済生会勉強会の報告 2006
平成18年12月13日の勉強会の報告
安藤@新潟です。
第129回(2006‐12月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:『クチこみラジオ越後じまんず 新潟の自慢まとめてドーン』
講師:小野沢裕子(フリーアナウンサー、新潟市)
【講演要旨】
阪神大震災の1995年10月に『小野沢裕子のいきいきワイド』(新潟テレビ21:当時)を開始(足掛け7年の長寿番組となりました)、中越地震と中越水害の2004年12月3日に『クチこみラジオ越後じまんず(BSNラジオ)』を開始しました。放送開始したその日が実は誕生日でした。
誕生日っていいですね。年を重ねると重みが増してきます。誕生日が来る度に、子供の頃に麻の葉模様の産着を着せられて祝ってもらった誕生日を思い出し、母のことを思います。
『クチこみラジオ越後じまんず』(BSNラジオ毎週木曜18時30分から55分)新潟の良い人、良い物、良いところを探して放送し、口コミで広げてもらう。このラジオを聞いてくれている人は、「新潟ってどんなところ?」と聞かれると、「こんな人も、あんな人も、こんな物も、あんな物も」と話し出したら止まらない状態になるといいなあ、そんな思いで始めた番組です。放送回数106回、自慢の種は、200を超えました。
「新潟なんか何にも自慢するものなんかないよ」とか「特に冬の新潟は観るところないよ」という人がいます。でもそうではないんです! 新潟には一杯、自慢するものがあるんです!!
●(挿入曲:クチこみラジオ越後じまんずのオープニング)
小野沢裕子です!マンボー秀です!
【山古志のヤーコン】
ヤーコンはペルーアンデス原産。実は山古志では昨年地震前に、「村おこし」として70世帯で栽培していました。その収穫を前にしての地震でした。多くのヤーコンは山と共に崩れてしまいましたが、生き残ったヤーコンを収穫しました。昨年の5月に山古志村では生き残った2000本のヤーコンを植えました。そして山古志の人は難を逃れた縁起のいいヤーコンを、「野魂」とネーミングして売り出し中です。
***解説「ヤーコン」***
茨城大学の月橋先生(新潟県柏崎出身)がヤーコンについて研究しています。さつまいもに似ているが、デンプンは少ない、でもオリゴ糖とポリフェノール・植物繊維が豊富で甘みがあります。焼いてはだめ、蒸かさないこと、ヤーコンを美味しく食べるためには工夫が必要です。ヤーコン酢・茶・ジュースのほか、麺も開発されています。 (注:「野魂」の名付け親は『クチこみラジオ越後じまんず』とのことです)
【ル・レクチェ】
新潟市(旧白根市)は洋梨「ル・レクチェ」発祥の地。フランスより導入され、およそ130年になります。原木が今でも旧白根市にあります。洋梨の中でも栽培が難しく、生産量が少なく大変貴重です。「ル・レクチェ」の栽培は大変な作業で、辛抱強い新潟県人にしかできない職人技と言われています。
この他、日本酒、枝豆、コシヒカリ米、梨(幸水、豊水、新高)、鮭、栃尾の油揚げ等々、新潟にはいっぱい美味しいものがあります。
***解説「ル・レクチェ」の栽培***
病気や日焼けから守るために一つひとつ手作業で袋をかけます(有袋)が、商品として出荷できるのは半分以下。枝の重なり具合によって陽を受ける量が違ってくるため、枝の剪定をおこなったり、美味しいものを育てるために一本の木に実るル・レクチェの数を調整している。
【十日町市に「ルマン24耐久レース」で入賞を果たしたレーシングカー】
火焔土器のシールを貼った途端、これまで完走も出来なかった車が完走を果たし、しかも入賞しました。そのため縁起ものとしてこのシールを貼り、レースに出場するようになりました。レーシングカーは、お礼の意味を込めて、十日町市に寄贈され、「クロス10」に展示されています。
***解説「火焔土器」***
火焔土器がはじめて出土したのは新潟県長岡市の馬高遺跡。1936年に近藤篤三郎らの調査で出土。考古学的にはこの出土第1号の土器のみを「火焔土器」と称し、火焔土器と同様の様式の土器は『火焔(火炎)土器様式』と呼ばれて区分される。
【カリスマ理容師 田中トシオさん】
山古志出身。1992年第24回理容美容技術選手権大会で、前人未踏の四冠、しかも四部門すべてを制覇という快挙でした。理容師を志し、23年で日本一、その後7年で世界一になりました。「夢は逃げない、逃げているのは自分だ」。雪の中で耐えて、いつか春が来ると信じ花を咲かそうとするそのエネルギーが活躍の源と語ります。
***解説「田中トシオ」***
現在、東京ヘアサロン 髪ing Toshio Tanaka's ヘアサロン 代表。
http://www.kaming.co.jp/sozai/all/bt/bt-all.jpg
【渡辺謙さん】
ご存知、日本を代表する映画俳優。新潟県魚沼市(旧、北魚沼郡小出町)出身。
2006年、荻原浩の認知症をテーマにした小説『明日の記憶』映画化作品で、映画初主演を果たしました。エグゼプティブプロジューサーとして、共演者(女房役)を誰にしようかと迷った時、自分と同じような風景を観て育ち、同じような空気を吸ってきた同郷の樋口可南子さん(新潟県加茂市生まれ。県立加茂高等学校出身)を選んだといいます。
***解説「渡辺謙」***
新潟県立小出高校時代はトランペットを吹いていた。音楽大学を目指して上京するが、学費が捻出できずに断念。苦労を重ねた上、1982年『未知なる反乱』でテレビデビューを果たすと、1984年には『瀬戸内少年野球団』でスクリーンデビュー。1987年のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』で主役の伊達政宗を演じ、39.7%という大河ドラマ史上最高の平均視聴率を獲得。前途洋々に見えた1989年、映画『天と地と』の撮影中に急性骨髄性白血病を発症し降板。再起はおろか生命も危ぶまれたが、約1年の闘病の後、治療を続けながらも俳優業に復帰した。
海外映画初出演となった2003年公開の映画『ラストサムライ』での演技が各方面から多大な評価を受け同年度のゴールデングローブ助演男優賞ならびにアカデミー助演男優賞にノミネート。これを機に現在はロサンゼルスに居を構え、『バットマン ビギンズ』や『SAYURI』など海外映画に立て続けに出演。
【雪・日本海の荒波】
雪というと暗いイメージですが、私は塩沢町出身。雪が降るとフツフツと「ヨーシ、やるぞ」と、闘志が湧いてきます。「冬の日本海」は、新潟の人にとっては、暗いイメージかもしれませんが、他所から来た人は一度観てみたいと思うところなのです。
歌手の小林幸子(新潟市出身)は、歌手としてデビューする前、毎日波の高い日本海に向かって歌の練習をしたと言います。こんど『クチこみラジオ越後じまんず』の特別企画として、荒海の日本海をバックに、波の音に負けない大きな掛け声で、寒さや強風にも負けず、下駄踊りの新潟総踊りを企画したら面白いと思っています。
●(挿入曲:ジャズ演奏;新潟市立内野小学校 ジャズバンド「スマイリーズ」)
内野小学校4〜6年生で構成するジャズバンド。レベルの高い演奏で、あちこちで引っ張りだこ。
新潟製菓調理師専門学校「えぷろん」の皆さんは、第12回国際ジュニア製菓技術者コンクール(シュツットガルト)、見事銀メダル獲得。
東京、山手線を走る585車両はすべて新潟市(新津車両製作所)で作られました。東海道新幹線の障害者用トイレは、新潟市(旧、新津市)で作られ、「新津モデル」と呼ばれています。新津で作られた車両は、夜間にこっそりと東京に旅立つといいます。いかにも仕事はするが地味な新潟県人のやり方です。正々堂々と昼間に、沿道の市民にも呼びかけて「頑張ってこいよ!」と、皆で送り出してもいいのではないでしょうか?
91歳の童話作家がいます。88歳から書き始めた「さかいすみこ」さん。小学校に招かれ、子供たちと一緒に給食を食べた時、子供たちに話し掛けました。「このピーマンを作ってくれた人、それを運んでくれた人、給食を作ってくれた人、食器を作ってくれた人、皆に感謝してこの給食を食べましょう」この話を聞いてから、児童の給食を食べる時の態度が変わり、給食を残す子供が少なくなったといいます。
***解説「さかい すみこ」***
1)第4回新潟出版文化賞2005年 文芸部門賞 めだかの夢(さかい すみこ・三条市)
2)「めだかの夢」 著者 さかい すみこ(酒井 すみ子) 発行社 (竃セ間印刷所. 総頁数 170. 定価・頒価.発行日 平成17年07月01日. 判サイズ(mm×mm) 210×147.
99歳の山内レンさん(十日町在住)。「オレ、来年も99歳でいようと思う。だってさ、100歳なんて年寄りげでいやだ」。そういうレンさんは、風が吹いてくると、「アーッ、雪の匂いがしてきた」と呟きました。新潟には五感を刺激してくれるものが沢山あります。
●(挿入曲:平原綾香「ジュピター」+長岡花火「フェニックス」)
昨年平成17年花火大会の時に、前年の7.13水害・中越大震災・豪雪の3つの自然災害からの復興元年と位置づけ、花火をバックにして、中越大震災時に県内のラジオ局で多くのリクエストが寄せられた持ち歌「Jupiter」を流そうということになりました。
実行委員会の一人が勇敢にも平原綾香の事務所に掛け合い、出演交渉をして実現してしまいました。8月3日平原綾香が来場し、復興祈願花火「フェニックス」をバックに「ジュピター」を歌いました。大感動でした。
***解説「長岡花火」***
「長岡まつり」の起源は、昭和20年8月1日の長岡空襲からの復興を願い翌昭和21年8月1日に行われた戦災復興祭であるが、花火大会の起源はこれとは別で、天保11年に打ち上げられた祝砲であると言われている。その後、本格的な花火大会となったのは明治39年から。現在の「長岡まつり花火大会」という名称になったのは昭和26年。大型の花火「三尺玉」を打ち上げることで有名。花火は、8月2、3日の2日間行なわれる。正三尺玉4発を含め2日間で打ち上げられる花火は約2万発、75万人の観客を集め盛大に開催される。
***解説「長岡花火 フェニックス」***
平成17年には、前年市内を襲った「7.13水害」・「中越大震災」・「豪雪」の3つの自然災害からの復興元年と位置づけ、復興祈願花火「フェニックス」が打ち上げられた。 フェニックス花火とは、花火の中心にフェニックス(不死鳥)が現れる尺玉(10号)花火。これを含めたスターマインを、6箇所の打ち上げ場所から平原綾香の「ジュピター」の音楽に合わせて打ち上げる(超ワールドワイドビッグスクリーン:打ち上げ幅1.5km)。長岡花火大会で、音楽に合わせて打ち上げる唯一の花火でもある。打ち上げ幅が広いため観客の視界が全て花火で埋め尽くされる、世界に誇る日本一の花火。
平成18年の長岡まつりでは、10の市町村が合併して、新しい長岡市になったことを記念して10カ所からの打ち上げられた。
発想の転換で新しい世界が開かれることがあります。2002年ノーベル化学賞を受けた田中耕一さんは、東北大学工学部電気工学科卒業し、島津製作所に就職。所属は畑違いの化学部門でした。失敗をもとに新しい理論に辿り着いたというエピソードがあります。「常識の反対は?」と問われて「創造です」と答えました。
皆さんの周りにも、きっと自慢の種がたくさんあるはずです。今まで短所・欠点と思っていた事も、発想を変えると長所にも利点にもなるかもしれません。聞かせて下さい、あなたの自慢の種、あなたの周りの自慢の種。
【小野沢裕子さん 略歴】
1980年 BSN新潟放送入社
1986年 結婚のため退社
1988年 第1子出産 子育て開始
1990年 第2子出産 子育て満喫
1995年〜2002年 新潟テレビ21「小野沢裕子のいきいきワイド」
2004年〜『クチこみラジオ越後じまんず』(BSNラジオ:毎週木曜18時30〜55分)好評放送中
他に、新潟ユネスコ協会会員、長岡フェニックス花火打ち上げ実行委員、よしたー山古志応援団、各種イベント、シンポジウム等司会、ナレーションなど。
【クチこみラジオ越後じまんず】
http://www.week.co.jp/komachi/gw/itp-pc_gw.php?ip=00012363
この番組はDANとメイドイン越後のコラボによるDAN番組制作実行委員会によって企画運営されています。企業スポンサーを一切排除し、番組サポーターによる番組育成金によって番組放送及び制作費を賄っていくという全く新しい試みです。スポンサーにしばられることなく、新潟のよさを楽しみ・再発見し、全国に発信してゆきたい。目指すはリスナーのリスナーによるリスナーのためのラジオ番組です。
番組サポーター申し込みは、下記から
http://www.jimanz.jp/jimanz_top.html
【後記】
持参のCDやMDを駆使しての熱演でした。自分の故郷や住んでいるところを、「大した事ないよ」と自嘲する人は多いですが、自慢する人に出会うと何かパワーまで頂くような気がします。
身の回りにある自慢の種を見つけること、ピンチをバネと考える発想、多いに刺激されました。毎回、小野沢裕子さんには元気をもらっています。「小野沢裕子さん」こそ、新潟の自慢です。
それにしても企業スポンサーを一切排除した『クチこみラジオ越後じまんず』、天晴れです。これも新潟の自慢です。応援したいと思います。
PS:今回参加された方から、以下の感想をもらいました。
「正直なところ、今回の講演の抄録を拝見して、あまり眼科や視覚障害とは関係のない内容のように感じていました。参加してみると、こういう講演こそ希望を失いかけている中途視覚障害者にとって、大変励みになる話だと感じました。」
平成18年11月11日の勉強会の報告
安藤@新潟です。
第128回(2006‐11月)『済生会新潟第二病院眼科 市民公開講座2006』の報告です。
演題:「失明の体験と現在の私」
講師:西田稔(NPO『眼炎症スタディーグループ』理事長)
【講演要旨】
ベーチェット病発病して、来年で50年になる。当時はインフォームド・コンセントなどという概念の無かった時代だった。私は25才でベーチェット病を発病。入退院を繰り返しいろいろな治療を行ったが、28才のときには視力は右0.01、左眼は失明。大学病院に入院中の夜、見えていない左眼が急激に痛み、頭痛がした。翌日主治医の先生から、「続発性緑内障を起こしています。この目を抜きなさい」と言われた。最初は、何を言われたのか理解できなかった…。
左眼の眼球摘出後4ヶ月して右眼に炎症が再燃。絶望のどん底に落ちて悶々とした生活を送っていた時、母が言った「目はどげんねぇー」。私「どうもだめらしい」。母「私の目を一つあげてもいい」…。しばらく沈黙の後、母はこう言った「失明は誰でも経験できるわけではない。貴重な体験と受けとめてはどうか。それを生かした仕事をして、例え小さくてもいいから社会的に貢献しなさい」。
この言葉に刺激され、その後盲学校や中途失明者更生施設の教員となり、後進の指導にあたるようになった。
現在はシルクロード沿いのベーチェット病患者とも集いを通して交流を深めている。国が違っても病気は同じ。でも国が違うと受けられる医療は異なる。貧しい国では病気の治療どころか、痛さにも対処できない。こうした思いがあり、医薬品の海外送付等の援助など、小さいながら支援を続けている。その支援組織が「NPO法人眼炎症スタディーグループ」であり現在会員数も76名となっている。活動の3本柱は、情報発信、医薬品の海外送付、研究助成である。私たち法人の活動を理解してくださる団体や個人も徐々に増え、少しずつ活動内容も整ってきているのが現状である。
参考-NPO『眼炎症スタディーグループ』
http://hw001.gate01.com/ganen/index.html
【講師略歴:西田稔氏】
西田稔(NPO『眼炎症スタディーグループ』理事長)
1932年 福岡県生まれ
1956年 大分大学経済学部卒業 同年福岡県小倉市役所(現、北九州市)就職
1957年 ベーチェット病発症 その後入退院を繰り返し失明
1961年 国立東京光明寮入寮
1963年 日本社会事業学校専修科入学
1964年 光明寮と専修科同時卒業 同年大分県立盲学校教諭
1972年 国立福岡視力障害センター教官
1984年 同センター教務課長
1992年 同センター退職
1994年から1998年まで 国立身体障害者リハセンター理療教育部講師
2000年 第1回国際シルクロード病(ベーチェット病)患者の集い組織委員会副会長
2001年 NPO(特定非営利活動)法人眼炎症スタディーグループ理事長
その他
「お父さんの失明は私が治してあげる」主婦の友社.「寒紅」遺句集 ダブリュネット社.「小春日和」川柳、俳句、短歌集 いのちのことば社.映画「解夏」取材協力
演題:「シルクロード病(ベーチェット病)からの贈り物」
講師:西田朋美(眼科医、聖隷横浜病院)
【講演抄録】
ベーチェット病は、私にとって一番身近な存在だった。物心ついたときからベーチェット病で視力を奪われた父が目の前にいた。幼少時から、ベーチェット病という言葉は私の頭の中でしっかりとインプットされた。それと同時に、ベーチェット病は私にとって敵になった。この敵に立ち向かうには、医者になるしかないと思った。小学校の頃から、母は病気がちになり、時には炊事洗濯も姉妹二人の仕事になった。幸か不幸かそのまま医学部に進学した。医学部の最終学年時、たまたま友人に当時横浜市立大学に赴任されていた大野重昭教授(現、北海道大学大学院教授)がベーチェット病を専門とする眼科の教授だということを教えてもらい、大野教授の教室の大学院生になることが決まった。大野教授には、ベーチェット病の研究から米国留学、さらには第1回国際シルクロード病(ベーチェット病)患者の集いの事務局長まで大変貴重な機会を次々と与えていただいた。
現在、私は大学を離れ、聖隷横浜病院という横浜市内の病院で勤務を始めて2年目になる。新しい場所で、ロービジョン外来の充実化にコメディカルのメンバーと一緒に取り組んでいる。ロービジョン外来には、ベーチェット病のみならず、糖尿病網膜症、網膜色素変性症、加齢黄斑変性症など、さまざまな病気が原因で低視力となった患者さんが対象となる。この仕事には、幼い時から父を通じて私自身が体験してきた視覚障害者との触れ合いが大変役に立っている。また、国際患者の集いを通じて、国際的にベーチェット病の研究者や、患者組織との交流を持つことができている。
卒業試験・医師国家試験を終えたころ、出口のない苦しみの中にいた。そんな時、三浦綾子の本に出会った。何気なくみた最初のページに聖書の言葉があった。『さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」』(ヨハネによる福音書第9章3節) それまでは父が病気になって目が見えなくなって悔しいと思ったり、父のことを友人に隠そうと思ったことがあったが、父は別に悪い事をしたわけではない。先祖が悪い事をしたわけでない。これもひとつの宿命、運命なんだ。そう考えると、気持ちが楽になった。
私の敵であるベーチェット病は、むしろ私に贈り物をたくさん授けてくれているのではないか?と、今では思えるようになった。
【講師略歴:西田朋美先生】
西田朋美(眼科医、聖隷横浜病院)
1966年 大分県生まれ
1991年 愛媛大学医学部卒業
1995年 横浜市立大学大学院医学研究科(眼科学)修了
1996年 米国ハーバード大学医学部スケペンス眼研究所リサーチフェロー
1999年 済生会横浜市南部病院眼科医員
2000年 第1回国際シルクロード病(ベーチェット病)患者の集い 組織委員会事務局長
2001年 横浜市立大学医学部附属市民総合医療センター眼科助手
2002年 横浜市立大学医学部眼科学講座助手
2004年 横須賀共済病院眼科医師
2005年 聖隷横浜病院眼科主任医長
その他 「お父さんの失明は私が治してあげる」主婦の友社.映画「解夏」、「ベルナのしっぽ」医事監修
参考-:著書
「お父さんの失明は私が治してあげる 〜娘の顔も知らないお父さん、だから私は眼科医になりました」
著者:西田朋美・西田 稔・大野重昭
発行:主婦の友社
定価:本体1700円(税別)
ベーチェット病で30歳で失明された西田稔氏。父を支える母のため、父の目に再び光をと眼科医を志した娘、西田朋美氏。ご家族の絆と、ベーチェット病への思い、障害を持って生きる意味についてつづられています。また、ベーチェット病の研究をされている北海道大学大学院研究科視覚器病学分野教授の大野氏が病気の謎を追って世界中をまわられた過程から、ベーチェット病をわかりやすく解説してくれています。ベーチェット病の人もそうでない人も、生きると言う意味を考えている人に、是非読んでいただきたい一冊です。尚、この本の売上の一部は眼疾患患者の為のNPO法人設立の為に寄付されます。
【後記】
県内外から120名を超える聴衆が集りました。西田稔氏の講演では、治療法のない場合の、医師と患者さんの対応について考えさせられました。西田氏の一言、残りました「困った時ほど、相手の事がよく見える。頼りにしていた人が案外だったり、その逆もあったり」。
講演終了後、会場から様々な質問がありました。「お母さんのことについて教えて下さい」という問いに西田朋美先生は、「失明していた父と結婚した母は、障害を持つ人を決して差別しない人でした。そしていつも偉くなってもえらぶる事のないよう、『実るほど頭を垂れる稲穂かな』が大事だよと語る人でした」と答えたのが印象的でした。
講演の後で、西田稔氏の「小春日和」を読ませて頂くと、幾つもこころに残るものがあります。「娘二人盲(めしい)しわれを導くを 何のてらいも無きが幸せ」「留学の娘の電話受くるたび 『食べているか』とまずは尋ぬる」「医師も人間看護婦も人間 ベットのわれもまさに人間」「真中に枝豆おいて乾杯す 妻の遺影もここに加えて」「失明を幸に変えよと母は言い 臨終の日にも我に念押す」
「お父さんの失明は私が治してあげる」の中に、以下の一節があります・・医者であり、患者の家族という私のような立場の人間を他に知りません。そうした意味では祖母が父に言って聞かせた言葉にあるように、私に与えられた貴重な体験を生かして、社会に貢献できることがまだまだあるはずです。貴重な体験を生かさなければ神様に申し訳ないという感じがします。この先どこまでできるかわかりませんが、ベーチェット病を核として、うまれたときからベーチェット病を見てきた私の貴重な体験を生かして、世の中に還元できる道を模索していきたいと思っています。父が視覚障害者だったからこそ、医師になれたのですから(西田朋美)・・
素晴らしい親子愛を育み、それにとどまらず、世界中の患者さんに貢献している素敵な親子に巡り合えたと感動しました。西田親子の今後益々の御活躍と御発展を、期待しかつ祈念致します。
【後日、西田朋美先生からのメール】
私は、いつも思うのですが、生まれたときから目の前にいたのがすでに全盲の親だったので視力を失っていく過程を見ていません。それをみていたのが、祖母だったのだと思いますが、当人以外で一番大変だったのは、祖母だったのかなと思います。 私の記憶に残っている祖母は、ただならぬ人だったと思います。いつも明るく気丈で、かといって猛々しい所がない人でした。わが祖母ながら、とても真似できないですね。明治生まれの女性は、やはり強いのかもしれません。
平成18年10月11日の勉強会の報告
安藤@新潟です。
第127回(2006‐10月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:『人はなぜ働くか』
講師:横山芳郎(内科医、新潟市)
【講演要旨】
「働くということ」
ヒトは生まれながらは、絶対の自由を持っているが、生物として生きるためにはほかの動物と同じく働かなければならない。それは生きるものの業(ごう)であるが、そのためには自分の本来持っている自由を切り売りして生活しなければならない。
*『梁塵秘抄』平安末期、後白河法皇(1127-1192)が編んだ歌謡集
遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ
人間が遊びや戯れをするためだけに生まれてくるのではないのは、重々承知している。人間はもっと重い、長くて苦しい道のりを歩まなくてはならない存在であるけれど、だからこそ、遊び戯れる子供の声の可憐さに、そのいとおしさに、自分の身体も一緒に動いてしまう。
子供が歌っているのを聴けば、一緒に歌いたくなってくる。本当は、働かずに悠々と人生を楽しむのがいい。こういうことを実現したのは、かつては托鉢・ヒッピー族、今ではホームレス・ニートと言われる人達がいる。
*ヒッピー族(1967)−「自然に帰れ」をモットーにアメリカで現れた若者達。時として反体制的な行動をとる。長髪、ひげ、ジーパンスタイルが一般的。日本では思想は二の次で単なる風俗としての傾向が強かった。
「GAP YEAR」
ギャップ・イヤーとは、そもそもイギリスの高校卒業後、大学入学資格を保持したまま1年間遊学することができる制度。その間は高校生でもなく、大学生でもない存在として旅行に行ったり、ボランティア活動をしたりする。ダーウィン(生誕200年)は5年間のギャップ・イヤーとでも言うべき時間を過ごして、イーグル号に乗り込み進化論の端緒をガラパゴスで発見したりした。 時間的に空間的に余裕がないと創造性は生まれない。
「何故、economical Richになりたいか」
仕事が恒常化すれば職業となるが、職業によって蓄財するという現象が起きてくる。なぜそんなことが起きてくるのか?蓄財するということは、飢饉や社会変動から身を守ることから始まった。では限界を超えて過剰に蓄財するようになったのは、何故か?
生物は本能的に、自分の遺伝子をいい配偶者を介してよりよいものにして、子孫に受け継がせたいと願い、いい配偶者を得たいと思っている。economical Richはそうした願望の具現のための一つの手段である。
「いい配偶者を得るために」
お洒落をして身をかざす、学者は知識をひけらかす、軍人は胸一杯に勲章を付けたがる、商人は財力を誇る、役人は地位や名誉を宣伝する、、、、これらはいずれもいい配偶者を得るための行為の一部である(蓄財とは性欲のメタモルフィー;変形である)。老人になってもこの衝動は大脳に残る。 しかし、、、、実際には、人間はsome moneyさえあれば生きられる。
「退屈も常時発情も大脳の発達による」
爬虫類や鳥類は生きるための脳(視床脳)のみであるが、哺乳類は視床脳の外側に考えるための脳(大脳)が発達している。「退屈」という感覚が生じ、それをしのぐために「働く」という意識が芽生えてきた。
*「キレル」〜視床脳の反応。大脳でのコントロールが出来ない。
動物は生殖時期に発情するが、ヒトは大脳が発達し「退屈」しのぎに生殖行為をするようになった。遊び感覚で退屈をしのいだ。
「退屈の意義」
パスカル曰く「人間の不幸は、自分の部屋にじっとしていられないことだ」。
ショーペンハウワー曰く「もし人間があらゆる苦悩や苦悶を地獄に追いやってしまったら、その後に天国のために残っているのは退屈だけだ」。
退屈の概念からすると、遊び、勉強、芸術、仕事、これらはただ時間を埋めるという意味では、同価値のものである。
「拝金主義にどう対処するか」
「勝ち馬に乗れ」「会社のために働け」、、、自分や家庭を犠牲にして働いても、一部の勝者と多数の敗者を生むだけである。人間はsome moneyさえあれば生きられる。働くにしても「生き甲斐」が尊重されるべきである。新しい潮流として「スローライフ」も注目される。
*スローライフ
20世紀は「早く、安く、便利に、効率よく」スピードを追求して発展した世紀でした。ファストフードが全盛となり、人の移動も高速化、学歴社会化も進みました。スローなこと、ゆっくりとしたことにはマイナスのイメージがつきまとっています。その中で大量生産、大量消費が実現、一定の経済的な繁栄を遂げたが、人間性の喪失、環境の破壊、地域の衰退などの問題が新たに生まれた。その反省から、21世紀は人間性の回復、地域の価値の再評価などをめざして「ゆっくり、ゆったり、心ゆたかに」というスローライフをキーワードにしてゆこうとする動きが見られる。
「坂口安吾の堕落論より」
敵は、天皇制、武士道、宗教、耐乏の精神……。旧来の権威が「健全なる道義」として制度化してきたものすべて。「道義」は人に清廉で美しいままに死ぬべしと説き、人の心を嘘の縄で縛る。欲しいものを欲しいと言い、厭なものを厭だと言う、きわめて人間らしいことが「堕落」として否定される。「生きよ堕ちよ」の叫びはここから生まれた。「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」
「江戸の『いき』とは」
名誉や財産に拘らず、「きりっ」と生きていこうという生活感覚。日本人の諦観から生まれた。人間は「生まれたときに、もう執行不定期な死刑囚」と言われている。冥土へも持っていかれぬもの、ヒトは何故せっせと蓄財し、名誉が欲しいというのだろうか。江戸人の「いき」という生活心情、意義深い。
「職業奉仕とは」
仕事を天職と感じて、誇りを持ち、心に花を持って、商売すれば、客を喜ばせ、自分も気持ちがよく、最終的には適当な報酬が得られる。 実際には、、、、、現在の社長さん(特に大企業では)は、こんなことは困難。医者も個人的には天職と感じて仕事しようとするが、病院長は管理者として経営的な視点も必要となってきた。
「professionalということ」
中世の英国では、プロフェッショナルprofessionalということと、金儲けworkingfor taskは区別していた。professionalと目された職業は、神学・法律学・医学に携わるものであった。医者は、病人を救うことが天職。職業奉仕という概念は、学生の頃から身に付いていた。
【横山芳郎先生:略歴】
昭和30年 新潟大学医学部卒業
昭和35年 同大学院終了(第二内科)医学博士
昭和大学医学部臨床病理学 講師
新潟大学医学部第三内科 講師
昭和44年―平成6年 内科開業(新潟市)
以来、フリーランス内科医として江戸文物の研究、著述のかたわら、猫山宮尾病院、さいわいリハビリクリニックなどで勤務
平成18年 新潟保健医療専門学校校長となる
http://www2s.biglobe.ne.jp/~edomedic/
HPに以下の記述がありました。
新潟市在住 横山芳郎 75歳.平成18年7月19日. 発行. 年に3-4回のHP発行を目指しています。
内科医は今や「何にもないか(内科)」になり、「漫才師(まんざ医師)」に成り果てました。もっぱら江戸文物の研究と著述を本職にしています。この歳になっても、いろいろな働き口を世話してくださる人があり、まったく退屈な余生はありません。
ありがたいことです。まあ「まったり、まつたり」と「スローライフ」の江戸町人の生き方、元気で楽しく仲良くをモットーにしてやっています。
横山芳郎先生 著書
1)「医者はヤブ医者」 \1050、1989/03発売、郁朋社
2)「水のめ医、がまんせ医」 \1680、1999/02発売、考古堂書店
3)「介護医は考える 老いても若さを失わないために」 \1260、2001/09発売、考古堂書店
4)「江戸の華〜21世紀を江戸時代に」 \1801、2004/09発売、考古堂書店
5)「魂膽夢輔譚(こんたんゆめすけばなし)」 翻刻 小竹とし 翻刻脚注 横山芳郎 考古堂書店
【後記】
本当は働かず悠々として楽しむべき、、、、、 「働くことは尊いもの、我慢しても働くべし」と、教わってきた私には少し衝撃的な内容でした。 GAP YEAR 確かに日常を離れて、海外などで時間を過ごすといろいろな思考が生まれくることは、留学のときに経験しました。 退屈の概念が生まれて、退屈しのぎに仕事するという観念が湧いてくるという理屈、面白いと思いました。
安吾の堕落論、調べてみました、、、、、、「堕落論」を発表したのは、日本がポツダム宣言を受け入れた翌年で、天皇の「人間宣言」と同じ1946年。安吾の命がけの戦いは、太平洋戦争が終わったこの時から始まったのでした。「堕落論」、もう一度読んでみようと思いました。
最近、「いき」な人にお目に掛かりません。なかなか現代のように世知辛い中での生活では体験出来ない感覚ではあります。
『some money』『スローライフ』『いき』等の単語が記憶に残り、ふと良寛様のことを思い出しました。
【後日、横山先生からのメール】
働くことは人生に意味はないと否定した上で、いやいや「虚空に駿馬を放つ」ような、人生の本質を肯定するのが私の話の結論だったのですが、時間切れでそこまで話せませんでした。講演後の皆様の感想をお聞きして、「職業の否定に多くの疑問を持った」という方が多く、結論は皆様の心のうちにあると考え安心いたしました。
平成18年9月13日の勉強会の報告
安藤@新潟です。
第126回(2006‐09月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:『盲導犬と歩いて広がった友達の輪』
講師:岩崎深雪(新潟市岩室温泉)
【講演要旨】
私は新潟県中魚沼郡岩沢(現在は小千谷市)に、6人兄弟の末っ子として生まれました。生後5日目に役場に務めていた父が病死。村長が名付け親になってくれました。その年は電線をまたいで歩くほどの大雪で、「深雪」という名前を付けてもらいました。母一人で6人の子供を抱え、貧乏でした。
私は生まれつき視力が不良(網膜色素変性)で、兄も同じ病気でした。村の小学校に入学。良くは見えませんでした。1・2年生の頃は、担任の先生がよく気を付けてくれて、明るい窓際の最前列に席があり、黒板の文字も見えましたので、何とか勉強についていく事が出来ました。3・4年生の頃は、廊下側の席で暗くてよく見えませんでした。
「あきめくら」と、よく虐められました。今でも忘れられない3つの事件があります。小学校2年の頃、「弁当事件」がありました。男の子2人と女の子2人が私の机を囲んで、「この弁当を食べろ」というのです。今まで食べたこともない美味しい焼き魚に卵焼き、、、絶対に家の弁当でないと判っていたので、食べないと言い張ったのですが、友達は許してくれませんでした。いやいや食べ終わると、職員室に呼ばれまし た。弁当を作ったおばさんは、担任の先生とおろおろしている私に、「オレは、お前のことは怒らない。お前に食べさせたあの子達を叱ってやる。先生も子のこのことは叱らないでくれ。」と言ってくれました。
「松ヤニ事件」もありました。当時松ヤニをガムの代わりによく噛んでいました。友達はおしっこをかけた松ヤニを「食べろ」と迫ってきました。必死に拒みました。耳を澄ますと人の気配がしました。わざと大きな声で泣いてみせました。すると村の人が現れて、「またお前達が虐めているな!」と怒ってくれました。村の人たちはいつも自分を守ってくれました。
どんなに虐められても、母には言いませんでした。でも靴を川に捨てられた時は、さすがに裸足で帰った私をみて、母は事情を問い質しました。友達に靴を川に捨てられたと告げると、母はその子の家に行き、その子とその子の両親と一緒に、川に行き靴を探しました。暗くて冷たい川でした。とうとう靴は見つかりませんでしたが、とっても母が強く、そして頼もしく感じました。
小学校4年の時、新潟盲学校への転校を勧められ福祉事務所の人と、母が見学に行きました。小学校五年の時に転校しました。そのころ村は小千谷市と合併し、転校に必要な物は全て市が揃えてくれました。盲学校では、一人で掃除や洗濯など身の回りのことは出来るようになりました。
あんま・マッサージ・指圧師の免許を取得、17歳で盲学校を卒業、長野県野沢温泉に就職しました。あんまり若かったので20歳といいなさいと言われたのを覚えています。20歳の時に新潟県の弥彦村に転居、22歳であんま・マッサージ・指圧師・鍼灸師の主人と結婚して佐渡に渡りました。佐渡では、「かまど」を使っていましたが、私はガス釜と電気洗濯機を買って使いましたが、「洗い」は洗濯機、川で「すすぎ」、そして「干す」という毎日でした。23歳で長女を産み25歳の時、長男が生まれました。風呂は銭湯でした。なるだけ一番湯を心掛けていました。ある時混んでいる時に銭湯に行き、よその子の手を引いて出てきた事がありました。
子どもを一人生むたびに視力が下がり、長男を産んだ後に一気に下がったときのショックは今も忘れません。朝起きて曇っているものだとばかり思って外に出たら、お日様が照っていると聞かされました!!視力が下がったことを知ると同時に日中も白杖をつかなくてはならないのかな?と思うようになりました。夜は何の抵抗もなしに白杖をついていましたが、日中はどうしても白杖がつけませんでした。理由の一つに子どもたちへのいじめがあったら・・・ということが頭にこびりついていたからです。27歳の時、佐渡から新潟の岩室に引っ越しました。転居がきっかけで転居と同時に白杖をつきました。案の定、岩室では私と子どもたちが土地の子どもにからかわれてずいぶん悔しい思いをしました。我が家の子どもたちが小さかったこともあり、からかわれている意味が分からず負けずに言い返していたことが私たち夫婦には救われました。
かつて弥彦に住んでいましたので土地カンはありました。岩室で仕事を探すため、夜子供が寝てから夫婦二人で探検に出かけ、旅館を一軒一軒回りながら場所を覚えました。28歳の時、長男が交通事故で入院し、40日間付添、以来専業主婦になりました。3人の子どもが就職するまで専業主婦。
40歳の頃、友人の上林洋子さんに、関良介さんのパソコン説明会に誘われていったのがきっかけで、パソコンというものと漢点字を知り、仲間と一緒に夢中で勉強しました。DOSからWINDOWSにと、どうにかこなせるようになりました。
50歳の時に、長男が結婚して同居するようになりました。その後夫が体調を崩して仕を辞めてしまい、それを期に夫の贔屓だったお客さんを中心に仕事を再開しました。仕事を始めるようになり、外出する機会が増えました。このころに私の視力もほとんどなくなりました。
上林さんが盲導犬を連れているのを知り、私も欲しくなりました。57歳の時に遂に夫を説得して、盲導犬を申し込みました。平成15年11月、4週間訓練所に泊まりこみして盲導犬 ファビーを手に入れることが出来ました。夫は仕事を辞めてから、家に引きこもりがちでしたが、ファビーが来てからは生活が一変しました。毎朝ファビーと一緒に夫婦で3キロ弱の部落を一回り30分くらいで、会話をしながら散歩します。外での活動も増えました。盲導犬ユーザーの会、ハーネスの会の行事への参加、お茶の間サロン、指編み、、、。一昨年に障害者週間記念イベント「みんな違って、みんないい〜西蒲地域助け合い・支えあい・共生フォーラム」の実行委員として参加させていただき、500名が集いました。昨年も成功し、今年も続けてやろうということになり、現在はその準備で忙しくしています(下記*参照下さい)。
ファビーと歩きながら、いろんな人たちとのふれあいを楽しんだり、パソコン教室に通いながら情報交換をしたり、ウォーキングで汗を流したり、編み物やカラオケと思う存分楽しんでいます。
*『'06第3回たすけあい・ささえあい・共生フォーラムinにしかわ』
目的&スローガン
“しょうがい”の有無、“しょうがい”の種別、年齢の違いを乗り越えて、誰もが暮らしやすい“まち”を作る為に、みんなで話し合おう!
日時:12月9日(土)12:30〜16:30
場所:新潟市西川多目的ホール・西川学習館
連絡先:障害者生活相談室「わぁ〜らく」竹田一光
〒959-0423 新潟市旗屋311番地
п@0256-70-4044 FAX 0256-88-5044
E-mail: waaraku@apost.plala.or.jp
【岩崎深雪さん略歴】
生まれつきの弱視(網膜色素変性)。村の小学校に入学し、その後小学5年生で新潟盲学校に転校。昭和37年に、あんま・マッサージ・指圧師の免許を取得、長野県の野沢温泉に就職、その後弥彦に転職。昭和42年に、あんま・マッサージ・指圧師・鍼灸師の主人と結婚して佐渡へ。昭和47年に現在地に移住。3人の子どもが就職するまで専業主婦。
平成6年頃に主人が体調を崩し仕事を引退。その後、私が仕事に復帰して平成15年に盲導犬ファビーと出会い、私の不注意から右手首を骨折し、それを期に引退。
新潟県視覚障害者福祉協会、新潟県盲導犬ユーザーの会、新潟・盲導犬ハーネスの会、新潟県視覚障害者友好協議会にそれぞれ所属。
平成18年8月30日の勉強会の報告
安藤@新潟です。
第125回(2006‐08月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:『コーチングによる視覚障害者のQOL改善の可能性』
講師:小野眞史(日本医科大学眼科;講師、認定コーチ)
【講演要旨】
専門は、角膜の疾患、特に、シェーグレン症候群やドライアイですが、最近は脳における情動の変化を客観的に評価することにも興味を持っています。
今回、『コーチングによる視覚障害者のQOL改善の可能性』というタイトルでお話しますが、最初にお話したいことが2つあります。一つは、「第6の原則」。すなわち、、、、ものごとをあんまり気難しく考えるなということです。二つ目は、「ビジョン」がロービジョンケアには大切ということです。
この夏、新潟ロービジョン研究会2006の翌日(7月31日)、東京でベン・サンダースさんというボストンフィルの指揮者による、コーチングの講演がありました。情熱的な3時間半ぶっ通しの、同時通訳、アマチュアチェリスト、弦楽四重奏団指導風景などをもりこんだ、すごい講演でした。受講者はコーチ1300人、テーマは「ビジョン」でした。この講演会を聞いて、ロービジョンケアにおいて大切なことは、患者様とその家族の「ビジョン」を信じ、行動することではないかということでした。
患者様が明るい「ビジョン」(可能性、夢、あるいは希望)を持ち、周囲のものは、それを共有し、実現に向けて共に努力することと感じました。
「コーチング」とは?
http://www.coach.co.jp/whats/c_basic/
近年様々な分野で用いられる多いコミュニケーションスキルです。コーチとはクライアントの人生の目標を達成する際の強力なパートナーと例えることができ、スポーツでは古くよりその言葉も知られていますし、昨今ではN自動車の再建にあたりすべての管理職、マネージャークラスにコーチをつけたことも知られています。
重度の神経難病患者さんに対しても、一回30分、週に一回の電話によるコーチングが患者QOL改善に効果があることが、自分も参加した2004年厚生労働省の難治性疾患克服研究事業の研究で示されました。
コーチングの基本
1)「答え」は全てクライアントの中にある、2)効果的な質問で「答え」を引き出す、3)100%クライアントの味方になる、4)双方向のコミュニケーション、5)テーラーメイドである(個別性)、6)オンゴーイング(継続性)
3つのC コーチングは、カウンセリングやコンサルティングとどう違うか?
コーチングはカウンセリングではありません。カウンセリングは主に過去を扱い、さまざまな事柄について深く掘り下げて行きます。またコーチングはコンサルティングとも異なります。コンサルティングは、一般的にクライアントに答えを与えるものだからです。
コーチングは、行動をベースにしており、主に現在と未来に焦点を当てています。コーチングを通して、クライアントが自分自身で答えを見つけることを可能にします。
視覚障害者は、コーチングに向いている
視覚障害者に出来ないこと、出来ることは何でしょう? 出来ないことも、もちろんあります。でも視覚障害者の長所は、音が良く聞こえる、話をよく聴くということです。最近の脳科学の研究から、大人になっても頻繁に使われる大脳の領域が発達することが判ってきました。そのことから考えても視覚障害の方の聴力や話を聞きだす能力が高い可能性があります。
実際のコーチングは一日に30分電話でクライアントと話をするだけです。視覚障害は何のデメリットにもなりません。むしろ将来の視覚障害者の職種として、コーチングは有望であると感じています。
現在のプロジェクト 〜 アリスプロジェクト
現在我々は、コーチの仲間と一緒にボランティアで視覚障害者の方々に対し「アリスプロジェクト」というコーチングのプロジェクトを行っています。視覚障害があってもこの電話によるコーチングにはほとんど影響がありません。「アリスプロジェクト」には3つの目標があります。一つは現時点でのQOL改善、もう一つは障害者の方を職業コーチにしていくこと、最後の一つはボランティアでコーチを受けた人が次のボランティアのコーチになっていくというものです。まだまだ模索している段階のプロジェクトですが、ロービジョン外来などに携わる方々の問題のいくつかを将来的に解決できる可能性があるものと考えています。
*アリスは、視覚障害者である早川美奈子さんの盲導犬の名前です。
http://www.coachingcore.jp/projects.htm
「ここで出会ったのも何かの縁」。アリスプロジェクトでこれから育つ視覚障害者のひよこコーチ達から次の世代のコーチへの縁になって欲しい、、、可能であればクライアントとして、ひよこコーチのコーチングの相手になってもらいたいと願っています。
【小野眞史先生略歴】
1980年3月 慶應義塾大学工学部計測工学科 卒業
1986年3月 東海大学医学部医学科 卒業
1986年6月 慶應義塾大学医学部眼科学教室 研修医採用
1989年1月 南多摩病院眼科 医長
1992年7月 米国Harvard大学眼科Schepens Eye Research Institute およびMassachusetts Eye and Ear Infirmaryに留学
1994年7月 東京歯科大学眼科学教室 助手
1997年10月 東海大学医学部眼科学教室 講師
2002年4月 東海大学医学部付属東京病院 眼科医長
2005年4月 日本医科大学眼科学教室 講師
【追記】
コーチング、魅力的なテーマでした。これから少し勉強してみようと思いました。
特に視覚障がい者に向いている職種であるというご意見に、なるほどと合点しました。
本勉強会では毎年7月に新潟盲学校の方々に来て頂き弁論大会(新潟盲学校弁論大会 イン 済生会)を行っています。どの弁士も共通して訴えることがあります。それは「人のために何かをしたい、何か役に立ちたい」という思いです。今回のお話を聞きながら、彼ら彼女ら新潟盲学校の生徒さん(親爺の方もおられましたが)の顔が浮かんできました。
尚、アリスプロジェクトに興味のある方、特にアリスプロジェクトでこれから育つ視覚障がい者のひよこコーチ達からコーチを受けたいと思っておられる方、アリスプロジェクトの早川美奈子さんにメールアドレス公開の許可を頂きましたので、下記に連絡してみて下さい。
アリスプロジェクト 早川美奈子さんのメールアドレス
minakopan@yahoo.co.jp
平成18年7月19日の勉強会の報告
安藤@新潟です
第124回(06‐7月)済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。
『新潟盲学校弁論大会 イン 済生会 2006』
盲学校で学んでいる生徒たちの新鮮な主張
1)「将来の夢」 中学部2年 神田 将
【講演要旨】
私は小学校の頃は、消防士になりたいと思っていました。恰好がいいし、人の役に立ちたいと思っていたからです。今は盲学校の先生になりたいと思っています。夢を持てる仕事ですし、生徒の成長を感じることが出来るからです。
そう思った理由は自分のことを真剣に考えてくれる先生に出会ったからです。割り算を根気よく教えてくれました。その優しさに応えたいと思いました。英語か、理科の先生になりたいです。私には理想の教師像があります。一つは、実際に触ったりして判り易く教える。二つ目は、優しく教えるです。
盲学校の先生になるためには、高校・大学に進学し、教員採用試験を通らなければなれません。そのためには毎日しっかり勉強すること、点字を覚えることが必要です。夢の実現に向けて精一杯努力します。
【盲学校の先生から】
指導者から聞くところによると昨年からテーマをしたためていたとのこと。また、あのまとまりのある長い文章もほとんど指導の手が入らずにまとめ上げたとのこと。それほどの強い思いがあって、聞き手に思いがよく伝わったのだなと感じました。周囲にとても気配りをし、何事にも熱心に取り組む人柄がよく表れていました。とても控えめでおとなしい性格ですが、堂々とした発表態度にとても感心しました。いい先生になることまちがいなしです。
【追記】
熱心に教えてくれる先生に憧れ、将来は学校の先生になりたい、、、、純真な気持ち、素直に表現出来ることに心打たれました。未熟児網膜症でかつて、私が大学で治療したということを、後でお母さんからお聞きしました。10数年ぶりの嬉しい再会でした。
2)「周りを見つめて」 高等部普通科1年 京 円香
【講演要旨】
最近、道を歩いていると、地べたに座る人々、点字ブロックの上の駐輪・駐車などに出くわします。こうした状況を改善していくために自分自身ができることは「アピールすること」です。
私達視覚障害者にとって「音声信号」は大事ですが、近隣の方々の安眠妨害になっているという苦情があるということを聞きました。問題の根本的解決のためには、社会全体が「互いに思いやる心」を持つことが大切だと思います。
【盲学校の先生から】
実体験のなかで自分を見つめ、社会への投げ掛けをしていました。彼女は視野が狭いのですが、それ故知らない人からは一見よく見えていそうにも誤解されがちです。見えにくさと見えることが共存する視点から、社会と向き合っていることが感じられました。京さんもまた控えめでおとなしい性格ですが、とても周囲に気配りをする優しい心の持ち主です。そんな彼女の投げ掛けに、逆に響く力を感じました。
【追記】
とても素直で優しい方でした。自分の主張をするだけでなく、相手の事も気遣いながら、社会的な問題に、自分との係わり合いを模索しようとする姿勢を感じました。
3)「先生からの金メダル」 高等部本科保健理療科1年 杉山 利明
【講演要旨】
この春からの2度目の高校生活を始めるに当たっての決意表明。20年前高校1年で中退しました。当時、柔道部に入っていましたが、タバコを吸っていました。顧問の先生と柔道の稽古で寝技をしていた時、タバコの臭いが判ったのでしょう、ゲンコツをもらいました。
色々な事があり、高校を辞めて仕事をみつけて働きました。2年後、当時の同級生が卒業の日、柔道部の同級生が「金メダル」を携えて仕事場に来てくれました。3年間柔道部を頑張ったものだけに、顧問自身が作成して与えてくれるメダルでした。その時初めて高校を辞めたことを後悔し、顧問の先生に感謝しました。
顧問の思いに報いるために、懸命に勉学に励み、資格をとって社会に貢献したいと思います。
【盲学校の先生から】
7月7日(金)の関東地区大会で杉山利明さんが13名中3位になりました。普段の姿が弁論そのものという感じで、とても前向きでさわやかで明るい人柄です。何やら複雑な経歴の持ち主のようですが、きっとそんな経験が今を豊かにしているのかなとも思いました。抱える病気としっかり向き合いつつ、明るくも芯のぶれない意志の強さが感じられる弁論でした。原稿も見ずにあれほどすらすら言えるものなのでしょうか。陰の努力を惜しまない方です。
【追記】
高校中退、糖尿病網膜症で失明と幾度となく挫折を味わいながら、明るくいきいきとしている姿が眩しく見えました。
3人とも、とても一生懸命に弁論してくれました。私たちが忘れかけていた純な気持ちを思い起こしてくれた熱いメッセージを聴き、活力を頂きました。
平成18年6月14日の勉強会の報告
安藤@新潟です
第123回(06‐6月)済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。
演題:『「患者になる」ということ』
講師:櫻井浩治(精神科医;新潟医療福祉大学教授)
【講演要旨】
「チボー家の人々」(マルタン・デュ・ガール)のお兄さんアントワーヌは小児科であったが、手術もした。困っている人を助けるその姿に憧れて医者の道に進んだ、と櫻井先生は自らのことから話を始めた。
「患者になる」ということは、どのような内容であれ、それまで健康であった心身の状態を失うことである。医者や医療従事者にとっては診療は毎日の業務であり、当然の日常茶飯事のことであっても、患者にとっては、全てが初めての未知の体験でもある。患者はおどおどして、また様々な不安を抱いて病院を訪れる。
健康を失うことは、「喪失体験」に繋がる。「喪失体験」とは、自分のもっとも頼りにしているもの(人物、住居、土 地、職場、役割、ペット、金銭、愛玩物等)を失う体験。人は皆、小さい頃から様々な「喪失体験」を各自の方法で乗越えて成長している。
患者になることは、健康の喪失(一次的喪失体験)であり、「入院しなければならないこと」「家族と離れて暮らすこと」「職場を休むこと」「収入がなくなること」等は、二次的喪失体験を意味する。
慢性腎炎から腎臓機能を失って、人工腎臓に頼って生命を維持せざるを得なくなった「人工透析患者」の、その初期の人たちの精神症状には色々なものがある(人工透析に伴う精神症状は櫻井先生の博士論文のテーマ)。
否認(自分はそんなに悪い状態ではない)、自分の血液が体外に出て行くことへの不安、等々。余談であるが、「チボー家の人々」のお父さんは、尿毒症になり痙攣発作等の精神症状が現れたことが記されている。
「人工透析」を必要と話された時、次のような不安が生じる。大変なことになったという不安、機械によって生かされる不安、医療スタッフへの不安、家庭生活や家族への不安、経済上の不安、社会的立場への不安、予後の不安、死への不安、などなど。そのために、3分の1の人は、後でこの時のことを覚えていない、と言う。患者になった時の反応と行動の一般的な特徴として〜病気への不安、身体にこだわり、現実への検討能力の弱まり、衝動や情動の統制力低下、全てを表面的に処理しようとする。
具体的行動は、以下の3つのタイプに分類できる。1)感情的動揺を知的レベルで防衛、2)挫折感があり、感情の混乱が起こりやすく、イライラした反応、3)反応を表出できず、ぼんやりとし、知的障害を思わせるような状態。こうした反応は、人工透析という機器に頼った生命維持という、当時では未知の医療がもたらしたものと思われた。
病院を受診した患者の心理と行動は、以下のように分析することが出来る。
1)外来受診するまで:仕事が忙しいからとか、何かと理由をつけて受診を引き延ばす(合理付けをする)。
2)外来診察時:精神的狭窄、決断力の不安定さ、理解力の低下、情動調整の困難⇒戸惑い、のろさ、間違いやすい⇒自律神経反応(血圧上昇、脈拍増加、手のひらの発汗、筋肉のこわばり、尿意等。
3)検査時:不安、恐怖と緊張 ⇒ うろたえ、説明の聞き落とし、自尊心が無視される思い⇒検査担当者の言葉に敏感。
4)検査の結果と治療:不安と安堵 ⇒ 病気が重ければショック(呆然)⇒否認⇒様々な心の動きを経て受容(受容しきれない人もいる)。
入院時:1)〜4)までの連続⇒退行反応(周囲の人が心配してくれる→周囲の人に依存しながら生きていく)。
こうした患者の心の動きを、医師や看護師はどこまで理解しているのか?「どうして今までほっといたのか」という医師の言葉が、どれだけ患者の気持ちを切なくさせるか知っているだろうか。患者は自 分の悩みを医療関係者に知ってもらいたいと思っている。しかし一方で、判るはずがないと思っている。患者の信頼する情報は、先輩の患者からの情報であることが多い。
賢い患者であることも大事。
医者は大勢の患者を診て、その中の一人として、一人の患者の診断し,治療するする。患者個人を診てもらうように医者を導くのは患者の知恵。勇気を持って訊ねることだ。時には医者の心理や立場を読むことも必要かもしれない(今日の先生は機嫌が悪い、きっと奥さんと喧嘩でもしたのだろう)(待たされるが,よほど難しい人を診ているのかもしれない)。
「患者様」という呼び方は、却って医療従事者と患者の間に溝を作ることになっていないか?そもそも同等であるということは、どういうことなのか?実際の治療においては、「信頼する」ことは大切なこと。医療関係者は、治療のプロであるという意識を持つことも必要。
患者となった時に、不安になる、怒る、、、ことは恥ずかしいことでなく、自然なこと。時には病を得たことの「運命」に怒っていることもある。家族や医療従事者は、患者の愚痴を聞いてあげること、一緒に考えて、悩むことが大切。 なぜなら、医療従事者と患者は共に戦う同士であり、戦友であるからだ。
【櫻井浩治先生略歴】
新潟県西蒲原郡分水町地蔵堂に生まれる。 新潟大学医学部卒業後、「心身一如」の医療を主眼とする心身医学に関心を持ち、慶応義塾大学医学部精神医学教室に入局。後に母校にもどり、付属病院、保健管理センターに勤務、医療技術短期大学部部長、医学部保健学科長を経て、平成13年定年退職。現職は新潟医療福祉大学教授。
新潟ターミナルケア研究会設立メンバーの一人。平成10年に第39回日本心身医学会総会会長を勤める。 医学博士。新潟大学名誉教授。
趣味は麻雀、俳句、絵画、読書。そしてスポーツ、流行歌のテレビを観ること、など。 一般向けの著書としては句集「独楽」「精神科医が読んだー源氏物語の心の世界」
「乞食(こつじき)の歌ー慈愛と行動の人良寛ー」(考古堂刊)
【追記】
「患者になること」の大変さは、自分があるいは家族が患者になって初めて実感します。 病気になっても完全に回復し元通りに治ることを信じてやまない患者さんに対し、治療の限界を冷静に話す自分がいます。そして、いざ我が身があるいは家族が病気になると、完全に元に戻ることを期待している自分がいます。
医師と患者のコミュニケーションを上手く図るために、医療従事者は、病院にいる時の患者さんの戸惑いを感じ取りながら診療を進めることの重要さを、もっと意識するべきであるという櫻井先生のお話、納得してお聞きしました。そして、患者サイドも、よく診てもらうように智恵を働かせてはどうかというくだり、感心して拝聴しました。
患者さんの愚痴を聞くのも大事な仕事、でも医療関係者であるならば、治療のプロであるという意識を持つこと、絶えず努力することが大事であるというメッセージ、重く受けとめました。
平成18年5月10日の勉強会の報告
安藤@新潟です
第122回(06‐5月)済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。
演題:『カタカナ語で見る視覚障害者のリハビリテーション』
講師:清水美知子(歩行訓練士)
【講演要旨】
「『リハビリ』と『リハビリテーション』は同じですか?違いますか?」と清水さんは語り始めた.勉強会に参加した多くの人は、同じと答えたが、中に『リハビリ』は身体的な機能訓練をいい、『リハビリテーション』はもっと広く人間の尊厳まで意味すると答える人がいた.そこで「『リハビリテーション』の意味するところは?」と、清水さんは語り出した.
1965年当時は、リハビリテーションは運動障害の機能回復訓練を意味していた(注1:厚生白書《昭和40年・1965年》).1981年頃になると、運動障害の機能回復訓練のみでなく、人間らしく生きる事が出来るようにするための技術及び社会的・政策的対応の総合的体系と捉えるようになってきた(注2:厚生白書《昭和56年・1981年》).しかし、平成16年1月の「高齢者リハビリテーションのあるべき方向」の冒頭で「リハビリテーションは単なる機能回復訓練ではなく、..」と述べていることからも分かるように、わが国ではリハビリテーションといえばリハビリ=機能回復訓練との認識が一般的であったといえる(注3:高齢者リハビリテーション研究会《2004年》).
我が国の「目のリハビリテーション」は、独自の発展をしてきた.他の身体障害には、「リハビリ=機能回復訓練」という図式がある。この図式は「目のリハビリテーション」にはない.なぜなら、目を揉んでも引っ張っても治らない.「目のリハビリテーション」は、全人間的復権という広義のリハビリテーションが根付くに適した状況のはずであった.しかし、視覚障害者には、伝統的な職業として三療(鍼・灸・按摩)があった.
1960年代(ベトナム戦争の頃)米国で強調された「職業リハビリテーション」の考えと結びつけ、三療師の養成訓練を職業リハビリテーションの中核項目に位置づけ、歩行、ADL、コミュニケーションなどの社会適応訓練を、その前段階、すなわち「プレボケ」(prevocational rehabilitationの略)訓練として制度化した.国立三療師養成施設とそこへの予備校的生活訓練という図式ともいえる.
米国では、1970年代に入ると職業中心のリハビリテーション過程に乗れなかった障害者のニーズの見直し、消費者運動の台頭、自立生活運動の高まりとともに職業リハビリテーションから自立生活リハビリテーションへ向かうが、わが国の視覚障害者リハビリテーションは職業リハビリテーション(あるいは三療リハビリテーション)に留まった.
2000年代に入り、リハビリテーションの体制は措置費制度から支援費制度、自立支援法に変わった.そこでは職業モデルから自立生活あるいは地域生活モデルのリハビリテーションへの転換が、当事者運動の高まりの結果というよりは、行政主導により実施されつつある.
現在の視覚障害者の自立生活支援の問題点を考えてみると、以下の事が挙げられる.
第1に、2000年から介護保険が施行され、介護サービスを利用しやすくなるとともに、地域での生活が自立度に関係なく営めるようになった.しかし、それはセルフケアへの介助を中心としていて、社会活動を営むための長期的支援サービスが少ない.
第2に、自立実現への力量作りあるいは自立度の向上に協力する訓練サービスは少なく、結果として介護サービスへの依存度が増す状況があり、視覚障害者の退行が心配される.
第3に、訓練を提供する専門職(視覚障害生活訓練専門職、視能訓練士など)に、「してあげる」という態度が垣間見えることである.当事者の意識が「医療モデル」あるいは「障害者モデル」から「生活モデル」へと移行する中で、専門職の意識や行動の転換が遅れていると感じる.養成のカリキュラム、指導者の意識にも原因があるだろう.
第4に、介護保険の中で視覚障害による生活上の不自由の評価が過小になる傾向がある.視覚障害に対する理解が足りない.視覚障害生活訓練専門職の資質、資格制度の問題とも関連する.
【清水美知子氏 略歴】
歩行訓練士として、1979年から2002年まで視覚障害者更生訓練施設に勤務、その後在宅の視覚障害者の訪問訓練事業に関わっている。1988年から新潟市社会事業協会「信楽園病院」にて視覚障害リハビリテーション外来担当。2003年から「耳原老松診療所」視覚障害外来を担当。
【追記】
今回も期待通り、清水節は全開でした。リハビリテーションには身体機能回復の訓練ばかりでなく、人間としての復権も含めた意味合いもあること。言われるとそうだと合点しますが、そこを常に意識して臨んでいるのか否かで行動も変わってくると感じました。
我が国では、リハビリテーションが職業リハビリテーションに留まっているのではないかという視点、さすがです。障害を持つ方が職業に就くことの意義は多いにありますが、職業に就けなくても人間らしく生きていけること、もう一度考えてみたいと思いました。 リハビリテーションの歴史を、消費者運動、ノーマライゼーション、自立生活運動のうねりと併せて考える視点、勉強になりました。
特に視覚障害者のリハビリを、他のリハビリと比較して語るのは新鮮です。 高齢者の介護と障害者のリハビリ、介護保険の中での視覚障害者のサービス、施設型リハビリと地域型リハビリ、生活している障害を持つひと(患者としてではなく、障害者としてではなく、「私」として)という視点、専門職の対応の問題、ケアをしてくれる人への支援、ソムリエ理論等々、1時間ではとても語り尽くせない内容でした。
平成18年4月12日の勉強会の報告
安藤@新潟です
第121回(06‐4月)済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。
演題:『なぜ生まれる無年金障害者』
講師:遁所直樹(NPO法人自立生活センター新潟 副理事長 新潟学生無年金障害者の会 代表)
「生活できる真の国民皆年金制度」の確立をめざしています。
【講演要旨】
「一番いいたいことは、ただの一点『国民年金を払いましょう』ということです」、と話し始めた。はじめに言葉の解説。「任意加入」「免除」「猶予制度」「裁定請求」「棄却」と「却下」「再審査請求」、、、、。正直、なかなか難しい。実際裁判では、日本語なのに判らない言葉でやり取りされるという。
年金制度は、複雑である。その詳細を国は国民に判り易く伝えてくれているだろうか?。 学生無年金障害の訴えた当初、誹謗中傷があった。「金を支払ってないのだから、年金をもらえないのは当然。そんなに金が欲しいか!」 でも、、、障害者が障害年金をもらって何が悪い、我々は困っているんだから助けて欲しい、助けてもらえれば我々にだって出来ることがある。
全国に12万人の「無年金障害者」がいるが、「学生無年金障害者」は4000人、そのうち裁判闘争をしているのは30人。当事者は、嘆きの声を出さないと、世間の人には判ってもらえない。理屈は弁護士さんが作ってくれる。
「負けて勝つ」ということがある。国を相手にする社会保障の裁判は、裁判では負ける。でもその後に制度は変わる。 ところが東京地裁で、原告が勝訴してしまった。年金を受け取れない人たちを放置してきたのは国の責任であることを認めた画期的な判決であった。裁判官が神様のように神々しく見えた。東京・新潟・広島は、地裁で勝訴、高裁で敗訴。現在は最高裁で争っている(*ただし勝訴というのは、原告の言い分が少しでも認められた判決のこと)。
東京地方裁判所で勝訴判決を言い渡した藤山裁判官は、印象深い。原告や、弁護士だけが頑張っていても裁判官の心を動かさなければ判決は勝訴とならない。しかし、国相手の裁判の場合、なかなか裁判官の心を動かすことが難しい。原告の口述の機会を与えることはもちろん、今回の勝訴につながった要因は、藤山裁判官が感性が豊かであったことでった。困っている人に対して、真剣に耳を傾け、相手の心を思いやり一緒に考えることのできる方だった。新潟地方裁判所の犬飼裁判官、広島地方裁判所の裁判官もそのような方だった。
どんな制度にも「間(はざま)」がある。全ての人にセーフティーネットを用意し、安心して暮らせる日本にして欲しいというのが願いである。 『国民年金を払いましょう』、そして『もらう権利』を主張しましょう!!
【追記】
「我々は困っているんだから助けて欲しい」「当事者は、嘆きの声を出さないと、世間の人には判ってもらえない」「理屈は弁護士さんが作ってくれる」「負けて勝つ」等々のフレーズは印象に残りました。
「全ての人にセーフティーネットを用意し、安心して暮らせる日本にして欲しい」という遁所さんの主張は、正論だと思いました。
以下、年金について、少しネットで調べてみました。
《社会保険庁ホームページ》
年金の基礎知識やQ&A、相談窓口の案内
http://www.sia.go.jp/
《無年金障害者の会》
http://www7.plala.or.jp/munenkin/munenkin-f.html
病気や事故などで心身に重い障害を負ったのに、年金制度の不備などで、障害基礎年金が受けられない。 こんな私たち無年金障害者の実情を知って欲しい、そして何らかの救済の手をさしのべて欲しいと、平成元年(1989年) 「無年金障害者の会」を結成しました。
本会は、年金制度の谷間で障害基礎年金が支給されない無年金障害者の救済を求めて運動を行っています。合わせて安心して暮らせる年金制度の確立を求めています。
[無年金障害者の発生する理由]
学生無年金障害者〜20歳を過ぎた学生で国民年金に任意加入していなかった。
主婦無年金障害者〜サラリーマンの妻で国民年金に加入していなかった。
在日外国人無年金障害者〜在日外国人で国籍条項により国民年金に加入できなかった。
滞納無年金障害者〜経済的理由により国民年金保険料を滞納した。
無年金障害者〜その他障害状態が軽いと評価されたために無年金になった。
「皆年金」と言いながら全国で12万人の無年金障害者がいると言われています。何故こんなに無年金障害者が生まれたのでしょう…?それは国民年金制度に欠陥があったからです。しかも、その欠陥を判っていながらこの制度をスタートさせたとすれば、それは大きな問題ではないでしょうか?年金というと「老齢年金」を思い浮かべるでしょうが「遺族年金」「障害基礎年金」もあります。皆さまにとって決して人事ではないこの問題!この問題を1人でも多くの方に知って頂きたく思っています。
[年金制度の欠陥]
外国人の場合〜1982年(昭和57年)の法改正前は、国籍条項があり、在日外国人ついては国民年金に入ることができませんでした。
主婦の場合〜1985年(昭和60年)の法改正前は、厚生年金加入者の配偶者(サラリーマンの妻)は、国民年金に加入しなくてもよいとされていました。
学生の場合〜1989年(平成元年)の法改正前までは、学生や専門学校生については、国民年金に加入しなくてもよいとされていました。
主婦や学生を国民年金制度から除外したのは、主婦や学生には収入が無いため保険料が納められないからということが理由の一つでした。実際にも、主婦は夫の収入で生活をし、老後も夫の年金で生活をするであろうから、主婦自身に独自の年金はいらないと考えられ、学生については何年かすれば卒業して就職したときに厚生年金等に加入するから問題ないと考えられていました。
このように国民年金制度から除外されている間に、不幸にも病気や事故で障害を負った場合、その人は一生涯にわたって障害基礎年金を受けることができないのです。
平成18年3月8日の勉強会の報告
安藤@新潟です
第120回(06‐3月)済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。
特集『視覚障害児の教育』
演題:『視覚障害乳幼児の育ちを励ます力』
講師:猪平眞理(宮城教育大学教授)
【講演内容】
幼児の支援とはいうものの、まずは『親支援』が重要。親の子どもの障害受容の困難性が育児に大きく影響する。特に母親の不安や心の動揺は子どもの情緒を不安定にする。そのため親の心情をくみ取り、心のケアに気遣いながら支えて、親が安定した気持ちで育児ができるように援助することが必要。母子は一対。父はそれを支える。時間をかけ、見守りながら、長期的な見通しの中で対応する。家族支援(夫婦の関係・幼い兄弟姉妹への配慮・祖父母等)も大事。
『乳幼児への支援』を考える。視覚障害が発達に及ぼす要因の中で、光情報の不足は睡眠リズムに影響する。視覚情報が全く期待出来ない場合は、睡眠障害に陥りやすい。こうした習慣は、生後3〜4ヶ月で身に付けられる。食事や入浴を家族と共に行うことで習慣付けをするようにしたい。
「身辺の自立」を考える場合、食事はキーポイントである。最も実感のある生活経験。栄養摂取だけではなく、触覚的な観察力の育成(食べ物への関心と触る意欲の喚起、触る技術の向上、指先の鋭敏な触感覚の育成)、手指の操作能力の向上、心の交流(コミュニケーション能力の育成)など、多様な領域の発達の促進に関係する。
「手指による触覚的な観察と操作能力の育成」も大事である。生活動作の中で玩具、教具による遊びを通じて、外界への関心、探索意欲の育成に役立つ。
「運動能力の向上、動作の習得」を考える時、問題は、身体を自発的に動かすきっかけを得にくい、運動や動作の模倣が困難、安全の確保が困難という問題点がある。そこで安心感のある環境(安全な空間・信頼関係で結ばれた指導者)を確保する必要がある。さらに楽しい音楽やリズムの活用も有効である。
『幼児教育の本質』は、幼児期にふさわしい生活の展開の中で、環境を通し、幼児一人一人の特性に応じた遊びを通しての総合的な教育指導によって、幼児の心情、意欲、態度を育てることである。そのためには、 幼児の興味や関心、生活の必要感などを大切にし、幼児の意識の流れにそって、生活が無理なく展開されるようにする。子どもに生きる力、生活していく力を獲得を目指すものである(依存から自立へ)。
子どもは障害があっても自ら育つ力を持っている。視覚障害のある幼児には特に自らが知りたい覚えたいという欲求をかき立てて、自らの確かな力となる知識、技能を自らが獲得していくような支援がなくてはならない。
演題:「視覚障害児の教育:新潟盲学校の取り組み」
講師:上田淳一(新潟盲学校教諭)
【講演内容】
京都、東京に続き日本で3番目の歴史を持つ新潟県立高田盲学校(上越市)が、この3月で閉校となった。全国の盲学校で在籍者の減少が進むなか象徴的な事態である。ノーマライゼーションの進展に伴い、盲学校など視覚障害教育の現場の状況も大きく変化してきている。
新潟盲学校には、3月現在3歳の幼稚部幼児から60歳を超える高等部生徒まで、全校で63人が在籍している。これは近隣県の盲学校で、最多の生徒数である。幅広い年齢の方が同じ学舎で学ぶという点が盲学校の大きな特徴でもある。平成11年から14年まで生徒数は減少していたが、15年からは漸増傾向にある。内訳を見ると幼稚部の生徒数が増えている。これは、特に近年力を入れてきた「相談支援センター」の効果であると思われる。
「相談支援センター」は、「子ども目の相談室」(0歳から中学部)と「目の相談室」(高校生から成人)を中心に活動している。主な活動として1)教育相談、2)親子教室(0歳〜就学前;毎週金曜日)、3)学習支援教室(学齢児;毎月1回)、4)サマースクール(学齢児)、5)地域支援セミナー(保護者・関係者;一昨年は佐渡、昨年は村上)がある。このほか、「電話相談」「来校相談」を行っている。また広く盲学校のことをアピールするために「盲学校を地域に知ってもらう会」(対象は地域住民、一般小中学生、関係者)を平成14年から開催し、昨年は60名の参加であった。
盲学校の在籍者が減少することは社会にとって喜ぶべきことであるが、視覚障害教育の専門機関という役割を担う学校としては、専門性の維持・向上という観点からすると厳しい状況にあるというジレンマも抱えてしまう。
新潟県立新潟盲学校HP http://www.niigatamou.nein.ed.jp/
注:新潟県内の視覚障害教育を担っている施設として新潟盲学校のほか、弱視学級3校(新潟市・長岡市・上越市)が設置されている。
【後記】
猪平眞理先生のお話、いいお話を聞かせて頂きました。障害があろうがなかろうが、子育てでは「親子のスキンシップ」が大事であること、子を育てるには「人」が大事であること、「子は育つ力がある」こと、「母子は一対」で父親は支えるのが役目、「子育ては文化」、「社会の力」を借りてもいいではないか、「食事は大事なコミュニケーションの場」、幼児教育の本質は「心情」「意欲」「態度」を育てること、障害の受容には時間が掛かる、「障害児の保護者のケア」も大事、、、、、等々、なかなかまとめ切れません。
一方では参加した眼科医や視能訓練士が盲学校に行ったこともないという声もあり、医療と教育の間にはまだまだ深い溝があることも認識させられました。
参加された方からの声を(申し訳ありませんが)一部だけ紹介します。
盲学校を出て一般社会に入ったとき、コンプレックスや引け目、違いをたくさん感じることと思います。そのためにも自分を信じることができないといけないよなあと。それを育むのが猪平先生のいわれるようなことかなあと感じました(盲学校OB)。
猪平先生のお話は、私たち盲学校職員の早期の親子にかかわる者として、スポンジに水という感じでお聞きしました。まさに『支え』を得た思いがします。『支え』というのは心を前向きにしてくれるものですね(盲学校教諭)。
校外講師として盲学校の授業へ参加するようになりました。何より驚くのは、診察室と全く違ってとても楽しそうな子どもたちの表情です。視活動の本当のご様子は、診察室では全くわかりません。特に障害の重いお子さんや、重複のお子さんなどではその差が顕著のような気がします。大人だけを相手にしていると、この辺のギャップに気付かないため、診察室のご様子で判断してしまい、教育の場の先生達やご家族と意見のずれがみられるのだと思います(東京から参加した眼科医)。
上田淳一先生に紹介して頂いた、新潟盲学校の地道な取り組みとその成果の話、心打ちました。参加された方からも多くの声が届いています。「全国の盲学校で在籍生徒数が減少している中、生徒数が減っていないというのは、相当努力されていることを感じます。人手をかけておられるなあと。そして、一般校から盲学校へ気軽に来られるよう、週1回の機会を設けていること。正確な理解を生むためにもよい取り組みと思います
(盲学校OB)。
上田先生のご講演は、随所に先生のあたたかいお人柄が表れていて、新潟盲学校はきっと生徒さん達にとって、とても過ごしやすい空間になっているのだろうと思いました(新潟市内ORT)。
視覚障害児の教育について様々な事を感じることの出来た勉強会でした。
平成18年2月8日の勉強会の報告
安藤@新潟です
第119回(06‐2月)済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。
演題:『ロービジョン外来風景』
講師:張替涼子
(新潟大学医学部非常勤講師 眼科医 専門分野:ロービジョンケア)
ロービジョン外来では、通常の眼科外来とは違った時間が流れています。
【講演内容】
医学部を卒業して20年近くになりました。最初の2年間は内科を研修し、3年目に新潟大学眼科学教室に入局しました。現在の専門はロービジョンケアです。昨年4月からは新潟大学非常勤講師。ロービジョン外来を、新潟大学医歯学総合病院眼科、済生会新潟第二病院眼科、せき眼科(新潟市)で担当しています。
視覚障害というと「全盲」をイメージされがちですが、ロービジョンと全盲は異なります。「ロービジョン」とは、見えにくいという意味であり、「ロービジョンケア」は、見えにくい人へのケアということです。光覚弁の方も含め、日常生活に不便を感じているが対象です。
眼科の領域では、医療と福祉の間に深い谷が存在するとの指摘(森田茂樹さん)があります。近年ロービジョンケアの必要性への認識は高まっていますが、まだ眼科スタッフの認識が充分であるとは言えません。たった一言、ルーペや福祉に対する助言がないために、遠回りする患者さんがなんと多いことか! 眼科に通院している時にこそ、ロービジョンケアが大切です。
私がロービジョンケアに関わるようになった経緯をお話します。夫はリハビリテーション専門医です。眼科医として研修を始めた頃、「眼科のリハビリテーションってどうなっているの?」と問われて、答えに窮しました。当時、私の知る範囲では患者さんが持ってきた福祉関連の診断書を書くのみで、積極的な情報提供や補助具の処方などは行っていませんでした。指導医に聞いてみました。「見えにくくなって困っている患者さんに、眼科医も何かすべきではないでしょうか?」。指導医は少し考えて、真剣に答えてくれました。「視機能低下に苦しむ患者さんを最少限にすることが眼科医の仕事。リハビリまでは無理。患者さん自身の努力で克服していくしかない」。指導医には全盲のリハビリのみが念頭にあり、ロービジョンのリハビリは認識外であったこと、福祉への橋渡しは考えていなかったことがわかります。当時の眼科医の認識として一般的なものであったと思います。
1996年基本的な眼科研修が終了した頃から、ますますロービジョンケアに関心が高まりました。1999年国立リハビリテーションセンター(所沢)で、4泊5日のロービジョンケア研修を受けました。熱意ある講師陣、志を同じくする受講生の眼科医と交流でき刺激を受けました。まだまだ新潟にはロービジョンケアを目指している人が少なく、「私がやらなくて誰がやる」と意欲に燃えました。ロービジョン外来を大学に開設したいと当時の医局長に申し出たところ、「全面的にバックアップする」と言ってくれました。教授も、「必要とする患者さんがいて、やりたい医師がいるなら、私に反対する理由はない」と言ってくれました。勇気を得て、一人で準備し、2000年9月に新潟大学にロービジョン外来を立ち上げました。
新潟大学でのロービジョン外来では、視力や視野の障害により日常生活に不便を感じている人が対象です。5年間に205名を担当しました。ロービジョン外来での診療は初診の場合2時間以上、再来でも最低30分位は要すことが多いです。
外来の様子を紹介します。まず眼のせいでどのような困難があるかを、じっくりとお聞きします。目が悪くなった人が困ることでは、字を読めないこと、歩行、まぶしさの3つが上位を占めます。不安(視力に対する不安、将来に対する不安等々)を感じている人も多数おられます。視機能の程度と、本人の困っていることは必ずしも一致しません。必要のないサービスは押し付けないことも大事だと思います。
補助具として、眼鏡・ルーペ・拡大読書器・音声パソコン・音声読書器・筆記用具・便利グッズ・遮光眼鏡があります。福祉情報の提供も重要です。白杖・歩行訓練に関する情報提供や白杖の処方も行っています。
第1号の患者さんのことは忘れられません。片眼の視力は既に失い、残っている目もかなり周辺視野が欠けています。かなり気持ちが沈んでいました。遮光眼鏡、ルーペ、拡大読書器をなど出来る限りのロービジョンケアを行い、読み書きの能力は日常生活に支障のないレベルに達しましたが、まだまだ表情に暗さが残りました。そこで信楽園病院のリハビリ外来やパソコン教室を紹介しました。5年後の現在、この患者さんはパソコンをやり、仲良しのヘルパーさんとあちこち飛び歩き、俳句・水泳・歌と大変元気になられています。この経験を通して、ロービジョンケアは眼科医一人では出来ない。患者さんの自立のためにはガイドヘルパーさんや家族、福祉関係等々、多くの人と連携しなければならないということを学びました。
魔法使いではありませんので、全ての患者さんに満足してもらえるわけではありません。これといったケアプランが思い浮かばない時には、さらによく患者さんのお話を聴くように心がけています。話の中からヒントを得て助言出来ることもありますし、聴くことで少しでも患者さんの心が癒されてくれたら、という思いもあります。
悩みもあります。1)治療の外来より格下。患者さんは、治療のための外来には万難を排して受診されますが、ロービジョン外来の予約は断られることもあります。がっかりする一方で、眼科医として「治療」に対する患者さんの期待・希望を再認識させられる時でもあります。2)根拠のある医療(EBM)というのが最近の風潮です。ロービジョンケアの領域でも、治療効果の評価のための研究が進められていますが、今のところ困難な面も多いと感じています。3)費用対効果。現在の病院は経営も大事です。しかしロービジョン診療にはまだ診療費が認められておらず、ボランティアで行っているようなものです。このことがロービジョンケアの拡がりを阻害する一因になっています。一方で、今後診療点数がつくようになった場合には、経営上ある程度ペイする効率的なロービジョンケアが求められることになります。もっとシステム化し、眼科診療のなかに自然にロービジョンケアを組み入れていくようにしなくては、と思ってはいるのですが・・・。4)少数派。なかなかやってくれるスタッフが拡がりません。医学部教育・卒後教育の中にカリキュラムとして組み込まれていないことも一因と思っています。
今後に向けた私自身の行動としては、1)ロービジョンケアを行う眼科の増加を願って、新潟県眼科医会報に「ロービジョン耳学問」という連載を始めました。一人でも多くの眼科医に読んでもらえたらと思っています。2)新潟医療技術専門学校の視能訓練士養成課程で、3年前から講義を担当しています。視能訓練士養成課程では、3年前からカリキュラムとしてロービジョンケア(「視覚障害訓練学」)が取り入れられているのです。志のある視能訓練士に育って欲しいとの願いを込めて講義を行っています。
おわりに:ロービジョンケアの専門家にならなくても、ロービジョンケアマインドを持った眼科スタッフが増えることを期待しています。治療のみではなく、リハビリテーションも含めて医療といえるのですから。
【張替涼子先生:略歴】
89年 新潟大学医学部卒。
同年5月より県立がんセンター新潟病院で内科初期研修
91〜99年 新潟大学医学部眼科学教室入局。
新潟大学医学部附属病院および関連病院勤務
00年9月 新潟大学医学部附属病院(現:新潟大学医歯学総合病院)眼科にロービジョン外来を開設。
05年4月 新潟大学医学部非常勤講師。
新潟大学医歯学総合病院(毎週金曜日;午前午後) 済生会新潟第二病院(第2第4水曜午後)、せき眼科(第1第3水曜午後)にてロービジョン外来を担当 現在に至る。
【後記】
眼科外来からはみ出した方に、廊下までイスを用意しなければならないほどの盛況で、関心の高さを物語りました。ロービジョンとは?という話から始まり、ロービジョンに関わるようになった経緯、ロービジョン外来の実際、ロービジョン外来での悩み、今後の展望と非常に判り易くお話してもらいました。医療の抱える問題点、同僚への叱咤激励もありました。
講演後の討論で、連携、コーティング、仕事の必然性、患者同士の語り合うことの意義、情報の重要性、障害者を受け入れる社会の醸成等々など、皆で熱く論議しました。敢然とロービジョンケアの道を突き進む眼科医の意欲と苦悩を、語った一時間でした。
「それにしても、若き眼科医、張替さんの魂、真摯な悩みを門外漢の私が、キイテシマッテイイノダロウカ、と胸が絞めつけられる思いでした。」と、参加者の一人は感想を語ってくれました。
同じく参加者から頂いた言葉を紹介致します。「眼科医療スタッフが、患者さんの眼の病態だけでなく、見えにくい目を使いながら送らなくてはならない患者さんの生活をイ メージし、自分たちに何ができるかを考えるようになっていけば、自然とロービジョンケアは拡がっていくのだと思います。」
平成18年1月11日の勉強会の報告
安藤@新潟です
第118回(06‐1月)済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。
演題:『イスラム社会での異文化生活体験』
演者:渡辺 比登志(パソコン・コーチ;新潟市)
“普段着の生活をして始めて見えてくる”異文化社会で感じた日本との違い
海外で活躍する青年海外協力隊の話題はよく耳にしますが、シニア海外ボランティア(注)は私にとって、耳新しい言葉でした。渡辺さんは2002年10月21日から2年間、この制度でインドネシアに臨床検査技師として参加されました。今回はこの体験を基にしたお話です。
【講演内容】
インドネシアは13000以上の島からなり、人口の90%はイスラム教という世界最大のイスラム教国家です。成田から7時間のフライトで到着します。今回派遣されたのは、マカッサル。スラウェシ島(旧セレベス、面積は本州の80%)南スラウェシ州の州都で、人口120万。港町。治安は良好で、緑の多い都市です。オランダの植民地時代からの建物があちこちに残っています。言葉は、一部の人には英語も通じますが、多くの国民にはインドネシア語が普及しています。
検査センターの仕事は、臨床検査、環境検査、麻薬検査、研修会等々です。職場に馴染むために、国民体操(毎週金曜日の7時半から8時)に参加しました。多くの職員は義務で参加しているためか、ダラダラと体操していました。そこで日本人の心意気を示そうとキビキビとやってのけ、注目される存在になりました。朝に職場の同僚の方々と皆で体操すると、一体感が生まれます。終了後には皆でいろいろな話をしながら、持ち寄った軽食(バナナなど)を一緒に食べます。実に和やかです。
昼食は、職場の食堂です。安く、美味い食事でした。ここでも職員の人たちと会話しながら親睦を深めることが出来ます。職場ではカラオケ大会もありました。職場に、子供を連れてくる人もいました。和気あいあいとした職場でした。
市場で買い物をすると正札がありません。スーパーなどの買い物と違って、交渉しながら値段を決めます。慣れると実に楽しい時間です。
家内の楽しみは、洋裁を教えることでした。言葉によるコミュニケーションは必ずしも自由ではありませんでしたが、若い女性は自分で洋服を作り、発表会もありました。楽しい思い出です。
稲作は、二期作で所によっては、年に3度も可能でした。田植えも稲刈りも脱穀も、みな人力です。
家は高床式でした。湿気を防ぐ、虫を防ぐなどの効果があり、また床下は皆の集る場所になっていました。
車やバイクの殆んどは、日本製でした。20年以上使用しているものもいまだに沢山活躍していました。車の中にも上にも人が乗れるだけ乗って走っていたりします。道路の横断は、横断歩道など使わず、自由に横断しています。
女性はこの国で働きます。颯爽とバイクにまたがり活躍している女性を、よく見かけました。
イスラム教信者が90%を占めています。町のあちらこちらにモスク(礼拝するところ)があります。中は空っぽで、礼拝の時間になると皆が集りお祈りします。ミナレットは、礼拝の時間を伝えるスピーカーを有す塔状の建築物です(これがあるため、インドネシアの人は時計を持つ必要はあまりないように思いました)。子供の頃から、コーランの勉強会を行ないます。
5行:ムスリム(イスラム教徒)が行なわなくてはならない、5つの行為。(信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼) 礼拝は毎日5回(早朝、昼、午後3時、日没、夜)、1年に一ヶ月の断食、一生に一度の巡礼。
礼拝の時間になると、何もすることのない自分にいつも孤独感を味わっていました。
ムスリムの価値判断は、コーランに照らし合わせて行なっています。人間よりも大きな力があることを意識して、生活することに魅力を感じました。
若い世代の日本人は、近代化していないインドネシアの生活を見下すことがあります。でも自分の若い頃の生活と共通するものを感じることの出来るシニアボランティアにとっては、インドネシアでの生活に何かホッとするものを感じました。日本で大事なものは何でしょうか?拝金主義でしょうか?今の日本人は何か大事なものを失ってしまったのではないかと、インドネシアで2年間生活して感じました。
渡辺さん推薦図書
『イスラームの日常世界』 片倉もとこ:岩波新書 (発刊:1991年1月)
イスラームは,いまや第三世界にとどまらず地球的規模に広がっている.その世界観が,幅広い世代にわたって,十億もの人びとの心をひきつけるのはなぜか.長年,世界各地の実情を見てきた著者が,生活体系としてのイスラームを,断食,礼拝,巡礼などの基本的な生活習慣や,結婚・職業観などから語り,その真髄を解き明かす.
(注)シニア海外ボランティア
http://www.jica.go.jp/activities/sv/outline/first_step/
開発途上国の人々のために、自分の持っている技術や経験を活かしたい。そんな強い意欲を持っている方を派遣し、支援するのがシニア海外ボランティア事業です。活動分野は、農林水産、エネルギー、保健医療、人的資源(教育・文化・スポーツなど)など9分野。派遣されたボランティアの総数は、2163名。現在も830名が活動中です。(2004年7月31日現在)
【渡辺比登志氏:略歴】
1936年生まれ。 臨床検査技師として、新潟市西保健所検査課10年、信楽園病院検査課35年。
国際協力事業への参加
『スリランカ国立医学研究所活性化プロジェクト』 臨床検査の技術指導として3回(3年4ヶ月)参加
『海外シニア・ボランティア』
インドネシア南スラウエッシ州立検査センター臨床検査技術指導2年間
現在 新潟西地区高齢者パソコン友の会(副会長)
信条 『好奇心』を友として、『人に喜ばれる喜びを知る心』を大切に
【後記】
インドネシアでの多くの写真と体験談、大変興味深く拝見/拝聴致しました。話の節々に渡辺さんの人生観、日本人魂、時には女性観なども垣間見え、楽しい時間でした。
先進国と言われる米国や英国で教会に行かない若者の増加が話題となっている中で、いまだに宗教が生活に根付いているインドネシアの生活ぶり、昭和30年代の日本を思い浮かべるような、少々不便ではあるが活気あるマカッサルの風景、天真爛漫な子供達の笑顔、、、、。早いこと、便利なこと、安いことがもてはやされる現在、我々日本人は、何か大切なものを失ったのかもしれないという渡辺さんのお話、皆で納得しながら聞き入りました。
海外協力青年隊の活躍はこれまでも聞いておりましたが、シニア海外ボランティアの活躍は初めてお聞きしました。シニアボランティアの活躍、今後はもっと宣伝してもらいたいものです。と同時に、日本の若い世代に対して、お金や時間よりもっと大事なものがあることを、シニアの方々は自信を持って伝えて欲しいと思いました。
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