済生会勉強会の報告 2008
平成20年12月10日の勉強会の報告
安藤@新潟です。
第154回(2008‐12月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「ストレスとは何か?」
講師:櫻井 浩治(新潟大学名誉教授;精神医学)
【講演要旨】
近代医学は、病気を細菌、細胞、遺伝子レベルで追及する。
その結果、近代医療が疾患部位のみを診て病人を診ない傾向に移ってきたように思い、私は、心身医学に興味を持ち全人医療を心掛けてきた。
新潟大学医学部を卒業するころ(50年ほど前)、熊本大学で本邦初の心療内科が誕生した。
インターン時代に心身医学を志して先輩にいろいろ尋ね、慶応大学精神神経科学教室に入局。
昭和44年10月に新潟にもどり、心身医学の普及に努めた。
現在は新潟大学にも心身科外来が開かれている。
*ストレスが関与する疾患を扱う学会は以下の通り様々。
日本心身医学会、日本心療内科学会、日本行動療法学会、日本交流分析学会、日本自律訓練学会、日本ストレス学会、、、
T.人は緊張するとどうなるだろうか?
1)キャノンの緊急反応(犬に吠えられた猫)
キャノンは1929年に外敵に襲われるような緊急事態において生理的・心理的な反応を観察した。
その研究から交感神経系によって副賢髄質から分泌されるアドレナリンの効果と一致して、心拍数増加、心拍 出量増加、筋肉血管拡張、呼吸数増加、気管支拡張、筋収縮力増大、手掌などの精神性発汗、血糖値増加などの緊急事態に有効なストレス反応が生じることが分かった。
具体的に緊急事態において採られるべき闘争、逃走のどちらにも有効な反応である。
2)トムの胃袋
トムという人の、食事を直接外から胃に入れるために人工的に作られた穴から、胃の粘膜の状態を観察。感情と胃粘膜の反応(怒りや不快感は消化を妨げる)に関係があることを証明。
3)登校拒否児の頭痛
本人は学校へ行かなければならないことを知っているが、(学校へ行くことを拒む)本人の気付かない心があってどうしても学校へ行けない。
その苦しみが筋肉を緊張させて頭痛(筋緊張性頭痛)や腹痛を生ずる。
登校拒否児は、実は学校へに行けなくて本当に悩み苦しんでいる。
ストレスは、「自分への異常刺激に適応しようとして、誰にでも起きる全身的反応」と定義できる。その内容は以下の通りである。
ストレスの元になる異常刺激(ストレス因子)
《「音、光、温度、圧迫、薬物などの物理的刺激」と「不安、悲しみ、悩みなどの精神的刺激」》
⇒ホルモン系・自律神経系・免疫系の働き
⇒その結果起きる「心身の変化」と「その変化を元の平時の状態に戻そうとする心身の働き」
=ストレス(ストレス反応)
⇒病的なストレス状態《治療の対象になる心身の状態》
U.感情を身体の変化で表わす言葉は、昔から知られていた。
「身の毛がよだつ恐怖」「頭に来る」「手に汗握る熱戦」「怒髪天を衝く」
「心配や不安で胸が一杯で食べられない」「恥ずかしくて汗顔の至り」
「怒りで腸(はらわた)が煮えくり返る」
これらの反応が、異常状態に至った時、「ストレスによる病気」とされる。
ストレスに対する身体の反応は次のように理解されている。
「汎適応症候群」
下垂体から副賢皮質ホルモン系への反応が生じるというストレス反応についての代表的な考え方である。まずストレッサーの刺激が視床下部、下垂体に伝達し前葉副賢皮質刺激ホルモンが分泌され、活性化した身体にエネルギーが供給されるように働き、警告反応期(ショック相、反ショック相)、抵抗期、症憊期と段階的に発展する。
急激・一過性のストレス反応〜限界を超えれば一過性ストレス性病的状態
慢性的・連続性ストレス反応〜長期にわたれば重篤なストレス性病的状態
V.キーワードは、「視床下部」「自律神経」「ホルモン」「免疫」
「視床下部」
視床下部(ししょうかぶ)とは、自律機能の調節を行う総合中枢。
中脳以下の自律機能を司る中枢が、それぞれ呼吸運動や血管運動などの個々の自律機能を調節するのに対して、視床下部は自律神経系(交感神経と副交感神経の相反する2種類の神経の総称)機能及び内分泌機能を全体として総合的に調節している。
「自律神経」
自分の意志とは無関係で働く神経。
交感神経(緊張時に活躍)と副交感神経(リラックス時に働く)の二種からなり、それぞれが身体の臓器に繋がっていて、外部の状況により、そのどちらかが強く働くことで身体を守る。
1)日内変動
昼(交感神経優位) 夜(副交感神経優位)
2)年齢による変動
1〜3歳:副交感神経優位、
3〜5歳:交感神経優位に変る:小児の更年期、
5歳〜 :交感神経優位
3)男性の更年期:50歳前後
壮年期(交感神経優位)から老年期(副交感神経優位)に変わる
年齢を増すほどにストレスは増す。なぜなら年齢とともに、喪失体験(自分が最も大切にし、心のよりどころにしている人や地位、財産、土地、名誉、ペット、物質などを失う体験)が増える。(けれども、
思い出がストレス緩和に役立つようになるという側面もある)
「免疫」
ストレスは、免疫にも影響している。
連れ合いが亡くなると、残された方が、後追いするように重篤な病を来すことがある。
*「葬式」 かつての日本ではストレスに上手く対応するシステムであった。当日から通夜・葬式までは、配偶者はショックで呆然としている。その間は何もしなくても隣三軒両隣りが面倒をみてくれる。初七日、四九日と時を経るに従い、当座やらなければいけないことをこなしていく。こうしたことにより、ショックから立ち直るきっかけを作ってくれる。
W.病的な反応を起こさないためにはどうする
ストレスによる障害は次の過程を経る。
強い刺激 ⇒ ショック期 ⇒ 抵抗期 ⇒ 症憊期(疲弊)
そこで疲弊する前、すなわち抵抗期に策を講じる必要がある。
ストレス状態(心の緊張、身体の緊張)に気付き、中断させる。
ストレッサーから一時的に逃げる、避ける。
⇒休みを入れる、喋る(吐き出す)、運動する、深呼吸をする、
好きなことに熱中する、自分に言い聞かせるイメージを利用する
*肝臓の大家であった故市田文弘新潟大学名誉教授は、アルコールから肝臓を守るために、肝臓を休ませる「休肝日」を提唱した。
X.同じストレス因子でも病的な症状を起こす人と起こさない人の違いがあるのは何故か
ストレスで生じる障害の発生仮説
「素因」x「状況因」x「性格因」x1/「緩和要因」=「病的障害」
素因〜個人的特質
状況因〜長期的・短期的ストレス
性格因〜受け止め方
緩和要因〜良い結果、サポートシステム、環境
掛け算なので、「素因」「状況因」「性格因」の何れかが「0」であれば(0に近ければ)、「病的障害」は起こらない。 「緩和要因」が強ければ、全体を弱くする。
【櫻井浩治先生:略歴】
新潟県分水町地蔵堂(現燕市)に昭和11年1月に生まれる。
新潟大学医学部卒業。慶応義塾大学医学部精神神経科学教室で研修。
昭和44年10月新潟大学医学部精神神経科学教室、新潟大学医療技術短期大学。
定年退職後は新潟医療福祉大学。
現在は新潟市河渡病院デイケア病棟に勤務。
専門は精神医学、心身医学の臨床。
平成10年第39回日本心身医学会総会会長を勤める。
医学博士。新潟大学名誉教授、新潟医療福祉大学名誉教授。
一般向き著書として「源氏物語の心の世界」(近代文芸社刊) 「乞食(こつじき)の歌ー慈愛と行動の人良寛」(第5回新潟出版文化賞優秀賞受賞ー考古堂刊) その他多数
【後記】
ストレスは、現在多くの人の関心事です。克服するには、先ず敵を知ることが大事。
櫻井先生に分析して頂き、それだけで何か気分が楽になってきてしまいました。
講義の終了間際に、皆で自律訓練を行いました。呼吸が大事ということ。
子供のころ短気でよく怒っていた私を、父親が「座禅を組み、深呼吸」と言って諭してくれたことを思い出しました。最近、太極拳を少しかじっていますが、やはり呼吸重視。合点です。
参加された多くの方から、講義を聞いてためになった、楽になったとの声が届きました。
平成20年11月15日の「新潟フォーラム2008」の報告
安藤@新潟です。
11月15日に行った「新潟フォーラム2008」の報告です。
報告:「視覚に障がいのある子どもの発達と支援を考える新潟フォーラム2008」
主催:視覚に障がいのある子どもの発達と支援を考える新潟フォーラム
共催:新潟県立新潟盲学校
日時:平成20年11月15日(土)13:00開場 13:30〜17:00
会場:新潟県立新潟盲学校
視覚障がいの子どもたちの支援をどうしたらいいのかという課題は、決して当事者だけの問題ではありません。当事者を含め、教育関係者や医療関係者が集い、一緒に考えてみようとフォーラムを企画しました。
全国6都県から70名を超える参加者で行われました。朝から晴天で、暖かで、気持ちのいい日和でした。盲学校では休日にかかわらず、20名を超える職員が会場の準備や受付をして下さいました。 新井千賀子先生(杏林大学)と私安藤の司会で、フォーラムを進行しました。
最初は、新潟大学眼科の三木淳司先生に、「子どもの視覚の発達と眼疾患」と題して講演して頂きました。三木先生は、臨床眼科学会や日本眼科学会総会など国内の学会は言うに及ばず、世界で活躍しているスーパー眼科医です。専門はファンクショナルMRIですがフィラデルフィア留学中から斜視弱視の外来で活躍し、現在は日本のこの方面の若手代表格です。写真を多用し判り易く、お話してくれました。
香川先生には、「視覚障がい乳幼児の発達」と題してお話して頂きました。東京都心身障害者福祉センターでの長い経験をもとにした「群別発達標準モデル」を提示し、子どもの発達を客観的に評価することの重要性をお話し下さいました。
その後、新潟盲学校の田邊聡子先生から、「視覚障がい乳幼児の支援ー新潟盲学校の取り組み」、新潟盲学校PTAの近山智子さんから「視覚障がい乳幼児への早期支援をうけて」のお話をして頂きました。
休憩を挟んで、後半は新井先生の基調講演「スペシャル子育てを考える」、いつもながらインパクトの強いものでした。医療と教育の双方の現場を経験している強みで、各々の問題点と連携の難しさを語ってくれました。特に教育する側にも、受ける側にも「不全感」が漂っているという指摘には会場の多くの参加者(保護者も教師も)が頷いていました。
会場には20名近くの保護者の方が参加しておられ、熱気が溢れ、熱い質問もありました。
「タイムズ・コーポレーション」、「東海光学」、「新潟眼鏡院」より最新のロービジョンエイド、遮光眼鏡等を展示していただき、多くの方々が手にとって体験されていました。
参加された保護者から「勇気をもらいました。明日からまた子育てがんばります!」と笑顔でお帰りになったのが、印象的でした。
今回、初めてこのようなフォーラムを企画しましたが、予想以上の反響で内容も充実したものになりました。盲学校の校長先生をはじめ職員の方々にも本当に協力して頂きました。医療と教育の絆がますます強まったことを実感しました。
この企画は、視覚障がい児と家族の抱える問題を、当事者と教育・医療の関係者が集まって話し合ったことに意義があったと思います。今回は小さな一歩でしたが、今後、新潟でこの問題を考える礎になる大きな一歩になったのではないかと自負しております。「何でも東京に行けば」ではなく、「何とかこの地元の新潟で解決する道を探る」第一歩になればと願っています。
【プログラム】
13:00 開場 (機器展示)
13:30 開会 司会進行 新井 千賀子(杏林アイセンター)
安藤 伸朗(済生会新潟第二病院)
ご挨拶 小西 明 (新潟県立新潟盲学校校長)
13:40-14:10 「子どもの視覚の発達と眼疾患」
三木 淳司(新潟大学眼科)
14:10-14:40 「視覚障がい乳幼児の発達」
香川 スミ子(浦和大学)
14:40-14:50 質疑応答
14:50-15:00 休憩 (機器展示)
15:00-15:15 視覚障がい乳幼児の支援ー新潟盲学校の取り組み(仮題)
田邊 聡子(新潟県立新潟盲学校)
15:15-15:30 視覚障がい乳幼児への早期支援をうけて(仮題)
近山 智子(新潟盲学校 PTA)
15:30-15:40 質疑応答(登壇者ディスカッションの準備もふくむ)
15:40-16:30 パネルディスカッション
基調講演 「スペシャル子育てを考える」
新井 千賀子(杏林アイセンター)
パネリスト 三木 淳司(新潟大学眼科)
香川 スミ子(浦和大学)
田邊 聡子(新潟県立新潟盲学校)
近山 智子(新潟盲学校 PTA)
16:30-17:00 参加者交流会 (機器展示)
17:00 終了 後片付け
機器展示
タイムズコーポレーション、東海光学株式会社、新潟眼鏡院
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「視覚障がい乳幼児の発達」 香川 スミ子(浦和大学)
視覚障がい乳幼児の発達についてお話しします。
特別支援学校は乳幼児期についても個別教育支援計画を作成するなど、障がいのある子どもに対する支援の中心的な役割を果たすことになっています。
その専門的な支援の中核をなすのが発達ということではないかと思います。
従来、視覚障がいは子どもの発達にも影響を与えるといわれています。しかし、目の前の「この子」の発達に遅れがあるかどうか、遅れの原因や対応方法、発達の予測について情報を提供する必要がある場合、一般的な見解だけではあまり意味がありませんし、また視覚に障がいのない子どもの発達を目安にすることも適切ではありません。視覚に障がいのある子どもを対象として発達のモデルが必要であると考えます。
今回は、視覚障がいの子どもを対象にした研究で独歩に至る運動の発達を、視覚以外の感覚を使用して外界を認知する認知発達段階と、姿勢反射という運動神経生理の発達との関連で整理した、群別発達モデルをご紹介しました。このようなモデルを活用することで、「この子」の現在獲得している運動発達の状態は、「この子」の他の発達段階と照合すると、適当な状況にあるか否かということや、次の運動を獲得するにはどのような条件が必要かが判断できます。同じ条件が整っても獲得している運動行動は様々でしたが、ある運動の獲得には必要な条件があり、ないところでは運動獲得がなされていませんでした。したがって、お母さんは「この子」ができないのは、自分の育児方法のせいではないことに気づき、あせらずにゆっくりと今の育児を楽しむことができます。
他の障がいに比して、視覚障がい児の発生率は低いため、一盲学校で沢山のデータを持ちモデルを作成することは大変困難です。したがって、これまで作成されたモデルを活用することと、記録を蓄積し、関係機関との連携の元でさらに精度の高いモデルの作成が急がれます。
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以下に参加者からの感想を紹介致します。
【主催者より】
小西 明 (新潟盲学校 校長)
多方面の専門分野から、大勢の方々にご参集いただき、うれしく思いました。保護者や当校職員にとってこれからに繋がる研修をすることができました。
このフォーラムで、少数派の視覚障害児者の支援の内容や方法が、少数であるが故に積み上げにくいことがご理解いただけたのではないかと思います。
ただし、これはこの教育を担当する者の言い訳であってはなりません。日々、研鑽あるのみです。
理解・啓発や研修を目的に、こうした会合を企画したいと考えておりますので、ご指導いただけたら幸いです。今後ともよろしくお願いいたします。
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安藤伸朗 (済生会新潟第二病院;眼科医)
11月15日の「視覚に障がいのある子どもの発達と支援を考える新潟フォーラム2008」、盛況でした。6都県からの参加者、そして何よりも多くの盲学校の職員・関係者の参加で、70名を超える参加者でした。参加された多くの方が、このフォーラムの意義を感じたのではないかと思います。
今回は小さな一歩でしたが、新潟でこの問題を考える礎になるフォーラムになったのではないかと思います。「何でも東京に行けば」ではなく、「何とかこの新潟で解決する道を探る」第一歩になればと願っています。関係の方々の力強い協力に感謝致します。
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新井千賀子(杏林大学眼科 視能訓練士)
2000年に従来の特殊教育から特別支援教育への移行の方針が打ち出されてから、教育相談を始めとして視覚障害乳幼児への支援はより拡充されてきました.その主な担い手として地域における視覚障害のセンター的な機能をもつ盲学校が上げられています.支援対象が拡大されて今まで義務教育に含まれていなかった「乳児」という領域が新たに加わり、教育ではなく「相談」という質の違った内容も加わりました。一方、支援を必要とする子ども達は、未熟児の低体重化や高度な医療の結果、さまざまな障害や問題を抱えているこどもが増えました.さらに特別支援教育への移行とともに示された個別の支援計画は関係諸機関の連携によって作成されるものとされています。
当日もお話しましたが、視覚障害のある乳幼児の支援体制の現状は地域によって様々です。新潟の核となる施設である新潟盲学校を会場にして地域の視覚障害に関わる方々や様々な職種が一体となって支援について考える時間が持てたことはとても大きな意味があったと感じています。
今回、講演の機会をいただいて私がお伝えしたかったことは、1)乳幼児は、視覚情報の少ない状況で「全て」を学習するという点で成人のケアと考え方や方法論が全く違うこと、2)その観点から、普段生活をする場(家庭)での「子育て」を支援し、養育者とその家族を支援する視点が必要であるということです。これらの観点をもとに、臨床で常々感じてきた私の視覚障害乳幼児のケアについての夢(妄想?)をお話させていただきました。大きな夢ですが、夢を多くの方々と語りあうことで「今何をしたらいいのか」「今やっていることの大切さや意味とはなにか?」を確認できた気がし ます。臨床に関わっていると現実に追われて夢を見ることをつい忘れてしまいますが、夢を語り合うことの大切さを実感いたしました。
夢の実現にはいろいろな方々の知力と協力が必要になります。この大前提には「子供たちはどうやって大きくなっていくか?」という「発達」の視点が必要になります。今回は新潟大学眼科学教室の三木先生に医学的な観点から視機能の発達を、香川先生には支援の観点から認知や運動発達についてお話いただきました。ご講演によって多くの知識を共有できたと思います。そして、地域や職種を超えて様々な職種や立場の方々がお見えになりました。乳幼児の支援はいろいろな方々の協力のによって成り立つものだと思います。こうした方々とお会いしてお話をする時間を持てたことで私自身が新たな出発点をいただきました。企画運営をしてくださった安藤先生、小西先生、盲学校の先生方、そしてご参加の皆様、全ての方々に感謝したいと思います。
今回のフォーラムで蒔かれた種が芽をだし大木を目指して成長して、皆様の「夢」(私は妄想?)の実現に近づく一歩となれば幸いです。そしていつかまた「夢」を語り合えたらうれしいと思います!
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香川スミ子 (浦和大学 教授)
日々ご多忙の中、地元でのイベントのためにたくさんの貴重な時間をお使い頂いたことだろうと、ご準備頂いた関係者の皆様には心から御礼を申し上げます。また、異なる職種の沢山の方達との交流ができたことも、とても嬉しかったことです。現場で重複児童の教育に携わっている方など、個別にも何人かの方達とお話できました。その中で、現段階で整理されているモデルは別途お送りさせて頂くことにしました。このモデルはその時々の指導の開始時に活用すると有効と考えますが、実際の日々の指導(本来はできていいはずの行動の停滞の改善や、点字や歩行に代表される専門的な指導等)は、永い歴史に積み重ねられた盲学校の技術の上に成り立っています。
新潟県は南北に長いため盲学校以外にも、子どもたちが点在していることが分かりました。また、交流という転勤のために、教員の知識や技術の継承が難しい点があることも理解できました。関係機関の連携と今回のような研究会が開催されることの必要性を実感いたしました。今後も何かお役に立つことができれば幸いです。またお目にかかる機会が近いことを祈っております。
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田中宏幸 (新潟盲学校 教諭)
先日のフォーラムでは、新潟にはこんなにも心強いバックアップ体制が整っているということを再認識し、本当に感激でいっぱいでした。
親子教室参加の保護者の方から「勇気をもらいました。来て本当に良かったです。」と言われると、本当にこのフォーラムのお手伝いができてありがたかったです。
今後は新潟盲学校としてもさまざまな企画や取組をいたすことになります。ぜひ、これからも温かい、そして力強いご支援を賜りますよう、お願いいたします。 本当にありがとうございました。
【参加者の感想】
フォーラムでは、新潟における盲学校の役割の重要性が改めて認識されました。私もロービジョン児の発達面・教育面でのサポートは盲学校が頼りですので盲学校がんばれ!という気持ちで一杯ですが、Y先生が発言されたとおり盲学校の先生も精一杯努力されていますので、さらに充実を求めるならやはりマンパワー、設備面でのサポートは必須ではないかと思いました。特別支援教育では、ADHDなど発達障害が重点的に扱われており、(おそらく予算もそうではないかと思います)それはそれで大事なのですが従来からの障害児教育がかすんでしまうことがあってはならないと思います。
眼科医はロービジョン児と保護者のサポーターになって、将来に希望のもてる助言ができるようにならなくては、というのが個人的には最も強く感じたことでした。 HR (眼科医 新潟市)
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大学にいたころロービジョンケアが必要な子どもは盲学校を紹介するだけで、実際にどのようなことをされているのかわからなかったので参加させていただきました。
斜視弱視外来はやっていますが、盲学校に行くような患者さんは最近はほとんど見ていないので勉強になりました。
新井先生の家族を含めた乳幼児からのロービジョンという話は初めて聞きました。
家庭訪問までされていることで、もっと医療保険のケアが必要ですね。 SA (眼科医 新潟県)
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有意義な時間をすごすことができ、ありがとうございました。
私たちが日々チームを組んで利用者支援を行う中で、香川先生のご助言をいただくことができ、専門家が指導をうけて支援に取り組んでいること、そして私どもが日々行っていく方向が必ずしもずれていないことを確認でき、日々の活動に少し安堵の念がいただくことができました。
保護者の方からのお声も子供たちの成長が本当に日々の関心ごとであることが痛いほどに感じられ、私どもが毎日支援にかかわる責任の重さを痛感いたしました。
初心に帰ることができ、本当に参加でき、いただくものの多さを感じております。
安藤先生、小西校長をはじめ、諸先生方に感謝申し上げます。
またこのような機会をご紹介いただけますことを切望いたします。
簡単ですが、お礼に変えさせていただきたいと思います。 KS (東京在住 視能訓練士)
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盲学校でのフォーラム、ありがとうございました。あんなに大勢の方が来られるとは、皆さんの関心の高さを改めて感じました。講師の先生方のお話はとても興味深い内容で、大変勉強になりました。是非、次回このような会がありましたら、参加したいと思います。
様々な分野で活躍されている先生方や、私と同じように不安を持ちながら視覚障害児を育てている保護者の皆さんに、役立ってくれることを願っています。 S (保護者 長岡市)
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「『何でも東京に行けば』ではなく、『何とかこの新潟で解決する道を探る』第一歩になればと願っています」、という安藤先生のお言葉は本当にそのとおりだと思います。
私は、先日のフォーラムに参加させていただき、すでに新潟の病院、学校、地域社会の連携による「地域力」を見せつけられた思いです。
また、フォーラムの内容を聞いていると子どもの話のはずなのに大人と一緒じゃないか、と感じ、家族という最小のコミュニティの単位から地域社会を中心に都道府県、国へと連携を深め広げていくべきなんだと痛感しました。
ただ、違う点は子どもは自分で環境を変えられない、自分では理解できない部分が多いので親や大人がある程度の方向性を示しながら、見守る必要があることだと思いました。
また、「不全感」について。これは、医療関係者側、患者さん側、双方が感じていることだと思います。患者さん側(福祉では利用者というべきでしょうか)にとっては医療情報やサービスの提供が不十分だと感じる、でも、他方、できることは提供しているはずなのに不満を持たれ、挙句の果てに文句ばかり言われる。これは双方の問題点であり、今後はお互いが歩み寄り、同じ目標に向かう仲間である認識を持ち、協同・協働していく姿勢が必要になると思われます。
専門職側も万能ではなく、急激に変化する社会情勢や日々進化する治療方法に追いつくために努力しているわけで、そのあたりをお互いに理解し合えればと思います。 YT (兵庫県)
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この度は「視覚に障がいのある子どもの発達と支援を考える新潟フォーラム2008」にてたいへんお世話になりました。
多くの参加者の方に機器を試していただき、視覚に障がいのある子どもにとってどのように改良すれば機器がより使いやすくなるかなどのご意見もいただきました。
今後も新潟盲学校さんを中心として視覚障がいをもつ子供たちや家族を支援するための活動が新潟で発展することを期待いたします。 SH (機器展示メーカー)
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10月末に突然、最も信頼していた指導者を失い、呆然として仕事も手につかない日々が続いていました。そんな中で、安藤先生からのお知らせをいただいて、今回のフォー ラムに参加させていただきました。
まず、驚いたのは盲学校の先生方が大勢参加されていたことです。 業務時間外にこれだけの方々が動いているということにさすが、視覚障害教育に歴史ある新潟ならではのことなのだろうと大変感心しました。
三木先生は、私の古い友人です。脳科学の研究者として今まで認識していましたが、こういう会に積極的に参加している姿を見て、私の知らなかった三木先生の別の姿勢に触れることができ、改めて信頼が深まりました。地域におけるロービジョンケアのネットワークに大学病院の眼科医はとても重要な役割をもっているとずっと思っています。これからも頑張っていただきたいと思います。
香川先生は、大学教授の中で、異色のというと失礼かもしれませんが、障害児のすぐ傍らにいる研究スタンスが私は大好きです。素晴らしいと思います。興味深いお話をありがとうございました。
新井先生、期待通りでした。最高です。元気が出ます。妄想とおっしゃっていましたが、妄想も10年言い続けているときっと実現すると私は信じています。頑張りましょう。
元気をいただいて帰ることができました。このような機会を与えてくださってありがとうございました。先生方に負けないように私も頑張りたいと思っています。 NS (所沢市 眼科医)
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フォーラムの企画から実行まで大変お疲れさまでした。違った職種の方々との交流、新鮮に感じました。
有り難うございました。 MA (眼科医 新潟市)
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大変楽しく、また、ためになる会でした。お誘い頂き、有り難うございました。
そもそも盲学校とどうこれからおつきあいしていくか、その中で我々眼科医が出来る役割は何か、そのことを勉強するためにこの会に出席させて頂いたのですが、いろいろなヒントを掴むことが出来、収穫を得ることが出来ました。
それにしても、こうした職種の垣根のない、それでいてお互いが本音を語り合える会というのは参加していて大変気持ち のいいものですね。こうした会に同席できた幸運を感じております。
また、皆さんの感想文を拝読していると、皆それぞれの感じ方をしているのだなと改めて感じる次第。
そして、こうした様々な感じ方が一つになって大きな力になっていくのだなと感じざるを得ません。それをコーディネートした先生のお力の大きさを、改めて感じます。
やはりみんながそれぞれの意見を持っていても、それをまとめ上げる人間がいなければ一つの力にはなり得ないわけですので、こうした事をお忙しいにもかかわらず、労力を厭わずやられる先生のご努力には敬服いたします。おそらく日本中探しても、こうした会を開いているところはないでしょう。この場に立ち会えた幸運に改めて感謝するとともに、こうした場を作るためみんなの力を少しずつ引き出していく実行力に感服の念を禁じ得ません。
またいろいろ教えて頂くことがあるかと思いますが、今後とも宜しくお願いいたします。 TT (眼科医 水戸市)
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この度は、大変有意義な研究会にお誘いいただき有難うございました。
私にとっては三木先生の小児の斜視・白内障・緑内障などの治療についてのご講演や、香川先生の乳幼児発達についての進展などの説明など、初めて拝聴することばかりで、大変勉強になりました。
また多くの方々の真剣な眼差しは、心を打たれるものがございました。
今回の勉強会でも一番に感じたことは、感覚器の疾患は特に小児に於いては、知能発達にも大きく影響を与えてしまうこと感じました。
私の子供の通うK小学校や隣のH小学校にも昨年度特別支援クラスが出来ました。
このような勉強会を実施されることの影響により、このような行政にも良い姿勢が生まれることを願っております。 SY (新潟市)
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新潟盲学校でのフォーラムでは有難うございました。
お蔭様で会場では、新大のH先生、三条市のSさんのお母さん、弥彦村のTさんのお母さんなどはじめ、かなり大勢の皆さんとお会いすることが出来て喜んでおります。
いつも申していますように、私は機会があれば出来るだけ多くの視覚障がいに関する人々にお会いしてそこから得る知識や体験をいろんな機会に生かせればと思っていますので今回も良い機会を準備していただいて有難うございました。
当日の感想は、視覚障がい乳幼児・児童に関することをいろんな面からの発表や討論が行われ、あの会場には少し浮いた感じの年代の私でしたが参加させていただいて勉強になりました。もう少し早く(5年前位に)このようなフォーラムがあれば、孫娘の誕生時の件で更に非常に参考になった会だったと思いました。
しかし、そんなことより新大の三木先生の医学面から見た問題、浦和大学の香川先生の乳幼児の成長時点の注意点、田辺先生の盲学校としての取り組み、近山さんの実際わが子を育てて来ての体験からなど多方面からのご苦労されたことやこんなことがありますよあるいはこういう点には注意しましょうなどいろんなご意見を聞くことが出来ました。参考になりました。有難うございました。 KS (田上町)
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先日のフォーラムに参加させていただきありがとうございました。私があらためて感じているのは盲学校の責任の大きさです。安藤先生からいただいたメールにあるように東京ではなく新潟で解決するには盲学校がまず担う、ということは避けられません。しかも県内唯一の盲学校ですので全域をどうカバーするかは本当に大きな課題です。しかしその一方で小西校長先生のお話のように盲学校は他の特別支援学校の中に埋没しかねない状況でもあります。
今回のようなフォーラムなど様々な機会を通して社会にアピールしていくことの大切さを感じました。
そのアピールという点では新井先生のお話が胸に残っています。フォーラムに参加した方に聞いてみましたが新井先生のお話は印象的だった、とのことでした。つまり聞く人の心を揺さぶるような話こそ記憶に残るのだと痛感し、そして夢を語ることの大切さを再認識しました。
そして不全感というキーワードです。これは完璧な先生や教育はないという永遠の課題です。しかしその課題があるから努力できるのかもしれません。自分は完璧だ、と思ったら明日がないような気がします。不全感を不満感にするのではなく、向上心への契機として捉えていきたいものです。
たくさんの宿題とエネルギーをいただいたフォーラムでした。ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。 YT(養護学校教諭)
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現在は、開業医で仕事をしており、視覚に重い障害を持つお子さんを診る機会はめったにありません。
今回、このフォーラムのご案内を頂いたとき、大学時代にみた重い視覚障害のお子さん達のことが思い出され、もっとなにかできることがあったのではないか?との思いから、参加させていただきました。
香川先生のお話は、とても新鮮でした。視覚障害児の発達のモデルがあるのですね。すばらしい仕事だと思いました。私の座っていた場所には、4〜5人の保護者の方々がおいででしたが、香川先生のお話をききながら、「うちの子もそうだった」「こういう話をもっと早くききたかった!」「そうそう、あかちゃんのとき、それが知りたかったのよ」と口々に言っておられました。
新井先生のお話も大変興味深く、障害児のなかで、視覚障害の子どもは割合的にはすごく少ない、というのが意外であり、しかし、言われてみれば、うなずける話でした。だから、スペシャリストが育ちにくい。ひとくちに、視覚障害といっても、HB以下のお子さんと、視力が0.2〜0.3あるお子さんではまったく違う発達になると思われ、患者さんや家族の求める情報も異なってくる。どのようにサポートしたらよいものか・・難しい問題だと思いました。
PTA代表の近山さんの「視力はともあれ、命だけは助かった、と言う思いで、うれしさのほうが勝っていました」と言う言葉に感動しました。親の本心ですね。「子育ては、楽しかったし、今も楽しく子育てしています」ともおっしゃっていました。これでいいのだろうか、と手探りで子育てしているのは、障害のあるなしに関わらず、みな同じと感じました。
今回、たいへん興味深くお話を聞かせていただきました。ありがとうございました。 TY (眼科医 新潟市)
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弊社なりにご協力できることに関し、ご協力させていただきたいと存じます。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 KT (展示メーカー)
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大変勉強になりました。
今回参加させていただいて、あの場所に参加されていた親御さんたちに育てられた子供さんは幸せだろうなぁと思いました。
子供のために何をしてやればいいのか、この子にとって今の子育てはスペシャルな子育てなのかと、一生懸命考えて子育てしている親御さんに育てられ、先生方や周りの人々の愛情もたっぷりと受けて、子供たちは、心豊かに成長されるだろうなぁと思いました。
子育て中の親はいつも不安だらけです。
障がいのある子供を持つ親御さんは特に、自分の子育てに不安を感じていることでしょう。
今回はみなさん、自分の子育てを振り返り、これでよかったんだと確認されていたようでした。
もっと早く知っていれば、こんなに子育てに不安を感じずに済んだのに・・・という声も聞こえてきました。
情報の発信は大事ですね。 ありがとうございました。 S (県立病院 視能訓練士)
平成20年11月12日の勉強会の報告
安藤@新潟です。
第153回(2008‐11月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「”ふつう”ってなに?-見える見えないの狭間で思うこと-」
講師:小川 良栄 (長岡市自営業)
【講演抄録】
障害と社会のかかわりには、二つの考え方がある。ひとつは、健常者社会に障害者もできるだけ取り込んでいこうとする、「個人モデル」または「医療モデル」と呼ばれる考え方である。これは現在の大勢を占める考え方である。もうひとつは、障害者の差別や偏見につながる社会のルール、社会のしくみを変えていこうとする「社会モデル」と呼ばれるものである。
「医療モデル」は、視覚障害者が駅のホームから落ちてしまうのは目が見えないからであるとする、問題の原因を個人に求める考え方である。一方、視覚障害者が駅のホームから落ちてしまうのは、目が見えないからではなく、十分な転落防止策が講じられていないからと原因を社会に求めるのが「社会モデル」である。
世間では障害の重い人のほうが軽い人よりも、生活していく中で辛く困難であると理解されているが、この理解自体が間違っているのではないだろうか?そのことを「社会モデル」流に考えてみようというのが本日の話のテーマである。
軽度視覚障害者は全盲ではないけれども、どんな医学的手段を用いても十分に見えるようにならない。時に対人関係で、時に社会的配慮の遅れなどで、社会から背負わされる辛さというものがある。同時に社会の偏見から逃れるために自身の障害を隠すという心理的葛藤とも向き合わなくてはならない。つまり、軽度障害者には独自の辛さ、困難さがある。
障害の重い軽いというのは量ではなく、質である。同じ視覚障害者と呼ばれる中にも多様性がある。ところが、多くの人は障害者を安易なイメージでとらえてしまいがちである。視覚障害者とは白杖を使う人、点字を使う人と理解してしまう。でも、実際には生活していく中で障害者の感じる辛さや困難さは、個々にすべて違う。ひとくくりにはできない。
障害者が求める支援の幅は広い。事前の学習で得られる知識、例えば、視覚障害者の誘導の方法を学ぶことは無意味ではないが、それが視覚障害者そのものを理解することにはならない。事前にすべてのことを理解することは不可能であり、必要もない。大切なことは「自分は相手のことをわかっていない」ということを理解しておくことである。
相手のことがわからないから、想像する。そして聞いてみて、振る舞いを見てみて、わからなかったことが、わかることへ変化する。この繰り返しで人間関係は深まっていき、例えば友人関係になる。事前の知識は、相手が何が辛いのか、何に困っているのか想像するときに役に立つ。
しかしこれは相手が障害者だから特別なことではなく、健常者同士でも基本的には同じである。では、一対一という関係から、かかわる人の数が増えたらどうか、一対一の関係と比べてうまくやっていくのは難しくなる。それは、他者との関係を良好に保つために、時に自分を抑えなければならないことが増えるからである。
視覚障害者のために横断歩道にエスコートゾーン(*)をつけたい、といった見えない人のために作り変えていくためには、税金というコストがかかる。音声誘導付信号機の場合、誘導音声を騒音と感じる近隣の住民も存在し、時に自分を抑えて相手との間に妥協点を探らなければならない。困っている人を目の当たりにしない状況で、かつ、自分にとって大切な人のためだけでなく、会ったことのない誰かのために、想像力を働かせて積極的な負担ができるのかどうか、それが問題である。
人と人が暮らしていくためには、なにがしかのルール、言いかえれば社会のしくみが必要である。ルールを守るということは、そのまま、時に自分を抑えるということを意味する。自分の自由を守るためには、他者の自由も尊重しなければならない。自分が自由であることが他者の自由を侵害することがあってはならない。ルールのあるところには、それにかなうもの、つまり「ふつう」と、そこからはずれるもの「普通でないもの」が生まれてしまう。ジレンマである。だからこそ我々は誰にとってもフェアなルールづくりを目指していかなければならない。
(*)エスコートゾーン
道路横断帯(通称:エスコートゾーン)〜横断歩道の真ん中に点字ブロック(触覚表示)敷かれていて、視覚障害者の道路横断を支援する設備
【略歴】 小川良栄(おがわ よしえい)
1984年 仙台医療専門学校卒業、国家試験合格後、盛岡リハビリテーション学院、小泉外科病院、更埴中央病院、老人保健施設サンプラザ長岡にて研修。
1991年 長岡市に接骨院を開業、現在に至る。
2005年 介護支援専門員ライセンス取得。
2006年 (財)東京都老人総合研究所介護予防運動指導員ライセンス取得。
2008年 長岡市介護認定審査会 審査委員に就任
【後記】
小川さんは、これまで何度か勉強会に参加され、その度に的確なコメントをされる、お洒落で、頭脳明晰で、そして少しシャイな方です。8月の新潟ロービジョン研究会は、「視覚障がい者の就労」がテーマでした。「障がいを持つ者にとって、恋愛と就労は心底自らの障がいと向き合わなければならない場面を迎えるという点で、同じなんだ」と語った、小川さんのコメントは忘れられません。
前からこの勉強会でお話して頂こうと考えていましたので、やっと念願が叶いました。沢山のキーワードがありました。「ふつう」「自動車の免許」「個人と社会」「バリアフリー」「障害者と健常者」「社会のしくみ」「重度と軽度」「理解されない」「人間関係」「隠したい」「彼女とのデート」「予行練習」「「りんごとバナナ」「「思い込み」「ルール」「医療モデル」「社会モデル」「想像力」、、、、、、。
スライド(パワーポイント)を使っての講演でしたが、目の不自由な方のために音声(駅のプラットホームや音声信号機の音)を用意してくれた初めての演者でした。期待通り、いやそれ以上の立派な講演でした。
ご自身が軽度の視覚障がい者であることから、障がいの重い、軽いとは定量だけでなく定性で考えることも重要で、重い障がいはリンゴが10個、軽い障がいはリンゴが5個ではなく、バナナが1本という捉え方をしてほしい。そして、リンゴとバナナでは食べ方が違うように、支援のためのアプローチも違ったものになるという解説はとても理解しやすい例えです。
心理的側面の話題もありました。初めてデート。障がいを持つ者は、障がいのことをデート相手には隠してお付き合いをする。完璧に事前に予行練習をして臨むが、そこで生じる様々な失敗談の場面で、講演は一番盛り上がり、また印象にも残りました(小川さんには不本意だったかもしれませんが)。
そして社会ルールを守る(創る)ために、「想像力」を働かすことの大切さ。多くの教えを頂きました。
平成20年10月8日の勉強会の報告
安藤@新潟です。
第152回(2008‐10月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「『自分らしく生きる』ことと『前向きに生きる』こと」
講師:岩田 文乃(眼科専門医・臨床遺伝専門医)
秋山眼科医院勤務 順天堂大学眼科非常勤講師
【講演抄録】
医療・福祉関係者は、おせっかいで自己満足な指標を掲げていることがあるかもしれない。海に沈んでいるような緊急事態では、溺れかけている人を引っ張りあげて救出しなくてはならない。しかし、風の当たらない木陰で休んでいるように、日向に出るまで少し休養が必要な人もいるのではないか。
失恋した人が嘆いていたらどんな言葉を掛けてあげるだろう?「相手はひどい人だ。早く忘れたほうがいい。」「あなたにはもっといい人がいるはずだ。かえって良かったんじゃないか。」「今さら考えてもしょうがないのだから、しっかりしなさい。」それとも「朝まで飲もう。」という言葉だろうか?あるいは、ただかたわらで時間をともに過ごしているだろうか?
私の場合、次の一言で救われたことを覚えている。「君のせいではない。今の君のままでいいんだよ。」
ロービジョンケアを含めて医療では、専門知識に基づき情報提供をすることが、もちろん大変重要である。そして、何か危機に陥った人は急いで救わなくてはならない。しかし、心が疲れていて、すぐには歩き出せず休養が必要なこともある。そのように前に進んでいない時期があっても、やがていつの間にか、自分自身でまた歩き出していることもある。また、するべきことを頭では理解しているが行動が付いていかない時、たとえ時間がかかっても自分で解決していくとその人らしい道が開け、自信につながってゆくように思う。
このように考えると、困難なことも含めたその人の人生に、「本人らしい生き方」を通り越して、「前向きな生き方」を押し付けるのは良いことだろうか?病気に限らず困難に出会った時には、落ち込む時間は自然で避けられず、多くの場合は必要な過程である。それを他人が「前向きに生きよう」と手を引っ張って走ろうとするのはどうだろうか?必要とされる時には手を差し出せる環境を整えながら、 医療者も耐えて、本来の力を回復する時間を待つことも必要ではないか。
自分のことだが、仕事と家庭そして趣味(バイオリン)を全力で行おうと無理をして疲れ果てたことがあった。一度中断したあとの新しいバイオリンの先生は、練習してこない私をいつも笑顔で迎え入れてくれた。「お仕事しながら大変でしょう。」と。相変わらず練習できなかったがとにかく自分のペースで続けたいと思った。楽しめたしいつの間にか進歩していた。
ロービジョン外来で、視力が低下して仕事を失いかけている患者さんがいた。毎回何度もアドバイスしたが、何の反応もなかった。ところがある頃から突然、行動的になった。無力さを感じ、自分は医師として何が足りなかったのか悩んだ。しかしやがて、自分の足りないところとは別に「時間」が必要だったことに気がついた。私が語りかけた多くの言葉は役に立たなかったかもしれないが、力になれるよう、一緒に考えていたことは大切だったかもしれない。今では停滞していた時間を無駄とは思わない。
落ち込むことは自然なことなのだ。人は誰でも(無意識で)頑張っている。それ以上に前向きに頑張ってこそ壁を越えて進めるということも確かにあるが、前向きになれない「停滞しているかのような時間」が決して無駄ではないことや、あせらないことが大切だということも多々あるのだと感じている。
患者さんとその家族の方々、そして苦労して悩んでいる医療・福祉関係者の仲間に「あなたは、本当に頑張ってきたのですね。前に進まないように感じても、あせらなくて大丈夫。あなたはあなたらしく、あなたのままでよいのですよ。」というメッセージを送りたい。
【岩田文乃先生;略歴】
1985年 順天堂大学眼科研修医
1989年 順天堂大学眼科助手
1991年 マイアミ大学バスコム・パルマー眼研究所留学
1994年 アメリカ国立眼研究所留学
1999年 順天堂大学眼科助手
2002年 秋山眼科勤務 順天堂大学非常勤講師 現在に至る
【後記】
共感出来るフレーズが盛りだくさんでした。「落ち込む時間は自然なこと」「人は誰でも(無意識で)頑張っている」「介入するのは、コントロールしすぎ、自己満足になる可能性もある」、「手が必要なときに、声をかけてもらう環境を整えながら、回復する時間はある程度こちらも耐えて『待つ』ことが必要」
医療や福祉、介護の現場では、押さえておくべきポイントと感じました。病気があると知っただけで「ゼロ」の状態であった人は、「マイナス」になってしまいます。今までの自然な状態、すなわち「ゼロ」に戻れるように、時には手助けしながら見守るという姿勢が必要なんだと。鎌田実先生の「がんばらない」に繋がるのでしょうか。
勉強会で講演の後、参加者がそれぞれ感想を述べました。その中で幾つかの言葉が印象に残っています。
『ひにち薬』が効くと、昔からよく言います、、、、、。『ひにち薬』、いい言葉です。今度ぜひ、処方してみようと思います。
『自分らしく生きる』とは、どんなことなのでしょうか?、、、、『自分が主人公』
ポジティブ思考流行の時代に、「目から鱗(うろこ)」という講演でした。
平成20年9月10日の勉強会の報告
安藤@新潟です。
第151回(2008‐09月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:『江戸落語のルーツと町人の遊び』
講師:横山 芳郎(内科医、江戸文物研究家)
【講演抄録】
私は今、定職がなく、依頼があると働く内科医をしています。フリーランスドクターと言えば「イキ」に聞こえますが、、、。 本職は何かと聞かれ『医者は世を忍ぶ仮の姿、実は江戸文物の研究と著述が仕事』と答えます。でもこれは「イキ過ぎ」。
中世の日本人の生活は、仏教行事と切り離せない関係にありました。各宗派は、行事のあとに話芸の巧みな説教師を送って仏法を説き、布教につとめました。しかし中には、俗世間の逸話を楽しく織り交ぜて、仏説を大衆に理解させる僧侶もおり、人気を博しました。
江戸時代に入って、黄表紙といわれる小説本が流布されましたが、その中に滑稽本と呼ばれるものがありました。江戸時代中期以後、いろいろな政治改革が行われましたが、滑稽は人々を怠惰にするということで 滑稽本は発禁になりました。 そこで教訓滑稽 と銘うって出版がおこなわれていました。洒脱で通俗的な説教は、大衆の娯楽的要求を受け止めるに十分で、全国各地を遊行する放浪芸人も多くみられました。寺の法師が芸人に変貌するもあり、在家の法師も庶民の中に説教を持ち込み、狂言を混ぜて説教を一段と娯楽化した。
このような土壌の上に、安楽庵策伝という浄土宗の説教師は、説教の間に落とし話を組み入れて人気を博し、自作の数々の小噺を「醒酔笑」八巻に収録し、「落語の祖」と言われます。
落語という言葉は明治になってから使われはじめました。江戸末期には「落としばなし」と読んでいました。
江戸のはじめ元禄期(1688-)は寺社の境内などで専門の演者が「辻はなし」という噺本などをもとに講釈をしていました。1600年後半以後は上方で「軽口」とか「軽口ばなし」というように呼ばれました。
1700年後半に、文化の主力が江戸に移ってからは、「江戸小咄」という独特のおもしろい短文を、人々は「落とし咄」と言い楽しみました。
人を集めて落語を語る場所を、大坂では講釈場、席屋、席、江戸では寄場(よせば)、寄せといわれ、江戸後期、天保(1830−44)の頃、はじめて寄席とよばれるようになりました。はじめは一定の演芸場はなく、船宿とか茶屋を借りて、人を集め、3―4人の芸人が数日間興行していました。次第に大衆うけして、江戸後期、文化元年(1804)には江戸で33軒の寄席ができ、文政8年(1825)には130軒にまで増加したと申します。興行時間も、3時間ほどで、木戸銭も36―48文で、屋台の二八そばが16文でしたから、安直の庶民の楽しみだったといえましょう。
滑稽噺は結局庶民の日常からの取材によって構成されますから、市井の人情噺とか、町民の遊びや笑い話などがネタになっています。歌舞伎やくるわの滑稽噺などをおもしろくおかしく語るわけです。
代々の有名な落語家を紹介し、遊びの楽しさをまじめにお話しました。
【略歴】
昭和 5年 新潟市生まれ
昭和30年 新潟大学医学部卒業
昭和35年 同大学院終了(第二内科)医学博士、
その後、昭和大学医学部臨床病理学 講師、新潟大学医学部第三内科 講師
昭和44年―平成6年 内科開業(新潟市)以来、フリーランス内科医として江戸文物の研究、著述のかたわら、猫山宮尾病院、さいわいリハビリクリニック、などで勤務
平成18年 新潟保健医療専門学校校長となる
平成20年 介護老人保健施設「江風苑」施設長となる
http://www2s.biglobe.ne.jp/~edomedic
【後記】
人生を如何にも楽しんでいるという、「人生の達人」を感じさせる横山先生のお話でした。
多くの写真をスライドで供覧しながら、江戸の落語の歴史を語ってくれました。そして落語の数々、、、。なかでも「ちはやぶる」は、圧巻でした。
http://www.niji.or.jp/home/dingo/rakugo2/chihayafuru.html
どうしてこんな風に、江戸文物にのめり込むようになったのですか?とお聞きしてみました。
先生は、死線をさまようよう病気になり、図らずも患者を経験したとのことです。そこで医者として多くの反省点がみつかり医師稼業のあり方、人生観に大きな変化が起こったということでした。
物が豊かになった現代、かつて江戸時代にあった人間関係や時間の豊かさを失ったようです。江戸町民の生き甲斐は、ただ親子が楽しく、一家団欒を求めるという慎ましいものでした。
現代の人達は、高い生活水準を求め、目標を高く設定します。
大きな夢の達成は難しいものです。満足することで、「やったるぜ」という意欲が湧いてくるのですが。小さな幸せでも満足できた江戸時代、恵まれているのに満足できない現代、、、。
今やエコ生活が叫ばれています。実は江戸時代は、歴史的に最も自然と人間の調和・循環が保たれた時代であったと言われています。
もちろん江戸時代には、士農工商に代表される上下関係や封建制度もありました。隣近所が肩を寄せ合って暮らしていました。病人や老人など弱った人は、近所で支えあっていました。そして寿命とか天命などを十分、理解していました。
江戸の人から生まれた「イキ」という考え方の基本には、いくら儲けても、名声を手に入れても、寿命が尽きればあの世には持って行けない。それなら手に入れたものは、元気なうちに遊んで楽しもうという生活信条が出来上がったといいます(横山先生のご著書 「江戸の華」より)。
今、江戸時代の文化、風情、そして心意気「いき」を、見習いたい!と切実に感じました。
【横山芳郎先生の著書】
1)医者はヤブ医者
著者/訳者名 横山芳郎/著 出版社名 郁朋社
発行年月 1989年03月 価格 1,050円(税込)
2)水のめ医、がまんせ医 やぶ医者闘病記
著者/訳者名 横山芳郎/文 出版社名 考古堂書店
発行年月 1999年02月 価格 1,680円(税込)
本の内容 やぶこそ本物の医者!やぶ医者を自認する著者が語る「本物医者」とは?自ら病気になって初めて、患者のことがよく分かる。医療の本音や、豊かな人生を江戸町民に学ぶ-。
目次
第1部 医療しないか(内科)(水のめ医者 人間医療 科学は人間を幸福にするか)
第2部 ドクターやぶの入院(内科入院の前 内科入院 外科入院)
第3部 がまんせ医の原点(江戸町民のボランティア的なものに学ぶ)
3)介護医は考える 老いても若さを失わないために
著者/訳者名 横山芳郎/著 出版社名 考古堂書店
発行年月 2001年09月 価格 1,260円(税込)
本の内容 丈夫で長もちの健康談議。開業医をさらりと止めて、江戸文物研究家に変身した著者が、介護病棟の医者として再登場。高齢者の話し相手になりながら綴る処方箋。
目次
東西トーザイ 高齢者の介護(高齢者の健康老化) 介護保険の導入(導入の必要性介護医療と普通医療の違い) 老いても若さを失わないために(生活習慣病について 老化とは何か)
働くことが人生ではない(隠居のすすめ 老人の健康と隠居)
4)江戸の華 21世紀を江戸時代に
著者/訳者名 横山芳郎/著 出版社名 考古堂書店
発行年月 2004年09月 価格 1,801円(税込)
本の内容 江戸時代は、歴史的に最も自然と人間の調和・循環が保たれた時代であった。21世紀の暮らし方のヒントここに。
目次
第1章 江戸はおもしろい(江戸町民は自由人 江戸の吉原 教育落語「千早ふる」 ほか)
第2章 江戸の文物(「いき」な生活 江戸っ子 江戸商人はからっきし ほか)
第3章 江戸の文化(江戸風に豊かに生きる 江戸時代の変遷 江戸学 ほか)
平成20年8月2日の勉強会『新潟ロービジョン研究会2008』の報告
安藤@新潟です。
第150回(2008‐08月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会『新潟ロービジョン研究会2008』の報告です。
テーマ「視覚障がい者の就労」
進行役 張替 涼子 (新潟大学)
安藤 伸朗 (済生会新潟第二病院)
済生会新潟第二病院眼科では、毎年、県内外の患者さんと家族、眼科医・視能訓練士や医療および教育・福祉関係者を対象に、新潟ロービジョン研究会を開催しています。
第9回目になる今年は、「視覚障がい者の就労」をテーマにして、魅力的な講師陣をお呼びして企画しました。 全国11都県から123名の方々が参加して開催しました。
厚生労働省の調査(06年)では、15歳以上64歳以下の身体障がい者約134万人のうち、就業しているのは約4割と推定されています。一方、同省が全国約5000事業所で働く約11000人を対象に行った「障害者雇用実態調査結果報告書」(03年度)によると、身体障がい者の3割以上が過去に離職・転職を経験し、平均転職回数は2.1回でした。
05年に成立した障害者自立支援法は、意欲と能力のある障がい者が働きやすい社会の推進を目指すとしていますが、視覚障害者への支援はまだ不十分なようです。
1 「視覚障害者の就労に、私はどうかかわることができるか?」
仲泊 聡 国立身体障害者リハビリテーションセンター病院 第三機能回復訓練部部長
視覚障害者にとって就労は最重要課題である。なぜなら、障害によって奪われた「収入」と「所属」と「生き甲斐」のすべてを就労に関連して獲得することができるからだ。
しかし、眼科医はこの最大の問題に自らが手を差し伸べられると自覚していない。眼科医は、まず疾患を治療し、視機能の回復をはかるべきである。これが全てだ。しかし、それに時間を要し過ぎると逆に就労継続に対する壁になる。むやみに入院治療を引き延ばしてはいけない。エイドによる機能的な回復を実現し、手帳や年金の手続きをすみやかに行ない、職場への説明を十分に行なって理解を促し、就労への環境を整えるのも眼科医の仕事である。手におえないのなら相談・訓練や教育の場への橋渡しを行う。
私は、そうやってこの10年を過ごした。しかし、尚うまくいかない。どこにその問題があるのか。
本質的な問題は何か?パソコンにしても三療にしても、能力のある人は、適切な支援さえあれば問題ない。資格はあるけれど上手く働けない人、資格を得ることが出来ない人が問題である。
そして自立である。自立支援法が出来たが、必ずしも上手く運用しているとは言えない。
今年新たなポストに就き、眼科医としてだけではない重責を感じている。これから皆さんと一緒に考えてみたい。
講演後、新潟県視覚障害者福祉協会の松永秀夫さんから、現行の障害者自立支援法は、視覚障害者にはあまり適応にならないとコメントがありました。
2 「視覚障がい者の就労」〜NPO法人タートル事務局長の立場から〜
篠島 永一 特定非営利活動法人タートル 事務局長
NPOタートルの目的は、1)「見えなくても、見えにくくても働ける」を提唱し、社会啓発に努める、2)「職業選択の自由を求めて」を目標に職域拡大と能力開発に努める、3)「定年まで勤めつづける」をめざして定着支援を連携と協力により行う、4)「納税者になろう」をモットーに、職業自立を支援する、である。
特に、就労継続(中途視覚障害者の就労の継続をすすめ、失職を防止する)、復職(視覚障害リハビリテーションを受け、雇用主の不安感を払拭する)、再就職(コミュニケーションスキルとモビリティスキルを身に付けることにより自信とプラス思考をもって就職活動をする)、新規就職(新たな職域に挑戦する意欲を持つ)の各分野で活動を展開している。
何よりも会社の戦力と成り得る実力を付けること、そして自分の意見を会社に提案できることが大事である。そのためには、本人の働きたいという意志が大切。
現実に障がい者を受け入れる会社は増えてきている。タートルでは事例をファイルして、公にしている。ハローワークにも働き掛けている。
視覚障がい者の多くは眼科を受診する。眼科医の一言が大きく影響する。眼科医にも視覚障がい者が実際に社会で活躍していることを知って欲しい。
視覚障がい者には、うつ病の方が多い。心の支援を必要としていることにも目を向けて欲しい。
講演後、神奈川県茅ケ崎から参加された社会保険労務士の中村雅和さん(1型糖尿病)から、「なにくそ!障がいになんか負けるものか。障がいはチャンスだ」と力強いメッセージがありました。新潟の信楽園病院の山田幸男先生から、「新潟の人が地元で支援を受けられるようにするにはどうしたらいいのでしょうか?」という質問がありました。篠島さんは以下のように答えていました。「資源の多い東京とは違う、新潟では新潟のやり方があるはず。でも、根本のところでは、当事者が当事者の就労相談を受ける体制をつくることが大事だろう。」
3 「わが社の障がい者雇用について」ー年金をもらうばかりではなく、税金を納める側になれー
小野塚 繁基 小野塚印刷株式会社 専務取締役
厳しい最近の経済状況では、企業にとって障がい者を雇用することは困難になってきている。健常者以上に能力がないと採用されないというのが現実である。そういう意味では障がいのあるなしは関係ない。企業にとってプラスになる人材は必ず採用される。
障がい者としての弱者意識、疎外感の中で生きてきた彼らが、不自由ながら平等な意識で外へ、職場へ出てこれるように導くことから始まる。
思うように指先が使えず、握力もほとんどなしの、男性が「誰もが彼には無理だ」と思う紙揃えを「これが出来なければ、もう自分のいけるところがない」という必死の想いで、練習をすることにより、仕事がリハビリとなり、手先が器用になり、問題なく、印刷機械を操作できるようになった。
家では何もかも、お母さんがやって下さり、できなさそうなことは最初から手を出さない難しそうなことはやってもらう、それが当たり前の生活の中で、できるように工夫すること努力することなど学べるはずはない。
社会に出ようとする障がい者にとって一番の足枷が家庭環境である。かわいそうに、つらいだろうにと大事に大事にかしずかれ、結局、自立できない人の助けなしでは生きられない人間になってしまう。仕事で甘やかすことが差別になる。
絶対できないことは理解しているが、工夫や努力をしない人我慢がない人はいらない。どんどん配置転換をして、出来ること、やりたいことを捜してもらう。ノーマライゼーションの実現・・・遠く長い道のりを、挑戦し、体験を拾い上げて積み上げて行くことにより、障がい者が社会の一員として認められる。
「国の年金をもらうばかりではなく、一日も早く税金を納める側になれ!」
4 「『障碍』を持つ教師の働く権利保障をめざして」
栗川 治 (「障碍」を持つ教師と共に・連絡協議会事務局長 新潟県立新潟西高等学校教諭)
新潟県教育委員会の障碍者雇用率は1.09%で、全国で2番目に低い。日本全体でも2.0%の法定雇用率に達しているのは京都府と大阪府のみで、教育現場の立ち遅れが著しい。
「障碍」を持つ教師と共に・連絡協議会で全国の当該教師を支援する中で実感するのは、個々の障碍に応じた働き方を可能にする条件が整っていない事である。
必要な人的、物的、心的支援があれば、障碍を持つ者は働けるし、素晴らしい教育実践の蓄積もある。
しかし、多くの場合、支援や配慮がない中で、退職を迫られたり、本人が無理を重ねてつぶれたり、同僚や児童生徒に負担が転嫁されたりして、障碍を持って働き続ける事が困難な状況に追い込まれていく。
個々の創意工夫や職場の支えも重要であるが、それらを保障するための「合理的配慮」が具体的に実行される事が、障碍者雇用を進め、障碍者差別を無くしていく上で決定的な要因となっていると言える。
ホームページ:http://homepage2.nifty.com/samusei_syoukyouren/kurikawa/
和歌山県海南市から参加された山本浩さん、山形市から参加された武田健一さんからコメントがありました。
5 「新潟県立新潟盲学校における進路指導の現状と課題」
渡辺 利喜男、 仁木 知子
新潟県立新潟盲学校 高等部普通科卒業生進学先、就労・就職先(平成5年〜19年度)
卒業生総数 ― 54名
進学 ― 26名
13名 ― 新潟盲学校理療科(専攻科理療科・保健理療科)
13名 ― 短大・大学・新潟盲学校以外の盲学校(筑波技術大・筑波大付属盲・大阪府盲など)
就労・就職先 ― 21名
4名(一般企業)
17名(作業所・福祉施設就労)
その他 ― 7名
4名 ― 訓練施設(リハセンター・テクノスクール等)
3名 ― 在宅
理療科(専攻科理療科・保健理療科)の就職先・進学先(平成5年〜19年度)
卒業生総数 ― 95名
就職先 ― 60名
35名 ― 治療院等(デイサービスを含む)
14名 ― 病・医院
11名 ― 健康産業(スーパー銭湯・サウナ・健康ランド等)
開業 ― 14名
進学 ― 14名
7名 ― 本校保健理療科より専攻科理療科
7名 ― 筑波大付属盲・筑波大理療科教員養成課程等
その他(在宅・助教諭・研修生等) ― 7名
(1)中学部および高等部普通科では筑波技術大学や筑波大学附属視覚特別支援学校への進学が増加 最近は一般企業への就職も見られる。
(2)理療科では、開業をする者や治療院就職が減少し、一方ではスーパー銭湯などの健康産業にマッサージ師として就職する者が増加している。
信楽園病院の山田幸男先生から、盲学校には適材適所にコーディネートするような方はいらっしゃるのかという質問がありました。
6 パネルディスカッション 皆で考える「視覚障がい者の就労」
仲泊 聡 (国立身体障害者リハビリセンター病院眼科部長)
篠島 永一 (NPO法人タートル事務局長;元日本盲人職能開発センター所長)
小野塚 繁基 (小野塚印刷専務取締役;新潟市)
栗川 治 (「障碍」を持つ教師と共に・連絡協議会事務局長;新潟西高校教諭)
渡辺 利喜男 (新潟県立新潟盲学校)
就労体験者
亀山 智美 (長岡中央病院)
薬師寺 剛 (新潟県立吉田養護学校教諭)
轡田 貴子 (国際福祉医療カレッジ)
小川 良栄 (長岡市自営業)
まずはじめに就労体験者から発言がありました。薬師寺さんからは視覚障害者が働く上での環境整備の重要さ、亀山さんからはコミュニケーションの大切さ、轡田さんからはできる範囲内で障害の状態を理解して頂くことの大切さが語られました。
小川良栄さん(長岡市)は、”ふつう”ではないけれども市民がイメージする視覚障害者でもない、どっちつかずな存在といえる軽度視覚障害者が抱える問題について訴えました。障害の重い、軽いとは定量だけでなく定性で考えることも重要で、重い障害はリンゴが10個、軽い障害はリンゴが5個ではなく、バナナが1本という捉え方をしてほしい。そして、リンゴとバナナでは食べ方が違うように、支援のためのアプローチも違ったものになることを理解していただくことが、就業問題を考える第一歩ではないか、、、、、。
小野眞史先生(日本医大)のから、視覚障害があるからこそ向いている職種がある、それはコーティングで実際に推進している「アリスプロジェクト」を紹介してくれました。
小島紀代子さん(新潟県中途視覚障害者のリハビリテーションを推進する会)から、視覚障害者が高齢者や肢体不自由者にパソコンを指導している実例を挙げ、障害を持つ人は、今の時代に一番欠けている「相手の立場に立つことのできる人」と紹介がありました。この時、小野塚さんから、「企業の立場からすると、そのことがどう会社に役立つのかを知りたい」とのコメントがありました。
高橋茂さん(西新潟中央病院リハビリ;言語聴覚士)は、障害の種類による異なる支援と能力開発の必要性を訴えました。
岩田文乃先生(順天堂大学)は、視覚障がい者の就職や能力開発を考えた場合、視覚障がいがあると何にも出来なくなるという負のイメージ(特に親の)に問題があるとの指摘しました。
麻野井千尋さん(NAT)は富山県の活動について、八子恵子先生(前福島県立医大)は福島県の活動についてから報告してくださいました。
仲泊聡先生(国立身体障害者リハビリ病院 眼科部長)は、復職という問題について産業医はどうかかわっているのか、鍼灸マッサージの環境整備について発言があり、最後に「視覚障害者は空気を読むのが苦手、脱KYが不可欠。そして笑顔を忘れないことが就労に繋がる」と語り、会場から喝采を浴びました。
視覚障がい者の就労について語る場合、1)障がい者は就労に足る能力(企業が望む能力)を身につけること、2)企業は障害の有無にとらわれずに能力を見出す採用をすること、3)企業が望む能力を身に付けるために、盲学校は何をしなければならないのか、医療者は何が出来るのか、親は何をすべきか、4)能力(資格)を身に付けられない障がい者は如何したらいいのか?、5)働けるのに働かない障がい者がいることはもっと大きな問題では、、、、 課題はまだまだてんこもりです。
「就労」(と「結婚」)は、障がいがあるという事実と真正面から向き合うことを余儀なくされます。
建前でない真剣な討議が交わされ、充実した研究会となりました。参加の皆様の熱意に感謝致します。
《機器展示》
東海光学、タイムズコーポレーション、ナイツ、アットイーズ(新潟)、新潟眼鏡院
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主催 新潟ロービジョン研究会
(代表;安藤伸朗)
連絡先 済生会新潟第二病院眼科
平成20年7月4日の勉強会 『新潟盲学校弁論大会 イン 済生会』の報告
安藤@新潟です。
第149回(2008‐07月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会 『新潟盲学校弁論大会 イン 済生会』の報告です。
1)「共に生きる社会に向けて」
石黒知頼(いしぐろ ともより)新潟盲学校中学部3年
【弁論抄録】
視覚に障がいを抱えていても、他の人と同じことを同じようにできると嬉しい。今回特に、職業の選択、副音声、ATMについて考えたい。
現在、大学も点字で受験できるようになったが、就職については現実的には厳しいようだ。視覚障がい者が就職できるとする職種は、鍼・灸・あんまということになるが、最近は音声パソコン等の普及により視覚に障がいを抱えていてもいろいろと活躍できる場が増えていることは心強い。しかし新潟で就職レベルまでパソコンを会得することは厳しい。大阪や筑波まで行かなくてはならない。
テレビやドラマでの副音声解説があるとありがたい。見えなくてもテレビや映画を楽しみたい。周りの人が笑っていても笑えない。副音声があれば、どういう状況なのかがよくわかり、嬉しい。時には周りの人が状況を説明してくれるのだが・・・。
最近のATMは、タッチパネルなので僕達には使えない。全てのATMで音声案内が備わって欲しい。
自分の力で何でもできるようになりたい。自立したい。職業の選択・副音声・ATMを糸口に訴えていきたい。
【弁士自己紹介】
僕は野球部に所属しています。7月1日から3日まで新潟を会場にして北信越盲学校野球大会が開催されます。僕はレフトを守っています。音を頼りにボールをキャッチするのでとても難しいですが、うまくキャッチできたときはとても嬉しいです。学校では生徒会長をしています。ことしはいよいよ3年生で受験も控えているので、勉強も頑張りたいです。
【先生からの補足】
知頼君は昨年度「関東甲信越地区盲学校弁論大会」に学校代表として出場しました。昨年も「暮らしやすい社会」の実現に向けて自分の感じていること、考えていることを発表しました。済生会の勉強会での発表は昨年に続き、2回目になります。とても張り切っています。昨年とは一味違う知頼君の発表にご期待ください。
2)「家族の絆」
近山朱里(ちかやま あかり)新潟盲学校中学部3年
【弁論抄録】
部活(卓球)のために一年間寄宿舎で暮らした。寄宿舎では身の回りのことはすべて自分でやらなければならない。掃除・洗濯物をたたむ、、大変だ。今まではこんな大変なことを全部やってもらっていたんだ。些細なことで家族とけんかをしてしまうが、翌日は「おはよう」と言って終わり。
3世代同居をしている(母方の)祖母が入院した。「おばあちゃん、お願いだから早く良くなって」と祈った。
寄宿舎で生活するようになってからいろいろと家族に支えられていたことを実感することができた。自分を陰で支えてくれていたこと、家族が健康でいることのありがたさ、強いつながり。家族と絆を実感し、家族に感謝している。
【弁士自己紹介】
わたしは卓球部に所属しています。秋には石川県で北信越盲学校卓球大会が行われます。今年は選手として参加できるように練習を頑張っています。最初はなかなか難しかったですが、だんだんとボールを打ち返せるようになり、今はとても練習が楽しいです。学校での得意教科は英語です。理由はいろいろな単語や表現の方法を覚えることが楽しいからです。趣味は音楽鑑賞で特に最近のJ-POPをよく聴いています。
【先生からの補足】
朱里さんは今年度新潟で開催された「関東甲信越地区盲学校弁論大会」に出場しました。昨年は「わたしの主張 新潟市地区大会」で最優秀賞を受賞し、県大会に進みました。大勢の前で発表することを何度も経験してきました。とても明るく、いつもにこにこしている朱里さんです。
3)新潟盲学校の紹介(ビデオ使用) 田中宏幸(新潟県立新潟盲学校:教諭)
http://www.niigatamou.nein.ed.jp/
当校は、昨年度創立百周年という大きな節目を迎えました。これまで当校が歩んできた歴史と伝統を振り返り、これからの特別支援教育の動向を踏まえ、新たな一歩を踏み出してまいります。
また、当校は県内唯一の視覚障害教育専門機関として、その使命や役割を自覚し、特別支援教育推進に努めています。幼児児童生徒個々のニーズに応じた適切な教育支援を推進し、自立や社会参加につながる力の育成を目指し、県民の期待に応えます。
(小西明校長あいさつ;HPより)
【後記】
毎年7月に、盲学校の生徒を招いて院内で弁論大会(盲学校弁論大会 イン 済生会)を行うようになって、8年目になりました。今年も2名の弁士を迎えて開催しました。
限られた短い弁論時間で、これまでの挫折や苦労、そして小さな一歩の勇気から外に出て周りの人の温かさを知り、人のために何かしたいと感じ生きていく。そんな人間の強さ、無限の可能性に毎年感銘を受ける弁論大会です。毎回、生徒の明るさと、元気、純粋さに圧倒されています。
【全国盲学校弁論大会】
1928(昭和3)年、点字大阪毎日(当時)創刊5周年を記念して「全国盲学生雄弁大会」の名称で開催された。
大会は戦争末期から一時中断。47(同22)年に復活。75(同50)年の第44回からは名称を「全国盲学校弁論大会」に変更。
大会の参加資格は盲学校に在籍する中学部以上の生徒。高等部には、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師の資格取得を目指す科があり、再起をかけて入学した中高年の中途視覚障害者も多く、幅広い年代の生徒が同じ土俵で競うのも特徴。
社会に発信する機会の少ない視覚障害者が、自らの考えを確かなものにし、その思いを社会に届ける場として伝統を刻んできた。出場者からは視覚障害者の間で活躍するリーダーが育っている。
新潟盲学校は地区予選を「関東甲信越地区」の枠で行う。
第77回全国盲学校弁論大会関東甲信越地区大会(同地区盲学校長会主催、毎日新聞社点字毎日部など後援)が6月13日、新潟市内で行われた。7都県9校から盲学校の生徒11人が参加。出場者は7分の持ち時間で、障害を抱える中で体験したエピソードを熱く語った。
審査の結果、東京都立八王子盲学校専攻科2年、北村浩太郎さん(36)が1位となり、県立新潟盲学校専攻科1年の佐藤成美さん(18)が2位に選ばれた。北村さんと佐藤さんは、10月に福島県で開かれる全国大会に出場する。
【新聞の投書欄から】新潟日報「窓」 2008年6月26日朝刊
元気もらった盲学校弁論大会
新潟市 熊木克治(67) 新潟大学名誉教授
先週、全国盲学校弁論大会の地区予選を聞く機会があった。盲学校理療科で解剖学を教えているが、目が不自由な人と聞くだけで、何となく腰が引けたり、遠慮していたりする自分に気付き、その未熟さを嘆いている。
さわやかな語り口から、勇気と元気をもらったのは、実は私のほうだった。障害を個人のマイナスとしてだけ捉えるのでなく、社会での広い相互理解の意識が大切と思う。いわゆる晴眼者といわれる私たちの方こそが、無知で認識不足であった。まさに「目からうろこが落ちる」貴重な体験であった。
平成20年6月11日の勉強会の報告
安藤@新潟です。
第148回(2008‐06月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:『脳卒中後の身体認知』
講師:粟生田 友子(新潟県立看護大学教授)
【講演要旨】
脳卒中発作を体験した人の多くは、突然病気が身に降りかかり、気がついたときにはからだの麻痺で愕然とするような時間を体験する。発作を起こした後に、人はどのように身体を感じ取り、その障害を了解するのか、その間にどのような感情処理や対処行動を起こすのか?
はじめに
からだが回復しているときに起こる心理的な課題は、患者さんの聞き取りから、以下のように理解できる。
「障害が受け容れられない」 「意欲がでない」 「精神症状が顕著に現れて病的になる」 「苦悩を出せずに身体に現れる」 「疾病利得に逃げ込む」 「障害部位により理解力や行動を起こす能力が欠損する」 「社会環境に見合った生活の自立ができない」 「家族が障害に対して不適応を起こす」 「社会的な状況の変化に対応できない、、、」 そのほか、経済的破綻、家族関係の変容・・・・・
1.脳卒中者の心理的な問題を患者の語りを通して理解してみたいと思う。
1)急性期における混乱
−機能を失った身体に向き合う、
−状況を理解することの難しさ、
−今後生活への見通しのなさ
急性期は、発症前後を境にして身体も急激な変化を起こしている。同時に患者にとっては、心理的にも重要な時期にあると位置づけられる。患者自身が、自分肉体としての身体に生じている機能障害のある自己に直面していかざるを得ない状況にさらされているからである。発病後、眼前に展開される治療状況の中に居て、十分な時間的余裕のないうちに最大限の訓練効果を期待したリハビリテーションが開始され、期待できる範囲の機能回復に向けて多くの職種による綿密なリハビリテーションのプランのもとに患者はおかれていく。そして、発作を起こす前とは全く異なった自分自身の身体を受け入れるための十分な時間がないまま、機能訓練に向かうことが要請されているとも言える。
この時期の患者は、状況を受け容れるまでの間に、幾多の混乱を起こす。その背景には、意識障害から回復した後で起こる以前とは異なる場におかれている事態への対応困難や、身体を察知することで厳然と起こっている事態を受け入れられずに起こるもの、あるいは事態の変化や重大さによって将来予測が立たないために起こるものなどがあるといわれている。この混乱は、患者自身が状況を理解していく過程において起こる混乱でもあり、患者にとっては重要な意味を持つ。患者がその後に安寧な心理過程を辿るためには、事実をありのままに捉え、自己に向き合うことが必要になるからである。したがって、この混乱した時期をどのように体験するかが、その後の心理過程に影響をもたらすと考えられる。
2)回復期になって発生する問題
−感情の落ち込み、気力の減退、
−回復意欲の低下、
−うつの発症
急性期を過ぎた時期での患者の心理社会的反応としてしばしば問題とされることに、感情の落ち込み、回復意欲の低下、気力の減退、うつの発症がある。とくに、脳卒中の場合のうつの発症は増加傾向にあり、リハビリテーションを遅延させる原因ともなっている。そしてこれらは、明らかに、疾病や後遺症の発現に起因する心理社会的反応であり、そのほとんどが回復期以降に起こる。このことは、それ以前の超急性期から急性期における患者の心理ケアの必要性を示唆すると考えられる。
*日本での脳卒中後の患者における抑鬱状態の発生頻度は1975年以降、対象者100名から7,345名中15〜65%の範囲での報告がある(平井,2003)。
3)急性期の具体例を挙げてみる。
症例1 Aさん
初期の身体の了解
1.からだの違和感とともに得体の知れない脅威を感じる→「薄れている意識」の中で自分で動こうとし、「身体がうまく動かなくなっている」ことに気づく。
2.身体の絶え間ない確認を繰り返し、期待できる度合いを計る→周囲の状況を探りながら、自分の今のからだをたしかめていく
3.見通しをつけるための作業に取りかかる→リハビリをやることが救いとなり、忘れることができる、そんな強迫性のある営みを続ける
4.身体の初期の知覚:希望を入れ込んだ目標に向かう→できればというからだの可能性を抱きながら、ひたすら前に向かう。可能性の現実的な予測も見え隠れし始める。
症例2 受障後に起こっていること 多田富雄「邂逅」より
(1)身体の知覚
死に直面していることは知っていたのですが不思議に恐怖は感じませんでした。ただ恐ろしく静かな沈黙があたりを支配していたのを覚えています。
海か湖か黒い波が押し寄せていました。私はその水に浮かんでいたのです。浮かんでいた私はその生ぬるい感触に耐えていました。
ある日のこと麻痺していた右足の親指がぴくりと動いたのです。予期しなかったことで半信半疑でした。何度か試しているうちにまた動かなくなってしまいました。かすかな頼りない動きではあったがはじめての自発運動だったので、私は妻と何度も確かめ合って喜びの涙を流しました。自分の中で何かが生まれている感じでした。とにかく何かが出現しようとしていました。
(2)思考の錯綜
全く突然の信じられない異変でした。突然こんなことになってあとどうすればいいのでしょう。私のスケジュールは詰まっていました。・・・次々に浮かんできます。考えると申し訳が立たない。みなキャンセルしなければなりません。いろいろなことが去来して絶望してきました。途方に暮れました。
(3)体の確認作業
私が心配したのは脳に損傷を受けたかどうかでした。もしそうなら私が私でなくなってしまう。まず九九算をやってたが大丈夫でした。次に覚えているはずの謡曲を頭の中で謡ってみた。初めは初心者のやる羽衣をおそるおそる謡ってみました。全部思い出すことができました。次に「歌占」をやってみました。(歌詞の内容がかさなり)今の自分の境遇を思い起こして嗚咽してしまいました。
2.脳卒中者の身体の了解の語りから判ったこと
初期における体験は、「からだをわかる」ことへの時間の連続の中で描かれる。ここでは、無意識的な防衛(とくに打消しや否認)を含めて当事者にとっての現実検討が繰り返されている。
現実検討が繰り返される中で安寧に向かおうとするときには、「新たな自己」「違う自己」を認知しようとするこころの作業がすすめられている。
「急性期」と一言で片付けられている時期のケアがとても重要であることが判ってくる。
医療従事者は(医者も看護師も)、この急性期の患者のケアを注意深く行うことが重要である。
【粟生田友子氏 略歴】
上越市出身。
聖路加看護大学を卒業後、聖路加国際病院勤務。
埼玉県立衛生短期大学、聖路加看護大学、福島県立医科大学を経て新潟県立看護大学に勤務。
現在、「地域生活看護学領域」に所属。
【後記】
看護の仕事を実践し、現在看護教育を担当されている粟生田(あおうだ)先生のお話は、とても新鮮でした。
齢50を過ぎると、親がいろいろな病を背負うようになります。私も2年前に脳梗塞を発症した父を思い浮かべながら今回のお話しをお聞きしました。
ショック混乱期の様々な過程を解析して頂き、思い当たることも多くありました。
家族の思い、愛情の尊さも感じました。多田富雄先生(下記*1*2)の「邂逅」、早速読んでみたいと思います。
看護師は日常の業務や身の回りの世話はしているが、本当に患者を看ているのか?患者と対話しているのか?という問い掛けは新鮮でした。
今回も勉強会に参加された方から様々な感想が寄せられましたが、以下のような一文がありました。
「ショック期において患者様の言葉より本人がどのような状況であるかを推測する場合、医療従事者は常に患者の立場に立っていなくては真の姿を読み取ることは出来ない、という更に進んだ看護に対して興味を感じました。」
医学医療の世界には、根拠に基づいた医療(Evidence based Medicine:EBM)を声高に主張する風潮がありますが、患者さんとの会話を通して患者さん自身の物語に基づいた医療(Narrative basedMedicine:NBM 下記*3)に立脚した今回の研究の発展を期待します。
そして、、、言葉少なくなった父と、もっと会話したいとつくづく思いました。
*1 多田富雄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E5%AF%8C%E9%9B%84
*2 多田富雄先生の挑戦
http://www.st.rim.or.jp/~success/tadatomio_ye.html
*3 NBM(narrative based medicine=「物語に基づく医療」
http://www.clg.niigata-u.ac.jp/~miyasaka/nar/narindex.html
平成20年5月14日の勉強会の報告
安藤@新潟です。
第147回(2008‐05月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:『自らの身体への自己決定と身体の公共性』
講師:栗原 隆(新潟大学人文学部教授)
【講演要旨】
1)臓器売買の自由はあるか?
自由主義とは、以下のように定義される。a)判断能力のある大人なら、b)自分の生命、身体、財産に関して、c)他人に危害を及ぼさない限り、d)たとえその決定が当人にとって不利益なことでも、e)自己決定の権限を持つ(加藤尚武『現代倫理学入門』)。
では、臓器売買について自己決定はできるのか?
2)法律で決まっているからとはいえ、どうして臓器を売買することはいけないのか?
臓器が少ない現状では、人助けとなる自発的な自己犠牲とも言える臓器売買は許されていいのではない
か?とも考えられる。
以下に資料を示す。
日本における臓器移植希望者数(2008年4月末現在)と2006年の移植数
待機患者数 脳死移植数 生体移植数
心臓 100 10 0
心肺同時 4 0 0
肺 115 3 4
肝臓 201 5 505
腎臓 11,802 16+死体181 939
2006年に行なわれた実際の移植数(国際比較)
心臓 腎臓 肝臓
日本 10 1,136 510
アメリカ 2,224 17,091 6,650
イギリス 162 2,130 659
フランス 380 2,731 1,037
3)どのように売買が禁止されているのか?(法的根拠)
「何人も、移植術に使用されるための臓器を提供すること若しくは提供したことの対価として財産上の利益の供与を受け、又はその要求若しくは約束をしてはならない」(「臓器移植法」11条1項)。
「何人も、移植術に使用されるための臓器の提供を受けること若しくは受けたことの対価として財産上の利益の供与し、又はその申込み若しくは約束をしてはならない」(「臓器移植法」11条2項)。
さらに、「前各項の規定のいずれかに違反する行為に係るものであることを知って」臓器の摘出、使用を行なうことが、5項で禁じられている。
4)世界でも売買は禁止されている。
しかしながら、臓器売買の禁止は、個人の自己決定によって、自らの臓器を売買して利益を手にしたいと考える人の自己決定権を侵害しているとも言えるし、また臓器の提供数の増加を阻害しているとも考えることができる。
5)なぜ臓器売買が禁止されているのか。
「富者による『搾取』から貧者を『守る』必要がある」という議論が前提になっている。
―反論―
ラドクリフ・リチャーズ:十分な情報が提供され、支払いも確実になされるようにするためには、政府による適切な規制のもとで臓器売買がなされるようにするほうが望ましい。
安部圭介・米倉滋人:個々の病院が臓器売買を恐れて一方的にルールを定め、そのために移植の必要な患者の親族に心理的圧迫が加えられたり、逆に臓器提供者が見つかっているにもかかわらず、親族ではないために移植がなされず、患者の生命が救われなかったりする状況は、経済的弱者の『保護』を言いつつ、別の弱者を抑圧する結果を招いていると言わざるを得ない。
結局、臓器売買は、コントロールされた条件下、状況において許される!!!という主張である。
6)これを聞いて釈然としない気持ちはどこから来るのか?
人体は売り物ではないという思想がある。売春、援助交際は、違法であり、倫理に反する。それは身体を売ることだからいけない、とされている。
人間の尊厳は、道具を使うところにあるのだ。道具とは自らの外部の自然物を対象化して自らの目的遂行のための手段とすることである。自らの身体そのものを道具・手段にするのでは、動物と同じで、それでは人間の尊厳は失われる。
小括
(脳死からの)臓器移植は、
1)「技術をもってできることなら」という〈技術信奉〉の流れのなかで、
2)生命を維持するためには、他人の臓器を買ってでもなんだって治そう、いや治すことができるという〈生命至上主義〉を大前提として、
3)他人の臓器であろうと、病気の臓器であろうと、とりあえず役に立つものは何だって使って、とりあえず、病状の改善という結果が出るなら、それは良いことだと見る〈功利主義〉に、
4)自らの身体に関しては、各々が「自由な自己決定権」を持っているので、自分の身体を文字通り売ってでも金銭を得たいという、〈自己決定〉も尊重されるべきという自由主義が後ろ盾をしている思想基盤の上で、
5)現実に臓器が不足している、というストーリーが進行するところに正当化されることになる。
加えてしかも、脳死からの臓器移植がご遺体の損壊に繋がりかねず、また他人の死を待つ医療であるという後ろめたさを斟酌するならなおのこと、自発的な臓器売買は〈倫理的に許される〉、ということになるかもしれない。
この結論で皆さんは満足するだろうか? なにやらグロテスクな話しになりかねない。
医療行為は、健康を回復するためのものである。ところがその提供者にあっては、健康を回復するどころかリスクが残る。したがって、健康な提供者から、金銭授受を目的として臓器を摘出することは、医療の目的からして許されることではない。
7)人間の尊厳
仮に、〈技術信奉〉〈生命至上主義〉〈功利主義〉〈自己決定〉のいずれを強調するにしても、臓器売買は、健康な体から臓器を摘出するものである以上、医療の目的に反する。人間は自ら「目的」なのであって、〈手段〉に堕すなら、人間の尊厳に悖る。
「君自身の人格ならびに他のすべての人格に例外なく存するところの人間性を、いつまたいかなる場合にも同時に目的として使用し、決して単なる手段としてのみ使用してはならない」(カント『道徳形而上学原論』)。
8)しかし、これで落ち着くであろうか?
〈したい〉ことの実現を目指すのが〈自己決定〉であって、「するべきこと」実現を目指す「自律」とはまったく違う。従って、自らの身体への自己決定権が持ち出される限り、倫理性に反することさえ追求されることになる。
臓器移植は、そうした自己決定権が認められるべきだという虚構の倫理性の上に成り立っている。その極端な形が臓器売買ということになろう。
9)身体の公共性
身体は個人の持ちものではない。身体=私である以上、自由な処分対象にはならない。
「他人の身になる」―「身を持ち崩す」―「身から出た錆び」―「医療に身を入れる」―「身の程を知らない」―「身を立てる」
そもそも、身体は、誰の所有物でもない。だからこそ自由に処分されえない、人格の尊厳の証なのである。
10)人権観念の違い
アメリカ式の考え方:人権とは個人の自由と権利であって、それ以上でも以下でもない。自分の体の一部をどう使おうとそれは本人の自由であるとして、広範な処分権をその人個人人認めるのが基本となる。
人体要素の売買も一概には禁止されない。移植目的で提供された臓器や組織の売買は法で禁じられているが、提供された組織を保存・仮構して売買することは認められ、広くビジネスとして行なわれている(ヤ島次郎『先端医療のルール』)。
フランスの民法では、「法は人身の至上性を保障し、その尊厳へのあらゆる侵害を禁じ、人をその生命の始まりから尊重することを保障する」 (民法典第16条)。
「各人は自らの体を尊重される権利を持つ」として、「人体の尊重」を人権として認める(同16条の1)。
そのうえで、「人身の尊厳」の具体的な中身として、「人の体は不可侵である。人の体、その要素およびその産物は、財産権の対象にできない」(第16の1条)。――不可侵の原則
「治療が必要な場合に人体への侵襲を行なうには、それに先立って本人の同意を取らなければならない」(第16条の3)。――同意原則
「人体とその要素および産物に財産上の価値を与える効果を持つ取り決めは、無効である」(第16の5条)、「自分自身に対する実験研究や、自分の体の要素の摘出もしくは産物の採取に同意した者には、いかなる報酬も与えてはならない」(第16の6条)――無償原則
フランス国務院の報告書 『同意はすべての場合に不可欠であるが、すべてをカバーすることはできない。人は、部分であろうと全体であろうと自らの体についていたいと思うことを絶対にする自由を持つものではない。人格はその人自身からも守られなければいけないというのが、公共の秩序による要請である(ヤ島次郎『先端医療のルール』)。
自己決定が有効な範囲と身体の公共性への認識を深めることが必要である。
【栗原隆氏 略歴】
1951年11月 新潟県生まれ 小学校三年まで新潟市
1970年3月 新潟県立長岡高等学校 卒業
1974年3月 新潟大学人文学部哲学科 卒業
1976年4月 名古屋大学大学院文学研究科(修士課程) 入学
1977年3月 同 中退
1979年3月 東北大学大学院文学研究科(修士課程)終了
1984年3月 神戸大学大学院文化学研究科(博士課程)修了 学術博士の学位取得
1984年8月 神戸大学大学院文化学研究科 助手
1987年4月 神戸女子薬科大学 非常勤講師
1991年4月 新潟大学教養部 助教授
1994年4月 新潟大学人文学部 助教授
1995年2月 新潟大学人文学部 教授
専門は、生命倫理学、環境倫理学、近世哲学(ドイツ観念論)
後記】
臓器売買の自由はあるか?という今回の話題、かなり刺激的でした。
人は誰でも長く、そして健やかに生きたいと願います。時には人の臓器を提供して頂いてでも、万能細胞の力を借りてでも、、、、、。
諸外国に比べ、日本における臓器移植の少ないという事実。今や臓器移植を望むなら、インドやフィリピンにでも行かなければならない時代です。
現代は、核家族化が進み、おじいさん・おばあさんと一緒に住むことが少なくなりました。身近な人の「死」を経験することがなくなりました。そして「死」を受け入れること、「死」について考える機会が少なくなってきました。
臓器移植ばかりでなく、万能細胞や再生医療の話題が毎日のように流れて来ます。そもそも医学とは人間を死なないようにする学問だったのでしょうか?
しかし、誰も死ななくなったらどうなるのでしょうか?限りある資源環境である地球に住む人類、人口が増え続ることは不可能です。「死」を受け入れる覚悟も必要かもしれません。
それにしても今回のお話は、臓器売買の危うさを論理的に解釈することの大事さを示してくれました。生命倫理において、論理的思考は重要です。そして人間の生きるべき道筋を深く洞察する哲学が深く関わることも理解できました。一方、これは変だなと直観的に感じることのできる皮膚感覚を磨くことも大切だと感じました。
毎回、興味深い話題を提供して下さる栗原隆先生に感謝致します。
平成20年4月9日の勉強会の報告
安藤@新潟です。
第146回(2008‐04月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:『視覚障がい乳幼児の発達と育児』
講師:香川スミ子(浦和大学)
【講演要旨】
初めに私の経歴を紹介します。盲学校教員(1年)を経験したあと、東京都心身障害者福祉センターで視覚障害科幼児班を11年、幼児科を18年経験しました。東京都心身障害者福祉センターでの仕事は、次の通りでした。視覚障害科では視覚障がい乳幼児の通所(訪問)による発達支援・養育支援、幼児科では障がい幼児の発達相談に係わる視機能評価、発達評価、発達支援等の情報提供、、、。このように長い間、視覚障がい乳幼児の発達と育児支援に関わってきました。
本題に入ります。あるお母さんのことばです。『視覚に障がいがある子どもの子育ては、どのようにしたら良いのだろうか?と質問をすると、声かけを多くしたり、直接物に触れさせたりする以外は普通に接しなさいと言われます。でも、普通ってどういうことなのでしょう?』
実際に2歳の視覚障がいのあるお子さんの子育ての場面をビデオで見てみましょう。(VTR)
「普通の子育て」を、以下のようにまとめることができると考えます。お母さんが1)子どもの喜ぶことが分かる、2)喜ぶことを一緒にする、3)喜ばせるために工夫をする、4)喜ばせるために手助けをする、という4つのことです。
「子どもが喜ぶこと」は何か?実はその内容が子どもの発達レベルに見合ったことであるのです。お母さんならすぐに分かることなのですが、それを可能にする条件はお母さんが精神的・肉体的に安定していることが前提になります。障がいのある子どもの将来や、自分自身や家族のことだけで頭がいっぱいな場合は、子どもの行動や感情に添いながら、育児を楽しむことなどが難しくなることが想定されます。
「障がい乳幼児持つ母親のQOL」調査を行ったことがあります。247名の結果は以下の通りでした。
*QOL得点が高い母親は育児ソーシャルサポートと父親の育児サポート認知が高く、調整的コーピング(注1)が高い。
*QOL得点が低い母親は、育児負担感、育児バーンアウト、孤独感、抑鬱感が高い。
母親の育児をサポートすることによって、育児負担感を軽減することが、孤独感や抑鬱を抑制し育児バーンアウトを防ぎます。すなわち、養育者の健康(身体:精神)が、子どものハビリテーション(注2)に影響を与えることが推定され、養育環境の整備を支援することの必要性、大事さが指摘することができます。
「医療機関と相談・療育機関の役割」を考えてみましょう。医療機関では、障がいについて正しい告知を行い、心理職等によるサポート、療育・相談機関の紹介を行います。これを受けて療育・相談機関では、家族のニーズを受け止め、育児支援をし、社会資源(注4)の情報提供を行います。特に、子どもの障がいや発達を評価し、子どもに見合った情報を提供しつつ発達支援を行うことに専門性が要求されます。また、必要に応じて、地域保育機関との連携を図ります。
専門的な療育・相談機関である東京都心身障害者福祉センター幼児科での相談事例と、発達評価技術として開発した群別発達標準モデルを紹介します。視覚と肢体および知的に障がいのある次男を持つお母さんの発達相談内容は以下のものでした。1:訓練の必要性、2:現在の発達レベル、3:食事行動、排泄行動、独歩、理解力の予測、4:昼夜の転倒。回答は、訓練については「本人の健康を第一に考え、無理強いしないこと」、また他の行動については、発達を評価し、群別発達標準モデルを提示したうえで、「現在の子どもの能力に合わせて育児する」というものでした。それを聞いて母親の反応は、「ほっとした。安心して育児ができる。子どもの存在を地域に分かってもらう」ということでした。
「群別発達標準モデル」は、『障害児の発達過程は、障害の種類や程度によって、また、同じ障害であっても知的発達段階によって多様な状態を示す。障害のない子どもの発達過程をそのまま参考にすることはできない。「モデル」とは、障害の種類、程度、生活年齢、知的発達水準などの条件が同じか、類似している子どもたちを一つのグループ(群)としてまとめ、その群の発達の状態を明らかにするものである。』です。
以下に「群別発達標準モデル」の例を提示します。
1)視覚障害児の「物・玩具を使用する遊び」の発達(知的レベル15か月)の特徴
1:遊びの中に自分なりのルールを盛り込む、2:既得の行動をより完全に行使する、3:触覚の違いに関心を持ち探る、4:入れたり出したりする
2)盲児の食事行動
知的レベル 食事行動
6か月 持たせれば食べる 8か月 自分で皿からとって食べる コップを口に持っていく 11か月 コップを自分でもって飲む 18か月 飲んだ後コップをテーブルに戻す 20か月 スプーンですくって食べる フォークで刺して食べる
視覚障がい乳幼児の発達と育児について、また、お母さんをサポートする専門家がすべきことは何かについて、お話し致しました。皆様のお役にたつことがあれば幸いです。
[語句の説明]
(注1)コーピング〜ストレスの原因(ストレッサー)に対して各人がとる対処方法のこと。
(注2)ハビリテーション〜生まれつきあるいは早期に障害を受けるか病気などにより、その機能の低下あるいは損失のある者の、最大限の機能の働きと快適な精神的・身体的状況の発達を全面的に促進させる事である。
(注3)ノーマライゼーション〜障害者などを施設に隔離せず、健常者と一緒に助け合いながら暮らしていくのが正常な社会のあり方であるとする考え方。また、それに基づく社会福祉政策。
(注4)社会資源〜人々の生活の諸要求矢、問題解決の目的に使われる各種の施設、制度、機関、知識や技術などの物的、人的資源の総称。
【香川スミ子氏 略歴】
学歴 昭和42.4〜43.3:東京教育大学教育学部特設教員養成部普通科
平成6.4〜8.3:日本大学大学院理工学研究科 医療福祉工学専攻前期課程
平成8.4〜11.3:同後期課程、学位:博士(工学)
資格 盲学校教員普通科1級免許状
職歴 昭和44.4〜45.3:東京教育大学教育学部小学部教員 盲学校教員(1年)
昭和45.4〜平成11.3:東京都心身障害者福祉センター 視覚障害科幼児班(11年)、幼児科(18年)
平成11.4〜15.3:聖カタリナ女子大学社会福祉学科 教授
平成15.4〜現在:浦和大学総合福祉学部 教授 現在に至る
【後記】
日々障がいのある子どもたちに向かい合い、その発達を保障するために、あれもしたい、これもしたいと考え悩んでいる現場の教師や父母は、条件が悪いからと言って何もしないで時を過ごすことはできない、厳しい条件下で乗り越えなくてはならない、この子どもたちのために、、こんな熱のこもったお話しでした。
厳しい状況下での教育の現場を、VTRを通して拝見しました。一つのことを習得するまでの何度も何度もの繰り返し、絶え間ない声掛け、安全への気配り、そしてそのことが毎日毎日果てしなく続
く、、、、時に怒ることも、泣くこともあるでしょう。でもVTRの光景には親子の愛情を強く感じることができました。この親の果てしない忍耐を支えること、(香川先生の言葉をお借りするなら)養育環境の整備を支援することの必要性、大事さを感じた1時間でした。
今回は盲学校の先生や視覚に障がいを持つ子供さんのお母さんが沢山参加されました。ある教師の感想を以下に紹介します。「熱い想いを秘めた方々と接することは、それだけで大きく心を揺さぶられるものがあります。まさにそんな1日でした。『プロとしての自覚と責任』・・・ゴールはありませんが、自分らしさと向上心は持ちたい、持たなければならないと感じました。勉強し経験を積んでいる方たちの言葉には重みがあります。『専門性のないところに連携など生まれない』なども共感しました。」
わが国では、2007年度から特別支援教育という新しい理念と制度による障がい児教育が始まりました。この教育を推進する行政の対応は十分とは言えません。しかし障がいを持った子どもたちと親と教師の営みは今日も相変わらず行われています。私も、かれらの養育環境を支援する一人でありたいと強く思いました。
平成20年3月12日の勉強会の報告
安藤@新潟です。
第145回(2008‐03月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:『伝えたいこと、伝わっていますか?』
講師:小野沢裕子(フリーアナウンサー)
【講演要旨】
知っているつもり、分かっているつもりと思い込んでいて実際は違っていることが案外あります。
この時期、遠くに咲いている黄色い花を見ると菜の花かと思う。しかし実際に近づいてみると、それはキャベツの花であった。皆さんは、こんな経験をしたことがありませんか?
理解してもらうこと、思いを伝えることは大切です。でも伝えることの難しさをしばしば経験します。
吉永小百合さんが新潟に来て、映画「母べえ」の舞台挨拶をしました。私はその司会役になり、一緒の舞台に立ちました。吉永さんはその魅力も凄いのですが、話し方も一流です。「それはね、、、、、、、」、 言葉が途切れてどうしたのかなと会場の人が固唾を飲んで耳を澄ませていると、「実は、」と続けます。「間」の取り方は絶妙でした。
上手く伝えるには、聞き手のことを考えながら話すことが大事です。例えば、「春の花」と話した時、聞いている人は、何を連想しているのかイメージできますか?人によって、桜、菜の花、チューリップ等々様々なことをイメージします。「青い空」はいいものと思っていませんか?ところがある人にとっては、病気で入院していた時、見えていたのは病室からの「青い空」のみで、「青い空」を見る度に暗い気持ちになってしまうということもあります。
上手く伝えるには、伝える側の「思いやり」も大事です。「思いやり」のある話し方とは、言葉に思いを込めることです。「思い込み」とは違います。
では、ちゃんと伝えるために、何が必要で、どうしたら、人が動いてくれるのでしょうか?
今回の勉強会は体験参加型です。参加者でゲームをしました。
ゲーム1:聞き手の中から、数名に登場してもらう。目を閉じて、手をつなぎ綺麗な三角形を作る。やってもいいことは、声を出すこと、動くこと。やってはならないのは、目を開けること、手をはなすこと。 綺麗な三角形と伝えた。ここで、どのような三角形を作るのか、正三角形か、直角三角形か、話し合わずに始めるケースが多い。
このゲームを通して判ることは、情報がいかに大切かということ。伝え、そして動いてもらうためには、まず共通認識、共通言語、空間把握が大切。これをないがしろにすると、思いこみで発言したり、動き始める人が出て、他の人を混乱させることになる。
ゲーム2:二人ペアになる。一分間でお互いの共通点をいくつ探せるか? 相手を理解して、相手に判ってもらおうとするところが大切。共通点が判ると、嬉しくなる。親しい人とは、知らず知らずに、共通点を探している。
子供は共通点を探す天才です。口がひとつ、鼻がひとつ、鼻の穴が二つ、目が二つ、、、、子供のころは自然に出来ていたことが、年月と共に、ここが違う、あそこが違うと相違点ばかり挙げて、「だから、あなたとは合わない」というようなことがあります。判って欲しいと思ったら、共通点を探すことから始めるのも一案です。
こうしてゲームを通して、聞くだけではなく、体感してもらいました。自転車の練習のように、実際にやってみることで、「思いこみ」を避けることが出来ます。
こんなやり方もあるということを、少しでも感じてもらえたらと思います。
さぁー、自分の思いを皆に伝えてみませんか?
【小野沢裕子氏 略歴】
1980年 BSN新潟放送入社
1986年 結婚のため退社
1988年 第1子出産 子育て開始
1990年 第2子出産 子育て満喫
1995年〜2002年 新潟テレビ21「小野沢裕子のいきいきワイド」
2004年〜2007年3月『クチこみラジオ越後じまんず』(BSNラジオ)
現在、『モーニングカフェ金曜日』 (BSNラジオ7:00〜9:00)
新潟市ユネスコ協会副会長、
NPO法人長岡復興支援ネットワーク理事、
よしたー山古志応援団、
各種イベント、講演、シンポジウム等司会、ナレーションなど。
【後記】
聞いている時はただ楽しく、そして後でじわじわと考えさせられるお話しであった。
40分足らずのお話で、「間」「聞き手のことを考えること」「思いやり」「共通認識、共通言語、空間把握」「共通点を探すこと」が、大事であることを教わった。
さすがに、小野沢裕子さんは「伝える」ことの達人だ。
最近、読んだ本のことを思い出した。題名は忘れたが、およそ以下の内容であった。
「人間は自分の頭の中に『テンプレート(型紙)』を沢山持っていて、見聞きした事象が一致した時に『わかる』と判断する。わからない時は、新たなテンプレートを構築する、すなわち学習が必要となる。
『伝える』のも同様で、伝える内容が相手の頭の中のテンプレートと一致しないと伝わらない。一致したテンプレートがない場合は学習させる必要があるが、知識を外から与えるだけでは頭の中で構築できない。ここで五感の総動員が必要になる。『見る。聞く。触る。嗅ぐ。味わう』ことで、独自のテンプレートを創る。
一番いいのは、あえて失敗を経験させ、貪欲さが芽生えたところで、『むしり取らせる』ことだという、、、」
コミュニケーションが大事だとよく言われる。家族、友人、職場、さまざまな関係の方々と、いい関係を構築するためにも、「伝える」ことを大事にし、「伝わったはず」「わかったつもり」の「思い込み」を避けたい。
平成20年2月23日の勉強会の報告
安藤@新潟です。
第144回(2008‐02月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「豊かな生き方、納得した終わり方」
講師:細井順(財団法人近江兄弟社ヴォーリズ記念病院ホスピス長)
【講演要旨】
4年前の2月、スキーから帰ってきて血尿がでた。疲れたせいかなと軽く考えていたが、その後も一週間に一度くらいの割で血尿は続いた。痛みのない血尿は、外科医として常識的には癌を考える。しかも、すでに血尿が出ているということから早期の癌ではないと考えた。一方、ホスピス医としての経験から、手術や化学療法をめいっぱいにやった患者さんより、治療らしい治療をしないでがんと共存して過ごしてきた人の方が楽に死ねる。このような二つの経験から、私は慌てないで様子をみようと考えた。3月も後半になり(血尿が出てから1ヶ月半経過)、排尿の度毎に汚く濃い色の血尿がでるようになった。満足に排尿することができず、これでは仕事にならない状態となった。仕方なくCT検査を受けた。その結果、右腎臓に直径8cm大の腫瘍が写っていた。最初に思ったことは、手術をしたら簡単に取れそうだということだった。がんではないかもしれないと直感的に思ったが、泌尿器科医の友人に相談してこれはがんだと納得した。患者さんのフィルムならがんと診断したはずなのに、自分のことになると悪いことは否認することに気づき、これが、がん患者の気持だと理解できた。
家族にがんが見つかり、手術を受けることを打ち明けた時、当時高校3年の息子は、「ワァー、でかいな。素人でも判るわ」。妻は「お葬式はどうする?」という反応であり、私としては楽になった。ある意味、スーッとした。
これまで、がんは患者さんの問題であったが自分の問題となって気づいたことがあった。ホスピスに入れるのでホッとした(癌でなければホスピスには入れない)。また本(今度は闘病記)が書ける。やっぱり家族の支えが一番。そして手術がこんなにも大変だという経験を出来たこと。医療者の一言の有難さ、怖さを経験できたこと。特に「がん」があってもなくても同じことという気持になれたことが大きかった。
手術前に「患者の気持ち」という一文をしたため、主治医に渡すことにした。何故なら命を左右するような手術にはしたくなかった。外科医はとかく無理をしたがる。ついついやりすぎてしまうことがある。
私は今やっている仕事を続けたい。手術して仕事が出来る状態(血尿を止める)にして欲しいことを主治医に告げた。こんなことをして嫌われたらとも思い、多少の勇気は必要だったが、、、。通常取り交わしている手術の同意書は、主治医からの一方的な押し付けであることが多い。自分の存在を大切にして、こういう手術を受けたいと患者サイドから申し出することは大事なことだと思っていた。
ホスピスの仕事を一人の患者さんの事例を紹介して、お話しする。76歳男性。前立腺癌、腰椎に転移があり腰痛があった。初診時は、苦痛に顔をしかめ、「ワニに食いつかれて、振り回されているように痛む」と訴えた。鎮痛剤を処方した。翌日、回診時「戒名」についてお話を伺った。(普通ならまだそんな話は早いと言うところかもしれない)私は「ほう、私にも教えてくれますか?、なるほどいい戒名ですね」。翌々日、痛みについてお尋ねすると、「すっかりよくなりました。この病院に来てキリストに出会ったようです」。この患者さんからホスピスの治療とはどういうものか教わった。がん患者の痛みは、身体的苦痛のみでなく、社会的苦痛(仕事や家庭)、精神的苦痛(不安や苛立ち)のみでなく、スピリチュアルペイン(人生の意味や死の恐怖等々)も 関係する。がん患者の痛みには鎮痛剤ばかりではなく、傾聴も重要な治療手段である。このおじいさんはホスピスで「キリストに出会う」という象徴的な言葉で生きかえったことを表現した。
ホスピスで生きかえることができる理由を「ホスピスの秘密」と名付けて紹介したい。1)『YouareOK.』 これまで患者さんが経験してきた治療や生き方を受け止めることである。一般的には病院というのは悪いところを見つけるために行くところである。ホスピスではそうではなく、 You are OK (あなたは、それで大丈夫)と言うことも 必要である。今ここで出会えたのも、あなたがこれまで頑張ってきたから、、、。2)外科的に治すという事は、癌を小さくすることであるが、ホスピスでは一緒に患者さんの重荷を担いで上げることである。患者さんとの一体感。自分のパフォーマンスをするのではなくて、自分を殺して患者を浮かばせる。生きているということは、誰かに支えられているということを実感する。3)『お互いさま』のこころ。今日という時間を共有している。死にゆくという点では、患者さんも医療者もない。時期が少しずれているだけである。そう思うとケアをすることは、結局将来の自分のためだと思われてくる。4)『死を創る』。その人が亡くなると、私の中にその人のいのちが受け継がれている。そういう意味では、ホスピスはいのちのたすきリレーの場所でもある。
死にゆく人を支えるには、誠実・感性・忍耐・謙遜・祈りが必要。「今日はご飯が食べられません」という患者に、「おかゆにしましょう」では感性がない。その言葉の奥に秘められた患者さんの気持を聴き取ることが大切である。食べられないほど弱ってしまったという不安や孤独な思いを聴き取ることが必要である。まずはよく患者の悩みを聴くことである。
2007年の世相を表す言葉として「偽」が選ばれた。そんな世相の中でホスピスはオアシスの役割を担っている。ホスピスを動かしている力は先程の言葉(誠実・感性・忍耐・謙遜・祈り)である。この世の名声、金銭、栄誉で動いているのではない。死を前にしたとき、この世の価値観では戦えない。オアシスだからこそ、先程紹介した患者さんのように生きかえる。
ホスピスは死にゆくところと理解している人たちが多いと思うが、死にゆくことは、本人にも、家族にもケアにあたるスタッフにも決して容易いことではない。ホスピスの役割は、最期まで「よい生」を続けられる環境を整えることである。その中で患者さん・家族が主役となって「よい生」が叶えられて「よい死」が創られると感じる。
「豊かな生き方、納得した終わり方」を考えた時に浮かぶキーワードがある。『症状のコントロール』、『人生の満足感』、『死生観の確立』、『家族の支え』の4つである。このうち、ホスピスでできることは、最初に挙げた症状のコントロールだけである。ホスピスまでの人生が、ホスピスでの過ごし方を決めている。近頃の問題として、家族関係の希薄さがホスピスケアにも影響を及ぼしている。最後に大阿闍梨(だいあじゃり)の言葉を紹介しよう。「仏さまは、ぼくの人生を見通しているのかもしれないね」という一節を見つけた。修行の極みに達した生き仏と言われる人物の一言である。何ともホッとして、気持が落ち着く言葉だろう。我々を包んで、運んでいる大きな翼があることを覚えたい。
【質疑応答】
質問:死にたくない、悔しい、苦しいと思う死は、「望ましくない死」なのだろうか? 「望ましくない死」を避けがたく迎える方、その家族にも満足感、敬意を抱いて頂きたいと思うし、現に何とか抱いて頂いているとも思うが・・・。
答え:本人にとって納得できる死を迎えられるような環境を整えることしかホスピスではできません。本人が納得できなければ、その納得できないことに付き合うのです。決して納得できるように説得するわけではありません。人は生きてきたように死ぬと言いますから、普段の生き方がポイントでしょう。ホスピスでは、9回裏ツーアウト満塁での逆転サヨナラ満塁ホームランをねらっているわけではないのです。
質問:がんになって、突然、生の意味が語られることになる違和感は? 終末期以前で、病前期で、どうやって「豊かな生き方」を得ていくべきか?
答え:「豊かな生き方、納得した終わり方」を考えた時、4つのポイント『症状のコントロール』、『人生の満足感』、『死生観の確立』、『家族の支え』があります。そのうち、ホスピスでできることは『症状のコントロール』(痛みからの解放)だけで、他の3点はホスピスまでに考えるテーマです。普段から終わりを意識した生き方を続けないとホスピスだけでは手遅れという場合も多々あります。昔からメメント・モリ(死を想え)という言葉があります。50才になったら人生の棚卸しをすることが薦められます。不用になったものを捨て、これから必要なものだけを残すことです。
ホスピスは not doing, but being と言われる世界ですから、ホスピスに入りさえすれば「よい死」が待っていると短絡的に考えていると、失望します。そもそも死にゆくことは自分の問題で、医療の問題ではないからです。
質問:「豊かな生き方、納得した終わり方」には多くの手助け、コストが必須ではないのか?
答え:日本ホスピス緩和ケア協会の資料から、豊かな経営をしているホスピスはありません。赤字を出さないように四苦八苦しているのが現状です。しかし、ホスピスの数は増加傾向にあり、経営的理由で閉鎖するところは数カ所だったでしょうか。
ホスピスを動かす力は、誠実、謙遜、感謝、信頼、祈りなどですから、常識的な経営感覚では説明できない何かがあるのでしょう。私どものホスピスでも決して安泰ではありませんし、ホスピス賛助会を設けて寄付を募っています。ボランティアの働きももちろん大切です。これは誤解しないでください。ホスピスの労働力としてボランティアを使っているという意味ではありません。ボランティアとして活動する方にとってプラスになることが、ホスピスにとってプラスになるのですから。
質問:細井先生のホスピスはボランティアを入れていますか? もし入っていたらどんなボランティアですか?
答え:ボランティアの方が活躍しています。しかし、まだ少ない人数なので、ティーサービスを担当してもらってます。また、季節の行事の準備(この季節なら雛人形の飾り付けや後かたづけ)などです。今後、人数も増えて、もっともっと充実した活動を行っていただきたいと願っています。ボランティアはホスピスに潤いを与えてくれます。
質問:ホスピスは見学できるのでしょうか?
答え:見学はできます。しかし、見学者のためのプログラムを作っているわけではありません。建物の見学が中心です。地域に開かれたホスピスのためには、これも今後の課題の一つです。
質問:ホスピスでの一日の流れなど詳しい生活が知りたい。
答え:ホスピスは痛みなどを少なくして、患者さんと家族に悔いのない1日を過ごして貰うための環境を整えることが役割です。家族にも参加してもらい、家庭での1日をホスピスで実現して貰います。従って所謂介護施設のように食事の時間、お風呂の時間、レクレーションの時間などのプログラムが用意されているわけではありません。
【細井順氏 略歴】
1951年 岩手県生まれ。
78年 大阪医科大学卒業。
自治医科大学講師(消化器一般外科学)を経て、
93年4月 淀川キリスト教病院外科医長。
95年4月 父を胃がんのために、同院ホスピスで看取る。
患者家族として経験したホスピスケアに眼からうろこが落ち、ホスピス医になることを決意。同院ホスピスで、ホスピス・緩和ケアについて研修。
98年4月 愛知国際病院でホスピス開設(愛知県初)に携わる。
2002年4月 財団法人近江兄弟社ヴォーリズ記念病院緩和ケア部長。
04年4月 腎臓がんで右腎摘出術を受ける。
06年10月 自らの闘病経験をふまえ患者目線の院内独立型ホスピスが完成。
現在ホスピス長として患者の死に寄り添いながら、ホスピスケアの普及と充実のための啓発活動にも取り組んでいる。現在、日本死の臨床研究会世話人
著書:『ターミナルケアマニュアル第3版』(最新医学社、共著1997年)
『私たちのホスピスをつくった 愛知国際病院の場合』
(日本評論社、共著1998年)
『死をみとる1週間』(医学書院、共著2002年)
『こんなに身近なホスピス』(風媒社、2003年)
『死をおそれないで生きる〜がんになったホスピス医の人生論ノート』
(いのちのことば社、2007年)
財団法人近江兄弟社ヴォーリズ記念病院のHP
http://www.vories.or.jp/
【後記】
90名を超す大勢の方々に参加して頂きました。
難い演題でしたが、細井先生は柔和な表情で、時に関西弁を交え、にこやかに語ってくれました。患者の心持は、繊細である。医療者の一言が心に響く。「患」という字は、串ざしの心とも読める。手術の同意書は医師からの押し付けになってはいないか?終わりを意識した生き方が大事、、、、、。講演もよかったのですが、最後の質疑応答も実のあるものでした。
著書 『死をおそれないで生きる〜がんになったホスピス医の人生論ノート』に以下のくだりがあります。患者さんや家族の持つ悩みは、ホスピスで過ごすわずかの間に解決できるはずがない。解決に至らなくても、共に悩みを分かち合うことは出来る。分かち合うことが解決の糸口になる。
今回語られたのは「ホスピス」でしたが、心のケアという点では一般の医療の中に取り入れるべきものも多いと感じました。そしてこれまでの自分の生き様を考えるいい機会になりました。
平成20年1月9日の勉強会の報告
安藤@新潟です。
第143回(2008‐01月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:『歩行訓練士は何を教えるのかー
自分の歩行訓練プログラムを考えるために』
講師:清水美知子(歩行訓練士;埼玉県)
【講演要旨】
はじめに今回は中途視覚障害者を対象とした話です、と前置きがあった. 「見えない人が安全に街を歩けるのか?」という命題から話し始めた.現実には、車輛交通の増加、スピードや移動形態の異なる歩行者の混在、低い縁石など、街がますます歩きにくくなっている.加えて、歩行者(視覚障害者)の高齢化、実働する歩行訓練士の地域格差(都市部には多いが、地方は少ない)という状況がある.これらの問題の突破口をどこに求めるのか?何よりも視覚障害者自身が「歩行訓練」が何かを、理解して批判できるようにならなくてはならない.
「歩行訓練」は「街を歩く訓練」である.「街を歩く」ことは、 単純化すると以下のようにな.1)単路(街区の辺)を歩く、2)角を見つける、3)角を曲がる、4)道路を渡る、5)方向を定位する(単路と「平行」、横断する道路と「垂直」)、6)杖の技術(物と身体の接触、段の踏み外しを寸前で阻止しする) これらが歩行訓練で習得する基本技能である.
目的地へ行き着くためには、「ランドマーク」を辿る.ランドマークを知る方法としては、現地査、人に聞く、地図などがある.よく視覚障害者は「メンタルマップ」を持つべきと言われるが、観念的すぎる場合がある.実際には、メンタルマップを意識するよりも、具体的なランドマークを記憶する方がわかりやすいのではないか?ランドマークは人により様々に異なる.自分に合ったランドマークの選別も歩行訓練の重要な課題である.
「歩行訓練士が少ない」「訓練施設が遠い」場合は、自分の生活圏で街歩きの基本技能を練習すと良い.しかし屋外の歩行の場合、転倒、物との衝突、車輛との接触の危険があるので、家族・友人・ガイドヘルパー・ホームヘルパーといった身近な人に練習の見守りを依頼する.練習を始めるにあたっては、歩行訓練士と、練習の課題・場所・頻度・想定される危険等を話し合い、その後定期的(週一回あるいは月一回程度)に観察評価を頼む.この形態であれば、歩行訓練士が少ない地域でも歩行訓練は可能である.
毎日の生活に、一人歩きの練習時間が組み込めないかを考える.例えば、家族やガイドヘルパーとの買い物あるいは散歩ルートの中に、10メートルでも一人で歩ける所がないかを検討する.一足飛びに都心の雑踏を歩くことを考えず、まず、自分の生活圏で「歩く場所」を作り、一人歩きの楽しさを感じ、自分の歩行能力を確認してほしい.
【略歴】
歩行訓練士として、
1979年〜2002年 視覚障害者更生訓練施設に勤務、
その後在宅の視覚障害者の訪問訓練事業に関わっている。
1988年〜新潟市社会事業協会「信楽園病院」にて
視覚障害リハビリテーション外来担当。
2003年〜「耳原老松診療所」視覚障害外来担当。
2004年〜特定非営利活動法人 Tokyo Lighthouse 理事
視覚障害リハビリテーション協会 理事
http://www.ne.jp/asahi/michiko/visionrehab/profile.htm
【後記】
清水さんがお話される時は、いつも多くの方が参加されます。今回は、なんと遠く鹿児島、長崎、仙台からの参加者があり、最初から寒さも吹き飛ばすような熱気の中で始まりました。
講演のあとの、参加者が皆で感想を語り合います。異口同音に「『歩く』ことを、こんなに深く洞察した話を聞くのは初めて」と述べていました。
今回の清水さんのお話を聞いていると、「歩くこと」とは「生きること」と同じように聞こえてきました。いつも清水さんは「当事者の声が大事です。何か困ったことがあったら声を出して下さい」とよく言います。主体性を大事にします。
歩行訓練士は、ただ歩く技術を教えるのではなく、如何にして思い通りに歩くことが出来るか、当事者自身に考えさせることが大切と説きます。結局「教える」ということは、「考えさせる」ことと思い知らされます。これは学校の先生も、医者も同じかなと感じました。
いつものように、いや、いつも以上に考えさせられた一時間半でした。
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