済生会勉強会の報告 2007
平成19年12月12日の勉強会の報告
安藤@新潟です。
第142回(2007‐12月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:『ある視覚障害者の歩み』
講師:竹熊有可(新潟市)
【講演要旨】
私は、3人暮らし、母の看護をしながら生活する専業主婦です。
1)病名の宣告から就職まで
小さい頃から夜盲がありました。小学校1年の頃の視力は1.5でしたが、6年生の頃には0.3〜0.4でした。
高校1年(16歳)医者になろうと思っていた時に、大学病院で「網膜色素変性」と診断。医師から「あなたの年齢でこれだけ見えていれば、失明と寿命とどちらが早いかわからないから、決して悲観せず希望を持って」と励まされましたが、それ以上の情報提供はありませんでした。将来失明するかもしれないと聞かされても、16歳の高校生には将来のことまでは展望できませんでした。顕微鏡を覗き、ミジンコのスケッチをする生物の実習でミジンコがぜんぜん見えず、医学部進学を諦めました。
進路を変更、文系のお茶の水女子大学に進みました。将来の視機能がどうなるのか予測ができないの
で、人生設計を立てることができませんでした。
幸い二人の網膜色素変性症患者と出会い、「視覚障害者として生きる」というイメージをつかむことができました。
一人は「栗川治先生」(現在、新潟西高校教員)。私が新潟高校在学中に社会科の先生でした。先生の父・兄弟も同じ病気で、網膜色素変性であることを知っていて教員になられた方です。高校を卒業してから所沢の国立リハビリテーションの情報などをお聞きしました。
もう一人は、斎藤恵子さんです。筑波大学付属盲学校卒業後、マッサージの仕事をし、小学館のヘルスキーパー、「かるがもの会」(視覚障害者の親の会)を設立した人です。発症が早く、自分のことだけでなく、視覚障害者全体のことを考えることができるリーダーシップを持った方です。
何とか目を治してやりたいとの親の熱意から鍼灸治療を受け、少し改善したような気がしました。大学卒業後、再び医師を目指して予備校に通いましたが、マークシートの印刷が見えず半年で断念。親の経営する印刷会社へ入社しました。
会社には肢体不自由の方々がリハビリを受けて就職していました。実際にはコピーやお茶も入れられない、でも大学卒ということで給料は先輩たちよりももらっていました。心苦しい、、、。
盲学校を訪問してみました。是非筑波に行って教員となって戻ってきて欲しいと言われました。
目が不自由でも営業活動ならできそうということで、東京営業所へ転勤となりました。
2)視覚障害リハビリテーション
栗川先生から所沢で視覚障害者のリハビリがあることをお聞きしていました。東京転勤を機に、国立身体障害者リハビリテーションセンター病院のロービジョンクリニックを受診。眼科医・視能訓練士・生活訓練士の方々から様々な指導を受けることが出来ました。週一度、半年間通いました。音声パソコンや点字も習いました。
夜盲がありましたが友達と飲みに行きたかったので、白杖歩行訓練を希望。当時25歳。夜遊びがしたかったのです。夜遊びに出ると帰りは暗いのでタクシーに乗らなければなりませんでした。薄給の身でタクシー代は堪えます。もっとも親は白杖歩行に(夜遊びに?)反対していました。
視覚障害者としての社会参加のあり方を模索していた時に病院から声をかけられ、親睦と情報交換を目的とした眼科患者会「愛・eye・会」設立に、事務局長として携わりました。飲み会をやって患者同士が友達になれたら、それだけでとても意味のあることだと思いました。発足当時会員は50名程度でした。
簗島謙次眼科部長(当時)から国際網膜色素変性症協会の話を聞かされ、日本にも加盟協会を作るのでやらないかと誘われました。「治療法確立のために患者が主体的に活動」「患者・研究者・支援者が一体となって」という国際協会の理念に賛同。設立をお手伝いするつもりでしたが、思いがけず会長に就任してしまいました。
千葉ライオンズクラブから資金援助を受け、94年に日本網膜色素変性症協会(JRPS)設立。94年パリ大会、96年ワシントン大会、98年スイス・ルガノ大会に参加。患者が胸を張り、誇りを持って活動しているのを知り、日本の患者を取り巻く状況と世界との違いを痛感しました。「治療法の確立」「QOLの向上」を掲げて、ロービジョンクリニックを全国に広げようと活動。若手研究者への研究費助成を開始しました。
周囲の期待に応えるべく活動してきた面がありましたが、活動が展開し周囲の期待が膨らんでいく中で、「期待に応える」「訓練の成果を上げる」というあり方に疲れを覚え疑問を感じました(調教されたサラブレッドではなくて、放牧されているそこら辺の馬に戻りたい)。94年に結婚した夫が98年に統合失調症を発病。看病とJRPS活動のため、過労で自分自身が欝状態になってしまいました。2002年の国際網膜色素変性症日本大会を目前に、2000年JRPS会長を辞任しました。
3)鬱病になってから現在まで
自分のうちに「社会に出て活躍したい」「家庭にいて家族や親しい人と過ごしたい」という相反する方向性があり、後者が前者よりも根源的な願いであることを知ることになりました。
「自立した障害者」にならなければと思っていた頃は大分苦労しました。夫がビールが飲みたいと言った時にビールがない時は、夜でもビールを買いに酒屋に走りました。でも今は違います。夫と一緒に買いに行きます。自分のことを心配してくれる家族がいることを知っています。「共同体(家族・親族・教会など)の構成員として復帰する」ことができたことを喜んでいます。
鬱病になると、過去の辛い思い出や自分を責める思いが次々に浮かんで考えが止まらなくなることがあります。そういう時、視覚的な刺激があると、思考が中断され気分転換が図れるのでしょうが、視覚障害者の場合、思考を中断するほどの瞬間的で強い刺激がなかなか得られません。気分転換が図りにくいことでだいぶ苦労しました。今では、甘いものを食べる、ラジオを聴く、柔らかいものを撫でるなどで自分なりに解消しています。そしてクリスチャンなので、テレフォンサービスや聖書を読むことで心を落ち着かせることが出来ます。
「イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。』(新約聖書 ヨハネ福音書9章3節)」
目が不自由になって、不幸とは思っていません。むしろ多くの素晴らしい出会いがあったことに感謝しています。
眼科医療に携わるスタッフの方へ一言。目の不自由な人への助けは、神様のなさる素晴らしいお仕事です。ますます「神のわざ」に励まれますよう、健康が支えられますようお祈りしております。
注:日本網膜色素変性症協会(JRPS)
http://www.jrps.org/jrps-annai.htm
網膜色素変性症の治療法の確立と患者の自立を目指して1994年5月に設立。
【竹熊有可氏:略歴】
新潟市生まれ
1983年 網膜色素変性症と診断
1990年 3月 お茶の水女子大学 文教育学部哲学科卒業
同年11月 小野塚印刷株式会社に入社
1992年 国立身体障害者リハセンター病院眼科を受診、機能回復訓練。
患者会「愛・eye・会」設立、事務局長
1994年 日本網膜色素変性症協会設立、会長
同年11月 竹熊幸一と結婚
1995年 小野塚印刷を退社
1996年 長女かれん生まれる
1998年 幸一、統合失調症を発病
1999年 有可、鬱病を発病
2000年 日本網膜色素変性症協会会長を辞任
同年 株式会社加賀田組 総務部庶務課に勤務(電話交換)
2001年 加賀田組を退社、埼玉・春日部市へ転居
2002年 新潟市に戻る、有可鬱病のため3週間入院
現在に至る
【後記】
竹熊さんには10年以上前の第11回勉強会(1997年4月23日)で、JRPS会長として「日本網膜色素変性症協会JRPSの紹介」というお話を伺ったことがあります。堅苦しい肩書きとは異なり、とても爽やかな印象でした。
「目の不自由な人への助けは、神様のなさる素晴らしいお仕事です」、このフレーズに思わず鳥肌が立つような感動を覚えました。最近、患者さんからクレームを言われる事はあっても、感謝とか尊敬などというものにはあまり縁がない雰囲気で診療していることが多く、外来が終わると疲労を感じることが多くなっていました。
お話を聞いて以来、患者さんを目の前にして「神様ならどう考えるだろうか?」「神様ならどのような言葉を選ぶだろうか?」と、考えながら診療するようになりました。
日々の診療が、少しでも患者さんのためになる「業」であることを祈って(目指して)、明日も診療したいと思います。
竹熊さんに「やる気」と「誇り」を頂きました。ありがとうございました。
平成19年11月21日の勉強会の報告
安藤@新潟です。
第141回(2007‐11月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:『視覚障がい者のためのパソコン講習と支援技術教育』
講師:前田 義信(新潟大学准教授 工学部福祉人間工学科、広島大学客員准教授)
【講演要旨】
しかしまあ,何でんなぁ,雪がちらつく暴風の中,済生会までせっせと足を運んで下さいました皆様にえらい仰山,感謝申し上げます.
さて,工学者のお噺と言いますのは,数式やら論理やら回路やら賄賂やらと,そりゃ難儀な話題がテンコ盛りでございまして,一知半解なままお帰りになられるお客様も多いようです.そこで今回は学者の顔を綺麗さっぱりに捨てちゃいまして,大事な話をオモシロオカシク話せないだろうかと考えた次第であります.
これまで「視覚障害者のためのパソコン講習クリック」っちゅう講習会を延べ9回,約5年の歳月をかけて新潟大学の教職員と協力して実施してきた訳でありまして,これには,大学生,大学院生のストロングなボランティア精神に随分と支えられてきたんでございます.講習会に先立って,学生には「視覚障害者とは何ぞや」って話をしますが,視覚障害者の皆様に「学生ボランティアって何ぞや」という話をする機会がこれまでありゃしまへんでしたから,ええ機会やとばかりに一席申し上げます。
さてッ.私が大学生だった頃はバブル真っ盛り.バブル,バブリャー,バブリストで最上級まで造語してしまう程の豪華絢爛な時代でした.自分の好きな学問ができて就職も安泰やと思った矢先,大学4年生になる頃に,世の中のバブルがポンっと弾け飛んでしまいました.徐々に学問にも自分の能力にも限界が見えてきて,おまけに就職先はあれよあれよと霧散する有様は,ハタチに毛が生えた程度のブルーな若者を挫折感で一杯にするには十分でした.
何かせな!って気持ちだけが空回りして,それでいて何してええかも全く見えへんし,何かさせてくる環境も社会にはなくなった.若者のくせに将来の夢すらもてない夢覚障害者となった私は,今の自分の心境にぴったりな(地下鉄駅の広告で知った)「しどろもどろ作業所」に学生ボランティアとして足繁く通いました.そこでは身体障害者が社会参加の活動に従事しており,私は車椅子押したり,一緒に話したり,時には説教されたりしながら手探りで自分の未来を探していたんやと思います.
そんなときにふっと思い出したんでございますな.私の弟は脳性小児麻痺という障害をもってまして,幼い頃は,大阪天王寺の南,鶴ヶ丘の聖母整肢園でリハビリしておりました.母親に連れられた私は沢山の身体障害者を見ることが多かった訳ですが,その後,高校,大学と青春のど真ん中にいて,幼い頃に見た世界が自分のすぐ隣にあるということをうっかり失念しておった訳です.
なんや心から安心できるホームに,青春のジャングルを紆余曲折としながらも帰ってきた気分でございました.つまり,学生ボランティアっちゅうのは,自分に挫折して,そこから何とか抜け出そうと,もがき苦しんでいる若者なんでございますね.そうでない若者は興味本位からボランティアのフリをしていても,結局すぐ居なくなります.
大学1,2年生は,大学生になれた喜びと高校時代の束縛から解放された自由とで,往々にして青春を謳歌しております.そのような学生のボランティアは長続きしない.
大学3,4年生は進学や就職を前にして多かれ少なかれ自分の将来について悩む訳です.自分の悩みの答えが知りたくて市場原理からは逸脱した“ボランティア”なるものを続けることになります.
たとえ視覚に障害をもとうと,団塊の世代として日本社会を創ってきた皆様から,彼らに色々と人生のアドバイスしてあげて下さいませ.団塊世代の視覚障害者と平成成熟社会の若手夢覚障害者,一体,どっちがボランティアしていてボランティアされているのか分からんような関係こそが,ホンマの関係なんとちゃうかと思い,何の因業か「関係とは何ぞや」が私の研究テーマの中心に,今もドーンと居座っているのです.
クリックならぬ映画トリックですが「ドーンと来い人間関係」でございます.え?
そんなの“関係”ねぇって?
【前田義信氏:略歴】
平成5年 大阪大学 基礎工学部 生物工学科 卒業
平成7年 日本学術振興会 特別研究員
平成10年 大阪大学大学院 基礎工学研究科 物理系専攻 博士後期課程 修了
(博士(工学))
新潟大学 工学部 福祉人間工学科 助手
平成13年 カリフォルニア大学サンタバーバラ校 研究生
平成15年 新潟大学 超域研究機構 創生科学研究部門 研究員
平成16年 新潟医療福祉大学 非常勤講師
平成17年 新潟大学 工学部 福祉人間工学科 助教授
平成18年 新潟大学 災害復興科学センター 災害地理情報分野 研究員
第5回インテリジェントコスモス奨励賞受賞
「視覚障害者の外出に対する自己決定能力支援システムの開発」
新潟大学工学部教育賞受賞
「地域連携による学生の実践的教育と社会貢献を目的とした視覚障害者のためのパソコン講習」
平成19年 新潟大学 工学部 福祉人間工学科 准教授
広島大学大学院 複雑システム工学専攻 客員准教授(1年間)
現在,
電子情報通信学会「福祉情報工学研究会」専門委員,
情報処理学会「ユビキタスコンピューティングシステム研究会」運営委員,
日本生体医工学会「医療福祉分野におけるヒューマンインタフェース研究会」
幹事,日本生活支援工学会評議員を兼ねる.
新潟大学では人間支援科学教育研究センター員として,教育・研究・地域の架け橋となって活躍している(つもり)
http://www.gis.ie.niigata-u.ac.jp/~maeda/
【後記】
今回のテーマは、「学生ボランティア」と切り出して講演は始まりました。弟さんが脳性小児麻痺という障害を持つというカミング・アウトがあり、自分自身の体験をもとに、ボランティアに参加する人・しない人、ボランティアが長続きする人・しない人、、、興味深い洞察もありました(私自身途中で投げ出した苦い思い出もあり納得)。そして現在の専門(工学部福祉人間工学科)との関わりの話へと続きました。
感動しました。参加者の一人から、こんな感想を頂きました「参加者全員が暖かい意見の交換ができて、心のポケットにあったかいタコヤキを入れてもらった、そんな勉強会となりました」。
工学部の学生・院生を3人連れての参加でした。前田先生の夢がホームページにあります。『福祉人間工学科は,約10年前,社会ニーズや文部科学省のニーズと新潟大学工学部のニーズが合致して発足しました.当時は「福祉と工学?何じゃそりゃ」という状況でした.しかし現在,全国の福祉系工学科は単なる社会ニーズだけで維持できなくなりつつあると考えられます.学問としてどうなのか?その根本が問われています.まだ福祉人間工学がどのような学問体系として社会に根を下ろすのか決まった訳ではありません.私の夢は僭越ながらそのような学問を作り上げることです.この夢に賛同してくれる学生さん,私の同胞として本研究室で大学院まで頑張ってみませんか.私は皆さんと共に夢を追いかけたいと思います(途中一部略)』
今回の講演抄録で、『ドタバタ風味で』とありましたが、見事に最初から最後まで関西弁で演じきって下さいました。インターネットで「大阪人」を検索するといくつもヒットします。『大阪人は、日常から前からやって来る人に対して、きょうはどのようにして笑わせようか、と思っている。自分と周りを楽しませることがステータス。本音と冗談を同時に言うなど、一粒で二度おいしい。東京では、まじめな話が終わってからくだけた話をする』。
最後に現在行っている研究の一部を紹介してくれました。(以下ホームページより)。現実の学級や学生の特性をコンピュータの中でモデル化・プログラミングし,シミュレーションや解析を通し,“いじめ現象”や“排除現象”とは何かを解釈・理解し,それら諸問題を解決する方法を模索します???何のことか判りませんが、少なくても工学部の先生もモノ作りだけでなく、様々なことをしているんだということは判りました。「前田義信」タダモノではなさそうです。今後が楽しみです。
平成19年11月11日の市民公開講座2007の報告
安藤@新潟です。
11月に行われた「済生会新潟第二病院眼科 市民公開講座2007」の報告です。
シンポジウム 「患者として思う、患者さんを想う」
稲垣吉彦(患者;有限会社アットイーズ 取締役社長、千葉県)
荒川和子(看護師;医療法人社団済安堂 井上眼科病院、東京)
三輪まり枝(視能訓練士;国立身体障害者リハセンター病院)
コメンテーター
櫻井真彦(眼科医;埼玉医科大学総合医療センター教授)
今年の市民公開講座は、稲垣吉彦さんという一人の患者さんが著した「見えなくなってはじめに読む本」の内容に即して構成しました。
稲垣さんは、大学卒業後銀行に就職しますが、ぶどう膜炎を患い、緑内障のため視力を失います。仕事を辞め、離婚、、、。でも今は取締役社長として活躍中です。
どうしてこの困難を克服できたのでしょうか? 今回、稲垣さん、眼科主治医、看護師、視能訓練士にお話を伺いました。
「死刑宣告」の章に、執刀医として櫻井真彦先生(眼科医;現在、埼玉医科大学総合医療センター眼科教授)が登場します。『たっぷりと時間をかけて私の目の現状や手術の方法、治療計画や回復の見込みなど、知識がない私にも理解できるように理路整然と説明した』。「眼科医に望むこと」の章の一文を紹介します。『医師の患者に対する中途半端な気配りや優しさはいらない。ある意味冷酷であったとしてもその病気が治る病気なのか、それとも治らない病気なのか、初期段階できちんと宣告されたほうが、結果として患者を救うことになるのではないだろうか』。
看護師として登場するのが、荒川和子氏(井上眼科病院 看護部長)です。「私が看護師に望むこと」の章に以下の記載があります。『当事者のケア以上に家族のケアは看護師の重要な役割かもしれない。眼科の看護師が苦悩する当事者を間近で見守るという役割は、まさに家族と対等である。家族の苦悩を開放するためのカウンセリングこそ眼科看護師の重要な役割の一つではないだろうか』。
三輪まり枝氏(視能訓練士;国立身体障害者リハセンター病院)は、「見えることと読めること」の章に、同世代の明るい感じの視能訓練士として登場します。左目の中心に針の穴ほどの視野しか残っていないため、それまで新聞の文字など読めるはずもないと思っていた稲垣さんに、読めるようになるコツを優しく伝授してくれます。
眼鏡の装用、書見台の利用、照明を明るくすること、残された視野が横長であることから縦書きの文字を横書きにして読むこと、拡大読書器の使用、、、。文字を読めた時の感動が紹介されています。
『執刀医から見えるようにならないことを宣告されて以来、二度と読めないと思い込んでいた新聞を、予想外に読めることを知った私は、まるで旧友と再会できたかのように、この後しばらくの間時間を忘れその新聞を読みふけっていた』。
「見えなくなってはじめに読む本」紹介URL
http://www.kigaruni-net.com/k01-2.html
【後記】
110名収容できる会場が、東京・埼玉・千葉・神奈川・茨城・長野・山形等、新潟県内外からの参加者で満員になりました。患者さんの話を聞く講演会、医師による講演会はよくありますが、患者さんとその治療に関わった医師・看護師・視能訓練士が一堂に介する企画、好評でした。
稲垣さんは、はじめに肉声で自己紹介をしました。吃驚しました。マイクを通すと視力が不自由な方はスピーカーの方向に演者がいると錯覚するためだそうです。なるほどと、のっけから感心しました。講演では情報が欲しいと強調されました。情報には、医学的情報のみでなく、ロービジョン的知識・社会福祉制度等さまざまな情報と、障害者への気配りも含まれていたように感じました。
荒川さんには、眼科看護師としての立場から患者ケアを語って頂きました。医学の中で眼科学はすごく発展していますが、一方、看護学の中で眼科看護という分野は未開拓であるように思います。今後ますますこの領域の発展に期待したいと思いました。
医者は治療の専門家ですが、その後のフォロー(治療から社会復帰への道のりへの手助け)が『ロービジョンケア』という分野です。三輪さんは、視能訓練士の立場からロービジョンケアの実際について、具体的にお話してくれました。
非常に困難な状況から稲垣さんが見事に立ち直った要因として、第1に患者さん自身が諦めなかった「患者の思い」、第2に治療に携わった医師が「責任を持って治療」に当たったこと、第3に看護師・視能訓練士が「患者さんの不自由さに想いを馳せてケアしたこと」(すなわちロービジョンケアなのですが)が挙げられると感じました。
質疑応答の中で、櫻井先生の「『患者さんが最大の師である』ということを再認識した」というコメントが印象的でした。
以下、各演者の話の詳細を紹介します(長文です)。
【講演要旨】
「患者として思う」
稲垣 吉彦(患者:有限会社アットイーズ 取締役社長)
私がぶどう膜炎「原田病」という病気を発症して、15年になります。この病気を発症する以前は、ほとんど病気には縁のない生活を送っていた私は、発症当時、自分自身が視覚障害者になることなど微塵も考えることはありませんでした。炎症が強いときには、自分でもちょっと見づらさを感じるものの、炎症が少し治まれば見え方は発症前と何ら変わらず、仕事を含め日常生活に何の影響もなく、当然完治するものと思いこんでいました。その後緑内障を併発し、発症から3年ほどで視覚障害者手帳を取得することになりました。
こんな私が、今一人の患者として思うことは、まず自分の健康にもっと関心を持つべきだということです。もっと早く行動を起こしていたら、これほどまで見えなくならずに済んだかも知れません。また、見えなくなった今でも、定期的に受診を続けることで、自分の目の状態を常に把握することができています。長年、ぶどう膜炎という病気とつきあっている中で、どのようなときに、もしくはどんなことをしたら炎症が強まり、見えづらくなるのか、自分なりにわかるようになりました。わかったからと言って、見えるようになるわけではありませんが、自分なりに理由付けができるだけでも、余計な不安は軽減されます。
第2には、何よりも情報が欲しいということです。自分の目の状態が医学的に見てどのような状態なのか、どうしたら少しでも見えやすくなるのか、見づらさを補う方法、利用できる福祉サービスの情報など、様々な情報をタイムリーに与えてもらえたら、生きていく希望も沸いてくる気がします。もっと身近なことでいえば、町中を歩いていて、そこに段差があるとか、車が停まっているなどという情報も、我々視覚障害者にとっては大切な情報です。
見えなくなったということは、悲しいことですが、私はそういう結果になってしまったことを、誰のせいでもなく、自己責任であると思っています。そうなってしまった自分が、生きていることに感謝しつつ、残された人生を楽しむためにも、家族や医療スタッフをはじめ、回りのみなさまから様々な情報を与えていただければと思っています。
「患者を想う」
荒川和子(看護師:井上眼科病院/東京)
看護とは、人が本来持っているその力を引き出し、その人らしく生きることを支援することです。
看護師として以下のことを実践しています 1)目的意識を持って患者さんの話を傾聴する 2)情報提供:社会福祉制度の知識 3)視覚にかわる手がかりの活用:見えなくてもできるという成功体験 4)歩行訓練の基本を指導 5)家族への支援:家族の戸惑いを受け止める。
看護師が、見えないシュミレーション体験はケアを行なう上で有効です。そしてロービジョンの知識を持ち、患者さんに何が必要かを判断できることも大事です。 以下、実際の症例を紹介します。
Aさんは50歳代の女性で清掃業の仕事をしていました。家族は娘さんと二人暮らしでしたが現在は一人暮。独身の弟さんがキーパーソンです。以前から緑内障と言われていましたが、放置していました。入院する2か月前急に視力低下を自覚。知人の勧めでやっと受診し、医師から緊急入院を勧められても経済的理由から入院しませんでした。3日後に再診を約束して帰りましたが再診日に来ないため、担当医が自宅に電話をしました。やっと再来した時は、視力はさらに悪化し、両眼ともに視力は(0.01)でした。
看護師はまず、入院してきたAさんとのコミュニケーションを築く努力をしました。「入院できてよかった!不安だったでしょう?」と声をかけ、病気のこと、入院中の生活のこと、これからの生活のことも看護師が一緒に考えていくことをはっきり伝えました。
Aさんの反応を観察しながら、少しづつ入院中のリハビリテーションを始めます。
食事が一人でもこぼさずに食べる事ができる、トイレに行く、薬を飲む、着替えをするなど一人でもできることを体験しておくことが必要でした。
医師の診断は「視力回復なし」でした。弟さんに本人への説明をどうしたらよいかを相談しました。弟さんは自分は面倒見ることが出来ないので本人にはっきり言ってほしいと希望しました。看護師は弟さんの希望を伝え、告知の場には看護師も同席し告知後のメンタルケアをさせて欲しいと医師に申し入れをしました。
医師は、「これからもっと良くなって、また自転車に乗ったりするように回復することは難しいです。これからの事は看護師さんも力になってくれるのでよく相談していきましょう。身体障害者手帳の申請もしましょう」と説明。
看護師は、「まず、地域の福祉課に相談しましょう」と提案し、地域のケースワーカーに連絡。ケースワーカーがAさんと面談し、生活保護の申請、家に帰らないで病院から生活訓練所に入れるように手続きをしました。そして、訓練後は生活保護規定のアパートを借りる用意があることまでの説明をして患者さんを励ましてくれました。連携が大切です。
「患者さんを想う」
三輪まり枝(視能訓練士:国立身体障害者リハセンター病院/所沢)
「もし、私や家族が患者さんだったら、どうしてほしいだろう?」私は、ロービジョンケアにおいて患者さんと接する時に、このように自分の身に置き換えながら対応することを心がけています。
国立身体障害者リハビリテーションセンターのロービジョンクリニック:眼科医師、視能訓練士、生活訓練専門職、ケースワーカーの4職種がチームを組んで、ロービジョン患者さんの相談に応じています。
ロービジョンケアの手順:
1)「どのような見え方をしているか」という残存視機能を把握することが大切です。視力や視野の程度、斜視や眼球運動障害の有無、羞明の程度など、患者さんの目の状況を正確に知ることが基本となります。
2)「どんなことで困っているか」というニーズの聞き取り:その際にコーチング手法などの「聴く技術」です。ニーズを聞きだしながら、患者さんと一緒に問題点の整理をし、必要なケア内容を検討します。もし、患者さんが黄班変性症などにより、物を見ようとするちょうど中心が見えない場合は、視線を動かして見やすい場所で見る「偏心視」を獲得しているかどうかの確認を優先します。獲得していない場合、必要に応じて偏心視獲得の訓練を行います。
3)聞き取ったニーズに合わせた補助具の選定:補助具を2週間ほど貸し出し、その結果、日常生活に役立つものであれば処方され、合わなければ再選定を行います。
見えにくさを補う補助具〜文字や遠方が見えにくい場合は、拡大効果を得るための拡大鏡等。まぶしさがある場合は、羞明を軽減させる遮光眼鏡や帽子等。視野が狭い場合は、文字を読む際の行換えをスムーズにさせるタイポスコープ等。二重に見える場合は、プリズムや遮蔽するためのオクルーダーなど。各々の補助具の特徴を理解して選定することが重要です。
ロービジョンケアでは、こちら側からの一方的なサービスの提供だけではなく、患者さんからお教えいただくことも多々あります。これからも患者さんとの出会いを大切にしながら、少しでも見やすい環境を整えるお手伝いをして参りたいと思っております。
平成19年10月17日の勉強会の報告
安藤@新潟です。
第140回(2007‐10月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:『AOKワープロの誕生とその意義』
講師:宇賀喜彦(高知システム開発;高知市)
【講演要旨】
人の手を借りず、手紙を書きたい、メールを読みたい、ホームページを作りたい。
こういった視覚障害者の夢を実現した、日本初全盲ロービジョン者対応の「AOKワープロ」の誕生についてお話しする。AOKは、3名のイニシャル(A:有光勲氏、O:大田博志氏、K:北川紀幸氏)を表したものである。
有光氏は1942年高知生まれ65歳。先天性の視覚障害者で、9歳の時に高知県立盲学校に入学、小さいときから漢字に興味の強い人だった。卒業後筑波大学に進学、高知県立盲学校理療科に教師として就職。
北川氏は1928年高知生まれ、高知県立大手前高校卒業後、大阪専門学校(現在の近畿大学)に学ぶ。35歳でベーチェット病発病、39歳ステロイド緑内障で失明。その後東京の視覚障害者センターで針灸を学び、高知県立盲学校理療科に就職。
大田氏は1950年(昭和25)高知生まれ、高知県立大手前高校を卒業し、無線技術者を目指した。アンリツ電気に入社、夜は夜学で学んだ。通信機からデジタルIC技術を学び、「中央電子」に入社した。そこでマイクロコンピュータの開発に取り組み、1979年(昭和54)29歳で退職し高知に戻った(奥様の希望)。最先端の技術を持っていたが、高知では職がなかった。自ら「高知マイコンセンター」を設立した。
パソコンがまだマイコンと呼ばれていた頃、当時筑波大学付属盲学校教諭の長谷川貞夫氏は、漢字表記に自ら開発した6点漢字を利用して、専用のキーボードを使った方式を視覚障害者用に完成させた。
1982年(昭和57)、岐阜で行なわれた全国盲学校教育研究大会で、長谷川は「点字ワープロ」システムのデモンストレーションを行った。大会に参加していた有光氏は、この点字ワープロのデモに感動した。高知に帰って話すと、北川氏も感激した。二人は漢字をもう一度書きたいと6点漢字を習得した。盲学校の予算でワープロを購入、長谷川式ソフトは当時80万円だった。字が書けたとき、二人は涙を流して喜んだ。
ただ漢字が書けたことが嬉しかった。
1983年(昭和58)有光と北川は、長谷川と3人で視覚障害者用の音声ワープロ開発に乗り出した。そこで必要なのは技術者(プログラマー)だった。
1984年(昭和59)4月、有光と北川は大田に「音声ワープロ」の開発を要請した。
大田は自分の技術が活かせる仕事の依頼が嬉しかった。
同年8月、ワープロソフトシステム完成。6点漢字の入力で音声に対応した方式が誕生した。ただし大きな壁は6点漢字であった。
1985年(昭和60)当時、JXワード太郎や一太郎の時代で、ワープロがパソコンに取って代わる頃であった。
同年6月、かな漢字変換でバージョン2が完成した。その後、長谷川先生の協力のもと、主要回路・基盤(無線機の技術が役に立った)・キーボードからの入力、、、、こうした開発をこつこつと成し遂げ遂に、
1986年(昭和61)11月全盲ロービジョン者対応の日本初「AOKワープロ」が完成した。キーボードで点字を打ち込み、音声合成出力装置で発音させて確認するシステム。開発する過程で、大変だったのは約3000の漢字に説明を付けていく作業。例えば、「高知」と打ち込む場合、「コウ・タカイ、チ・シル」と音声化させ確認する。わかりやすく簡単な説明を考えるのは難しかった。
「AOK」の誕生を出発点とし、「PC-Voice」によるMS−DOSの音声化、「PC-Talker」によるWindowsの音声化、現在では、スキャナを利用して活字の印刷物を音声で読上げ、ホームページや電子メールなど、インターネット上のさまざまな情報を自由に得ることを可能としてきた。
「確かに、困難な作業でしたが、だれもやった事のない分野なので、やりがいがありました。振り返ってみれば、苦しかったけれど、楽しかった」と大田氏は語る。
北川昭子子氏(北川氏の長男の嫁、結婚後に高知女子大に学士入学)は、卒業論文に以下のように述べている。『失明は墨字文化の喪失、アイデンティティーの喪失を意味する。福祉機器の開発に障害者自身が関わることが重要である。』
【宇賀 喜彦(うか よしひこ)氏:略歴】
1958年 高知県に生まれる。
1981年 青山学院大学卒
同年 高知銀行入行
1991年 四国情報管理センター入社
1995年(阪神大震災の年)高知システム開発入社 現在に至る
【後記】
点字用ワープロソフトの使用者は全国で5000人前後だが、そのうち「高知システム開発」はシェアの7割を占めるといいます(平成13年現在)。ここまでシェアを確保するようになった理由の一つは、この分野でのパイオニアだったことが挙げられます。高知という一地方でこのような画期的なソフトが開発されたことに感動。そしてそれを成し遂げたのが障害者自身の熱意であったことにさらに感動でした。
できるだけ人の手を借りず、手紙を書きたい、メールを読みたい、ホームページを作りたい。こういった視覚障害者の自立への意欲に背中を押されて開発は進んできました。今後インターネットなどの交流で世界が広がれば、障害者の就労の場の確保にもつながり、経済的自立にも繋がります。
21世紀は「共生の時代」と言われています。健常者との相互理解の架け橋として、こうした開発は今後ますます重要なものになっていくことを、お話を拝聴しながら感じました。
平成19年9月12日の勉強会の報告
安藤@新潟です。
第139回(2007‐9月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:『かつてハンセン病患者であった人たちとともに』
講師:宮坂道夫(新潟大学医学部准教授)
【講演要旨】
ハンセン病は、病気というものが悲しい差別に結びつくことを、痛切に教えてくれる最たる例である。この病気が遺伝病ではなく感染症であることがわかったのが19世紀の末、日本国憲法に基本的人権がうたわれたのが1946年、ハンセン病の効果的な化学療法が開発されたのが1950年前後、世界ライ学会や世界保健機関(WHO)が隔離政策の廃止・通院診療が望ましいと公式な見解を出したのが1960年前後である。しかし、隔離政策を根拠づけた「らい予防法」が廃止されたのは、1996年のことであった。およそ一世紀にもわたる不合理な絶対隔離政策による患者の人権侵害が、かくも長く続いた原因はどこにあるのだろうか?
第1章 無知から始まる旅
2001年5月11日、何気なくテレビを見ていた。TV番組「ニュース・ステーション」で、熊本地裁判決(隔離政策に対する訴訟;原告側勝訴)のことを報じていた。谺(こだま)雄二さんが出演していた。1960年代生まれの私は、この時ハンセン病の「患者だった人」が語る姿をはじめて見た。谺さんは長い時間をかけて、カメラに向かって思いのたけを理路整然と訴えていた。彼は、病気が治って後遺症を抱える「患者だった人」である。病気が治っているのに、何故療養所で暮らさなければならないのか?そもそも感染力が強くもないハンセン病の患者が、何故故郷を捨てて人里離れた療養所に隔離されなければならなかったのか?このようなことが多くの国民に知らされていなかったのはマスコミにも責任があるのではないか?
新潟大学の全学講義(前年の全学講義は、ノーベル賞を受賞した白川英樹博士)に谺さんをお招きして、お話を伺うことにした。講義の打ち合わせで2002年3月25日、群馬県草津町の国立ハンセン病療養所の栗生(くりゅう)楽泉園に谺さんを訪問した。そこで幾多のことを教わった。園内だけでしか通用しない紙幣の存在、かつては外部との手紙も検閲されていたこと、亡くなっても御骨を故郷に埋葬できないため園内に建立された納骨堂、断種手術に使われた手術台、中絶した胎児のホルマリン漬けの標本、しかもそのような理不尽なことをかつて日本が台湾や韓国・中国でも行ってきたこと、園に入園した親を持つ子供は学校にも行けなかったこと、手でペンを持てないために口でペンをくわえて文字を書いていた人もいたこと、居住地のはずれに重監房と呼ばれる跡地。「孤独地獄、闇地獄」「日本のアウシュビッツ」、、、これは許されないことだと感じた。
第2章 医学の物語
2002年5月20日、新潟大学全学講義で谺さんに講演してもらった。演題は「人間として生きたい」であった。会場は満員となり、地元の新聞にも大きく取り上げられた。谺さんの「語り」は迫力があった。自分自身の体験を語るという当事者ならではの「小さな物語」と、日本国のハンセン病政策の歴史という「大きな物語」を同時に巧妙に織り交ぜて語って頂いた。
ハンセン病は「らい菌」が鼻粘膜や気道から侵入し感染すると考えられているが、感染の仕組みは今も解明されていない。「らい菌」を培養することが出来ていないため、細菌の生物学的性質が調べられていない。ただし確実に判っているのは、たとえ体内に感染したとしても防御免疫機能が働く場合は、感染が成立することは非常に少ないということである。
ハンセン病が進行すると「変形」と「身体障害」がもたらされる。らい菌が皮膚で増殖すると腫れ物や潰瘍を生じたり、皮膚を肥厚させる。末梢神経の障害により、手足の指が硬くなり屈曲したり、感覚がなくなり外傷や火傷を負っても気が付かないこともある。
感染症対策で問題となるのは、感染を防ぐための隔離という手段の是非である。倫理学という視点から考えると、二つの倫理原則について検討すれば、事足りる。すなわち、自律尊重原則(患者の自己決定権が尊重されるべきという原則)と、無危害原則(患者もしくは第三者にとって危害となるようなことはするべきでないという原則)である。この二つの原則から隔離を検討すると以下のようになる。病気そのものがもたらす危害が重篤で、他の手段で防げない時に限って、隔離という手段が検討される。
次に隔離の医学的必要性を患者に十分に説明して、患者本人が自らの意思で隔離に応じるように促す。それが困難である場合に限って、強制隔離が検討される。
第3章 烙印の物語
ハンセン病は、古い時代から世界の多くの地域で強い差別の対象だった。特に顔貌の変化、手足の変形、潰瘍や膿、臭いなどに人々は反応した。このようなハンセン病を疎ましいと考える「烙印」、価値観は世代を超えて、そして地域を越えて世界中に存在した。
仏教に、「天刑病」という言葉があり、よい行為をしなければハンセン病のようになってしまうという警告の役割をしていた。仏教に限らずキリスト教やユダヤ教をはじめ多くの宗教にこうした例を見ることが出来る。
19世紀にはヨーロッパの列強が植民地を拡大したが、そこにはまだハンセン病が蔓延していた。ノルウェーのハンセンが患者の組織から「らい菌」を発見し、感染症であることを1873年に報告し、次第に認められるようになってきた。ハンセン病がすでに過去の病気になった「文明国」は、まだ流行している「非文明国」からのハンセン病流入を防ぐため、植民地で強制隔離が行われるようになった。
オーストラリアでは、アポリジニーからのハンセン病感染を防ぐため、「らい線」と呼ばれる南緯20度に境界線(大陸に引かれた隔離の線)を引いた。南アフリカの療養所では、逃亡を防ぐため有刺鉄線がはりめぐされた。数ある収容所の中でもロベン島は最悪の場所だった。反体制の政治家、犯罪者、精神病者、そしてハンセン病患者がこの島に送られた。
わが国では、1900年当時の内務省は、(非文明国の病気であると考えられていた)ハンセン病患者の第一回全国調査を施行し、日本全国に3万人いることを報告した。
このことは列強の仲間入りを目指していた日本にとって「国辱」であったと思われる。こうした事情からか、日本における強制隔離は、世界各国のものよりも群を抜いて強力なものであった。本人の意思に拠らない「強制隔離」であり、「生涯隔離」であり、たとえ完治しても隔離を解かない「絶対隔離」であった。
第4章 世界最悪のパターナリズム
光田健輔は、「救らいの父」と評価され、1951年文化勲章を受章した。ハンセン病患者への救済事業に積極的に取り組んだパイオニア的な存在であり、病型分類に貢献した「光田反応」は有名。一方で1953年制定のらい予防法に積極的に関わるとともに、法の存続に力を入れたこと、優生学に基づく患者に関する強制断種(ワゼクトミー)の実施など、ハンセン病患者の強制隔離・断種を推進し、ハンセン病患者に対する差別を助長する元凶を作った人物とも評されている。
「強制隔離」「強制労働」「断種」「懲罰」は、患者を弾圧する、人道に反するものである。何故このようなことを思いつき、実行したのだろうか?実際は、「善行」として、良かれと思って、行なわれたふしがある。ある意味での「パターナリズム」という解釈である。「パター」とは父親という意味であり、父親と子供という当事者同士に力の不均衡があり、「強者」が「弱者」に対して恩恵を施すという価値観である。
「医は仁術」と言われる。「仁」の概念は、日本の近代医学で流通しているものと、中国の倫理思想でだいぶ異なる。「仁」は孔子によって提唱された倫理観である。「孝」が子供が親を尊ぶべきものという原則であるのに対して、「仁」はもっと広い対象への思いやりを意味する。他人に対しても親と同じような思いやりを持ち、自分を抑制するべきであるという倫理原則である。「対等もしくは同等の者が、目の上の者に対する関係」を前提としている。
日本における「医は仁術」は、専門知識を持ち、社会的地位が高い医師が、患者にかける憐れみの情を含んでいるように思われる。「救らい」という言葉で語られたハンセン病政策は、それに関わる医師、看護師、宗教家、社会事業家、学者、文化人等々が、皆「恩恵」を患者に与えようとしている。本人が意識しているか否かに拘らず、「目の上の者から、目下の者へ」というパターナリズムに近い構図のもとで成り立つ倫理観である。
「救らいの父」と称せられた光田健輔は、日本のハンセン病政策をデザインした当事者であった。弱い立場にあったハンセン病患者を「庇護」しようと、時に手弁当で働き、政府に働きかけ、ユートピアというべき療養所の建設を目指す姿はまさに「父親」のイメージであった。こうした努力により、国立ハンセン病療養所長島愛生園が完成した。その園長に就任した光田は「大家族主義」という方針を打ち出した。「患者も職員も家族であり、私が家長となり、親兄弟のように暮らしていきたい」。そして家長は罰する権限を持つとも述べている。家族主義の中には、「罰する親」という側面も有している。
第5章 重監房であった出来事
「大家族主義」の美名の下で行われた、強力な隔離、強制労働、断種と堕胎に対して、患者が不満を持たないはずはなかった。こうした不満に対して当時の日本政府は力で抑え込もうとした。1907年に制定された「らい予防法」は、9年後1916年療養所の所長に対して懲戒検束権を付与するように改められた。さらに15年後の1931年罰則規定が定められた。罰則の内容は、謹慎、減食、監禁、謹慎と減食、監禁と減食等の段階である。期間は30日以内とされたが、最大2ヶ月まで延長を認めた。科刑の場所として、各療養所に監禁所が設けられた。監禁所で「獄死」する患者が相次いだ。
私は「生命倫理学」を専門にしているが、ハンセン病問題を知るほどに、複雑な思いを抱かされた。米国から「患者の権利」「インフォームド・コンセント」といった概念が日本に紹介されたのは1970年代だが、ハンセン病の患者さんたちが人権擁護の運動を起こしたのは、それよりずっと前の1950年前後のことである。しかし、生命倫理学のテーマとして、ハンセン病問題が取りあげられたことはほとんどなかった。日本の医学史に「患者の権利の確立」という項目があるとすれば、ハンセン病問題抜きに語ることはできないであろう。この巨大な「事件」を生命倫理学という観点から見つめ直すこと- それは研究者としての自分自身への問いでもあった。
昨年刊行した『ハンセン病 重監房の記録』(集英社新書)をベースに、お話をさせて頂いた。
【宮坂道夫先生:略歴】
http://www.clg.niigata-u.ac.jp/~miyasaka/hansen/jukambonokiroku.html
昭和63年 3月 早稲田大学教育学部理学科卒業
平成 2年 3月 大阪大学大学院医学研究科修士課程修了(医科学修士)
平成 6年 9月 東京大学大学院医学系研究科博士課程単位取得退学
平成 7年 9月 東京大学医学部助手
平成10年 9月 博士(医学)取得(東京大学)
平成11年10月 新潟大学医学部講師
平成15年 1月 新潟大学医学部助教授
平成19年 4月 新潟大学医学部准教授
主著『医療倫理学の方法』(医学書院)
『ハンセン病 重監房の記録』(集英社新書)
http://www.clg.niigata-u.ac.jp/~miyasaka/hansen/jukambonokiroku.html
【後記】
ハンセン病、こんなに苛酷な実態だったとは、、、。知ってしまった、今後見過ごすことは出来ないというのが実感でした。
改めて、ウィキペディアで「光田健輔」、検索してみました。「救らいの父」と評価され、文化勲章を受章した光田健輔氏。ハンセン病患者への救済事業に積極的に取り組んだパイオニア的な存在であり、病型分類に貢献した「光田反応」は有名です。
一方で1953年制定のらい予防法に積極的に関わるとともに、法の存続に力を入れたこと、優生学に基づく患者に関する強制断種(ワゼクトミー)の実施など、ハンセン病患者の強制隔離・断種を推進し、ハンセン病患者に対する差別を助長する元凶を作った人物とも評されています。
お話している時の宮坂先生は、静かに怒っているように見えました。光田氏「個人」に対する批判を避け、生命倫理学者の立場から「世界最悪のパターナリズム」と結論されました。
お聞きしているうちに今回はかなり重いテーマの勉強会と感じていましたが、宮坂先生は最後に、「私は怒りに満ちて闘争している訳ではありません。谺(こだま)雄二さんや、国立ハンセン病療養所栗生(くりゅう)楽泉園の皆さんの人柄に触れて、交わりを楽しみ、今後もお付き合いしていきたいという思いがつよいのです。」と語ってくれました。それを聞いて何故か少しホッとしました。
亡くなっても御骨を故郷に埋葬できないため園内に建立された納骨堂のお話を聞いてた時、新潟県の視覚障がい者で構成する男性合唱団「どんぐり」(*)が、「粟生楽泉園」で行ったコンサートのことを思い興していました。最後に歌った曲は「故郷」。「兎追いしかの山〜こぶな釣りしかの川〜〜〜」。帰りたくても帰れない故郷を思いながら、全員で涙して歌ったと聞いています。
ハンセン病、もう少し勉強してみたいと思いました。
(*)男性合唱団「どんぐり」
http://www.ginzado.ne.jp/~tetuya/donguri/ayumi.htm
平成19年8月8日の勉強会の報告
安藤@新潟です。
第138回(2007‐8月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:『ロービジョンのQOL(Quality of Life)を評価する
講師:鈴鴨よしみ(東北大学医学系研究科講師)
【講演要旨】
1)QOLとは何か?
QOL(Quality of Life)を直訳すると、生の質、生命の質、人生の質、生活の質などと訳すことが出来るが、元来欧米から輸入した概念であり、適切な日本語訳は現時点でない。
WHOの健康の定義は、以下の通りである。「身体的、精神的、社会的に完全に良好な状態であることであり、単に病気がないということではない」。QOLを、完全に良好な状態を指すと捉えられることもある。
2)QOLを何のために評価するのか?
患者さんに提供される医療やケアが、よいものであるかどうかを検討し保健医療を改善していくためには、医療やケアの結果として生じる状態(良いことも悪いことも含め、「アウトカム」と呼んでいる)を評価することが必要である。
伝統的には、生存率や生物学的な反応指標など、医療者側が評価するアウトカムが用いられてきた。近年、これらに加えて、患者さん自身にとって意味があることを評価の尺度として用いるべきである、従って患者さん自身が主観的に報告するアウトカムを何とかして捉え、医療に生かしていこうとする動きが高まってきた。
健康関連QOL(Heaith-related QOL)は、患者報告アウトカムの重要な指標として、医療分野で使われ始めている。治療によって、(例えば)単に血圧が下がったといった評価だけではなく、それによって患者さんが良くなったと感じているのかどうか、また、患者さんの生活にどのように影響しているのかを評価して、その結果を医療改善に活用しようとするものである。
患者と医師に意識のギャップがあることは知られている。前立腺癌の術後評価で、医師が評価した患者の持つ障害では、勃起障害が最多(90%;患者の評価で55%)であり、患者自身の評価で最多は、尿漏れ(90%;医師の評価では20%)であった。この背景には、勃起障害の治療薬が臨応用可能になったということが関与している可能性が指摘されている。
3)QOLをどうやって評価するのか?
客観的な測定なくして改善なしである。しかし、患者さんが報告する内容を医療の
評価につなげることが可能なのか?主観的な内容を数値に置き換えることが出来るの
か?など、患者報告アウトカムの評価は、まだ多くの疑問を抱えている。
QOLの評価は、調査票を用いて、患者さん自身が報告することが基本である。この場合、調査票は単なるアンケートではなく、科学的なものさし(尺度)であることが必要である。
QOLの評価として海外にも認められた尺度として、包括的尺度(疫学臨床研究)として『SF36』、特異的(臨床効果研究)なものとして『VFQ25(視覚に関
する尺度)』がある。
『SF36』には、身体的健康度として身体機能・日常役割機能(身体)・体の痛み・全体的健康感、精神的健康度として心の健康・日常的役割(精神)・社会生活機能・活力がある。
『VFQ25』には、全体的健康感・全体的見え方・眼の痛み・近見視力による行動(新聞を読むのがどのくらい難しいですか)・遠見視力による行動(歩行等)・色覚・周辺視野・運転・社会生活機能(見えにくいために、仕事など長く続けられないことがありますか)・心の健康・役割制限・自立(見えにくいために誰かの助けを必要とすることがありますか)がある。
中心視力が低下する患者さん(加齢性黄斑変性)と一般の人を比較した報告では、「心の健康」に関して、『SF36』では差はなく、『VFQ25』で明らかに患者さんで疾患なしの一般の人より、有意に低いスコアが示され、『VFQ25』の特異性を示した。
4)QOL測定結果を、何に活かせるのか?
1:疾患や症状により患者さんが負担を感じる程度を、数値で表す。
2:QOLにどのような要因が影響するのかを、科学的に検証する。
3:治療効果を評価する、指標の一つとして活用する。
4:疾患の可能性がある人を、選び出す道具として使用する。 (スクリーニング)
5:治療のQOL結果を参考に、患者と医師が協同して治療法を選択する。
6:診療場面での、コミュニケーションツールとして活用する。(患者さんの面談で直接聞けなかった内容を、調査票の回答から知る)
これまで報告されたものを、いくつか抜粋すると以下のものを挙げることが出来
る。
脳卒中、糖尿病、狭心症、喘息などの疾患と両眼障害を比較すると、身体的側面のQOLはほとんど差がないが、両眼障害の人の精神的側面のQOLは、他疾患よりも低いことが報告されている(オーストラリア:Bru Mountains Eye Study)。
『VFQ』によって測定したQOLは、疾患によって異なるパターンがあること、視力とQOLは関連すること、白内障術後でQOLが改善すること、など、普段漠然と感じていることが、データとして示された。
QOL尺度の精度の問題、測定の限界と過大評価、主観的な尺度の変化等、今後の問題は山積している。
【鈴鴨よしみ先生:略歴】
1982年 宮城教育大学盲学校教員課程卒業
1982年 山形県立山形盲学校教員
1990年 民間企業
1999年 東北大学医学系研究科博士課程修了
1999年 東京大学医学系研究科国際交流室リサーチレジデント
2000年 京都大学医学研究科医療疫学リサーチレジデント
2002年 パブリックヘルスリサーチセンターストレス科学研究所研究員
2003年 京都大学医学研究科医療疫学助手
2006年 東北大学医学系研究科肢体不自由学講師
現在はさまざまな疾患や障害の分野において、QOL評価学に関する仕事をしています。
【後記】
患者の視点に立って医療を考えるという概念は、今後の医療のポイントだと思います。
これまで医療の中での評価というものが、医師や医療従事者からの評価が中心で、患者サイドからの評価でないことを指摘して頂きました。
医療者側の評価はエビデンスに基づいたもの(EBM)が主流ですが、患者サイドからの評価は医療面だけでなく、個人の環境や社会的側面そして心の問題も含めNBM(下記に解説)が主体であると思います。
QOLの方法論は、本来エビデンスとはなり難いものを、エビデンスとして処理しようとする一つの手段かなと、お話をお聞きしながら感じました。
注〜「NBM」のNarrative(ナラティブ)は物語の意──患者さんとの対話を通じて患者さん自身が語る物語から病の背景を理解し、抱えている問題に対して全人格的なアプローチを試みようという臨床手法
両眼障害の「精神的スコア」が、他疾患(脳卒中、糖尿病、狭心症、喘息)に比べ、有意に低いという報告(オーストラリア;BlueMountainsEyeStudy)は興味深く拝聴しました。介護保険などでは視覚障害は必ずしも評価されません。このような調査は日本でも行いたいものと思いました。
講演後、参加者の皆さんから多くの感想が語られました。
一人の患者さんから、複雑な患者の思いを勝手に数値として評価して欲しくないという指摘がありました。エビデンスとして評価される患者さんの気持ち(点数で評価されてしまうことの危険性)に気付かされました。同じ話をお聞きしても、データとして評価してしまおうとする医療者の感覚とのギャップを感じました。
逆の指摘で、調査票を用いてでも患者さんの生活上の困難さまで医者に判ってほしい(コミュニケーションツールとしての活用)という指摘も、もっともだと感じました。
盲学校の先生は、このようなQOLの評価は、生徒から教師に対しても当てはまるという感想を聞くことが出来ました。
今後ますます発展の期待される分野であることを、素直に感じることが出来ました。
平成19年7月18日の勉強会の報告
安藤@新潟です。
第137回(2007‐7月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
『新潟盲学校弁論大会 イン 済生会』
1)「住みやすい社会」
石黒知頼(いしぐろ ともより)中学部2年生
【講演要旨】
僕は困っています。そこで社会に対して二つのお願いがあります。「電化製品の音声化」と「歩きやすい社会」ということです。
一つめの「電化製品の音声化」についてです。DVDを購入したのですが、画面が判りませんので、「メニュー」からの操作が出来ません。自分では何もできず、ボタンを押す回数で操作を覚えました。「音声があるといいのになあ」といつも思います。
二つめは「歩きやすい社会」についてです。歩いていると電柱にぶつかったり、道ばたには蓋のついていない排水溝があったり、点字ブロック上には車がとめてあったりと、視覚障害者にとっては不便な状況がかなりあります。電柱をなくす(地下に設置する)、マンホールの蓋は閉める、点字ブロック上には物を置かないなど留意してもらうと私たちでも歩ける社会になります。
こんな工夫をしてもらうだけで、人の手を借りなくても自分でやれるようになります。こうしたことをこれからも、声を出して訴えていきたいと思います。
【自己紹介】
将棋が大好きです。そんなに強くありませんが、将棋の番組も好きです。学校で好きな教科は英語です。 今年の体育祭では実行委員として、「競技上の注意」を発表しました。緊張しましたが間違いなくしっかりと言えました。
【先生から】
6月22日に行われた関東甲信越地区盲学校弁論大会(*)に、学校代表として参加しました。
英語、パソコンが得意です。学校では毎日英語を使って会話しています。
【全国盲学校弁論大会】
1928(昭和3)年、点字大阪毎日(当時)創刊5周年を記念して「全国盲学生雄弁大会」の名称で開催された。
大会は戦争末期から一時中断。47(同22)年に復活。75(同50)年の第44回からは名称を「全国盲学校弁論大会」に変更。
大会の参加資格は盲学校に在籍する中学部以上の生徒。高等部には、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師の資格取得を目指す科があり、再起をかけて入学した中高年の中途視覚障害者も多く、幅広い年代の生徒が同じ土俵で競うのも特徴。
新潟盲学校は地区予選を「関東甲信越地区」の枠で行う。
*関東甲信越地区盲学校弁論大会
平成19年6月22日(金)、「かながわ労働プラザ」、横浜訓盲学院主管 持ち時間7分間、原稿なし、マイクなしの条件の下、12校13名の弁士がそれぞれの体験や思いをこめて熱弁を繰り広げた。
2)「本当の便利さとは」
近山朱里(ちかやま あかり) 中学部2年生
【講演要旨】
視覚障害者にも使いやすい商品は確かに開発されてきています。シャンプー(ギザギザがついている)とリンスの区別、携帯電話のナビゲーション機能などはとても便利です。でも、まだまだ使いにくいものが多いです。画面でのタッチパネルや、ボタンが小さいことなど・・・。公共のトイレも場所によってボタン式だったり、レバーだったりです。
3年前我が家で、新しい車を購入しました。でもこの車のラジオ等の操作は、タッチパネルなので使えませんでした。自分で出来なければ、誰かに頼まなければなりません。運転中に言われたら困るだろうなと思います。
修学旅行に行った時、トイレに入りましたが操作が出来ませんでした。
どんどん便利になっているとはよく聞きますが、「本当の意味での便利さ」とはどういうことなのでしょう。今の商品はデザインが優先されています。もちろんお洒落なものは作って欲しいです。でも私たちにも使えるものを作って欲しいのです。
これからも、こうすればよくなる、こうすれば使えるようになるということを、提案していきたいと思います。
【自己紹介】
6月23日に行われた県音楽コンクールピアノ部門に、2年ぶりに出場しました。 現在は毎日弥彦から通っています。よく見る番組は「どんど晴れ」です。
【先生から】
いつもにこにこしている子です。中学部では紅一点の存在ですが、がんばっています。昨年はヘレンケラー記念音楽コンクール(*)において大人も混じった中で、ピアノ部門1位を獲得しました。
*ヘレン・ケラー記念音楽コンクール
東日本及び西日本ヘレン・ケラー財団を統括する日本ヘレン・ケラー協会などの主催で1949年(昭和24年)12月13日、全国盲学生音楽コンクールとして、始まりました。盲学校音楽教育の実態を知ってもらい音楽家を志す盲学生の登竜門にするのが目的です。第6回(1954年)から東京ヘレン・ケラー協会のみの主催となって、「全日本盲学生音楽コンクール」と改称、第51回(2001年)から普通校で学ぶ弱視児まで参加枠を拡大し、現在の名称に改めました。
この間、第6回に小学4年でデビューしたバイオリンの和波孝さん、第17回に同じ小学4年で絶賛されたチェンバロなど鍵盤楽器演奏家の武久源造(たけひさ・げんぞう)さんら、国際的に活躍する音楽家を輩出しています。また、このコンクールで得た自信を、その後の道に生かして音楽とは別な分野で優れた業績を挙げた人も少なくありません。
「第56回ヘレン・ケラー記念音楽コンクール」
(主催;東京ヘレン・ケラー協会、共催:JT、後援;文部科学省、毎日新聞社など)
平成18年11月25日 JTホールアフィニス(東京都港区)
【ピアノ中高大学の部】
1位 近山朱里(新潟県立新潟盲・中1)
2位 勝島佑太(武蔵野音大4年)
3位 小島怜(筑波大付属盲・専2)
3)「障害者生活10年を考える」
櫻井孝志(さくらい たかし)高等部普通科3年生
【講演要旨】
視覚障害者になってから、今年でちょうど10年となります。この間に感じたこと、考えたことなどをお話します。いろいろと感じてくださるとうれしいです。
生来難聴です。幼稚園の時左眼に怪我、小学校1年の時に右眼に怪我をして、以来私は両目両耳に障害を持ってしまいました。小学校2年から5年まで学校に行けずに家で過ごしていました。5年生から毎日2時間だけ登校しました。「本当にこの授業を受けていいのだろうか」「私のために授業が遅れてしまわないだろうか」。周囲の人は、とても私に気を遣ってくれました。でもそれが苦痛でした。特別扱いをしないで欲しいと思いました。 会津若松への移動授業の時、私の手を繋いでくれていた同級生が「誰か櫻井君の手を引いてよ」と言った一言を、今でもよく覚えています。
中学から盲学校に通っています。小学校時代に感じていたような罪悪感はなくなりましたが、井の中の蛙にならないか、盲学校にいることは社会への逃避にならないかという思いがあります。健常者の行っているイベントによく参加します。こうした交流は必要不可欠と思っています。
自分と同じような障害を持つ環境にいることは住みやすいのですが、傷つくことを覚悟で健常者の世界に飛び出していきたいと思っています。
【自己紹介】
好きな教科は歴史と古典です。3年前にも済生会病院で「ヘレンケラーを目指して」というものを紹介させていただいたことがあります。 今年の体育祭では、紅組の団長を務めました。例年になく緊張して本番を迎えました。今年の紅組のテーマは「風林火山」でした。その心意気のもと、団員全員の心を一つにして闘い、応援と競技でダブル優勝を果たすことが出来ました。
【先生から】
歴史に関する感心と知識はかなりのものです。高校3年生ということでさまざまな場面で活躍しています。今年度の体育祭では紅組の団長を務め、すばらしいリーダーシップを発揮して競技、応援とも優勝を勝ち取りました。
【後記】
2001年から毎年、当院にて新潟盲学校の生徒による弁論大会を開催し、今回で7回目になります。人の役に立つことをしたい、人の手を借りずにやっていけるような社会に変えていきたいという真摯な訴えに、毎回感動しています。
石黒知頼君は背筋をしっかり伸ばして、大きな声で発表してくれました。流暢な英語の発音にびっくりでした。近山朱里さんは、明るくチャーミングな性格が印象的でした。櫻井孝志君は、3年前に続いて2回目の登場でした。成長した姿を見せてくれました。
今年は新潟盲学校創立100周年にあたります。これまでの道のりは決して平坦ではなかったと思いますが、まっすぐに成長している生徒の姿を拝見し、素晴らしい教育がなされていることを実感しています。ますますの発展を期待します。
平成19年7月11日の勉強会の報告
安藤@新潟です。
第136回(2007‐7月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:『人(障害)の個人差の多様性について
〜視覚障害者生活訓練等指導員の現場から〜』
講師:前川賢一(歩行訓練士;三重県)
【講演要旨】
障害者への社会意識と反応様式に、幾つかのパターンがある。最近、「見て見ぬふり」の人が多い。バブル以前と以降で、意味合いが異なっていると感じる。バブル以前は、恥ずかしくて声を掛けられなかった人が多かった。バブル以降は、見てはいるが席を譲ろうともしない人が多い。
ある町にお住まいのAさんという目の不自由な方が、その町役場の窓口に「歩道の段差でけつまずくから、その段差をなくしてください」と頼みにいった。バリアフリーのイメージとしては典型的な段差を解消するという取り組みを、予算をつけて実施して、きれいに段差がなくなった。工事を終えて数週間後に、Bさんという目の不自由な方が「なぜ勝手に歩道の段差をなくしたのか、かえって不便」と訪ねてきた。同じ目の不自由な人なのにまったく逆のことをいわれて窓口の職員が困惑した。点字ブロックの工事を終えるとその数週間後に、今度は車いすご利用の方が、「この工事は改悪だ」と窓口に訪れ「黄色いごつごつでタイヤがかえってあがりにくい」と言う。担当者がどうしようかと悩んでいるさなか、今度は高齢の方が、ある雨の降った夕方に、そのごつごつと表現された点字ブロックに足をひっかけて転んで怪我をしてしまった。
???「バリアフリー」って、いったい何なんだろう?
人間は視覚優位の動物である。全感覚のうちの80%は、視覚情報と言われている。視覚障害者は、この80%に頼れない。だからと言って、100マイナス80の残り20%で生きているのが視覚障害者ではない。その視覚に頼れない80%を、他の保有感覚に振り分けて、その人なりの100にし直しているし、先天性の視覚障害なら最初からそれが当たり前なのだ。「障害の個人差の多様性」とは、ひとつはこの感覚の振り分け方の個人差の多様性のことを指している。人それぞれの諸感覚の得手不得手によって、どの感覚にどれだけ振り分けるかが異なっているだけなのだ。個人によっても、状況によって様々な諸感覚の使い分けをしている。
人間は情報を常に取捨選択していて、自分に必要な情報だけを選択して、他の情報は捨てている(選択的注意)。人込みの中で友人と話をしている時、騒音は聞かずに友人の声のみを聞くことが出来る(セレクティブ・リスニング)。人の話しを聞くことに集中している時、足の裏が床に着地していることを意識していなかったりする。
視覚障害者の歩行には、「点字ブロック」が必要と言われるが本当だろうか?点字ブロックに集中するあまり、他の感覚を疎かにすることはないだろうか?「音響信号」に集中するあまり、横切ろうとする車の音を無視することがないだろうか?(注:点字ブロックや音響信号が不必要と言っている訳ではない) このことを理解すれば、世に言われているバリアフリーやユニバーサルデザインを重視する時、どういうものを造ればよいかがわかってくるし、それを整備するのに社会の人々が、どういうことを共有しなければならないかも理解できてくる。
バリアフリーやユニバーサルデザインの根底にある、「誰もが住み良い街づくり」は、本当に実現させたいのなら、「みんなが少しずつゆずりあう街づくり」に他ならない。譲る割合が、あまりにも障害者、高齢者、小児等に高すぎると、所謂「弱者切捨て」に繋がる。すべての人が歩み寄って、譲る割合を限りなく同じにするのが本質だ。そこに気付かねば、崇高なつもりで頑張っている活動も、「誰かに便利なつもりで隣の人に不便な街づくり」になるかもしれないのだ。言葉がけも同じだ。誰かに優しい言葉がけは、誰かをとても傷つける言葉がけかもしれない。
我々はどこで誰を傷つけているかはわからない。そのことを意識しつつ、お互い様であるという双方が寛容である繊細なバランスを保持することが、社会に求められる「誰もが住み良い街づくり」の本質である。
【後記】
あっという間の50分でした。大きな目と、大きな声、飽きさせない話術、、、そして常に「どう思いますか」と、問い掛けの連続。以下の言葉が印象に残っています。
「見てみぬふり」「誰かに便利なものは、誰かに不便かもしれない」
「保有感覚の使い分け」「セレクティブ・リスニング」
「まずは路上の糞をなくすこと、大人が子供の前で行うこと」
「バリアフリーとは、みんながちょっとずつ譲り合うこと」
現場で活躍している人ならではの言葉の数々に、圧倒されました。バリアフリーとかユニバーサルデザインという聞き慣れた言葉を、改めて考えてみるいい機会となりました。
【前川賢一氏:略歴】
学生時代から障害福祉、児童福祉関係のボランティア活動を経験。 知的障害、重度身体障害関係の生活指導員、児童福祉施設の副園長を経て、日本ライトハウスの視覚障害者生活指導等指導員(歩行訓練士)の養成課程を修了。
平成8年三重県でNPO法人「アイパートナー」を設立、視覚障害者に対する在宅等訪問形式での生活訓練を実施している。
現在は同法人の理事長、現場でばりばりやってます。
平成19年6月13日の勉強会の報告
安藤@新潟です。
第135回(2007‐6月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:『「見える」「見えない」ってどんなこと? 黄斑症患者としての11年』
講師:関 恒子(患者;松本市)
【講演要旨】
)はじめに
病歴:1996年1月左眼の視野の中心に小さな歪みが出現し、強度近視による血管新生黄斑症と診断された。同年11月には右眼にも同様な症状が出現し、左眼は強膜短縮黄斑移動術(1997年)、左眼は360度網膜切開黄斑転移術(1999年)を施行。結局両眼合わせて入院を5回、手術を9回経験した。その後香港で光線力学的療法(PDT)を受け、更にその後ステロイド治療も受けた。
現在は、左眼矯正視力は現在0.5であるが、中心部にはドーナツ型の暗点があり、その中心は歪んで見える。有効視野は狭く生活には不自由である。右眼は矯正視力0.4で、暗順応、色覚が悪く,羞明等問題はあるが、生活には役立っている。現在右眼の視野狭窄の進行が不安である。
発病からの11年を振り返ると、医療体験の中からそして家族から得てきたもの、あるいは視力障害を持ったために得た新たな感動等が思い起こされ、私には失ったものより得たものの方が多いように思われる。
)医療体験の中から
私が気付いた最初の異変は左眼の小さな歪みだったが、黄斑変性症について何の知識もなかったため、歪みが大きくなり新聞の文字が読み難くなってから、コンタクトレンズのことでお世話になっていた開業医のN先生を訪れた。そこで視力が0.1以下に低下するかもしれないと聞いた時は信じられなかった。そして紹介された地元の大学病院で更に検査したが、確立した治療法がなく、視力低下を回復することができないと聞き、落胆した。
経過観察する中、いよいよ視力が0.3程に低下した時点で新生血管抜去の手術が提案されたが、その病院では当時まだ3例しか経験がなく、視力の改善も望めないという説明から私は手術を受けることを躊躇した。N先生は初診の日から行く度に「心配なことがあったらいつでも相談に来て下さい」と言ってくれていたので、私はN先生を訪れ、手術について相談した。N先生は私の話を聞いて、新たに大阪の大学病院で診てもらう手配を整えてくれ、私はそこで手術について相談することになった。
ところが、大阪の大学では新生血管抜去の手術ではなく、新しい手術を勧められた。視力改善が望める新しい手術と聞き、私はその手術に期待して即座に承諾して地元に帰った。早速N先生に報告すると、それはどんな手術かと尋ねられたが、その時になって私は「視力改善が望める新しい手術」としか聞いて来なかったことに気付いた。網膜の新しい手術についてはN 先生も情報がなく、とにかく情報を集めようということになり、間もなく米国の雑誌に網膜移動術の報告を見つけたのだが、その手術の結果は私の期待とはかけ離れたものだった。「受けようとしている手術がどんな手術か確かめてから受けるように」というN先生のアドバイスを受けて、私は大阪の病院に説明を求めた。
結局私は視力回復を願い、手術を受ける決心をした。私と同様に説明を受けたN先生は、私のために他の先生方の意見も集めてくれ、心配しながらも私の決心に同意してくれた。
新しい手術には危険が大きいけれど、視力改善の可能性に賭けることを私は決断した。それは何の治療も受けずにいることの方が私には遥かに辛かったからである。視機能の低下を自覚しながら、何の治療も受けられずに経過観察だけを行っていた1年間は、発症から現在までの11年間で私が最も辛かった時期であった。
手術を決意するまでの過程で、惜しみなくN先生が私を援助してくれたことから、私は精神的にも支えられ、現在に至ったことを私は大変感謝している。N先生からは「患者は、治療について説明を充分聞くこと、それを理解する努力をすること、そして最後の決定は自分自身ですべきであること」を学んだように思う。
医学にも限界がある。患者は自分の問題を全て医学に負わせるのではなく、自分の人生に係わる重大な問題の決定には、自ら参加しなくてはならないと思う。自分で決定したことには自分にも責任が生ずる。「決定に対する自己の責任」の認識が、例え結果が悪くてもそれを受け入れ、その後の人生を前向きに生きることができることに繋がり、又医療者側と患者が良好な関係を保つことにも繋がると思う。
私の手術の結果は全てが期待通りだったとは言えない。けれども、治療の存在が私に希望を与え、治療が受けられたことで当時の私が救われたことは確かであった。私は自分の決断を後悔したことはない。
)家族と共に
両眼に発症したことが分かり、将来へ大きな不安を感じた頃のことである。「命がなくなるわけではないから、いいじゃないか」と言う夫の言葉はいかにも気軽で、「自分の眼は命より大切なものだ」と信じていた私には意外だった。しかし夫の書斎に目の病気に関する本が沢山積み重なっているのを見て夫の心の内が察せられた。
私には成人した子供、一男一女がいる。電話で私の窮状を訴えると、2人からも「目は悪くなっても死にはしないから大丈夫」と夫と同じような言葉が返ってきて驚いた。更に長男から「全盲の人でも立派に市民生活をしているよ」と言われた時、私はようやく気付いた。
それまでの私は「見えなくなるかもしれない」という不安に支配され、暗い将来ばかりに目を向けていたが、「自分はまだ見えている」という明るい側面に目を向けることができるようになったのは、その時からだった。これを契機にポジティブな考え方ができるようになり、眼が悪くなったために「できなくなったこと」を数えるより、「まだできること」を楽しみ、新たな喜びと感動を味わうことができるようになったのである。私の家族がしてくれた最大のサポートがこのように私にターニングポイントを与えてくれたことであったと思う。
私の眼の病気は、家族にとってもショッキングなことであったに違いないが、家族が動揺を見せず、常に私を支える側でいてくれたことは有り難いことだった。家族が病気を理解し、状態を敏感に察知して何気なくサポートしてくれたことにも感謝している。
)「見たいものが見えない」「見ようとしなければ見えない」
私のように障害認定を受けるほどの障害を持たない者には、外からの援助は少ないので、患者自身が積極的に自分の問題を解決し、QOLの向上を図る必要がある。
黄斑変性症になると、環境によって見え方が左右されるので、自分の見え方をよくするためにどんな環境が最適であるかを考え、可能な限り環境を整えることが大切である。
黄斑変性症患者にとって「見ようとする意識」と「見るための努力」が大切な要素となる。病気のために中心視野が見え難くなると、周辺のどうでもいい物は見えても見たい物が見え難くなる。今まで何の意識もなく見えていたのに、見ようと意識して視線をずらさないと見たい物が見えてこない。見たいという意識なしには物は見えてこないのである。そして、足りない視力を補うために面倒がらずに道具を使い、それを上手に使いこなすための工夫・努力も必要である。
こうした努力をして眼に見えてくる映像は、以前より鮮明に輝きを増し、多くの感動を与えてくれる。
)終わりに
私の右眼は手術後近見視力がかなり改善した。しかし又悪くなるかもしれないという不安がある。今見えるうちにこの視力を最大限に活用しようと、5年前から地元の大学でドイツ文学を学んでいる。手術してくれた先生に感謝しながら、文字を読めることの喜びを噛み締めている。
これも、私が視力障害を持ったからこそ味わう喜びであり、新たに知った世界と新たな感動の一つである。
最後にドイツ文学の中からゲーテ(1749〜1832)の詩劇『ファウスト』を簡単に紹介したい。
学問を究め尽くした結果知り得たことは、「何も知ることができない」ということだけだったと、失望した老博士ファウストのところに、悪魔メフィストフェレスが現れ、魂を賭けた契約をする。それは、悪魔の助けによってこの世のあらゆる歓楽を味わわせてもらう代わり、満足の余り「時よ、とまれ。お前は実に美しい!」と言ったら、死んで魂を悪魔に渡すというもであった。
早速博士は若返らせてもらい、美しい若い娘と恋をする。しかし、その恋に安住できず娘を捨て、あらゆる享楽と冒険の遍歴を重ねる。そして人のために生きたいと願うようになった時、灰色の女「憂愁」に息を吹きかけられ、失明してしまう。だが失明した博士の心の中の火は燃え上がり、輝きを増して、理想の国家建設の意欲に燃える。
メフィストは博士の墓穴を掘らせていた。目が見えない博士はその工事の音を聞いて、理想の美しい国ができ上がることを想像して思わず、「時よ、とまれ。……!」と言いつつ倒れる。しかしその魂は悪魔に渡ることなく、天国へと導かれる。
失明後の博士は、人のために生きる意欲に燃え、それまでこの世のどんな歓楽にも満足することがなかったのに、見えないために墓穴工事の音を聞いて自分の希求の完結を心の中に見て、最高の時を味わうことができたのである。
私は、「心の目」が、きっと幸せをつかんでくれることを信じている。
【後記】
難治な疾患の治療に立ち向かった自らの経験を振り返り、医師との関係の持ち方、患者の自己責任、家族の支え、ゲーテのファウスト等々についてお話されました。静かなそして誠実な性格そのままの話し振りで、集った人々は皆、関さんの世界に引き込まれました。
以下は、関さんからお聞きし印象に残っているので紹介致します。
「『見たい物しか見えない』これが今の私の見え方を最も端的に表す言葉です。しかし、充分な視力があって、あらゆる物が見えていても、心に残る物はどれだけあるでしょうか?どんな人も見ようとする心と、心のあり方によって見えてくる物や、その姿形も違ってくると思います。人にとって大切なものは心であり、心のあり方だと思います。」
【関 恒子さん:略歴】
名古屋市で生まれ、松本市で育つ。
富山大学薬学部卒業後、信州大学研修生を経て結婚。一男一女の母となる。
1996年左眼に続き右眼にも近視性の新生血管黄斑症を発症。
2003年『豊かに老いる眼』(監約:田野保雄、約:関恒子;文光堂)
松本市在住。
平成19年5月9日の勉強会の報告
安藤@新潟です。
第134回(2007‐5月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:『詩人中原中也と幻視』
講師:櫻井浩治(精神科医;新潟大学名誉教授)
【講演要旨】
中原中也とは、ユングのいう共時性(シンクロニシティー:下記【参考1】参照)のような不思議な「縁」を感じる。学会の折、中也の故郷を訪ねてみたいと思い、女房に山口県湯田温泉の宿を予約してもらった。JRの窓口で予約した宿は何と中也が結婚式と披露宴を行った宿であった。その部屋を覗いて居たら若い仲居さんが「中也より太宰治が良い」と言うので「殺されるよ」と言ったら、「殺されてみたい」とその仲居さんはにっこりと笑いながら言った。帰りにタクシーで中也が泳いだとおもわれる川の脇を通ったが、たまたま11月初旬で初雪が降って来て「汚れれっちまった悲しみに、今日も小雪の降りかかる」(下記【中也の作品】参照)という中也の詩を思い出させられた。
中也は山口県湯田温泉の開業医の長男で、大正から昭和の初めに活躍し、30歳で亡くなった詩人。この詩人は、神童といわれながら詩に傾倒し、生涯青年期の心を持ち続けていた人だが、子どもを幼くして亡くした後、精神症状を来たし、「白い蛇が居る」などという幻覚(幻視)を訴えて、精神科の病院に入院した。退院後、「物が2重に見える」という症状もあり、死に至る(下記【中也の生涯】参照)。
中也だけが見た「白い蛇」に対する、精神科医の診断(下記【参考2】参照):
統合失調症だったのか? 統合失調症では幻視よりも幻聴が特徴。 アルコール依存症だったのか? 急にアルコールを辞めた後、2日後位に離脱症状として、小動物(ちょうちょ、金魚、蟻など)の幻視症状が出ることがある。中也が「白い蛇」を見たのは、酔っ払っている時であり、離脱時ではないので、異なる。アルコール依存症では暗示性が高まり、目をつむらせた時に暗示により物が見える現象もあるが、これとも異なる。それらしいものは無かったのだから錯覚とも言えない。
強いて言えば、この時の「白い蛇」は中也の子供を亡くしたことから来る心因反応性の幻視の可能性がある。「白い蛇」に、もし象徴的な意味するものがあるとすれば何だったのか。子供を飲み込んだ蛇か、生まれ変わりの蛇か(前者か)? 死の前に見た「複視」は、脳の器質性の障害(結核性脳炎)によるものであろう。
中也は、統合失調症でもアルコール依存症でもなく、小柄で、青年期の心性をそのまま持ち続けた人のように思われる。
【中也の作品】 ほんの一部ですが、、、、「汚れっちまった悲しみに」 〜 (泰子が小林秀雄の許へ去った時)
汚れっちまった悲しみに/今日も小雪のふりかかる/汚れっちまった悲しみに/今日も風さへ吹きすぎる
汚れっちまった悲しみは/たとへば狐の皮裘(かはごろも)/汚れっちまった悲しみは/小雪のかかってちぢこまる
汚れっちまった悲しみは/なにのぞむことなくねがふなく/汚れっちまった悲しみは/倦怠(けだい)のうちに死を夢む
汚れっちまった悲しみに/いたいたいしくも怖気づき/汚れっちまった悲しみに/なすところなく日は暮れる・・・・・
「また来ん春・・・・・・」 〜 (子どもを亡くした時に詠った詩)
また来ん春と人は云ふ/しかし私は辛いのだ/春が来たって何になろ/あの子が返って来るぢやない
おもへば今年の五月には/おまへを抱いて動物園/象を見せても猫(にやあ)といひ/鳥を見せても猫だった
最後にみせた鹿だけは/角によっぽど惹かれてか/何とも云はず 眺めてた
ほんにおまへもあの時は/此の世の光のたゞ中に/立って眺めてゐたっけが・・・・
【参考1】 シンクロニシティ 《ウィキペディア(Wikipedia)より》
シンクロニシティ(英語:Synchronicity)とは、事象(出来事)の生起を決定する法則原理として、従来知られていた「因果性」とは異なる原理として、カール・ユングによって提唱された概念である。共時性(きょうじせい)とも言う。
【参考2】 「視覚」に関する問題についての解説
○「錯覚は、感覚刺激があっての変容した感覚現象」で、この中の「錯視」は、他の図形の影響から誰もが経験するもの(ミュラー・リエル錯視、ボンゾ錯視、など)や、注意の向け方の影響により異なって見える反転図形、隠し絵(隠した絵の内容は、その前に見たことが無ければ見つけ出せない)、老女と娘の絵。そして月と雲、自分の乗っている電車と隣りの電車の動き、ビックリハウス等々の動きの関係などによるもの、などに見られる。
○一般に、「錯覚」には心理的な要素(体験・感情・情報・その時の心境など)がからんでいることもある。怖いと思っていると「幽霊の正体見たり枯れ尾花」、親の七光による評価〈ハロー現象〉など。
○幻覚は刺激が無いのに知覚現象を呈するものー対象が無いのに見える幻視・誰も居ないのに聞こえる幻聴など。
○その他の視覚異常として「脳の障害による視覚現象」視覚失認。
物体を見てもそれが何であるか判らない(後頭葉基底部)
細かい部分部分は判っても、全体の意味が判らない(優位半球後頭葉の障害) 等々。
【中也の生涯】
1907(明治40)年4月29日、山口市湯田横町で軍医である父謙助・母フクの長男として生まれる中原家では、数十年振りの男子誕生という事で、両親の期待を大いに受けて育つ。小学校時代は成績優秀。 県立山口中学に入学後は、文学にふけっていたため、どんどん成績が落ち、両親の期待とは裏腹に3年生に進級できず落第。見かねた父親は、京都の中学校に転校させた。事態は好転する所か、京都での孤独な下宿生活は、むしろ中也に「酒・煙草・放蕩」を覚えさせ、「ダダイスト」と言われる詩の形態にのめりこませ、17歳で3歳年上で女優志願の長谷川泰子と同棲を始める。
18歳で泰子とともに上京。中也は、本格的に詩作活動に専念する。小林秀雄と知り合い、意気投合する。泰子は、その小林に惹かれ、中也から去ってしまう(「汚れっちまった・・」はその時の詩)。
1933(昭和8)年26歳の時、母の勧めで上野孝子と郷里で結婚。翌年長男文也誕生。その年に「山羊の歌」を出版し、広く人々に認められるようになる。さらに『ランボオ詩集』を翻訳するなど、フランスの詩人の紹介にも努める。文也が2年後に病死し、中也は精神に支障をきたし、千葉県の療養所に入院。
1937(昭和12)年 10月22日30歳、鎌倉で結核性脳炎で死去。1938(昭和13)年4月友人小林秀雄に託された詩集『在りし日の歌』が刊行。
【後記】
今回も「病跡学」の観点から、中原中也の興味深いお話をお聞きしました。
今年は中也の生誕100周年です。短い30年の人生をひたすら詩作に捧げ、「夭折の詩人」と呼ばれています。生前は充分な評価を得ることのないまま、志半ばにして異郷の地で没した、波乱万丈の人生に心を打たれます。
一度も定職に就く事はなく、好き放題の人生を送った親不孝ものの中也が、死の間際に母フクに残した最期の言葉は、「僕は本当は孝行息子だったんですよ。今にわかる時が来ますよ」。中原中也は、親の気も知れない、とんでもない甘えん坊、でも憎めない奴だったような気がしました。
*『病跡学』
病跡学(びょうせきがく、Pathographie)は精神医学の一分野で、歴史的に著名な人物の精神医学的研究をおこなう学問。パトグラフィー(Pathographie)とも呼ぶ《ウィキペディア(Wikipedia)より》。
何らかの精神障害を病んだ天才の病理と創造性を論じるのが狭義の病跡学研究といえるでしょうが、現在、それに留まらず、病跡学の範囲は広がっています。対象となる「天才」も、従来、好んで取り上げられた小説家や画家のほかに、音楽家や写真家、さらには科学や政治あるいは哲学の分野の天才も俎上に載せられています。また、狭義の精神障害のない天才の生涯と創造を心理学的あるいは精神分析的に辿っていく研究、近親者の精神疾患が創作者に及ぼす影響の研究など、その裾野は広がっています。 日本病跡学会ホームページより
http://pathog.umin.jp/index.html
【櫻井浩治氏:略歴】
昭和11年1月新潟県地蔵堂(現燕市)に生まれる。新潟大学医学部卒業。
慶応義塾大学医学部精神神経科学教室で精神医学・心身医学を学ぶ。
新潟大学医学部付属病院、保健管理センターで小児〜高齢者までの精神科臨床。
新潟大学医学部保健学科でコ・メデカルスタッフ教育に従事。
平成13年から平成19年3月まで新潟医療福祉大学に勤務。
この間、新潟ターミナルケア研究会を発足、新潟県医師会勤務医委員会委員長、第39回日本心身医学会総会会長などを歴任。
一般向けの著書として、「精神科医が読んだ源氏物語の心の世界」「乞食(こつじき)の歌ー慈愛と行動の人良寛)などがある。
平成19年4月11日の勉強会の報告
安藤@新潟です。
第133回(2007‐4月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:『こういう医者になって欲しい。あんな医者にはなって欲しくない 』
講師:安藤伸朗(眼科医;済生会新潟第二病院)
【講演要旨】
新潟大学で医学部学生を相手に、2000年から毎年「医療倫理」の講義を担当しています。これまでは「病名告知」とか「インフォームド・コンセント」などを課題に行ってきました。今年は1月19日に、「こういう医者になって欲しい。あんな医者にはなって欲しくない」というテーマで行いました。今回の勉強会は、この学生への講義の資料をもとに、お話しました。
医学部を卒業し、医師国家試験を通れば、医者にはなれますが、学業が優秀なだけで、人に優しいだけで診療できるのでしょうか?実際には、患者さんの信頼がなければ、診療は成り立ちません。医師と患者間でどのようにしてその信頼を得ることが可能なのでしょうか?しかも今は、医者には厳しい時代です。連日のようにマスコミの医者批判が新聞紙面を賑わせています。
1月19日の講義を行う前に、メールにて全国アンケート調査を行い、以下の事項を質問し自由に記載してもらいました。
1)こういう医者になって欲しい
2)あんな医者になって欲しくない
3)医学生へのメッセージ
全国99名の患者さんからの回答を頂きました。結果は以下の通りです。
《こんな医者になって欲しい》 第1位:話を良く聴いてくれる(57%)、第2位:技術が信頼できる(28%)、第3位:謙虚である(26%)、第3位:よく説明してくれる(26%)、第5位:病気治療後のアフターケア(6%)。
《あんな医者になって欲しくない》 第1位:傲慢な医者(61%)、第2位:話を聴いてくれない(37%)、第3位:説明してくれない(20%)、第4位:技術が未熟(14%)、第5位:科学的好奇心のみ(10%)。
以下に回答の一部を紹介します。
(患者さん) 60歳代、新潟県、無職
こんな医者になって欲しい〜優しくて、患者の言いなりになってくれる医師を望んでいるわけでは、決してありません。患者が、自分の病気をよく理解し、納得が行くまで治療法などを、分かりやすくお聞かせいただけるとうれしいです。
あんな医者にはなって欲しくない〜患者は、病気の内容、治療法、治る確率や、その治療の問題点、危険性などを詳しく知りたいけれど、いつも一方的に簡単に告げられるだけです。そして、患者本人が直接、医師に質問したくても、雰囲気がそれを遮ってしまいます。患者は常に不安でいっぱいなのです。患者の目線と同じ位置で、お話をお聞かせいただけませんか?
(患者さん) 30歳代、東京都、会社員
こんな医者になって欲しい〜話を聞こうとする姿勢。先生の一言で病気が治ることも悪化することもあると思います(病は気から)。
あんな医者にはなって欲しくない〜自分が絶対だという、聞き耳を持たない医者にはなって欲しくありません。
全国67名医師からの回答を頂きました。結果は以下の通りでした。
《こんな医者になって欲しい》 第1位:患者への思いやり(63%)、第2位:医学知識・医療技術が優れている(51%)、第3位:話をよく聴く・よく説明する(30%)、第4位:常に学ぶ姿勢(11%)、第4位:他医やスタッフとの連携(11%)。
《あんな医者になって欲しくない》 第1位:傲慢な医者(45%)、第2位:自己の利益のみを追求(33%)、第3位:医学知識・医療技術が劣っている(30%)、第4位:話を聞かない、説明しない(24%、第5位:科学的好奇心のみ(18%)。
以下に回答の一部を紹介します。
(医師) 40歳代、国立大学教授 (関東地区)
こんな医者になって欲しい〜患者の苦しみを思いやることのできる医者
あんな医者にはなって欲しくない〜自分の利益のみを追及する医者
医学生へのメッセージ〜大きな幸せ(世紀の大発見)であれ、小さな幸せ(日々の臨床)であれ、他人を幸せにするのが私たち医者の仕事です。
(医師) 50歳代、開業医 (中部地区)
背伸びせずに年齢なりに良医を目指せばいいと思います。若い頃は技術を磨き、新しい知識を学び、だれにも負けないつもりで頑張ればいいです。心掛けて欲しいことですが、初めから患者さんの気持ちがわかったり、思いやりがある医者になろうとしても無理かもしれません。技術が優れている頃は心が不足し、心が完成するころには技術が衰えてきます。このことを、記憶に留めておいて下さい。
「医者は、如何にあるべきか」という点について、色々と言われています。
2002年4月16日朝日新聞に、金沢大学付属病院長であった河崎一夫先生の「医学を選んだ君に問う」が掲載されました。河崎先生は金沢大学の眼科教授でした。「人前で堂々と医学を選んだ理由を言えるか。奉仕と犠牲の精神はあるか。医師の知識不足は許されない。『よく学び、よく学べ』。医師の歓びは二つ。患者が健康を回復した患者の歓び、世のために役立つ医学的発見の歓び。」
「元気が出る患者学」(新潮新書;柳田邦男著)の中で、「医療者に求められる『安心と納得』への取り組み」について、以下のように記載されています。あいさつと自己紹介、わかりやすい説明、コミュニケーションスキル、遠慮なく質問できる雰囲気、目標をはっきり示す、誠実な対応、チーム医療で取り組む、目に見える事故防止への取り組み、セカンドオピニオンへの協力、情報開示。
医者は五者でなければならないと言われています。「学者(科学的に正しい医療の提供)、教育者(患者の理解を助ける)、役者(患者相手に怒る、悲しむ)、芸者(患者の気持ちを明るくする)、易者(病気の将来を予測する)」
確かに医者には、上記のことが期待されているのでしょう。患者さんが期待するのは当然です。私が患者であっても、そう思います。
でもここで医者の言い訳を少し、、、1)患者の信頼を獲得できるか?家庭内でも、教室内でも信頼関係が危ないのに、病院では可能なのか? 2)忙しい、診療だけで目一杯。 3)病院も今や経営が大事、相談では儲からない 4)福祉・行政・教育との連携はなく、連携しようとすると大変な努力を要す。
医者の本音も少し、、、、患者はわがまま(保険からの支払いのため、入院日数を延ばして欲しいという人もいます)。患者は医者を選べるが、医者は患者を選べない。医者に人生相談は無理。治療には限界がある(治らない病気もある)ということを理解して欲しい。
果たして、医者の現状は如何でしょうか?朝日新聞に最近、「ドキュメント医療危機」が連載されています。2007年4月「ドキュメント医療危機5」に医師数不足の現状が取り上げられていました。
医師の数(人口10 万人あたり)
1986年:日本〜150人、OECD〜230人
2002年:日本〜206人、OECD〜290人
医師の労働時間数(一週間あたり)
英仏独〜45時間 日本〜60時間超
やはり日本には、医者の数が足りていないのです。注目すべきは、同紙の中で、本田宏医師(済生会栗橋病院副院長)による以下の言葉です。
「医師不足の実態は勤務医不足。勤務医は患者から求められすぎている。医学知識は完璧で、ブラックジャックの技術、赤ひげの心。説明はプロのアナウンサー並でユーモアも欲しい。チーム医療のリーダーシップ、気力・体力で24時間対応し、お金は要らない。それで何かあったら訴えられる。」
同感し、深く考えさせられました。実際のところ、こんなことに対応できる医師、いや人間はいないでしょう。
少し前まで、夜間救急患者は地域の開業医の先生方が診て下さっていました。最近は、診療所と自宅が別々になっている開業の先生が多くなり、夜間の患者さんは病院を受診されることが多くなりました。中には、2〜3日前から眼が赤い、日中は混むので夜間に病院に来ましたという人もいます。これでは勤務医は休めません。
最近、日本全国で勤務医が退職し、多くの病院で病院閉鎖や診療科中止となっていることをご存知の方も多いと思います。「立ち去り型サボタージュ」「逃散(ちょうさん)」「形を変えた勤務医のストライキ」(医療崩壊; 小松秀樹)と言われている現象です。
労働環境が悪化、勤務医が病院から離れ始めたのです。産科や小児科がよく話題になっていますが、眼科も同様なのです。勤務医を続けていたいが、負担が多くなり辞めざるを得ないというケースが多くなっています。現状は、きわめて深刻です。
新潟県でも昨年4月、ある病院で26人の常勤医のうち11人が退職して話題になりました。しかしこれは過去のことではありません。今後も、第2、第3のこうした病院が出てくる可能性は大なのです。
勤務医がどんどん病院を辞めていくという現実に、厚生労働省も気付き、勤務医(減少抑制)対策を次々に発案していますが、早急な解決は望めないようです。一方開業医に対して、夜間診療や、診療報酬の引き下げなどの締め付けを行おうとしていますが、これも的を得た解決策とは思えません。そもそも勤務医と開業医は、相互協力するべき仲間です。
今回のアンケートや勉強会で、患者さんから医者に対して、多くの期待と要望があることが判りました。このことは負担ではなく、むしろ励みになります。そして多くの医者は患者さんの要求に必死になって応えようと頑張っています。でも現状のままでは、頑張りにも限界があります。
今回の勉強会で、いい医療を実践するためには、患者さんの皆さんにも共に考えて頂かなければいけないことがあるということをお伝えたつもりです。
今後は、国民の皆さんがどのような医療を望んでおられるのかという視点を軸に、マスコミも含め国民的な話題として、我が国の医療問題を考えていく必要があると思います。
【追記】
勉強会で演者としてお話するのは久し振りでした。20名ほどの参加者でしたが、皆さんに忌憚のないご意見を伺いながら、私も正直にお話させて頂きました。
マスコミは、かつて医者批判特集で国民の関心を煽っていましたが、「このままでは日本の医療が崩壊する」ということに気が付き、最近は真面目な取り組みも多くなりました。特に、週刊「東洋経済(4/28-5/5)これが医療崩壊の実態だ『ニッポンの医者、病院、診療所』」は、良く取材していい内容にまとめてあります。お薦めです。
【参考】
「新潟大学医学部4年生命倫理 講義資料」 平成17年1月19日
「医学生へ 医学を選んだ君に問う」 前金沢大学付属病院長 河崎一夫
(朝日新聞 平成14年4月16日 「私の視点」)
「元気が出る患者学」 柳田邦男(新潮新書)
「ドキュメント医療危機」 (朝日新聞連載中)
「勤務医よ闘え」 本田宏(済生会栗橋病院副院長)
http://medical.nikkeibp.co.jp/inc/all/blog/honda/index.jsp
「医療崩壊」 小松秀樹/著 (朝日新聞社 発行 06年5月)
「大量退職の水原郷病院 (06/3/10)」
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/niigata/kikaku/081/18.htm
週刊「東洋経済(4/28-5/5)」
これが医療崩壊の実態だ「ニッポンの医者、病院、診療所」
【安藤伸朗:略歴】
1953年2月 仙台生まれ。小学校・中学校は青森県三沢市。高校は青森県立八戸高校。
1977年3月 新潟大学医学部卒業、同年5月 新潟大学眼科学教室入局
1987年2月 新潟大学医学部講師
1991年7月 米国Duke大学留学(1年間)
1996年2月 済生会新潟第二病院眼科部長
2004年4月 済生会新潟第二病院第2診療部長
平成19年3月6日の勉強会の報告
安藤@新潟です。
第132回(2007‐3月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:『人生半ばで見えなくなったら 〜 a case of 中途視覚障害〜 』
講師:稲垣吉彦(有限会社アットイーズ 取締役社長)
【講演要旨】
私は現在42歳、30歳で視覚障害になりました。原田病というぶどう膜炎に続発した緑内障のため、ぶどう膜炎を発症して2〜3年で見えなくなりました。現在の視力は、右は手の動きが判る程度、左は具合がいいと0.02、調子が悪いと目の前の指の数がやっと判る程度です。
身長は180cm、体重は77.2kgです。体重が最大だったのは中学生の頃で、当時は身長が170cm、体重は120kgでした。千葉の船橋から錦糸町(国技館のある両国の隣駅)に通っていましたが、「相撲取りにならないか」と大相撲から勧誘されたこともありました。当時は剣道をやっていたのでお断りしました。
体重が一番少なかったのは、12年前失明した頃で筑波技術短期大学の学生をしていましたが、64.6kgになってしまいました。目の不自由な方には、私のイメージが掴めましたか?自分で言うのも何ですが、脚は結構長い方で、性格は几帳面で負けず嫌いです。
生まれて30年近く、何不自由なく生活を送ってきました。とりわけ健康に関しては、小学生の頃、盲腸の手術で入院したことを除けば、目の病気が発覚するまで、ほとんど病院とは縁がない状態で過ごすことができました。
大学を卒業し銀行に就職、よく働きました。当時はバブル絶頂時より少し過ぎてはいましたが、景気はいい頃でした。毎日夜の10時半過ぎまで働き、その後2時3時まで同僚と飲みに行くという生活でした。帰りの電車がなくなり、そこらでごろ寝をするということもしばしばでした。
大蔵省日銀の検査が2〜3年に一度ありました。そんな時は特に忙しくて、連日徹夜が続きました。目が充血し見えにくくなりました。支店長から呼び出しを受け「すぐに病院にいきなさい」と言われました。
しぶしぶ眼科医院を受診すると「一週間休業」の診断書をもらいました。一週間後に再度受診すると、「総合病院を紹介するが、A病院とB病院ではどちらがいいか?」と言われました。「どっちでもいいですよ、車でもバイクでも行けますから」と答えると、医者は「でも車を運転できなくなるかもしれないので、、、、」。
ぶどう膜炎は炎症のある時と、ない時では見え方が異なります。最初視力は、いい時で1.2から悪い時で0.6くらいでした。視力0.6の時には、下りの階段を歩くのが怖くてたまりませんでした。どうして病院に通院していても治らないんだと思うこともしばしばでした。12月忘年会シーズンでした。取引先と飲みに行くことが多くなります。しかし目が見えないため気が利きません。相手のコップが空になっていることも判らない、どこにあるのかも判らない、お酒も注ぐことが出来ない・・・。
1月から内勤になり書類に目を通すことが仕事になりました。ところが視野が欠けているため何処で見たらいいか判らない。そのうち左眼の耳側にはっきり見えるところがあることが判りました。3月から休職、手術さえすれば元通りに治ると思い込み、手術をしてくれる病院を探して歩き回りました。またある時期は、とにかく何かにすがりたくて、目の病気に御利益があるという神社に祈祷に行ったり、怪しげな霊感商法に引っかかりそうになったこともありました。
そんな時にある医師のところで診察を受けました。「どうしてここまで引っ張ったのかなぁー。手術はします。でも見えるようにはなりません」と言われました。手術をしても治らない病気があるなんて、、、。治らない病気と知ったときは、その事実を受け入れるどころか、理解することすらできずに頭の中が真っ白になりました。
結婚して2年目の妻はパートで働いていました。妻が仕事に出かけるのを見送り、日中はテレビを見て無為にブラブラ過していました。夫婦喧嘩になることもしばしばでした。当時11階建てのアパートの5階に住んでいましたが、ここから飛び降りようかと思ったこともありました。
その頃、母が新聞の記事の中に「在宅視覚障害者支援事業」という情報を得て、紹介してくれました。すぐに問い合わせてみると指導員が来てくれることになりました。指導員が有難かったのは、点字や歩行ということではなく、情報を持っていることでした。まずどれだけの視機能が残っているのか、チェックしてもらうようアドバイスを受け、所沢にある身体障害者リハビリテーションセンター病院に行きました。
そこで視能訓練士にこうすれば見えるんじゃないか、こうすれば読めるんじゃないかと指導してもらいました。左眼の中心視野が横長に残っていました。縦方向で2文字、横方向で6文字見えました。『意外と見えるじゃん』、、、。その後ソーシャルワーカーの相談を経て、筑波技術短期大学に進学することになりました。
会社退職、離婚と全てを失った私に対して、まだ若い大学の同級生は「稲垣さんはいいですよね。車を運転したり、テニスを出来たんですから。私たちにはそれが出来ないんですよ」と言ってきました。『俺って幸せだ、全然不幸なんかじゃないじゃん』と思えるようになりました。見えなくて一番困ったのは、相手の表情が判らないことでしたが、そのうち声の調子で判るようになりました。
眼科医から宣告された「治らない病気」の存在、母親からもたらされた在宅視覚障害者支援事業の情報、その支援事業の指導員からもたらされた国立身体障害者リハビリテーション病院の情報、その病院の視能訓練士に教わった残存視力の活用方法、ソーシャルワーカーから紹介された筑波技術短期大学の情報、さらには筑波技術短期大学の若い先輩たちや先生たちから学んだこと、そのいずれもが見えない世界に関する知識がなかった当時の私にとってこの上ない宝物だったんです。
視覚障害当事者としては、常にあらゆる情報にアンテナを張り巡らせておく必要があるし、家族や医療スタッフ、福祉関係者など、当事者を支える人たちは、わずかな情報でも与える努力をしてほしいと思います。仮に当事者がその時点でその情報に興味を示さなかったとしても、時間の経過とともに「そう言えばあのときこんなことを言っていた人がいたっけ」と思い起こし、その情報に向かって足を踏み出せることもあるのです。
『アットイーズ』という会社を2006年に設立しました。パソコンのサポートが主な仕事ですが、本当は、自分では本業をカウンセリングだと思っています。見えなくなりたての患者さんの相談をほぼ毎日、一電話2時間くらい受けています。中途で見えなくなった人は、見えなくなった原因が何であれ、皆同じ悩みを抱えています。そして自分よりも辛い思いをしている家族や仲間がいます。当事者での支えも大事ですが、こうした周囲の人達へのサポートも重要です。
障害の有無にかかわらず、人間誰しも一人だけで生きているわけではありません。多くの人に支えられて生きているのです。少なくとも私はそうです。多くの人から様々な情報をもらい、その時々で自分に必要な情報を取捨選択して今まで生きてきました。
視覚障害は情報障害であるとよく言われます。一人でも多くの同じ障害を持つ仲間達が、社会の中で生き生きと活躍できるよう、みんなで協力し合うことが大切なのではないでしょうか。
今回は私自身の体験をお話しさせていただきましたが、このつたない私の経験を中途視覚障害のひとつのケースとして、今まさに苦悩している視覚障害当事者やそのご家族のみなさまにわずかでも参考になればと思います。そしてロービジョンケアに関わるすべての方々に、今後のロービジョンケアの発展を考えるきっかけにしていただければ幸いです。
【追記】
稲垣さんにカウンセリングを希望する方は、下記に電話下さい。
有限会社アットイーズ
電話:03-5287-5601
【稲垣吉彦氏:略歴】
1964年千葉県出身
1988年明治大学政治経済学部経済学科卒業後、株式会社京葉銀行入行。
1996年視覚障害をきっかけに同行を退職し、筑波技術短期大学情報処理学科入学。
卒業後、株式会社ラビットで業務全般の管理、企業・団体向けの営業を担当。
杏林大学病院、東京大学医学部付属病院、国立病院東京医療センターのロービジョン外来開設時に、パソコン導入コンサルティングを行う。
2005年株式会社ラビット退職。
2006年有限会社アットイーズ設立。同年8月「見えなくなってはじめに読む本」を出版。
【参考】「見えなくなってはじめに読む本」紹介記事
(2007年1月9日 読売新聞 朝刊 京葉版)
視覚障害の苦悩と再起…千葉の元銀行員が自費出版
http://job.yomiuri.co.jp/news/jo_ne_07010918.cfm
【後記】
稲垣さんはお会いしてみて初めての印象は、「姿勢がよく、大きくてはっきりとお話しする、明るい人」という感じでした。
視力を失うとともに、勤務していた銀行の退職、妻との別居、短大への入学、離婚、再婚、再就職という激動の中でも、決して一人ではなかったと稲垣さんは述懐しています。必ず誰かが見守ってくれていた、ある時は家族であり、またある時は医師や看護師、視能訓練士などの医療スタッフ、ソーシャルワーカーや歩行訓練士などの福祉スタッフ、そして大学の先生達や多くの友人達でした、、、と。
著書「見えなくなってはじめに読む本」の中に、3つの望むことが書かれているので紹介します。
眼科医に望むこと〜中途半端な気配りや優しさは要らない。治る病気なのか、治らない病気なのか、初期段階ではっきり宣告して欲しい。
看護師に望むこと〜当事者のケア以上に家族へのケアをして欲しい。苦悩する当事者を真近で見守るという立場と役割は家族と看護師は同じである。家族であるが故に、当事者に言えない苦悩を理解出来るのは看護師であり、同じ視点にたったカウンセリングこそが眼科の看護師の役割ではないだろうか?
ロービジョンケアに望むこと〜心のケアと情報の提供。心のケアといっても、決して頑張らせる必要はない。患者や家族の言葉に傾聴して理解してあげるだけで、殻に閉じこもった患者や家族の心は開放される。そして感情が開放された患者に情報を提供して欲しい。見えなくなった患者に外部の様々な機関と連携を図り、次のステップにつなげてあげることが初期段階のロービジョン患者にとって、もっとも必要なことである。
いままで漠然と認識していたことではありましたが、このようにはっきり指摘して頂けたのは有難いことでした。肝に銘じたいと思います。
平成19年2月14日の勉強会の報告
安藤@新潟です。
第131回(2007‐2月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:『身体障害者相談員として思うこと』
講師:松永秀夫(新潟県視覚障害者福祉協会;理事長)
【講演要旨】
今日は朝から天気が悪かったので、誰も来ないで安藤先生と二人で話しをしようかと思っていたのですが、多くの人に参加してもらい、驚いています。特に日頃おつきあいしている方々の前で話すのは緊張します。
障がい者に対する相談支援事業に、民間ボランティアとして障害のある当事者を相談員に起用するという身体障害者相談員制度が、昭和42年(1967年)に始まって40年になります。今でいう「ピア・カウンセリング」です。国は、障害者相談員制度が発足して30年を経過した平成10年、事後この制度の維持・運営については地方公共団体に移管しました。
この制度の存在は案外知られていません。新潟市の場合は、4月の市報に相談員の名前が掲載されます(注1)。こうした相談員は、新潟県に100名、新潟市に71名います。ただし視覚障がい者である私に来る相談者は、必ずしも視覚障がいの方ばかりではありません。
視覚障がいの障害者手帳保持者は、新潟県の場合、一級が1955名、二級が1809名で、一級と二級合わせて視覚障害者全体の59%で(2006年4月現在)、視覚障がい者は障がい者全体の9%です。県全体としては減少傾向です。一方新潟市の場合、障がい者の数は、視覚障がい、聴覚障がい、肢体不自由、内部障がいも年々増えています。地方の中でも僻地から都市への集中傾向があるようです。
私の現在の活動拠点は、新潟ふれ愛プラザ(新潟市亀田)、新潟市障害者相談センター(新潟市総合福祉会館)〜対面・電話・訪問で対応(新潟市障害者相談センターではピア・カウンセリングとして火曜日の午後待機)です。
相談員として活動始めたころと相談の内容が変わってきているような気がします。当初は病気に関するものが多かったのですが、現在は職業に関するものが中心です。眼科の医師と勘違いして電話が来たこともあります。1〜2時間も人の悩みを聴きます。聴いているうちに私のほうが悩んでしまうこともしばしばです。長年の経験でわかったことですが、相談してくる人は自身の解答を持っていて、最終判断をどうするかを迷っていることが殆んどです。
失明のことで悩んでいる人の相談を受けます、、、、いつも自分自身がベーチェット病で失明した当時のことを思い出します。昭和43年2月3日が私の失明記念日です。昭和42年12月、当時勤務していた航空会社の忘年会の会場を探しに蒲田の駅前を歩いていた時、飛蚊症に気が付きました蒲田の眼科を受診、大きな病院に行くようにいわれ、慈恵医大で診察を受けました。「診断:ベーチェット病、3ヶ月の休職」という診断書を渡されました。すぐに近くの本屋さんで医学書を立ち読みし、ベーチェット病のページを見ました。6〜7割は失明と書いてありました。失明の意味も分からなく、先のことを考えることはできませんでした。当時は飛行機整備の仕事をしていました。その後発作を繰り返し、会社を辞め、新潟に帰りました。
盲学校には行きたくないということを、よく相談受けます、、、、、私の場合は、自宅から新潟大学まで治療に通う日々が続きました。バス路線の途中に新潟盲学校がありました。パチンコにいくか、病院に通うことぐらいしかない毎日でした。30歳になっていました。学校にでも行ってみるかというくらいの気持ちで、母と一緒に盲学校へ行ってみました。12月の寒い日で、帰りは一面雪でした。入学試験に無事合格し、翌年4月盲学校に入学できました。入学して驚いたことは一杯ありました。幼稚部や小学部の子ども達が元気で走り回る声を聞いて、目が見えなくても生きていけるんだと思えるようになりました。集団生活で学んだことも数多くありました。
鍼灸の職業はいやだという相談もよく受けます、、、、、鍼灸の仕事でも、自分に出来ることはそれしかないと3年間頑張りました。資格を得て、自宅で開業しました。自分の職業を持ち、社会参加できる、自立できるということは、生きていく「はり」になりました。
視力に障がいを持ち企業を辞めてから相談にこられる方が多いのですが、辞める前に相談に来て欲しいです。ハローワークでも相談にのってくれます。企業内で別な職種を探す、あるいはリハビリ等の訓練を保障してもらうなど方策はいろいろあります。
最近、完全に見えなくなったから数年たってからの相談よりも、見えなくなりたての方々からの相談が多くなりました。ロービジョン外来の普及によるところが大きいかもしれません。ロービジョン外来には医療と福祉の橋渡しの役割を期待しています。
失明宣告をされたことがありません。片眼にベーチェット病の末期で緑内障を起こし、眼痛がひどくなった時、眼球摘出を勧められました。見えるようになる可能性まで奪われるようで悩みました。しかし摘出後は痛みが無くなり、仕事に集中できるようになりました。
身体障害者相談員として大事なことは、プライバシーを守ることと、相談者の話を良く聴くことです。障がいを持つということは、本人の人生だけでなく、家族の人生にも影響を与えます。視力を失うことは、歩行能力も失い、場合によっては家族も失うこともあるのです。
いま、学校やボランティア講座で視覚障がい者の体験談をことを話す機会が多くあります。目が見えないと何も出来ないと思う人が多いのですが、障がいがあっても出来ることは沢山あります。その人の可能性を見つけてほしいと話しています。見えなくても可能性は残されているのです。マイナス面のみでなく、楽しいことが一杯あります。障がいがある人でも少しの手助けで出来るようになることは沢山あります。
私自身相談してもらいたい時もあります。30年前を思い出し、現在の自分と比較し自分を励ましています。家を出て一歩ふみだして歩く道、その先にはいろいろな可能性があるのだと思っています。相談員として気を付けていることは、ストレスを溜めないようにしています。そしていろいろな情報を得て催し物に参加しています。
【松永秀夫氏:略歴】
昭和51年 新潟盲学校理療科卒業、松永鍼灸治療院開設、
平成4年 新潟市視覚障害者福祉協会会長、身体障害者相談員、
平成5年 レクリエーションインストラクター、
平成8年 公認身体障害者スポーツ指導員、
平成11年 新潟市障害者相談センター;ピアカウンセリング、
平成12年新潟県視覚障害者福祉協会理事長、新潟県身体障害者団体連合会理事、
平成13年 社会福祉法人愛光会理事、
平成14年 社会福祉法人全国盲ろう者協会訪問相談員
【後記】
天気の悪い日でしたが、多くの参加者でした。その多くが松永さんと顔見知りの方で、改めて松永さんの人気、お人柄を感じました。
松永さん特有の優しい語り口、ソフトな声で淡々とした語りでした。新潟における視覚障がい者の実態と身体障害者相談員制度に始まり、自身の経験談に及んだ時には当時のことを思い出し、言葉に詰まってしまう場面もありました。今はパソコンはもちろんスキーでもダンスでも何でも楽しんでいる松永さんですが、大変な苦労をされたことでしょう。
ピア・カウンセリング(注2)というと米国からの輸入品と思っていましたが、実際には我が国で1960年代に制度化していることを知りました。
参加者から寄せられた感想の中に、以下の一文がありました。「私達皆にとって、とても大切な存在の人ですので、無理をしないで、これからも皆の先頭に立って行って欲しいです」、、、、参加者全員の思いでした。
【注】
注1 市報にいがた(平成17年6月26日)
http://www.city.niigata.niigata.jp/sihou/2005/050626/2000_2_6.html
注2 ピア・カウンセリング
1970年代初め、アメリカで始まった自立生活運動の中でスタートした。自立生活運動は、障害を持つ当事者自身が自己決定権や自己選択権を育てあい、支えあって、隔離されることなく、平等に社会参加していくことを目指す。ピア・カウンセリングとは、自立生活運動における仲間(ピア)への基本姿勢。
平成19年1月10日の勉強会の報告
安藤@新潟です。
第130回(2007‐1月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:『眼科医・大森隆碩の偉業』
講師:小西明(新潟県立新潟盲学校長)
【講演抄録】
1) 新潟県立高田盲学校(盲学校として日本で3番目に創立)の閉校
盲学校は、全国に72校、在籍者は約3700名である。全国の盲学校の生徒は昭和45年から50年がピークで、毎年70名以上減少している。ここ2〜3年の減少は著しく、特に大人の生徒数が減少している。
障害のある子どもの教育について、障害の種類や程度に応じ特別の場で指導を行う「特殊教育」から、通常の学級に在籍するLD・ADHD・高機能自閉症の児童生徒も含め、障害のある児童生徒に対してその一人一人の教育的ニーズを把握し適切な教育的支援を行う「特別支援教育」への転換が提言された(平成17年12月8日中央教育審議会)。障害のある子どもの教育にとって、戦後60年を節目とする大きな転換である。
盲学校として日本で3番目に創立された新潟県立高田盲学校は、生徒数の減少の影響もあり、平成18年3月に118年の歴史を閉じた。 高田盲学校を創始し、視覚障がい者教育に生涯を捧げた先覚者、眼科医・大森隆碩の偉業を紹介し、その功績を思い起こしてみたい。
2) 明治時代の視覚障害者
明治11年(1978年)明治天皇は巡幸で新潟県を訪れた際、新潟に盲人が多いと申され、御下賜金千円を賜った。さらに翌明治12年(1879年)、恩賜衛生資金として一万円を賜れた、新潟県では無料で眼科検診が行われた。
明治18年(1885年)内務省通達11号による各府県の鍼灸取締規則など医療制度の近代化に対応して、明治23年(1890年)ごろ鍼按講習会・盲人教育界が出現した。
新潟県では、明治18年(1885年)新潟で関口寿昌が「盲人教育会」(後の新潟盲学校)、明治20年(1887年)高田で大森隆碩が「盲人矯風研技会」、明治38年(1905年)長岡で金子徳十郎は「長岡盲唖学校」を設立。
3) 隆碩の生い立ちと略歴
弘化3年(1846年)大森隆碩は、高田藩眼科医、大森隆庵の長男として生まれる。藩政立て直し策をめぐって藩主の怒りを買い、十代半ばで脱藩。明治維新前後の激動期、隆碩は江戸や横浜で時代の風を存分に浴びた。ヘボン式ローマ字つづりで知られる医師ヘボンに医学を学び、和英辞典の編さんに携わる。元治元年(1864年)18歳で高田で眼科医開業。戊辰戦争で杉本直形(2代目校長)と治療に当たる。
明治11年(1878年)医事会、明治16年(1883年)高田衛生会を設立する。明治18年(1885年) 39歳のとき視覚障害者となる。明治19年(1886年)「訓盲談話会」大森隆碩が設立、私塾的な盲人教育を創始。明治20年(1887年)11月30日 名称を「盲人矯風研技会」に変更。組織的な教育を開始(高田盲学校創立の日と制定)。明治24年(1891年)日本で3番目となる訓矇学校設立。
当初、丸山謹静ら盲人の方々が設立しようとしていたのは、按摩などの技術を高めることで、いまで言えばテクノスクール。しかし、隆碩は技術習得だけではだめ、人間を育てなければならない。盲人も同じ人間である。人間らしい教養をつんで教育しなければならないと主張。技術学校ではなく、本格的な学校設立を目指した。「心事末ダ必ズシモ盲セズ」〜「視覚が機能しなくなったけれども、心の中まで見えなくなり何もわからない状態になっているのではない。教育すれば必ず人間として生きられる」という隆碩の信条である。
学校経営は厳しかった。私財を投じた盲学校の運営は綱渡りの連続。『炭を買う金がない』と学校から連絡があると、妻が着物を手に質屋に走る、、。明治28年5月7日訓矇学校第一回卒業式。卒業生2名。病気の隆碩に代わり次女ミツ(当時18歳)が祝辞を述べた。ミツは後に東京盲学校の教師となる。
隆碩は、社会事業(女子教育、地域医療)にも活躍した。明治36年(1903年)療養先の東京で没。
4) 隆碩の盲学校創設と新潟県立高田盲学校
*明治5年(1872年) 学制の公布→廃人学校の規定
*明治11年(1878年)「京都盲唖院」(京都)(小学教員古河太四郎が指導)。
*明治13年(1880年)「楽善会訓盲院」(東京)明治19年(1886年)「訓盲談話会」大森隆碩が設立、私塾的な盲人教育を創始。明治20年(1887年)11月30日 名称を「盲人矯風研技会」に変更。組織的な教育を開始(高田盲学校創立の日と制定)。明治24年(1891年)校名変更 「私立訓矇学校」。明治28年5月7日訓矇学校第一回卒業式。卒業生2名。
大正4年(1915年)校名変更 「私立高田盲学校」大正11年(1922年) 県内4校の再編・県立移管。
昭和24年(1949年) 「県立高田盲学校」
平成18年(2006年)3月 「県立高田盲学校」閉校。
1887年に創設され、1949年県に移管された高田盲学校の歴史は、人間味にあふれている。118年受け継がれてきた建学の理念は、郷土の貴重な遺産である。
5) 隆碩の残したもの
【訓矇学校】
当時の多くの盲亜学校が手に職を与える職業教育にとどまっていたが、一般教養を培うことの大切さを強調した。盲は肉体の盲、矇は心の盲。まず心の矇を啓いて後に教育するべきと考え、校名を訓矇学校とした。
【単独校】
日本での初期の盲学校は盲亜学校として誕生した。しかし隆碩は心理学的に、人格形成の上で両者は同一でないと考え、聾唖者の入学を断り、盲人のみを対象とした学校とした。
【研究機関】
鍼灸按摩以外の職業分野の研究を重ねた。また指導法についても熱心に取り組んだ。早期から点字教育を行った。
小西明氏 略歴】
1977年 新潟県立新潟盲学校
1992年 新潟県立はまぐみ養護学校
1995年 新潟県立高田盲学校
1997年 新潟県立教育センター
2002年 新潟県立高田盲学校 校長
2006年 新潟県立新潟盲学校 校長
【参考】
1)小西 明:上越教育大学障害児教育実践センター紀要.第12巻.57-59.平成18年3月
2)石田誠夫(眼科医、新潟県上越市)
http://www013.upp.so-net.ne.jp/takamou/Isida.htm
祖父も父も、この高田盲学校をこよなく愛しておりました。、、(途中略)、、、、(祖父は)眼科医である隆碩先生の「視覚障害者を社会に復帰させよう」という心意気を子供の頃より感じ取り、この地に戻ることにより、盲学校の校医として、その伝統を引き継ぐことになったのではないでしょうか。
3)市川信夫(高田盲学校、元教員)
http://www013.upp.so-net.ne.jp/takamou/itikawa-kouen.htm
4)新潟日報:平成18年3月18日(土)日報抄
全国で三番目に古い歴史を持つ上越市の高田盲学校が最後の卒業式を行った。寂しい。学校は新潟盲学校に統合される。明治憲法よりも早く、雪深い地方で先人が掲げた盲人教育への熱い思いは、しっかりと受け継いでいきたい(後略)。
*******
【後記】
雪深い新潟の高田に、どうして全国で三番目に古い盲学校が設立できたのか長い間疑問でした。今回のお話で大森隆碩の足跡を知るにつけ、郷土の先人の偉業に感嘆し、先見の明に心打たれます。
偶然にも、神戸盲学校(現在の兵庫県立盲学校)創設者である「左近允孝之進(さこんじょう こうのしん)」の伝記を読む機会を得ました(注)。大森隆碩と左近允孝之進 同じ頃に自らも視覚障害者であった二人に交流が無かったようです。しかし視覚障がい者教育に理解の無い周囲の反対に遭いながらも、盲学校を職業訓練学校としてではなく人間教育の場と考え、貧乏しながらも設立まで成し遂げる姿はそっくりでした。第一回の卒業式に、健康の理由で参加出来ないところまで一緒でした。
多くの盲学校がこのような歴史を持ちながら今日に至ったことを、改めて噛締めています。今日、私たちが忘れてならないのは、大森先生の残した「心事未ダ盲セズ」という障害者に対する深い思いやりの心、暖かい気持ちかもしれません。福祉制度の充実も大事ですが、この精神を考える機会を今後も持ち続けたいと思います。
注:「見はてぬ夢を」視覚障害者の新時代を築いた左近允孝之進の生涯 山本優子著(2005年6月20日発行 燦葉出版社)
【附:日本&世界の視覚障がい者関連年表】
*1784年、バランタン・アユイが、パリに青年訓盲院設立(世界最初の盲学校)。浮出文字(凸字)の印刷本を作る。
*1808年、フランスのバルビエ(Nicolas Marie Charles Barbier: 1767〜1841)が12点式点字等を考案。
*1870年、ドイツの眼科医A.グレーフェ(1828〜1870年)没。虹彩切除による緑内障の治療、レンズ除去による白内障の治療など、近代眼科学の基礎を確立。
*明治5年(1872年) 学制の公布→廃人学校の規定
*明治11年(1878年)「京都盲唖院」(京都)(小学教員古河太四郎が指導)。
*明治13年(1880年)「楽善会訓盲院」(東京)
明治19年(1886年)「訓盲談話会」大森隆碩が設立、私塾的な盲人教育を創始。
明治20年(1887年)11月30日 名称を「盲人矯風研技会」に変更。
*1887年3月、サリバン(Anne Mansfield Sullivan: 1866〜1936年)がパーキンス盲学校を卒業してヘレン・ケラーの家庭教師となる。
*明治34年(1901年)石川倉次翻案の「日本訓盲点字」が官報に掲載
*1903年、ヘレン・ケラー『The Story of my Life』
*明治38年(1905年)左近允孝之進、神戸に六光社を設立、わが国最初の点字新聞「あけぼの」を創刊。
*明治43年(1910年)東京盲唖学校が、東京聾学校と東京盲学校に分離される。
*1915年、ピアソンが、ロンドンに「セント・ダンスタンス」(St. Dunstan's)を設立、戦傷失明者の生活・職業リハビリテーションを開始。
*大正5年(1916年)石原忍(1879〜1963年。東大医学部眼科学教授)、石原式色覚検査表を徴兵検査用に開発。
*大正9年(1920年) 新潟県盲人協会が、柏崎市に点字巡回文庫開設(現在の新潟県点字図書館の前身)。
*同年5月、大阪毎日新聞社が「点字大阪毎日」(1943年〜「点字毎日」)を創刊。
大正12年(1923年) 「盲学校及聾唖学校令」公布(盲と聾唖が分離)。
*昭和10年(1935年)10月 岩橋武夫が、大阪でライトハウス(世界で13番目。現・日本ライトハウス)開設。
*1937年、トルコの皮膚科医H.ベーチェット(1889〜1948年)が、再発性前眼房蓄膿性虹彩炎ないしブドウ膜炎、アフタ性口内炎、外陰潰瘍、皮疹を主徴とする症候群を報告。
*1939年、世界最初のアイバンクが、サンフランシスコに設立
*1942年、アメリカのテリー(T. L. Terry)が、後に「未熟児網膜症」と呼ばれるようになる症例を報告。
*昭和33年(1958年) 「角膜移植に関する法律」公布、合法的に屍体角膜を移植に使えるようになる。
*昭和38年(1963年)6月 厚生省から「眼球あっせん業許可基準」が公示、同年10月に慶大眼球銀行と順天堂アイバンク、同年12月には大阪アイバンクの三か所がそれぞれ認可される。
*1968年、米国「建築物障壁除去法」(Architectural Barriers ActABA)成立。
*昭和45年(1970年)6月 市橋正晴(1946〜1997.先天弱視;1996年株式会社大活字創立)らが中心になり、「視覚障害者読書権保障協議会」(「視読協」)発足。
*昭和51年(1976年)9月 社会福祉法人日本盲人職能開発センター開設
*昭和54年(1979年) 7月、所沢市に、国立身体障害者リハビリテーションセンター開設。
*昭和58年(1983年) 高知システム開発が、6点漢字入力方式による「AOKワープロ」発売。
*平成4年(1992年)5月 「中途視覚障害者の復職を考える会」(タートルの会)活動を開始(正式発足、1994年11月)。
*平成12年(2000年)4月 日本ロービジョン学会創設。
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