道に目の病気の人(その時代は主にトラコーマ)が多いのを憂慮し、眼疾患の治療と予防に尽くすようにと金一封を奉納」それを受けて、眼の記念日が生まれたと伝え聞いてきました。そのように書かれた文章もあります。
これをめぐる史料を探していました。やっと、一つ有力な出典を知ることができました。明治11年の巡行に随行したという近藤芳樹による『陸路廼記(くぬかちのき・くぬがぢのき』に、最も古い時期かと思われる記述がありました。写真は、そのことを記した小山荘太郎(京都府立盲学校長)氏の文章を載せた『京都教育』誌の一部です。『陸路廼記』は、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに登載されています。その73コマ目からが、当該の記述になっています。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994422
2)千葉県眼科医会 「目の愛護デー」の由来について
失明予防を目的として、昭和6年7月中央盲人福祉協会の提唱により、全国盲人保護、失明防止大会が催されたのがきっかけとなって、10月10日を「視力保存デー」として、失明予防に関する運動を行うことが当時の内務相大会議室で決定された。以来10月10日を「視力保存デー」として、中央盲人福祉協会主催、内務省・文部省の後援で毎年全国的に実施することになった。
ところが、昭和13年から日本眼科医会の申し出により、明治11年に明治天皇が北陸巡幸の際、新潟県下に眼病が多いのを御心痛になり、予防と治療のため御内幣金を御下賜されたのを記念して9月18日を「目の記念日」と改め、中央盲人福祉協会、日本眼科医会、日本トラホーム予防協会の共同主唱で昭和19年まで行ってきた。
戦時中一時中止していたのを昭和22年中央盲人福祉協会がこの運動を復活して、再び10月10日を「目の愛護デー」と改め、昭和25年、改名された日本眼衛生協会と共に厚生省と共催となり、日本眼科医会も協力して毎年標語を募りポスターなどを作成し10月10日をピークとして目の保健衛生に関する事業を行っている。
http://www.mmjp.or.jp/chiba-oph/bukai.htm
平成24年9月19日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第199回(12‐09月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
「視覚障害児の目や見え方に関する講演会」
主催:済生会新潟第二病院眼科
共催;新潟県立新潟盲学校
会場:新潟盲学校 会議室
演題:「様々な障害を持つお子さんを通して考えてきたこと」
講師:富田 香 (東京;平和眼科)
講演要約
小児眼科を専門とした一開業医として、今まで拝見させていただいたお子さんとそのご家族から学ばせていただいたこと、考えたことをお話させていただきました。
平和眼科は都内ではよくみられる本当に小さな診療所です。大体一か月に200〜220名の障害を持ったお子さんが来院されます。その40%はダウン症のお子さんで、残り60%は様々な障害を持ったお子さんです。
視覚に対する支援の必要なお子さんの病態は、非常に複雑です。器質弱視、機能弱視(形態覚遮断弱視、斜視弱視、微小斜視弱視、不同視弱視、屈折異常弱視)に加え、知的障害・発達障害や視覚認知障害の合併がみられることがあります。機能弱視は、8歳頃までの視覚感受性期内での治療が非常に大切で、適切な眼鏡をきちんとかけさせること(屈折矯正)が、基本です。治療の目的は両眼共に良好な視力と立体視が得られることです。弱視治療は、眼科医として見落としがないように、そしてお子さんの視機能のためにがんばらなければならないところです。
小児の視力は、1歳で0.3前後、2歳で0.5前後、5歳で80%が1.0に達します。視反応が非常に悪いお子さんの場合は、室内光のオン、オフでの反応を見たり、暗室での光るおもちゃへの反応をみたりします。反応が見られる場合は、明室での光るおもちゃへの反応を調べ、さらにコントラストのはっきりした顔視標や縞模様などへの反応を見ていきます。通常、乳幼児では縞視標を使って視力を測定しますが、この方法は自分で答えられないお子さんにも有用です。1歳半ころからは森実ドットカード、2歳頃からは絵、3歳以降ではランドルト環字一つ視標を使い、8歳以降で大人と同じ視力検査になります。
ランドルト環の視力は答えられるのに、絵視力は答えられないという視覚認知障害を伴った先天無虹彩症のお子さん。そして、形態認知が良くて絵視力は良好なのに、ランドルト環ではその1/2の値までしか答えられないお子さんから、年齢で決めるのではなく、お子さん一人一人に合わせた視力測定方法を考えなければいけないことを学びました。
視線外しのみられる脳性麻痺のお子さんからは、視反応をとらえるのが非常に難しい例があること、また診察室では非常な緊張状態で、思うように視反応が見られないことがあることを実感しました。
眼科では常に眼所見と視力値を重ね合わせて検討しますが、眼底所見から考えるよりはるかに良い視活動を示すダウン症のお子さんの例には、私も本当に驚きました。
聴覚障害にロービジョンを合わせ持ったお子さんでは、通常考えるような単眼鏡やルーペが、学校では使えないことを教えられました。そして、視環境を整えることで、より視活動がしやすくなるようにすることの大切さを学びました。
最後に、小児では視覚障害者手帳の申請についてお話させていただきました。視力が発達していく状態にあるため、単純な視力値では判断できず、年齢の標準値を考慮する必要があること。視反応が発達によって変化する例もあり、経過をみる必要があること。潜伏眼振の例では、片眼ずつの視力の低値に比べ、両眼視力値がずっと良いことがあり、どのように判断したらよいのか迷うこと;高次脳機能障害(注)では、視力が測定できても、視覚を使えない例がみられるが、配慮されないこと;斜視があって、片眼が使えていない場合でも、配慮されないこと;視野を判断することが難しいこと、などから、小児では申請が難しいことをお伝えしました。
視覚障害を持ったお子さんを拝見するとき、お子さんを中心としてご家庭、教育機関・療育機関そして医療機関の3つの連携ができるだけ早期に、そして継続して行われるようにすることが大切です。そのための努力をこれからも続けたいと思います。
【略歴】
1980年 慶應義塾大学医学部卒業
1980年 慶應義塾大学医学部眼科学教室入局
1982年 国立東京第二病院(現・国立病院東京医療センター)勤務
1983年 国立小児病院(現・国立成育医療研究センター)勤務
1986年 北里研究所病院 勤務
1987年 平和眼科 勤務(1995年開設者となり現在に至る)
1990年 学位取得
2009年 杏林大学眼科学教室 非常勤講師
*平和眼科
http://heiwaganka.com/
《注釈》
(注)高次脳機能障害(こうじのうきのうしょうがい)
主に脳の損傷によって起こされる様々な神経心理学的症状。
http://www.rehab.go.jp/brain_fukyu/rikai/
(国立障害者リハビリテーションセンターHPより)
《参考》
1)子供の目の病気 (編集;東 範行 国立成育医療センター眼科)
http://www.skk-health.net/me/16/index.html
2)杏林アイセンター(杏林大学眼科)ニュースレター;特集〜小児眼科
『Kyourin Eye Center Newsletter Vlo38 summer 2012』
http://www.eye-center.org/newsletter/2012/vol38/summer.pdf#search
【後記】
済生会新潟第二病院眼科勉強会を、今回は富田香先生を東京からお呼びして新潟県立新潟盲学校で行いました。雨にもかかわらず、多くの父兄や学校の先生方が参加、70名を超す人で会場が満員になりました。講演会は、小西明校長先生の陣頭指揮で、見事に運営されていました。
講演は、器質弱視だけでなく、機能弱視そして知的障害や発達障害、肢体不自由、聴覚障害など種々の障害を持ったお子さん、そしてダウン症候群や、チャージ症候群、無虹彩症など多くの症例提示があり、示唆に富んだ内容でした。「一番いろいろなことを教えてくれたのは、小さな患者さんご本人とそのご家族。様々な障害を持ったお子さんを通して、不思議に思ったり、疑問に思ったりしたことから、幅広い勉強をさせて頂いた」とのコメントに深く感動。
富田先生は、1980年に慶應大学眼科(故植村恭夫教授)に入局、国立小児病院(現・国立成育医療研究センター)などで勤務、1987年から母親と一緒に開業(1995年開設者となる)。当初は少なかった小児の患者さんは、今では患者全体の6割を占めるようになったとのことです。先生のご主人や娘さん、視能訓練士、臨床発達心理士も含め10名ほどのチームで診療に当たり、昼食をスタッフ全員で食べながら、情報交換を行うなど、まさに最強のスタッフで診療に従事されている、、、感動、感動の連続でした。
富田先生と平和眼科チームの益々の発展を祈念したいと思います。
平成24年8月8日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第198回(12‐08月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「左目のケガから教えてもらったこと〜発想の転換活用法〜」
講師:内山 博貴 (特別養護老人ホーム介護職員;新潟県村上市)
講演要約
発想を転換し、前向きに生きていくにあたって、もっとも基本的で、それでいてなくてはならない考え方があります。それは「自分の身に起こる全ての出来事は、全ていいことである。」という考え方です。要は、過ぎた事をくよくよ悩まず、次をどうするか考える事が大切なのです。くよくよ悩む時間と労力があれば、次の事を考える時間と労力にした方がいいのではないでしょうか。失敗した場合は次に失敗しないためにはどうしたらいいかを考え、悪いことがあった場合にはそこから自分が学ぶべきことはないかを考える。これが楽しく生きていくための発想の転換です。
どのようにしたら前向き発想転換ができるようになるでしょう?ポイントは3つあります。
1.発想を豊かにして常に選択肢を多く持つようにする。
2.物事をより具体的に考えるようにする。
3.1つの事を多角的にみるようにする。
この3つができれば、発想の転換は完璧です。
1.「発想を豊かにして常に選択肢を多く持つようにする」
日常の会話の中で相手に返す返事を多く用意して、その中から自分で選択して返すようになることがいい訓練になります。
例えば、友人が「昨日彼女とケンカしたんだ。」と落ち込みながら言ってきたとします。あなたはどのような返事をしますか?深刻な様子であれば「どうしてケンカになったの?」や「愚痴ならいくらでもきくよ。」と親身になって聞こうとし、深刻そうでなければ「もしかして○○でケンカした?」「どーせお前が悪いことしたんだろ?」と親しいからこそ言える返事もできると思います。ガラッと話題を変えて「そんな時はまずぱぁ〜っと飲みに行こう。」や「とりあえず遊びに行こうか?」という返事もいいかもしれません。もし、 あまり親しくなければ当たり障りない返事しかできないかもしれません。
お気付きの方もいらっしゃると思いますが、これが全て選択肢です。「昨日彼女とケンカしたんだ。」という言葉に対して、深刻であろうがなかろうが、親しい友人であろうがなかろうが、7通り前後の選択肢ができそこから選択することができます。
発想の転換で大切なことは、必ずしも状況に合った返事をする必要がないということです。想像してみてください。あまり親しくない友人から「昨日彼女とケンカしたんだ。」と言われた時に「そんな時はまずぱぁ〜っと飲みに行こう。」と言って一緒に飲みに行った場合、もしかしたらその人といい友人関係を築けるかもしれません。会話の中で瞬時に7通りはなかなか難し いですが、2,3通りなら意識するだけでもできると思います。
2.「物事をより具体的に考えるようにする」
具体例として、まずざっくりとした目標を立てます。例えば「かっこいい人間」になりたいという目標を立ててみます。では「かっこいい人間」とは具体的にはどのような人間でしょうか?ここでは「引き締まった体の人間」と「知識のある人間」の2つにしてみました。「引き締まった体」になるには1)ジョギングをする、2)筋力トレーニングをする、3)食生活を改善する。「知識のある人間」になるには1)本を読む、2)新聞を読む、3)仕事の勉強をする。
「どのような」や「どうしたら」などより深く掘り下げて考えていくとより具体的になり、今自分が何をするのが最善かがみえてくるようになります。物事にはつながりががあるので、一 つの目標が達成されると別なところでいい事が起きる可能性があります。「かっこいい人間」になる目標を達成する過程で、体を鍛えることによって健康的な生活が送れたり、知識を集めることによって話題が豊富になり、それによって人間関係が円滑になったり広がったりするかもしれないということです。
3.「1つの事を多角的にみるようにする」
例えば便秘に悩んでいる方がいるとします。便秘の原因はなんでしょうか?(1)水分不足、(2)食事量の不足、(3)薬(副作用)、(4)運動不足、が原因だとします。その原因全てを一気に改善しようと考えると気持ちがなえてしまうかもしれません。あくまでも全てうまくいった場合の一例ですが、実は運動不足を改善するだけで全てが改善します。運動をすればのどが渇き、お腹が空く。それで便秘が治れば下剤を飲む必要がなくなり、便秘の原因になる薬を止める必要もなくなります。1つの物事だけではなく関係のある他の物事に目を向ける。関係ないことにも目を向けてみるのもおもしろいかもしれません。
発想の転換に不正解はありません。一生懸命考えたあなたの発想には魂が宿ります。この世に絶対ということはないと言う人がいますが、このことに関しては絶対です。なぜなら、うまくいかなかったらうまくいくまで考えればいいのですから(笑)
ここまで様々なことを話しましたが、きっと腑に落ちないこともあったと思います。全く同じ考えを持った人間はいませんから、無理に合わせる必要はないと思います。ただ、批判や文句を言うだけでは道は開かれません。できれば自分なりの意見や対案を持って頂きたいです。それが自分なりの発想の転換の訓練に必ずなりますので。
【略歴】
2001 夏の高校野球新潟県予選のベスト8を決める試合で、左目に自打球を受け済生会新潟第二病院に入院。二度手術を受けた。
2004 福祉の専門学校を卒業後、地元の社会福祉法人に採用され、グループホームに配属。
2009 特別養護老人ホームに異動。
【後記】
彼が皆の前で、「目のケガから教えてもらったこと」という話をしている姿は、眩しかった。
2001年夏甲子園大会の高校野球新潟県予選、彼がキャッチャーで6番打者の新潟県立村上高校は、快進撃を続け40数年ぶりのベストエイトを決めた。地元の新聞(新
潟日報)でも大きく取り上げられた。
間もなく、その県高校野球のヒーローが、私の目の前に現れた。ベストエイトを決めた試合で自打球を左眼に当て、外傷性黄斑円孔を伴う出血性網膜剥離を来たしていた。外来にご両親と一緒にきて、診察したあと診断名を告げ、視力が元に戻ることは困難であることを話した。その時まで明るく振る舞っていた、彼は人目をはばからずに涙を流した。
手術が終わり退院し10年が過ぎた今でも、年数回は当院に通院している。高校野球のヒーローが一瞬にして病院のベット暮らしを経験し、将来の進路も変更しなければならなかったはずであるが、今では元気に介護職に励んでいる。
彼にはこれまで2度本勉強会で話をしてもらっている。困難な状況を乗り越えた彼の話は人の心を打つ。今回も、ノートにびっしりと下書きして時間通りに話してくれた。実に頼もしい非常に前向きな好青年である。今後、幸多かれと願っている。
平成24年7月25日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第197回(12‐07月) 新潟盲学校弁論大会 イン 済生会(兼:済生会新潟第二病院眼科勉強会)の 報告です。
毎年7月に企画している新潟県立新潟盲学校の皆さんによる弁論大会です。今年も3名の弁士が想いを語ってくれました。
1.「僕の将来の夢」 加藤 健太郎 (新潟県立新潟盲学校 中学部1年)
NHKテレビの落語が大好きで、小学校1年生の夏休みに落語を始めた。3年生の頃から老人ホームなどで慰問活動をするようになった。一人でも僕の落語を聞いて元気になってくれると嬉しい。
4年生のときに水都家艶笑(みなとやえんしょう)師匠に弟子入りして、一番弟子になり右左の使い分けなどを教わり、師匠の定期寄席にも出させてもらうようになった。
僕は「笑点」を毎週見ている。特にいつも明るい、林家たい平師匠が大好きだ。 将来は、たい平師匠について全国を元気にする落語家になりたい。日本中を笑顔にできる落語家になりたい。そして、10年後に真打ちに昇進し、15年後には「笑点」のメンバーになりたい。
2.「将来に向けての目標」 古川 和未 (新潟県立新潟盲学校 本科保健理療科1年)
ストレスが溜まっていた。昨年の10月のある日、一人で衝動的に上越まで行ってしまった。先生方や両親、そして様々な方にも迷惑を掛けた。 そのことが、自分を見つめ直すきっかけになった。
専攻科理療科で勉強していたが、自分は保健理療科に行きたい。将来は、あん摩・マッサージをしたいという自分の気持ちに気が付いた。
盲学校では、6つの部活動(万代太鼓など)を行い、体育祭では白組の応援団長を務めた。
人とのコミュニケーションをとるのが得意ではない。治療院ではお客さんとのお付き合いが大切だ。ストレスに対する対処策を学び、任されたことをやり抜き、何事にも挑戦する人生を送りたい。
注:理療科は、高卒後3年で、あん摩・マッサージ・指圧師国家試験と、はり師・きゅう師国家試験の受験資格を得る専攻課理療科と、あん摩・マッサージ・指圧師国家試験だけの受験資格を得る本科保健理療科がある。
3.「心との約束」 左近 啓奈 (新潟県立新潟盲学校 中学部2年)
盲学校に入学する前は、普通小学校に通っていた。6年生のとき、学校の先生から「点字を学習しないか」と突然言われた。驚きと葛藤、そして不安。「見えるのに、どうして点字をやらなければいけないのか?」と、自問し悩んだ。中学1年生の夏休みに点字の宿題をもらった。しかし、先生に言われて仕方なくやっていただけ。「どうして目が見えるのに・・・?」という、不安は消えない。でも、学習では、特に理科の授業が普通の文字では見え難くなってきていた。点字の方がわかりやすかった。
迷いながらも点字と取り組んでいたときに、母が携帯の「dear・・・」という曲を聴かせてくれた。この曲のサビに出てくる「ぼくならできる」という歌詞を聴いて、「自分はやればできるんだ」と思い、点字に前向きに取り組めるようになった。
今では点字で授業を受け、学習に余裕もできてきた。 私は趣味で小説を書いているが、今後は点字を使い小説を書き、多くの小説を読み、さらに成長していきたい。
注:「dear・・・」は、韓国人アーティスト「K]の曲。
4.落語 「代書屋」「二人旅」 たら福亭美豚 (加藤 健太郎)
【後記】
済生会眼科の勉強会では、毎年7月に新潟盲学校の生徒さんによる弁論大会を行っています。とても好評で今回もたくさんの人が参加されました。
今年の3名の弁士は皆さん、将来への希望と夢を語ってくれました。大きな声で正々堂々と自分の考えを主張する姿には、毎回ながら元気をもらいました。
平成24年6月13日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第196回(12‐06月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「フェアであること」
講師:多和田 悟 (日本盲導犬協会事業本部 訓練・盲導犬訓練士学校統括ゼネラルマネージャー;神奈川県)
【講演要約】
「感じて歩く」( 三宮 麻由子 著;岩波書店)の取材を受け三宮さんと対談をする機会が与えられた。この本は三宮さんが月刊世界に連載していたものをまとめたものである。対談のお話をいただいた時に彼女と話をすることが出来ることがとてもうれしかった。それまでにも何回か会って話をしたり電話で話をしたりすることがあったが、そのたびに今回のような嬉しさがあった。それは自分の知らない世界への門が開かれる嬉しさなのかもしれない。外国に行くたびにその国で生活する人と会うことが嬉しいし、考え方の違いに驚くことが多くある。それに似た喜びを感じるのである。
2011年3月11日の東日本大地震の日の出来事は、見えない彼女が見た風景が、見える人語で書かれていた。見えない彼女にはこのように見えていたのだ、またそれをこのように表現する彼女は「見える人語」と「見えない人語」を使うバイリンガルなのだと思った。私が彼女を手引きして対談の会場である岩波書店の本社地下の会議室に行く時、狭い場所に入った時の私の肘に感じる彼女の手の力が微妙に変わることを楽しんだ。それは彼女が見ている風景を共有できている喜びであった。また彼女は私の腕から景色の情報の一つを得ていることで、同じ場所を違う見方で共有している連帯感でもあった。
大多数の見える人にとって見ること以外の手段によって情報を得ることを、不可能だと思う人が多いらしい。しかし「視覚以外の方法で情報を集めている見えない人の景色」と、「見える人が視覚によって見ている景色」が全く同じである必要はないのではないだろうか。少なくともその空間と時を共有した事実だけが間違いのない真実であると思う。
我々は時として手段と目的、目標を混同して考えて本当にしなければならないことを誤ることがある。「見ることは手段であって目的は別にある」のではないだろうか。何のためにその情報が必要なのか、その情報を得るためにどのような手段を使うか、を考える時、視覚以外の方法で情報を得ようとした時、その手段を選択し行使する機会が与えられなければフェアな状態とは言えない。音声による言語以外のコミュニケーションがあるならば視覚によらないコミュニケーションがあっても不思議はない。点字や音声による本などから得られる情報はそれを得る方法が視覚以外であることを理由に制限があってはいけない。
目が見えないまたは見えにくくなって歩きにくくなる時、自分の思う時に思う所へ行けないことが大変なことだと考えるが、その場合も歩いて何をするのか、そこへ行って何をするのかという目的がはっきりしていれば歩く手段の選択肢は与えられる。盲導犬はその選択肢の一つとして存在したい
。しかしメディアを通して伝えられる盲導犬の情報は、主に見える人を対象としているだけに、そこにハーネスを通して左手に伝わる角(かど)、障害物、段差の情報と犬という人とは違う生き物と共に暮らすことについては感じることが出来ない。盲導犬が白杖、手引きと共に選択肢の一つとして見えない見えにくいために歩行に困難をきたしている方々の歩行の援助に寄与したいと考えている。
違う方法で情報を得ている見える人と見えない人が、お互いにその方法と結果を理解する必要はないように思う。私がかつて友人の盲導犬使用者から「見えているあなたに見えない私の気持ちがわからない」と言われた。それは具体的な私の彼に対する行動の中に配慮がなかったという意味ではなく「見えないまま生きていく決心をした情報収集の方法が変わった私の人生を、あなたも大切にしてほしい」という意味であったと今は解釈している。自らが選択し決定をすることのできる情報と機会が保障された時に、自分の人生に責任を持つ生き方が出来るのではないかと思う。
【略歴】
1974年 青山学院大学文学部神学科中退
財団法人日本盲導犬協会の小金井訓練所に入る。
1982年 財団法人関西盲導犬協会設立時に訓練部長として参加。
1994年 日本人では唯一人の国際盲導犬連盟のアセッサー(査察員)に任命
(現在に至る)
1995年 オーストラリアのクイーンズランド盲導犬協会にシニア・コーディネーターとして招聘。後に繁殖・訓練部長に就任。
2001年 オーストラリアより帰国。
財団法人関西盲導犬協会のシニア・コーディネーターに就任
2004年2月 財団法人関西盲導犬協会のシニア・コーディネーター退職。
3月 日本初の盲導犬訓練士学校、財団法人日本盲導犬協会付設
盲導犬訓練士学校教務長。
4月 財団法人日本盲導犬協会付設盲導犬訓練士学校開校
2009年4月 財団法人日本盲導犬協会事業本部学校・訓練事業統括ゼネラルマネージャー
*多和田氏は、盲導犬クイールを育てた訓練士として有名
著書:「犬と話をつけるには」(文藝春秋)、「クイールを育てた訓練士」(文藝春秋、共著)等
【後記】
本当に爽やかな時を過ごしました。いつもながらですが、多和田さんの語りは気持よく耳に、そして脳ミソに入り込んできます。多和田さんの発想は鋭く、話に引き込まれ、あっという間の45分でした。いくつも心に残る言葉がありました。
「手段と目的、そして目標を明確にする必要がある。歩くことは手段である」
「歩行訓練士は、歩行の技術を伝えることによって、学んだ見えない人がより豊かな人生を送ることが目標。見えない人が、歩けないことはフェアではない」
「方針を変更することは敗北ではない」
「必要な情報が入らないことはアンフェア」
「見える人語」と「見えない人語」を使うバイリンガル、「視覚以外の方法で情報を集めている見えない人の景色」と、「見える人が視覚によって見ている景色」が全く同じである必要はない
勉強会に参加された方々からも、多くの感想を頂きました。
「盲導犬は歩くだけでなく、一緒に暮らす楽しみを教えてくれています」
「目の不自由な方にこうしてあげたいと独りよがりで思っていてもどうしようもできない自分がいましたが、How may I help you?(何かお手伝いできることはありますか?)と聞けばよいことが判り、今後活用していきます」
「一緒に行動したときにも、とても気配りが自然で楽しく過ごすことができました」
「この勉強会で参加者がお互いを高め合っている感じがしました」「謙虚に自分の人生を賭けた仕事から滲む言葉を聞かせて下さいました。これほどの聞きごたえは久しぶりのような重みがありました」
勉強会に参加された方から、「フェア」について以下のコメントを頂きました。
フェアプレーのフェアと夏の着物フェアのフェアは英語の綴りが同じなのだろうか? 辞書で調べると、fairには公平という意味と共に見本市とか博覧会の意味もある。「お父さん、fに空気のairだよ」と娘が教えてくれた。そうかfree air自由な空気かと思いつき、フェアがそうであってくれればいいなと思いました。
「フェア=free air自由な空気」という解釈、、、、感動しました。
平成24年5月9日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第195回(12‐05月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「失明50年を支えた母の言葉」
講師:西田 稔 (横浜市)
講演要約
昭和32年5月、私は左眼の眼底出血を起こし、眼病との闘いが始まった。当初、原因は結核性といわれていたが、最終的に大学病院の診察でベーチェット病であることが判明した。この時、私は病名がはっきりしたので、病気も良くなるのではないかと思った。しかし、実際は原因もまだはっきりしておらず、対症療法に頼る以外に方法もないことがわかった。しかし、ステロイド剤を使用することによって、かなりの症状を抑えることが出来た。入退院を繰り返しながら、ステロイド剤で病状を整えることが主たる治療法だった。
昭和34年9月、かかりつけの眼科医との相談の結果、職場復帰をすることにした。
仕事も順調にすることが出来たが、その年の11月に入って、気温も下がり、寒さが体調を崩す引き金となり、身体の節々やそれまで何ともなかった右眼まで発作を起こすようになってきた。それでも、ステロイド剤の投与により数日間で炎症も治まった。
昭和35年1月17日、両眼同時に眼痛を伴った激しい発作に見舞われた。もちろん、一人での外出は不可能で、仕事も休みを取り、母の介添えで通院した。その時の発作は、ステロイド剤もよく効かなかった。その年の4月、再び休職となり、職場の勧めで大学病院に入院した。大学病院でも検査、診察、治療を受けたが、一向に症状の改善はみられなかった。その年の7月には、左眼の続発緑内障を起こし、激しい眼痛に耐え切れず、医師の勧めもあり、左眼球摘出を受けた。
この頃から、「もしかすると、失明するかもしれない」と思うようになってきた。
定例回診の時には、必ず、主治医に、「私の目は、よくなるのですか?それとも、だめなのですか?」と尋ねた。しかし、主治医の返事は、「やるだけやってみないとわかりません。」というのが決まり文句だった。その年の10月、私の質問に対して、主治医が同じ返事をした場合、診察室に座り込んで、動くまいと考えた。私の順番が来て、一通りの診察が終わったところで、私は、主治医にいつものように質問した。やはり、同じ答えが返ってきた。私は、予定通り座り込んだ。「先生、今日ははっきりしたお答えをいただかない限り、私はここから動きません。」と言った。主治医は、黙って立っているだけだった。看護師さんたちが私を宥める言葉をかけてきたが、私は、頑として動かなかった。どれくらい時間が経過しただろうか?私の後ろに別の患者さんたちが並んで診察を待っていることに気がついた。あの患者さんたちには責任はない。少し、悪いなぁと思って、私は口を開いた。「先生、私は、どんなことを言われましても驚きません。ダメな時は、盲学校に行って新しい人生を歩む覚悟は出来ております。」と一気に言った。すると、主治医は、「西田さんが、そこまで考えているなら、盲学校に行かれた方がよいと思います。」と言ったのである。この主治医の言葉は、事実上の失明宣告であると受け止めた。「はい、わかりました。」と言って、私は立ち上がり、自分のベッドに戻って横になった。私の頭の中は、真っ白だった。「何を言われましても、驚きません。」と大見栄を切ったにも関わらず、このザマである。何とも情けなかった。
考えることは否定的なことばかりだった。目が見えないと、本が読めない、テレビや映画を見ることも出来ない、一人でどこへでも歩いて行くことが難しい、などと思うばかりだった。こんな考え方を続けていくと、絶望的になり、生きていく意味がないのではないかと考えた。このような時、母が病院にやって来た。「その後、目はどうかね?」と言うのがいつもの母の言葉であった。私は、「どうもダメらしいよ。」と言って、主治医との話のやりとりを母に説明した。母は少しがっかりしたような感じを見せながら、「私は毎日、あんたの目が良くなるように、神様や仏様に祈っているのだけどね。」と言った。さらに、続けて、「私は、目は二つも要らない。あんたに一つあげても良いけどね。」と言った。「今の医学では眼球の移植は難しいよ。」と私が言うと、母はさらに、がっかりしたような雰囲気を見せた。このとき、私は、私の失明を私以上に、母の方が悲しんでいるのではないかと思った。
少し時間をおいて、母は話し出した。「失明は誰でも経験することが出来るものではないよ。これを、貴重な体験と受け止めてはどうかね?そして、それを生かした仕事をしてはどうかね?そしてそれがたとえ小さくても、社会貢献に繋がれば、大きな生きがいになるのと違うかね?」と言った。そして、母は、「また、来るからね。」と言って帰って行った。私は、母の言った、「貴重な体験」という言葉の意味を寝ても起きても考え込んだ。私は、失明を残酷な体験としか思っていなかったので、貴重な体験という母の言葉にいささか驚いた。いろいろと考えているうちに、失明という失ったことを通して何かを得て、それが社会貢献に繋がれば、生きがいになるかも知れないと思うようになってきた。
日本の目の不自由な人たちはどんな教育を受けて、どんな職業を身につけて、自立しているのか調べるために最寄りの盲学校を訪ねてみた。まず、点字を覚えることの大切さと必要性を教えていただいた。職業については、あん摩、鍼、灸の三療で、生活の自立を図っている人が多いこともわかった。昭和36年4月、社会復帰を目指し、母に伴われて上京した。三療の資格習得後、恩師や先輩の支援を得て、盲学校の教師になることが出来た。
平成12年10月、NPO法人を立ち上げて、主として中近東やアジア地域の視覚障害者への補助具の支援を行う活動を行っているが、おそらく、天国の母も私たちの活動を見て喜んでくれていると思っている。
【略歴】
1932年 福岡県生まれ。
1956年 大分大学経済学部卒。
同年 福岡県小倉市役所(現北九州市)事務官。
1957年5月 ベーチェット病発症。その後入退院を繰り返す
1961年4月 国立東京光明寮2部3年課程入寮。
1962年3月 失明
1963年4月 日本社会事業大学専修科入学(夜間部)。
1964年3月 国立東京光明寮と日本社会事業大学同時卒。
1964年4月 大分県立盲学校教諭。
1972年4月 国立福岡視力障害センター教官。
1980年7月 同センター主任教官。
1984年4月 同センター教務課長。
1992年3月 同センター定年退職。
同年 埼玉県に移り住む。
1994年から1998年まで 国立身体障害者リハビリテーションセンター理療教育部非常勤講師。
2000年5月 第1回国際シルクロード病(ベーチェット病)患者の集い組織委員会副会長。
2001年10月 NPO法人「眼炎症スタディーグループ」理事長。
(2010年7月 NPO法人「海外たすけあいロービジョンネットワーク」名称変更)
2011年3月 NPO法人「海外たすけあいロービジョンネットワーク」理事長退任
現在、横浜市在住。
【後記】
いくつも心に残るフレーズ・事柄がありました。曰く、「安静を保つように言われ、半年も風呂に入らなかった」「患者さんの毎日の出来事を書いてもらって診断に利用した」「真剣に対応し、よく調べてくれた医師の言葉は重い」「失明宣告には、患者さんへの対応(どのようにすべきか)が伴うべき、患者の対応は、どんどんネガティブになってしまう」「点字は必要」
障害を持った場合、本人の苦痛はよく語られますが、家族も同様にストレスを感じています。家族は世間の荒波から守ってくれる防波堤になってくれますが、裏返しの意味で、社会に出ていく時のハードルにもなってしまいます。庇うわけでもない、突き放すわけでもない西田さんのお母様の対応に感心しました。
今後の夢として、NPOを通して海外へ同胞(ベーチェット患者)の支援を続けたいという志に乾杯です。
平成24年4月11日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第194回(12‐04月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「視覚障害リハビリテーションの現場から
〜全盲で高次脳機能障害を持つ方との出会い〜」
講師:野崎 正和 (京都ライトハウス鳥居寮;視覚障害リハビリテーション指導員)
【講演要約】
1、視覚障害リハビリテーションの現場で
京都の視覚障害者福祉の特徴のひとつは、施設と当事者団体とが密接な関係にあるということです。当事者が必要とする事業を、当事者団体が運動して、ひとつひとつ実現して来た結果が現在の京都ライトハウスなのです。視覚障害リハビリテーション(以下視覚リハ)を提供する鳥居寮もそのひとつです。それから、もうひとつは視覚障害専門の相談事業が充実していて、当事者のニーズを相談員が幅広く把握していることです。そこで、私は相談員にとって使いやすい社会資源でありたいと思っています。視覚リハは当事者の生活ニーズの一部にすぎないと思うからです。
さて、視覚リハとは、当事者の皆さんがそれぞれに困っていることをなんとかする方法や工夫の仕方をお伝えすることです。つまり、見えない・見えにくいことから起こる生活上の困難をちょっとでも改善するための技術指導ということになります。こんな場合はこうしたらどうですかという方法は沢山あります。それを技術と言うか、工夫と言うか、アイデアと言うかは別にして、そのような方法の集合体とそれを提供するシステムが、視覚リハだと私は考えています。これは、山上敏子先生(行動療法の大家)の講演をお聞きし、著書を読んで考えたことです。視覚リハって何だろうとずっと考えてきて、こういう考え方が今の私には一番しっくり来ました。
簡単に言うと、私は白杖を使って歩く技術を指導する技術屋さんだということです。私個人はたいしたことはないのです。ただ、その伝えた技術には、その人の人生を豊かなものにする力があると思います。自由に外出できることによってどんな人生が始まるのか、それはその人だけの新しい物語です。
私は歩行訓練士なので、「歩行の自由は精神の自由だ」と言われると、その通りだと思ってしまいますが、一人で歩けることだけに価値があるわけではありません。ある人は、「パソコンを習って、サピエ図書館で自由に読書ができるようになって、これで生きていくことができると感じている」と話していました。
それから、中途視覚障害の方や、進行性のロービジョンの方などに対する「心のケア」についても、視覚リハの中でどう取り組んだらよいのか、ずっと考えていますがまだよくわかりません。ただ、現在がどうであるかによって、過去の意味は変わるといいます。視覚リハによって、もし現在が豊かになるなら、一度失われたように思える過去にも新しい意味が生まれるのではないでしょうか。それがもしかしたら「心のケア」なのかもしれません。
2、視覚障害と高次脳機能障害を併せ持つ人との出会い
私が担当した中でも特に記憶に残る人たちのプロフィールです。
Iさん (1982年 30年前 当時40代 脳出血 ほぼ全盲→弱視→全盲)
最初と3回目の脳出血のあとに視覚リハを担当しました。最初の時は、視力の回復がありびっくりしました。その時は認知の障害はなくて、修了後、銀行に復職し当事者団体の役員として活躍されました。昨年亡くなりましたが、車椅子生活で言語障害もありながら最後まで充実した人生でした。
Oさん(1985年 27年前 当時20代 交通事故 全盲)
初めてあった時は冬で、いつもこたつに入っていて、昔の事を少しだけ覚えているような状態でした。記憶がないとか、憶えられないとかいうことがどんな状態なのかこの人から学びました。散歩から始めて、指導員2名が交代で5年くらい視覚リハを続けました。修了後は、授産施設に入所し、今も勤めています。
Tさん (2005年 7年前 当時60代 クモ膜下出血 全盲)
こちらは視覚リハのつもりで接していても、本人はそう思っていませんでした。そのことにずっと気づかなくて、人間関係の維持にも視覚リハの技術指導にも失敗しました。しかし、もともと工務店の親方をされていたため人を使うのは上手で、今はホームヘルパーさんをうまく使ってしっかり生活しています。
S.Sさん (2006年 6年前 当時40代 交通事故 全盲)
多幸症的調子の良さが特徴でした。この人は歌謡曲で自信と記憶の回復をしました。いい加減な性格に見えますが、他人の悪口を一切言わない人でした。この人も、ホームヘルパーさんを利用しながら、マイペースで単身生活をしています。この人を担当している時に、高次脳機能障害の勉強を始めました。
M.Sさん (2007年 5年前 当時40代 脳梗塞 全盲)
記憶障害+空間認知障害+全盲で、その他にも幅広い症状があり、視覚リハ的には一番大変だったように思いますが、逆に一番多くのことを学ばせてもらいました。今は社会の中で自分の役割(講演活動)を見つけています。
こんなふうに見てきますと、どの人の視覚リハも同じゴールはひとつもありません。それで当たり前ということです。
【略歴】
1950年生まれ。岡山県津山市出身
立命館大学文学部卒業。
1979年京都ライトハウスに歩行訓練士として入職(日本ライトハウス養成9期)
以来歩行訓練士として32年間同じ職場に勤務。
2011年3月定年 その後、嘱託で仕事を続けている
【後記】
歩行訓練士として32年間現場での経験をお話しして下さいました。
「一人ひとりのゴールは違う」〜利用者の方のニーズは視覚障害リハビリテーションだけではなくて、生活面であったり、家族の事であったり、年金のことであったり、行政の制度であったり、非常に幅が広い。あくまでリハビリテーションはその一部と、(野崎さんの思う)歩行訓練士の仕事の全体像を語りました。
「心が動くと身体が動く。身体が動くと心が動く」「歩行の自由は、精神の自由」〜歩行訓練士は、白杖を使って歩く技術を指導するという仕事をしている技術屋。技術屋としての私個人は特別たいした人間ではないけども、お伝えしている技術には、その人の人生を豊かなものにする力があります。自由に外出できることによってどんな人生が始まるのか、それはその人だけの新しい物語。
「やってみないと判らない」〜必ずしも歩行だけに限らず、ほかの部分であっても新しい何か、その人が生きていく楽しみ、喜びが得られれればいいのです。
「現在が如何であるかによって、過去が変わって来る」〜現在が豊かになるなら、一度失われたように思える過去にも新しい意味が生まれるという意味だそうです。深いです。
「工夫するのが指導員、努力するのが利用者」〜リハビリテーション達成の定義について「いつまでも指導員が付いているわけではありませんので、指導員がやっていたような工夫をご自分がしだして一つ一つ結果をご自分のものにしていけるようになりましたら、リハビリも終わりということやと思います」なるほどと合点しました。
「おだてるだけのうわべの言葉だけでは駄目」〜本人が寝る時に思い起こして、言われたことにそうだなと納得できなければ進みません。「三歩進んで二歩下がる」
お話の内容が、非常に謙虚で、論理的でした。特に個々の症例についてのお話は、状況が目に浮かぶようでした。優しい声でのお話し、仕事に対する謙虚な姿勢が伝わり、何かこころが豊かになるような、他者に対して優しくしてあげたいと思わせるような素敵なお話でした。
平成24年3月14日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第193回(12‐03月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「音楽療法で何ができるのだろうかー高齢者支援の現場からー」
講師:松田 美穂 (社会福祉法人 ジェロントピア新潟)
【講演要約】
はじめに
特別養護老人ホームジェロントピア新潟は平成18年12月に創立し、今年で6年目を迎える。施設の中庭には角田山の麓から運んだ八重の枝垂桜があり、毎年見事な花を咲かせている。年を重ねた方々にとって桜は特別な花であり、施設のどこからでも眺めることができる。今は亡き父が「人生の完成期に必要なのは、自然と芸術と宗教(哲学)だ」と言っていたのを桜の花を見る度によく思い出す。お年寄りが過ごす施設だからこそ自然が感じられ、芸術の香りのする運営を心がけてきた。
施設の中心には新潟の誇る宮田亮平氏(現東京芸術大学学長)の波に飛び跳ねるイルカがある。桜が満開の時はイルカを通して桜が眺められ、そのコラボレーションは見事である。先生のイルカはたたくと海の音がし、優れた芸術作品は人を癒す力になると実感している。
そして筆者を日々成長させてくれていると感じている音楽。音楽によってライフワークとも自負できる音楽療法に巡り合うことができた。これまでの2000回を超える実践から認知機能と口腔機能の維持・向上に向けての音楽療法を取り上げたい。
1. 認知機能の維持・向上に向けての音楽療法
長年の研究の結果、認知症の初期に特に低下しやすい認知機能が明らかになってきた。この機能を重点的に鍛える認知症予防事業が、東京都や長野県で先駆的に行われている。
矢富直美(2005)は認知症予防プログラムの必要条件として、その活動が高齢者の嗜好に合い、なおかつ認知機能{ (1)注意力 (2)言語流暢性 (3)思考力(計画力) (4)エピソード記憶 (5)視空間認知 }を刺激する要素があれば理想的だと述べている。
音楽療法ではこの5つの機能を刺激し鍛えるためのプログラムを実践している。
(1) 注意力 + (5) 視空間認知 → 手話歌唱、楽器演奏
毎月「季節の歌」を参加者と相談して決め、歌いながら曲にふさわしい手振りを同時に行なっている。これは本式の手話ではなくことばに適した手の動き(あて振り)で、歌いながら手指を動かすことで、脳の中枢の広い範囲の神経細胞を効率よく活性化させることができる。楽器演奏も同じことで、同時に二つ以上のことを集中して行うためには注意力が不可欠である。加えて注意分割機能も鍛えられる。毎月「季節の歌」はどこの施設でも歌われているはずである。この時に手振りやリズム楽器をプラスするだけで脳のトレーニングになる。
(2) 言語流暢性 + (4) エピソード記憶 → 歌唱、短期記憶ゲーム、会話
言語流暢性向上には歌唱は最も適した活動であろう。歌唱により思い出話が語られることも多く、エピソード記憶を喚起することも可能である。感動的な体験を涙ぐみながら話す方も多い。
短期記憶ゲームは、花や動物、食べ物などを写した写真や絵などを何枚か見せて記憶してもらい、途中に簡単な歌唱をはさみ、その後で答えてもらうというゲームである。答えてもらう前に邪魔(簡単な歌唱)をはさむことで、より高度な脳の活動になる。
(3) 思考力(計画力) → プログラム計画、リクエスト、楽器選択
手話歌唱の曲目やことばに適した手の動きの提案、リクエストや楽器選択は全て思考力(計画力)アップにつながる。
高齢者の場合は集団で実施することで人との交流が促進され、競争意識も働き、より効果的である。ちょっと難しいと感じ、四苦八苦している時こそ脳が生き生きと働いている。
2. 口腔機能の維持・向上に向けての音楽療法
音楽療法の始まりはいつも言語聴覚士と共にウォーミングアップの一環として嚥下体操を行なっている。嚥下機能の維持・向上には、舌と下あごを鍛えることが重要である。ここの筋肉が靱帯を介して「喉頭蓋」という蓋の働きをよくするからである。
この蓋の働きが悪くなりふさがらなくなると食べ物が気管に入ってしまい、嚥下性肺炎の原因となる。
嚥下体操のプログラムは、
(1)深呼吸
(2)頬の運動(膨らましとすぼませる)
(3)舌の運動(上下左右に動かし、その後唇をゆっくりなめる)
(4)イーウーオーウー運動(イー、ウー、オー、ウーと長めに発音する)
(5)早口ことば
と至って簡単である。その他にも「パンダの宝物」など舌と下あごをよく動かすことばを発音してもらうこともある。実際に発音してみると舌と下あごが動くのがよくわかるはずである。歌唱曲については、擬音やパ行、タ行、カ行、ラ行のことばが多く含まれている曲がよい。
おわりに−音楽の癒しを求めて−
癒しが必要なのは家族も同様である。毎月の家族会でストレスを発散させる目的で合唱を行い、家族の歌声を録音し毎日昼食時に放送をしている。自らが歌った歌を毎日入所者に聴いてもらうという試みは、普段生活を共にしていない家族にとっても意味のある活動だと考えている。
また昨年より音楽を通じた地域交流事業として、障がい者支援施設である「すずらんCafe」でメンバーと組んで歌声喫茶を始めた。幸い好評で障がい者に対しての理解と支援の輪が広がっている。
音楽療法に携わって20年以上が過ぎた。これまでの経験から人を癒すのは人と人とのふれあいであり、この人と人とをつなぐのが音楽なのだという思いを強くしている。今後も初心を忘れることなく、音楽で人と人との橋渡しをしていきたい。
【略歴】
桐朋学園大学ピアノ科、東京芸術大学声楽科卒業、新潟大学大学院教育学研究科、新潟青陵大学大学院臨床心理学研究科修了。
芸大オペラ「フィガロの結婚」でデビュー。数々のオペラに出演の他、「第九」、「メサイア」、モーツアルト「レクイエム」「戴冠ミサ」等のアルトソロを務める。
平成10年医師である夫と共に介護老人保健施設「ケアポートすなやま」を開設。
現在は社会福祉法人ジェロントピア新潟理事長、特別養護老人ホーム「ジェロントピア新潟」施設長、地域活動支援センター「すずらんクラブ」相談支援専門員。認定音楽療法士、臨床心理士。
【後記】
とにかく楽しく拝聴しました。歌あり、手話歌唱あり、あっという間の50分でした。音楽がそして俳句が、認知症に効果があること、間違いなしだと感じました。松田さん自身が磨いた音楽、お父さんからの医学、お母さんからの俳句、この3つが融合した素晴らしい活動に感激です。
平成24年2月8日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第192回(12‐02月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「源氏物語にみる心の病
(千年前と変わらない人のこころと、紫式部が伝えたかったこと)」
講師:櫻井 浩治 (新潟大学名誉教授・精神科医)
【講演要旨】
「源氏物語」は、今から約1千年前の平安時代の中頃に書かれた、帝の子供でありながら帝を継げない光(ひかる)源氏と呼ばれた男性の生涯を描いた長編小説です。
この小説にはマラリヤや、気管支炎や脚気など身体の病気も出てきますが、それよりも心の病、あるいは心が関係した病が圧倒的に多く描かれています。
先ず小説の冒頭に出てくる「女御(にょうご)、更衣(こうい)あまたさぶらひ給ひける中に」と始まる、この「あまた」(多く)いる帝(みかど)(天皇)の后(きさき)(妻)達(父の位が帝の親族か大臣である后は「女御」、それ以下の位の父を持つ者は「更衣」と呼ばれました)の中にあって、帝の寵愛を一身に集め、光るように美しく賢い皇子を産んだために、第一皇子の母であった女御と寵愛をそねむ他の更衣ら
によって、徹底的にいじめられる「桐壺」と呼ばれる更衣の病と死があります。
このいじめは、桐壺の生んだ皇子(光源氏)を、帝が「源氏」とい姓を与えて除籍し、帝を継げない身分にしたにもかかわらず続いたため、桐壺は里に帰りたいと帝に願うのですが、何時も病気がちな桐壺を、たいしたことはないと思って許しません。
しかし光源氏が3歳の時に、日増しに状態は悪くなり、ほんの4〜5日でげっそりと痩せて意識さえないような状態になり、驚いて帝も里帰りを許すのですが里帰りしたその余に死んでしまいます。この里帰りの時にも、いじめを避けて隠れて宮廷を出た、と言いますから、そのいじめのすごさが察しられます。
このようにしてみますと、この桐壺の更衣の死に至る病は、「長期にわたる心理的ストレスによって生じた身体的病」であり、多分「胃潰瘍」(心身症)と診断されるのではないでしょうか。夏目漱石のように「胃潰瘍」による出血によるものではなかったでしょうか。
桐壺の更衣は母と娘の桐壺の二人っきりの家庭でした。桐壺は心理的ストレスを避けたり和らげる手段がなかったのです。
桐壺の更衣の母が後を追うように亡くなるのも、現代、問題にされている頼れる人を亡くした後の「喪失体験」が残された人の免疫に変化をきたして、重篤な疾患をひき起こす、という状態があったのだろうと思います。
更には光源氏の妻「葵の上」は、妊娠中に「ものけ」につかれて大変苦しい出産をし、また出産後もはかばかしくなく、しばらくして亡くなってしまいます。この妊娠中の状態は、激しい「つわり」の状態でしたでしょうし、産後の状態は、産後の肥立ちが悪い、つまり「産後精神障害」のうちの一つか、「妊娠中毒」状態が考えられましょう。両方が重なったのかもしれません。光源氏と葵の上の間は、やや冷たくなっていたのですから。
また光源氏が最も大事にした妻「紫の上」は、38歳の時、光源氏のう浮気のことを考え、自分をはかなんでいた朝方、胸が痛くなり激しい苦しみに襲われます。その後も発熱や食欲も無くなるという症状が数日続いては良くなり、また悪くなるなど、4ヶ月程繰り返し、一時は仮死状態になりますが、光源氏の熱心な看病や加持祈祷を変えるなどして治り、元気になります。
これなども、突然、死に至るのではないかという胸部違和感を覚え、口の渇きやひ汗、脱力など、全て不安恐怖からの自律神経の緊張状態なのですが、発作的に生じます。救急車などで受診し、心電図などの検査を受けて異常が無いといわれ、その頃には症状は治まり、やれやれと思っていると、また急に同じような状態にさいなまされて受診しても同様の結果で、心配ないと言われます。が、ついにはまたおきるかも知れないという不安がつきまとい、その不安がまたこの症状を生む、という不安発作、今で言うパニック障害におちいってしまいます。この状態は、現在は不安を取る薬の服薬で治ります。
さらには光源氏の親友の息子「柏木」が、あろうことか光源氏の年若い妻に強引に横恋慕し、その結果子供が出来てしまいます。それを知っ柏木はl家にこもり、うつうつと物思いにふけってばかりいて、何がどうと言うわけでないが寝込んで頭が上がらない、という状態になります。そして源氏にも親にも申し訳ないと自分を責め、親も従者も皆彼を好青年だと思っているのに、本人は、自分の過去を悲観的に見、将来にも自信がなく、この世に生きていく価値の無い男だ、と思うようになります。
このように、現在私達が「うつ病」と診断する状態になってしまいます。実を言えば、光源氏も同じような事態を若い時に経験していながら、光源氏は「うつ病」にならない。これは二人の性格や相手の態度の違いが関係しているように思われます。
その他、髭黒の大将の妻「北の方」は、(今はこのような診断名は使いませんが)「ヒステリー」による解離性精神症状を呈し、離婚になりますし、光源氏の母違いの兄の帝は、光源氏が、都を離れ須磨で過ごしていた時、夢で睨まれた父の帝のことが気になり目が悪くなります(具体的な症状はわかりません)。その後、母親に反対されたのですが、光源氏を都へ戻しますと、わずらっていた眼症状が治ります。これもまた、心理的原因の眼の症状と言えるでしょう。
このように、源氏物語にはさまざまな「心の病」が出てくるのです。その上光源氏より年上の皇太子の未亡人「六条の御息所(みやすどころ)」が、「もののけ」となって光源氏の妻や恋人(夕顔、葵の上、には生霊、紫の上、女三の宮には死霊)について悩ませ、病の原因にもなっています。これはその場面を良く読んでみますと、光源氏へめぐっての嫉妬からでは無く、光源氏が六条の御息所(みやすどころ)の誇りを逆なでするような、自尊心を傷つけるような光源氏の言動がきっかけになり、それを恨んで「もののけ」となって現れ、光源氏の代わりに彼女らに憑(つ)いている事が判ります。
ここで見た心の病も、全て「自尊心」が傷つけられた状況下で生じていて、結局は、男性は女性の自尊心を大切にしないととんだことになりますよ、と紫式部は源氏物語で主張したかったのではないでしょうか。
小説ではありますが、作者紫式部の父も兄も夫も藤原氏の一族であり、自らも天皇の后に仕えたこともあって、当時の宮廷の状況を、かなり忠実に描写していると言われています。登場する人物も、自らが見聞きしたモデルが背景にあるからこそ、当時の読者を惹きつけ、そこに真実がうかがわれるからこそ、千年間も読み継がれているのではないでしょうか。
例えば、今日お話しするパニック障害に似た症状は、当時最高の政治家であった藤原道長が、それとおぼしき疾病に悩まされていた事が、道長自身の日記や、公卿の日記に記されていることからも推測されるのです。当時の現実の帝、三条天皇は眼症状があって後に失明している、とも言います(藤原道長の日記「御堂関白記」や平安時代の公卿藤原実資の日記「小右記」。詳しくは服部敏良著「日本医学史研究余話」参照のこと)「真実は小説より奇なり」といいますが、「小説は現実を映し出す鏡」とも言えましょう。
私達は源氏物語から千年前から人は今に変わらぬ愛や嫉妬や不安や自尊心に揺り動かされた人間関係に悩み、現代病同様の心身の反応を生じていた事がわかります。
そして病の原因が判らなかった当時は、多くを「ものけ」の仕業と考え、その不安の解消を、宗教、特に加持祈祷に頼った、という歴史的事実が、現代人にも尚存在しているように、私には思われことがあります。
【略歴】
昭和11年1月生まれ。新潟大学医学部卒業、慶応義塾大学医学部精神神経科学教室で精神科臨床を学び、新潟大学、新潟医療福祉大学などに勤務。両大学の名誉教授。医学博士。
第39回日本心身医学会総会会長を務める。
一般向けの著書として「源氏物語の心の世界」(近代文芸社刊)、「乞食の歌ー慈愛と行動の人良寛」(考古堂刊;第5回新潟出版文化賞優秀賞受賞)
【後記】
1000年前のお話なのに、櫻井先生がお話しすると現代の物語のような親近感を覚えます。今回のお話に出てきた、ストレス潰瘍、妊娠中毒症、ヒステリー性障害、パニック障害、うつ、、、人が織りなす人間関係は、1000年前と変わらないと思いました。
下記の言葉も、印象に残ります。
人間は誰でも不安を持っている(不安な存在)
笑いの効用は言われているが、泣くことも大事。
影も大事、、、、等々
今度こそ、源氏物語を読んでみようと思いました。
平成24年1月11日の勉強会の報告
安藤@済生会新潟です。
第191回(12‐01月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「新潟盲学校の百年 〜学校要覧にみる変遷〜」
講師:小西 明 (新潟県立新潟盲学校 校長)
勉強会の一部は、「新潟大学工学部渡辺研究室」と「新潟市障がい者ITサポートセンター」の ご協力により、ネット配信致しました。今回も全国の数か所でアクセスがありました。
下記のいずれでも視聴できます。
http://www.ustream.tv/channel/niigata-saiseikai
http://nitsc.eng.niigata-u.ac.jp/saiseikai/
録画はしておりません。当日の視聴のみ可能です。
【講演要旨】
1 はじめに
新潟県立新潟盲学校の前身である「私立新潟盲唖学校」は、開校から4年後の1911年(明治44)に最初の卒業生を世に送り出しました。この年に同窓会が創設され、平成23年をもって百年を迎えることができました。同窓生はじめ、御支援いただいた多くの皆様のおかげと感謝しております。
新潟盲学校百年の歴史は、県内視覚障害児者の教育・医療・福祉・労働等の変容を、かなりの部分映し出す鏡でもあります。ここでは、当校の学校要覧をもとに、沿革にはじまり、在籍者数と教職員数、眼疾患、教育等について概観し、今後の視覚障害教育の在り方について考てみたいとおもいます。
2 沿革略史
1903(明治37) 長谷川一詮らが、(1)新潟市東堀前通り8番町の私立蛍雪校の一部を借り「盲唖学校」を開設
1907(明治40) (2)新潟市医学町通1番町に借館し「私立新潟盲唖学校」として、盲生19名、唖生8名をもって開校する。
1910(明治43) 校舎を(3)新潟市西堀通3番町に新築移転する。
1922(大正11) 新潟県立新潟盲学校となり、ろう唖部は昭和2年まで存置する。校地校舎基本金一切を新潟県に寄付、財団法人新潟盲唖学校を解散登記。
1930(昭和 5) 校舎・寄宿舎が(4)新潟市関屋金鉢山町53に新築移転する。
1937(昭和12) ヘレンケラー女史が来校される。
1948(昭和23) 盲学校教育義務制が施行される。
1953(昭和28) 新校舎8教室(2,505u)が増築竣工する。
1957(昭和32) 創立50周年記念式を挙行する。
1963(昭和38) 現所在地の(5)新潟市山ニツ1117(現地27,044u)に校舎(3,667u)寄宿舎(1,750u)が竣工し移転する。
1977(昭和52) 創立者、前田恵隆殿と久保田清蔵殿の慰霊祭を創立70周年記念行事の一環として挙行する。
1980(昭和55) 校舎第4棟(1,448u)が竣工する。
2006(平成18) 新潟県立新潟盲学校高田分校が県立上越養護学校内に設置される。
2007(平成19) 新潟県立新潟盲学校創立百周年記念式典を挙行する。
2011(平成23) 新潟県立新潟盲学校同窓会創立百周年記念式典を挙行する。
* (1)〜(5)は校舎等所在地
3 在籍者数と教職員数
「私立新潟盲唖学校」は、1907年(明治40)、盲生19名、唖生8名にて開校しました。開校後生徒数は徐々に増え、10年後の1916年(大正5)には68名となりました。唖生の教育を分離した1927年(昭和 2)には盲生132名を数えるほどになり、校舎が手狭となったため関屋金鉢山への新築移転となりました。その後、戦争の時代を迎え深刻な食糧難もあり、生徒数は横ばいでした。
戦後の教育改革により、盲学校は義務制となり就学奨励法による児童生徒への支援が始まると生徒数は飛躍的に伸び、1964年(昭和39)には189名を数えるほどになりました。 当校の在籍者はこれがピークであり、現在まで減少を続けています。医療・衛生の飛躍的な進展、出生数の減少がその背景にあるといわれ、当校に限らずほぼ全国的な傾向です。
教職員については、開校当初校長を含め僅か4人でした。4人で盲生と唖生を教育していたことになります。当時は、先生が盲聾教育について特別な指導を受けたり、資格があったわけではありませんでした。開校10年後には、生徒数増に伴い教職員は10人となりますが、唖部が分離し生徒数が132名にもなった1927年(昭和 2)になっても教職員は2人増えただけでした。大正時代に県立移管となった後も、学校経営は経済的に厳しく、職員を確保する財源がなかったことが原因としてあげられます。そこで、生徒同志で教え合ったり、高学年の生徒が年少児童の世話をしたりして、学校や寄宿舎で過ごしていたことが同窓会誌等に綴られています。
1948年(昭和23)の義務制以後、義務教育標準法により教職員が確保され、定数改善が継続され、在籍者1名当たりの教職員数は増えています。
4 眼疾患の推移
眼疾患に関する記録では、1936年(昭和11)の新潟県立新潟盲学校一覧に掲載されている「失明原因調」が現存する資料で最も古いものです。栄養不良、その他、角膜炎、麻疹、先天性等が上位を占めています。残念なことに、1941年(昭16)から1951年(昭和26)までの記録が残されていません。戦中戦後の混乱期に紛失したのか、そもそも診察や調査が実施されなかったのかについては不明です。
戦後は、1952年(昭和27)の学校要覧から「眼疾」として記載されています。眼球癆、角膜疾患、牛眼、白内障、網膜色素変性症等が疾患の上位を占めています。
その後、1970年(昭和45)からは、筑波大学心身障害学系による「全国盲学校児童生徒の視覚障害原因等調査」が開始されました。調査は5年ごとに実施され、当校の学校要覧眼疾患の項目は、70年以後当該調査の形式に則っています。
5 盲学校教育百年に学ぶ
(1)学校運営
1872年(明治5)学制発布により「小学校、人民の一般必ス学ハスンハ・・・」とありますが、障害児(ここでは盲聾児)の就学については触れておらず、「廃人学校アルヘシ」とあるのみでした。
盲聾学校義務制が施行されたのは、戦後の1948年(昭和23)であり、明治初期に学校教育が始まって75年を経過した時でした。
この間、先達たちは崇高な志を掲げ、盲聾者への教育の必要性や可能性を説き、心血を注ぎ学校開設や運営に尽力しました。この活動を財政面で協力した支援者として、煖エ助七氏(高助)や中野貫一氏(中野財団)の名が上げられます。少額ではありますが、資金援助をされた市民の方々もありました。盲学校教育が公教育として、公的負担がなされるまで、学校の経済的困窮は開校からの最も大きな課題でした。
(2)教育制度
2011年(平成23)7月29日、障害者基本法の一部改正により、可能な限り障害児が障害のない児童生徒と共に学ぶという考え方、いわゆるインクルーシブ教育が法令上明記されました。「廃人学校アルヘシ」との一文から140年の時を経て、ようやく学ぶ場が共有されたことになります。二元論から一元論へ、ノーマライゼーションの進展です。今後は、ますますユニバーサルデザインの教育推進が求められると共に、盲学校においてはその専門性の確保が求められることになります。
(3)これからの盲学校に期待されること
○視覚障害は最も少ない障害であるからこそ、教育ニーズに的確に対応できる核となる場(盲学校)が必要ある。
○盲学校には、地方自治体で唯一の視覚障害教育の資源・支援センターであることの自覚や使命感が求められる。
○盲学校は「指先を目としながら学ぶ」子どもから大人に、高い専門性と特別に工夫された教材・教具を提供し、教授する指導者を育成する。
○盲学校は、医療・福祉・労働など、教育以外の分野との連携により、視覚障害児者の多様なニーズに対応しQOL向上に寄与する。
【略歴】
1977年 新潟県立新潟盲学校教諭
1992年 新潟県立はまぐみ養護学校教諭
1995年 新潟県立高田盲学校教頭
1997年 新潟県立教育センター教育相談・特殊教育課長
2002年 新潟県立高田盲学校校長
2006年 新潟県立新潟盲学校校長
【追記】
新潟県立新潟盲学校の前身である「私立新潟盲唖学校」は、明治40年(1907年)の開校です。4年後の明治44年(1911)に最初の卒業生を世に送り出しこの年に同窓会が創設されました。平成23年(2011年)は開校104年、同窓会創立百年となるということです。同窓会創立100周年は、あまり聞くことはありません。しかし小西先生のお話を伺い、同窓会の存在の大きさを改めて感じました。
新潟盲学校設立は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」に描かれた時代と重なります。「全ての人が共に学び、自立に繋がる力を育てる」という創立者長谷川一詮、鏡渕九六郎、荒川柳軒、前田恵隆の四氏の願い、、、盲学校100年を振り返る時、先人たちの献身的な活動に感動です。財産を蓄えることが大事という今日、盲学校のために財産を差し出すという志の深さに圧倒されます。日本人にはこういう気概があったのだと誇らしく、懐かしく思います。
同窓会が学校に大きな力となったということにも感慨が深いものがあります。予算が少ない、教員数も足りないという状況下、同窓生が生徒の面倒を見て、就職先まで世話していた、、、、ということです。
何よりも100年前の学校要覧が残っていたこと、貴重なことです。決算が毎回大きなスペースを占めています。借金のために必要だったのでしょうか?ヘレンケラー女史が来校した時の写真も感激でした。
失明原因疾患もとても興味深いものでした。小児の失明原因を調べたことがありますが、こうした盲学校のデータは戦前からのデータも揃っており大変貴重なものです。興味深い話題満載の講演でした。小西先生、ありがとうございました。
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