済生会勉強会の報告 2005
平成17年12月14日の勉強会の報告
安藤@新潟です
第117回(05‐12月)済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。
演題:『二つの交通事故を体験して』
演者:笠原清一郎(加茂音声パソコン教室「らくらく」代表)
“多くの人と交流できる喜びを優先させる”音声パソコン教室を開設
【講演内容】
私は2つの交通事故を体験し、大勢の方にお世話になりました。このことから、どうしても人に恩返しをしなければならないと心に決めました。1つ目の事故は1967年私が31歳のことです。車同士衝突の弾みで全然関係のない人をはねてしまいました。被害者は内臓破裂でしたが、幸い1ヶ月で退院することができました。2つ目の事故は47歳のとき、無理に急ハンドルを切った11トンダンプカーが、止まって待っていた私の車に正面から衝突。運転席の私は右膝下部部分開放骨折、右脛骨腓骨骨折の重症でした。回復に、7ヶ月の入院と5ヶ月のリハビリを要しました。
その頃から私は何をすべきか、何か私でできることはあるかと考えました。力も資格も無い者にできることでもあるのか?人は助けたり、助けられたりして生きていることを思い、少しでも人の力になるよう努力しようと考えました。
会社の定年退職を機に、昔から気になっていた眼の不自由な人たちのお世話をしたいと、点訳の勉強を始めました。しかし、点訳そのものには様々な難しい約束事があり、点訳図書を納本できるようになるまでは、かなりの時間が必要ということが分かりました。今も続けてはいますが、何か直接ボランティアの実感を感じるものはないかと思いました。
音声パソコンというものが普及してきていることを知り、これなら眼の不自由な人達に直接ボランティア出来ると考えました。信楽園病院の山田幸男先生のお力をお借りして、加茂音声パソコン教室「らくらく」を立ち上げました。仕事の内容は、1)パソコン購入に同行、2)購入助成のお手伝い、3)パソコン指導(メーカーの使用要領を録音したテープは判りにくいので、自分で吹き込んでテープを作成)。一緒に覚えるようにしています。今は、視覚障害者だけでなく、お年寄りや、上下肢障害の人たちのサポートも続けています。
パソコンをサポートするだけでなく、それで知り合った人達との交流が広がりました。出前サポートによるパソコン指導や情報交換。春の花見会、秋のバーベキュー会、ソバうち会、ふれあい旅行などを通して、皆さんと楽しく交流。参加の皆さんの嬉しそうな顔、感謝の言葉、こちらこそお礼を言いたいくらい楽しいのです。パソコンの上達など二の次で本当の目的は、一人でも多くの人と交流できる喜びを優先させています。私たちのパソコン教室に卒業はありません。
教室で最高齢(88歳)の方の手記が昨年、新聞に掲載されました。一部を紹介します。「ある日、知人の誘いで、『パソコン教室』に顔を出してみました。パソコンが全く初めての私は最初、心配で心配でたまりませんでした。『ローマ字入力です』と言われ、これはとてもだめだと思いました。大正生まれの私に今さら覚えられるはずがないと思ったのです。あれから2年。こんな私を子供より若いサポーターたちが、時にはしかり、時には優しく指導し、休憩時間には楽しい茶話会も用意してくれて、いつの間にか『ワード』や『エクセル』の基本を覚え、年賀状のプリントも出来るようになりました。今では教室が楽しく、次回が待ち遠しくてたまりません」(毎日新聞:平成16年7月5日「女の気持ち」)
今後、特に視覚障害者のかたを募集しています。参加してみませんか?
加茂音声パソコン教室「らくらく」
加茂市幸町 加茂市機能訓練センター
(電話0256-52-0080:呼び出し)
サポーター(適宜参加)全員で約20名、利用者:19名(視覚障害者3名、高齢者4名、上下肢障害者6名、知的障害者4名、点字指導2名)
開催日:毎週月曜日・木曜日 午後2時〜4時
毎月第1第3火曜日午前10時〜11時半
視覚障害者は出前サポートもあり
【笠原清一郎氏:略歴】
1937年 加茂市生まれ、1955年 三条実業高校商業科卒、1997年 勤務先定年退職、1998年 パソコン習得、2000年 加茂市点訳ボランティア「加茂ともしびの会」入会、2002年 ボランティア団体「加茂音声パソコン教室」設立、2005年 加茂市福祉ボランティア連絡協議会副会長
趣味 記録写真撮影
【後記】
大きな事故を乗り越え、今や人のためになる活動に情熱を傾けている笠原さんの熱い語りでした。年齢的には私より大先輩ですが、どこか少年のような初々しさを感じます。本当にパソコン教室が楽しそうな雰囲気が伝わってきました。
ITが発達し便利になった反面、「情報格差」が話題になっています。障害者や高齢者は、特に情報化社会に遅れをとる可能性があります。こうした人たちへの援助を、地道にそして楽しく行なっている笠原さんの活動は、お聞きしてとても爽やかでした。
《情報格差》 コンピュータで扱うデジタル化された情報を入手したり発信したりする手段を持つ者と持たない者との間の格差(情報格差)のことである。通常は、通信手段に関する格差も含まれる(通信格差)。英語をそのまま音訳した、デジタル・ディバイド(デジタル・デバイド)とも表記・呼称される。(日本国内では)1990年代以降、社会の仕組みが、インターネットなどのコンピュータ・ネットワーク(情報技術)を当然のものとするようになるにつれ、パソコンなどの情報機器の操作に習熟していないことや、情報機器そのものを持っていないことは、社会的に大きな不利として働くようになった。この不利により、情報機器の購入・維持や教育を受けるための費用が出せない者、または、情報機器に対する拒絶反応(コンピュータアレルギー)のために情報機器を利用できない者は、経済的に不利になるという悪循環が生じ、この不公平を情報格差と呼ぶ。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
平成17年11月9日の勉強会の報告
安藤@新潟です
第116回(05‐11月)済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。
演題:「福祉機器を基点とした商品開発−可視光通信の可能性について−」
演者:牧野秀夫(新潟大学工学部情報工学科教授)
蛍光灯を使った情報通信のお話
【講演内容】
15年ほど前から、当時新潟盲学校におられた井出國男先生と一緒に位置案内装置の研究を始めました。丁度、GPSという衛星を使った測位装置が一般化してきた時期です。そこでは,携帯電話を利用して位置案内をしたり、バーコードを使った文章の読み上げを行う装置の開発(スピーチオの開発に協力)も行ってきました。実際の商品にするのは次の人に託すというスタイルです。
こうした装置開発で学んだことは,やはり一般商品の中に,あらかじめ福祉機器として役立つ機能を取り込んでおくことが,装置の保守・管理、さらには販売価格の点でも最適だということでした。具体的には、専門の情報工学や電子工学の分野の知識を生かし、将来開発されてくる新技術を最初に福祉機器に応用し、次にそれを使った民生品を作っていこうという考えです。「福祉機器を基点とした商品開発」の意味です。その点では,ナビ機能付き携帯電話(アンテナを内蔵しているため誤導範囲が20〜30m、将来は10cmを目指したい)や、文章読み上げ装置の「スピーチオ」はまだ途中の産物です。
「可視光通信」〜最近のインバータ式蛍光灯や徐々に信号機などで実用化されてきた発光ダイオードという素子は、新しい照明器具の種類に含まれます。明るくて寿命も延びていますが、それに加えて光を非常に早い速度で点滅させることができる(従来の蛍光灯は50ヘルツであったが、インバータ方式では、毎秒10万ないし12万回)ため、無線と同じように情報を送ることができます。こうした原理については10年以上前に考えられていました。また7年ほど前にアメリカのリーブ教授が実際に文字データを受信して音声化する試作機を発表し、「トーキングライト」という名前でいくつかの賞を受賞しています。ただし,実用機器の開発は行われていません。原理的には可能なのですが、実用的には解決すべき問題が多かったのです。
そこで私が考えたことは,やはり実際に照明器具を製作している会社と協力して実用化に向けた研究を行い、さらに一般の商品の中に組み込む必要があるということでした。結果として,照明最大手の松下電工さんのご協力をいただいて、何とか商品としての試作品の段階までこぎつけております。すなわち蛍光灯を使った情報通信を利用することにより、建物の中で位置情報を蛍光灯から送信することが出来ます。GPSでは案内不能な地下街や広いスーパーマーケットの中でも、自分の位置を知ることが出来ます。受信機は、特別な装置を持たなくともいいように、携帯電話で音声案内できるように工夫(次世代携帯電話にはブルーツース機能が付いている)します。
「トーキング・サイン」をご存知の方は、ほぼ同様な機能だと考えていいのですが、既存の照明設備を使うので、発信装置の場所の確保,設置工事,電源確保等の問題も、すべて最初から解決しています。病院内での位置案内等に利用したいと考えています。
幸い最近の電子技術の進歩により、蛍光灯および受信端末として考えている携帯電話の進歩は著しく、もしかすると皆様の手元にお届けする日がやってくるかもしれません。
【牧野秀夫教授:略歴】
1978年3月 新潟大学大学院 修士課程修了
4月 新潟大学情報工学科勤務
1983年 北海道大学・応用電気研究所にて,植込み型除細動器の研究(1年間)
1989年 カナダ・トロント大学医学部にて生体信号処理の研究(1年間) (閉塞型睡眠時無呼吸症モデル犬の作成)
1995年 新潟大学情報工学科 教授
1996年 カリフォルニア大学サンタバーバラ校にて, GPSナビゲーションFM補正の研究
2005年 新潟県震災復興推進アドバイザ
《インターネット情報》 可視光通信のメリット
http://www.vlcc.net/about.html
可視光を用いた通信には従来の通信にはない様々なメリットがあります。
●可視光域は人間に安全なため、照明に用いている数ワットという高い電力でそのまま送信する 事ができる
●照明は至る所に設置されているため、照明機器に通信機能を付加するだけでワイヤレス環境が構築できる。また、現在携帯電話や無線LAN等で広く用いられている無線通信ですが、一般に■電磁波の人体への影響から送信電力を上げる事ができない■電波法による制約から、広帯域な無線周波数を自由に使う事ができない■病院や宇宙船内では精密機器への影響から無線は使用できないといった問題があります。しかし、可視光通信では以上の問題が解決できます。
【後記】
牧野先生のご尊父は精神科の病院勤務された方で、本人も16年前にカナダ・トロントのマウントサイナイ病院で、閉塞型無呼吸症のモデル犬の制御ソフトを作成したというご経験をお持ちです。当時、カナダの障害者が日本製の電子機器を使用して生活していることを初めて目にして、衝撃を受け、実際に役立つもの作りをしようと思い立ったそうです。以来、GPSナビゲーションやバーコードを使った文章の読み上げを行う装置の開発をしてきたということです。現在は、新潟県震災復興推進アドバイザという立場であり、災害時の位置確認・通信にも関心をお持ちです。
今回の蛍光灯で位置案内が出来る技術、びっくりしました。もうじき実現する段階まで開発されています。これは便利です。病院内の案内だけでなく、外国の空港内で日本語での案内も可能です。位置案内だけでなく、蛍光灯を用いた情報通信は色々と用途がありそうです。企業としては、コマーシャルにも使えます。聴覚障害の方には、画像も提供できるかもしれません。
蛍光灯は50ヘルツと信じていた私には最初から興味津々の話題でした。インバータとかLEDとかいう単語が身近になりました。是非、実現して欲しいと思いました。
平成17年10月12日の勉強会の報告
安藤@新潟です
第115回(05‐10月)済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。
演題:『中越地震から一年 今できる事』
演者:小野沢裕子(フリーアナウンサー;新潟市)
中越地震から一年。今、何ができるか一緒に考えてみませんか?
【講演内容】
昨年10月23日17時56分、新潟県中越地方を中心に地震発生。当初震源地は小千谷で震度6強と発表。後に停電のためデーターが送れなかった川口町で震度7と発表。山古志も、地震計が飛ばされ計測されていないが、震度7と考えられている。・・・
目の前をテレビが飛んだ。居間のガラスを破って座卓やテレビが外に転がった。お風呂に入っていたおじいちゃんは、その格好のまま洗い場に放り出された子どもをかばうのがやっと。ピアノも仏壇も部屋の反対側に移動。本棚の本は散乱、壁にハードカバーの本が刺さった後が何箇所も・・・。地震直後、山古志の人達は何が起きたかわからず、ただ外に出た。停電した村を月明かり、そして満天の星が照らした。寝たきりのお年寄を抱えた人は、道路にふとんを敷いた。夜露が酷く、ふとんがぬれるのを拭きながら過ごした。被災して数日後、避難所で窮屈な思いをしながら「こんなになっちゃった」と笑いながら話してくれた。
あれから1年。十日町の山内レンさん(99歳)を被災以来に訪問した。地震の時には一人で自宅の3階にいた。地元の若い衆が救出してくれた直後に家は崩壊した。まだ十日町の家には帰れずに、塩沢の娘さんのうちに居候している。別れ際に言われた。「また来て下さいね」「十日町を忘れないで下さいね」。
山古志も、電気、ガス、水道が確保され、住居が整って帰った人もいる。だがまだ、その数は少ない。学校が完成していないため、就学児童のいる人は帰れない。何より、道路が確保されていない。国道の復旧は急ピッチだが、集落を行き来する道路が寸断されていて、移動もままならない。住宅が復旧して山に帰った人も、週末には皆のいる仮設住宅に戻ってくる。皆がいる(と思える)から山に暮らせるのだという。棚田で美しかった山が、地肌を見せている景色は地震直後と何も変わっていない。
秋風が吹き始めると、雪の心配が出てくる。豪雪地帯である。雪が降っては工事が進まない。冬の顔が見え始める今、何らかの明るいニュースがないと、落ちこんでしまう。そんな中、山古志の人達が植えたヤーコンが収穫期を迎える。ヤーコンはペルーアンデス原産。茨城大学の月橋先生(新潟県柏崎出身)がヤーコンについて研究している。さつまいもに似ているが、デンプンは少ない、でもオリゴ糖とポリフェノール・植物繊維が豊富で甘みがある。実は山古志では昨年地震前に、「村おこし」として70世帯で栽培していた。その収穫を前にしての地震だった。多くのヤーコンは山と共に崩れてしまったが、生き残ったヤーコンを収穫した。今年の5月に山古志村では2000本のヤーコンを植えた。そして山古志の人は難を逃れた縁起のいいヤーコンを、「野魂」とネーミングして売り出そうとしている。焼いてはだめ、蒸かさないこと、ヤーコンを美味しく食べるためには工夫がいる。ヤーコン酢・茶・ジュースのほか、麺も開発されている。新潟調理師専門学校の先生達が調理法を研究中だ。初めての食材だが、フルコースも視野に入っているそうだ。これからスーパーの店頭に「野魂」が出回る。皆で購入して少しでも山古志の人達を支援したい。
山古志を訪れると皆が言う。「忘れないでくれ」「また遊びに来てくれ」「地震でもこうして頑張っている事を誰かにしゃべってくれ」。十日町の山内レンさんから教わった「人生かきくけこ」。「かっかしない」「きにしない」「くよくよしない」「けんかしない」「こせこせしない」。小野沢家で、漢字で表現してみた。「感動・感謝」「希望・気迫・気力」「健康・謙虚」「恋心・根性・小金」
中越地震から一年。今、何ができるか一緒に考えてみませんか?
【平成17年10月23日新潟日報から】
犠牲者51人。損壊住宅約12万棟。今も2812世帯・9160人が仮設住宅で暮らしている。住宅再建の見通しがない世帯が3割。半数以上の人が、体調悪化を訴えている。具体的な症状として「足腰が弱くなった」(27%)、「夜眠れない」(24%)、「揺れると怖い」(18%)。
日報抄・・・・被災地の人達の優しさ、絆の強さが多くの命を救った。地震発生直後に逃げ遅れた人はいないか点呼し、統制の取れた救助活動を行なった。山古志村では男衆が余震の中で倒れた家の屋根を持ち上げ、壁を剥ぎ取って、冷蔵庫に足を挟まれた人や浴槽に閉じ込められた人を救った。「あの惨状で、これだけ生死の堺に立たされた人々を救えたのは奇跡」と医療関係者を感嘆させた支え合いを持続させることが、復興の大きな支えとなる。
【後記】
新潟中越地震から1年、今こそ忘れないことが大事だと思いました。 田んぼや住居を元に戻すにも老人の多い山古志では、銀行からの借金も出来ないという現実があります。地震後土地を離れる人も少なくないと聞きました。道路は復旧するのも時間の問題でしょうが、棚田をはじめ日本の原風景とも言われる美しい山古志が元に戻るのに多くの問題があることも知りました。災害の時に力を発揮するはずの携帯電話は、鉄塔が倒れて機能しなかった地域が続出したそうです。
人命救助に役立ったのは、結局「助け合う、人の和」だったそうです。「ピンチをチャンスに」、棚田で美しかった山古志の地肌は露になってしまい復旧にも時間が掛かるようですが、山古志の人達が示してくれた、今の私たちが忘れていた、「感謝する姿」「助け合う姿」は、メディアを通して、広く日本中の人の心を捕らえました。
「野魂」、心に残りました。私たちの気持ちの中に、山古志が、野魂が、とても身近なものになったような気がします。「復興を自分達の手で行ないたい」というメッセージが伝わって来ます。
講演後の話し合いの中で、若いボランティアが東京に帰って皆に語ったという言葉が印象に残りました。「新潟にボランティアに行って良かった。何が良かったかといって『ありがとう』と感謝されることって、とても気持ちがいいんだよ」
中越地震から一年。「今、何ができるか?」考えてみたいと思います。
平成17年9月14日の勉強会の報告
安藤@新潟です
第114回(05‐9月)済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。
演題:『限りなく透明な世界』
演者:上林洋子(視覚障害者福祉協会会員、盲導犬ユーザーの会会員;新潟市)
視覚以外の残された感覚を精いっぱい動員して、私だけの世界を三十一文字に託して表現してみました。
【講演内容】
私は何も見えません。光も色も、明るいことも暗いことも・・・。でも真っ暗闇ではなく、色をいつも意識しています。木の葉のさやぐ音を聞けば深緑を、照りつける日差しに真っ青な空を、朝市できゅうりのいぼいぼに触れればその色を・・・。まさに私独自の色の世界は限りなく透明なのです。視覚以外の感覚で色や風景を31文字に表現してみました。
15歳の時に緑内障と診断され、何度も何度も入院を繰り返しました。県立新潟盲学校に入学し鍼灸マッサージの資格を得ました。
昭和44年、鍼灸マッサージ治療院を開業している先輩と結婚。二児出産。子育ての最中に、どんどん視力は低下していきました。そのころヘルパーさんに短歌を教わりました。
『眠りたる吾子の口元ま探ればミルクに濡れてやわらかきかな』
『かたくりの花に触れつつ色問えば「母さんのセーターとおんなじ色よ」』
『登校の娘が戻り来て庭先の百合が咲きしと告げてかけ行く』
39歳のある晩、急に右眼が痛み、これまで経験したことのないような頭痛に襲われました。翌日大学病院を受診、即日入院。いろいろと治療しましたが、右眼は視力を失い、左眼も微かに見えるのみでした。夫の勧めもあり両眼の眼球摘出を決意しました。
眼球摘出前日に
『明日には除去される眼よ夜のうちに吾のなみだで流さんものを』
眼球摘出した後、ガーゼ交換の時、もう目はないのですが、不思議と色々な色が見えました。
『除去されし眼窩のガーゼ交換のたびに虚像の色迫りくる』
当時の3ヶ月くらいは、毎日死にたいと思っていました。
『吾のみの知れる哀しみ両の眼の義眼洗いて包みて眠る』
次第に子供は成長し、夫は外で活躍、一人家にいることが多くなりました。
『青空を肌で確かむベランダにもたれて盲いし眼をしばたたく』
『路地ひとつ違えたるらし白杖の音の気配に停ずみており』
そのころ夫の勧めもあり、白杖歩行の訓練を受けました。高田盲学校の霜鳥先生が講師でした。
平成7年5月、北海道盲導犬協会から電話があり、盲導犬ユーザーにならないかとのお誘いがありました。七月、新潟から一歩も離れたことのない私は不安でいっぱいな気持ちで初めて飛行機に乗り、協会に入所いたしました。でも、明るく家庭的な暖かい雰囲気に接し、犬嫌いの私も次第に打ち解けることが出来ました。
『眼の澄みしシェル号なりと指導員にわたされしハーネスしかと握りぬ』
盲導犬が来て最初に買い物は、夫の好物でした。
『盲導犬持ちて初なる買い物は夫の好みしビーフステーキ』
シェルが来たお陰で、外出する機会が増えました。盲導犬シェル号との出会いにより、私の生き方も前向きになりました。
『夏帽子ふかくかむりて盲導犬シェル号とはずむ朝の散歩は』
平成9年の夏、すばらしい体験をしました。盲導犬使用者の先輩の発案により、弱視の夫とともに、富士登山に挑戦したのです。無事登頂できたときの感激は筆舌には尽くせません。
『10名と2頭のパーティー遂に今 浅間神社の鳥居をくぐる』
『ご来光拝みて佇む富士山頂の 大気微かにぬくもりてくる』
毎日シェル号と歩くことにより、私も富士山を制覇できるほどの体力がつきました。
7年間一緒に過ごしたシェルと別れの日がきました。
『盲導犬シェルリタイヤの朝七年を使いこし食器おろおろ洗う』
『「ありがとう一緒にいっぱい歩いたね」頭撫でつつハーネスはずす』
平成14年6月、2頭目のターシャ号に代わり現在に至っています。最近は、ターシャを先頭に、私が続き、その後を夫が従って散歩をしています。
『辻ごとに止まるをほめて新しき盲動犬ターシャと心かよわす』
2人の子ども達が巣立った今、仕事や家事の間をみて編みものや読書、草花を育てるなどの趣味を楽しんでおります。また、夫とウォーキングや山登りなどの会に積極的に参加し、これからの人生を有意義に過ごしたいと思っております。「失明」は決して「失命」ではありません。見えなくても、こうして楽しく生きているのだと、多くの人に判ってもらいたいと思います。
【後記】
これまでのドラマチックな半生を、感激したりハラハラして拝聴しましたが、上林さんは淡々とした口調でお話されました。いつまでたっても思いを込めて話など出来ないのかもしれませんが、淡々とした口調に何か重いものを感じてしまいました。 そして短歌の魅力!私は写真が好きで何処でも写真を撮りますが、上林さんはどの場面もその時に詠んだ短歌に思いを込め、記憶に仕舞い込んでいるようでした。子供との思いを詠んだ歌、両眼眼球摘出する前の日に詠んだ歌、盲導犬に思いを寄せる歌、だんな様との歌、どれも素敵でした。人生を豊かにする魔法の手段のような感じがしました。
話の随所に登場する視覚障害を持つだんな様の一言。夫婦ならではの会話。こんな会話に上林さんはどんなにか励まされたことでしょう。
勉強会の最後に、新潟ロービジョン研究会を8月初めに開催した際、ある盲導犬ユーザーの方から、「暑い時には熱したアスファルトで盲導犬がやけどするので」と参加を断られたエピソードを私が紹介しました。そして盲導犬に対する配慮がなくて申し訳なかったとお話した時、「そんなことを言う人がいたのですか。それは違います。ユーザーが暑い日でも盲導犬が歩けるように工夫すればよいことなんです」と、即座に上林さんは言われ、なるほどと合点しました。どんなハンディも乗越えてきた人の迫力を実感した瞬間でした。
今年3月7日新潟日報「日報読者文芸」短歌コーナーのトップに上林さんの作品が紹介されました。
『洗顔の義眼も洗い納むれば(おさむれば)眼に大寒の冷えなじみくる』
選者の馬場あき子「評」 寒水に洗った義眼の冷えに未知のすごさがある。『なじみくる』と詠み納めているが鮮烈だ。
平成17年8月24日の勉強会の報告
安藤@新潟です
第113回(05‐8月)済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。
演題:『多くの方々に支えられて−社会生活力を身に付けるために−』
演者:栗城禎一(鍼灸師;会津若松市)
多くの方より戴いたお力添えを通して、得られたことをお話ししたい。
【講演内容】
昭和21年、福島県と新潟県の県境に近い金山町に生まれました。雪深いところです。玄関は雪囲いをしているためいつも薄暗く、履物を見つけることが出来ずにウロウロしていた私を両親が不審に思い、小学校入学前に眼科医で網膜色素変性の診断を受けました。20km車に乗り、そこから3時間蒸気機関車に乗って会津若松の眼科に治療のため通いました。子供ながら、会津までの駅名、トンネル、橋、会津若松駅から眼科医院までの道のりを全て覚えました。
弱視・視野狭窄・夜盲でしたが、地元の小学校・中学校・高校に通学。バイトも普通にしていました。山に登りカメラで撮影し、写真にして引き伸ばして、自分の目で確認しました。
昭和39年高校卒業後、上京。東大病院など幾つもの大病院で診断を受けました。
何処に行っても診断は同じ、治療法もありませんでした。そのころは視力表を暗記し、視力をごまかして働いていました。
昭和42年夏より会津に戻り、漆器製作者として仕事を始めました。
昭和46年、会津若松で点字講習会があり、点字を取得。卒業生でサークル「ひよこ」を作りました。
昭和47年、結婚。 昭和60年、いよいよ見えなくなってきました。当時3人の子供がいましたが、妻も両親も国立塩原視力障害センターへの入所を許してくれました。 昭和63年、卒業し。三療免許取得して会津で開業しました。
教会に通うようになり、神父様とも出会いました。多くの感化を受けました。
病院に勤めている視覚障害の理学療法士に出会いました。脳性まひでトーキングガイドを用いて電動イスで移動している人に出会いました。「あの人に出来ることは、自分にも出切るだろう」と漠然と思うようになりました。
会津で視覚障害者の歩行訓練講習会を始めました。行政が行なっている歩行訓練は、どうしたら障害者をスムースに移動させることができるかが目的です。私たちの講習会は、視覚障害者が、自分の力で歩けるようになるためには、どうしたらいいのかを意識しています。すなわち社会の中で生きていく力を付けるため、歩行訓練という場を借りて実践しています。
以下が、私のモットーです。1)工夫すること 2)自分が困難であることの内容を相手によく理解していただくこと 3)自分が積極的に働きかけること。
【後記】
今回も参加された方から多くの感想を頂きました。
栗城さんのお話は人ごととは思えず、私も幼少の頃は栗城さんと同じようなことをしながら自分なりの憶え方をしていたことを想い出しました。(IMさん)
この勉強会で拝聴するたびに思うことは、「人との出会いは重要」だということです。障害のあるなしにかかわらず、周囲のあらゆる人々に対して好影響を与えられる人間になりたいと思いました。果たして今の自分は、人にパワーを与えられる存在なのだろうか…?????(SJさん)
栗城さんのお話をお聞きして、栗城さんの強さを感じさせられました。最近、「自助」、「共助」、「公助」とよく言われていますが、栗城さんは「自助」をしっかりと行い、「公助」をうまく活用され、障害のある方に良い環境づくりをも行って、活躍されているのだと感じました。とても勉強になりました。(SAさん)
視覚障害者、聴覚障害者は法律によって、障害を理由に、ある職業に就く機会を奪われていました。いわゆる「欠格条項」です。最近改正されましたが、それまでは視覚障害者が医者に、聴覚障害者が弁護士になることが法律で否定されていました。
個々の能力や才能がどうとかではなく、法律によって、障害を持つ人は、この仕事は出来ませんと社会が決めていたのです。
時には、障害を持つ人も、そのことを理由に様々なことを諦めてしまいます。でも栗城さんには、自分の足りないところは、自分で求めないと補うことは出来ないという強い気持ちを感じました。世で言う「エンパワーメント」。栗城さんのエンパワーメントの源は、身近に障害者で活躍している方がいて、「あの人に出来ることは、自分にも出切るだろう」と思えたことが大きいように思いました。
後日、栗城さんからメールを頂きました。
「視覚が失われることで困難となることも少なくはありません。さりとて、それを悩み・うらんでもなにも解決はしてくれません。ならば、いかにして生きていくことができるのか?『神様は耐えられない苦痛は与えない』とのことでもあります。健康な方が願い望むことは、障害を持つものでも願い望むことです。これは極普通のことではないのでしょうか?
だれの一生でもなく、他人のために生きてるわけではないのですから。少しでも楽しく、目的をもつて日々が送れたらと思うのです。」
栗城さんをますます応援したくなりました。
【栗城禎一さん:肩書き】
鍼灸師 福島県身体障害者相談員 視覚障害者のリハビリをすすめる会「あい・つう」 代表 日本網膜色素変性症協会(JRPS)福島県支部支部長
平成17年7月13日の勉強会の報告
安藤@新潟です
第112回(2005‐7月)済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。
『盲学校弁論大会 イン 済生会』
盲学校で学んでいる生徒たちの新鮮な主張
【講演内容】
1)「点字で変わった私」 片野知美(中学部3年)
小学校の頃は、字を見ると目が疲れ、頭が痛くなるので、本が大嫌いだった。小学校6年の時に、眼科医に「網膜色素変性」と告知された。その時はまだ視力は残っていたが、自分で盲学校への進学を決意した。盲学校で必死に点字を覚え、読書の楽しさを知った。読書が出来るようになり、何事にも自信が持てるようになった。「やれば出切る!」もっと点訳本が早く出版して欲しい。これからは自分から社会に向けて様々な事を発信していきたい。
2)「私はあきらめない」 風岡秀典(高等部普通科2年)
エンジニアになることが小さい頃からの夢だった。中学3年の時に「網膜色素変性」の診断。落ち込んだ。高校から盲学校へ進学。小さい頃からの夢「車・バイクのエンジニア」を諦めかけた頃、本田宗一郎展をみた。昭和20年ごろのマシンが今でも通用する。失敗にめげない開拓魂。プロジェクトXで、チューンの神様・ポップ吉村のことを知り、NHKに手紙をかいたら、本人から返事がきた。ポップ吉村の工場を訪ねることが出来た。私はバイクのエンジニアになる夢を諦めない。
3)「マッサージ業 戦国時代を生きぬく」 齋藤貴史(高等部専攻科理療科3年)
いわゆるマッサージ業は、国家試験を合格した免許所持者にしかできないが、無資格でマッサージ行為を行っている所には、整体・カイロプラクティック・リフレクソロジー(足裏健康法)、エステ等がある。それに対抗するためには、実力をつけること、そして将来はマッサージ研究機関を設立したい。無免許のマッサージ行為を取り締まることに行政は無力である。このマッサージ業界戦国時代を勝ち抜くには、実力で勝負するのが一番。不借身命。目標の達成のためには、私はどんな苦労もいとわない。
【後記】
6月に北信越盲学校弁論大会に参加した3人の生徒に、済生会での弁論をお願いしました。片野さんは期末試験が終わったばかり、飛岡さんと斉藤さんは翌日も試験という状況で、一生懸命弁論を披露してくれました。 爽やかな生き方、考え方に触れるからでしょうか、盲学校の生徒の弁論には毎回感動します。
片野さん 「将来の夢は?」との問いに、「これまでは多くの人に支えてもらった。これからは私が多くの人を支えたい」と語った一言が印象に残っています。
飛岡さん 中学の頃の夢を未だに追い続けるという好青年。何度失敗しても決して諦めない。夢を追いかける少年は昔はよくいたものですが、現在のように偏差値で進路を決められてしまう進路指導では、ほとんどいない。爽やかさと凄さを感じました。
斉藤さん 無免許が横行しているマッサージ業界に対して行政を批判するだけでなく、自らの技術を高め将来はマッサージ研究所を作り、マッサージの技術を追求したいという夢を語ってくれました。毎日夜遅くまで研鑚しているとのこと。大きなビジョンを緻密に実行に移している様を感じ、応援したくなりました。
【全国盲学校弁論大会】
http://www.mainichi.co.jp/universalon/clipping/200210/440.html
1928(昭和3)年、点字大阪毎日(当時)創刊5周年を記念して「全国盲学生雄弁大会」の名称で開催された。当時はラジオ放送が始まったころであった。視覚障害者の存在を世の中にアピールし、社会との接点を持つうえで絶好の機会だった。時代や社会の流れに積極的にかかわっていこうという内容が多かった。
大会は戦争末期から一時中断。47(同22)年に復活。75(同50)年の第44回からは名称を「全国盲学校弁論大会」に変更した。最近の弁論内容は、自らの障害の実態をより具体的に訴え、視覚障害者に対する社会的理解を一層促そうとする傾向がある。
大会の参加資格は盲学校に在籍する中学部以上の生徒。高等部には、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師の資格取得を目指す科があり、再起をかけて入学した中高年の中途視覚障害者も多く、幅広い年代の生徒が同じ土俵で競うのも特徴。
平成17年6月8日の勉強会の報告(演者 関良介 )
安藤@新潟です
第111回(2005‐6月)済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。
演題:『わたしの楽しみ』
演者:関良介(視覚障害者;新潟市)
私の楽しみを語り、「視覚障害者は暗い」というイメージを一掃したい。
【講演内容】
生来視力は悪かった。視力表を暗記していたので、視力検査では0.6以上見えたと判定され、盲学校ではなく地元の小学校に入学した。小学校の低学年では0.3くらいは見えていた。運動は苦手、読書が好きだった。特に『漫画本』は大好き。
小学校の4年ごろから夜盲が始まった。視力も0.1以下になってきた。
小学校6年頃からさらに視力低下。それでも漫画本は好きで読んでいた。0.03以下になると近づけて見るために、鼻が当たらないように顔を横に向けて横目で虫メガネを用いて漫画を読んだ。一頁一時間かかった。漫画は印刷が悪いので印刷の色が顔に付き、そのことから漫画を読んでいたことが親にばれた。視力がそれ以下になると漫画を読むことも断念することになった。
盲学校に転校。点字を習った。目で見ていたころは、字のかたまり(単語)として読んでいたが、点字は一字一字読む。当時の私の力では、点字で速く読めない。点訳もの、テープ図書には真面目なものしかない。読書が詰まらなくなった。
体育の授業で、『卓球(テーブルサウンドテニス)』を体験した。熱中できるスポーツに初めて出会った。熱中し、今でも楽しんでいる。
1980年頃、『コンピュータ』と出合った。「マイコン」と呼ばれていた時代。今ではとても便利でもう手放せないものになってしまった。メールも出来るし、インターネットを利用すると、買い物も読書もできる。
目が見えないときっと毎日辛く悲しい思いをしているんだろうと思われがちだが、そんなわけではない。「障害者は暗くないといけない」という訳でもない。
【講演後の話し合いから】
だんだん見えなくなるときが辛い。早く見えなくなったほうが楽である。体には障害があっても、心の障害は負いたくない。確かに障害は不便だが、不幸ではない。
「障害は個性」 同じ言葉でも障害者自身が言うのと、国が言うのでは意味が異なる。障害者は一つのイメージ(先入観念)で捕らえられ勝ち。日本の障害者は、少数民族。生きているからには、暇つぶしに何か楽しみを見つけなくてはもったいない。
一日は長い、一年は短い。
【後記】
ある視覚障害者の方が、関良介さんのことを「我々視覚障害者の中ではパソコンを自由に操るスーパースター」、と賞賛したことがありました。関さんはメーリングリストでも大活躍です。冷静で丁寧な言葉遣いと、論理的な思考から繰り出す討論には、全国に多くの関ファンがいます。
今回も、淡々と話している姿が印象的でした。何かをしなければいけないということでなく、肩の力を抜いて、やりたいからやるというスタンスに、力強さを感じました。
【関良介氏:略歴】
1956(昭和31)年新潟生まれ。
幼児のころから、水晶体偏位と白内障の診断で治療(マルファン症候群)。
小学4年ころから急激な視力の低下と夜盲が起こり、0.1と0.01まで低下。
小学6年:視力低下、盲学校へ転校。網膜剥離手術を受けるも視力回復せず。
中学2年:視力は手動弁となり、点字を習得。
高校時代:白杖による歩行技術を取得。かな文字タイプを習得。
盲学校卒業後、はり灸マッサージに従事。
1987(昭和62)年:音声パソコン入手。手紙の宛名、文章等印刷が可能となる。
1994(平成6)年:マルファン症候群による動脈瘤乖離発症し、手術。
視覚障害1級に加え、内部(心臓)1級の重複障害者となる。
1997(平成9)年より、県視覚障害者福祉協会へパート職員として勤務。
現在に至る。現在、光覚弁なし。
【マルファン症候群とは?】
マルファン症候群は、身体の結合組織に影響する遺伝子疾患のことで,骨格、肺、目、心臓や大動脈といった多くの器官に症状が現れます(症状の度合いはそれぞれの患者によって異なります)。マルファン症候群患者の約75%が親からの遺伝、約25%は突然変異。発生頻度は人口の約 3000〜5000人程度と言われている。2万5千人〜4万1千の日本人がマルファン症候群。
平成17年5月11日の勉強会の報告(講師 竹田一光)
安藤@新潟です
第110回(2005‐5月)済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。
演題:「障害者地域生活推進特別モデル事業を担ってみて」
講師:竹田一光 (障害者生活相談室「わぁ〜らく」)
福祉職員としての長い経験を基に、福祉の抱える問題点について語って頂きました。
【講演内容】
「福祉の職員として長い間、やってきました」、と話し始めました。
プロの職員といえども、その知識は結局の所接してきた障害者の数だけに限られていることが多い。それなのにプロの職員は、視覚障害者は・・、肢体不自由者は・・、などと一括りに捉えがちだが、一人一人皆状況が違うことを認識しなければならない。施設の員といえど係ってきた障害者の方の固有の障害のこと以外は、素人。判らない職員に説明される当事者の不幸。一人として同じ障害はないのだから、当事者は発言していくことが大事。
統計的には、日本人の24人に一人が障害者である。ところが普段の生活で障害者に出会うことは少ない。これまで障害者は施設で管理するという考えであったが、これからは地域生活支援という考えに変わりつつある。
1)“責任”を教えられずに地域に「放たれた」知的障害当事者
行き先を知らされないまま、やさしく「いい所にいこうね」と車に乗せられるたび、知らない場所に置いてけぼりにされたり、たらい回しにされてきた歴史。嘘で塗り固められてきた歴史。嘘をつかないで接すること、過剰な保護(安全第一は管理に繋がる)を止めることが大切。
2)早期発見早期支援の重要性
自閉症、現在の「視覚化、構造化」等の支援技術、ティーチの技法を早くから親が知る機会があれば、ここまで関係がこじれることはなかったのでは?
3)相談は確かに『面倒くさい』しかし、『面倒くさい』ことの中にこそ、大切なものがある。
人間一人として同じ人はいない。みんな違う。そこで折り合いをつけて、いろいろなことを決めていくのは、とてつもなく面倒くさい。でも、だからこそ、面白みもある。多くの相談は面倒なことが多い、でもその面倒さが魅力でもある。これまで施設には皆に『平等』な画一的サービスを求められてきたが、一人一人に対して、オー
ダーメイドの対応が大切。
4)小さい村ほど、役場窓口での相談は少ない。何から何まで知り尽くされている役場の職員には、出来るだけ相談したくない。 村単位では地域の不文律が出来ていて、障害を隠したり、家族で我慢することが多い。都市の規模が大きくなるほど個々の生活を守ろうという気風がある。一皮向けばみんな同じ悩みを持っている。みんな苦しんでいることを互いに知ることから始まるのだ。本当は、ばれること(みんなに真相を知ってもらうこと)が大切なのだ・・・。
【後記】
時間が足りず、用意したお話の半分で終了してしまいました。しかしそれでも『しょうがいしゃ』と接する場合に大切なことを、充分に語って頂きました。
一人の人間として正直に接すること、早期発見することの重要性、面倒な相談こそ大切であること、村の抱える問題点、昔の社会は吸収力を持ったシステムだった、地域とは、、、、、、。 講演後の討論でも様々なことが、話題になりました。分離教育の生む問題点、障害者との接し方に慣れていない現在の日本、『地域』は健全か?災害時に備えるため「お年よりマップ」が必要と言われた時個人情報保護法がネックとなった、、、、、、、。 では私達はどうすればいいのか?
改めて『しょうがいしゃ』に関する様々な問題点を鋭く論じて頂き、考えさせられた1時間半でした。
【竹田一光氏:略歴】
1980年 東洋大学卒業。国立民営心身障害児・者総合医療療育センター 重症心身障害児(者)施設「むらさき愛育園」(東京)入職。
1994年 新潟市にある身体障害者療護施設「第2みずほ園」入職
2002年 身体障害者療護施設「新潟みずほ園」障害者生活相談室「わ〜らく」専門相談員
2005年 西川障害部門総合センター 障害者生活相談室「わぁ〜らく」
*主な取得資格〜社会福祉士、介護福祉士、介護支援専門員、成年後見人、2級福祉住環境コーディネーター
【障害者生活相談室「わぁ〜らく」とは?】
障害をお持ちの方、そのご家族の方が地域で生活していく上で困っている事、聞いてみたい事などの相談をお聞きしながら、地域での生活を支援し、自立と社会参加を応援する事を目的とし、新潟みずほ福祉会が独自の事業として実施しています。相談にかかる費用は無料です。秘密は固く守られます。まず、お気軽にお電話ください。専門相談員が迅速に対応します。
連絡先:西川障害部門総合センター 障害者生活相談室「わぁ〜らく」
〒959-0423 新潟市旗屋311番地
電話0256-70-4044 FAX 0256-88-5044
E-mail:waaraku@apost.plala.or.jp
平成17年4月13日の勉強会の報告(講師 大橋靱彦)
安藤@新潟です
第109回(2005‐4月)済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。
演題:「あの一言」
講師:大橋靱彦(目の不自由な方のパソコン教室ボランティア)
【講演内容】
「目が悪くなって良かったよなーっ」という会話を、家で奥さんとしているんです、ということから話は始まった。
42歳、自動車免許更新の時に視力が0.6。眼科受診したところ、「網膜色素変性。将来失明します。治療法はありません」と宣告。この一言は胸にぐさっとささり、悲しみのショックだった。家族には心配をかけさせたく無い。地方公務員、事務の処理は続けられる。子供達もまだ高校生。でも47才頃から、視野が狭くなり、視力が落ちはじめた。
49才頃、文字が見えない書けない。その場から逃避したい。自分から勤めを断念。
妻、家族にようやく、病名を告げる。「私が頑張るから」と妻。その一言が、私にとってどんなに大きな支えになったか。今までこらえていた涙がどっと流れ出した。
でもそれからずーっと、将来の事を思い悩み続けた。3月、庭に出て黒土に手をかざす。可愛い芽が、ピョコンと出ていた。「すずらん」だった。草花から生きる力をもらった。それから、今の元気につながる出会いが、7ヵ月程の間にあった。
盲学校に相談に行った。渡辺先生(現在は、新潟市内でマッサージ開業)がいろいろ教えてくれた。傷害手帳、年金、生活用具、点字。生まれて初めて耳にする事ばかりだ。この先生なら頼ることができると思った。何度も巻から新潟駅に電車で、そこからタクシーで盲学校に通った。話して頂いたことはテープに録音し、家に帰って何度も何度も聞いた。何も知らなかったので、本当にありがたかった。先生から目の不自由な仲間も紹介してもらう。そこで、音声パソコンを知った。
講演会に参加してみた。会場で質問した、「針・灸・按摩以外に何かできることはありませんか?」。終了後、千葉の工藤正一先生(厚生労働省、タートルの会)に肩をたたかれ、「大丈夫、いつでも相談にのるからね」と言われた。短い会話だったが、誰からも相手にされない孤独な人間だと、自分で思いこんでいた私ゆえに、嬉しさで涙がこみあげてきた。「よーし頑張ろう」。でも、何をどうしたらいいのかわからない。
信楽園病院の「リハビリ外来」を受診した。山田幸男先生に1時間ぐらい話を聞いてもらった。思い悩んでいる時、話しを聞いてもらえる、はけぐち。どんな薬よりも気持ちが楽になった。「ワープロで文字を書きたい」「みんなに教えてくれるかね」「はい、やりたいです」。この言葉のやりとりで、私の進む方向が決まった。平成7年1月から3月までに独学で、点字、ワープロの操作を習得する。7月から、病院内でのパソコン教室のスタートとなった。目の不自由方々、ボランティアの方々との出会いをいただいたのだ。逆に私は、教えられる事が沢山あり同時に、元気をももらった。
数年後、趣味をも楽しむ余裕が出てきた。花。可愛がって育てると、しっかり答えてくれる。指先に触りながら、その笑顔をカメラに納める喜び、見えない私だが最高なのだ。また「写真展」で、皆様とのコミニュケーションは、数倍の喜びとなる。ハーモニカも耳で覚え、グループの中で活動している。小中学校の、総合学習の授業に参加出来る事も、障害者を理解してもらえる意味で大きな喜び楽しみです。
自分なりの趣味を楽しみながら、地域の皆様と声を掛け合い、和やかに過ごせる日々に感謝している。少しでも、多くの方々と共有する心で、生きがいを持って前進して行きたい。常に挑戦、継続、努力あるのみと話を締めくくった。
最後に、得意のハーモニカで「君の名は」を、演奏して頂いた。
平成17年3月9日の勉強会の報告(講師 粟生田友子)
安藤@新潟です
第108回(2005‐3月)済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。
演題:「中途視覚障害をもつということー生活適応までのこころの過程を振り返ってー」
講師:粟生田友子 福島県立医大看護学部(障害看護学)助教授
【講演要約】
視覚障害にこころを寄せるようになったきっかけは、短大の教育に携わっていたときに企画していた「視覚障害者への接遇技術演習」というものからでした。その後も、大学院での学習や臨床の現場で訓練施設に通う人たちとの交流する機会があり、考えさせられることがたくさんありました。さまざまな障害に対して強い生きる力を発揮している人とそうでない人とを目の当たりにして、人の受けとめ方の違いにとても関心をもつようになってきています。専門的な言葉では、「受容」「自己効力感」などという用語で研究されていますが、その人の固有の体験に着目しています。
現在大学で、障害看護学という科目を担当しています。障害という言葉が当事者にとっては非常に適さないと感じられていることを反省しながら、それに代わる適切な言葉もなかなか見つかりません。
障害を持った方の今の心のありように関連するものとして、幾つかの要因が挙げられます。
『素因』 障害発生時の年齢、それ以前の生き方、、、
『発生の仕方』 突然起こったのか?徐々に進行したのか?日常生活に影響を及ぼす視機能の低下が如何におこって来たのか?どの程度の視覚障害なのかなどが関係する。事故による場合も、自己責任なのか他者責任なのかで受け止め方に差がある。
『今の生活』 障害を受け取る心(あきらめ、成り行きを見守る、増強する危機感、、、)。生活のありよう(残された視覚に頼りきる、日常性の維持、生活の拡大、視覚障害を持ちながらの生活を楽しむ、、、)
『生活の再構築に向ける要素』 人との交わり、家族との距離、自尊感情、生活の保障、役割の確認、将来の見通し、、、、)
中途視覚障害の方々へのインタビューから、立ち直りに向けた色々な分析の実例を
お話します。糖尿病で徐々に視力低下した人、くも膜下出血で急激に視力を失った人、、、、、。主観的な障害体験について、探求する中では、視覚の障害を負った人たちがそのほかの障害を負った人とはとても異なる反応を持つことがあるようです。
例えば「人への信頼」「孤独感」「心的な引きこもり」などは視覚に関連して、とても強く抱く感情体験のようです。人のサポート次第では、これらの感情が根強く残ってしまうことも複数の方々から語られました。
障害後に「自立」を獲得するためには、周りの人のサポートが必要です。その時に大事なのは本人の「心の持ちよう」。何でもネガティブに考えてしまう人は、「私が出来ないのは、○○のせい」と考えてしまいます。
「ビューティフル・ライフ」というTVドラマ(車椅子の少女常盤貴子の苦難と、青年木村拓也の恋愛ドラマ;TBS)で、木村拓也が車椅子を足で扱う場面がありました。「足で扱うなんてとんでもない」という意見が多かったのですが、中に「障害ということを意識しないからできた行動」と評価する意見がありました。
中途視覚障害を負う人たちにとって視覚を失って最初に接触するのが看護師や医療職。その看護師たちが、あまりにも視覚を失うという体験自体を理解していないことに気づかされました。
【粟生田友子先生 略歴】
1980 聖路加看護大学卒業、聖路加国際病院勤務 結婚
1982 埼玉県立衛生短期大学看護学科勤務 成人・老人看護学 講師
1993 聖路加看護大学大学院博士前期課程入学 精神看護学専攻
1995 同修了 聖路加看護大学 精神看護学 講師
1999 福島県立医科大学 看護学部(心理社会看護学部門/障害看護学)助教授 現在に至る
2003 聖路加看護大学大学院博士後期課程 入学
2005 同 修了(予定)
現在、3人の子供の母。夫と子供たちと、義理の父母、この間まで102歳の義祖母、
そして愛犬宇宙(ソラ)ちゃんと同居。
【著書】
QOLを高めるリハビリテーション看護 医歯薬出版 共著
せん妄! すぐに初めてすぐにケア 照林社
看護診断に基づく老年看護学 第3巻 医学書院 共訳 ほか
【講演後の意見交換】
多くの意見が交わされました。 眼科では、失明すると患者ではなくなってしまう。病院で診察を受け医者が説明するとき、医者は家族ばかり見ていて、患者を見てくれない。やる側の論理と、受ける側の論理がある。当事者がどんな不便があるのか、当事者自身が主張していく必要がある。自分の病気のことをもっと知りたい。医療職の一言がとても心を傷つけることがある。言葉はきつくても励まされることがある。お節介ではなく、本当にやって欲しいことを、手助けして欲しい。配慮のない介助は迷惑なことがある。お願いすることも難しいが、好意を断ることも難しい。笑って生きていたい。ナチュラルに接していきたい。看護職の方は病気を通して患者さんと接している、もっと人間として接してもらいたい。家族との関わり合いは時に難しい。大勢の中で孤独を感じることがある、、、、、。
【参加された方のメール】 いくつものメールを戴きました。2つ紹介します。
自然であることが大事だと思います。(途中略)当事者には踏み出す勇気を持ってほしいし、逆に周囲の人々はそれを受け入れる勇気を持たなくてはなりません。(途中略)それぞれが歩み寄ることで“ナチュラル”な社会・人間関係が築けると思いますが、時間がかかるでしょうね・・・。慌てず急いで頑張りたいと思います。
わたしは弱視でスタートし、その後徐々に視力が低下した経過があります。徐々に視力が低下して、これまでできたことが次々にできなくなっていく課程は鬱陶しいもので、いつも不安で、先が見えず、先のことを考えると気分が落ち込んでしまいます。これらから解放されたのは完全に失明して、もうこれ以上視力が低下しないという時点でした。だから、「早く見えなくなるといいですね」と実感を持って言えます。(途中略)
「孤独」ということが何回も出てきました。周りと自分との違いを意識することがこの場合「孤独」ということになるのではと思います。勉強会でKさんが言ってましたね。見える人たちと一緒だと「孤独」を感じるけれど、同じ見えない仲間とのときは何も感じないと。「孤独」とは「疎外」(疎外されていると思う意識)ということなのかもしれません。(途中略)
障害者として医療や看護に当たる人たちへいろいろと言いたいことがあるのと同じように、医療や看護の立場でこうした障害者に言いたいこともあろうかと思います。
そんな意味で「糖尿病で失明した人はとてもあつかいにくい」というのは本音でしょうね。ああした話が出たのはとてもよかったなあ。一方的に障害者が医療・看護に当たる人たちへ求めるというのも関係としてはいびつな気がします。(途中略)
「わたしも将来障害者になるかもしれない」と言われる方がありますが、そんなに無理をされることはないのにと思います。そんなこと思わないのが普通なんですから。でも、障害者を見て、「まあそこそこ楽しくやってる」と思ってくれればよいのでしょう。(途中略)
外には極力出ず、家にいることが多かったですね。そんなとき、家族は放っておいてくれました。まああれはありがたかったです。車でどこかへ遊びに行くっていうんですが、ほとんど行きませんでしたが、わたし以外で行ってくれました。あれでそれなら行かないとなるとこれもプレッシャーです。こんなとき、わたしと家族との間には「壁」があったはずです。しかし、家族の側からこの「壁」を越えては来なかった。そうされるとバランスが保てないだろうと思います。「壁」はバリアでもあるけれどシェルターでもあったと思いますから。(途中略)
見えないことと折り合いをつけるのに約10年かかりました。そんな間も学校に行ったり、仕事をしていたわけですが。葛藤というのでしょうね。見えなくなった立場でも何か意義を探り続けていたというような。(途中略)
障害者には障害者としてのアイデンティティーが必要だと思います。
【後記】
よく「見えないから・・・・が出来ない」ということを言う視覚障害者がいます。見えている者はそう言われるとその通りと思い、手助けすることを(のみを)考えます。でも中には「見えないけれど、・・・・も出来ます」と考える方もいます。哲学者ヘーゲルのことを学ぶ機会がありました。以下に紹介します。
「人間は一般に自分自身をのみ享受せざるを得ない。これと反対の見方は自分の身に降りかかることを、他人やめぐまれぬ事情やのせいにするような見方である。これは不満のもとである。これに反して、自分の身に降りかかることを自分自身の発展とのみ見る人は、自由な人としてふるまうのであり、その人は自分の身にどんなことが起こっても、それは少しも不当ではないのだという信念を持っている。自分に対しても運命に対しても不満を持ちながら生きている人は、まさに自分が他人によって不当な取り扱いを受けているだという誤った考えのために、多くの間違ったことをしでかすものである。もちろん、われわれの身に降りかかることのうちには、多くの偶然もある。しかしこの偶然は、人間の自然性に根ざしているのである。人間が自分の自由を意識していれば、かれの身に降りかかる不幸もかれの魂の調和、かれの心の平和をかき乱すことはない。」ヘーゲル「小論理学」(岩波文庫)より
ソウル・ミュージックのレイ・チャールズは自分が貧しい黒人の家庭に生まれ盲人となった運命を呪いませんでした。レイは自分が黒人に生まれたことも、目が見えなくなったことも他人のせいにはしませんでした。でも、だからといって、盲人だから、黒人だからと、差別されるままにはなっていませんでした。彼は、1961年ジョージア州オーガスタでの人種隔離施設での公演を拒否したことから契約違反として訴訟を起こされ、自分の生まれた州から永久追放されることになりました。彼は大金を失うことになり、自分のファンが大勢いる、つまり一番稼げる州で公演できないことになりましたが、信念を貫き、1979年ジョージア州議会のほうが彼に謝罪し、彼の「わが心のジョージア」を州歌に定めました。(NA)
平成17年2月9日の勉強会の報告(講師 内山博貴)
安藤@新潟です
第107回(2005‐2月)済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。
演題:『左目が見えないってどういうこと?』
講師:内山博貴(介護福祉士)
今回は、甲子園を目指していた球児が、県大会での眼のけがのため大きく人生を変
えた青年のお話でした。まったく暗さなど感じさせない、むしろ我々聞き手の方が元
気をもらうお話でした。
皆さん、私は何か変わったところがありますか?(話し始める前に皆の前で、彼は一回りして見せました) 何にも変わったところがないように見えると思いますが、左目の視力が悪いんです。友達が缶ジュースを投げて渡してくれる時、受け損ないます。「要らないのかい?」と不信がる友人に対し、その度ごとに自分の目が悪いことを話します。
私は左目をけがする前には、「やる気があれば何でも出来る」と思っていました。「何でも楽しくやろう」と前向きな人生でした。高校では大好きな野球をやるために入学早々野球部に入部しました。とにかく毎日欠かさず野球をやりました。早朝40分のランニングをしてから登校。野球部の練習が終わってからも暗くなったグランドで仲間と2時間練習。家に帰り母が作っておいてくれた夕飯を食べて寝る、という生活でした。
高校3年生の夏(2001年)、甲子園を目指し正捕手で参加した県大会予選では、チームも自分も絶好調でした。40年ぶりとなるベストエイトを決めた試合も、6回で7点差をつけて押せ押せでした。自分もそこまで3安打を放っていました。ランナー1塁で打席が回ってきました。サインはヒットエンドラン。打ちにいきましたが、自打球を左眼に受けてしまいそのまま病院に直行しました。
新発田市内の病院で数日入院、その後手術が必要といわれ済生会病院を紹介され受診しました。手術のことは予想していましたが、実際に「入院」「手術」と言われ、ショックを感じ思わず涙が出てしまいました。「見えなくなるんだろうか」、「どうやってこれから生きていけるのだろうか」、とてつもない不安でいっぱいになりました。入院すると看護師さんが結構若くて綺麗な人も多く何となく落ち着きました。でも眼科の手術を受ける前は、「怖い。このまま見えなくなるんではないか?何も出来なくなるのではないか?」と思いました。手術をした後は、「普通に生活できるのか?車の運転はできるのか?」という思いが強く、退院するまで様々な不安がありました。入院中は視力のことも心配でしたが、看護師さんに色々と世話をしてもらうことへの「恥ずかしさ」も強かったです。手術した後は「うつ伏せ」でした。シーツや枕にヨダレがついて汚してしまい、それを看護師さんに始末してもらうのがとても恥ずかしく、いつも母にタオルを用意してもらいました。
入院中は毎日が暇です。同室の患者さんのHさんがいろいろと相談に乗ってくれました。話題はこれからの私の「進路相談」になってしまいました。看護師さんも相談に加わって一緒に考えてもらいました。私は昔から格闘技に興味があってK-1の選手になりたいと言ったのですが、皆そんなことは無視して、看護師ではどうか、とかこれからは介護の時代だとかという話になってしまい、遂には自分の就職口は「介護福祉士」がいいという結論が出てしまいました。
退院してからは「片眼での生活の不自由さ」を感じました。遠近感がないため少しの段差でつまずくこともありました。机の上の消しゴムを取ろうとしても取れない。授業でサッカーや卓球をやっても駄目。でもソフトボールは出来ました。やっぱりむかしからやっていたことは出来るものです。自動車学校での運転や視力検査などでも苦労しました。でもいいつも自分の周りには「助けてくれる人」がいました。
高校卒業後、長岡の専門学校で2年間勉強し、介護福祉士の資格をとり、現在は地元の認知症高齢者グループホームで働いています。老人の方々と一緒にご飯を作り、生活しています。当直もあります。毎日楽しく働いています。
話の最後は、「左眼という授業料を払ったが、学ぶことの多い3年間だった。むしろ怪我をして幸いだった。」という言葉で締めくくりました。 話の内容は、決して明るい話題ではなかったのですが、随所に笑いを取り、爽やかに、茶目っ気たっぷりに話してくれました。
努力して目標に達することは大事なことです。が、それが叶わないとき、あるいはどんな環境であっても、自分を変えて、適応し、前向きになれることはもっと素晴らしいことだと思います。これは手術にも通じることで、術前の計画通りに手術を行うことは初心者にとって大事ですが、熟練した術者は、予定通り行かないときに対処できる方法を幾つか用意して、局面局面で最良の手段を選択しながら手術を終了させます。どんな人の人生も、上手くいくことばかりではないはずです。内山氏のように対処できたら、、、こんなことを考えながら私は聞いておりました。
【内山博貴氏 略歴】
2001年 夏の全国高校野球大会新潟県予選で県立村上高校の正捕手として活躍、ベストエイト進出の原動力となる。同校として40年ぶりの快挙。
2004年 福祉の専門学校卒業後、地元の痴呆高齢者グループホームに就職。現在に至る。
平成17年1月12日の勉強会の報告(講師 守本典子)
安藤@新潟です
第106回(2005‐1月)済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。
演題:『色覚の話』
講師:守本典子 眼科医(岡山大学眼科、日本ロービジョン学会理事)
色覚についての基礎的な話から実際の対処の仕方までの幅広い話を、多くのスライドを用い、1時間余りでエネルギッシュにお話ししていただきました。色覚の奥深さを感じた講演でした。
『皆さんは、幼い頃、黄と青の絵の具を混ぜるときれいな緑になって感動し、これに赤を混ぜると黒くなってがっかりする、という経験がありませんか。あれ?緑と赤のフィルターを通った光を重ねると黄色になるのに???同じ「色」でも、光と物では合わせた結果が違うのですね。』
1)光の波長と色
「色」とは、物の性質ではなく、人の目が受容した光の波長別強度情報をもとに脳が作り出す感覚です。個人差はあるものの、人は最大で 360nm〜830nm(およそ400nm〜800nm と覚えていいです) の範囲の波長の「電磁波」を「光(可視光)」として認識することができます。波長の異なる光は異なる色として知覚されます。例えば、540nm の光は緑、580nm は黄色、660nm は赤として認識されます。しかしながら、540nm の光と 660nm の光を適当に混ぜると黄色として認識されることから、人の知覚は光の物理的な性質を区別しているのではないことがわかります。
光はプリズムを用いると波長により赤、黄、緑、青等に分光することができます。これを可視光の「スペクトル」といいます(ニュートンが命名しました)。波長の長い順に赤橙黄緑青藍菫(ニュートンたちが分けた7色)と並べた色の帯です(紫はスペクトルにはなく、青〜菫と赤の混色からできる色です)。
2)色の配列(互いの位置関係)
色知覚空間は、「色相」・「明度」・「彩度または飽和度」で表されます。(これは物体表面の色感覚を表わす心理的な属性で、物体色に限った表現であり、色光の見え方を表わす場合は、「主波長」・「輝度または強さ」・「純度」が使われます。)
「色相環」は、色の3属性の一つ、「色相」をつなげあって一つの輪にしたものです。これに「明度」と「彩度(飽和度)」を加え、いろいろな「色立体」が作られています。
3)加法混色と減法混色 / 3原色
『太陽光やそれに似た光にはいろんな色(波長)の光が混ざっていて、物に当たった光のうち、その物が吸収せずに反射させた光だけが目に届き、物の色として感じさせます。だから、光は重ね合わせることで強くなり、明るくなります(加法混色:舞台照明のように重ね合わせることにより明るくなる混色)が、絵の具はそれぞれの色が光を吸収し、反射する光は減っていくので、混ぜ合わせることによってだんだん暗くなるのです(減法混色: 印刷のインクや絵の具のように混ぜ合わることにより暗くなる混色)。』
色料(物)の3原色(赤紫「マゼンタ」・青緑「シアン」・黄)は、全部を混ぜると黒になります。物は補色同士を混ぜても黒になります。
色光の3原色(赤=R・緑=G・青紫=B)は、全部を合わせると白になります。光は補色同士を合わせても白になります。
4)日常的な物の色の見え方
『よく晴れた青い空とぽっかり浮かぶ白い雲、雨降り前の黒い雲、美しい夕焼け空、・・・これらは太陽の光がどのように人の目に届いて、そのような変化を見せてくれるのでしょうか?』
青い空は、太陽光のうち波長の短い青い光が空気の分子や塵、埃などの小さな粒子で散乱されたものが人の目に入るためです。夕焼け空が赤いのは、太陽が低いため(真横にあるように見えますね)、目に届くまでにたくさんの空気中を通り、その間に、波長の短い青い光はもちろん、中くらいの緑や黄の光まで遠いところで散乱し、波長が長くて散乱しにくい赤い光だけが残ることになるからです。
白い雲は0.01mmの粒子の集合で、この小さな粒はすべての光を反射するので白く見えます。黒い雲は0.05mmの粒子の集合で、この大きな粒が光を全部吸収してしまい黒く見えます。
バナナはなぜ黄色に見えるのでしょうか?光源から出た光がバナナの表面に当たり、青っぽい光線は吸収され、それ以外の反射した光線が目に届きます。目に入った青以外のいろんな波長の光を、人は黄色と感じるのです。
テレビ画面は光源の3原色(RGB)の混色で色を表現しています。[ RGBの各々に256段階の輝度があるため、RGBでは256の3乗(=約1670万)とおりの輝度の組み合わせ(色)があります。(安藤・補)] テレビの中のおいしそうなバナナは、RとGの光の集合なのですね。
5)色を感じる仕組み
『色の世界は不思議でいっぱいです。人が色を感じる仕組みも、目の網膜から視神経あたりまでは解明が進みましたが、視中枢以降の詳細や、そもそも、神経細胞の電気的興奮でしかない信号がどのように色の知覚を生み出すのか、という最終章の解明には至っていません。』
目に入った光は、網膜の杆体・錐体と呼ばれる視細胞によって捉えられ、神経の活動電位に変換されて、外側膝状体を経て大脳皮質の視覚野へ、さらに連合野へと伝えられていきます。網膜内では、分光吸収特性の異なる赤、緑、青それぞれの視物質をもつ3種類の錐体細胞の出力信号の差が、赤か緑か、また黄か青か、そしてどれだけ明るいか暗いか、という信号に置きかえられて視神経へと伝達されます。「対比効果」や「順応」など、RGBに対応する3錐体に基づく混色の理論だけでは説明できない現象のなぞが明かされてきています(なんと、あのゲーテは、当時からこれら数々の不思議に気づいていたそうです。)
[ 脳内では、他の知覚や過去に得た経験に基づいて調整され、初めて色として認識されます。色は我々の神経系の中で作り出されているのです。例えば、机の上のリンゴを見るとします。光源から発生した光はリンゴに当たり、長波長の光のみが反射して目に入るので、リンゴは赤く見えます。蛍光灯や電球といった異なる波長分布の光を発生する光源の下では、リンゴから目に届く光の波長分布は著しく異なるにもかかわらず、我々にはリンゴは同じように赤く見えます。このような「色の恒常性」の存在は、目から入った光が脳において調整されてから色として認識されていることを気付かせてくれます。(安藤・補)]
6)色覚異常とその対応
[ 日本人の多くを占める黄色人では男性の約 5%( 20人に 1人) が、また白人男性の約 8%、黒人男性の 4%が、赤や緑の混じった特定の範囲の色について差を感じにくいという色覚特性を持っています。日本人女性でも約 0.2% (500人に 1人)が、同様の色覚特性を持っています。これは日本全体では男性の約 300万人、女性の約 12万人に相当します。
「色覚異常」「色覚障害」とも呼ばれるこの色覚特性は、以前は「赤緑色盲」もしくは単に「色盲」ないし「色弱」と呼ばれていました。これは世界的に見れば AB型の血液型の頻度に匹敵するほど多い遺伝的多型 (ポリモルフィズム) ですが、その頻度の高さはあまり知られていません。
一方でメディアの発達により、最近では学術分野でもカラーのスライドによるプレゼンテーションや学術雑誌のカラー図版が増加し、使用している色そのものに重要な情報が含まれているケースが多くなりました。色盲の聴衆や読者は、このようなカラフルなプレゼンテーションから十分な情報を得ることができているのでしょうか?色盲の人を含むすべての人に理解しやすいプレゼンテーションを行うことは、発表者の利益にもなるのです。(安藤・補)]
講演では、引用文献8より抜粋された色覚異常者の見え方のシミュレーションや対応の具体例が示されました。
〔 赤緑色覚異常の見えにくさとその対応 〕
暗い赤は黒に似て見える(強調したい赤が目立たない)→朱やオレンジを使う(白い輪郭を付ける)
暗い緑は赤や茶と似て見える→緑は青味が強いものを使う
明るい緑は黄や黄緑と似て見える→明るい緑は黄や黄緑といっしょに使わない
ホワイトボードでは赤・緑(・黄)が見えにくい→黒の次は青がよい
黒板では赤(・青)が見えにくい→白の次は黄がよい
発光ダイオードでは赤・オレンジ・黄・緑の区別がつきにくい→赤・白・青を選ぶ
色文字は太めに表示する
色名で区別したり指示したりする場合は、その部に色名を記載する
スペクトルの赤と緑、青と紫の間は区別しにくい→赤〜緑と青〜紫の2領域から選ぶ(暖色系と寒色系から選ぶ)
明度、次に彩度の差をつける
色以外の情報を付加する
色以外で区別できるようにし、これに色を添える
例)
・文字説明を付記する
・ 形も変化させる
線:実線・点線・破線など
印:●・▲・■など
・ 凡例を独立させず図中に書き込む
・ ハッチング、境界線、輪郭線、囲み等を付ける
白い紙に明るい黄は使わない
黄を使う場合、黄緑は使わない
紫は青と似て見えるので、赤紫を使う
細い線や小さな字には黄や水色を使わない
白黒コピーをしても写り、区別がつく色にする
色を使うときには色名を述べる
4色の例→赤・青・黄・白、緑・青・黄・白
レーザーポインターは赤より緑が見えやすい
※以上の出典(引用文献8)のHPアドレス
http://www.nig.ac.jp/color
〔 引用文献 〕
1)色覚と色覚異常 太田安雄・清水金郎 著 発行:金原出版
2)眼科診療プラクティス「色覚の考え方」 北原健二 特集編集 発行:文光堂
3)カラービジョン 色の知覚と反対色説 レオ M.ハーヴィッチ 著 鳥居修晃・和氣典二 監訳 発行:誠信書房
4)色彩心理学入門 ニュートンとゲーテの流れを追って 大山 正 著 発行:中公新書
5)21世紀こども百科 「科学館」 発行:小学館
6)道具と機械の本 てこからコンピュータまで D.マコーレイ 著 歌崎秀史 訳 発行:岩波書店
7)ワンダーボックス 色のふしぎ 発行:メディアファクトリー
8)カラーバリアフリー 色使いのガイドライン 伊藤 啓 監修 発行:神奈川県福祉部地域福祉推進課
9)色覚マニュアル−色覚を正しく理解するために− 発行:日本医師会
勉強会講演後の質疑応答では、点字ブロックの色が「黄色」に限定していることの是非、地域による色彩感覚の差(北欧の人の作品は、フランスやイタリアなどに比べると色彩が暗い感じがする、いやそんなことはない、、、、)等々が話題になりました。人工網膜の開発が進んでいますが、色覚に関しては未知の部分が多いようです。
建築物、特に病院のインテリアにどれだけ色覚の配慮がなされているのでしょうか?
済生会新潟第二病院も、ある方から「手すりの色が見難い」と指摘されたことがありました。設計士は、彼らの色彩感覚(美的感覚)で色をコーディネイトしているようです。レーザーポインターは「赤」と思っていましたが、「緑」のレーザーポインターに興味が沸きました。
【補足】時間があれば朗読したかった、と、守本先生が下記の文章を紹介くださいました。
大山正著「色彩心理学入門」(中公新書)の“混色の説明”からの抜粋です。
「スペクトル中の赤の部分と緑の部分をとりだし、これら二つの光を適当な割合で混ぜると、きれいな黄色ができる。これはスペクトル中の黄色と見かけの上ではほとんど変わらないが、物理的にはまったく異なっている。混色によってできた黄色の光はプリズムを通せば再び赤と緑の光に分かれるが、スペクトル中の黄色はもう一度プリズムを通してみても、相変わらず黄色の光である。このように混色は、あくまで感覚的現象であって、物理的現象ではない。混色は一種の錯覚である。もし、人間よりすぐれた感覚をもつ宇宙人がいて、人間が赤色光と緑色光の混合と黄色光の区別がつかない様子を観察したならば、正常者が色覚異常者の色の混同を観察した場合と同じように奇異に感じるであろう。混色の現象は、人間の色覚が不完全なもので、人類全体が一種の色覚異常であることを物語っている。カラー・テレビのブラウン管は黄色の光を発していない。赤色光と緑色光を同時に発して黄を表わしているが、われわれ人間はまったくこれにだまされて黄色と見ているのである。」
また、緑色のレーザーポインターについて、札幌鉄道病院の永井先生からいただいた情報として、国内の製造・販売元等に関するHPアドレスを教えてくださいました。
http://ktg-inc.jp/GreenLaser/PointerTOP/PointerTOP.htm
です。他にも何箇所かあるそうです。
【守本典子先生 略歴】
昭和56年 岡山県立岡山朝日高校卒業、岡山大学医学部入学。
昭和62年 岡山大学医学部卒業、岡山大学大学院医学研究科入学、岡山大学医学部眼科学教室入局。
平成 3年 岡山大学大学院医学研究科修了、土庄町立土庄中央病院赴任。
平成 9年 岡山大学医学部眼科学教室帰局、岡山大学医学部附属病院にロービジョンクリニック開設・担当。現在に至る。
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