済生会勉強会の報告 2009
 

平成21年12月9日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第166回(2009‐12月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「人生の途中で目が不自由になられた方の気持ちを支えるもの」 
講師:上野 英子(川崎医療福祉大学)
【講演要旨】 
 人生の途中、それも働き盛りのときに目が不自由になる、ということを経験したら、どう思いますか? 自分は役に立たない、死んだ方がましだ、家族や他人に迷惑をかけたくない、今まで出来ていたことが出来なくなる、など、様々の不安や戸惑いを感じると思います。つまり、自分自身の価値を喪失してしまうのではないでしょうか。
 そこで、価値喪失から障害と折り合いをつける過程において、どのような事象が影響し、どのように変化していくのかを周囲の人々との相互作用を中心にグラウンデッド・セオリー・アプローチに基づいて分析してみました。
 調査対象は、眼科クリニックに来院している患者11名(男性5名、女性6名、平均年齢64.2歳)で、主に対象者と調査者の1対1でインタビューを行い、周囲の人との相互作用について聞き取りました。
 分析の結果、中途視覚障害者は≪ぐるぐる回る気持ち≫(注1)を出発点にして、大別して2つのプロセスを経験することがわかりました。
 第1は、自分への≪過小評価から抜け出し心理的な小康状態に至る≫プロセスです。このプロセスには、他者からの≪関わりによる承認≫(注2)を継続して受けることが<心理的な小康状態>(注3)に至ることに大きく影響していました。
 第2は、自分への≪過小評価から抜け出せず、延々と回り続ける≫プロセスです。こちらは、他者からの<関わりによる否認>(注4)が主に働いたことにより、人にわかってもらえないから、<仕方がない>と思うしかないあきらめの気持ちに至ります。さらに、≪関わりによる承認≫がないために、延々と悪循環を繰り返すことになります。
 これらの結果から、重要なのは≪過小評価から抜け出し心理的な小康状態に至る≫ことであり、≪関わりによる承認≫が促進剤の役割をしていることです。しかし、<関わりによる否認>が主に働いた場合、「過小評価」から抜け出せないことが明らかとなりました。
 このことから、人生の途中で障害者になる、という自分自身の価値喪失の危機から抜け出すには、本人のことを理解する≪関わりによる承認≫を続けていくことで、「心理的な小康状態」につながる支援を行うことが必要であるといえます。
 眼科外来へ来院する患者さんは、様々の不安を抱えて来院されます。その方々に、自分自身の価値の喪失体験からなるだけ早く人生の再構築を行えるようになるまで、主に身近な人の≪関わりによる承認≫を軸に心理的なサポートを行える環境を整えることが医療・福祉に携わるスタッフの役割ではないかと考えます。
(注1)≪ぐるぐる回る気持ち≫ 自分に腹が立ったり、自分のことだけ考えるといった渦の中で、他者との関係に対し、自分のもどかしさを表現できず、八つ当たりしてしまったり、家族などが献身的に支えてくれる、その行為自体に重荷を感じ、自分なんか死んでもいいと思ってしまうこと。
(注2)≪関わりによる承認≫ 周囲の人が、離れている家族が気にかけてくれたり、同居家族が献身的に支えてくれたりといった[価値を認めてくれる対応]を[障害があるなしに関係なく変わらず続けてくれる]こと。
(注3)≪心理的な小康状態≫ 中途視覚障害者が自分の障害と向き合う中で、喪失感に伴う苦しみや新たな自分の発見といった、揺れ動く気持ちを抱えながら何とかバランスをとりつつ生活をしていくこと。
(注4)<関わりによる否認> 見えないことで心ない仕打ちを受けたり、障害者として利用されたりした経験から、中途視覚障害者が周りの人からの関わりを否認的と捉えた関わりのこと。
【略歴】
 平成11年 3月 岡山県立津山高等学校 卒業
 平成11年 4月 神戸親和女子大学 入学
 平成15年 3月 神戸親和女子大学 卒業
 平成15年 4月 川崎医療福祉大学博士課程入学
 平成21年10月 川崎医療福祉大学博士課程休学
現在に至る
【追記】
 ≪ぐるぐる回る気持ち≫ ≪心理的な小康状態≫ ≪関わりによる承認≫ ≪関わりによる否認≫等、独特な言い回しも印象的でした。一度は小康状態になったとしても、すぐに元の状態に戻ってしまうこと。 ≪関わりによる承認≫(価値を認めてくれる対応)が重要であることが理解できました。今後、障がい者や患者さんをサポートする場合、参考になると思いました。
 「診察の場」で患者さんと会話する時間は多いのですが、案外、患者さんの「生の声」を聞くことは少ないものです。
 今回のような研究には、患者さんの心を開くインタビュー(優しさを伴った聴く技術、質問する技術)と、非常に地道な追跡が必要とされます。その点で、上野さんの語り口や話し手との対応は、充分に期待できるものを感じました。
 上野さんの今後の活躍、期待します。

PS:
 医療福祉分野では科学的根拠に基づいた研究や実践が当たり前になっていますが、数値に置き換えて考えることが難しい現象を明らかにしていく質的研究も求められています。今回の研究法は、グラウンデッド・セオリー・アプローチ (Grounded Theory Approach)。
 この方法論は、社会学者のBarney Glaser and Anselm Straussによって提唱された、質的な社会調査の一つの手法で、アメリカの看護学において定着しています。特徴は、患者へのインタビューや観察などを行い、得られた結果を文章化し、特徴的な単語などをコード化しデータを作り、コードを分類して分析します。



平成21年11月11日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第165回(2009‐11月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「視覚障がいをもつ母親の、結婚から育児までの体験とサポートの実態」
講師:半間 由香(新潟大学医歯学総合病院 看護師)
【講演要旨】
背景:平成2年、大阪で視覚障がいをもつ母親が見えないことから育児に困り、将来の子育てに不安を感じ、生後2カ月の赤ちゃんを窒息死させたという事件が起きた。視覚障がいをもつ母親の結婚から育児の実態に関することはあまり知られていない。このような事件を防ぐために、どのようなサポートがあればよかったのかについて検討することが必要と考えた。
目的:視覚障がいをもつ母親の結婚から育児の体験と、実際に利用したサポート(保健医療や福祉に関連した公的サービスや、各種のソーシャルサポート等)、及びその中で抱いた不安・困難を明らかにする。
方法:インタビュー調査を行い、結婚期、妊娠期、育児期(1.誕生〜3歳頃、2.学童期〜青年期)に分類し、各時期で不安に思ったことや困難だったこと、どのようにして乗り越えたのか、得られた・または得られなかったサポートは何か、についての語りをそれぞれ単文化してまとめた。
結果:各時期の不安に感じたこととサポートを短文化し、列挙する。
 結婚期の不安としては、「見えにくい・見えないゆえに、母親としての役割(家事、育児等)をこなすことに自信がない」、「目の病気によって子どもへの遺伝の可能性について心配があった」、「中途視覚障がいをもっている人に必要な情報について、どこからも得ることができなかった」などがあった。
 サポートとして、「ピア(視覚障がい者)からの体験やアドバイスを得ることができた」、「夫や両親から障がいについて理解してもらい、サポートを受けられることがわかったため、結婚に前向きになれた」、「両親からの理解を得られず、結婚に反対された」、「病院から必要な情報を得ることができなかった」。
 妊娠期の不安としては、以下のようなものがあった。「育児技術を習得することができず自分たちで育てていけるのか自信がなかった」、「医師や看護師に子どもへ病気が遺伝する可能性や出産することによって視力低下の進行が生じること等の相談をすることができず、精神的な支えが得られなかった」。
 この時期に受けられたサポートとして、以下のようなものがあった。「夫から母子手帳を読んでもらう等して育児関連の情報を得ることができた」、「母親教室では目のことに配慮した指導を受けることができた」、「母親教室に参加できなかった、わかるように指導してもらえなかった」。
 育児期(誕生から3歳)の不安として、以下のようなものがあった。「育児関連の情報を得にくかった」、「見えにくい・見えない状態のために、育児をすることや子どもの安全を守ること、病気に気づくことが困難であった」、「視覚障がい者の育児について知っている保健師がおらず、頼ることができなかった」。
 サポートとしては、以下のようなものがあった。「夫や両親から実際に育児を手伝ってもらった」、「視覚障がいをもつ母親への訪問経験がある保健師から精神的な支えを得ることができた」、「ピアから育児の工夫を聞き、参考にすることができた」、「身近に頼みやすく、すぐに対応できるサポートがない」、「保健師は視覚障がいをもつ母親が困難と感じていることをわかっていない」、「保健師の指導は見える立場からのアドバイスのために役に立たなかった」。
 育児期(学童期〜青年期)の不安として、以下のようなものがあった。「他の母親と交流することが困難だった」、「弱視の人では他の人から見えにくいことを理解されないためにサポートを得ることが 難しかった」、「親に障がいがあることを理由に子どもがいじめを受けた」、「目が見えにくい・見えないために、できないことを感じる体験をすることが多くなり、それによって死にたいと思うことがあった」、「子どものちょっとした心の変化に気づいてあげられなかった」、「子どもの結婚の際、自分の目の病気のために、縁談がなくなるのではないかという心配があった」、「孫への病気の遺伝について心配があった」。
 サポートとしては、以下のようなものがあった。「晴眼の母親の方から、自分のできないことをサポートしてもらうことができた」、「視覚が必要なところを、子どもから見てもらうことができた」、「子どもがいるということ、自分を理解してくれているピアや友人の存在が心の支えとなった」、「ラジオによる教育相談を参考にした」。
 以上より、見えにくい・見えないためにできないことがあることで不安を感じることはもちろんのこと、実際に育児を始めてからも育児をすることが困難だと感じることがあるということがわかった。
 実際に育児を手伝ってもらう、アドバイスを受けるというサポートについて、どの母親も夫や両親やピアからサポートを受けることができていたことが明らかとなった。子どもへの遺伝の心配、障害に対する社会の偏見から生じた子どもへのいじめ、他の人から見え方を理解してもらえないこと等の不安・困難もあることもわかった。
 問題点に対する精神的サポートは少なかった。特に医療職者に関するサポートとして、病院では必要な情報(病気の遺伝に関すること等)が得られない、目のこと赤ちゃんのことを一緒に診てくれる医療者がいない、保健師は視覚障がいをもつ母親の育児についてわかっていないことが挙げられた。
結論:母親たちが一人で不安・困難を抱え込まないため、多くのソーシャルサポートが必要である。
 具体的には以下のサポートが挙げられる。視覚障がい者のリハビリ施設の増設、育児を手伝うようなヘルパー制度の充実、電話で相談を受けてくれるようなサポートの整備、病院から視覚障がい者に必要な情報の提供、医師や看護師より母親の目の状態から生活面における不安・困難にまで対応したサポート体制、保健師から視覚障がいをもつ母親が抱く不安・困難に対応する情緒的サポート。
 さらに重要なのは、母親たちが一人で不安・困難を抱え込まないために、これらのサポートへ早期につなげることである。

参考資料
 朝日新聞 聞蔵ビジュアル 
 http://database.asahi.com/library2/main/start.php?loginSID=53863bf09a5bf3f9447d4e51a28215c1
 アクセス 2008.9.20

【略歴】
 2005年 新潟南高校卒業
     新潟大学医学部保健学科看護学専攻 入学
 2009年 新潟大学医学部保健学科看護学専攻 卒業
     新潟大学医歯学総合病院 看護師として入職

【後記】
 多くの当事者の声を聞き取るナラティブアプローチ(質的研究)は、より心に残るものになることを実感しました。
 半間さんのお話をお聞きして、いろいろと考えさせられました。  
 視覚障がいを持つ方が、結婚を決意すること、子供を作ろうとすること、子育てをすること  それぞれに覚悟がいることだったと思います。
 今回は、視覚障がいと限定したテーマでしたが、病気や障害を持つすべての方々に当てはまるように思いました。
 本当に困った時に、誰かサポートしてくれる人がいることの大事さ。
 私達は目が不自由だと可哀そうなどとは思ってしまいがちですが、視覚障がいを持っている人は、「不便ではあっても不幸ではない」と言います。
 障害を受容するということは、決して容易に出来ることではありません。受容出来なくても、歩けるようになる、点字が出来るようになる、ことで徐々に社会復帰する。そうした中で、次第に順応していく過程が大事だと思います。
 喪失を経験すると、誰でも呆然とします。何もする気がしなくなります。その時にいくら励ましても効果はありません。「今のあなたでいい」と認めてあげること、やる気になるまで待つことも大事です。
 医療従事者は、病気を持つ人や、障害を持つ人と一番身近な関係です。特別な指導はできなくても、話しやすい存在になることが出来ればと思いました。眼科医として対峙するのでなく、目医者さんとして何でも話せる存在、、、。
 多くの「気づき」を感じた講演でした。
 半間さんは、このレポートを看護学の卒論としてまとめ、4月から看護師として活躍しています。勉強会参加者から、素敵な女性という感想が届いています。この経験を活かして看護師として、さらに飛躍することを祈念しております。



平成21年10月14日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第164回(2009‐10月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「視覚障害者とボランティア若者の出会いの場」
講師:前田 義信(新潟大学工学部福祉人間工学科,
         新潟大学人間支援科学教育研究センター;准教授)
【講演要旨】
 またまたやって来て,顔を出してしまいました新潟大学の前田です.皆さん,お元気そうで何よりです.だいぶ冷えてきたとはいえ,温暖化のお蔭(?)でいつもよりポカポカ陽気な新潟です.
温暖化対策として,(その1)毒を吐いても二酸化炭素を極力吐かない!(その2)吐くなら再利用!(その3)スベる話をして人々を寒くさせる!という,“温暖化対策の三原則”をそつなく実行することは誠に重要ですので,今日も堂々とスベる話で皆様に報告したいと思います.
 新潟県視覚障害者福祉協会と協力して,今回で13回目となる「視覚障害者のためのパソコン講習」を繰り返し実施してきました私たち新潟大学工学部の教職員ですが,その中でも下っ端の私はパソコン指導に興味を持つ大学生&大学院生に,そういう“場”を提供する,という役割を主に引き受けてきました.今日はそんな話です.
 え?その話は2年前にも聞いたゾ!ですって?バレましたか...そうなんです.似たような話です.でも同じ話を2度して誤魔化そうとか,そんなことは,これっぽっきりも思っていませんので,どうか信じて下さい.インディアン嘘つかない...(インディアンじゃないでしょうが,このウソつきっ,て逆説的に突っ込まれそうですが)
 話の前半では,パソコン講習を運営する際のシステムについてや,受講生とボランティア学生の参加者数の推移,パソコン講習に参加した学生さんにアンケートをとり,それをまとめたもの等をお話しました.ある意味,退屈ですね,こんな話.そこで後半では,主に学生さんに向けて,ボランティアとは何か?ニーズとは何か?といった話をしました.
 実は,ボランティアほど捉えどころのない概念もないですね.実際,10人いれば10通りのボランティアの説明がなされると思いますし,そもそもこの概念に実体はないんじゃないやろうか,と思考停止してしまいそうにもなります.そんな中で,金子郁容さんが「ボランティア−もうひとつの情報社会」に書かれていた『ボランティアは「助ける」ことと「助けられる」ことが融合し,誰が与え誰が受け取っているのかを区別することが重要ではないと思えるような,不思議な魅力にあふれた関係発見のプロセス』という言葉を紹介し,前田の経験も踏まえて前田流のボランティアの話をしました.
 ニーズに関しては内田樹さんが「こんな日本でよかったね−構造主義的日本論」で書かれていた『ニーズは「ニーズを満たす制度」が出現した後に,事後的にあたかもずっと以前からそこに存在していたかのように仮象する』という哲学的な表現を紹介し,それだけだと聞いてる人が首をちょこんとかしげておられましたので,前田流に解釈して,勝手ながら与太話に敷衍させて頂きました.
 まとめとして,人生とは?といった「お前が語るにゃ100万年早いわ」といった話で養老孟司さんの『世の中という複雑怪奇なものを変える単純な方法を1つだけ知っている.それは,その世の中を見ている自分全体を変えてしまうことである』という逆転の発想ともいえる話を紹介し,「今日はギャグなしです」と言って終わらせて頂きました.要は自分が変われば,面白くないと感じられた自分の人生が面白くなる,ちゅうことですね.ま,結局,いつも通りの駄弁を弄していただけとも言えますが...
 まだハタチに毛がはえた程度の学生の年頃で,パソコン講習のボランティアとして参加するには荷が重いかもしれません.でもボランティアってそんなエライもんでもありません.また,障害者に「この講習で何を勉強したいですか?」と聞いても明確なニーズは得られないかもしれません.だからといって困る必要もないんです.自分を変えてみよう.不景気の時代だからこそ変えてみよう.ハタチの今だからこそ変えてみよう.そうすると人生にギャグはなくても,何だか面白い.そんなふうに思えるかもしれませんよって...
 最後になりましたが,このパソコン講習は,新潟大学の林豊彦先生を筆頭に,中村康雄先生(現同志社大学),新潟県視覚障害者福祉協会の松永秀夫様,関良介様,佐藤喜代美様の6人で立ち上げ,その後,新潟大学の堀潤一先生,清水年美先生(現茨城大学),石渡宏基先生,岩城護先生,圓山里子先生(現新潟医療福祉大学),渡辺哲也先生,山口俊光様(新潟市障害者ITサポートセンター)の皆様で運営し,済生会新潟第二病院の安藤伸朗先生から支援を戴いて今日に至っております.皆様に深く感謝を申し上げます.
【前田義信氏 略歴】
 昭和63年 大阪府立 大手前高等学校 卒業
 平成5年  大阪大学 基礎工学部 生物工学科 卒業
 平成7年  日本学術振興会 特別研究員(3年間)
 平成10年 大阪大学大学院 基礎工学研究科 物理系専攻 修了(博士(工学))
         新潟大学 工学部 福祉人間工学科 助手
 平成13年 カリフォルニア大学サンタバーバラ校 研究生
 平成15年 新潟大学 超域研究機構 創生科学研究部門 兼務(3年間)
 平成16年 新潟医療福祉大学 非常勤講師
 平成17年 新潟大学 工学部 福祉人間工学科 助教授
 平成18年 新潟大学コア・ステーション 人間支援科学教育研究センター 兼務
         新潟大学 災害復興科学センター 災害地理情報分野 兼務(3年間)
 平成19年 新潟大学 工学部 福祉人間工学科 准教授
         広島大学大学院 複雑システム工学専攻 客員准教授(1年間)
 平成20年 新潟市障がい者ITサポートセンター コア会議メンバー
 現在,
  日本生活支援工学会資質委員会主幹事  電子情報通信学会「福祉情報工学研究会」専門委員
  電子情報通信学会信越支部 会計幹事  生体医工学シンポジウムプログラム委員
  新潟自立生活研究会幹事など
  http://www.gis.ie.niigata-u.ac.jp/~maeda/

【後記】
 前田先生は、平成19年11月の第141回勉強会でお話してもらって以来、2度目の登場です。  ユーモアたっぷりに学生ボランティアとは何ぞやと語ってくれました。
 曰く「団塊世代の視覚障害者と平成成熟社会の若手夢覚障害者,一体,どっちがボランティアしていてボランティアされているのか分からんような関係こそが,ホンマの関係なんとちゃうか」

 今回は、前田先生の博識に感心しました。
 「ボランティアとは」 金子 郁容(かねこ いくよう)
   ボランティアは,「助ける」ことと「助けられる」ことが融合し,誰が与え誰が受け取っているのかを区別することが重要ではないと思えるような,不思議な魅力にあふれた関係発見のプロセスである.
 金子郁容は慶応大学の工学部卒業、工学部の先生は読書家なんですね。 
 こうした関係は、医療の中にも通じるものがあります。いやひょっとすると、人間の業に普遍的に存在するものかもしれません。助ける・助けられる 教える・教わる 愛す・愛される、、、、、
 「ニーズとは」 内田 樹(うちだ たつる)
   ニーズは「ニーズを満たす制度」が出現した後に,事後的にあたかもずっと以前からそこに存在していたかのように仮象する.   どれほど本人にとってリアルであっても,それを指し示す言語記号や,それを満たす社会的装置が存在しないような欠如は「欠如」としては認知されない.ニーズはそれを満たす商品やサービスを提供するサプライヤーの側が創り出すものである.
 深いですね。医療の世界でも、よくニーズを知ることの重要性が語られています。もう一度、考えてみようと思いました。
 「人生とは」 養老 孟司(ようろう たけし)
   世の中という複雑怪奇なものを変える単純な方法を1つだけ知っている.それは,その世の中を見ている自分全体を変えてしまうことである.
 チェンジ! ポジティブな生き方は強いですが、、、、患者さんとお付き合いする時、「今のあなたでいいんだよ」というフレーズも大事です。
 内田樹、養老孟司、、前田先生のHP「独り言」で拝見していました。
   http://www.gis.ie.niigata-u.ac.jp/~maeda/

 大阪で育ち、カリフォルニアの空気を吸って、新潟で新たな挑戦をし続ける前田先生の素敵な人生に乾杯です。



平成21年9月9日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第163回(2009‐09月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「賢い患者になるために
   −視力障害を伴う病気を告知された時の患者心理、及び医師との関係の中から探る」
講師:関 恒子(長野県松本市;黄斑変性症患者)
【講演要旨】
1)始めに
 私は両眼に黄斑変性症を持っている。左眼は1996年1月、右眼は同年11月に近視性血管新生黄斑症を発症している。この病気に対する有効な治療法が確立していない中で、当時最先端医療の黄斑移動術を選択し、左眼は1997年強膜短縮の黄斑移動術を、右眼は1999年に全周切開の黄斑移動術を受けた。その後も合併症や再発のために数度の手術を重ね、現在眼底出血はないが、網膜萎縮のために暗視野と視力低下が進行しつつあり、左眼0.4、右眼0.2の視力である。
 私のように、視力低下をもたらす病気を突然宣告されたら、誰でもかなりのショックを受けるはずである。その時の患者の心理と問題点、治療を選択する際の問題点等を、私の経験を基に患者の立場から述べてみたい。
2)視力低下をもたらす病気を宣告された時、患者に起きる変化と問題点
◆ショックは理解力を低下させる
 私は初診時、「視力が落ちていく」と医師に言われ、考えてもいなかったことだけに、そのショックは大きく、「視力が落ちていく」という医師の言葉を失明の宣告と捉えてしまった。白衣高血圧症というものがあるように、白衣の前にいるだけでも患者は緊張し、通常とは異なる精神状態に陥るのかもしれないが、ショックは冷静さを失わせ、患者の理解力を低下させるものである。
 私は後になって、黄斑変性症=失明とは限らないことを理解できたのだが、このような患者の誤解や理解力のなさは、もともとその人に理解力がないのではなく、視力低下を起こす病気を突然告げられた時のショックによるところが大きい。
◆楽観主義者も悲観主義者に
 黄斑変性症の知識が皆無であった私は、診断を受けた際、医師から「視力が落ちていく」と言われ、失明した時のことばかりを考えた。視力の障害は直ぐさま日常生活や仕事に大きな影響を与えるため、「視力低下」と聞いた途端、大きな不安に襲われ、将来に希望を失う。どんな楽観主義者も悲観主義者になり、もはや医師の説明のうち、最悪の状態になった時のことだけしか心にとどめず、不安をますます増強させるのである。
◆ 不安や不便さは視機能の程度に比例しない
 歪み等のために、私が見え難さや不便を最も感じたのは初期の頃であった。その頃はまだ片眼は正常であったし、現在の視機能よりはるかに良かったにもかかわらず、精神的負担や訴えが多かった。初期の頃は、喪失感のほうが強く、残存する視機能をうまく使おうという意識などなかったからである。患者それぞれの不安の大きさや感じている不便さは、視機能の程度とは一致せず、患者への援助の必要性もまた障害の程度で決まるものではないように思う。
◆ 患者になったばかりの人は医師とのコミュニケーションが下手
 医師との付き合いに慣れない、患者になったばかりの人は特に、忙しそうな医師の姿に質問を憚り勝ちなものである。私自身も適切な折に適切な質問ができていたなら、もっと不安は小さく、あれほど不安を増大させることもなかったに違いない。不安を緩解するために患者のほうもコミュニケーション技術を磨く必要があるのではないだろうか。
◆ 自分の病気を受け入れ、病気と闘うために正しい知識が必要
 私が発症した当時は、黄斑変性症についての情報が現在ほど豊かでなかったこともあり、自分の病気について知識がないまま不安を募らせ、また不安のために心にゆとりがなく、知識を求めることさえしていなかった。その頃に、通院していた開業医から近視眼に関する一冊の本が私に与えられ、強度近視眼の危険性や、自分の病変がなぜ起こったのか、おおよそのことをその本から学ぶことができた。
 私が自分の病気を冷静に受け止めることができるようになったのはその時からである。正しい知識を得ることは、自分の病気と正面から向き合うことになり、それが病気を受け入れ、病気と闘う力に繋がると思う。
◆ 病気について正しい知識を得るために
 自分の病気に関する予備知識がないまま告知を受ける患者は多いと思う。その患者が医師から説明を受けても、その場で直ぐに病気を完全理解することは難しい。しかし正しく理解することは患者にとって必要なことなので、医療者の方々には、患者は理解できないものと決めたり、諦めたりしないで、情報を与え続けて欲しい。しばらくして冷静な心理状態になった時には理解力が増すはずである。家族に病気を理解してもらい、協力してもらうためにも先ず患者自身が正しい知識を持つことが必要である。患者も理解しようと努めて欲しい。
3)治療を受けるに際して
◆ インフォームド・コンセントはなぜ必要か
 Informed consent (I C)とComplianceは、医療の基本であり、医療者側と患者の信頼関係を築くもとになるものと考えられる。私の場合は、最初「視力が改善するかもしれない」という情報しか持たないまま黄斑移動術を受けることを即座に承諾して帰ったのだが、手術病院を紹介してくれた開業医からの、どんな手術なのかをよく知った上で承諾すべきだというアドバイスに従い、自分の方から病院に情報を求めた。そして再考の後、結局手術を選択した。手術の結果は、手術によって新たな障害も生まれ、全てを満足させるものではなかったが、まだ確立していない、予後も不明の危険な手術を選択したのは私自身である。だから結果は自己の責任でもあると思っている。
 充分な情報と熟慮の末の自己決定であったと信じているので、結果の如何に関わらず、手術を受けたことを後悔していない。しかし、もし私が不充分な情報のまま安易に手術を受けていたら、後悔も自責の念も生まれたと思う。これが私自身が経験した自己決定の大切さであり、ICの必要性である。
 しかし、たとえ充分な情報が与えられても、患者の背景によって理解度も、受け止め方も様々で、ICなど無駄と思える場合もあるかもしれない。中には自己決定を放棄する患者もいることだろう。しかし、たとえ充分な理解が困難な場合でも、説明をする医師の姿勢を見て、患者は安心して医療を受けることができるかもしれないし、またICの機会が医師と患者の対話の機会となり、信頼関係が芽生えるきっかけとなるかもしれない。
◆ 患者に要求される理解力と判断力、そして人生目標
 ICの機会を得て自己決定をする際に、問題となるのは患者の理解力と判断能力である。自分自身の価値観と人生目標がない者には判断基準がなく、自己決定は不可能である。信念を持って生きることが必要なのかもしれない。また日頃から健康情報に関心を持つことが理解に役立つこともあるだろう。
◆ 患者は情報を得ようとする姿勢を
 私も経験したことであるが、情報は患者から求めなければ得られない場合もある。しかし求める姿勢があれば得られるものであると思う。医師から説明を省かれないためにも、患者は得ようとする姿勢を示して欲しい。
◆ 理解と共感
 眼科患者に限らず、多くの患者は周囲の者に自分の病気の状態を理解してもらいたい気持ちを持っている。眼科の場合、検査によって視機能が客観的に評価され、医師も周囲の者もそれによって状態を把握することができる。だが、多くの患者は客観的評価を充分と思っておらず、診察時には見え難さや不自由さを訴え、主観的評価と客観的評価の溝を埋めようとする。これは私もついしてしまうことである。限られた診察時間を無駄にする無用な訴えかもしれないが、医師に理解され、共感が得られたと患者が感じた時、患者の苦痛は軽減し、信頼感を持つのではないだろうか。
4)終わりに
 患者にとって医師との関係は重要で、どんな患者も診察室の中の時間を大切に思っているに違いない。 病気が深刻であればあるほど患者は医療を頼りにし、医師は患者の人生に深い関わりを持つようになる。 上記に述べた患者の心理や問題点を認識し、理解し合うことが、患者側と医療者側のより良い関係を築く一助となり、また患者の方々にはより賢い患者になるための参考になれば幸いである。
【略歴】
 名古屋市で生まれ、松本市で育つ。
 富山大学薬学部卒業後、信州大学研修生を経て結婚。一男一女の母となる。
 1996年左眼に続き右眼にも近視性の血管新生黄斑症を発症。
 2003年『豊かに老いる眼』翻訳。松本市在住。
 趣味は音楽。フルートとマンドリンの演奏を楽しんでいる。
 地元の大学に通ってドイツ文学を勉強。
 眼は使えるうちにとばかり、読書に励んでいる。

【後記】
 いつも感じることですが、疾患を乗り越えてきた患者さんの言葉には迫力があります。
 関さんによると、、、、、
  「視力が低下していく」という医者の説明を、「失明宣告」と理解してしまった。
  当時最新の手術(黄斑回転術)について、一度は理解しないまま承諾してしまった。
  治療法を選択するのは、自己責任。
  自己決定するには、知識が必要。
  困難な病に立ち向かうには、医師との信頼関係が必要
 多くの示唆に富んだお話でした。医師には説明責任がありますが、患者さんは自分で決定し、自分の責任で治療法を選択しなければなりません。
 医者の患者さんへの病状説明は、急停車した電車での車内アナウンスと比喩した人がいます。原因は何なのか。これから復旧にどれくらい時間がかかるのか。こうしたことが早々にアナウンスされると乗客は安心して待っていられる。それがないと騒ぎ出す乗客が出てくると、、、、。
 患者さんが自分で決めることができるためにも、知識と患者さんの状況を、正しく伝えなければならないことを肝に銘じました。



平成21年8月5日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第162回(2009‐08月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「生活習慣と生活習慣病-究極のダイエット-」 
講師:二宮 裕(にのみや内科クリニック、内科医;加茂市)
【講演抄録】
はじめに
 日本人の死因は、がん、心疾患、脳卒中の順で、死因の約60%を占めている。「タバコと肺がん」、「高脂肪食と大腸がん」、「高塩分食と胃がん」などは有名だが、肥満があるとがんになり易いことも判ってきた。つまり、がんの発症は生活習慣と関係がある。日本人の平均寿命は世界のトップクラスだが、健康で長生きするためには、生活習慣を健全化して生活習慣病を予防し克服しなければならない。そのため昨年より特定検診制度が始った。太めの人が対象で、減量が問題解決の第一歩となる。  肥満について概説し、食事に関するヒトの特性、そして失敗しないダイエットについて検討する。
生活習慣病とは
 生活習慣病とは、食生活・運動習慣・休養・喫煙・飲酒などの生活習慣が発症や進行に関与する症候群と定義される(公衆衛生審議会意見具申/平成8年12月17日)。具体的な疾患として、糖尿病、高血圧、脂質異常症(以前は高脂血症)などがあるが、骨粗鬆症、高尿酸血症、がんなども生活習慣病に入る。
 *メタボリック症候群 生活習慣病と同類語(略;メタボ)。
   平成18年流行語大賞〜メタボ、品格、イナバウワー
肥満とは
 医学的に、肥満は「体の中に脂肪が過剰に蓄積した状態」と定義される。体重が多くても筋肉が多ければ肥満とは言わない。人間の体は、脂肪、筋肉、水分から構成されている。水分は成人の場合、常に体重の60%になるように保たれているが、脂肪や筋肉の割合は容易に変化する。運動すれば脂肪は減少し、しなければ増える。肥満やかくれ肥満の有無を判定するために、「体脂肪率」を知ることが必要となる。
 *かくれ肥満〜 BMIで「やせ」あるいは「正常」と判定されても、内臓脂肪が過剰にある状態。
       かくれ肥満も真の肥満と同様、糖尿病、脂質異常症、高血圧などをきたし易い。
 **BMI〜Body Mass Index, BMIは、体重と身長の関係から算出した、ヒトの肥満度を表す指数。
       BMI=w÷(t×t) 身長t [m]、体重w [kg]
日本肥満学会 BMIが22であれば標準、25以上の場合「肥満」、18.5未満は「低体重」。
肥満は悪いことか?−肥満と肥満症
 厚生労働省の発表によると、30歳以上の肥満者では、糖尿病、脂質異常症、高血圧症のどれかを持つ人(治療の対象となる「肥満症」)は80%であるが、何もない人(単なる肥満「単純性肥満」)は20%である。肥満だと病気になりやすい。正確には、肥満を放置すれば病気になりやすい。肥満が解消されれば問題はない。
肥満が病気を誘発するメカニズム
 脂肪は主に脂肪細胞に取り込まれ貯蔵される。太るということは、体に脂肪が蓄積される、つまり脂肪細胞が大きくなる(肥大化する)。肥大化した脂肪細胞からは、種々の物質が放出される。その中には血圧を上昇させたり、血管を詰まらせたり(脳梗塞や心筋梗塞につながる)、糖尿病の発症あるいは悪化を促す物質が含まれている。
内臓脂肪蓄積型肥満と皮下脂肪蓄積型肥満
 肥満は、脂肪の蓄積部位により、内臓脂肪蓄積型肥満と皮下脂肪蓄積型肥満に分類され、体形により前者は上半身型肥満あるいはリンゴ型肥満、後者は下半身型肥満あるいは洋ナシ型肥満とも呼ばれている。
どちらの肥満かを知る方法としては、ウエストとヒップ周囲の長さの比率(W/H比)を測定するのが簡便。男性では1.0以上、女性では0.8以上が内臓脂肪蓄積型肥満。
 健康上問題があるのは内臓脂肪蓄積型肥満。肥大した内臓脂肪細胞から病気の原因となる物質が放出される。内臓脂肪の量は食べる量ですぐ増減するが、皮下脂肪の量はなかなか変化しない。
太るのはなぜ?
 日常生活を営むために、エネルギーが必要である。吸収エネルギー量が消費エネルギー量を上回った時に肥満が始まる。エネルギーは食べ物から栄養を吸収することで供給されるが、その際得られた栄養は、グリコーゲンという糖分の一種として肝臓に、脂肪として脂肪細胞に蓄積し、必要な時に放出される。
 エネルギーは、基礎代謝や通勤やスポーツなどの運動で、あるいは食事に伴う内臓の働きで消費される。消費する以上にエネルギーを補給すると、つまり食べすぎると、脂肪細胞が肥大化し、肥満が始まる。運動した時に最初に使用されるエネルギーは血液中を流れている糖分で、次に肝臓に蓄えられている糖分、最後に脂肪を利用する。普通に歩いて40分経過して脂肪の利用が始まる。短時間の運動では脂肪は減らない。
ヒト以外の動物に肥満はない
 ヒトには肥満があるが、自然界の動物はどうだろうか。自然界で太る動物はペットと家畜だけである。 いくら腹いっぱい食べても野生のライオンは太ることはない。では、ライオンは太らないように腹八分目に加減して食べているのだろうか。やっと狩に成功して餌にありついたライオンが、少なめに食べるとは考えられない。ヒトだって明日の食料の保障のない時代には腹いっぱい食べていた。ヒトの歴史で肥満が目立ち始めたのは飽食の時代の到来からである。それはたかだが四〜五十年前に始まったに過ぎない。
 どうして太るようになったのか? 腹いっぱい以上に食べる、つまり食べすぎである。では、腹いっぱい以上に食べるとはどういうことなのだろうか。
食欲とは
 食べるという行為を考えてみる。意識的にせよ無意識にせよ、食べるという行為は、生命維持のためとそれ以外の二つの理由に分けることができる。ヒトを始め、あらゆる生物は生きて種を残すようにプログラムされていて、「食べること」は本能である。また「食べること」は文化(楽しみ)でもあり、これこそがヒトだけにある食欲の特性である。別の表現をするならば、ヒトの食事とは「食餌」プラス「アルファ」と言える。
プラス「アルファ」について
 プラス「アルファ」(以下α)は「おいしさの情報」と考えてもよい。具体的には懐かしいと感じるもの(おふくろの味や故郷の味)、おいしいはずだという思い込み(高価なものや珍しいもの)がαとなる。すなわち美味しさは脳で感じる。したがって、おいしいものは人によって違う。
食欲を生理学的に解析する
 「食餌」はグレリンとレプチンというホルモンで調節されている。グレリンが分泌されると空腹を感じ、食欲がでるため「食餌」が始まる。「食餌」を続けるとレプチンが分泌され満腹感が生じ、食べることをやめる。このメカニズムで体重のホメオスターシスは保たれる。何らかの原因で太ってしまうとレプチンが分泌されても満腹感を生じなくなり、「食餌」をし続ける。つまり「食べるから太る」から「太っているから食べる」状態に変化してしまう。この現象をレプチン抵抗性という。
 取り込まれた過剰のエネルギーは最終的には脂肪細胞に蓄積されるが、その際に細胞の形態は大きくなる。そして、レプチンは大きく変化した脂肪細胞から分泌され、視床下部にあるレセプターに作用するが、食事時間が短ければ、レプチンが分泌されるまえに過剰に食べてしまう。つまり満腹になった時には、すでに食べ過ぎている。レプチンの作用機序をもう少し細かく解説すると、レプチンはヒスタミンを神経伝達物質として脳神経細胞を刺激し、放出されたヒスタミンが満腹中枢に作動する。要するに、脳内のヒスタミン濃度が増えると満腹になる。ところで、脳内のヒスタミンはレプチン以外にも、咀嚼により増加する。早食いを改められない人は、よくかんで食べると満腹感が早めに満たされる。
「腹いっぱい以上に食べる」ということ
 たとえ満腹でも食後のデザートは胃に入る。甘いものは美味しいとか、甘いものを食べると心が落ち着くという経験を持っているので、その潜在意識が作用して、甘いものを見るとオレキシンというホルモンが分泌される。このオレキシンは「別腹ホルモン」とも呼ばれているが、これは中枢神経の報酬系を刺激し、食べたいという欲望をかきたて、食べる行為が達成されると欲望が収まるという働きをするホルモンである。一度の経験では報酬系が賦活されることはないが、何回か繰り返されると、甘いものを見ただけで、満腹であっても強烈な食欲が湧いてくるようになる。そのメカニズムは、タバコ、アルコール、覚せい剤、麻薬などと一緒。甘いもの以外に、先に述べたαの中にも人によっては報酬系ができる。「腹いっぱい以上に食べる」とは、このような現象である。
運動とダイエット
 運動を伴わないダイエットは危険である。人間の体は脂肪、筋肉、水分から構成されている。食事だけに頼ると、脂肪と筋肉の両方が減少し、両者の比率は変わらない。運動しなければ体重が減少しても脂肪の割合が減らないので、単に「かくれ肥満」になるだけである。
ダイエットに対する生体の反応
 ヒトをはじめ、動物は生きて種を残すようにプログラムされている。だからダイエットとは生きることへの反自然的行為、つまり本能に逆らう行為である。従って、体重が減り始めると、レプチンの分泌減少と基礎代謝の低下という手段で体重の保持、増加の機転が働き体重減少に対する抵抗が体内で始まる。
 ダイエットを開始すると、最初は順調に減量できても、上記二つの働きにより、思うように減量できない時期がやってくる。この時期に「もう我慢できない、私には無理だ」というマイナス思考になり、ダイエットが失敗に終わるケースが多い。ダイエットに右肩下がりの体重減少はない。減量と停滞の繰り返しである。しかし停滞の時期には必ず終わりがある。ダイエットは、停滞の時期があることを知りその時期を我慢して過ごすことによって成功する。
ストレスと肥満
 金魚を太らせる方法を何だろうか?小さな水槽で飼って、ライトを点けっ放しにする。つまり、運動不足と睡眠不足というストレスが肥満をもたらす。
睡眠不足と肥満
 睡眠が足りないと、各種ホルモンに変化を生じ、結果として太ってしまう。分泌が亢進するものとして、グレリン・オレキシン・副腎皮質ホルモン、分泌が低下するものとして、レプチン、成長ホルモンなどがある。従って不眠症は肥満の原因となる。
睡眠不足の解消法
 睡眠不足の問題点は睡眠時間の不足ではない。睡眠の質が問題である。ノンレム睡眠には第1期〜第4期の4段階がある。第1期はウトウトと眠り始める時期。数分後に第2期に移行するが、ちょっとした刺激ですぐ目を覚ます。順次、眠りの深い第3期、第4期に移行する。睡眠の質が良いとは、第3期と4期の時間が十分に得られることである。睡眠2期からすぐにレム睡眠に移行するような睡眠パターンは、肥満の原因となる。
 良質な睡眠をとるためには、睡眠ホルモンであるメラトニンが分泌される時間に合わせて就寝時間を設定することが必要。メラトニンは脳の松果体と呼ばれている部分から分泌される。メラトニンが分泌されている時間に寝ていると、質の高い深い睡眠が得られる。メラトニンは朝一番に受けた光刺激から15時間後に分泌される。睡眠の質を向上させるためには、生活のリズムを守ることが挙げられる。
  *レム睡眠(Rapid eye movement sleep, REM sleep)
    急速眼球運動(英: Rapid Eye Movement, REM)を伴う睡眠。
    睡眠中の状態のひとつで、身体が眠っているのに、脳が活動している状態。
体のリズムと規則正しい生活
 ヒトにはヒトのリズム(体内時計)があり、ヒトの概日リズム、つまりヒトの1日は25時間である。地球時計とズレがあり、このズレがヒトの体にストレスをもたらす。ストレスを受けるとストレスホルモンである副腎皮質ホルモンが分泌されて太る。体内時計と地球時計のズレを解消することは重要である。体内時計のリセットは、脳の視交叉上核が朝の光刺激に反応することで達成されるため、朝早く起きることが重要である。
 朝になると交感神経が活動しはじめ、血圧が上昇し、脈拍が増加し、その結果肺活量が増加する。この活動を潤滑に行うためのエネルギー源として、朝食が必要となる。朝食を摂ることから1日の活動が始まる。加えて、体温は目覚めた時から上昇し始め、午後最高となり深夜に最低となる。ヒトは朝型動物であって、決して夜行性ではない。朝早く起きて朝食を摂ることは、体のリズムを良くし、ダイエットの成功につながる。
まとめ
 肥満の解消に秘策はない。  あえて言うなら、規則正しい生活をし、腹八分目に食べることが最高の秘策といえるだろう。

【二宮裕氏:略歴】
 1952年生まれ 柴田幼稚園(青森県弘前市) 弘前大学付属小学校(青森県弘前市)
  市立南小学校(新潟県加茂市) 市立若宮中学校(新潟県加茂市)
  慶応義塾高校(神奈川県横浜市) 慶応義塾大学医学部(東京都新宿区)
  新潟大学付属病院 県立加茂病院(新潟県)
 2000年 にのみや内科クリニック開院 現在に至る
 資格 糖尿病専門医 IDF(International Diabetes Federation) 生涯会員
     日本体育協会スポーツドクター

【後記】
 糖尿病治療を専門としている内科の先生のお話。ユーモアたっぷりに、豊富なスライドと話題、大変な高度な内容でしたが解りやすく拝聴できました。
 糖尿病治療の根本は食事療法ですが、「食べること」実に奥が深いことに感銘です。
    「食べること」は本能であり、「食べること」は文化である。美味しさは脳で感じる。
  腹いっぱい以上に食べる、、、、別腹ホルモン。
  食べないこと(ダイエット)は生きることへの反自然的行為、本能に逆らう行為。
  ストレス。睡眠不足。良質な睡眠。体内時計。朝食を摂ることから1日の活動が始まる。
 ひとつひとつ、納得できるお話でした。
 お話を聞きながら、何故か小中学校の全国学力試験でいつも秋田県がトップクラスという話題を思い出しました。「中学受験が盛んな東京なら分かるが、進学塾も少ない秋田県がなぜ?」。いろいろと分析したが要因は、詳らかではありませんでした。ただ秋田のこどもたちの生活習慣が一番良かったといいます。家族と一緒に朝食を取る小中学生の割合は、全国平均を6―10ポイント上回っていて、これが要因の一つと考えられています。
 睡眠不足、ストレス、、、、すべて当てはまってしまう毎日を送っています。明日からは規則正しい生活を心掛けたいと思いました。



平成21年6月10日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第160回(2009‐06月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「杖に関する質問にお答えします」
講師:清水 美知子(歩行訓練士;埼玉県)
【講演抄録】
 市販されている10数種類の杖(下記)を、参加者に手渡し、それらの特徴をお話しました。最近は、杖の種類が増えていて、ジオム社や日本点字図書館用具部のカタログには30種余りの杖が載っています。全体的に携帯しやすい杖と、大きな球面を持った石突が好まれているようです。
<紹介した杖>
 ・色:白、黒、模様柄
 ・構造:一本杖、折りたたみ式、スライド式
 ・素材:アルミニウム、カーボンファイバー、グラスファイバー
 ・石突:ペンシル、マシュマロ、ティアドロップ、ローラー、パームチップ
 ・重量:110〜280g

 「歩行訓練」がわが国に紹介されて40年余りが過ぎました。これまで「歩行訓練」の教科書がいくつか著されてきましたが(文献1-5)、それらに記されている杖の操作技術(「ロングケイン技術」、thelong cane techniques)の基本は、ほとんど変わっていません。
<ロングケイン技術の基本>
 床に立ったときの床面から脇の下(あるいはみぞおち)までの垂直距離に等しい長さの杖を、次の5項目のように振る。
 1.手首を身体の中央に保持
 2.手首を支点として左右に均等な幅に振る
 3.振り幅は身体のもっとも広い部分(肩幅あるいは腰幅)よりやや広く  4.振りの高さは杖の先端の最も高いところで数センチ以下
 5.振る速度は、歩調に合わせ、杖が振りの右端(左端)に接地したとき、左足(右足)が接地するように振る

 一方、こうした教科書の基本通りに杖を使う人は稀で(文献6,7)、大方の人は、杖が脇の下までの距離より長かったり(短かったり)、杖を持った手を体側に置いたり、(その結果、またはそれと関係なく)振りは左右均等でなかったり、など基本型とは異なる形で振っています。また、大きな球面を持つ石突あるいはローラー式のように動く石突の普及が、石突を常時接地したままで振る方法(a constant-contact technique、文献8)を容易にさせ、石突の接地時間が延長の傾向にあるようです。
 その理由は、教科書通りに振っても物と身体の接触を100%避けられないというロングケイン技術の限界に加えて、教科書通りの基本型を維持するのは身体的につらい、保有視機能で段差や障害物が検知できる、杖は視覚障害があることを示す単なる印と考えている、歩行訓練を受けたことがない、球面の大きな石突の普及、杖使用者の高齢化などが考えられます。
 こうした状況を考えると、杖の導入段階での指導内容として、基本型を指導する意義は認めるとしても、指導者も使用者も型にこだわり過ぎないように注意することが大切だと思います。身体と物の接触あるいは衝突、路面の凹凸によるつまずき、踏み外し、転倒の頻度などを目安に、杖の種類・長さ・振り方の妥当性について、実際の状況で検証していくことが重要です。

文献
1.日本ライトハウス職業・生活訓練センター適応行動訓練室(1976).視覚障害者のための歩行訓練カリキュラム(失明者歩行訓練指導員養成講習会資料)第2版、厚生省.
2.Ponder,P. & Hill,E.W.(1976).Orientation and Mobility Techniques;A Guide for the Practitioner, AFB Press.
3.芝田裕一(1990).視覚障害者の社会適応訓練、日本ライトハウス.
4.Jacobson,W.H.(1993). The art and Science of Teaching Orientation and Mobility to Personswith Visual Impairments, AFB Press.
5.LaGrow,S. & Weessies,M.(1994). Orientation and Mobility;Techniques for Independence, Dunmore Press.
6.Bongers, R.M., Schellingerhout, R., Grinsven, R.V. & Smithsman, A.W.(2002). Variables inthe touch technique that influence the safety of cane walkers, JVIB, 96(7).
7.Ambrose-Zaken,G.(2005). Knowledge of and preferences for long cane components: a qualitative and quantitative study, JVIB, 99(10).
8.Fisk,S.(1986). Constant-contact technique with a modified tip: A new alternative for long-cane mobility, JVIB, 80,999-1000.

【清水美知子さん略歴】
 歩行訓練士として、1979年〜2002年 視覚障害者更生訓練施設に勤務、その後在宅の視覚障害者の訪問訓練事業に関わっている。
 1988年〜新潟市社会事業協会「信楽園病院」にて視覚障害リハビリテーション外来担当。
 2003年〜「耳原老松診療所」視覚障害外来担当。
 http://www.ne.jp/asahi/michiko/visionrehab/profile.htm

【後記】
 30本にも及ぶ杖を持参しての講演会でした。杖にもいろいろな種類があることを改めて知りました。
 清水さんはいつも障がい者の視点と、歩行訓練士の視点で語ってくれます。現状でいいのか、もっとこうあるべきではないか、もっとこうして欲しい、、、、。 歩行訓練、奥が深いです。
 以下、今回参加した医学部学生の感想を紹介し、編集後記の締めくくりとします。
 今日は、歩行訓練士の立場からのロービジョンへの取り組み、考え方を聞くことができ、今まで自分の知らなかった視点からロービジョンを捉えることができました。今までの実習では医療者側から患者さんに接してきましたが、疾患やその症状を評価するのに客観的なデータである視力や検査の結果に着目しがちでした。しかし、本当に重要なのは患者さんがどれくらい見えているのか、そしてその視力障害が生活に対してどの程度の影響を及ぼしているのか、であると再認識させられました。
 生活への影響は、年齢や生活パターン、合併する疾患など患者さんの状態に応じて千差万別であり、それを把握するためには時間をかけて一人ひとりの視覚障がい者としっかり向き合い、接していかなければなりません。歩行訓練士の清水さんは、歩行という動作を通じて一人一人の生活を把握し、杖によりサポートしていらっしゃいました。
 清水さんの話では、昔は種類が少なかったために限られた選択肢の中から杖を選んでいたのに対し、最近では杖の種類が増えてきたことでニーズに合わせた選択を行うことができるようになったとのことでした。また、歩行訓練についても昔は教科書通りの指導を行っていたが、最近では視覚障がい者の現状の歩き方を見た上で問題点を改善していくという方針に変わりつつあるそうで、より障がい者側の立場に立って指導されるようになっている。障がい者を取り巻く環境として、画一的な評価や指導を行っていた従来の状態から、一人一人の状況に合わせたサポートを行うように変化してきていることを知りました。
 現在の問題点は、障がい者、サポート側のいずれもが知識不足のために、今の便利な環境を知らないままに不便な思いをしながら歩行や生活を続けていることである。これを改善するために、まずはロービジョンの会合などを通じて啓発活動をしていくこと、そして医療者、福祉士、介護士を始めとしたスタッフが協力、連携していく必要があることを学びました。
 今後医療者として、治療行為を通しての患者さんのサポートはもちろんのこと、それに加えて今回の勉強会のような会合や新しい情報の提供という形でも視覚障がい者をサポートしていきたいと思います。



平成21年4月8日の勉強会の報告

安藤@新潟です。
第158回(2009‐04月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「医療紛争のソフトな解決について」
講師:宮坂 道夫(新潟大学医学部准教授)
【講演抄録】
 裁判外紛争処理(ADR、alternative dispute resolution)は、1960〜70年代に欧米で提案され、80年代から急速に国際的に拡大した。これは、司法制度の限界を見据えて、より柔軟な紛争処理の仕組みを設けようという運動であった。いくつかの異なった仕組みが提案されている。裁判の「前段階」として、司法の枠内にそのようなシステムを設けようという提案や、裁判とは独立した仕組みを提案する民間型の提案がなされてきた。
 日本の医療でも、裁判は紛争解決の手段として問題が多々あることが指摘されてきた。和田らは、(1)争点が法的問題に限定されること、(2)責任主体が限られた個人に限定されること、(3紛争解決の帰結が金銭賠償に限定されること、(4)対決的構図が必然的に設定されること、(4)医療現場への影響が大きいこと、等を指摘する(*1)。
*1 和田仁孝、中西淑美 『医療コンフリクト・マネジメント-メディエーションの理論と技法-』(シーニュ、200年)
 さらにこれに加えて、(5)患者の権利が法制度化されておらず、診療情報が医療側に独占されていること、にも関わらず(6)立証責任が訴えた側にあること、(7)医療者側の証拠提示義務が十分でないこと等も指摘されてきた。
「医療コンフリクト・マネジメント」
 和田らは、(A)医療紛争において、患者側のニーズと医療者側のニーズは、実はかなり共通している。(B)当事者のニーズに丸ごと対応できる、ケアの理念に基づくシステムが必要、という前提に立ち、「医療コンフリクト・マネジメント」を提唱している。それによると、当事者の対立は認知フレームの相違に基づいているので、「対立をもたらす認知フレームに働きかけ、それを変容させるべき」だという。そのために、メディエーターが、対立の構造(イシュー、ポジション、インタレスト)を分析し、その上で仲介(メディエーション)を試みる。
 講演では、具体的なケーススタディを行って、ADRが日本の医療現場でも有効に働きうることを指摘し、その一方で限界もあることを示唆した。演者は、検討を要する課題として、(1)ADRは、紛争の内容が「広範囲」に及ぶ場合(複数の医療施設が関わるような場合や、当事者の姻戚関係や職場・学校などに紛争の環境要因があるような場合)に対応が困難、(2)ADRがあくまで紛争発生後の「事後」の対処法である、という点を指摘した。また、参加者から、メディエーターの育成・確保の問題も指摘された。これについては、日本医療メディエーター協会が養成事業を行っていることなどを紹介した。
 ADRの弱点を補う方法として、「紛争の芽を絶つ」事前の解決策が不可欠であり、その位置づけにあたるのが「臨床倫理」の検討会ではないかと提案した。具体的には、多職種による「臨床倫理検討会」をインフォーマルに行うことを提案した(*2)。
*2 詳細は、以下を参照のこと
宮坂道夫:『医療倫理学の方法 原則, 手順, ナラティヴ』(医学書院,2005年)
宮坂道夫, 坂井さゆり, 山内春夫:日常臨床における医療倫理の実践,日本外科学会雑誌,110(1), 28-31, 2009
【宮坂 道夫 先生:略歴】
 1965年長野県松本市生まれ。松本県ヶ丘高校卒業、
 早稲田大学・教育学部理学科生物学専修卒業、
 大阪大学・大学院医学研究科修士課程修了、
 東京大学・大学院医学系研究科博士課程単位取得、博士(医学、東大)。
 現在、新潟大学医学部保健学科准教授。
  専門は生命倫理、医療倫理など。
  主著:『医療倫理学の方法』(医学書院)
      『ハンセン病 重監房の記録』(集英社新書)など
 HP http://www.clg.niigata-u.ac.jp/~miyasaka/

【後記】
 医療訴訟は、医療現場での悩ましい問題です。一生懸命治療していた結果患者さんに訴えられる、あるいは信頼して治療を受けていた主治医を訴える、、、、辛く悲惨な状況です。
 解決の方法として医療裁判があるのですが、現状では、時間がかかりお金がかかる割には、双方に納得できる解決が得られることが殆どありません。すなわち、どちらも不満足な、不本意な判決になってしまうことが多いのです。
 時間がかからず、経費がかからずに、双方が満足できる(Win-Win)解決法、ソフトな解決法はないものか?こうした疑問に一つの答えを示してくれる講演でした。
 すなわち、こじれた関係をいかにお互いの立場や心情を理解しつつ、歩み寄れるのか、そのためにはどのような方策が考えられるのか、と改めて考えさせられる内容でした。
 参加された方々からも、いくつかの事例が報告され皆で考える時間を持つことが出来ました。
 今回は、耳慣れない言葉が多かったので、私なりに調べてみました。
 「裁判外紛争処理制度(ADR)」
  http://www.nichibenren.or.jp/ja/judical_reform/adr.html
  日本弁護士連合会(日弁連)のHP

 「医療コンフリクト・マネジメント」
  http://www.conflict-management.jp/preface/preface.htm
  医療コンフリクト・マネジメント研究会のHP

 「日本医療メディエーター協会」
  http://jahm.org/toha.htm
  日本医療メディエーター協会のHP



平成21年3月11日の勉強会の報告

安藤@新潟です。
第157回(2009‐03月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「大災害における医療スタッフの役割ー障害を持つ人への対応を考えるー」
講師:八幡 和明(長岡中央綜合病院 副院長)
【講演抄録】
 平成16年10月23日(土)午後5時56分、新潟県中越地方を震度7マグニチュード6.8の激震がおそった。新潟県中越地震である。そのとき医療の現場で何が起こり、どう対処したのか、地震直後の動きをたどってみる。
1)入院患者・職員の安全確認 医療施設の確認。当直医はすぐさま各病棟を点検して回った。スタッフは声をかけあってきびきびと 作業し、おびえて蹲っている患者さん達を支えていた。幸いなことに医療機器はほぼ正常に作動していて、人命に関わるような大事故は発生しなかった。
2)病院職員の自主参集。土曜の夜にもかかわらず、次々と病院職員が自主的に駆けつけてきてくれた。中には他の病院に転勤した人も、応援に駆けつけ手伝ってくれた。
3)震災対策本部の設置
  建物の安全点検:病棟の廊下や壁に亀裂が走り病院が倒壊するのではないかと、不安のなか入院患者さんに緊急避難の指示をだした。その直後設計士も駆けつけ病院の安全点検を行った。
 患者の避難誘導:動かせる人は1階のロビーに避難し、動けない人は病棟の1カ所に集め集中管理をおこなった。
 情報の収集:テレビやインターネットを通じて情報を集め周辺の被害や救援状況を確認。   電源、水、食料、薬品の確保:透析室から大量の水が落下して1階は水浸しになった。このままでは電源が落ちて病院の機能は麻痺してしまう。職員皆がちりとりとバケツをもって集まり、人海戦術で水をくみ出して電源を死守した。
4)殺到する救急車で運ばれる外来救急患者の診療
 ひっきりなしに担ぎ込まれてくる救急患者には、自主登院した30人からの医師が対応して診察にあたった。入院が必要な重傷者は、リハビリ室や外来診察室などに収容。さながら野戦病院のようだった。 当日、二日目は怪我、骨折などの外傷が多く、その後は、胃が痛む、喘息発作などが多かった。
 チームとして対応することが重要。誰がリーダーかその場で判断して、誰かがリーダーを張らなくてはならない。施設の安全確認には、設計士の参加が役に立った。引き続く大きな余震が次々と襲ってくる恐怖から患者さんを護ることは、特に重要であった。
 その夜はロビーの床に布団を敷いて迎えたが、患者さんとスタッフの間には不思議な連帯感が生まれ、文句を言う人もなく互いに励まし合って過ごした。栄養科は少ない材料をやり繰りし不眠不休でおにぎりを握り続けた。1個のおにぎりがこんなにおいしいとは思わなかった。そして何よりの元気のもとだった。平日は翌朝分までの食材しかストックしないが、土曜日のため、月曜日の朝までの分の貯えがあったのは幸いであった。
 一方多くの病院職員の家も同時に被災していた。自分や家族が避難所生活を余儀なくされながらも混乱の中で医療を提供した。土曜日の夕刻であったため、家族と一緒に過ごしていた職員が多かった。多くの職員は病院で仕事、帰るところは避難所で生活という二重の生活を強いられた。
 避難所にも問題は山積していた。どこが避難所か知らない。やっと避難所にいっても満杯で入れない。整理する人がいない。誰がどこにいるか判らない。救援物資は、大きな避難所には豊富に届くが、小さな所には回って来ない。日頃の近所付き合いが大事。顔がわかるから助け合える場合も多い。
 外国人への対応(ブラジルでは地震の体験なし)。言葉が通じない。避難所では、障害者への対応が困難。プライバシーが保てない。
 糖尿病患者さんへのアンケート(486人)をおこなった。
  避難所で困ったことは、1位:入浴、2位:トイレ、3位:寒さ、、、10位:糖尿病と知られること
  体調面では、1位:運動不足、2位:便秘、3位:高血糖、4位:腰痛、、、、9位:低血糖
  心理面では、1位:余震への恐怖、2位:不眠、3位:不安
  食事面では、1位:調理が出来ない、2位:普段の食事が出来ない、3位:野菜不足
   普通の食事までの回復期間〜平均5.8日(回答数387人)
 糖尿病患者の場合にも課題が多かった。糖尿病食が出せない。インスリンや薬の支給はどうする? 患者自身が薬の名前を知らない(インスリンの種類を知らない)。自宅損壊で帰せない人もいた。配給される食事を残すことや捨てることが許されない雰囲気(避難所周囲に報道陣)。午後5時56分の地震であったため、インスリン注射直後の患者さんも多かった。(食べなければ低血糖になってしまう)
 透析患者の場合は、透析機器からの離脱など、さらに深刻な状況であった。しかし透析医学会の災害時情報ネットワークで、施設間の連携が進み、透析患者の振り分けと緊急輸送がなされた。
 うち続く余震におびえながら(新潟中越地震は余震が大きく多いことが特徴だった)、全国からの災害支援のおかげもあり1週間が経過して、ようやく復旧の目途がついた。
 しかし震災の爪痕はこれで解決したわけではなかった。その後3ヶ月も経った頃から急に脳梗塞や心筋梗塞などの重大な障害を来す人が増えてきた。長引く避難所生活や車中での生活などで肉体的にも心理的にも大きなストレスを蓄積してきていたためであった。
 なかでも高齢者や視聴覚障害をはじめさまざまな障害をかかえている人にとっては日常から切り離された避難生活は耐え難いものなの。急性期だけでなく、被災後長期おける心からの支援が本当に必要だ。
 障害を持つ人が普段から気を付けておくべきことは、以下の通りである。
 1.家族での連絡:普段から決めておく。171(電話) 伝言板(携帯電話) 携帯電話でのメール
 2.家具から身を守る。転倒防止金具、高いところにおかない。
 3.3日間生き延びること。非常持ちだし袋:10〜15kg(水、食料、薬、お金、懐中電灯、電池、連絡先)
 4.治療方法が言える(糖尿病手帳)
 地震国日本、その後もあちこちで大きな地震や大災害が起きている。そう誰でもどこにいても災害にあう危険はある。だから今こそ、大規模な震災に役立つマニュアル作りが必要である。

【講師略歴】 八幡和明(やはたかずあき)
 1979年 日本医科大学卒業 同年 新潟大学医学部第一内科(内分泌代謝班)
 1985年 新潟県厚生連長岡中央綜合病院内科
 1990年  同病院 内科医長
 1996年       中央健診センター長
 1997年       内科部長兼務
 2007年       副院長
  現在  新潟大学医学部臨床准教授も勤める

【後記】
 多くの写真をもとに、臨場感溢れる素晴らしい講演でした。感動しました。2004年10月の新潟県中越地震のことは昨日のように思い出すことはできますが、病院の中でこのようなドラマが繰り広げられていたということはイメージ出来ませんでした。
  「地元住民を避難所に誘導し、病院で目一杯働き、帰ってみたら奥様が車中で宿泊していた」。
  「地震直後に、病院職員の多くが自主参集!」
  「災害弱者(高齢者、障害者)への対応、情報がない」
  「地震後3カ月経てから、脳梗塞や心筋梗塞などの重大な障害を来す人が増えてきた」
  「配給食は大盛り 糖尿病患者でもマスコミが怖くてご飯を捨てられない」
  「繋がらない携帯電話」
 かつては当然あった近所付き合い、地域での助け合い、、、。今は「隣にどなたが住んでいるかも判らない」という、現代の危うさ。便利になったようで、そうでもないこの世の中。多くのことを考えさせられました。 
 日常的に備えをすること、近所付き合いをすること、情報の大切、公共の施設の安全性・バリアフリーをしっかりすること、災害弱者(高齢者、障害者)への対応、、、、そして結局は、「人が人を助ける」という基本を再確認しました。



平成21年1月14日の勉強会の報告

安藤@新潟です。
第155回(2009‐1月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「市井の人:医師+研究者だった義兄『稲垣 智』のこと」
講師:若林 佑子(日本ALS協会新潟県支部 顧問)
【講演抄録】
 済生会新潟第二病院には「稲垣賞」という学術奨励賞(*)があるけど、「稲垣」なる先生がどんな人物か誰も知らないという話をお聞きしました。稲垣智(さとし)は、私の義兄です。昨日が30回目の命日に当たります。義兄の想い出を語らせて頂きます。
 義兄は、大正15年5月、新潟県中蒲原郡小合村(現在の新潟市秋葉区)に生まれ、岳父の仕事(街長)の関係で朝鮮で育ちました。戦後直ぐ京城大学医学部から新潟大学医学部へ転入。昭和24年卒業後、第一内科(鳥飼教授)で血液学を研鑽しました。
 昭和31年10月、私の長姉石浜玲子と結婚しました。稲垣家は敷地内に2DKの家を建て、母屋には両親と当時中学生の私など兄妹達、さらに父の姉、友人、住み込みの人達などがいて十数人の大所帯でした。女医だった姉は、下本町の開業医である父(石浜文郷)を手伝い「石浜医院」で働き、義兄は歩いて病院に通いました。旧制中学時代から下宿生活をしていた義兄は一挙に大家族の中に入り、戸惑いながらも楽しんでいたようです。兄弟で毎晩の様に義兄の家に集まり遅くまで話し込み、時にはおどけたりして大笑いしたのも懐かしい想い出です。思えば雑然とした昭和の時代でした。
 昭和32年4月、済生会新潟病院に勤務しました。当時の風貌や話し方は福田前総理にそっくりでした(もっと背が高く格好良かったかも知れません)。病院では見立てが良くて優しいと評判の医師で、診察日は廊下が通れないほど混んでいたそうです。「稲垣先生が倒れられた直後その一ヶ月の収入が突然一千万円も減収しました」と、院内報(追悼号)で当時の真島院長が書いておられます。入院受け持ちは30余名、週3回の外来は50名以上。更に副院長としての職務もありました。
 これだけでも大変だと思うのですが、義兄は帰宅してから更に自分自身の研究を続けました。2DKの家のキッチンが実験室で、流しにはいつも青い液体が流れていて、棚にはお鍋の代わりに試験管が並んでいました。「私は染物屋です」と言って、白血球の中の好塩基球を染めることがメインテーマだったようです。2008年ノーベル化学賞を受賞されたあの発光クラゲの下村脩先生がご自宅で台所流しの様な実験室をお作りになり研究しておられる映像を見て、あぁ義兄と同じだ、と思いました。窓辺の張り出し窓で顕微鏡を覗き、部屋の白い壁をスクリーンにして時々スライドで青や紫の丸いツブツブがあるもの(血球)を映していました。
 毎年「百回は読み直しながら」英文で論文を発表し、ドイツへも学会発表に行ったことがあります。海外の研究者からもよく問い合わせがありました。あるとき「ストレス学説のハンス・セリエって名前きいたことあるでしょう?ホラその先生からの手紙ですよ」と見せてもらった事があります。開発した染色液は「イナガキ試液として教科書にも載ったんですよ」と小さな活字を見せられた記憶もあります。
 義兄が尊敬に値するというのは、超人的な勤勉さ故だけではありません、臨床医としてとても誠実に患者さんに接していたからです。昭和45年頃、なだいなだ(精神科医)著の「お医者さん」がベストセラーになりました。この本についてこんな事を言っていました。「あの中で、『医師は人の死に一々心を動かさない、終わったと思うだけである』、みたいなことを書いてありますけど、そうじゃありませんよ。一人一人の最期は厳かなものです。私は一人一人に頭を下げます。」 父の最期の時もこの言葉通りでした。父は心筋梗塞で昭和46年に家で亡くなったのですが、義兄は脈を診ていた指を離し、手を握って「長い間ご苦労様でした」と頭を下げ敬意を表してくれました。
 私が東京三鷹の大学生の頃、学園紛争初期の時代でした。「大学を良くする」という名目でストライキなどやっていたのですが過激な路線に隔たりを感じ、父が心臓発作で倒れたことをきっかけに家に戻り、そのまま介護要員として残り、大学は卒論を残したまま中退してしまいました。 父が亡くなった後、私はリハビリの専門学校受験のための資金作りを目標に、家の一部を改造してケーキ工房を作り、街の喫茶店にチーズケーキを卸すという仕事をしていました(このケーキがかなり評判になり数年後には人を数人頼むほどになり、結局専門学校へは行きませんでした)。 義兄は出勤前に2階にある私の仕事場の横を通るのですが、そのとき必ず「お、佑ちゃんがチーズケーキを焼いていますね。世界は平和ですね」と言って階段を降りていくのが常でした。
 昭和50年頃、行儀のいい義兄が食事中ボロボロとこぼすようになりました。そのうち真っ直ぐ歩けなくなり、10月のある朝自分で脳腫瘍と診断し、深刻な表情をして大学病院へ受診に行きました。義兄の後ろ姿に、何とか励ましたいと「自信持ってね」と声を掛けたことを覚えています。診断の結果は直ぐに手術でした。術後は左手足に麻痺が残り、翌年2月退院して本町で療養していました。「おばあちゃんに手を揉んで貰うのが一番気持ちがいいなぁ」と、祖母の介護に感謝していましたが、脳幹部に残っていた腫瘍が大きくなり、数ヶ月で再入院でした。姉も先生方も八方手を尽くしていましたが、病状を食い止めることは出来なく鼻腔栄養・気管切開・人工呼吸器と進んで行きました。本人は達観していたらしく、まだ話が出来る頃はお見舞の方達に逆に慰めの言葉をかけるほど泰然とした様子でした。
 「人生は案外短いものですよ。やりたいことがあったら早くにやっておきなさい」という言葉が印象に残っています。昭和54年1月13日、52年間の命を閉じました。義兄自身としては後悔のない人生、寿命の中で出来る限りのことをやり尽くした立派な一生だったと思います。
 この度、義兄の個人史をレビューさせて頂く機会を与えて下さった安藤先生と、30年も経つのに「稲垣賞」を続けて下さっている済生会新潟病院に心から感謝申し上げます。天界の義兄もきっと喜んでいると思います。

(*)稲垣賞(学術奨励賞;済生会新潟第二病院)
 故稲垣副院長を偲ぶと共に、臨床の傍ら医学の発展、研究のため、その生涯を捧げられた功績を永久に祈念するため、遺族より済生会新潟病院に対して寄贈された200万円を基金として、以下のような顕著な功績のあった職員が、毎年表彰されます。
  ・医学の研究功労などについて優れた功績のあったもの
  ・臨床、治療上有益な改良、工夫などを考案し、実績をあげたもの
  ・上記に準じると思われる行いのあったもの

【稲垣智先生 略歴と業績】
 大正15年5月12日生まれ
 学歴
  昭和18年3月京城府龍山公立中学校第4学年終了
     同年4月京城帝国大学予豫科理科乙類入学
     20年3月   同校終了
     20年4月京城帝国大学医学部医学科入学
     21年1月新潟医科大学医学科転入学
     24年3月   同校卒業
     24年4月新潟大学医学部付属病院に於いて医療実地修練
     25年3月   実地修練終了
 職歴
  昭和25年4月 新潟大学医学部付属病院鳥飼内科実地見学
     25年10月長岡赤十字病院内科勤務
     26年9月   同上退職
     26年10月新潟大学医学部研究生入学(鳥飼内科)
     27年6月   同上退学
     27年7月 新潟地方貯金局郵政技官に任用
     29年8月 文部省に出向(新大付属病院鳥飼内科)教務職員
     29年12月文部教官に昇任(新大付属病院鳥飼内科)
     31年4月   同 退官
     31年5月 新潟大学医学部非常勤講師に任用
     31年6月 社会福祉法人聖心愛子会聖園サナトリウム勤務
     32年3月 新潟大学医学部非常勤講師退任
     32年4月 新潟県済生会新潟総合病院勤務
     54年1月   同上 死亡退職

【若林佑子さん略歴】
 新潟市生まれ。新潟県立新潟中央高校〜
 国際基督教大学(中退)〜チーズケーキハウスU(自営)
 1984年 結婚(以前はアムネスティ人権活動、以降は福祉ボランティア活動が主)
 1986年 日本ALS協会新潟県支部設立準備会からボランティアとして参加
 1987年 日本ALS協会新潟県支部設立。幹事雑務担当。数年後より本部理事。
 1997年 日本ALS協会新潟県支部事務局長(2007.6辞任)
 2008年 NPO法人新潟難病支援ネットワーク事務局長(2008.5より顧問)
担当HP: http://www.jalsa-niigata.com/

【後記】
 若林さんと最初にお会いしたのは、ALSに罹患した眼科医の本を求めていた時でした。確か当時、ALS協会のお仕事をしておられ、わざわざ病院まで本を持ってきて下さいました。お会いするまでは堅苦しい方かなと思っていましたが、ジーンズ姿で、若々しく、明るく知的で素敵な女性でした。
 今回のお話、まさに昭和時代「ALWAYS・三丁目の夕日」の時代を感じました。家族が、隣近所が集まってワイワイ、、、。家族同士の思いやりのある味のある会話、、、。
 そんな中で、毎日台所で、自分や家族から採血して、試験管を振り、コツコツ研究した稲垣先生。業績を調べてビックリしました。済生会病院に勤務してから外国雑誌に毎年論文を載せています。これは今でも至難のことです。大学でなく、勤務医が行っていた、、、、。 最近勤務医は激務で、若手医師からは敬遠されています。こんな時代だからこそ、今回のお話、とても貴重でした。刺激でした。
 「稲垣賞」は、済生会新潟第二病院で毎年表彰しています。実はこれまで、稲垣先生について殆ど知ることなく受賞者を決めていました。来年度からは、しばらく「該当者なし」が続くような気がしますが、そうならないよう職員一同頑張りたいと思います。

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