済生会勉強会の報告 2010
 

平成22年11月17日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第177回(10‐11月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「私たちは何と何の間を生きているのか」 
講師:栗原 隆 (新潟大学人文学部教授) 
【講演要旨】
 私たちが〈生〉を享ける時点はどの時点であろう か。この世に誕生した時が〈生を享けた時〉だと単純明快に言い切ることが出来ないのは、妊娠中絶や生殖補助医療によって、〈生〉の始まりに人の手が介入できるようになったことによる。脳死をもって人の死と判断するようになって以来、死も、運命ではなく、私たちの判断によって定められるようになった。そうすると、私たちは、人と人との間に生きているからこそ、人間であるとも言われるが、日常的な場面で、常に私たちは倫理的な葛藤状況に身を晒し、その都度、どうするべきか対処することを求められていることも考え合わせるなら、私たちは倫理的な判断を生きていると言えるかもしれない。
1 胎児の数は誰が決めるのか
 赤ちゃんの65人に一人が、体外受精で生まれる時代に、多胎妊娠の処置は、諏訪マタニティー・クリニックの他、15の診療所施設だけでしか行なわれていない。減数手術は「堕胎罪」に問われかねないからである。日本産科婦人科学会は、1996年以来、子宮に戻す受精卵・胚の数を、原則三個と規定してきたものを、2008年4月12日に「生殖補助医療の胚移植において、移植する胚は原則として単一とした。ただし、35歳以上の女性、または二回以上続けて妊娠不成立であった女性などについては、二胚移植を許容する と、移植胚数を制限するに到った。
 減数手術に対して、医師が生まれてくる子どもを決めることに異論が出されてきたにもかかわらず、今度は医師によって、初めから、生まれてくる子の数が決められることになった。減数手術には厳しい眼が向けられる他方で、妊娠中絶の件数は、赤ちゃんが4人生まれるのに対して、1人が母胎内で命を絶たれる計算で、主婦層中心から、低年齢化している。
2 誰の迷惑にもならないことなら、何をしても許されるか――出生前診断と着床前診断
 体外受精による受精卵が、4〜8分割した段階で細胞一個を取り出して、核のDNAを検査することで、遺伝性疾患の有無や性別を確かめる着床前診断は、妊娠後に、羊水検査など、胎児の細胞を調べるいわゆる出生前診断によって異常が発見された場合 に、判断を迫られる妊娠中絶を避けることが出来て、母親の肉体的・精神的負担の軽減に繋がると言われる。確かに、出生前診断では、染色体異常の子どもである可能性が170分の1とか、50分の1などという確率の形でしか出てこないため、受け止め方に関して、人によっては混乱を来たしかねない。子宮に針をさして、羊水を20ミリリットルほど抜き取って、そこに含まれている胎児から剥がれた皮膚や粘膜の生きた細胞を培養して染色体を検査する羊水検査は、平均で300回に一回の割合で流産が引き起こされる。誰にも迷惑や危害を及ぼさない技術だからといって、出産に関する自己決定権の行使として守られるべきものであろうか。妊娠率が低くなると言われてもいるこの着床前診断にあっては、8分割した段階で細胞を1〜2 個、検査のために取られるというのであるからして、胚の尊厳を冒していないと言い切れるであろうか。
 倫理を云々する以前に、胚にとって安全な技術であるのか、疑問が残る。最も確実な男女産み分けは、精子に蛍光塗料を加え、レーザー光線を照射して、男女産み分けをするフロー・サイトメトリーという方法があるが、必要の前に倫理は無力であってはならない。
3 胎児に生まれてくる権利はあるのか
 祝福と希望に満ちて生まれてくる赤ちゃんもいる一方で、その4分の1ほどの数の胎児が中絶されている。日本では妊娠22週未満という〈線引き〉がなされている。妊娠中絶をめぐる〈線引き〉についての、ジューディス・ジャーヴィス・トムソンによる「人工妊娠中絶の擁護」(1971年)は、妊娠に繋がるかもしれない行為だと知っていながら行為に及んで、妊娠に到った場合の中絶をも擁護する議論を呈示した。どの段階から、受精卵は、胚ではなく胎児として、自然的紐帯のなかに迎え入れられるのであろうか。筆者の実感では、妊娠が最初に確認されて、超音波で、ごくごく小さな心臓の、限りない拍動が目に見えるようになった時、8週目くらいだったろうか、その時から胎児は家族の一員になった。
 生まれてくる権利とか、女性の権利という概念で割り切れない命の繋がりが、その時からエコーの画面で目に見えるようになった。重要なのは、「権利」や「正義」という文脈ではなく、また受精卵一個の、胎児一人の生命ではなく、もっと大きな生命の繋がりの中で命が育まれてゆくというような形で捉え直されなくてはならないということである。「権利」や「正義」は、相手に対する共感・思いやりがない場合には、自分勝手なものになりかねないからである。家族として、胎児に対して理解を深め、共に生を営んでいく、そうした「生の繋がり」を、ディルタイは、「体験」を軸に分析的に描き出した。ヴィルヘルム・ディルタイは、『歴史的理性批判のための草稿』で、普遍的な生の連関を拓く契機を「体験」に見定めて、他者を理解することの成り立ちを明らかにしようとした。
 生きてゆくということは、「人生行路(Lebensverlauf)」という表現にもあるように、時間と場所を経てゆくことである。日々、私たちが生きてゆくさなかにあって、次々と時間を過ごし、さまざまな場所を得ながら、いろいろな体験をしている。体験(Erleben)とはまさに生きる(Leben)ことである。生きてゆく場所のそれぞれは、瞬間のそれぞれは、次々と流れ去ってゆくように思われる。にもかかわらず、そこを生きている私は、同じ私として、連続したアイデンティティを担っている。人生の意義と目的とが自覚されていてこそ、その都度の出来事が体験として、その人の糧になる。
4 結び
 個人の人生自体、自分だけで営まれているのではないのは、私たちの〈自己〉が、家風や家柄、しつけや作法、生活習慣や生活スタイル、経済状態、倫理観、順法意識、国家、宗教、芸術への趣味、学問、思想によって 影響されていることからしても、明らかであろう。親になって初めて、子育ての限りない喜びと束の間の苦労と些かの心配とが理解できる。
 私たちに理解できるものが用意されていないことについては、理解のよすがを持つことができない。他者を理解しようとすると、自らを相手の立場に置き換えてみる「自己移入」が必要である。そうであるならば、書かれたテクストを読む場合であろうと、人に接する場合であろうと、いや、さまざまな患者さんと接する医療者であればこそ、相手を理解するためには、それだけ解釈する人の体験を豊かにしておかなくてはならないことになる。

【略歴】 栗原 隆(くりはら たかし)
       新潟大学人文学部教授(近世哲学・応用倫理学)
 1951年 新潟県新発田市生まれ。新潟市立万代小学校〜鹿瀬小学校〜鹿瀬中学校〜見附市立葛巻中学校〜長岡高等学校
 1970年 新潟大学人文学部哲学科入学(1974年卒業)。 
 1974年 新潟大学人文学専攻科入学(1976年修了)。
 1976年 名古屋大学大学院文学研究科(博士課程前期課程)入学(1977年中退)。
 1977年 東北大学大学院文学研究科(博士課程前期課程)入学(1979年修了)。
 1979年 神戸大学大学院文化学研究科(博士課程)入学(1984年修了・学術博士)
 1982年 大阪経済法科大学非常勤講師(1991年辞職)。 
 1984年 神戸大学大学院文化学研究科助手(1987年辞職)。
 1987年 神戸女子薬科大学非常勤講師(1991年辞職)。
 1991年 新潟大学教養部助教授。
 1994年 人文学部に配置換え。
 1996年 新潟大学人文学部教授

【後記】
 難しそうなテーマでしたので、あまり多くの方は参加されないかも、、、と危惧しておりましたが、遠くは名古屋からの参加者も含め多くの方に集まって頂きました。
 今、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の、『ハーバード白熱教室』がTVや書籍で話題です。
 今回の栗原先生の講演は、同じような興奮を感じながらお聞きしました。 胎児の数は誰が決めるのか? 誰の迷惑にもならないことなら、何をしても許されるか? 胎児に生まれてくる権利はあるのか?
 出来ることはやるべきなのか?、、、様々なテーマを投げかけながら話が進みました。 「カント哲学」では、こう考える、、、、最後に医療従事者への提言と話は進みました。その展開にドキドキしながら引き込まれ、あっという間の50分でした。
 お互いが相手のことを理解することは大事なプロセスです。医療の現場においては特に求められていることです。しかし理解できるものが用意されていないことについては、理解のよすがを持つことはできません。相手を理解できるのが追体験のみであるとするなら、障害のある人を理解することは、障害のない人にはできないということになってしまいます。自らを相手の立場に置き換えてみる「自己移入」が必要と栗原先生は喝破されました。
 『眼聴耳視』(「げんちょうじし」あるいは「がんちょうじし」)という言葉を、何故か思い起こしました。眼で見るのではなく、眼で聴こう。耳で聴くのではなく、耳で見よう。大事なことは目に見えない。耳では聞こえない、という意味だそうです。
 眼で聴くというのは、明るく元気な人を見ると「幸せそうだ」と思いますが、心の叫びを聴けなければ本当の姿は分かりません。耳で視るということは、洗い物をしているお母さんは赤ちゃんの泣き声を聞いただけで、オッパイを欲しいのか、オムツを替えて欲しいのかが目に浮かんできます。何も語らない人の思いを聴いて、見えない姿に心を寄せて視るということです。
 哲学者である栗原先生の語りは、圧倒的でした。哲学というものを、今まであまり身近に感じたことはありませんでした。今回いろいろなテーマを突き付けられ、幾つかの論点を、さまざまな角度から考えるいい機会を設けることができ、とても有意義な時間を過ごしました。
 サンデル教授ばりのお話を、またお聞きする機会を設けたいと思います。
 栗原隆先生の益々のご発展を祈念致します。

【参考図書】 
  「現代を生きてゆくための倫理学」 著者;栗原 隆 
  (京都)ナカニシヤ出版 (2010/11/15 出版) 価格:2,730円 (税込)
 現代世界において露呈する、個人の自己決定権の限界を見据え、再生医療、臓器売買、希少資源配分、将来世代への責任など、現代の諸問題を共に考えることで、未来への倫理感覚を磨き上げ、知恵の倫理の可能性を開く一冊。



平成22年10月13日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第176回(10‐10月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「自分の視覚に制限のある方々の、(犬の)視覚で情報収集する歩き方」  
講師:多和田 悟 (財団法人 日本盲導犬協会事業本部 訓練・盲導犬訓練士学校統括ゼネラルマネージャー;神奈川県)
【講演要旨】
 私の母は今年87歳になる。母は『3年日記』をつけている。そのことを聞きとても嬉しくなった。それは母が90歳までの自分の人生に対して責任をもっている姿を見たからである。母が90歳まで生きられるかどうか母自身を含めて誰も知らない。母が努力をして、出来ることは自分で行うという自分自身の人生に対して責任をもっている姿が嬉しいのである。
 目の見えない、見えにくい人たちが歩行をする上で必要なのは、「角」「段差」「障害物」の3つを知ることである。この3要素の情報を伝えるツールとしての「盲導犬」は、生き物であるだけに使う上では犬の寿命という期限がある。「盲導犬」は「候補犬」として2歳までを訓育や訓練で過ごしその後、マッチングを経て目の見えない、見えにくい人たちの歩行を手助けする「盲導犬」としての仕事につき、8年後に10歳になると責任ある仕事から引退する。「盲導犬」を歩行手段に選ぶ目の見えない、見えにくい人たちは「盲導犬使用者」として自分の人生における歩行については『8年日記』をつけるのである。その姿は目の見えないあるいは見えにくい人たち自身が、見えにくい若しくは見えないまま自分の人生における歩行に8年間の責任を持つことを意味する。
 「盲導犬」が他の働く犬と違うところは、犬自身が行動を自発させなければならないことであろう。そのためには犬自身に今何をしなければならないか、どちらに行こうかなどの判断を委ねなければならないことが多くある。私は「盲導犬」に限らず、犬が行動を起こす動機は“快”には近づき“不快”から逃げようとすることしかないと考えている。犬にとって厳しい訓練は大多数の犬にとって“快”と感じることはないであろう。その結果は厳しさが“不快”となって求められることから逃げてしまう。犬にはその仕事を遂行する使命感も義務感もないからである。しかし楽しさの中で人から何を求められているのかを理解し人が求めることを遂行すれば、犬自身にとってもそれは“快”の行動になる。我々は犬に人がどのような行動を求めているのかを理解させ、それを行わなければならないかを納得させる。それがない限り、犬自身がその行動を取る自発は生まれてこない。その行動が犬に満足を与えれば継続して行うことができる。これが我々が「盲導犬」のパフォーマンスを、8年間維持できる理由である。
 私のこの仕事への取り組み方は、様々な人との出会いによって変わってきている。初期は先輩に学んだように、犬のパフォーマンスを上げて目の見えない、見えにくい人たちは犬を信じてそれについて行く、というものであった。当然犬が間違えれば、目的地に行けないばかりか危険なことも多くあった。次のステージは、目の見えない、見えにくい人たちと一緒に暮らすことを苦にしない犬の素質により安全な「盲導犬歩行」を求めた。これで「盲導犬」と歩くことが、単なる移動から歩行に変わったような気がする。
次のステージは素質のある犬たちを使って「共同訓練(盲導犬歩行指導)」のなかで、使用者自身に「盲導犬歩行」の原則を理解していただき、犬の作業のメインテナンスを行ってもらおうとするものである。それによって8年間の「盲導犬」使用によって起こるであろう、犬の作業の経年劣化より使用者の管理技術の熟練が上回ると考える。8年後「盲導犬」が引退する時が最も良いパフォーマンスを出来る状態に作り上げている。「盲導犬協会」の役割は、その技術を維持向上させるためにアドバイスをしたり相談にのることであり、歩行の主体が盲導犬使用者自身にあることをお互いに認識している。
 私は1995年から2001年までの6年間を、オーストラリアのクイーンズランドで「クイーンズランド盲導犬協会」の訓練センターの設立に関わり、実務の責任者として働いた経験を持つ。英語は外国語であるため、コミュニケーションには苦労した。幸い私が教える立場で現地の人達が学ぶ立場であったので、私の拙いコミュニケーションスキルで、どのように言えば理解されるか努力し忍耐した。同時に彼らも忍耐と寛容を持って受け入れてくれた。私は言語における少数派であった。私の英語が通じないときに最初に感じたのは、犬とのコミュニケーションである。犬たちは人間語を聞かされる少数派であったのだと思う。また圧倒的に視覚をもとに思考し歴史を作ってきた私と、視覚を使わないもしくは制限の中で思考し歴史を作っている目の見えない、見えにくい人たちの関係も私が視覚を使える多数派で彼らが少数派であることを感じた。人はその存在自体が値高く尊い。人はHuman Being でありHuman Doingではないことを教えてくれたのも、私が少数派として英語で考えたことである。人を理解することはUnderstand(下に立つこと)であって、Overstand(上に立つ事)ではないことも学んだ。理解できないことは下に立ち続けることで、私が負える重荷を担いたい。
 これからも視覚が主な情報収集の方法でない目の見えない人、見えにくい人達とNon Visual Communicationについて考え続けていきたい。

【略歴】
 1974年 青山学院大学文学部神学科中退
    財団法人日本盲導犬協会の小金井訓練所に入る。
 1982年 財団法人関西盲導犬協会設立時に訓練部長として参加。
 1994年 日本人では唯一人の国際盲導犬連盟のアセッサー(査察員)に任命される。(現在に至る)
 1995年 オーストラリアのクイーンズランド盲導犬協会にシニア・コーディネーターとして招聘。
     後に繁殖・訓練部長に就任。
 2001年 オーストラリアより帰国。
     財団法人関西盲導犬協会のシニア・コーディネーターに就任  2004年2月 財団法人関西盲導犬協会のシニア・コーディネーター退職。
    3月 日本初の盲導犬訓練士学校、財団法人日本盲導犬協会付設盲導犬訓練士学校教務長。
    4月 財団法人日本盲導犬協会付設盲導犬訓練士学校開校
 2009年4月 財団法人日本盲導犬協会事業本部 学校・訓練事業統括ゼネラルマネージャー

 *盲導犬クイールを育てた訓練士として有名
  著書:「犬と話をつけるには」(文藝春秋)、「クイールを育てた訓練士」(文藝春秋、共著)等

【後記】
 多和田さんのお話はとても心に響くものでした。
 会場には、盲導犬クイールを育てた訓練士として有名な多和田さんが講師ということで、いつもの勉強会よりも多くの方と盲導犬が集まっていました。ところが「盲導犬の話をしても詰まらない。」と語り始めました。「新潟県に何頭の盲導犬がいるか?などということには関心がない。何人の盲導犬ユーザーがいるか?ということには関心がある。私の興味はあくまでも『人』であり、犬ではない、、、、、」。
 次々と興味深い話題が続き、話に引き込まれてしまいました。
 日本では盲導犬というが、韓国では案内犬という。
 見るって何だろう?聞く、味わう、触る、嗅ぐは現在で、見るとは将来を見据えている。
 盲導犬が教えてくれるのは、三つのことだ。角・段差・障害物。これが判れば、人間は歩ける。
 盲導犬への命令は英語だ。イングリッシュではないワングリッシュ。日本の命令語は、男言葉。
 盲導犬は、何故「犬」なんだろうか?犬は口が堅い。秘密を守る。常に脇にいる。
  人間、特に女房にとって旦那がいつも傍にいると鬱陶しい存在なのに。
 盲導犬は、使命で仕事をしていない。ハーネスを付けられると、お出かけが出来ると張り切るだけ。
 盲導犬は期限付きの「八年日記」。この子と8年は生きるという覚悟が必要。
 盲導犬で外に出かけられるようになった、それで何をしたいのかは本人次第。
 見えていた人にとって失明は、「死」を意味するかもしれないが、しかし同時に、新たに視覚障害者として生まれ変わったのだ。
 人間は英語で「human being」、「human doing」でない。何もしなくても、そこにいるだけで意義がある。
 私が望んでいること、それは幸せでいること be happy!
 犬が提供してくれる情報を読み説く能力・努力が大事。主役は犬ではなく、あくまで人間だ。

 恵まれた時を過ごすことができました。犬の話から人生の話まで奥の深いお話でした。
 お金が大事、物が大事とそれぞれの価値観があると思いますが、人との出会いが大事だとすれば、とてもいい時を一緒に持つことができました。多和田さんの深い洞察力に感激でした。
 今後は目の見えない人、見えにくい人達と一緒に、視覚が主な情報収集の方法でないNon Visual Communicationについて考え続けていきたいと言って講演を終えました。
 常に何かに挑戦しながら生きている多和田さん、今後の発展にも期待します。



平成22年9月8日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第175回(10‐09月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「テレビや新聞などの報道とは違う側面の介護現場」  
講師:内山 博貴 (特別養護老人ホーム介護職員;新潟県村上市)
【講演要旨】
 皆さんは「介護」と聞いて、どのようなことをイメージしますか?
 私は中学生の時に、近くにあった特別養護老人ホームにボランティアにいきました。臭いなどもあり、私は絶対できない、絶対なりたくない職業というのがその時のイメージでした。そんな私が介護の道に進むきっかけになったのは、高校の時のケガでした。高校野球の試合で左目に自打球を受けて、入院し手術することになりました。その時私を抜きで行われた同室の入院患者さんと看護師さんによる「私の進路会議」の結果は、看護師や介護士でした。実際私はケガ・手術・入院ということで、両親にとても迷惑をかけてしまったので、家から近いところで就職を考え、悩んで決めたのは介護の仕事でした。
 高校卒業時は、中学時代の介護のイメージはあまり深く考えず、何とかなるだろうとい軽い考えで、福祉の専門学校に進学しました。専門学校では実習で介護の現場に行くのですが、その時は「なんで介護に来てしまったんだろう。」というのが正直な思いでした。理由は三つありました。
 一つ目がオムツ交換の時の臭いでした。想像よりもきつく、初日でくじけそうになりました。
 二つ目は食事介助です。介助しようにも口を開けてくださらない。口に含んでも吐き出してしまう。そのような方の介助は私にはできないと思いました。
 三つ目は利用者の方を骨折させてしまったらどうしようという不安でした。利用者の方々は細いので、野球で鍛えた力で骨を折ってしまうんじゃないかと不安でした。
 しかし、慣れてしまえばそれらも全く苦にならなくなりました。
 そんな私が最初に勤めた所はグループホームでした。ここからは就職してからの利用者の方々とのエピソードを紹介します。
 社会人一年目当時、私は21歳でした。利用者の方から「おめさんは年いくつだね?」とよく聞かれることがありました。正直に21ですと答えるのは簡単ですが、それでは何も面白くないので「何歳にみえますか?」と聞き返していました。すると面白いことにほとんどの方が「50ではねぇろぉ?」と上から始めます。50から下がってくるのですが、いつも35歳で止まっていました。21歳なのに。
 グループホームでは利用者の方々と一緒に料理を作ります。私はほとんど料理の経験がなかったのですが、利用者の方にお浸しや煮物の作り方を教えてもらいました。野菜の名前を忘れてしまっても、包丁と野菜を手に取ると、ちゃんとその野菜通りに切ってしまうのを目の当たりにした時は驚きました。
 私を旦那さんだと思い込んでいる女性の方がいました。利用者の方・職員を問わず、私が他の女性と話をしていると、ゆっくり私の後ろに来て背中を叩いていくものでした。
 ある方は「何歳ですか?」と尋ねると、「にじゅう〜」っと言われるので、目の前に鏡を出して本人様の顔が写るようにすると、「わっ!!」とビックリされしばらく声かけに反応しなくなったこともありました。大変ひどいことをしてしまったと、深く反省しています。
 専門学校の先輩の結婚式で、創作落語を余興ですることになりました。レクリエーションとして利用者の方の前で話をさせてもらい練習をしました。利用者の皆さんは、昨日話したことを今日には忘れてしまうので、面白いところは昨日話しても今日話しても笑ってくれました。だから笑わない所を直して、創作落語を作る手伝いをしてもらいました。
 グループホームを五年勤め、社会人六年目から特養に異動になりました。
 食事介助をするといつも「奥さんは?」と聞いてくるおばあさんがいました。最初は真面目に「いませんよ。」と言っていましたが、それでは面白くないと思い、ある日「8人いますよ。」と答えると、「まさか!?」と驚いていました。その時98歳の自分からはあまり話さないおばあさんが、隣りでその話を聞いていたのですが、突然「ほっほっほ。」と声をだして笑うという希なことがおこりました。
 入浴介助の時に、胸の大きなおばあさんが「邪魔でしょーがね」と言っていたので、「昔は大活躍だったんじゃないですか?」と男の人を喜ばせたんじゃないかと、下心丸出しで話すと、「んだ、活躍した。近所の子供にも飲ませだすけの。」と返事がきました。自分がとても小さい人間に思えて、介助の手を止めて、気を付けして深々と頭をさげて「すみませんでした。」と謝罪しました。
 実際のところ低賃金・重労働・人数不足と言われる報道も現場の一部です。ただ、それだけではありません。面白いことや楽しいこともたくさんあります。介護とは、一緒に同じ時間を過ごす中で、利用者の方のほうが少し大変そうだから、私たちがちょっとお手伝いをしている、というものだと思います。資格ばかりに目がいく昨今ですが、最低限の知識・技術があれば、気持ちの方が大切になってくる仕事だと思います。
 今回の私の話で、皆さんの介護に対するイメージは少し変わったでしょうか?

【略歴】
 平成13年…高校三年の夏、全国高校野球新潟県大会の準々決勝の試合で、自打球を左目にぶつけ、近くの病院に入院、その後に済生会新潟第二病院に転院、左眼の手術を受ける。
 平成14年…高校卒業後、福祉の専門学校に入学。
 平成16年…介護福祉士の資格を取得、卒業後地元の社会福祉法人のグループホームに就職。
 平成21年…特別養護老人ホームに異動になり、現在に至る。

【後記】
 辛いと思っていた介護の仕事を楽しそうに語る内山君を見ていると、こんな方に介護してもらっている方は幸せだろうなと思いました。
 内山君との出会いは、彼が新潟県立村上高校の野球部で活躍していた18歳のころでした。その夏、正捕手で6番バッターの内山君の活躍は目覚ましく、村上高校としては数十年振りに県大会のベストエイトに勝ち進んでいました。その活躍は地元の新聞(新潟日報)でも取り上げられ、野球好きの私は陰ながら応援していたものでした。準々決勝で自打球を左眼に当て、「外傷性黄斑円孔+外傷性網膜下出血」で当院に入院となり、今度は主治医としてお付き合いが始まりました。
 高校野球のスターから一転して入院生活と、人生の中でとても辛い日々ではなかったのかと案じていましたが、当の本人は明るく看護師さんとの会話を楽しんでいたようです(胸の内は判りませんが)。
 これまでも一度、この勉強会でお話してもらったことはありましたが、今回はいっそう成長した姿を披露してくれました。
 「低賃金・重労働・人数不足と言われる報道も現場の一部です。ただ、それだけではありません。面白いことや楽しいこともたくさんあります。」
 「資格ばかりに目がいく昨今ですが、最低限の知識・技術があれば、気持ちの方が大切になってくる仕事だと思います。」
 どこの世界でも通用する極意を、早くも27歳にして会得したようです。  今後がますます楽しみな青年です。



平成22年8月11日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第174回(10‐08月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「今昔白内障治療物語」
講師:藤井 青 (新潟県眼科医会会長、前新潟市民病院眼科部長)
【講演要旨】
 白内障は眼球内の水晶体が混濁する病気です。主因は加齢ですが、赤外線の被爆、オゾン層の破壊など環境破壊による過度な紫外線被爆、職業現場における紫外線やレントゲン線の過度な被爆、恒常的な高温環境などの影響も注目されています。二次的な原因はある程度予防できるとしても、主因である加齢を完全に抑えることが出来ない以上、長寿高齢化に伴って、手術適応症例は増加します。更に、運転免許証がどうしても必要な職業や生活環境の増加が手術適応を拡大しています。
 一方、「白内障の手術をすると、眼鏡なしで遠くも近くもよく見えるようになる」「白内障手術は短時間で出来る簡単な手術」などという、誤った風評が眼科医療現場に様々な問題を起しています。白内障手術は本当にそんなに簡単で全く危険のない手術なのでしょうか? もう完成した手術で、今後の進歩は望めないので、少しでも見難くなったら急いで受けた方が良い手術なのでしょうか? 
 風評に惑わされ、誤った判断に陥る危険を回避するためには、白内障手術に対する先人達の大変な努力と苦労の跡を辿り、現在の高度な手術に至る道程を振り返ってみることも有意義ではないかと思います。
昔のことは確実な文献が少なく、伝承や物語に近いところがあります。そのため、タイトルを「今昔白内障治療物語」とさせて頂きました。
 白内障に対する外科的治療は、これを手術といってよいかは甚だ疑問ですが、紀元前800年頃(約3000年前)から行われていたと言われます。尤も当時は、白内障を混濁した液が瞳孔の奥にたまったものと考えられていたようで、この濁った液が流れ出る道を針で作り、眼球の中の硝子体に流して瞳孔を透明にするという方法です。
 白内障が水晶体の混濁と判明したのは、ようやく1685年になってからのことです。フランスの眼科医・アントアーヌ・メートルー・ジャンが手術中、圧下させた物体(液でなく)が硝子体中でなく瞳孔から前房へ移動したことがきっかけです。いずれにしても、濁りを眼外でなく、眼球内に墜下する方法で、大変不確実で、危険なものでした。
 当時のインドにおける白内障手術についてはCelsus (チェルスース)の記載があります。「患者には手術などはしない。薬を塗るだけと言い聞かせる。頭を助手がしっかり抑える。左手で上眼瞼を抑えて、下方視させる。眼球に針を刺し虹彩または瞳孔を通して水晶体の周囲へ刺入する。瞳孔がきれいになった時点で、手の指などを見せ数えさせる。24時間眼帯し、その間に、隣村へ逃げる」という大変なものでした。
 日本の白内障手術はインドのベンガル地方からエジプト、更にヨーロッパ、中国を経て、10世紀頃に伝えられたとされています。疾病をテーマにした絵巻物『病草子』にも墜下法を行っている恐ろしい絵が描かれていますが、実際には、南北朝〜江戸時代になって漸く医療としての形が出来てきたようです。それには、1774年『解体新書』や杉田玄白らの「眼目篇図」、1815年の杉田立卿(玄白の子)の『眼科新書』が白内障手術の進歩に大きく貢献したとされますが、江戸時代の手術記録(土生玄昌)『白内翳手術人名』によると、3年前失明したという60余歳の商人に1851年に施行した白内障手術は、手術回数7(8)回、入院期間85日とあり、確実に濁りをとるということの大変さが伺われます。
 濁りを確実にとるという意味では、1864年に開発された「水晶体全摘出術」が白内障手術一つの完成といえましょう。しかし、様々な術中、術後合併症が起こり、大変だったようです。そのため、実際には、その後の約100年間は「水晶体全摘出術」でなく、「水晶体嚢外摘出術(白内障線状摘出術)」が行われました。この手術の術中合併症を少なくするには、眼球壁(角膜縁)に短時間で十分に大きな、早期に前房の消失しない綺麗な手術創をつくることが必要でしたが、このための素晴らしいナイフが考案されたからです。このナイフのデザインはコモ湖で眼科医仲間と寛いでいたグレーフェが突然思いついたもので、グレーフェ刀と命名されました。この手術刀について、「どう思いますか?」と訊ねたグレーフェに、ホルネルは「誰にもまだわからない。でも、これはシャンペンで祝うべきだ」と答えたといいます。 
 1922年に行われた、クロード・モネの白内障手術に係るフランスの眼科医ジェームス・G・ラヴィンの調査資料に、執刀した眼科医コーテアの記録があります。「白内障を手術するためメスを入れ、出来るだけ多くの水晶体を洗い出した。その晩、前房が改善され、大変安心した」とあり、手術は成功したのですが、縫合は全くしないか、行ったとしても一糸だけで術後10日間の絶対安静が要求されました。実際の術後安静の状態については、モネの義理の息子の記述があります。「1〜2時間おきに外用薬を点眼する時以外は完全な闇の状態。枕は使用禁止。頭が動かないように両脇に砂袋が置かれた。ベッドで水平に寝かされ、手は体の脇に伸ばして身動きできない状態を保たねばならなかった。付き添いは患者が動かないように常に見守り、精神に異常を来たさないように話しかける必要があった」ということです。術後の屈折異常(強い遠視)を矯正する眼鏡も慣れるのが困難で、モネはいろいろ不満を述べています。そんなに昔ではない20世紀に入ってからの話です。
 その後、水晶体全摘出術は手術器具と術式の改善により、かなり安全な手術になりました。濁りが全くなくなるため、当時の嚢外摘出術に比べれば格段に視機能の改善が高く、しばらくは水晶体全摘出術が全盛となりました。また、分厚い眼鏡レンズに対する対策としてコンタクトレンズの開発が寄与しました。
 再び、水晶体全摘出術から「計画的嚢外摘出術(改善された嚢外摘出術)」へと、術式が変更され、現在は「超音波乳化吸引術」が主流です。これらの進歩は、手術器具に加え「手術機械」や「手術用顕微鏡」の開発に負うところが大きいのですが、術後視機能の飛躍的向上という点では「眼内レンズ」の開発・進歩を特筆しなければなりません。
 眼内レンズは画期的な開発です。もともとの場所に代用レンズを挿入するわけですから、見え方は自然で、術後屈折異常の矯正法として最も理想的であることは議論の余地がありません。このレンズの発想は1766年に遡ります。有名なイタリア人小説家カサノバの回想録にこんな記述があります。「ヨーロッパを巡回していた眼科医Tadiniから、箱の中のレンズを見せられた。「虹彩の後ろの水晶体のところへ埋め込むつもりだ」ということです。その話をドレスデンの眼科医Cassmataに伝えた。早速Cassmataガラスレンズを試作し眼内に入れたが、重いため眼底に沈んでしまったそうです。
 実際に使用できるようになったのは、20世紀も後半になってからのことです。その後も色々な問題があり、改善が試みられています。その経過を以下に列挙してみます。
 1949 英国のRidley:Ridleyレンズ:水晶体に類似した形状で作成したが、重く安定性がなかった。
   → そこで、光学部と支持部に分ける形状にして軽量化をはかった。
 1952 前房レンズ(隅角部固定)が開発されたが、水泡性角膜症を多く発生し、眼内レンズは行ってはいけない手術とまで評価を下げた。
 1967 虹彩支持レンズ(Binkhorst)の開発:水泡性角膜症が減少しIOLは有用と再評価された。   白内障嚢内(全)摘出術後の虹彩支持レンズは嚢胞様黄斑浮腫起こしやすい。
   →  白内障嚢外摘出術が再評価されるようになった。
   →  従来の白内障嚢外摘出術ではなく水晶体皮質の完全除去が要求されるようになった。
 Shearingはオープンループの前房レンズを後房レンズとして使用。→ IOLによる合併症の軽減。
 現在主流の手術には、単焦点後房レンズ(後房foldableレンズ)が用いられていますが、付加価値IOLとして、表面処理レンズ(異物反応抑制)、色覚を自然にするための着色(黄色)レンズ、光障害対策のUVカット、明視域の拡大のために多焦点レンズも開発されています。手術手技の進歩と手術機械の進歩、眼内レンズの進歩、術後乱視の軽減・対策、術後屈折予測値の正確な測定などの進歩、などが相呼応して、白内障手術は目覚ましい進歩発展を遂げました。
 では、「白内障手術+眼内レンズ挿入術(水晶体再建術)」は本当に完成した手術で、今後の進歩は望めないのでしょうか。少しでも見難くなったら、早く手術を受けた方が良いのでしょうか?この答えはなかなか簡単ではありません。個々の患者さんによって異なる様々な要件を考慮し、総合的に検討する必要があります。
 少し前のことではありますが、1993(平成5年)の吉行淳之介著『目玉』の一節をご紹介したいと思います。「ある文学賞の授賞式で出席者名簿に署名していたらいきなり大きなものが被さってきて、私の頸を両側から絞めてきた。こいつめ、こいつめ、という声が耳もとでひびいた。ぼくはこんな眼鏡をかけているのに、なにもなしで、けしからん。埴谷雄高(はにや  ゆたか)氏だった。あらためて眺めると埴谷さんの眼鏡の左には度の強い凸型のレンズが入っていた」 昭和60年6月のことである。
 眼内レンズが認可されたのを待って白内障手術を受けた吉行淳之介氏と、その一寸前に白内障の手術を受け、眼内レンズ挿入術を受けることが出来なかった埴谷雄高氏の対話です。なんとも悩ましい問題ですが、これからも起きてくると思われる問題です。

【略歴】
 昭和40年  新潟大学医学部卒業。
 昭和41年  東京大学医学部付属病院にて医療実地修練
 昭和45年  新潟大学大学院医学専攻科(眼科学)終了。
 昭和48年  新潟市民病院眼科科長(現眼科部長)
       新潟大学講師(医学部非常勤、現在にいたる)
 平成8年   新潟市民病院地域医療部長(眼科部長兼任)
 平成12年  新潟市民病院診療部長(眼科部長兼任)
 平成16年 新潟医療技術専門学校 教授(視能訓練士科 学科長)
 平成19年 新潟医療技術専門学校退職
  (現在)  新潟県眼科医会会長
       いつ眼科名誉院長, ふじい眼科名誉院長

【後記】
 白内障手術の歴史について紀元前800年の頃から始まり、現代の白内障手術まで、どこで手に入れられたのか、図や写真を多く挿入され、見ごたえ聞きごたえのある講演でした。眼科医である私でも知らないことが多くあり、話に引き込まれました。そして3000年に及ぶ白内障手術の歴史を学び、今なおチャレンジの中にいることを知ることが出来ました。
 医療の現場では、「トライ&エラー」は許されないはずですが、医学や医療、特に手術が進歩する場面には、時に「トライ&エラー」が必要になります。第31回日本プライマリ・ケア学会学術会議の特別講演で永井友二郎氏が以下のように述べています。「われわれがよりどころとしている現代医学は、たいへん高いレベルに進歩しているといわれ、その事実もたしかにあるが、同時に、医学は完成したものでなく、開発途中にあり、どぎつい表現をすれば、医者はいつも病人に欠陥商品を売りつづけています。しかも、医者はこのことをやめるわけにゆかず、それを売り続ける義務さえあります、これが現実なのです。」
 今日行った最新の白内障手術は、明日には古いものとなるというリスクをいつもはらんでいます。患者の要求が高まれば高まるほど、以前であれば術後に分厚いメガネで矯正しても視力を回復できればOKだった時代から、乱視の少ない手術、そして眼内レンズの時代に代わり、眼内レンズも小切開・非球面・着色・紫外線カット、そして多焦点と変遷してきています。
 今回参加された皆様の中にも、実際に現在白内障と診断されている方、白内障の手術を勧められ迷っている方、白内障手術を施行した方などが含まれ、講演後の質疑応答も盛り上がりました。
 いつ白内障手術に踏み切ればいいのか?、、、こんな一見簡単な疑問に答えるにも、実は多くのことを考慮しなければならないとうことを、患者さんに理解して頂かなければなりません。とても短い診療時間では全てをお話しできません。今後もこうした機会を通じ、多くの方々に正しい医療情報を提供していきたいと思います。
 最後になりますが、どんな質問にも丁寧にお答え下さった藤井先生に、心より感謝致します。



平成22年7月28日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第173回(10‐07月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
「新潟盲学校弁論大会 イン 済生会」

1)「点字を学習して」  伊藤 奏(いとう かなで) 中学部1年
 今年の4月から全ての教科で点字を学習しています。小学校の5年生から少しずつ練習をしてきましたが、最初の頃はなかなか読めずに苦労しました。アイウエオから練習しましたが、タ行は点の数が多く苦労しました。毎日宿題を出してもらい3ヶ月で大分読めるようになりました。最近では少しずつ自信もつき、何とかやっていけるかなという気がしています。
 ずっと活字の拡大文字による教科書を使って学習していたので活字・点字ともどちらの良さもわかります。今年1年間で点字の読み書きのスピードを上げるためにがんばりたいと思っています。
 《弁士紹介》
 現在、万代太鼓・陸上部に所属しています。昆虫が好きで、昆虫に関してはいろいろと知っています。中学部に入学するまでは男子が一人となるので不安でしたが、入学してみると意外と慣れて今では楽しく学校生活を送っています。先日行われた体育祭では実行委員長を務めました。今は8月の新潟祭りに向けて万代太鼓の練習をがんばっています。

2)「人と関わるとは」   石黒知頼(いしぐろ ともより) 高等部普通科2年
 昨年、新潟市役所で「職業体験」をする機会がありました。そこで職員の方に点字について教えたのですが、人にものを教えることの難しさを実感しました。また、タクシー券を数える仕事をしました。その時にミスをしたのですが、そのことを伝えることができずに迷惑をかけてしまいました。自分の意思を人に伝えるということがとても大変でした。ついつい人にどう思われるかを考えてしまうからです。
 今後一人で暮らすことになると、ますます多くの人と関わることになります。自分でできることを増やす、できないことは人に伝える、助けてもらった時は感謝の気持ちを忘れないようにしたいです。そのためにも「自分の意思をはっきり伝える」、「わかりやすく教える」力を身に付けていきたいと思います。
 《弁士紹介》
 私は昨年の春から寄宿舎に入舎しています。高等部を卒業したら、茨城県の筑波技術大学に進学したいと考えています。済生会での弁論は今回で2回目です。高等部に進学後の体験を通じて考えたことを率直にお伝えできたらと思います。現在、野球部に所属し、今年度は7月1日より石川県で開催される北信越盲学校グランドソフトボール大会に出場してきます。

3)「出逢い」        長谷川弘美(はせがわ ひろみ) 高等部専攻科理療科1年
 出逢いって不思議だと思いませんか?出逢いによってこれまでの人生観が大きく変わってしまうことがあります。私にとって一番の出会いは母です。3年前に亡くなりましたが、私が幼い時に苛められると、「苛めるほうが悪い。天に向かって唾を吐くと、自分にかかってしまう」。「人に親切にされた時は、感謝の気持ちを忘れてはならない」。
 社会人になってからは会社の先輩に言われた一言が心に残っています。「僕は誰とでも仲良くなれる。あなたとも仲良くなれる」。当時の私は人の悪いところばかりみて批判していたのですが、それとなく諭してくれたのです。
 美しい言葉は、ありがとう。美しい心は、思いやり。美しい人は、ひた向きに生きる人。
 4月から盲学校に入学して多くの人・仲間と出会うことができました。悩んだり迷ったりしたときには教えられたことを思い出しています。
 出逢いの数だけさまざまなことを学び、成長していく・・・。これからも皆といっしょに学んでいきたいと思います。
 《弁士紹介》
 盲学校に入学して今まで忘れていた感動や優しさに触れ、元気をもらっています。勉強の方は今までになく頑張ってはいるのですがなかなか頭に入ってくれません。こんな流れに乗ってしまった自分にビックリしています。今一番の楽しみはいろんな人に出逢うこと、家では植物や金魚、愛犬にいやされています。

4)「夢の続き」       山田 弘(やまだ ひろし) 高等部専攻科理療科3年
 あなたは夢を持っていますか?私には一度あきらめかけた夢があります。ランニングの楽しさがわかり、自信も高まり、ホノルルマラソンへ参加しようと考えていました。しかし、ある時走っている時に人と接触して転んでしまいました。視野が狭いために脇に人がいることが分からなかったのです。このアクシデントで自信も失い、夢もあきらめてしまいました。
 しかし、昨年町内のマラソン大会に招待された千葉真子さんの何度も何度も挫折を乗り越えたという講演を聞き、もう一度挑戦しようと思い立ちました。
 みなさんも諦めてしまった夢がありましたら、再びチャレンジし追いかけてみませんか?
 《弁士紹介》
 昨年度に引き続いての参加です。7月1日より開催される北信越盲学校グランドソフトボール大会に参加してきます。今年度は最後の大会となるので悔いの残らないよう仲間と力を合わせ、精一杯がんばってきたいと思っています。弁論では自分の夢のことをお話しさせていただきますが、自分の考えていることをお伝えできたらと考えています。

【後記】
 毎年新潟盲学校の方々に来てもらい当院で弁論大会を開いています。そして毎回「どうしてこんなに純粋なんだろう」、「どうしてこんなに真っ直ぐなんだろう」と、多くの感動をもらっています。
 今回参加された方から、以下の感想を頂きました。

 先日は、盲学校の生徒さんたちのお話を聞かせて頂き、ありがとうございました。
 みなさんがとてもしっかりとした考えを持っていて、前向きで、自分が今何をすべきかをきちんと理解し、それに向かって着実に進んでいられる事に、ただただ圧倒されてしまいました。
 私は何年か前に失明しましたが、さほど落ち込んでいるつもりはありませんでした。それでも皆さんのお話をお聞きして、まだまだ弱虫の自分がいることに気がつかされてしまいました。
 これからも、たくさん勉強させていただきたいと思います。

 今回の弁論大会で、4名の方々から意欲や夢を聞き、「挑戦する勇気」、「感謝する心」、「夢を持ち続けるパワー」をもらいました。4名の弁士に心から感謝し、彼らにエールを送りたいと思います。



平成22年6月9日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第172回(10‐06月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「江戸町人の幸福感、楽しみ。らく隠居のすすめ」
講師:横山 芳郎(内科医、江戸文物研究家)
【講演要旨】
 ほどほどの働きで、人生を楽しみ、老後や病気の生活を心配なく過ごせ、家族仲良く、近隣が和んで暮らせるような生活を、一応、幸福な生活としますと、国民の何%がしあわせだという感じを持っているかを調べたデータがあります。北欧の国々では70-80%,日本やその他の国ではおおよそ60%代となっております。ところが、ヒマラヤの麓の小さい仏教国では90%に近い人々が幸福に暮らしていると答えたといいます。
 江戸の町人について想像してみますと、戦争や病、災害に明け暮れた中世と比べて、こんな災害は減り、農漁業の収穫も増え、手工業も発達し、庶民も駕篭や馬を使って遠い道中もでき、趣味や芸術の世界も広がり、夜の照明も暗闇から抜けだし、そんなことから今はいい生活ができているなぁと、生き甲斐のある幸せ感をかんじていたに違いありません。江戸中期以後は、町人による商業経済の発展と、毎年おきる江戸大火の復興産業のため、軽いインフレ状態が続き、町人は一日働けば、一日暮らしてゆける、比較的安穏な状態におかれました。家族が睦みあい、ご近所が助け合って暮らせれば、まあまあの幸福感を感受していたのだと思います。
 幕府は士農工商という租税を取り立てるランクを作り、よく働いて上納金を納めることが立派な人間の行為だと褒め上げ、その傾向は明治政府にも受け継がれ、富国強兵こそが日本の進み行く道で、産業を興し、租税を徴収し、兵役に耐える若者の健康を増進する政策に邁進しました。質素勉励、立身出世、偉くなって勲章をもらうのが最高の栄誉と教育をしました。
 21世紀に生きている人が、現代の科学万能の生活はすごいと感じて、江戸時代の人を気の毒に思いがちですが、未来22世紀に生きている人達からすれば、現在の人たちは何と不便な生活をしていながら喜んでいたなあと気の毒に思うかもしれません。
 現代人は無理をして業績を上げなければ成り立たない経済生活の上に乗っている社会に生きています。他人を蹴落としても上に立たなければ偉い人にはなれません。これに従っていれば、本質的に人生の幸福感は得られないと思います。まあこれは人間の持って生まれた「業」とでもいうものでございましょう。江戸町人は無理のない周囲と協調した生活態度に、生活の幸せを感じたのでしょう。
 勿論、そういうのんびり型の人たちばかりでなく、猛烈努力型の人も当然おりました。江戸のいろんな生活を示して人間の幸福感を考えてみました。勤労は神聖であり、働くことはすばらしいものだという考え方は、支配者、会社社長らが、働く者にそう思い込ませるために言い続けた、収奪のための美辞麗句とも考えられます。幸福と繁栄に到る道は、熟慮して仕事を減らしていくことにあるということとも考えられます。
 般若心経には「色即是空」という語があり、人間の世の中の生活は良くも悪くも一切が「空」と断じてから、しかし「空即是色」、人間世界が空であっても、虚空に駿馬を放つような仕事は有用なことだと断じています。人間いかに生きるかを考えさせてくれます。
 結局、江戸時代の不便ながら無理のない自然主義の生活を振り返って、現在の実質、業績主義、スピート主義と比較して、いかがなものでしょうという一石を投じた話をいたしました。

【略歴】
 昭和 5年 新潟市生まれ
 昭和30年 新潟大学医学部卒業
 昭和35年 同大学院終了(第二内科)医学博士、
 その後、昭和大学医学部臨床病理学 講師、新潟大学医学部第三内科  講師
 昭和44年―平成6年 内科開業(新潟市)以来、フリーランス内科医として江戸文物の研究、著述のかたわら、猫山宮尾病院、さいわいリハビリクリニック、などで勤務
 平成18年 新潟保健医療専門学校校長となる
 平成20年 介護老人保健施設「江風苑」施設長となる

【後記】
 江戸文物研究家の横山芳郎先生のお話には、江戸人の寿命、江戸という社会、江戸人の幸福観、江戸人の養生などが登場してきました。
 そして人間の幸せとは何だろうと考えさせられました。エレルギー・スピード・大きさを大事にする現代、老人の価値はあるのだろうか?時間がゆっくり流れていた時代には、一生かかって蓄えた智恵や経験、技術が尊重された、老いに価値を置く社会であった。 一日働けばその日を暮らしていける収入を得ることができた(宵越しの銭は要らない)。そして江戸町民の文化、粋(いき)の数々、お伊勢参り、上野の山の花見、隅田川の花火、大相撲、佃島、高輪、日本橋、黄表紙、、、、、  見せて頂いたスライドには、どれを見ても大勢の人たちが描かれていました。活気ある社会、時代、エレルギーを感じました。
 タイムスリップしたような時間でした。思えば、昭和30年代は、テレビがある家に近所の人が集まり、皆で一緒に大相撲を見ました。昭和40年代は、3C(カラーテレビ・クーラー・カー車)が憧れでした。そんな時代、日本中が皆が貧乏でしたが、誰も不幸とは思っていませんでした。そんなことも感じながら、私はお聞きしていました。
 「年をとることに、幸せを感じるのは、無理でしょうか。」 新聞の広告欄に、数人の子供と女性が田んぼの見えるところで、一緒に写っている写真が大きく掲載されていました。その女性は、なんとかつてボンドガールとして有名な浜美枝。66歳と年齢まで書いてありました。老人が気兼ねをしないで生きていける時代、尊厳を持って生活できる時代を望むことは、今や無理なのでしょうか?
 エネルギー・スピード・大きさを大事にする現代と比較して、老いに価値を置く社会(時間がゆっくり流れていた時代)は、一生かかって蓄えた智恵や経験、技術が尊重されたという今回のお話、とても印象に残りました。



平成22年5月12日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第171回(10‐05月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「こんなものが欲しい」   
講師:竹熊 有可(新潟盲学校専攻科理療科2年)
【講演要旨】
 私はクリスチャンで、教会でいろいろな会の司会進行をよくやっていたのですが、視覚障害のために時間を守ることが難しく、司会の奉仕を下ろされてしまいました。また、この眼科勉強会でお話させていただいた時に、持ち時間50分のところ90分も話してしまいました。
 お客さんとしてではなく、主体的に、情報発信側として社会参加をしていく上で、「与えられた時間を守る」ことはどうしても必要です。それができなければ、社会参加の機会を失ってしまいます。
 私が「こんなものがほしい」とお願いしたのは、持ち時間を任意に設定でき、持ち時間の残りがどのくらいであるかを音声以外の方法で確認できるタイマーです。この要望に対して、伊藤君たちは「振動式」と「触知式」の2種類のタイマーを作ってくれました。まだ試作段階ですが、私の願いを100%実現してくれたものになりました。この課題に取り組んでくれた伊藤君たち学生の皆さんに心から感謝します。
 略歴:竹熊 有可 (旧姓 小野塚)
  1967年 新潟県生まれ
  1990年 お茶の水女子大学文教育学部哲学科卒業
  2009年 新潟県立新潟盲学校専攻科理療科入学

演題:「福祉人間工学科で学んだ技術を生かして制作に取り組んだこと」
講師:伊藤 優也(新潟大学大学院 自然科学研究科 人間支援科学専攻 修士1年)
【講演要旨】
 私達が数分〜数十分の時間を確認する際、時計やタイマーを利用します。しかし、一般的な製品は、文字盤やディスプレイに表示されている時間を目で確認しなくてはいけないので、視覚障害者にとって利用しづらいです。
 一方、私達のところへ、視覚障害者でも時間を確認できるタイマーが欲しいという要望が寄せられました。この要望に応えたいと思い、視覚障害者用のタイマー開発に取り組みました。
 まず初めに依頼者の家を訪ね、タイマーの仕様について打ち合わせを行いました。次に、視覚障害者用のタイマー製品について調べました。主な時間の呈示方法は、音声や振動です。依頼者の要望は、講演の際に使えるタイマーです。しかし、音声式のタイマーは、講演中では音が邪魔になり不都合です。また、振動式のタイマーは、残りの時間毎に数回振動し、時間経過を確認できるのですが、時間を任意に設定できませんでした。
 そこで、時間を任意に設定でき、触覚呈示によって時間経過を確認できるタイマー案を考えました。製作したタイマーは、振動式と触知式です。学生2人で振動式と触知式に分かれて、試作機の製作に取り掛かりました。製作の報告として、週に1回メールを送っています。
 振動式タイマーの特徴は、決められた時間になると、決められた回数だけ振動します。ポケットに入る大きさなので、携帯に便利です。触知式タイマーの特徴は、決められた時間になると、凸点の数が1つずつ減っていきます。凸点の数を触ることにより、残りの時間を確認できます。時間を計っている間は凸が出ている状態なので、残りの時間をいつでも確認できます。
 製作に掛った日数は、約3カ月半です。1日あたりに取り組んだ時間は、約8時間で、触知式の製作に取り掛かった頃は、約10時間、部品の加工とプログラムの作成を行っていました。
 製作において苦労した点は、ニーズ把握と言葉で説明することの難しさです。ニーズについては、製作の初期段階において、視覚障害者がどのような点で不便を感じているのか、把握できていませんでした。 言葉での説明は、タイマーの形状や使用方法を詳細に説明するのに苦労しました。
 ニーズ把握、言葉での説明、この二点に共通して言えることは、自分が相手に対して正確に内容を伝えることです。「これ」、「ここ」といった指示代名詞を使って主に説明していたので、明確に内容が伝わらないことが多かったです。普段の会話の中でも、物の位置や名前を名詞で具体的に説明するように注意したいです。
 最後に、福祉機器を製作しての感想を述べたいと思います。製作で1番実感したことは、要件を満たす物づくりの大変さです。ユーザの要望を考え、それを実現するのには、時間と様々なアイディアが必要になってくることを実感しました。1つのことだけでなく、いろいろな視点で考える難しさを痛感しました。
 製作では苦労したことだけでなく、喜びもありました。それは、タイマーの便利さを実感していただいたことです。時間を確認しながら、自分の意見を話すことができたと喜んでいただき、大変嬉しいです。 この感謝の言葉を励みに、2年間研究に取り組み、タイマーを完成させたいと思います。
 ◆参考Webサイト
 視覚障害者用タイマー製品
  ○振動タイマー(ジャパンエレキット社)
  http://www.japan-elekit.jp/product/199
  ○トーキングタイマー
  http://www.nittento.or.jp/YOUGU/list/item/7/71526.htm
 試作した振動式タイマーと触知式タイマー
  ○新潟大学工学部 渡辺研究室のWebページ 平成21年度 学生研究テーマ
  http://vips.eng.niigata-u.ac.jp/StudentResearch/StudentResearch2009Jp.html
 略歴:伊藤 優也
  平成18年 3月 新潟県立長岡工業高等学校 卒業
  平成18年 4月 新潟大学工学部福祉人間工学科 入学
  平成22年 4月 新潟大学工学部自然科学研究科博士前期課程 入学

【後記】
 今回、視覚に障がいのある方から人間福祉工学の学生に与えられた命題は、目の不自由な人が使用できるタイマーの製作。
  まずは、これまでに使用されている視覚障がい者用のタイマーを検討。
  次に直接ニーズを聞き出し、これまでにない新しいものを創造する。
  そして使用してもらい、評価され、再度改善していく。
 こうしたモノ作りの工程を、モノづくり専門の工学部学生が体験するということ自体が素晴らしい学習であると感じます。びっくりしたのは、作成した学生から「使用してもらったことへの感謝」の言葉が話されたことです。作ってもらった人が感謝するのが普通だと思うのですが、、、、。清々しい感動でした。
 考えてみれば、時間を守るということは人間生活にとって大切なこと。伝説のジャズ・サキソフォーン奏者チャーリー・“バード"・パーカーの生涯を描いた映画「バード」(監督;クリント・イーストウッド 1988年)での中に、「我々黒人が馬鹿にされるのは、時間を守らないからだ」というセリフをふと思い出しました。
 白状しますが、私は遅刻の常習者。依頼原稿の締め切りに間に合わない、そして朝が弱い。
 「Punctuality is the soul of business. 時間の厳守は実務の真髄」 これからは時間厳守で行こうと、今更ながら肝に銘じています。

《特別企画》 落語「雑俳(ざっぱい)」  
     たら福亭 美豚(ウ゛ィトン) (加藤健太郎;新潟盲学校)
 加藤健太郎君の紹介〜平成12年12月生まれ、現在は新潟県立新潟盲学校小学部在籍。生まれつきの全盲です。ただ右目が光と色を感じることが出来るため、テレビを色で楽しむことが大好きです。とても賑やかな、おしゃべり好きな男の子です。
 落語との出会い〜盲学校幼稚部の時に先生から読み聞かせで、落語の本を読んでもらった事がきっかけで、子供落語の面白さを知りました。小学一年の時にNHK教育テレビを見ていると、偶然、子供落語があり虜(とりこ)になりました。本人が自分で録画し、何回も繰り返し見ているうちに暗記し、家で披露するようになりました。盲学校文化祭で発表したことがきっかけとなり、本来の目立ちたがりの性格もあり、毎年、文化祭で披露。地元の老人ホームや新潟市内の自治会で発表させてもらっています。
《感想》
 お母さんの用意した出囃子にのって登場した健太郎君の落語は圧巻でした。美しい声、流れるような調べ、抑揚をつけた語り口、、、学校の遠足で疲れていた中、袴をまといセンスを駆使しての落語。会場からやんやの喝さいでした。健太郎君の明るい性格は、落語に向いているのでしょう。
 今後もっともっと学校の勉強や経験を積んで、ますます深みのある落語の披露を期待します。
 今回の落語のきっかけとなった新聞記事を、以下に紹介します。
@@@@@@@@@@
目の不自由な児童が刑務所慰問  熱演に受刑者ら拍手
      新潟日報2009年9月23日
 刑務所に服役している人たちを励まそうと、目の不自由な児童2人が21日、新潟市江南区の新潟刑務所を慰問に訪れ、落語とピアノの弾き語りを披露した。約800人の受刑者は熱演に見入り、大きな拍手を送った。
 訪れたのは、新潟盲学校に通う燕市の加藤健太郎君(9)と、三条市の小学2年佐藤英里さん(8)。
それぞれ2年ほど前から県内の介護施設などでステージを披露し、一緒に活動することもあるという。
今回は2人そろって「ハンディがあっても頑張っている姿を見て更生に役立ててほしい」と、初めて刑務所を慰問先に選んだ。
 最初に加藤君が登場し、落語の「松竹梅」「さらやしき」の2席を披露。抑揚をつけた語り口で会場を楽しませた。加藤君は「刑務所ということで声がよく響いてうまくできた」と笑顔だった。



平成22年4月21日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第170回(10‐04月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「障害への心理的適応に関する研究の動向」
講師:鈴鴨 よしみ(東北大学大学院医学系研究科肢体不自由学分野 講師)
【講演要旨】
 障害や疾患への心理的適応は、古くは「障害受容」という言葉で語られてきました。障害受容には時間が必要で、ショック期、否認期、混乱期、努力期といった段階を経て受容(克服期)に至る、と考えられています。このようなモデルは障害者を理解するのには役立ちますが、受容に至る過程を支援するためのモデルとしては不十分でした。
 それに対して、認知行動療法の理論に基づいて心理的適応を理解しようというモデルが登場しました。認知行動療法とは、非適応的な行動・思考パターンを系統的に変容していく行動科学的な治療法です。ここで扱われる心理的概念は、定量的な測定が可能であり、行動科学的治療によって変容しうるものです。このような変数で心理的適応が説明できれば、支援すべき方策を考えるのに役立てることが可能となります。
 イギリスのDodds A.らは、1991年に、視覚障害への心理的適応を6つの心理的変数を用いて表わし、それを測定する尺度Nottingham Adjustment Scale(NAS)を作成しました。6つの心理的変数は、1)不安とうつ、2)自尊感情(自分を尊重する気持ちの程度)、3)視覚障害者への態度(視覚障害者に対して肯定的な態度か否定的な態度か)、4)ローカスオブコントロール(リハビリテーションの成否がどの程度自分の行動によって決まると感じているか)、5)障害受容(自分の障害を肯定的に受け止めているかどうか)、6)自己効力感(自分には必要なことを実行できる力があると感じる程度)であり、それぞれ0-100点の得点として表わすことができます。
 演者らはNASの日本語版(NAS-J)を作成し、全国5ヵ所の視力障害センターで職業訓練を受けている視覚障害者336名(男性261名、平均年齢41.5歳)に回答してもらいました。視覚障害者は、晴眼者の得点と比べて、不安・うつや自尊感情、障害者への態度、ローカスオブコントロールが低いことがわかり、視覚障害であることが心理的な負担となっていることがデータとして示されました。
 次に、障害への心理的適応はどのような構造を持っているかを、共分散構造分析という手法を用いて解析しました。構造が明らかになれば、支援者はどこに焦点を絞って支援すべきかがわかります。統計的に最も良いとされたモデルでは、行動の制御感(自己効力感とローカスオブコントロールに影響)が高まることにより内的自己価値(不安・うつと自尊感情に影響)が高まり、障害の認容(受容と障害者への態度に影響)が進むという3層の構造であることがわかりました。
時間的な経過(現在の視力になってからの経過年数)は、心理的構造モデルの3層のうち、障害の認容に影響を与えていました。このことは、障害の認容にはある程度時間という要因が関わることを示しています。しかしその影響はさほど大きくはなく、行動の統御感→内的自己価値→障害の認容という道筋の方が、時間的経過よりも強く関連を持っていました。つまり、時間と共に自然と段階を経るのを待つよりも、自分の状況について何らかの行動をし、統御感が高まることによって自己価値が高まり、心理的適応が進むと考えられます。
 次に、心理的適応と社会参加との関連を分析したところ、心理的適応の3層のうち、第2層目の内的自己価値が社会参加に影響を与えていました。このことは、不安やうつが解消され自尊感情が高まることで社会統合が促進されることを示しています。社会参加には、視力の程度も影響していましたが、視力にもまして内的自己価値からの影響が強く、社会参加の促進に心理的適応が果たす役割が大きいことがわかりました。
障害の認容は、社会参加とは直接には関連していませんでした。障害を認容ができないと社会参加はできない、ということではなく、受容までには至らなくとも、行動の統御感を高め内的自己価値を高める援助をすることで社会参加が促進されると考えられます。
 支援者には、心理的適応構造モデルの最初のステップである、自己効力感やローカスオブコントロールを高めるような支援を心がけることが求められます。1)成功体験を積むこと(現実的なゴール設定、改善目標を具体的な行動におきかえること、非適応的行動の維持要因を明確化しこまめに介入すること)、2)他人の成功体験を見ること、3)周囲からの賞賛や適度な関心を受けること、が自己効力感を高めるのに有効であることがわかっています。これらのポイントを、支援者が意識的に行うことで、より効果的な支援につながるのではないでしょうか。

【略歴】
 1981年〜1989年 山形盲学校教員
  (中略)
 1999年 東北大学大学院医学系研究科障害科学専攻人間行動学分野博士後期課程 修了
 1999年 東京大学医学系研究科国際交流室リサーチレジデント
 2000年 京都大学医学研究科社会健康医学専攻理論疫学分野リサーチレジデント
 2002年 財団法人パブリックヘルスリサーチセンターストレス科学研究所研究員
 2003年 京都大学大学院医学研究科医療疫学分野 助手
 2006年 東北大学大学院医学系研究科障害科学専攻肢体不自由学分野 講師
        現在に至る

【後記】
 この勉強会で鈴鴨先生にお話して頂くのは、今回が2回目です。
 障害者の心理的適応に重要な因子は何か?支援者が何をすべきか?大きな命題でした。
 講演では、いろいろな難しい言葉が沢山出てきました。
  PRO(patient reported outcome患者が報告するアウトカム)、Nottingham Adjustment Scale (NAS障害への心理的適応を測定)、心理的適応、障害受容の段階モデル、認知行動療法、共分散構造分析。 しかし講演では、難しい内容を判り易くお話して頂きました。
  曰く、Doddsの言うような「先ず受容ありき」ではない。
  曰く、受容しなくても社会参加は出来る。
  曰く、社会参加は残存視力以上に心理的適応が大事。
  曰く、心理的適応を得るには、自己効力感とローカスオブコントロール(リハビリテーションの成否がどの程度自分の行動によって決まると感じているか)が大事。
  曰く、自己効力感を高めるには、成功体験を積む・他人の成功体験をみる・周囲からの賞賛と関心が大事。
 障害を持つ方と接する支援者の観点からの分析でした。
 講演後の参加者の感想も興味深いものがありました。
  「うつ」「不安」が、視覚障害者の心理的適応を妨げる要因になっている。   社会参加が重要とされるが、高齢者は周囲から社会参加を閉ざされている。   受容は一生無理。ただ、食べる、会社に行くこと等々を行うことにより社会的受容していく。   日本の古きしきたりは、認知行動療法のような効果がある。例えば、葬式。通夜・告別式のころは、当事者は混乱期にあり隣組が面倒を見てくれる。初七日、四十九日、百日とやらねばならぬことを経て、心理的適応していく。。。
 当事者サイドからの発表を聞く機会が多かったのですが、今回は支援者の観点からの研究。  とても刺激になりました。このような研究の益々の発展、祈念します。



平成22年3月10日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第169回(10‐03月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「短期視覚障害リハビリテーション訓練の効果 アンケート結果から」  
講師:原田 敦史(日本盲導犬協会仙台訓練センター 指導員)
【講演要旨】
視覚障害者が施設に入所して行うリハビリテーションは、半年から1年という期間で実施しているところが多くあります。日本盲導犬協会仙台訓練センターでは、入所訓練としては短い2泊3日・1週間・2週間という期間のリハビリテーション訓練を実施してきました。その参加者は7年間で100名近くとなりました。
 半年・1年という期間と比べるとかなり短い期間となりますので、はたしてどの程度役に立っているのか、一度振り返る必要があるのではと、今回、参加者に訓練後の様子を聞くアンケート調査を実施しました。主な結果は昨年、高知市で行なわれた第18回視覚障害リハビリテーション研究発表大会で発表しましたが、今回はそこで触れられなかった参加者の感想を中心に報告しました。
 短期リハの概要を紹介します。対象は東北6県と新潟県に住む視覚に障がいのある方です。年間2回または3回の実施しています。1日の流れは10時に訓練開始、1コマ75分で計4コマ行ない、16時45分に終了します。2週間だと40コマ、1週間だと24コマになります。訓練は歩行、パソコン訓練、日常生活訓練等、利用者の希望に応じて実施します。プログラムは事前の聞き取りにより、個別のものを作成し状況に応じて変更しながら実施しています。
 アンケート結果ですが、帰宅後、訓練を活用できているかという質問には、78%が活用できていると回答しました。
 活用できている理由については以下のような感想が挙げられました。歩行訓練では段差の処理・点字ブロックの活用などの技術的な感想が挙げられました。その結果、散歩・通院ができるようになった等、目的地への移動が可能となったことがあげられました。パソコン訓練ではインターネット・メールの活用ができるようになったことが一番に挙げられました。回覧板の作成や年賀状・短歌や文章の作成等もあげられ、帰宅後に十分活用している様子がうかがえました。日常生活訓練は活用できていると回答した割合が最も多くなりました。感想としては、フライパンからこぼすことがなくなり単独での料理がしやすくなった、食器の扱いが安定した、包丁の置き方が分かった等、調理に関する具体的な感想が多く挙げられました。掃除や洗濯がスムーズになったことも挙げられ、実際の生活場面での利用の様子がよく伝わってきました。これらは事前に訓練について聞き取りを行い、短期間であってもニーズに合ったものを提供できたからと思われます。
 しかし一方で、活用できていない人もおり、家族やヘルパーがしてくれるからという理由が多く挙げられていました。訓練の結果、できるようになったことがあっても、それを活用できない環境であることがわかりました。本人が面倒と感じるため・訓練が足りないという理由もありましたが、割合としては家族・ヘルパーがしてくれるから活用できないという理由が一番多くなりました。これは、施設に入所して訓練を行なうため、家族や関係者に実際の訓練の様子を見てもらうことができず、訓練報告はしているものの、なかなか理解を得ることが難しいことからだと考えられました。
 生活についての質問では85%が以前より良くなったと答えました。その具体的な理由としては、階段で転ぶことがなくなった・パソコンが役に立った・料理のレパートリーが増えたなどの技術的な理由があげられました。しかし、精神的に明るくなった・以前の明るい自分に戻れた・他の参加者と交流しやる気がでた・自信がついた等の精神的な変化を挙げた人はさらに多く、技術面よりも精神面での変化に短期リハが効果をあげていることが分かりました。
 今回の結果から、短期間であっても技術面・精神面ともに効果があったことが明らかになりました。長い期間、訓練を集中的に受けるということでの効果は高いですが、長期間のために訓練に参加できないという人がいるのであれば、このような短期の訓練もこれからどんどん行っていく必要があると考えられます。また遠隔地に移動できないという人もいることを考えると、地域で短期宿泊の訓練を実施していくことも今後の取り組みで必要ではないかと思います。日本盲導犬協会では、平成21年度に新潟県視覚障害者協会と連携して、新潟市内で1泊2日の宿泊訓練を実施しました。短い期間でしたが、次へのステップにつながった人もでており、今後、専門の施設がない他地域でも広げることができたらと考えています。
 訓練を受けたいけれども受けられないという人が多くいると思います。それはサービスを提供する施設や団体が地域にないから、期間が長いから、情報が届かないから等いろいろな理由が考えられます。これからは、訓練を提供する側も今までの方法ばかりではなく、利用者のニーズに合わせて提供方法を考えていく必要があるのではないかと考えています。

【略歴】
 平成 7年 3月 東北福祉大学社会福祉学部福祉心理学科 卒業
 平成 7年 4月 国立身体障害者リハビリテーションセンター 指導員
 平成 7年10月 国立函館視力障害センター 指導員
 平成13年 4月 国立神戸視力障害センター 指導員
 平成19年 4月 日本盲導犬協会仙台訓練センター 指導員

【追記】
 多くの驚きと、嬉しさがあるお話でした。
 盲導犬協会というと、盲導犬の訓練ばかりやっているものと思っていましたが、視覚障がい者の生活訓練もやっているというお話、新鮮でした。
 視覚障がい者が施設に入所して行うリハビリテーションは、半年から1年という期間で実施しているところが多いのに対し、日本盲導犬協会仙台訓練センターでは、入所訓練としては短い2泊3日・1週間・2週間という期間のリハビリテーション訓練(昨年、新潟市で1泊2日の宿泊訓練)を実施しているとのことでした。
 訓練内容は、歩行、パソコン訓練、日常生活訓練、点字、社会参加活動、盲導犬体験歩行等々、多岐にわたり、しかも受講者は自分に合ったものを選択できるというのも驚きです。
 日本盲導犬協会仙台訓練センターが担当している地域は、東北6県と新潟県とのこと、これも嬉しく拝聴しました。
 各地に出張しての訓練ですので、地方の方にとっては参加し易いというメリットがあります。  参加費用も、一週間(6泊7日)で9000円(食費・宿泊費として)と格安です。
 生活訓練は長期のほうが効果が上がるのでしょうが、長期に入所できる方は限られてしまいます。  このように短期の企画であれば、多くの視覚障がい者にとって参加し易いものと思います。  同じ障害を持つ方々が寝食を共にして訓練を行うことで、メンタル面で癒される、指導方法もスキルアップされるという短期入所によってのメリットが語られました。
 ネックは何と周知困難とのこと。深くは知りませんが、このような活動はもっと広く知らされるべきものと思います。今後は多くのメディアで広報し、多くの視覚障がいの方々に知って頂ければと思いました。各県単位で、多くの関係者が連絡を密に行えるようになることも課題です。
 そしてこのような地道な活動をしている、日本盲導犬協会仙台訓練センター、そして原田敦史さんのますますの発展を祈念します。



平成22年2月10日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第168回(10‐02月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「ロービジョンの臨床から」
講師:新井 千賀子(杏林アイセンター ロービジョンルーム;視能訓練士)
【講演要旨】 
今回の講演で私が考えていたことは、医療機関で提供するロービジョンケアが視覚障害リハビリテーションの中でどのような役割があるのか?ということと、その役割を担うことを前提とした時にケア担当者に求められること、そして今、私が日々の臨床で直面する問題である。 
 ロービジョンケアという言葉を耳にする場合、それぞれの立場で様々なイメージがある。医療機関でロービジョンケアを提供する側としては、最初に光学的補助具の提供が思いつく。しかし、実際にロービジョンケアの臨床を経験してみると補助具の提供だけでは済ますことのできない役割があり、それは医療機関だからこそ重要であると考えるようになった。その役割は、視覚障害リハビリテーションの窓口としての役割である。
 病気がわかり診断がくだされる時、多くの患者は視機能の低下によって起きる問題や困難は解決不可能であると考えている。そのような場である医療機関で提供されるロービジョンケアには、まず、その解決不可能と思われている問題の一部について解決可能であることを患者に伝える役割がある。また、その解決は患者が一人で立ち向かうのではなく、病院内や院外の様々な専門家や機関、施設、支援団体など多くのサポーターがいることを知らせる役割がある。それには、まずは患者の持つ問題について幅広く包括的に聴くことが求められる。なぜなら、ロービジョンケアの最終的な目的は患者の日常生活における視機能の低下による現実的な問題を解決していくことにあるからである。もちろん拡大鏡や眼鏡といった光学的補助具についての対応や、様々な視覚補助具の処方はロービジョンケアに不可欠であり基本的な役割である。しかし、その一方で包括的に患者の問題を聴きそれを整理し視覚障害リハビリテーションへ照会し多くのサポーターとの出会いをコーディネートする役割もあるのである。
従って、医療機関でのロービジョンケアでは視覚障害リハビリテーションの入り口として窓口業務をし、適切な関連機関や施設、支援団体などへ照会することも、もう一つの重要な役割なのである。
 この役割を担うためにケア担当者に求められるものは、患者の視機能に関連した問題を包括的に把握しそれを整理すること、その前提として視機能の状況と日常生活上の困難との関連を十分に理解しておくことである。
患者の多くは自分の視機能に関した問題は解決が困難であり、誰にも十分に理解されないと感じていることが多い。従って、ケアを提供する側は患者が視機能低下によって起きる問題について共感をもって対応する姿勢が求められる。また、患者の持っている問題が、視機能の問題であるか、医療機関への不満足や家族の問題、個人的な問題なのかということは整理が必要である。患者が訴えている見え方の問題や移動の困難、羞明などが、視野や視力、疾患の特性とどのように関連しているのか、さらにそれらが読書評価や移動や歩行の能力、日常生活動作等とどのような関連があるのか十分な説明が出来る事が求められる。
もちろん、このような知識は視覚障害リハビリテーションやロービジョンケアに携わる全ての関係者が共通に持っていなくてはならない知識である。ここであえてこのことを強調するのは、眼科では視力、屈折、視野検査など多くの検査が日常的に行われているからである。しかし、ロービジョンケアにそれらのデータを適用する場合には、まったく異なる視点が必要になる。この違いを十分におさえておかないと、読書評価やそのほかの行動評価、行動観察が患者の訴えや日常生活の困難の解決に有効であることが十分に理解できない。
 医療機関で包括的に患者の話を聴き始めるといくつかの課題に直面する。その一つは、ロービジョンケア担当者は自分があらゆることについてケアを提供しなくてはならないのか?という問題である。しかし、一人の人間や医療機関で出来ることには限りがある。私自身もこの問題に何度か直面したが、自分自身が専門的に対応出来ることと出来ないことを自覚してケアを行う事が大切であると考えるようになった。そして、専門的な技能を持ち合わせていない事についてはその分野の専門家や他の様々な機関や施設、支援団体への照会を積極的に行うようになった。
こうした作業をするには照会する専門家やサービスの内容や効果について幅広い知識が求められ、それらが不十分であると効果的な照会は出来ない。あらゆることが提供できる必要はないが、視覚障害リハビリテーションについて幅広く基本的な学習が必要である。
 もう一つは、視機能の喪失に関連した心の問題についての専門家の不在である。包括的に対応していく過程で、患者が解決できないと考えている視機能の低下による問題の多くが「解決可能であるかもしれない」ことが伝わり問題の多くは軽減されていくだろう。しかし、ロービジョンケアや視覚障害リハビリテーションの窓口業務だけではこの心の問題は十分に対応できない。心のケアについて十分ではないと患者に突きつけられることは多くのケア担当者が経験していることであると思う。視機能の喪失に伴う心の問題について、どのように患者と向き合うかということは患者だけでなくケア担当者にとって大きな問題である。
この問題に十分に対応できない理由は、この心の問題は誰でも対応できる問題と捉えられ専門家の介入について十分に考察されていないこと、視機能の低下とその困難について熟知した心の専門家がいないことにあると考えている。特に、視機能の喪失に直面していくターミナルケアが必要な患者にはより専門的な心の問題への介入が必要であると感じている。先にも述べたようにケア担当者はロービジョンケアの過程で患者の心の動揺とも共感しいくことが求められ、その影響を全く受けないわけにはいかない。
この動揺と共感する作業はケア担当者にとって心理的な大きな負担となる。心の問題の専門家の介入がないことは、患者にとってもケア提供者にとっても大きな問題なのである。 医療機関におけるロービジョンケアが包括的なケアとして成り立ち、視覚障害リハビリテーションの窓口として役立つためには、心の問題についての専門家の介入が求められるのではないかと考えている。

【略歴】
 平成 4年  筑波大学大学院修士課程 教育研究科修了 教育学修士
 平成 7年 国立小児病院附属視能訓練士学院 卒業
 平成 8年  恩賜財団済生会向島病院 眼科勤務
 平成 9年  国立特殊教育総合研究所・視覚障害教育研究部・弱視教育研究室・研究員
 平成17年 杏林アイセンター ロービジョンルーム担当
【追記】
 杏林大学でロービジョンケアを担当している新井先生の講演を、楽しみにしているファンは新潟に多くいます。今回も期待にたがわぬ明快なお話でした。
 曰く、医療機関でロービジョンケアを提供する場合、その第一歩は光学的補助具の提供であるが、さらに視覚障害リハビリテーションの窓口という大事な役割がある。
 曰く、患者の持つ問題について幅広く包括的に聴くことが大事。あらゆることを提供する必要はないが、視覚障害リハビリテーションについて幅広く基本的な学習が大事。その上で、多くの関係機関との協調、連携が重要。
 曰く、視機能の喪失に伴う心の問題について、どのように患者と向き合うかということはケア担当者にとって大きな問題。心の問題についての専門的対応が求められている。
 ロービジョンケアの話で理念やビジョンを述べるのは簡単ですが、聞くほうは詰らないものです。「連携、連携と言うけれど、現実には一人ぼっちだと感じることがある」、という件(くだり)には、思わず「そうだよなあ」と相槌を打ちながらお聞きしてしまいました。
 そんなことを言いながらも、決してめげずに前向きな新井節は聞く者を魅了します。新井先生の悩みは我々にとっては贅沢とも感じるところもあります。ロービジョンケアの分野に「スーパーバイザー」がいないとこぼしていましたが、聞いているものは皆、新井先生こそが「スパーバイザー」の一人と感じながら拝聴していました。
 今や杏林アイセンターは日本を代表するロービジョンケアのメッカ、いわば「高級デパート」のような存在です。一方、我々を含め多くの日本に点在するロービジョンクリニックは「コンビニ」のような存在ではないでしょうか?あらゆる困難に対応できる「高級デパート」ももちろん必要ですが、多くの方が地域でアクセスできる「コンビニ」も大事ではないでしょうか?負け惜しみもありますが、そんなことも感じながら聞いていました。
 新井先生の、そして杏林アイセンター・ロービジョンルームのますますの発展を祈念します。



平成22年1月13日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第167回(10‐01月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「視覚障害者と漢字」  
講師:渡辺 哲也(新潟大学 工学部 福祉人間工学科)   
【講演要旨】 
 視覚障害者による漢字の利用についてある学会で発表したところ、聴講者の一人から「視覚障害者に漢字を使わせる必要があるのですか」という質問を受けました。視覚障害者、特に全盲の方には点字があるのだから、それだけ使っていれば良いではないかという意見です。これに対するわたしの答えは次のとおりです。現在では視覚障害者がパソコンを使って文章を書いたり、電子メールをやりとりすることが一般 的になっています。そのような場面で仮名ばかりの文章を書いたら、第一に、相手にとって読みづらいでしょう。見える人にとっては、漢字を中心とする文節をひとまとめで読む方が、仮名を1文字ずつ読むよりも理解しやすいのです。第二に、仮名ばかりの文章は幼稚な印象を与えるおそれがあります。だから、漢字を使って文章を書けた方がいいと思われます。
 もっと重要な理由もあります。それは、漢字を核とする単語は日本語そのものであり、単語への理解を深めるには、単語を構成する個々の漢字の意味の理解が不可欠だということです。先天性の視覚障害児童の中には、「音楽」を「音学」と、「気勢」を「奇声」と思いこんでいるなど、同音異字への間違いがときどき見られます。このような場合、単語そのものの意味も間違って覚えてしまい、間違った使い方をしてしまうかもしれません(「奇声をそがれる」とするなど。正しくは「気勢をそがれる」)。
 視覚障害者が漢字を取り扱う体系としては、漢点字、6点漢字、詳細読みがあります。
 漢点字は、大阪府立盲学校教諭だった川上泰一氏が、視覚障害者にも漢字の文化を伝えたいという思いで考案しました。漢字を構成する部首などの要素を点字1マスで表現し、この要素を1〜3マス組み合わせて、一つの漢字を構成します。点字は通常6点ですが、漢点字は8点なので触って区別しやすくなっています。
 6点漢字は、東京教育大学附属盲学校教諭だった長谷川貞夫氏が、点字入力で計算機に漢字を印刷させるために考案しました。こちらも点字3マスを用い、1マス目が前置符号、2マス目と3マス目が漢字の音読みと訓読みというのが基本的な構成です。覚えるのは大変ですが、3回のタイピングで済むので、仮名漢字変換をするより速く入力できます。
 パソコンへの入力手段として多くの視覚障害者に日々利用されているのが漢字の詳細読みです。これは、漢字をその読みや熟語、構成要素などで説明することで、一つの漢字を特定する方法です。詳細読みはスクリーンリーダ製品ごとに異なっています。また、説明語によってその分かりやすさも変化します。
 渡辺は、平成15年から18年にかけて、この詳細読みを子どもたちにも分かりやすくするための研究をおこないました。まず、既存の詳細読みを子どもたちに聞かせ、詳細読みが表していると思われる漢字を書かせる調査をおこないました。その結果から、詳細読みで使われる単語が子どもたちに馴染みがあるかないかで、漢字の正答率が変わることを突き止めました。この知見を応用して、教育基本語彙などの資料をもとに、子どもたちにも馴染み深い単語を使った詳細読みを作成、再び漢字書き取り調査をおこなったところ、既存の詳細読みより高い漢字正答率となりました。
 最後に、知り合いの視覚障害者が実践している漢字の書き間違い防止策を三つ紹介します。一つ目は、語頭の文字が等しい同音異義語に警戒せよ、です。1文字目の詳細読みが予測通りでも2文字目が違っていることがあります。機会と機械、自信と自身などがよい例です。二つ目は、品詞を活用せよ、です。サ変動詞なら「何何する」と入力することで、名詞のみの単語を排除できます。三つ目は、辞書を活用せよ、です。仮名で辞書を引いて、意図した意味の見出し語をコピーしてくるのです。
 このような手段を使って漢字の間違いを減らした方がよいわけですが、漢字の間違いをおそれて書く機会が減るのでは本末転倒です。視覚障害者がせっかく手に入れたパソコンという筆記用具をもっと活用して、社会へ発信をしていきましょう。

◆参考Webサイト
 ○漢点字について
   日本漢点字協会:http://www.kantenji.jp/
 ○6点漢字について
   六点漢字の自叙伝:http://www5f.biglobe.ne.jp/~telspt/txt6ten.html
 ○漢字の間違いについて
   国立特別支援教育総合研究所共同研究報告書G-7「視覚障害児童・生徒向け仮名・アルファベットの説明表現の改良」(研究代表者:渡辺哲也):
   http://www.nise.go.jp/kenshuka/josa/kankobutsu/pub_g/g-7.html
 「気勢」を「奇声」とする間違いについては、pp.41-43、「盲学校における同音異義語練習問題の活用
実践例」(渡辺寛子)より引用。
 漢字の書き間違い防止策については、p.45、「同音異義語を間違えないための工夫について」(南谷和範)より引用。

【略歴】
 平成3年 3月 北海道大学 工学部 電気工学科 卒業
 平成5年 3月 北海道大学 工学研究科 生体工学専攻 修了
 平成5年 4月 農林水産省 水産庁 水産工学研究所 研究員
 平成6年 5月 日本障害者雇用促進協会 障害者職業総合センター 研究員
 平成13年4月 国立特殊教育総合研究所 研究員
 平成21年4月 新潟大学 工学部 福祉人間工学科 准教授
 現在に至る
【追記】
 楽しい時間でした。漢字検定試験か始まり、漢字の起源の話(倉頡:そうけつ)、成り立ち(象形・指示・会意・形成・仮借)、そしてヒエルグリフ(古代エジプトの象形文字)まで飛び出してくる漢字にまつわる話は、興味深い話題満載でした。あまり面白くて、ここまでで講演時間の半分以上を費やしてしまいました。
 今回の本題(と思われる)、視覚障害者における漢字を学ぶ意義、視覚障害者が漢字を取り扱う体系(漢点字、6点漢字、詳細読み)に話題が移ったのは残り20分くらいからでした。あっという間の50分でした。
 講演後の参加者の感想では、「漢字」を活用する脳と、「ひらがな」を活用する脳は同じ部位ではなく、両者を使用するということはハイブリットに脳を活用することになるという論評も飛び出し、いよいよ漢字への興味、視覚障害者と漢字への関心が深まりました。
 漢字の詳細読みに関する研究
 http://vips.eng.niigata-u.ac.jp/Onsei/Shosaiyomi/ShosaiJp.html
 新潟大学工学部福祉人間工学科
 http://www.eng.niigata-u.ac.jp/~bio/study/study.html
 今回の渡辺哲也先生、そしてこれまで本勉強会で講演された林豊彦先生、前田義信先生などの他、多くのキラ星如きエンジニアが、「福祉」をテーマに新潟大学工学部福祉人間工学科で研究しています。
 「福祉」という文字の入った工学部は全国でも珍しいとのことです。「ものづくり」の専門家が福祉の分野で活躍できることは数多くあります。新潟大学工学部に福祉人間工学科があることを誇りに思います。

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