済生会勉強会の報告 2011
 

平成23年11月9日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第189回(11‐11月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「視覚障害五年生、只今奮闘中  学んだ事、得た事、今思う事」
講師:田中 正四 (新潟県胎内市)
   勉強会の一部は、「新潟大学工学部渡辺研究室」と「新潟市障がい者ITサポートセンター」の  ご協力により、ネット配信致しました。今回も全国の数か所でアクセスがありました。
   下記のいずれでも視聴できます。
     http://www.ustream.tv/channel/niigata-saiseikai
     http://nitsc.eng.niigata-u.ac.jp/saiseikai/
   録画はしておりません。当日の視聴のみ可能です。
【講演要旨】
 2003年 6月 腎不全により透析開始
 2004年 4月 右眼緑内障により失明
 2005年11月 休職
 2007年 7月 退職
 2007年 8月 左眼視力障害にて障害一級
 私のほぼ六十年の人生において2003年6月からの環境は、長い会社員生活からはまったく想像すらできなかった病との闘いの日々となった。
 「会社は人を育て、人作りにより発展する」この会社の基本理念に全力投球した37年間の会社員生活から、私の環境は一転した。休職を開始した私には、それまで築き上げてきた人のつながりや、多くの技術、誇りさえ無くしてしまう事となった。休職の段階からは、リハビリ外来を受診して、アドバイスを受けていたが、自身の将来に向けたスタートを切ることができず、人のつながりを失った絶望感と視力障害を受け止められない自分がそこに存在していた。一方、家族の前では、障害を覚悟したかの様に振る舞い、勤めて明るく前向きな自分を演じていた。しかし、家族の薦めや協力により、多くの病院に診察を受け、視力回復への望みは無くさずにいた。そんな家族の献身的な協力を感じた時、私には、ここに一番大切な人のつながりが残っていたことに気がついた。
 大切な家族のために何が出きるのだろうかと真剣に考え、私が取った行動は、家のリフォームと妻の将来生活の確保であった。結婚し、子供を育て、住まいを築いてきた今までの人生。今私に残された宿題のように思っていた。
 リフォームと生活設計をなしとげたが、心は晴れず目標を見つけられない自分にやり場のないむなしささえ覚えた。そんな時、リハビリ外来で女神様と出会うことができた。その女神様は、とても明るく暖かい雰囲気をかもし出していた。女神様の魅力に心ひかれた私は、「どうしてそんなに明るくしていられるのですか」と訪ねた。女神様は「あんた、悲しいんでしょう、辛いのでしょう、悔しいのでしょう。泣きなさい、泣いていいのよ。」と素直に自分を表す事の大切さを教えてくれ、私を抱きしめてくれた。その女神様の言葉に我慢し耐えてきた自分の封印が解かれ人目もはばからず号泣してしまった。
さらに、身内にも女神様が存在していた。孫娘である。3歳の孫は、結婚式でベールガール役を務めたあとのインタビューで、「大きくなったら、ジジの目目治すの。」と答えてくれた。こんなに近くにいた女神様に、大きな夢をあたえていただいた。素直になること、夢を持ち続けることの大切さを教わった。
もっとも女神様には、こわい女神様もいるのでした。そのこわい女神様は、家の中の私に最も近い所にいて、いつも私を叱咤激励してくれた。
 私には、多くの仲間がいる。毎週通っているパソコン教室の仲間達である。それぞれの人生を歩み、同じ障害者仲間と接している仲で、私に無い生き方や考え方を学び聞くことができた。そんな仲間の進めもあり、盲導犬の魅力にひかれた私は、盲導犬の貸与に向け舵を切った。体験会に参加し、さらに盲導犬のすばらしさに感激した私にその夢は現実のものとなった。
昨年の夏。待望の盲導犬が貸与されたのである。グティ号である。風を切り歩く快適さを数年ぶりに取り戻し、日々相棒と胸を張って歩行している。
 現在私は、多くの仲間達と盲導犬グティ、それに、多くのボランティアの皆さんの理解に囲まれて前向きな日常を送っている。今、こうしてすばらしい人生の門を開けることが出来た私であるが、今後の夢がある。それは、障害の理解と盲導犬の普及と啓蒙活動に取り組み、より多くの視覚障害者の掘り起こしである。さいわい、地域の小学校等への訪問機会に恵まれ、その夢は実現しつつある。今回の私の経験や、挫折と立ち直りのエピソードを参考に、一人でもおおくの障害を持った仲間がつどえることを願ってやむない。
 ここで、今後の行政に望むことを書き添えたい。それは、障害が現実となった人に、県内や、地域の教育、訓練、仲間達と過ごせる場所の情報の提供である。情報弱者の私達である。より多くの人たちが明るく前向きな生活を送ってもらえるように、なっていただきたいと切に願っています。
 最後に孫娘の成長を紹介したい。一昨年5歳になった彼女は、お医者様からプリキュアに夢を変更したが、今年一年生の彼女は、「やっぱりお医者さんになるよ。でも少なくても20年かかるんだって。だから、じいちゃんそれまで生きていなくちゃいけないよ」ですって。頑張らなくてはいけない五年生の私です。
【追記】
 勉強会当日、会場には5頭の盲導犬も含め、参加者が溢れていました。  田中さんは、張りのある声で低音ながらはっきりとした口調で話し始めました。
 「絆」が東日本大震災復興のテーマですが、田中さんのお話にも、「絆」は満載でした。  「会社は人を育て、人により発展する」という会社のモットーで、多くの仲間を得て、頑張ることが出来た勤務時代前半。人事担当になり、それが一変してしまいました。「同志」「仲間」に退社を勧める仕事になり、かなりのストレスだった勤務時代後半。眼の病と闘うなかで、家族の協力。リハビリ外来での女神との出会い等々。
   女神様:「思いっきり泣いてごらん」、
 孫娘:「将来はジジの目を治して上げる」、
 お孫さん:「おじいちゃん、目が見えないのなら心の目で見ればいいよ」
 涙あり笑いありの、あっという間の50分でした。
 田中さんとは不思議な縁です。医者と患者は「病気を治してなんぼの関係」ですが、結局私は田中さんの目の病気を治すことが出来なかった眼科医です。
 2007年に他院からの紹介で私の前に現れた田中さんは、右眼は緑内障にて失明、左眼は胞状網膜剥離。 各地の医者を転々としており、医者不信の固まり状態でした。左眼の続発性網膜剥離(uveal effusion)の手術目的で入院したものの、入院時には網膜は復位(網膜萎縮・視神経萎縮)しており手術適応はありませんでした。結局、手術せずに退院となりました。手術に一縷の望みを掛けていた田中さんには申し訳ない結果でした。
 そんな田中さんにお話して頂ける事、感謝しています。田中さんは現在、いろいろな小学校での総合学習で講演する機会が多いとのことですが、私たちのところにもまた来て頂き、多くのことを教えて欲しいと思います。田中さんのますますの活躍、祈念しています。



平成23年10月12日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第188回(11‐10月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「NPO法人から社会福祉法人へ 〜 自立生活福祉会、今からここから」
講師:遁所 直樹(とんどころ なおき ; 社会福祉法人自立生活福祉会 事務局長)
 今回の勉強会の一部は、「新潟大学工学部渡辺研究室」と「新潟市障がい者ITサポートセンター」のご協力により、ネット配信致しました。今回も全国の数か所でアクセスがありました。
 下記のいずれでも視聴できます。
  http://www.ustream.tv/channel/niigata-saiseikai
  http://nitsc.eng.niigata-u.ac.jp/saiseikai/
 録画はしておりません。当日の視聴のみ可能です。
【講演要旨】
1)初めに
 昭和62年6月25日に五十嵐浜に飛び込んで首の骨を折り、重度の障がい者となりました。社会復帰をしたいと思っても、どうやったら社会人になれるのか、病院に2年半、施設に3年半おりました。社会的な入院と施設入所待ちのための6年にしてはならないと思い悩んでいました。
平成5年9月にダスキン障がい者リーダー海外派遣事業13期生としてアメリカの障がい者の生活を研修することができました。そこでは資格を取得して自立生活センターという障がい者が障がい者のための介護サービスや権利擁護活動を行っていました。  特に私よりも重度の障がいをもって生き生きと勉強している姿を見て、日本では否定されていたこと(それはすごい理不尽なことと思っていましたが)アメリカでそうではなく合理的な配慮を求めて主張してよいことを確認したのです。日本では入学を認めてもらえなかった男性の障がい者(日本人)がカリフォルニアの大学で勉強していることからも納得しました。  ちなみに当時は私のような障がいがいちばん不幸であると思っていましたが、今は不本意な理由でレッテルを貼られ差別を受けている障がいの方がいらっしゃることを強く感じます。(平成23年11月13日新潟大学南キャンパスときめいとにおいて黒岩弁護士さんと障害者差別禁止法についてディスカッションします)
2)資格取得
 目標は定まったのですが、現実的にどのように動いて良いか解らず、新潟に帰ってきてから、しばらく自宅での生活が続きましたが、行政書士・社会福祉士の資格を取得し、介護老人保健施設に就職しました。今までお客様であるという立場から社会人として厳しい現実を経験した2年半でした。結局体をこわして辞めることになりましたが、人間関係の難しさ、社会人として責任を学びました。
3)自立生活支援センター新潟発足
 平成7年10月に篠田さんという脳性麻痺の障がいを持った方が中心として自立生活支援センター新潟を新潟市西区で立ち上げたのです。いつかは何らかの形で関わりたいと思いながら、接点がなく、高齢者福祉の援助者として活動をしておりました。彼らは月1回の入浴介助の生活保障しかなかったときから権利を主張し制度拡大のため活動されてこられました。私自身としては新潟県医療費助成が訪問看護で利用できるように要望書を提出し実現したこと、行政書士のワープロ受験を認めてもらったことなど啓発され実行してきました。
4)NPO法人自立生活センター新潟
 平成12年市町村障がい者相談事業を自立生活支援センター新潟が新潟市から委託され、その相談員として自立生活支援センター新潟に就職したのです。そこから、平成15年支援費制度、平成18年障害者自立支援法と障がい者の制度がめまぐるしく動き始め、措置から契約に障がい者サービスも変わる時期に、NPO法人の申請を手探りでしたことを思い出します。介助サービスを受ける立場から介助サービスを提供する事業所となり、素人集団が経営に着手しても、なかなか軌道に乗ることができません。
 さらに三条市水害、中越震災、中越沖地震など新潟で大きな災害が起こり、全国の障害者団体から問い合わせ先、および被災地支援の窓口としてその責任を果たすべくできることを少しずつ行いました。そのさなか、前事務局長が心不全で倒れ、運営は滞ることが多くなり、同時に職員も疲弊してこの時期は組織の立て直しに力を入れ途方に暮れたこともありました。
5)そして社会福祉法人へ
 試行錯誤しながら10年たった平成22年、土地と建物をNPO法人所有にしたことを機会に、社会福祉法人の申請を行ったのです。NPO法人は創始者が抜けたらその理念を継続することは難しいといわれております。社会福祉法人にすることで、高齢者になっても、障がいをもっても最後まで地域で暮らすこと、さらには一般市民の視線に立った当たり前の暮らしができるように支援するという方針を継続していきたいと願い、社会福祉法人設立に至りました。
 法人は障がい者が主体となって活動することを特徴としています。自立生活プログラムとピアカウンセリングを継続的に行うため、この10月1日地域活動支援センターぴあポートを開設しました。トイレットペーパーの販売、自立生活プログラムとして毎日の食事作りから始めています。
 この10月から同行援護、グループホーム、ケアホームの住宅補助が開始されております、さらに来年からは障害者相談支援事業として指定特定相談事業(ケアプラン作成)および指定一般相談事業が開始されます。この大きな社会保障の制度の変遷に対応することができる懐の大きな法人として成長できるように努めていきたいと思います。
【追記】
 遁所さんが勉強会でお話するのは、今回が3回目です。そして登場する度に、進化した姿を披露してくれます。
 第91回 2003年12月10日
  「期待せずあきらめず」       
    遁所 直樹  新潟市障害者生活支援センター分室
 頚椎損傷による四肢麻痺という障がいから、精神的にも立ち直り資格を得て、相談員として自立生活支援センター新潟に就職したころでした。「期待せず、諦めず」、記憶に残る言葉でした。家族をはじめ、多くの支援する人に巡り合うことができました。
 http://homepage2.nifty.com/samusei_syoukyouren/chapter6-4.html

第121回 2006年4月12日
  「なぜ生まれる無年金障害者」 
    遁所 直樹 NPO法人自立生活センター新潟 副理事長兼 新潟学生無年金障害者の会 代表
 当時の所属はNPO法人となっていました。全国の無年金障害者と手を取り合い、新潟での学生無年金障害の訴訟を起こしている最中でした。この訴訟を通してさまざまな弁護士さんと知り合いになれたといいます。「負けて勝つ」 国を相手にする社会保障の裁判は、裁判では負けるが、その後に制度は変わることがあるという話、新鮮でした。
 http://www.tcct.zaq.ne.jp/munenkin/niigata-kousaikiji.html

そして今回、第188回 2011年10月12日 
  「NPO法人から社会福祉法人へ 〜 自立生活福祉会、今からここから」
    遁所 直樹 社会福祉法人自立生活福祉会 事務局長  
 障がい者が主体となって活動することを旨とし、障がいを持っても最後まで地域で暮らし、当たり前の暮らしができるように支援する社会福祉法人を設立したということです。
 社会福祉法人自立生活福祉会ホームページ
 http://blog.canpan.info/jiritsu/

 学生時代の頚椎損傷による四肢麻痺という重い障がいは、遁所さんに大変な苦痛と努力を強いたのみでなく、社会的弱者のために頑張るという大きな目標を与えてくれたのだと思います、いや信じます。  そんな彼をリスペクトし応援したいと思います。遁所さん、ますますの活躍を祈念しています。



平成23年9月14日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第187回(11‐09月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「患者から見たロービジョンケア―私は何故ロービジョンケアを必要としたのか?」  
講師:関 恒子 (長野県松本市)
 今回の勉強会の一部は、「新潟大学工学部渡辺研究室」と「新潟市障がい者ITサポートセンター」のご協力により、ネット配信致しました。今回も全国の数か所でアクセスがありました。
 下記のいずれでも視聴できます。
  http://www.ustream.tv/channel/niigata-saiseikai
  http://nitsc.eng.niigata-u.ac.jp/saiseikai/
 録画はしておりません。当日の視聴のみ可能です。
【講演要旨】
1) 始めに
 私は両眼に黄斑変性症を持っている。1996年先ず左眼に、その10ヵ月後右眼にも異常を自覚し、近視性血管新生黄斑症と診断された。1997年左眼に強膜短縮黄斑移動術、1999年右眼に全周切開の黄斑移動術を受けている。術後はかなりの視力の改善が見られたが、合併症と再発のために入院手術を繰り返し、現在は網膜萎縮の為に視力が徐々に低下している。治療はないが、今も通院検査を続け、時折ロービジョン(以下LV)ケアを受けている。
 医学的治療からLVケアへの過程、LVケアが私に果たしてきた役割、その中で気付いた点等を自身の経験を紹介しながら述べてみたい。
2) 医学的治療からLVケアへ
 治療の結果はどうあれ、医学的治療を受けられることだけでも患者には救いとなる。患者は医学に見放されることが何より辛く、私の経験でも視力低下が進行する中、経過観察だけで過ごした1年間が最も辛い時期であった。患者はLVケアやリハビリよりも、先ず医学的治療による回復を強く願うので、LVケアやリハビリに至るまでにはある程度の期間が必要である。
 私が始めてケアを受けたのは、治療が一段落して落ち着いた日常生活を取り戻した頃で、発症してから約4年後だった。手術後視力は改善したものの歪み、暗視野、コントラスト感度の低下、両眼視ができないこと等から不便さを感じ、よく失敗もしていたので、ケアの必要性を自らが感じるようになっていた。
3) LVケアが私に果たしてきた役割を整理してみる
 1.現在様々な視覚補助具があるが、それらについての情報を与えられたことによって、視力低下が進行しても大丈夫という安心と自信が生まれた。
 2.視力低下の進行に応じた適切な補助具の選定を助けてもらうことによって、日常生活を維持させることができ、これが他人に甘え過ぎるのを防いでくれた。
 3.視力が低下すると聞いた時、いろいろな事ができなくなると思い、自分の将来に希望をなくしたものである。できなくなった事は確かにあるが、今まだ殆どの事ができている。活動の幅を狭めないようにし、充実した人生を可能にしてくれたのがLVケアである。
 4.医学的治療だけを受け、病気と必死で戦っていた頃は、LVケアを受ける程悪くなりたくない、それを受ける時は回復を諦め、将来をも諦める時だと思っていた。だが今は自分の人生を諦めない為にLVケアがある。
4) どれだけの人がLVケアを知り、活用しているか
 LVという語自体、一般の人だけでなく、眼科の患者にさえ認知度が低い。私の調べた限り英語圏の外国人(医学関係者でない)も誰もこの語を理解しなかった。又地元の病院を訪れた際、電子ルーペを使っていた私の周りに眼科の患者とその家族が集まってきたが、誰も電子ルーペを知らず、その病院にはLV外来が標榜されているにも拘らず、それが何の為の場所か誰も知らなかった。  LVケアの必要性とその重要性がもっと理解され、多くの人が活用できる場所であって欲しい。
5) 私が受けてきたLVケアの中で気付いた疑問や問題点
 1.拡大鏡選びの原則に対す疑問
 拡大鏡選びはできるだけ広い視野を確保する為に文字が読み取れるうちの最低の倍率のものがよいとされる。この原則に従って購入した拡大鏡は、私の場合実生活の中では殆ど役に立たなかった。家の中の様々な条件下での使用を考えると余裕のある倍率の方が有用である。長文を読むにも疲れが少ない。私見では原則よりも個々の状態や主に何に使うのかで選ぶほうがよい。
 2.拡大読書器
 私の知人は給付金で拡大読書器を購入したが、全く使用していないと言っている。使用中気分が悪くなる、又使用してもよく読めないからだそうである。使用法を習熟することによって有用にすることができるのではないだろうか。
 私程度の低視力者(障害未認定)にはかなり有用と思うが、20万円前後で高額である。拡大読書器よりはるかに安価な電子書籍リーダーやiPod等にもっと視覚障害者を意識した機能(拡大倍率をもっと大きくする等)を付加することはできないだろうか。
 3.製品の個体差
 補助具を購入する際、他の機種との比較はできるが、同機種同士の比較はできない。その為個体差に気付かず、粗悪品を購入してしまう事がある。私自身正規品より劣る機能のものを購入し、知らずに使っていた経験を持つ。又正常使用での故障の多さも気になる。
6) 終わりに
 視力の低下を告知された時、失明した場合のことやこれから先できなくなる事ばかりを考えたものだが、やがてまだできる事がたくさん残っていることに気付いた。どんな境遇においても、人は自分に残されたものに希望を託して生きるより仕方がないと思う。
 私は今自分に残された視力を最大限に活用し、人生を豊かにしようと努力しているつもりだが、この努力を支えてくれているのがLVケアである。LVケアがもっともっと普及してくれることを願っている。

【追記】
 関さんには、これまで2度お話して頂いています。
 第135回(07‐06月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会
  演題:『「見える」「見えない」ってどんなこと? 黄斑症患者としての11年』
  講師:関 恒子(患者;松本市)
    日時:平成19年6月13日(水)16:30 〜 18:00 
    場所:済生会新潟第二病院 眼科外来  

 第163回(09‐09月)済生会新潟第二病院 眼科勉強会
  演題:「賢い患者になるために
   −視力障害を伴う病気を告知された時の患者心理、及び医師との関係の中から探る」
  講師:関 恒子(長野県松本市;黄斑変性症患者)

 これまでの講演もそうですが、今回もまた患者の気持ちが良く判るようにお話して下さいました。以下の言葉が印象に残っています。
 「悪くなるのに、何もしないことが辛い」、「医者に見放されるのが怖い」、「ロービジョンケアもいいが、やはり治ることを期待している」、「ロービジョンケアを受け入れるには、ある程度の期間が必要」、「視力は改善しても、日常生活は不便」、「ロービジョン者(低視力者)は、周囲の人に理解されにくい」

 勉強会に参加された方から、以下の感想も届いています。
1)関さんのお話は、前向きな気持ちばかりでは無かった事に共感しました。何の病気でもそうですが、医師に「治療法が無い」と言われた時の絶望感たるや、想像するだけでも恐ろしいです。勉強会で話した(自分の)「見え方」を伝えるのは、家族やごく一部の親しい知人だけで、誰にでも言える訳ではありません。家族にも心配をかけまいとして、なかなか言えない方もいる様です。一緒にいる時間が多い人にこそ伝えるべきだと感じます。
2)病気となってからの絶望、容認、順応という過程の中で、順応という部分でのプラス思考に感銘を覚えました。できないことよりもできることを積極的に探され、フルートやドイツ文学に興味をもたれ、活動していることは大変素晴らしいと感じました。また、視野や視力が悪くなってくることを想定して今できること、これからできなくなりそうなことを考えて行動されていることも大変素晴らしいと思いました。  多数の補助器を購入され、お試しになられているということをお聞きしましたが、同機種での個体差(バラツキ)が多々あるということに驚きました。手作りが多いためでしょうか?ユーザーに取っては厄介なものであると思いました。
3)障碍者として認められないで過ごす日々は色々な面で大変だと思います。だからこそ、ご自身が探し出されて切り開かれた人生に素直な敬服感を抱きました。何もしてもらえなかった一年間、治療での苦闘の三年間とご自身がつけられた決断。少しづつ低下する視力の八年間。期間こそ違え私にもあった日々です。

 関さんがご自身の経験を理詰めでお話して下さるので、私たちにとっても理解することが可能となり、視覚に障がいを持つ方にも共感を得ているようです。  関さん、今後もお話を聞くことが出来る機会を持ちたいと思います。宜しくお願い致します。



平成23年8月10日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第186回(11‐08月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「災害!そのとき、そして、その後ー視覚障がい者の心理的反応とその対応ー」
講師:田中 桂子 (橋村メンタルクリニック カウンセラー;神戸市)
 今回の勉強会の一部は、「新潟大学工学部渡辺研究室」と「新潟市障がい者ITサポートセンター」のご協力により、ネット配信致しました。東京・大阪など全国で20数名のアクセスがありました。
 下記のいずれでも視聴できます。
  http://www.ustream.tv/channel/niigata-saiseikai
  http://nitsc.eng.niigata-u.ac.jp/saiseikai/
 録画はしておりません。当日の視聴のみ可能です。
【講演要約】 
 災害時のキーワードは「日常が奪い去られる」である。  演題では「視覚障害者の」としたが、災害がもたらす心身の反応や目に見えないことを想像で埋める心の働きは誰にも共通する。したがって、まず人間一般の反応を述べ、その後、視覚障害者に特化した問題に触れる。
 援助の目的は「災害直後は茫然自失でも、やがて心身が再起動して、自らの力を発揮できるようになる」ことである。「今何を投入すればよいか」を考えながら活動することが大切である。また、どんな人でも、援助を受けるだけの立場になると無力感に襲われる。役割が得られることは自己効力感の回復・維持に役立つ。
 大災害=PTSD(注)と考えがちだが、専門機関の調査では日本での発症率は2〜3%、診断・治療も専門機関で行われる。我々一般に重要なのは初期対応である。このとき、近しい人を目の前で失ったり、損傷のひどい遺体を見た人へは目配りを。
 (注)PTSD
 PTSDとは、何か脅威的なあるいは破局的な出来事を経験した後、長く続く心身の病的反応で、その出来事の再体験(そのことをありありと思い出すフラッシュバックや苦痛を伴う悪夢)が特徴的です。通常はショックな出来事を体験しても時間の経過とともに心身の反応は落ち着き記憶は薄れていきますが、あまりにもショックが大きすぎる時や個人のストレスに対する過敏性が強い時、小児のように自我が未発達な段階では、大きな障害を残すことがあります。
T 災害時、人間におこる一般的な反応とそれへの対応
1.急性期(直後から2〜3ヶ月まで)
 非日常がもたらすハイな状態から、連帯感が生まれる。阪神大震災時には、例えば自分の体調を押しても近所の高齢者の水くみを手伝ったりなどがあったと聞く。また、断続的な余震で最初の一撃の体感や恐怖が蘇り、「まだ災害は終わっていない」気持ちが誘発される。
この時期の対応のポイントは「予防的観点」。初期のケアが将来の心身の不調の予防になる。ここでいうケアとは、被災者の安心・安全感の確保と生活ストレスの軽減を目指した援助を指す。援助者は「今必要なこと」を随時アセスメントし、実効的な援助(例:トイレの清掃、諸申請や外出の付き添い、乳幼児の世話など)を優先する。また一過性のPTSD様症状が出現した場合、異常な状況での当然の反応であることを説明する。ハイな状況でどこまで事態を乗り切れるかを見極めるには第三者の目が必要である。この時期、被災体験を無理矢理語ってもらうのは禁忌であり、相手の語りを促進しないこと。語ることによる傷つきに配慮し、誰しも人間には辛さを内に抱え持ちこたえる力が備わってることを信じることが大切である。
2.幻滅期(災害後数ヶ月後以降)
 復興が始まり、インフラ整備が優先され、被災者個人の困難が後回しにされやすくなる。表面上は災害の痕跡が消えるが、被災者や被災地の個々の事情による格差が拡がり、問題が個別化する時期である。この時期の対応のポイントは「孤立無援の防止」。孤立化は人を無力にし生きる力を奪っていく。人と人とのつながりの刺激によって人は自分自身をエンパワーすることができる。具体的には、仮設住宅でのコミュニティ作り、地域自治会の復活、遠方避難者へのアクセスなどが考えられる。
U 視覚障害者に特化した問題
 当人が視覚障害者であることをオープンにできない場合もある。人に知られたくない場合には、災害が起きてもその気持ちはすぐには変らないようだ。障害を補うには何があれば便利か、安心して生活できるかを提示する。補装具を紹介する場もあればよい。
 情報に関しては、その手段の確保が重要である。ラジオ、パソコンなど、当人が日頃なじんだ機器の手配を行う。避難所では情報は多くが掲示でなされる。それを音声でも提供する配慮が必要である。今回の震災でも各自治体などが行う支援が、必要な人に届きにくくかったようだ。「支援要請が可能な機関」「二次避難所の受け入れ状況(障害よって優先順位がある)」「避難先(遠隔地を含めた)でのガイヘル利用」など、災害弱者に特化した情報の周知が大切である。
 新しい環境になじむためのトレーニングもほしい。その際、手伝ってもいいなと思う人に参加、見学してもらう、というのはどうだろうか。障害者の生活サポート役には中学生くらいが適当かもしれない。小学生には負担が大きすぎ、高校生になると事柄に構えが出やすくなるからだ。更に、当事者への支援だけでなく、晴眼者への社会的教育も必要であろう。例えば「視覚障害者≠全盲で、残存視覚のある人も多い」「外目には普通のようでも実際には見え方にハンディがある人がいる」「ロービジョン者の見え方は個別性が高く、勝手で見えたり見えなかったりすると誤解されたりする。全盲の場合と比べると、見えにくいことを他人に伝え、また他人がそれを理解するのは至難の業である」。
V ロービジョン者からの提案
 「白杖を失うと自分を証明する物がなくなる」「避難所生活を想像したときに一番の心配はトイレ。地震の後、自治体に確認し、優先順位はあるが福祉施設に避難できると知り安心した」「見た目でわからない障害の場合、自分の状態、できることできないこと、ヘルプしてほしいことを書き込む自己紹介ノートがほしい」「物が散乱した中で必要な物を探すのは至難の業。緊急持出し袋を常備する」「近所の人との日頃のコミュニケーションが大事。見えにくいことを伝えておく」「ラジオの情報も大切だが、住んでいる地域の情報がほしい」「音声による情報提供の工夫が欲しい」「事後の片づけが大変。手伝ってくれる人がいると助かる」
W 講演要旨をまとめてみて
 隣近所とのコミュニケーションや自分の障害を前もって伝えておくことの大切さをフロアの多くの方々が主張された。この点は演者が葛藤を喚起される部分である。聴衆の大部分は自由に自己表出できる方々で、そこにコミュニケーションや情報開示の話を持ち出すのは釈迦に説法。視覚障害者一般に、いかにしてこの言葉を届けるか、が課題であろう。
 また、今回提案したことを実施する主体は誰か、というテーマがある。これが一番大きな問題であるような気がする。今回の勉強会で私は改めて自分自身のこととして「言うは易く、行うは難し」を実感した。
【略歴】(2011年6月現在)
 1960(昭和35)年 兵庫県生まれ
 1983(昭和58)年 関西大学法学部法律学科 卒業
             2年間の法律事務所勤務を経て、
 1988(昭和63)年〜配偶者とともに司法書士事務所を経営、経理・労務担当者として、現在に至る。
          上記業務と平行し、1998(平成10)年から、心理臨床のトレーニングを開始。
 2007(平成19)年 カウンセラー資格取得
          *カウンセラー適任証((財)関西カウンセリングセンター認定)
          *産業カウンセラー((社)産業カウンセラー協会 認定)
 2005(平成17)年〜橋村メンタルクリニック カウンセラー
 2007(平成19)年〜(財)関西カウンセリングセンターこころの相談室カウンセラー
 2008(平成20)年〜神鋼ケアライフ(株) 産業カウンセラー
 2011(平成23)年〜(財)先端医療振興財団 先端医療センター再生医療研究開発部門 視覚再生研究チーム 客員研究員(心理カウンセラー)

【後記】
 今回の東日本大震災では「未曽有」とか「想定外」という言葉がよくつかわれた。しかし過去の事例を調べてみると、100年1000年単位でみると、大災害は必ずやってきます。
 歴史的大津波 
869年(貞観) 貞観地震     水死約1000人
 1611年(慶長) 慶長三陸地震  死者5000人
 1707年(宝永) 宝永地震     死者約20000人
 1771年(明和) 八重山・宮古の津波    水死12000人
 1854年(安政) 東海地震・南海地震    死者5000人
 1896年(明治) 明治三陸地震  死者22000人
 1933年(昭和) 昭和三陸地震  死者・不明3000人
 1944年(昭和) 昭和東南海地震 死者・不明1200人
 1946年(昭和) 昭和南海地震  死者1300人

 「天災は忘れた頃にやって来る」で有名な寺田寅彦氏(東京帝国大学理科学教授;1878年-1935年)は、「地震雑感/津浪と人間」で以下のように記しています。
 吾々は、平生あまりに現在の脆弱な文明的設備に信頼しすぎているような気がする。たまに地震のために水道が止まったり、暴風のために電気やガスの供給が断たれ、狼狽することがあっても、しばらくすれば忘れてしまう(直後に関東大震災;大正12年)。
 だからといって、日本中の河川や海岸線を、10mを超える防波堤で埋め尽くすのは如何でしょうか? どんな防波堤を作っても、自然の力は人間の想像をはるかに超えていることもこれまた明らかです。
 「まずは助かってよかった。ご飯が食べることができてよかった」 日本糖尿病学会(札幌5月19日)の緊急シンポジウム「災害時の糖尿病医療」で、熊坂義裕 (医療法人双熊会理事長/前宮古市長)が語りました。「避難所は炭水化物中心(おにぎりやカップめんなど)、お菓子、缶詰の宝庫だった。そこでは食事の選択の余地がない。周りへの気兼ねからつい全部を食べてしまう。こんな患者に対して熊坂氏は、基本的には何も言わなかったという。身内の遺体捜索をしている患者の血糖値が悪くても、薬を飲み忘れても、食事制限を守れなくても、運動をしなくても、何も言わなかった。震災現場の現実に、『血糖コントロールや合併症の予防は、平時に価値を持つもので、有事にはなんら意味をなさない』ことを思い知らされたからだと述べていました。
 東日本大震災の検死や遺体の身元確認などに携わった出羽厚二氏(岩手医大法医学教授;新潟大学出身)によると、亡くなられた多くの方は下着を何枚も重ね着していたと言います。避難生活が長期に及ぶことを考え、準備を整えてから逃げ、その結果逃げ遅れたのではないかと語っています(新潟日報9月10日朝刊)。とにかく、まずは逃げること、助かるかることが重要。現代の日本社会は、死を忌み嫌う風潮がり、死から学ぼうと言う発想がないと語ります。
 大災害に真っ向から挑む「防災」ではなく、「減災」が大事ではないでしょうか? そして平時より、災害についての意識を持ち続けることが、必ず来る災害に対する準備であると思います。



平成23年7月20日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第185回(11‐07月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会「新潟盲学校弁論大会イン済生会」の報告です。
今回の勉強会の一部は、「新潟大学工学部渡辺研究室」と「新潟市障がい者ITサポートセンター」ご協力により、ネット配信致しました。50数名のアクセスがありました。
1)落語
  演目:「転失気」 「二人旅」
  演者:たら福亭美豚 (たらふくていヴィトン;新潟盲学校小学部6年)
 自己紹介
 僕は、新潟盲学校小学部6年の加藤健太郎です。僕には、もう一つの名前があります。落語で、高座に上がる時の高座名、たら福亭美豚です。小学部2年の時の文化祭で、始めて大勢の人の前で発表してから、デイサービスや自治会で高座をさせてもらっています。昨年には、新潟県内を中心に活躍されている、落語家さんと出会うチャンスをいただき、たまに稽古をつけてもらったり、寄席に上がらせてもらっています。僕の落語を聞いて、たくさん、笑ってください。そうすると、僕も、楽しい気分になります。
2)盲学校弁論大会イン済生会
 1.「震災を通して」 
            丸山 美樹(まるやま みき)  専攻科理療科2年
 3月11日東日本大震災がおきました。その日は卒業式で、私は学校から帰ろうとしていた時でした。突然の揺れに驚き、大きくて長い揺れと学校が少し音を立てながら揺れていることに怖さを感じました。
 震源地は宮城県沖、宮城県震度6、東京も火がでたところがある、そう聞いて不安な気持ちが溢れました。私には宮城県や岩手県、東京にも友達がいたからです。学校から帰ってきて見たテレビには宮城県や岩手県の地震の被害の映像が流れていました。私がそれを体験したわけでもないのに泣きそうになりながら震源地に近い場所に住む友達にメールや電話をしました。
ほとんどの子からは大丈夫だと遅くなっても返事はきましたが、ただ1人岩手県の子と連絡がつきませんでした。テレビにはその子がすむ宮古市の地震と津波の被害の映像が、不安を煽るように何回も流れていました。どうか無事でいて、そう願いながら連絡を待つしかできませんでした。待っている不安の中、緊急地震速報の鳴る音やテレビの映像が流れる度、怖くて不安が増していきました。
 こうやって怖がるだけで自分は何もできないのが、とても悔しかったです。被害を受けた場所の友達からくるメールに大丈夫だよと言葉をかけてあげるだけでした。傍にいてあげたいなと思うだけで何もできない自分は、とてもちっぽけでした。
そんな自分の小ささ無力さを実感する中、連絡がつかなかった岩手の友達からメールが届きました。安心から涙がでました。涙で滲んだ液晶画面には怪我は少しあるが大丈夫、あなたの言葉でがんばることができた、「本当にありがとう」そう書いてありました。
 何もできていないと思っていた私には、そのたった一言のありがとうが嬉しくて嬉しくて、さらに涙が止まらなくなりました。私のつたない言葉が誰かの心を支えることができました。
 今回のこの災害を通して言葉の力、言葉の大切さをとても実感できました。今まで何気なく使っていたありがとうを、これからはしっかりと伝えていきたいなと思いました。
 (弁士紹介)
 専攻科理療科で国家試験に向けて勉強を頑張っています。写真を撮ること、音楽を聴くことと歌うことが好きです。部活では、バレー部、野球部、自然部など7つの部活に所属し色々な活動に参加しています。6月には北信越盲学校バレーボール大会と北信越盲学校野球大会に参加してきます。自分ができることを精一杯頑張ってきます。
 2.「過去・今・将来」 
            笠井 百華(かさい ももか)中学部3年
 「だから障害者はやなんだよ!」 何でそんなことを言われるのか、悲しくなりました。小学校の時、クラスの皆や他の学級の人たちから避けられるようになりました。変な噂が流れ「あいつに近づくと汚れる」「あまり関わらない方がいいよ」と言われ、仲の良かった友達が私の周りから離れていってしまいました。私が話しかけても無視をされたり、物を隠されたりしたこともありました。私の目が少し見えにくいというだけで、どうして無視されたり、嫌な思いをしたりしなければならないのだろう。視覚障害があっても同じ人間なのに、とても悔しかったです。
 中学校に進学するに当たり、私は新潟盲学校中学部に入学しました。周りの人から見た盲学校の生徒は、勉強内容が簡単、人の介助が必要なイメージがあるかもしれません。私もこの学校に来る前は同じようなイメージがありました。人数も少ないし、友達が出来るかなって思っていました。
 でも、実際は違います。盲学校には、幼稚部から高等部あります。しかも、私の父よりも年上の人も真剣に学んでいて、色々な人たちと年齢を超えてお話が出来ます。例えば、勉強のやり方や部活動の悩み事など、深刻なことから、芸能人や学校の話まで、気軽に話が出来ます。中学部の皆とも仲良くなれたし、年上の高等部の方々とも、何でも話せる仲間がたくさん出来ました。このような仲間が体育祭や文化祭などでは、一つになって行事を盛り上げます。
 勉強もわかりやすくなりました。拡大教科書やルーペ、拡大読書器などを使えば、以前は細かくて見えづらかった字も読みやすくなりました。点字を使って勉強する人もいます。見えにくい人には、スポーツは何も出来ないと思われがちですが、フロアバレー、グランドソフトボール、陸上などたくさんのスポーツがあります。音や床面、方向などを頼りにしながら競技しています。 
 新潟盲学校でも運動部が沢山あります。私は小学校の時は球技が好きではありませんでした。しかし、フロアバレーをやって初めで球技が楽しいものだと知り、好きになりました。だから私は部活動でフロアバレーをしています。いま、中学校生活を振り返ると、新潟盲学校に入学して良かったと思います。話せる仲間もでき、勉強もわかりやすくなり、部活動で汗を流し、充実した毎日を送っています。
 将来私は、小学校の頃の自分のように、困っている人たちを助けられる人間になりたいと思います。そのためには、私に出来ることを増やしたり、人間的に成長して人を思いやる優しい心を身に付けたりしたいと思います。もっと人間らしく大きく成長したいです。障害のある人もない人も、お年寄りや子供など年齢に限らず、みんなで助け合っていく社会にしたいです。その社会の実現を目指して頑張っていきたいです。
 (弁士紹介)
 私は、バレー部に所属し毎日練習をがんばっています。富山で行われる北信越バレーボール大会にも参加しました。初めての遠征で、とても楽しかったです。万代太鼓部にも所属していて、夏休みには新潟まつりに参加する予定です。部活動に勉強に毎日が充実しています。学校生活の中で悩むこともあるけれど、大切な友人がいるので頑張れます。中学校生活最後の年、思いっ切り何事も取り組みたいと思います。
 3.「決意」 
      樋口啓太郎(ひぐち けいたろう) 本科保健理療科1年
 私は新潟盲学校へ入学する直前の3月まで日本料理の調理師として20歳から約15年間働いてきました。しかし、振り返ってみると、まともに仕事ができていたのははじめの六年くらいだったのかもれません。それ以降はだんだんミスが多くなっていました。
 初めは、自分のミスが目のせいだとは気がつきませんでしたが、異常に気づき、病院で検査をしたら網膜色素変性症と診断されました。そこでどういう病気なのか説明を受けましたが、当時まだ車の運転ができた私にはこの病気の恐ろしさがリアルに伝わってきませんでした。まだ大丈夫と自分に言い聞かせながら、周囲の人には「少し目が悪くなっただけ」とごまかして仕事をしていました。しかし、病気の進行とともに、自分でも仕事に支障が出てきていることを感じずにはいられませんでした。以前はなんなくできていた仕事が、一つ一つ難しくなっていったのです。手元の細かい作業、微妙な火加減の調整、鍋がまっすぐ置けなくて失敗したこともありました。32歳の頃、勤めていた店の廃業をきっかけに別の会社で働くことになりました。
 ところが、その新しい気持ちで入った会社では、すぐに目が悪いということが見抜かれてしまいました。そのせいなのか、ミスをすると頭ごなしに怒られ、年もキャリアも下のものにまで仕事のできないヤツだと見下され、私のプライドは粉々になりました。悔しい、もどかしい、歯がゆい、腹立たしい・・・様々な思いに苛まれましたが、私は何を言われても笑って我慢をしました。私には家族がいます。妻と娘たちに不自由な思いはさせられません。ほかに働く場はないことも自覚していた私は、少しでも給料をもらえる現状にしがみつくしかなかったのです。心配をかけたくないという思いから、家族にもこのことは打ち明けられずにいました。本当につらい毎日でしたが、家族のためと思えば我慢できました。
 そして、2年と2ヶ月が過ぎた昨年の6月のことでした。会社の上層部に呼び出されました。「給料を半分とします。夜の営業にも出ないで帰ってください。」事実上の戦力外通告です。突然のことに私は悩みました。そして初めて妻に今までの職場でのことを打ち明けました。妻は驚き、そして私以上に悩んだと思います。私の病状はこの先どうなるかわからず、これからの生活、子供たちの教育などの計画は、すべてがいきなりの白紙になってしまったのですから。
 二人で悩んで出した結論は、まず障害者手帳を取得しようということでした。それまで私は手帳の取得に抵抗がありました。自分の人生が大きく変わってしまうような気がして、怖かったのです。しかし、収入が半減し、行政の福祉サービスを受けて生活するしか道がないと考えたとき、ようやく自分の現状と向き合い、将来について現実的に、そして前向きに考えることができるようになりました。つまり、残りの人生を障害者として生きていく決意をしたのです。
 そして数日後、私は新潟盲学校に電話をかけ、見学と相談に伺いました。何年も学校からは離れていた私には、勉強についていけるのか、不安はありましたが、視覚障害者が自分で収入を得られ、自立して生活していくためには、専門技術が絶対に必要だと考え、入学する決意をしました。この二つの決意が足がかりとして、私はこれからの人生を切り開いていきたいと思っています。
 実は、私の心の中には新しい決意が芽生えています。妻を始めとする家族、私を支えてくださったいろいろな人に精一杯の恩返しをすることです。今の私があるのは周囲の人々のおかげだからです。中でも私の不安や相談に親身になってくれた理療科の先生には深く感謝しています。もし私に能力があるのなら先生方のようになって私のように目に不安を抱えている人の手助けがしたいと考えています。
 (弁士紹介)
 年齢は8月で36歳になります。趣味は特にありませんが、子どもの成長が楽しみです。学校の代表として関東地区弁論大会(平塚)に参加してきました。目が不自由ということで苦労した人、それにも負けない意識を持った人の弁論を聞き、私自身の生き方を考えさせられることも多かったです。

【後記】
 ここ10年、本勉強会で毎年7月に盲学校弁論大会を行い、毎回、多くの感動を貰っています。
 たら福亭美豚(たらふくていヴィトン)師匠は、前にも登場して頂いたことがありましたが、今回は変声期を迎えていました。しかしカスレ気味の声をテクニックでカバーするほどに、立派に成長していました。多くの人に笑ってもらえることが自分の喜びという思いに溢れた語りでした。笑顔と笑いは人の心を明るくします。
 丸山美樹さんの弁論は、優しさや繊細さに溢れていました。「ありがとう」の言葉をこれからも伝えて下さい。応援します。
 笠井百華さんは、明るい中学生でした。障がいのために受けた悔しさ、盲学校で生き生きと勉学に部活動に励んでいること、、、弁論を聞きながら、頑張れ!とエールを送りました。
 樋口啓太郎さんの弁論は、これまでの想いとこれからの決意を語りました。語り口調からもぐっと来るものがあり、ぜひ盲学校の教員になるという夢を実現させて欲しいと願いました。
 弁論大会では、盲学校の生徒さんの決意を聞くことが出来ます。それに対して私たちは何もしてあげられないのですが、「証人」としてその決意をお聞きすることは出来ます。今回も弁士の皆様の決意をしっかりとお聞きしました。私たちは、その夢がかなうようことを応援します。
 今回は、「新潟大学工学部渡辺研究室」と「新潟市障がい者ITサポートセンター」のご協力により、初めてのネット配信を成功させることが出来ました。今後も配信の予定です。ただ、、、ネットでも参加できますが、都合の付く方は、会場まで足を運んで講師との話し合いに参加して下さると嬉しいです。



平成23年6月8日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第184回(11‐06月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「口腔ケアからエンゼルオーラルケアへつなぐ」
講師:宮沢 玲子 (済生会新潟第二病院 医療安全管理室)
【講演要約】 
T.知ってほしいお口の話 
 歯科は、歯・口腔・顎・頸・顔面の領域をカバーしています。機能として、1.食べる(摂食嚥下) 2.しゃべる(構音) 3.笑う(表情) 4.おいしい(感覚) 5.唾液(分泌)の五大機能があります。
 口腔内常在菌として1g中450種類以上数億個以上の細菌が常在しています。口の環境は歯、歯周ポケット、入れ歯や差し歯などの人工物など凹凸があり、温かく栄養が豊富な細菌が増殖、付着しやすくなっています。
 歯の病気の大部分は虫歯と歯周病(歯槽膿漏)です。この二つは細菌の種類こそ違いますがともに、細菌の塊である歯垢(プラ−ク)が原因で起こります。虫歯は、歯の表面についた細菌が、エナメル質に付着して酸を作り出し、エナメル質を溶かすことで始まります。歯周病は、歯垢や歯石がある事によって歯肉が赤く腫れたり、歯磨き時に出血したり膿が出たりといった症状が出てきます。さらに歯槽骨が溶ける事で歯肉が下がったり、歯がぐらぐらして、ついには抜け落ちたりしてしまいます。
 口腔内細菌は口腔内に留まらず血液を通して、糖尿病・誤嚥性肺炎・動脈硬化・心筋梗塞・早産・低体重出産・脳梗塞・インフルエンザ等全身疾患と関係すると言われています。また歯周病の罹患は若年からみられ30代後半には8割以上になり国民病とも言われています。
U.どうすれば良いのでしょう
 簡単に出来る解決方法があります。それは“口磨き”です。歯だけを磨く「歯磨き」ではなく、歯茎、頬粘膜、舌、上顎を歯ブラシで口の中全部を磨きましょう。そして、少しでも症状がでたりしたら早めに歯科受診をしたり、定期的な歯科検診で早期発見、早期治療を受けましょう。歯は歳をとることで悪くなるものではありません。
V.当院の口腔ケア
 口腔ケアの依頼件数は年平均250件ほどで、訪問歯科依頼は年間約150件です。依頼診療科はほぼ全科となっていて、内容は口腔清掃(術前・術後)、口腔乾燥、化学療法ケア、食道癌の手術の場合は術前ケアからはじまります。そして食事中のムセ、食事開始の評価など嚥下訓練もあります。食欲不振もありました。口腔ケアは蒸しタオルで顔面マッサージから始まり、歯ブラシで口腔清掃と進みます。必要に応じて嚥下訓練も行います。
W.エンゼルオーラルケア
 口腔ケアの関わりの中で、その患者さんとのお別れを経験することがあます。亡くなった患者さんへの口腔ケアで、義歯を持たない患者さんが目立ちました。義歯があったなら、さらに穏やかな面影で送ってあげられる、、、、そんな思いから、亡くなった方への簡易型の義歯の作製と口腔の整容を試みました。
エンゼルケアは主に看護師が行う死亡後の全身清拭ですが、最近はご家族の希望で入浴、メイク、故人愛用の衣服着用も施されています。
X.エンゼルオーラルケアの実際
 簡易型義歯は上顎前歯のみです。簡易型義歯の作製に関して、あらかじめ主治医・看護スタッフに了解をえておきます。そして、エンゼルケアの場で、ご家族が簡易型義歯作製を希望した場合に義歯作製を開始します。口腔ケアを含め所要時間は10分程度、その内簡易型義歯装用は3分程度です
。実際にエンゼ ルオーラルケアを終えご家族に見て頂いたとき、ご家族からは「入れ歯が入るなんて考えてもみませんでした。良い顔になってよかったです」など喜んで頂けました。
Y.終わりに
 闘病で苦しんでいる患者さんやご家族に、「義歯を作りませんか?」などの声かけは難しいです。生前からの口腔ケアを通して、ご本人そしてご家族との関係作りが大事です。亡くなった患者さんを自然なお顔で見送ってあげる努力もまた医療の一部であっていいと思います。死を迎えることも、エンゼルケアも患者さんと家族と医療者で紡ぐ物語の最終章です。その時に歯科衛生士として、これからもお手伝いができたら良いなと考えます。

【略歴】
 1972年 3月 歯友歯科高等専門学校卒
 1972年 5月 済生会新潟病院 勤務
 2001年 4月 歯科衛生士として口腔ケア業務開始
 ※ その他資格 
   介護支援専門員、健康咀嚼指導士、嚥下トレーナー歯科衛生士

注) エンゼルケア(エンゼルメイク)
 一般に死化粧と呼ばれるものですが、故人を美しく着飾るお化粧ではなく、今生での最期の姿にふさわしい姿になるために、看取りに携わる者が手助けをするケアです。  現在は、ほとんどの方が病院等の医療機関で病死しています。特に最近は医療技術の発達もあり、闘病期間が長くなっているせいか、元気な頃とは容貌が著しく変化していることが少なくありません。またお風呂に長く入れなかったり、髪を洗えなかったり、着衣が乱れたりしていることで清潔感を失い、その方の人格が否定されかねないようなだらしのない姿で旅立ちを余儀なくされることもあります。
 エンゼルケアの目的は、一生懸命人生を生き抜いてこられた方の最期の姿が、人生を台無しにしかねないような哀れな姿で人格や尊厳を損なうことにならないように行うための処置です。

【後記】
 前半の口腔ケアのお話、そして後半のエンゼルオーラルケアのお話、とても印象的でした。  歯科領域と健康、「歯磨きでなく、口磨きが重要」口腔ケアにてかなり正常化し顔の表情まで変貌したケースの紹介。「口腔ケアという生前の関わりがあってのエンゼルケア」。亡くなられた方の口腔に対するエンゼルケアのくだりは、映画「おくりびと」を連想しながらお聞きしました。
 歯は年を取ると悪くなるのではない、日頃の口磨きと定期的な歯科検診が重要であるとの指摘、納得でした。講演を聞かれた方から、早速口磨きを家族とともに実行されているというメールも頂きました。
 私事ですが、昨年1月に85歳の父を亡くしました。最後のお別れで棺桶の中の父の顔は、入れ歯もなく頬がこけていたのを思い出しました。 悔やまれます。
 宮沢さんのお仕事、素晴らしいと感動しました。このような方が同じ病院で働いておられること、誇りに思います。尚、宮沢さんは昨年、当院で目立った活動をされた方に贈られる賞である「済生会会長賞」を受賞されたことを、申し添えます。



平成23年5月18日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第183回(11‐05月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「初めての道を歩く」
講師:清水美知子 (歩行訓練士;埼玉県)
【講演要旨】
 「道」という語には、「人が歩く空間」と「ある地点とある地点を結ぶ道筋(経路、ルート)」の意味がある。ここでは街の中の道と経路について考える。日常生活で「初めての道」に遭遇する状況には、行ったことのない場所へ行く時、初めて来た場所から家へ戻る時、引っ越しや転勤等で生活環境が変わる時、そして少し状況が異なるが、道に迷った時などがある。しかしほとんどの場合、外出の起点と終点は自宅のため、「初めての道」も、その始まりと終わりは「よく知った道」といえる。
道をたどる 
 街の中の道(歩道あるいは路側帯)は縁石、柵、白線などで車道と民地から区分され、視覚的に明瞭である。晴眼者は、現地に立てば道の境界や延びる方向を一目で認識でき、いわゆる“けものみち”と違い、道そのものをたどることは容易である。しかし、視機能が低下すると知覚できる空間は狭まり、例えば杖を第一次歩行補助具として歩く場合、聴覚や嗅覚によって得られる情報以外で、知覚できる空間は杖の届く周囲数メートルの範囲である。初めての道で、幅、車道や民地との境界、方向等を知るためには、数メートル円単位の探索を場所を移しながら何度も繰り返すことになる。これは極めて効率が悪く、実用的な方法とはいえないだろう。
 では、情報を地図や人の説明から入手できるかというと、一般的に地図は一望することのできない広さの地理情報を示すもので、ここで重要と考える小さな空間(「近接空間」)情報を表示した地図はない。 しかも、必要な手がかりの種類や量は視機能の程度によって異なるため、他の人からの説明が必ずしも役立つとは限らない。交差点についても同様のことがいえ、形状、大きさ、交通制御の種類をその場で知ることは難しい。
経路を策定し、それをたどる
 初めての場所へ行くには、まず現在地と目的地を含む地理的環境の情報が必要となる。高台から低地にある目的地へ行く時は経路全体を一望できるが、多くの場合経路全体を見渡すことはできない。地図や人の説明から地理情報を入手し、現在地と目的地の位置関係(オリエンテーション)を確認する。視覚障害者が自身で使える地図(触地図あるいは言語地図)は、晴眼者が使う紙に印刷された地図と比べ、そこに盛られる情報量は圧倒的に少なく、経路を策定し、たどるに十分とはいえない。
 街の中の経路は基本的には単路(街区の一辺)と交差点で構成される。街区の一辺は通常数十メートルで比較的真っ直ぐであるから、次の交差点まで見通せ、晴眼者にとって単路を次の交差点に向って歩くのは容易である。そこで、晴眼者にとっての「目的地までの経路をたどる」(ウェイファインディング、wayfinding)という課題は、方向転換点(ある特定の交差点)の特定とそこでの進路(直進、右折、左折)の選択が中心となる。視覚障害者の場合、前述のように近接空間情報が乏しい状況では、気づかずに車道や民地に進入したり、駐車場への進入路を道あるいは交差点と誤認するなど、単路でもウェイファインディングの難しさがある。
現在地の更新
 経路をたどるには、目的地へ向かって歩きながら現在地を逐次更新する必要がある。沿道の街並も目じるしも実際に見るのは初めてであり、直感的に現在地を認識するのは難しい。携行した地図上の(あるいは記憶にある)道路名や交差点名と現地にある表示を突き合わせたり、通過した交差点の数と方向の転換、およびその回数から現在地を推定する。晴眼者の場合、現在地の認識は「どの道(単路)、どの交差点にいるか」であるが、前述のように単路でのウェイファインディングも難しい視覚障害者の場合、単路を外れることは珍しいことではなく、”現在地”が民地内あるいは車道内であることもある。さらに気づかずに交差点を渡っていたり、あるいは曲がっていたという事象も起き、現在地の認識・更新が困難である。
 以上のように、視覚障害者は地理情報ヘのアクセス(事前および移動中)が困難であり、眺望や現地情報(道路名,位置,道順などの表示、商店名など)が利用できないなどの理由で、利用できる経路情報は晴眼者に比べ非常に少ない。最近、触地図作成システム(新潟大学渡辺研究室)、位置情報表示(例:トーキングサイン)、視覚障害者用GPSを使った地理情報閲覧、言葉による道案内(例:ウォーキングナビ)などの視覚障害者向け地理情報提供サービスが実用化されつつある。今後晴眼者との情報格差が縮まることを期待したい。
 経路をたどるためには、その基本要素である単路と交差点のたどりやすさが重要である。民地あるいは車道との境界の明確化、車両交通との分離あるいは棲み分け、道を不法に占拠する事物の除去、道の方向を示す「線」(点字ブロックはこの一例、他にも軒先や舗装の境界が作り出す「線」がある)の作成など、歩行空間を整備することで、近接環境情報が乏しい「初めての道」でも道を失わず、経路をたどることが容易になると考える。街を歩く時、視覚障害者にとって快適な歩行空間が確保されているかという視点から、「道」を見直してみてほしい。

【略歴】
 1979年〜2002年 
   視覚障害者更生訓練施設に勤務、その後在宅視覚障害者の訪問訓練事業に関わる。
 1988年〜
   新潟市社会事業協会「信楽園病院」にて、視覚障害リハビリテーション外来担当。
 2002年〜
   フリーランスの歩行訓練士
 2003年〜
   「耳原老松診療所」(大阪府堺市)にて、視覚障害外来担当。

【後記】
 いつもながらですが、清水美知子さんの講演の時は、清水ファンが大勢参加され、今回も眼科外来に人が溢れ、会場は熱気でむんむんしていました。
 聴衆に問いかけながら進行する清水節は、今回も全開でした。講演の最初に「初めての道を歩く」と聞いた時に、どんなことを想像したかということを、参加された方々に問いかけました。学生、ヘルパー、視覚障害者、ボランティアの方々と多岐の立場の人が皆、意見や感想を述べ合い、それぞれの立場での意見が述べられました。そして改めて「歩く」ことは、足の運動だけでないことを考えさせられました。
 「街は、視覚障害者が一人で歩くことを想定して出来ていない」「ガイドヘルプを頼み過ぎ」、清水語録のオンパレードでした。最後に語った言葉も印象に残りました。「視覚障害を持つ方々は、これまで訓練など受けなくても歩いていた。すなわち歩く能力を持っている。しかし現実の社会には、歩行の邪魔をするものが多い。こうした視覚障害がある方が歩く邪魔を取り除く街を作ることが出来れば、もう少し歩きやすくなる」

 参加者の方々からの感想の一部を紹介します。
 盲学校の子どもたちは、とかく大人に囲まれた生活ですので、ややもすると大人が先走ってしまうあまり、子どもが自発的に行動することが少なくなってしまうこともあります。子ども自ら声を発することができる環境をつくり、恥ずかしがらず声を出せるようになることが「援助依頼」の第一歩になるんだと思いました。
 ありのままの厳しい現実を,視覚障害者が安心して受け入れ納得できるような,思いやりのある話方をされます。冷静に目の前の困難の解決策を考えていけるよう促していると感じました。理想論で終わらず,具体的でとても分り易かったです。
 (初めて。。。)の言葉には、人それぞれに受け止めが異なると考えています。その人のツールにもよります。私の場合は、盲導犬というツールを得た事により、自身にとって、又盲導犬にとっての道を開拓したくてたまらない日々です。過去に歩いたり、通った道であっても環境によりその道はまったくの(初めての道)となります。 新潟大学の学生さん達の思いのこもった地図は利用者にとって有効です。ただ彼らが目指す地図を作るためには、徹底的にその立場の人たちの意見を聞いてほしいと思います。
 光覚弁になって、一人ではじめての目的場所へ向かうために、はじめての道を歩いた経験が無いので、改めて考えると、難しい課題と感じました。 結局は、「皆さんも、ご自分でよくお考えになってみてください」、ということなんですよね。
 視覚障害者が単独で初めてのところを歩くことは歩行訓練では想定していない、初めて聞く事実でした。しかし自然に考えれば妥当なことだと思いました。 ぶらりと目的地もなく散策のため気晴らしので歩けるようになる日が来るとよいなと願っています。
 難しいテーマでしたね。歩行を考えてしまうのですが、私自身は人生のこれからのことも初めての道のような気がしていました。今まで生きてきていた時間とこれからの時間・・・人間はもしかすると一生「初めての道」を歩き続けているような感じがしています。
 晴眼者と視覚障害者では、眺望空間、すなわち知覚できる空間の広さが異なり、得られる知覚情報の精度・解像度には差があります。「どんな形でもいいから自分の足で歩く」ということが清水さんの基本ではないかと感じます。清水さんの歩行訓練を見ると、歩行訓練は、視覚障害を負った方々をempowermentするものなのだと感じます。



平成23年4月13日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第182回(11‐04月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「『見える』を支援する機器開発の舞台裏」
講師:山口 成志 (株式会社タイムズコーポレーション社長;兵庫県)
【講演要旨】
T.なぜ拡大読書器が有効なのか?
 1) 拡大率が最大50倍前後と、16倍程度が実用上の限界である拡大鏡よりも優れている。
  拡大率は視覚障害のあるものにとって、多くの場合有用である。ただ日本には視野が狭い症状のユーザー(網膜色素変性)が多く、低倍率(=広い視野)も大事である。なお、拡大読書器の場合、技術的には低倍率の文字を鮮明に表示することは、高倍率表示よりも難しい。
 2) 「背景を暗、文字を明色で表示する反転モード」は、文字の判明がより容易となる。
  背景の白(明)が、黒い(暗い)文字を覆うことにより文字判別が困難になるという「ベーリンググレア」(注1)の回避と、明るい部分を狭くすることによる「まぶしさ」を軽減する効果がある。
 (注1)ベーリンググレア(veiling glare)
 ベーリンググレアは暗い画像の周囲に明るい画像を出画させると,暗い画像が周囲の影響を受けて本来よりも明るく表示される現象であり,低輝度領域のコントラストを低下させる原因となる.
 参考:http://nv-med.mtpro.jp/jsrt/pdf/2004/60_10/1361.pdf
 3) ハーフトーンのないくっきりした映像のための「2値化処理2色表示」の機能。
  レベル(コントラスト)調節機能の有無で、原稿用紙などの薄い色の罫線が表示「できる機種」と「できない機種」がある。
 (注2)2値化 指定画像を白と黒の2階調の画像に変換する処理
 参考:http://homepage2.nifty.com/tsugu/sotuken/ronbun/sec3-2.html#0001
 4) 卓上型拡大読書器は「XYテーブル」を前後左右にスライドさせて、重い本でも文を読み進める。
  「前後に動くYテーブルを操作できる機構の有無」が、機種選択のポイント。機種選定のときに、軽視しがちであるが、使い始めてから気付く卓上型拡大読書器で最も重要な機能の一つ。とくにスライド時の滑らかさと縦書き対応が重要である。
 日本語の出版物は、世界でほとんど唯一の「縦書き」である。「縦書き」文章では、テーブルの前後操作を多用することになる。しかし、欧米の「横書き」文章を読むためだけに設計された拡大読書器は、左右方向だけに動くXテーブルだけを操作する構造になっており、前後方向のYテーブルを操作する機能がない機種が多い。Xテーブルを持って前後に動かすと左右に蛇行しやすい。その蛇行は、船酔いのような不快な症状を引き起こすことが多い。
U.わたしの拡大読書器開発をめぐる挑戦
 拡大読書器を開発し製造するためのイニシャルコストは、数千万円となる。そのため商品を開発し製造することが得意で、資金力のある会社と協業するという方法をとることがある。パナソニックヘルスケア株式会社と「望遠、静止画スクロール式携帯読書器」を企画した。
 1) 駅の「運賃表」や「時刻表」などの遠くの文字が見えにくいことの不便さを解決するために、「オートフォーカスの望遠機能と拡大読書器のズーム、モード切り替えを組み合わせて使える」仕様とした。
 2) 携帯型拡大読書器で文章をなぞって読みすすめるときの不安定さを解消するために、「静止画として撮影し、その映像を拡大し、ボタン操作で電光掲示板のように動かす」機能を企画した。
 3) 行頭にもどるために文章を逆になぞりながら行頭を探すときの不快感を解消するため、行頭や行端などの位置を記憶させておいて、ワンタッチでそこに移動する機能を企画した。
 プロジェクト推進の最大の課題は、少量生産を、事業として経済的に成立させることである。主要な部品の最低の購入単位が数万個と大きく、モデルチェンジの周期が短いため、大量の部品をまとめ買いする必要に迫られた。企画販売台数を確保するために、販売エリアが日本だけでは販売台数が足りないので、世界中で販売することを最初から想定する必要があった。海外の競合機種との差別化策を盛り込むが求められた。
 技術開発は当初、容易と思われていたが、拡大読書器の画像の開発では、それまでの映像作りのノウハウが使えず、ハード、ソフトの開発に大きな苦労があった。2009年2月末に、日本国内では「アクティブビュー」という名称で、海外では、Optelec社から“Far View(ファービュー)”という名称で同時に販売開始した。企画から2年8ヵ月を要した。
 「アクティブビュー」
 http://www.times.ne.jp/products/activeview/index.html
V.網膜投影ディスプレイの紹介
 マックスウェル視という目の調節機能を必要としないユニークな方式を使った次世代の装置。
 網膜投影ディスプレイは、網膜に平行光の映像の束を、瞳孔を通過して映し込むため、人の目のピント合わせ機能を使わずに映像を見ることができるユニークな装置である。屈折異常などの人でも、網膜上にピントの合った像が映る。長い開発を経て、現在はビデオ望遠鏡に組み込んだモデルが発売されている。 現在、さらに新しいモデルの開発に取り組んでいる。今回、参加者に試作機を試していただいた。 

【略歴】山口成志(ヤマグチセイジ)  株式会社タイムズコーポレーション 社長
 1953年 大分県生まれ 
 1976年 同志社大学卒業
 1995年1月、阪神大震災の2日前に、スウェーデン製モノクロ拡大読書器の輸入販売を始める。
 1995年 パソコンFAXソフト「聞いておくれ」
 1997年 モノクロ卓上拡大読書器「アシストビジョンAV-10」
 1998年 カラー卓上拡大読書器「MG-10」、「ダイモ点字テープライター」
 1999年 ポータブル型カラー拡大読書器「MG-7」、電話受話音量増幅器「聞こえてる」
 2000年 オートフォーカス・カラー卓上拡大読書器「MG-21」
 2001年 ヘッドマウントディスプレイ拡大読書器「AV-200」
 2003年 モニター搭載ポータブル拡大読書器「AV-300スライダ」
 2007年 網膜投影式ハンディ・スコープ
 2009年 遠近両用高機能モバイル拡大読書器「アクティブビュー」
 2010年 IDシール連動ICレコーダー「タッチメモ」  
 現在、拡大鏡、拡大読書器、ポータブルDAISY録音再生機、色判別機、音声方位計など多くの機器を提供している。
【追記】
 もの作り(拡大読書器)を追及している専門家のお話を聞くことが出来ました。本来は技術系の出身ではなかったそうですが、視覚障害機器展示会に立ち会った時、展示していた機器があまりにローテクであることに気付き、この分野へ乗り出したということでした。
 勉強会では、多くの機種を持参して、実演付きの講演でした。参加した利用者の多くは、知らない機能や使い方が多いことに驚いていました。利用者が拡大読書器の使用法を知らないこと、何とかならないものかと思います。折角、いろいろな機能を付加しても利用者が知らないでは無駄になってしまいます。今後は販売のみでなく、利用の仕方の伝達も大きな課題と思いました。勉強会後、山口氏から以下のようなメールを頂きました。
「講演後に参加いただいた皆さんの意見交換を聞き、ユーザーに拡大読書器を有効に使っていただくためには、使い方について十分な知識のあるサポーターのアドバイスが重要と改めて認識しました」。
 身体障害者手帳があると、19万8千円以下の機器は無料で給付されるという制度に問題はないのだろうか? 各都道府県にある盲学校を、「ロービジョンセンター」にするような構想が実現しないものか? 良いものを作るとそれなりに利益が得られる料金制度、必要と感じました。そうでないと福祉機器を作る業界は、成長しないのではないか、などなど感じながらお話を聞いておりました。
 「利用者のニーズばかり聞いていては、独創性のあるものが出来ない」というご意見、専門家の意見と思いました。利益を考えると、世界的規模で市場を考えなければならないという視点、新鮮でした。
 「縦書き」の日本と、「横書き」の欧米など、日本と欧米には文化の点で様々な違いがあります。さらにロービジョンの対象となる視覚障害の主な疾患は、日本では網膜色素変性(視野狭窄)であり、欧米では加齢黄斑変性(中心暗点)です。やはり日本にはこうした特性を考慮した日本製の拡大読書器が必要と実感しました。
 タイムズコーポレーションをはじめ、日本メーカーに「日本発」の機器開発を期待します。



平成23年3月9日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第181回(11‐03月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「心身医学と良寛さん」
講師:櫻井 浩治 (新潟大学名誉教授・元精神科医)
【講演要旨】
1) 心身医学は「身体の病気にも心が重要な関わりを持つ」という考えを強く主張した医学である。これは当たり前のような考えであるが、近代医学は病気そのものや傷害を受けたその部分だけに治療の目を向け、病気や傷害を受けた人の不安や置かれた状況に目を向けることを忘れている、人が「心身一如」の存在であるということを忘れている、という反省から生まれた主張とも言える。
2) 良寛さんは、両親をはじめ、6人の弟や妹のうち4人に先立たれ、弟が継いだ生家や土地は没収され、多くの歳下の知人友人を失い、「多病の僧」と自ら言うほど病気がちだった。その良寛さんが、雪深い越後の山住まいで、「乞食(こつじき)」という修行の方法を選びまがら、73歳まで生きた。この良寛さんの「病気についての考え方」について残された手紙などを見ると、良寛さんがこの心身医学が主張する見方と同じように、身体の不調は、心身両面から来るものと考えていたことが分かる。
3) 良寛さんの健康への考え方を要約すると、
 1.年齢に応じた養生をすること、
 2.食事をきちんと摂り清潔を保つこと、
 3.常に健康に気をつけ医師にもかかること、
 4.精神的なストレスを溜めないこと、 であった。
4) 1828年11月12日に起きた三条の大地震(死者約2千人;*脚注参照)の際の、71歳の良寛さんの知人への見舞いの手紙(**脚注参照)。
 「(前略) うちつけに 死なば死なずて長らへて かかる憂き目を見るが侘しさ
 しかし災難に逢ふ時節には災難に逢ふがよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候 良寛」
 生きながらえた結果、このような悲惨なつらい出来事に出会うのは、何とも切ないことだ。しかし「必ず来るであろう災難(地震や死)から逃れる良い方法は、それが来た時にそれを心して受け入れることだ」という。
 この考えは、良寛さんが「死ぬまで用心しよう」と弟に声をかけ、自分だけではなく,他者の不幸に精一杯尽くそうと心がけてきた良寛さんの生き方を思うと、人の世には結果として避けることのできない災難のあること、死という現実のあることを知って、普段を生きていることが大事だ、ということと、それらに出会っ時は、逃れられないのだから運命として受け入れねばならない、と言いたいのだろうか。
5) 良寛さんの生き方を客観的にみると、
 1.「托鉢で食を得て生きることを生涯の行とした」ことで、結果的には暴飲暴食を避けることになり、歩くことで体内免疫力が高まったこと。
 2.慈愛の心を持ち、僧である自分に今何ができるか、という役割意識からくる緊張感を常にもっていたこと(飢饉や洪水による家族の困窮を救うために、遠く働きに出ることになるであろう娘たちとの遊び、に代表される)。
 3.少数であったが、認めてくれ、甘えることができる人(弟由之や庄屋、晩年に出会う貞心尼など)が居たこと。
 4.感情表出の手段を持っていたこと(和歌や漢詩、書など)
 5.積極的な運命論者であったこと(命尽きるまで用心を、という弟への便りや民間療法を積極的に取り入れていたこと) などは、まさにストレスに耐えるための心身医学的生き方であった。
6) 最後に、良寛さんが行ったことのある「白隠禅師の暗示と呼吸法」に似た現代のストレス緩和法の一種「自律訓練法」の一部を紹介した。

*) 文政11年三条の大地震 「越後三條地震」
 1828年(文政11年)旧暦霜月(11月)12日(現在の暦では12月18日)の朝五ツ時上刻(7時40分頃)に発生。マグニチュード6.9の地震。現在の新潟県三条市、燕市、見附市などで、現在の震度7相当の揺れがあったと推定される。全潰12,859軒、半潰8,275軒、焼失1,204軒、死者1,559人、けが人2,666人(『三条市史』)、被害の実数は出典により異同が多い。
 瓦版は、「弥彦山は大きく崩れ、海の中へ押し出し、三条町・燕町・東御門ぜき御堂・大門など残らず揺り倒れ、田畑・山川が崩れ、人馬・けが人はその数知れず、余震が十四日まで頻発した古今稀なる大地震」と報じたという。
**) 三条の大地震の時に、良寛が与板の山田杜皐あて書いた手紙の全文。
 「地震は信に大変に候。野僧草庵は何事なく、親類中、死人もなく、めでたく存じ候。うちつけにしなばしなずてながらえて かかるうきめを見るがわびしさ  
 しかし災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候。かしこ」

【略歴】
 昭和11年1月生まれ。新潟大学医学部卒業、慶応義塾大学医学部精神神経科学教室で精神科臨床を学び、新潟大学、新潟医療福祉大学などに勤務。両大学の名誉教授。医学博士。第39回日本心身医学会総会会長を務める。
  一般向けの著書として「源氏物語の心の世界」(近代文芸社刊)、「乞食の歌ー慈愛と行動の人良寛」(考古堂刊)(第5回新潟出版文化賞優秀賞受賞)
【追記】
 櫻井先生には、この勉強会で何度か「心身医学」のことをお聞きしていました。曰く、近代医学は、細菌を殺す、悪性腫瘍を切るなど病気を治す方向で進んできた。しかし本来患者は、病に冒されているのみでなく、不安やストレスを負っている存在である(心身一如 心身一元論)。だから、薬や手術ばかりでなく、医療者の言葉や態度も大事である。
 今回は、良寛さんを通してストレスに耐えるための心身医学的生き方について、お話して頂きました。
 良寛さんは病弱であった。6人兄弟のうち4人が先に死んでいる(喪失体験)。年を取るだけ失うものが多くなる。悲しみからの補修が必要。サポートしてくれる人がいる。甘え上手。自己暗示も大事。
 良寛というと精神論のみ強調されがちですが、身体の健康を大事にしていたとのことです。食事に気を付け、歩くことを厭わなかったようです。講演の終盤で、「内観の法」呼吸法、「軟蘇の法」(目を閉じて、肩の力が抜けてくるー、抜けてくるー) 「自律訓練法」のさわりを、参加された方々とやってみました。本当に体が楽になり、気持ちもスッキリしてきました。
 講演後の参加者との話し合いで様々な話題が出ました。スピリッチャル・ペイン、良寛の幸せは?、、、、、介護のお仕事をしている方から「死を直前にした方に、何と言って声を掛けたらいいの」と問われ、「死ぬ直前のような状況でも、生きる意味はある。私があってあなたがある。どんな状況でも何か人に役に立つ。」
 今回の勉強会の2日後に東日本大震災が起きました。  「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候」は良寛さんの有名な手紙の一文です。誤解を受けそうな判り難い表現ですが、私たちにも判るように解釈して頂きました。
 もうひとつ、「自戒の書」も紹介して下さいました(東郷豊治「良寛全集上」)。「どんな人であれ不幸な人を見たら、先ず自分に何が出来るかを考えよ。もし何も出来なくても、少なくとも憐みの心・同情の心を持たなければならない。この気持ちが生じないものは、自分を恥じよ」と語気強く語っています。
 まさに今、お伝えしたい内容でした。
 櫻井先生に、勉強会で良寛さんのお話をして頂くのはこれで2回目。第88回 済生会新潟第二病院 眼科勉強会 「良寛は何故子供達と遊んだか」 櫻井浩治2003年9月10日
 (報告から一部抜粋)
 良寛さんは庄屋の長男で、その名主役を継がなければならないのに出家した。よほどの決心だった。良寛さんの育った土地は幾度となく水害に遭い、貧しい土地柄であった。当時、農民は生きていくために子供を売って生活していかねばならないほどであった。*参考 「良寛を歩く」水上勉著 飯売下女季奉公人請状、「良寛と上州飯売下女」永岡利一著
 売られていくであろう子供達に良寛さんが出来ることは、ただ一緒に遊んであげることだけだった。一緒に遊んだ子供達は、一生この経験を楽しい事として記憶していたに違いない。
 良寛さんが子供と遊んだのは、その時代に生まれての大きな流れ、個人としてはどうにもならない自然と社会制度と精神世界の時代の流れの中にあって、あの時代で受け入れなければならい現実を熟視しながら、自分に出来る範囲で出来ることを、因襲に囚われずに行い、信念の為には他者の目を気にしない自尊心を持ち、義憤と全ての存在への慈愛の心を行動で示した一つの現れであった。
 これは、今なお、医療人の行動の手本になるものである。
 現在、我が国は東日本大震災で未曽有の困難な状況にあります。しかしわが国には、第2次大戦敗戦後に復興を果たした歴史があります。再び立ち直り世界中の方々に日本の底力を示したいものです。 頑張れ日本! 頑張ろう!ニッポン  



平成23年2月9日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第180回(11‐02月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「障害の受け止め方と、自立と情報の関連性
〜視覚障害者となっても、涙を流さなかったのはなぜ?〜」
講師:園 順一 (京都福祉情報ネットワーク 代表;京都府)
【講演要旨】
 人生の途中、それも働き盛りのときに眼が不自由になるとどうなるのだろうか。ほとんどの方がこれからの人生に失望し、死を思い浮かべられる様である。ところが、私の場合特に大きな変化は無かった。自分が網膜色素変性症であることを知ったのは20歳代であった。
 なぜ私は失明宣告を受けても落ち込んだり、悩むことなく生活できてきたのであろうか。自分にとっては別に普通のことであったが、50歳頃に参加した日本網膜色素変性症協会(JRPS)の患者会員の多くの方はそうではなく、悶々とし、嘆き、悩み、死を考えたこともある、と云われていて、実際表情もそうであり、結婚を諦めたと云っている方もおられた。
 確かに、治療法が無く、失明の恐れがあり、遺伝するかも知れないと診察時に宣告されればそうなってしまうのも当然のことであろう。そして、多くの方の場合、その時はまだ視機能に対して不自由であるとの自覚はない。それだけに、将来失明する場合があるなどと云われると、頭が真っ白になってしまうのである。つぎには悩み悶々とされる様である。
 では、なぜ私はそうはならなかったのかと、振り返ってみた。
 相互に関係するが、まとめてみるとつぎの様なものでないかと思う。
 ・父が同病であった
 ・何事に対しても考え方がプラス思考である
 ・変化していくことに興味がある
 ・情報入手方法のノウハウを持っている

1.父が同病であった
 私の病名を伝えてくれたのは父であった。と云っても父はその時は、私から見て普通に生活していた。定年前頃は分厚いメガネをしていて、虫眼鏡を使って新聞を読んでいたのを記憶している。また、雨も降らないのに、蝙蝠傘を常に持ち歩いていた。今考えれば、杖の代わりに使っていたのであろう。
2.考え方がプラス思考である
 このことも、若い時には意識もなく感じても居なかったが、人生半ばになってくると、他の人と比較して、プラス思考なんだなぁと思うようになってきた。悩むことと、考えることは別である。でも、このことができずに悩んでばかり居る人が多いと感じる。冷静に、論理的に判断すれば、解決できないことはないし、また、これは解決できないことだと判断すれば、そのことは記録にとどめ、何時までも悩むのでなく、つぎに進めばよいと考えている。
 それと、常に自分は「ついている」と思っているので、これが結果としてよい方向に向かうこととなっている。更に誤解を恐れずに書くと、自分に対する自信を持つことも大切である。自慢ではない。
3.変化していくことに興味がある
 安全より変化を求めたため、就職活動の時は大企業は避けた。例えば、勤務先は5回転職をしている。前向きな転職であり、新しい知識・環境を求めてのものである。このことと、見えなくなることを同列に考えることは違うかも知れないが、変化に対してのワクワク感があった。特に見えなくなった時の自分がどの様に変わっていくのかとても興味を持っていたことを思い出す。
 結果としては気持ちの変化はほとんどなかった。当然ながら、今までとは同じようには行動・活動できるわけではないが、目的に対するやり方、処理方法が異なるだけであり、また、できなくなることの見分けをしておき、人に依頼するか、諦めればよいだけのことではないか。現状を正しく判断して、それに対する処理方法を決めておくことである。
4.情報入手方法のノウハウを持っている
 電子工学科を卒業し、技術者として過ごしてきた。進歩の早い業界にいたからか、どうか、常に自分にとって必要な情報をリサーチすることが普通であった。その為、情報源を見つけ出したり、人脈を構築していくことは常であった。眼が不自由になり始めた時も同様に、どこに情報があり、誰が詳しいのかを見つけ出して調査した。また、私はITについても詳しかったために、積極的に情報を入手・活用することができた。
 ここで一つ大切な事がある。それは、私の場合、落ち込むこともなく、情報収集の行動が必要になった時に直ぐにできたことである。一方、そうでない方は、悩み、落ち込み行動ができないから更に悩み、負のスパイラルに陥ってしまっている。
 先述したJRPSの交流会などの参加者がいつまでも悩み、落ち込んでいるわけではない。参加することで色々な情報を得て、だんだんと元気になっていかれ、新たに参加された方などに今度は情報提供をされている。この様に、必要な情報を早く得ることができれば、悩む期間も短くてすむことであろう。
 ここで、声を大にしてお願いしたいことがある。「全ての眼科医がロービジョンケアに関心を持っていただきたい!」さまよえる視覚障害者を減らすことは本人の生活はもとより、国の財政・経済にとっても大切な事である。

その他、私の行動、思考パターン
1)自分軸をもつ。
 多くの人は他人軸で動いている。だから、他人の目を気にしている。見えづらくなってきても、白杖を使えない人が多いのはそのためでもあろう。
2)感情のコントロール
 色んな感情は元々あり、そのうちどれを選ぶかは自分が決めることである。
3)ものの見方
 円錐形は上から見ると丸、横から見ると三角形、斜めから見ることも大切である。赤を探すと他の色は見えない。一人では試せないが、ペアになって,相手の方に部屋の中に赤いものがいくつあるか聞いてみよう。そして、眼を閉じてもらい黄色のものは何であったかを尋ねても答えられる人は少ない。何に注力しているのかである。
4)否定文を使うと、脳は勝手に否定的な事を探す。
 見えなくなる人は「もう何もできない」と否定してしまう人が多い。この時も脳は、ダメな理由をアチラコチラから探して、出来る事がたくさんあるのに見向きもしないでできない理由を集める。障害者は心の障害者になっている人が多い。見えなくてもできる事を探そう。
 最後に、私は見える世界、見えづらい世界、そして見えない世界を経験できた。なんとラッキーなことか。望んでできる事ではない。だから、「ついている」のです。

【略歴】
 園 順一(その・じゅんいち)
 1946年:滋賀県生まれ。 
       日本電池株式会社、ソード株式会社、株式会社ヒューコムなどを経て
 1995年:株式会社ディーエスピーリサーチを設立。現在は非常勤。
       50歳頃から目が不自由になり始め、視覚障害に関わる活動を始める。
 1997年:視覚障害者福祉機器展「Eye Toolsフェアin大阪」を企画・運営 900名が参加
   これ以降、主催団体は異なるが、ほぼ毎年、今までに10数回の展示会を担当する。
 1999年:「視覚障害者用パソコン教室インターネット講座」の開設
 1999年:情報バリアフリー叢書『見えない・見えにくい人の便利グッズカタログ』執筆
 1998〜04年:日本網膜色素変性症協会(JRPS)・理事、副会長
 2000年:視覚障害者用キーボード練習ソフト「ウチコミくん」開発プロジェクトリーダ。
(2001年3月29日)エデュテイメントフォーラム2001京都コンテスト最優秀賞受賞
 2000〜03年:JBS日本福祉放送で視覚障害者を対象にしたパソコン講座を担当。
 2001〜07年:視覚障害リハビリテーション協会・理事、副会長
 2004年:京都新聞福祉賞を受賞。
 2004年〜:国立障害者リハセンター学院・視覚障害学科でパソコン講座を担当:現在継続中
 2007〜10年:日本ロービジョン学会・理事

【追記】
 「出掛ける時に、下駄の鼻緒が切れたら、どう思いますか?」という問いから講演が始まりました。参加者の答えは、「不吉な予感がする」、「代わりの履物を探す」、中には「裸足で出掛ける」というのが答えでした。園さんの答えは「出掛ける前で良かった」というものでした。要は考え方、受け止め方が大事と語り始めました。
 父親が網膜色素変性症。園さん自身も20歳代半ばで網膜色素変性と診断。43歳で運転免許証の更新できず、49歳で身体障害者1級(視力2級+視野3級)。51歳で障害者年金。54歳、戸外での歩行困難。56歳で京都ライトハウス鳥居寮に一年間入所(白杖歩行訓練、日常生活訓練や点字など)。60歳には続発性緑内障(眼圧72mmHg)のため1時間に及ぶ白内障手術、、、、、。
 それでも、「見えなくなって恐怖は無かった」と語ります。「情報が大事」と話します。園さんが色々な会に参加してみると、多くの同じ病気(網膜色素変性)の人は、悶々としていました。「拡大読書器」「スクリーンリーダー」などを知らない視覚障害者が沢山いました。これは何とかしなくてはと、多くの方に伝える催しを企画し実践しました。最初に企画・運営した視覚障害者福祉機器展「Eye Toolsフェアin大阪」(1997年)には、予想をはるかに超える900名が参加。これ以降、主催団体は異なりますが、ほぼ毎年、今までに10数回の展示会を担当しました。1999年には「視覚障害者用パソコン教室インターネット講座」を開設、、、、、。
 視覚障害者となっても、涙を流さなかったのはなぜ? 多くの視覚障害者は、暗いトンネルを経験しています。時には自殺を企てる者、そして実際に命を絶ってしまった方もいます。でも園さんは、「この先見えなくなった自分が、どう変わるのか、楽しみでわくわくする」と思っていたといいます。時代も良かったかもしれません。ITが利用できる時代になってきていました。「自分はツイテいる」と思ったといいます。どのように受け止めるかが大事です。「悩むこと」と「考えること」は違います。悩んでもいい、でもそこからどうすればいいか考えることが大事なんだと強調します。多くの出会いを積極的に求めたといいます。日本網膜色素変性症協会(JRPS)入会後2年目で役員に立候補しました。組織の役員になることで多くの人と知り合いになることができたようです。こうして人脈を構築してきました、、、。園さんは、自分の壮絶な人生を淡々と語りました。
 「この先見えなくなった自分が、どう変わるのか、楽しみでわくわくする」、似たようなフレーズをどこかで聞いたことがあります。37歳で頭部外傷事故により皮質盲(視覚障害)、記憶障害(高次脳機能障害)、歩行困難(マヒ)という三重苦を負った脳外科医の佐藤正純先生が語った「障害を負ったからといって人生観を変える必要はない。昔の自分に新しい自分を重ね着すればいい。1粒で2度美味しい人生を送れて幸せだ」という言葉を思い出しました。
 スポーツの世界でも、チャンスに最高の結果を出す選手は、「こんな場面で自分に好機が回ってくるのは嬉しい。ここで活躍すると明日の新聞の一面は私だ」と語ります。困難を乗り越える人の言葉や考え方は、どこか共通点を感じます。
 現在、我が国は東北地方太平洋沖地震・津波・福島原発事故で未曽有の困難な状況にあります。しかしわが国には、第2次大戦敗戦後に復興を果たした歴史があります。再び立ち直り世界中の方々に日本の底力を示したいものです。
 頑張ろう!ニッポン  頑張れ日本!



平成23年1月19日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第179回(11‐01月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「アフリカ地域における眼科医療支援活動」
講師:荒井 紳一 (アフリカ眼科医療を支援する会 副理事長)(新潟大学眼科 病院助教)
【講演要旨】
 現在日本においては、白内障により失明することは稀なケースとなっている。しかし世界に目を向ければ、発展途上国を中心として眼科医療を受ける機会すらなく、手術をすれば回復できるはずの視力を失っている人々が数多く存在している。白内障は未だに世界の失明原因の第1位で、失明原因の約5割を占めている(Visual impairment and blindness, WHO統計,2002)。
 2008年4月、このような地域における眼科医療分野での国際貢献を目的とし、新潟大学眼科・徳島大学眼科の支援のもと、NGO「アフリカ眼科医療を支援する会」(略称AOSA、理事長:内藤 毅;徳島大学眼科)を設立した。この会は、眼科医師等のスタッフを現地に派遣して医療活動を行い貧困のために治療を受けられない人々に対する眼科医療支援をおこなうこと、および現地の医療スタッフに対する眼科医療教育を行うことを目的とする非営利団体である。
 モザンビーク共和国駐日大使より医療支援の要請を受け、当初の活動地域はモザンビーク共和国とし、2008年6月より医療支援活動(アイキャンプ)を開始した。現地に約10日間の日程で眼科医を含む日本人チームを派遣、現地スタッフと協力して治療にあたっている。手術機器に関しては、各種助成金を得て、眼科用手術顕微鏡・白内障手術器具を購入、現地へ空輸した。眼内レンズ・使い捨てナイフなどの消耗物品はメーカー各社から寄贈いただいている。そして多くの会員の皆さまより、善意の寄付をいただき活動資金としている。その結果、2008年の第1回アイキャンプでは47名48眼、2009年の第2回アイキャンプでは58名58眼、2010年9月に行われた第3回アイキャンプでは、小児3名を含む113名117眼に対して白内障手術を行った。手術対象は基本的に両眼失明状態の患者であり、手術により視力を回復した患者は、仕事をすることができる、学校に通うことができるなど大きな希望を持ち、そして実際に社会復帰が可能となっている。
 アフリカ大陸南東部に位置するモザンビーク共和国は、眼科医療に関して危機的状況である。同国には人口約2000万人に対し眼科医はわずか11名しかおらず、人口の約1%が失明状態に陥っていると予測される(モザンビーク共和国保健省調べ)。さらに眼科医が大都市に偏在しているため、地方で眼科医療を受けることはほぼ不可能となっている。保健省がAOSAに指定した活動地域であるカボデルガド州は、人口165万人、モザンビーク最北端に位置し面積は日本の東北地方の面積にほぼ相当する。世界的に有名な黒檀の彫刻(マコンデの彫刻)をするマコンデ族の居住地としても知られ、頑固なまでに民族固有の伝統と風習を守り、いまだに顔に入れ墨をした人々を多く見かける。同州では1975年のモザンビーク独立以来、眼科医は皆無であるという。
 我々が現地に滞在する短期間で治療できる患者は、多くの失明患者のほんの氷山の一角にすぎない。しかし多数例の白内障手術を行って失明患者を救済することにより、地域住民および医療従事者に対し、眼科医療の重要性を啓蒙することが出発点と考えている。また2009年の第2回アイキャンプより、モザンビーク人医師(眼科専門課程在学中)を毎年2名ずつアイキャンプに招待し、共に手術を行い眼科手術の技術指導を行っている。これにより、モザンビーク人医師の手術技量のレベルアップ、しいてはモザンビークの眼科医療の発展に寄与する事を目標としている。
 AOSAは過去3回の医療支援の経験をもとに、今後も継続して医療支援活動を計画している。我々の活動は地道だが、継続することによってモザンビークの医療状況の改善につながれば幸いである。

参考)2010年9月にモザンビーク北部のペンバで行ったAOSA第3回アイキャンプの様子(約5分のビデオ映像)を、AOSAホームページにて公開しています。
 NGOアフリカ眼科医療を支援する会(Association for Ophthalmic Support in Africa, 略称AOSA)
 http://aosa-eye.org/

 AOSAの設立と第1回・第2回アイキャンプの経緯
  2006年8月 モザンビーク共和国駐日大使と面談し、医療協力を要請される
  2007年8月 モザンビークの現状を視察し、活動計画を立案
  2008年5月 アフリカ眼科医療を支援する会(AOSA)を設立
  2008年6月 モザンビーク保健省の要請によりモザンビーク北部の僻地(Cabo Delgado, Mueda)で,第一回目のアイキャンプを実施し、47人(48眼)の白内障手術を行った。
  2009年9月 昨年同様Cabo Delgado, Muedaで、第2回アイキャンプを行い、            58人の白内障手術をおこなった。

【略歴】 荒井 紳一 (あらい しんいち)
 1993年 金沢大学医学部卒業
  同年  新潟大学眼科学教室入局
    新潟県内外の病院勤務を経て2001年 Wilmer Eye Institute, Johns Hopkins UniversityResearch fellow
 2002年 Doheny Eye Institute, University of Southern California Research fellow
 2004年 新潟大学眼科復職
 2006年 新潟大学眼科病院助教 NGO「アフリカ眼科医療を支援する会」では副理事長を務める

【後記】
 感動しました。収入にもならず、それどころか健康や生命の危険まで伴う海外での医療活動に、日本の若者が何人も出掛けていることを知りました。講演で拝見した写真やビデオには、光を取り戻して喜ぶ患者さんの輝いた目と顔、そしてスタッフの笑顔が何度も登場しました。医療の原点を見た思いでした。
 今回2010年の第3回アイ・キャンプには荒井先生の他、橋本薫先生(長岡赤十字病院眼科)も参加していました。さらに、モザンビークでの医療支援活動に感銘を受けた佐藤弥生先生(新潟大学眼科)が、「アフリカ眼科医療を支援する会」のイメージソング「The Road to Africa」を作り、応援しています。
 こうした若者の清々しい行動を、心から称賛し応援したいと思います。

 「アフリカ眼科医療を支援する会(略称AOSA)」のイメージソング
 「The Road to Africa」Yayoi Sato (佐藤弥生)
 http://www.amazon.co.jp/Road-Africa-YayoiSato/dp/B0042AJ2FS

 講演の最後に荒井先生は、ダライ・ラマ14世の、日本の若者へのメッセージを紹介してくれました。
 "Study English and go out, This is very important. And see the world to make contributions"
at the foreign corresponding club of Japan, on June 19th, 2010
 (英語を学び、海外へ出よ。これが重要だ。世界に飛び出して貢献してほしい)
  2010.6.19の日本学国特派員協会(記者クラブ)での講演
   http://imaginationink.blog86.fc2.com/blog-entry-120.html
  2010.6.20の善光寺での講演
   http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/2010japan/report/day3.html

 最近、海外留学する日本人が激減しているというニュースを耳にします。しかし今回の講演を拝聴し、日本もまだまだ捨てたものではないと思いました。
 荒井先生を、そして「アフリカ眼科医療を支援する会」をはじめ、海外で医療貢献している多くの方々を、今後も応援したいと思います。

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