済生会勉強会の報告 2004
 

平成16年12月8日の勉強会の報告(講師 高野征雄)

 安藤@新潟です
第105回(2004‐12月)済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。
演題:『乳房の自己検診―乳癌で死なない為に』
講師:高野征雄(秋田赤十字病院外科)
 日本人女性が乳癌にかかる率は年々増加し、現在では乳癌で死亡される方は毎年約1万人と言われている。癌死亡原因では子宮頸癌、胃癌を抜いて、女性壮年層(30〜64歳)の一位。しかし、我が国の乳癌への認識は極めて薄いのが現状。乳癌は、乳房にある乳腺に発生する悪性腫瘍。初期には自覚症状がほとんどない。乳房の変化(乳房のしこり、乳頭から血がまじった汁が出る、乳首の陥没、皮膚のくぼみ、わきの下のしこりなど)に気づかずにそのまま放置しておくと、乳腺の外にまで癌細胞が増殖し、血管やリンパ管を通って全身へと広がっていく。
 早期発見のため、乳房の自己検診が重要。内臓の癌は、発見するのに様々な検査を要するが、乳癌の場合は体表なので自己検診で発見出来る。自己検診を行った人が乳癌になった場合、80%は早期癌で発見される。この段階で発見できると、手術による10年生存率は95%以上。自己検診を行っていない人は、80%が進行癌で発見される。
 乳房の自己検診は、毎月行うのがいい。生理後4〜5日間が適している。閉経後であれば毎月日を決めて行う。ただし「しこり」があっても乳癌とは限らない。一人で悩んでいないで専門家を受診することが大事。
 平成2年と平成7年に2度秋田県内の病院を対象に、乳癌の発生状況と、自己検診の実施状況を集計した。平成2年で274例、平成7年では287例であった。年齢訂正罹患率は10万人あたり28.1人である。どちらの報告でも自己検診施行例では、腫瘤が小さく、病期も低く、自己検診の意義が明らかにされた(秋医誌 48:120−125、1996)。
 医師による視診・触診の検診を嫌う傾向が女性にはある。そうであれば乳房の自己検診は本人に任せ、2年に一度はマンモグラムをすることを勧める。乳房検診にマンモグラムを導入するよう、5年前に厚生労働省から勧告が出された。精度の高い機種で、講習を受けた技師による撮影、講習を受けた医師による診断で精度を上げている。マンモグラムであれば、しこりを形成する前の「微小石灰沈着」の段階で発見することが出来る。日本では乳癌患者が増え、乳癌による死亡者も増えている。米国では乳癌患者は増えているものの、死亡者は減少している。この要因の一つが、米国でのマンモグラムによる検診が増えていることと言われている。この他、有力な乳房検診としてエコーによる検査法もある。

 講演の後の話し合いで、様々な体験談が紹介されました。触診では判らない「しこり」がある。「しこり」に気付いたのに、外科医から「何でもない、大丈夫」と言われ続け、2年目に「乳癌」と判明したなどの特殊例も話題になった。検診でマンモグラムの検査を受けたが、「失敗したので、もう一度といわれた」、、、、、、。
 高野先生は、会場からのいろいろな体験談や感想に、丁寧にまた明快に答えて下さいました。保健婦による乳房自己検診の宣伝は重要で、秋田県ではかなり徹底した教育がなされている。乳癌は一般外科で扱うことが多いが、理想的には「乳腺外来」を開設し、専門家による治療が望ましい。マンモグラムは精度の高い機種でないと充分な成果は期待出来ないが、コストの絡みもありなかなか購入出来ないでいる病院が多い。乳癌検診を標榜していても施設により内容は様々である。手術の方法は患者さんとのインフォームドコンセントを重視して決められる、、、、、、、、。
 乳房自己検診の重要性を、引き寄せるような独特な話術を駆使してお話して頂きました。

 参加された方から、勉強会後メールにて乳癌の手術を体験された方の体験談を寄せて頂きました。「無理を避けること。そして趣味やライフワークは手放さず、前向きに生活するのが一番いいようです」
【高野征雄先生 略歴】
昭和17年:新潟県の旧高田市(現、上越市)に生まれる。
昭和44年:新潟大学医学部卒業。その後4年間の初期研修を新潟大学および新潟県内の病院で行なう。
昭和48年:新潟大学第一外科入局。一般消化器外科、心臓血管、呼吸器外科、小児外科を研修。
昭和56年:秋田赤十字病院第一外科部長。
昭和60年:中心性漿液性網脈絡膜症に罹患 
平成14年3月:同病院を退職。同年4月より秋田赤十字病院に嘱託医師として勤務。現在、秋田県社会保険支払い基金審査委員、秋田県身体障害者審査委員。 
【趣味】診療、人との語らい、マラソン、ビール
@高野征雄先生とマラソン
 高野先生は学生時代に、新潟大学医学部陸上競技部に所属していました。安藤の8年先輩です。しばらくのブランクの後、突如として5年前からそれまで36年間吸っていた煙草を止めて、ウオーキングからジョギング&ランニングを再開しました。今ではあちこちのマラソン大会で活躍されています。応援してくれる身内に感謝しつつ、ランニング後に呑むビールは最高とのことです。



平成16年11月10日の勉強会の報告(講師 林豊彦)

 安藤@新潟です
第104回(2004‐11月)済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。
演題:『障害者の自立を支える生活支援工学‐視覚障害者のための支援技術を中心に‐』
講師:林豊彦
(新潟大学工学部福祉人間工学科福祉生体工学講座教授)
 「生活支援工学」、聞き慣れない分野のお話でしたが、とても魅力的でした。以下にお話の内容を報告します。
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 日本社会は人類がいまだ経験したことのないスピードで少子高齢化が進んでいます。21世紀は社会のあらゆるセクターで、その対応に迫られることになるでしょう。社会の技術的な基盤に係わる従来の「工学」も大きく方向転換を迫られています。「高齢社会」、「障害者の自立支援」に直接取り組む新しい工学も生まれつつあります。それが「生活支援工学」です。
 21世紀は高福祉社会;あらゆる人々が快適で心豊かに暮らせるためには、人に優しくインテリジェントで高機能な機器・システムが必要です。生活支援工学は、そんな人間中心のエンジニアリングを目指します。
1)高齢社会における福祉機器産業
 福祉用具の市場は年々拡張しているが、特に共用品(下記)が伸びています。
2000年度 福祉用具(障害者専用) 11,389億円(対前年度伸び率-0.3%) 共用品 22,549億円(対前年度伸び率21.6%) 合計(広義の福祉用具) 32,421億円(対前年度伸び率13.6%)
*共用品の定義
1.身体的障害や機能低下のある人にもない人にも使いやすい
2.特定の障害・機能低下のある人むけの専用品でない
3.一般に入手や利用可能
4.一般の製品と比較して、著しく高くない
5.継続的に製造、販売、利用されている
日本では人類史上前例のない「超高速高齢化」が進行しています。65歳以上の人口比(高齢化率)が7%から14%になるのに要した年数は、フランスで110年、米国で70年、旧西ドイツで40年であるのに対して、日本はわずか24年です。
 こうした状況は当然「モノ作り」の現場に影響してきます。我が国で福祉機器産業が盛んになってきた背景には、こんな事情があるのです。
2)バリアフリーとユニバーサルデザイン
 バリアフリー社会は、「心身に障害や機能低下がある人でもない人でも分け隔てなく、すべて平等な条件で生活できる社会」と定義されます。ユニバーサル・デザインは、ロナルド・メイス(米国、ノースカロライナ州立大学;1941-1998)により提唱されました。彼は、9歳の時にポリオ感染後、車椅子・酸素吸入を使用しました。
 【ユニバーサル・デザインの7大原則】
1.誰にでも役立ち、購入可能
2.個人の嗜好や能力を許容
3.使い方が理解しやすい
4.必要とする情報を効果的に伝達
5.誤動作時の安全性
6.身体的努力が不要
7.適切なサイズとスペース
 高齢者・障害者への配慮の標準化は、ISO/IEC GUIDE 71 (2001)、JIS Z8071:2003等、世界規模でどんどん進んでいます。
3)「支援工学」小史
 日本では福祉・リハビリに「愛情」と「根性」が大事とされていますが、米国では早くから技術の重要性が指摘されていました。米国で発達した背景として、ベトナム戦争があります。1970年代米国にはベトナム戦争での傷痍軍人が溢れていました。そうした人達への支援が米国内の5箇所のセンターで行なったのが「支援工学」の始まりでした。
1971 Rehabilitation Engineering(RE)の誕生
1973 福祉工学(科学技術庁) The Rehabilitation Engineering Society of North America (RESNA 北米リハビリテーション工学協会)
1980 International Coference on Rehabilitation Engineering(ICRE) (RESNA主催)
1986 日本リハビリテーション工学協会(RESJA)
1990 Americans with Disability Act(ADA法)
1998 日本福祉工学会
2000 日本生活支援工学会
4)高度情報技術(IT)によるバリアフリー化
 健康人が高度情報技術を使用するのは、軽自動車からベンツに乗り換えるようなものですが、障害者の方が高度情報技術を利用するというのは、歩き専門から自動車を運転するというくらいの変化です。視覚障害者の方にとって、今や高度情報技術は「目」の働きをしているのです。
5)視覚障害者の生活支援機器
 我が国における視覚障害者の特徴は、年齢構成で60歳以上が67.2%で、特に70歳以上が多いことです。点字は18歳以上の視覚障害者の9.2%、一級障害者の17.5%でしか使われていません。すなわち点字を用意しただけでは、視覚障害者に配慮したことにはなりません。
 視覚障害者の情報源は、(テレビ)66.9%、(家族・友人)61.0%、(ラジオ)52.1%、(録音・点字図書)7.9%、(パソコン通信)0.3%、、、、、、、視覚障害者の情報は、マスコミや身近な人たちに依存し、支援技術への依存度は低いことが分かります。
:日常生活を支援する機器
 点字、浮き出し文字、拡大レンズ、拡大読書器、白杖、時計(触読式、音声デジタル式)、計量機「さじかげん」、音声ガイド電磁調理器
:コンピュータ利用を支援する機器
 弱視者のための画面設定〜windowsの「ユーザ補助」、ハイコントラスト機能、マウスポインタ設定、画面の拡大、音声合成エンジンの発達により、「話すコンピュータ」(スクリーンリーダーによるテキストの読み上げ)が出現し、全盲の人でも使えるようになりました。
6)リハビリテーション法508の衝撃
 米国連邦政府が調達する全ての高度情報技術機器は、ハードもソフトも障害者がアクセスすることの出来るものに限ると定めました(2003年1月1日完全実施)。政府の予算を受けている州や大学にも適応され、今後障害者が使えない機器を購入した場合は、職員や市民から提訴の対象となるというものです。適応となる製品は、1)ソフトウェア・OS 2)Webサイト 3)電子通信機器 4)ビデオ・マルチメディア製品 5)コピー機、プリンタ、ファックス 6)パソコン
1986 リハビリテーション法に第508条追加 連邦政府職員が使用する、ハードの規定
1992 第508条の改正 ソフトに関する規定の追加
1998 第508条の再改正 ガイドライン作成をアクセス委員会に委嘱
2000 電子・情報技術アクセシビリティ基準の公示(12月21日)
2001 第508条の試行実施(6月21日)
2003 第508条の完全実施(1月1日)
 米国の電子機器企業は、会社を挙げて早くから対応。カナダ・EU諸国は国家レベルで対応。一方、日本は企業単位で対応していますが、米国政府調達品から日本製品の締め出しの可能性もあり、「新しい非関税障壁」となってきています。
7)コンピュータ利用支援センターの必要性
 いくら情報機器のユニバーサルデザインが発達しても、支援機器が発展しても、これだけでは単なるインフラ整備です。使用する人への直接的な支援を行なわなければ利用してもらえません。ここが強調したいところなんです!!
 1989年、米国では子供や障害者の自立支援を目的に、技術を利用する、親・利用者・専門家による「コンピュータ・アクセス・センター」が開設されました。これは、物作りの人と利用者を結びつける組織です。活動の内容は、多彩です。1)技術相談 2)電話相談 3)技術支援 4)子供のコンピュータ・クラブ 5)高齢者のコンピュータ・クラブ 6)オープン・アクセス 7)ハード・ソフトの貸し出し 8)講演・ワークショップ 9)教育用支援技術の研修、、、。活動のための収益の殆どは、企業からの補助金(3兆8千億円;67%)であり、個人からの献金(2千億円;3.4%)もあります。文化や歴史の違いでしょうが、我が国の対応とは大分異なります。
 新潟大学工学部福祉人間工学科では、視覚に障害を持つ人々に対して、自立的に情報を獲得・発信できるようにコンピュータの使い方を個別指導することを目的として、パソコン講習を開催しています。会場は新潟駅プラーカ3にある「クリック」(新潟大学新潟駅南キャンパス)です。どうぞ利用下さい。
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【林豊彦先生 略歴】
1973年3月新潟県立長岡高等学校卒業、77年3月新潟大学工学部電子工学科卒業、 79年3月新潟大学大学院 工学研究科電子工学専攻修了、同年8月新潟大学歯学部助手(歯科補綴学第1講座)87年3月新潟大学歯学部附属病院講師(第1補綴科)、91年4月新潟大学工学部情報工学科助教授(生体情報講座)、95年4月新潟大学大学院自然科学研究科情報理工学専攻助教授(生体情報制御工学大講座)96年  米国Johns Hopkins大学;客員研究員、98年4月新潟大学工学部教授(福祉生体工学講座)
【URL】 http://atl.eng.niigata-u.ac.jp
【趣味】リコーダー演奏,パイプオルガンの組立・調律,英会話,登山など

 エネルギッシュな講演でした。56枚にも及ぶスライド&レジメをもとに、「生活支援工学」に関する広範でかつ最新の話題を、1時間でお話下さいました。内容にも感心しましたが、判りやすい、そして聴く者の興味をそらさない語りは見事でした。
 講演後の話し合いでは、新潟市や加茂市で視覚障害者のパソコン教室を主宰する方々や盲学校の先生から感想や意見が出ました。家電製品のバリアフリーの話題では、視覚障害のKさん、Sさんの活き活きした意見が印象的でした。「N社の洗濯機は駄目。細かい操作が判らない。大まかなことは困らないので、細かい操作にも配慮してくれないと困る」「携帯電話も会社により使い勝手は様々、いいものもあれば、そうでないものも、、、」



平成16年10月13日の講演会の報告(講師 藤井青)

 安藤@新潟です
第103回(2004‐10月)済生会新潟第二病院 眼科講演会2004の報告です。
演題:「眼の話」
講師:藤井青 (ふじい しげる)
新潟医療専門学校教授(視能訓練士科学科長)
(前新潟市民病院眼科部長)
 話の命題は、『人類にとって眼とはなにか?』。文献に裏打ちされた豊富なデータや知識、ご自身で撮られた美しい新潟の風景写真をふんだんに使用し、集まった80名の聴衆を魅了しました。以下、講演の内容を私なりに、感想を交えてまとめてみました。
第1章 「昔の人は眼をどう考えていたか?」
 豊富なスライドを用いて、で古代から人間と「眼」についての係わり合いについて解説。博識に圧倒された。
第2章 「人間の眼は精密なカメラ眼」
 イカやタコの球状レンズ、サソリなどの外部レンズ、カタツムリなどの内部レンズと脊椎動物のカメラ眼を対比させ、人間の眼は精巧で、カメラに例えられることを解説。ここまではふんふんと聞く。
第3章 「あやふやな視覚」
 精密であるはずの人間の眼が、実は頼りない。錯視について様々な例えで具体的に話された。 同じ長さの2本の平行な直線、この両端に「><」と「<>」をつけると、途端に前者の線は後者よりも短く見える(ミューラリーの錯視)。末広がりの斜線の中に平 行な直線を入れた場合、斜線間が広い方の直線が短く見える(ポンゾの錯視)。同じ長さの直線を逆Tの字に直角に描いただけで縦線が15%も長く見える(フィック図形)、、、、、、等々。
 アナモルフォーシス(正面から見ると無意味な模様に見えるが、ある特定な見方をすると絵が現れてくる)は、レオナルド・ダ・ヴィンチにより最初に描かれたものとされているという。さらにメタモルフォーシス(一見普通の絵が、視点を変えてみると男性の顔が女性の裸体に変化したり、昆虫が人間に変わったりする。すなわち変身する)も紹介。日本にもアナモルフォーシス画は存在した。「鞘絵」は刀の鞘に映して見る、、、、、、。もうこの辺りからは、興味津々、メモを取る手がが止まってしまう。
第4章 「もう一つほしい第三の目」
 今見ているものは真実だろうか?というタイトルで始まった。「第三の眼」などというと漫画の世界かと思いきや、実に奥の深い内容だった。流石(さすが)!
 「第三の眼」を持つ三眼の神としては、インド神話のシヴァ神が代表格である。ネパールのある地域では、今も眉間に第三の眼をつけた少女神「クマリ」が生き神様として崇められている。
 オタマジャクシやハヤなどの魚類、カエルなどは両眼を摘出した後も光を感じている。第三の眼の知覚である。未分化の光感覚器を包括して「光受容器」と総称しているが、このうち「松果体;しょうかたい」だけを特に「第三の眼」と呼ぶ。松果体は、トカゲでは頭頂眼としてレンズや網膜が残っていて、今でも眼として認識されている。カエルではレンズが消失して、単に袋のような形になったため前頭器官と称されている。人間はじめ哺乳類では光受容体としての機能は消失し、ホルモン分泌専用器官のように見える。わずかに残されている照度計としての作用が、体内時計として働いている、、、、、、、。
【最終章】
 哺乳類である人類では、松果体は見る器官としての「第三の眼」は失ってしまった。しかし心や精神、知恵、洞察力などとして間違いなく「第三の眼」は残っているし、必要とされている。複雑で分かりにくい現代社会の様々な現象を間違いなく見極めるために、「第三の眼」をしっかりと見開くことが、今の我々に求められている。

 講演後、参加者からの質問が相次ぎました。「眼内レンズ」は、何年くらいもつのか?白内障の手術は、入院ですべきか?外来手術で充分なのか?37歳男性片眼の白内障手術、手術すべきか?これからの白内障手術の将来は?白内障にならないようにする生活習慣とは?目にいい食物は?「メガネ」を掛けていると子供に怖がられるのだが、どうしたらよいか?網膜剥離の手術を受けたが再発が不安だ、、、、、、、、等々。
 どんな質問にもひとつひとつ懇切丁寧に噛んで含めるように説明されていた藤井先生の姿を拝見し、お人柄を垣間見たような気がしました。若い眼科医に、是非学んで欲しいと思いました。
 参加された方々から、以下のような感想を頂きました。
 藤井先生の眼に関する博識については、「眼玉の道草」で驚かされたところですが、今回もまた、わかりやすく、さりげなく、眼の人類史における扱いや錯視という眼の機能の特徴、第3の眼などを説明していただき、普段、「見る」ことにしか関心がない私たちをハッとさせる講演でとてもよかったと思います。 また、白内障の嘘と本当の話は、57歳の私にとって、とても切実な話ですので勉強になりました。講演のあと、白内障に関する質問が相次ぎ、ひとつひとつの質問に丁寧に応えていただいたこともあって、一層、白内障の理解を深めることができました。(HY)
 今回は白内障など患者様の身近な?話題で非常にわかりやすくお話されていたのが印象的でした。又、質疑応答では普段は外来で聞きたいのに聞けない質問が出ていました。それらを丁寧に説明され、藤井先生のお人柄が垣間見えたようでした。(KI)
 眼科Drの講演でアイトリック、第3の目の話を聞くのは、初めてでした。これら話は、日常生活から抜け出し何か忘れたことを思い出すよう感じであり興味深く聞きました。質問も興味深かったです。巷にいわれている「目によくなる食べ物」に結構興味があるものなのだなあとか、保育所の方が、「めがねをかけた人は怖がられるのか」という質問には、きっと日常の現場で子供と接するときにいろいろとご苦労があるのでは・・・と考えたりもしました。(SH)
 講演と質問の時間を合わせると2時間以上に渡り『目の話』をお聞き出来ました。忙しい外来診療をしながらでは、とてもこのような時間をもつことが出来ません。『目』について様々なことを教えて頂きました。私の目論見どおり、藤井青先生の話に、参加者は皆、大満足でした。
【藤井 青 先生 略歴】
昭和40年3月新潟大学医学部卒業。
東京大学医学部付属病院にて医療実地修練
新潟大学大学院博士課程で眼科学を専攻、大学院
新潟大学眼科教室勤務。医局長。
昭和48年9月から、新潟市民病院(眼科部長)勤務。
平成16年3月末日で定年退職。
同年4月から、新潟医療専門学校教授(視能訓練士科学科長)
また新潟県眼科医会副会長として活躍中。
【著書】
藤井青 著 「目玉の道草」
出版社:文芸社
発行日:2004年2月15日
定価:1500円+税
書評:藤井青著「目玉の道草」を読みて 新潟大学名誉教授 岩田和雄(新潟市医師会報、2004年5月号)
 最初のお話「目薬の木」を読み出したとたん、これはもう藤井青君の文章にほかならない、と思えるほどに特徴的な文体が展開する。前著「目玉の散歩」に続くエッセイ集である。藤井青君は、本年3月末をもって、定年となり新潟市民病院開設以来の眼科部長を辞することになったので、記念出版ということになろう。併せてお慶び申し上げたい。  挿入された挨拶状によると、最後の1年は多忙で、1夜がけのような文章になったと記しているが、どうして、中々の出来栄えだ。「道草」と言えば漱石となるが、それは神経衰弱の夫とヒステリーの妻と取り巻きの人々のいざこざを、いつ果てるともなく書き綴ったもの。藤井君の道草は、ほんとうの道端に生えている草を食うが如き実体験が核になっているので、とりわけ味わいも深い。(途中略)
 新潟大学眼科大学院生で、のちに浜松医大の生理学教授となった故森田之大氏の研究テーマであった「第三の眼」が、この本では、歴史的、文化的にポリフォーニックに取り上げられて面白い。 目と眼の違いをとことんまで追及されているのは流石だ。
 詳細は読んでいただくことにして、最後に患者さんに信頼され、愛される「目医者さん」でありたいと心から思っていると結ばれている。立派である。いつまでもこの魅力ある語り口で、あらたなエッセイを「目医者さん」の目で綴り続けていただきたい。
 書評といったものは、賞賛の言葉に加えて、何か一言、評する人の見識を暗示しないと済まされないようなところがある。「目玉の道草」は完璧で、見事で、これ以上何も申すことはない。もしも、何か足りないところがあるとすれば”お色気”かな。これは余計なこと。(2004年3月末日)



平成16年9月8日の勉強会の報告(講師 清水美智子)

 安藤@済生会新潟第二病院眼科です
第102回(2004‐9月)済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。
演題:「視覚障害者の歩行を分析する」
講師:清水美知子(歩行訓練士)
 歩行とは、自分の‘力’で、身体と一体化した自分を、環境の中のある地点へ動かすこと。そのためにはまず‘力’が必要。また、ある地点が認識できなければならないし、そこまでの方向(道順)が分からなければならない。わたしたちはこれらを日々とくに意識することなく行って生活を送っている。しかし、視覚機能が低下すると、とたんに歩行の不自由さを実感する。
 mobility(モビリティ;移動)とmovement(ムーブメント;運動)の違いは?
ムーブメント(運動)とは、例えばエアロビクスなどで脚を挙げる、腕を回すなどということ、必ずしも場所の移動は含まれない。モビリティ(移動)は、場所を移動することである。移動(モビリティ)は、以下の3つの基本成分から成る。
1)境界線(壁、側溝等)に沿って移動する。
2)点に向かって直進する(横断歩道など)。
3)障害物を回避して元の進路を維持する。
 ある地点に到達するには、モビリティに加えて、オリエンテーション、ナビゲーション、そして到達点を同定することが必要である。オリエンテーションとは、周囲の環境から手がかりを取り入れ、組み立て、自分の居場所を認知すること。これには過去の経験も大きく関与する。
オリエンテーションには4つのタイプがある。
1)いま居る場所を知る(答えの例:○○町○○番地、自宅の居間)
2)○○を出発し て、△△に向かって移動中。または○○と△△間のどこか。(例:会社を出て、家に向かっている。居間からトイレへ行く途中)
3)自分は停止している、周囲(人、車など)が動いている(例:人の流れの中に立っている)。
4)自分も周囲も動いている(例:人の流れの中を歩く)。
 ナビゲーションには、○○へ行くという意志と、○○がどこにあるのか、どの方向にあるのか知っていなければなりません。‘土地勘’がない場合は、教わったあるいは調べた道順(例:2つ目の交差点を右に曲がり、3軒目の建物です)を辿る(ルートトラベル)、またはランドマーク(例:東京タワー)を目指すという方法がある。
 やっと目的の場所に着いてもそこが目的のところと気がつかない場合もある。特に目の不自由な場合はそうである。辿り着いた場所が確かに目的の場所であることを知ること(同定)は重要である。
 歩行訓練と云うと、白杖の使い方の訓練とイメージされがちだが、歩行という中には、実はこれだけの内容が含まれている。一人歩きには、歩こうとする地域のイメージを如何に育むかが重要である。
 歩行訓練プログラムが米国から紹介されて40年近く経過した。しかしまだまだ、そのプログラム自体、完璧なものではない。歩行訓練士と訓練をする場合、疑問なことは何でも話したほうがいい。例えば、適切な白杖の長さについての、定説はない。視覚障害のある方は、歩行に関して自分の五感を研ぎ澄まして、歩行の能力を高めることが重要である。今後は視覚障害者の自由な移動、楽しい移動、権利としての移動を目指して欲しい。

 講演の後の話し合いで、新潟の萬代橋の歩道に点字ブロックが敷かれていないことが話題になりました。「点字ブロック」は視覚障害者には便利だけれど、車椅子には邪魔になるといいます。しかし視覚障害者の歩行をサポートするのは点字ブロックばかりではないはずです。点字ブロックが大事なのではなく、視覚障害者の歩行をうまくサポートすることが大事なのです。そうした意味で、障害を持った方は、その不便を語る時には正確に伝えることは大事です。
 今回も参加された方々から、様々な感想を頂きました。一部を紹介します。
 「、、、、、、勝手ながら、困った時、つらい時清水先生が、後ろから応援してくださっているような気になれるんです。
清水先生との回を重ねた勉強会のお陰で、歩行の意義、楽しさを教えていただいたような気がいたします」
 「、、、、、整備されていない環境だから、それが全て歩行を邪魔しているのかと言えばそうでは、ありません。その中から各々が、工夫と言う物が、知らず知らずのうちに身に付くのでは、ないのでしょうか?、、、、、、そのためには当事者が、より多く外出して体で憶えなければならないことは、あると思います。完全でないからこそ人間としての触れ合いも生まれるのではと、思います」
 今回も多くの方が参加されました。改めて皆で「歩く」ことを考えた1時間半でした。
【清水美知子さん略歴】
1976年〜歩行訓練士
1979年〜23年間視覚障害者更生施設施設長
1988年〜信楽園病院(新潟)視覚障害リハビリ外来担当
2004年2月〜Tokyo Lighthouse 理事



平成16年8月11日の勉強会の報告(講師 工藤良子)

 安藤@済生会新潟第二病院眼科です
第101回(2004‐8月)済生会新潟第二病院眼科勉強会の報告です。
演題:「障害者とその家族へのケアを考える
ー視覚障害者の妻の立場からー」
講師:工藤良子(千葉県医療技術大学校第二看護学科長)
1)夫の発病
 夫(工藤正一氏)は、1981年(当時32歳)7月、ベーチェット病と診断された。診察後「ベーチェット病と言われた」と力のない声で電話が入った。「とりあえず病名が判っただけでもいいか」と私は思ったが、夫はその病が失明に繋がることを知っていたようであった。ショックを受け、全身から力が抜け、どのようにして自宅に帰ったか、わからない状態であった。
 夫は発熱と口内炎に悩まされた。結節性紅斑が足首に出てくると痛みのために歩くことが出来なくなる。診断がついて3ヶ月過ぎた冬に、ついに視覚障害が出た。眼の発作は半殺しにするかのように夫を苦しめた。朝、目を開けた時に、壁にかけてある額の「不屈」の字が読めた日は家中が幸せだった。
眼の発作が出て、夫が仕事を休んでも、一緒に休んであげることが出来ない。夫が仕事を辞めるべきか、続けるべきか悩んでいても、どんな言葉をかければいいのか判らず、ただ苦しんでいる夫の背中を見ているだけだった。病気が進行してくると、もうこうなったら手となり、足になる他ないと思い、車の免許を取得した。
2)光を求めて〜5人6脚〜
 現代医療に限界を感じて、漢方薬療法に取り組んだ。毎日10kmのランニングと漢方薬を欠かさなかった。体重はどんどん減り骨と皮になった。この療法に限界を感じていた時に大阪の甲田光雄先生と出会い、甲田療法(生采食療法)を開始した。
 続発性緑内障の手術を受けることになった。術前に「手術して、視力がなくなる可能性もあります」と医師には言われていた。私が病室に顔を出すと、食事に付いてきたプリンを「食べな」と夫が言ってくれる。この時の穏やかな夫の顔を見ているとその日の疲れが癒された。「幸せってこんなことなんだ」と感じた。
 盲学校へ相談しに行ったのがきっかけで、盲学校へ入学することになった。職場を続けながら、3年間学校へ通うためには「自宅での安静を要する」という診断書が必要だった。某大学では「嘘は書けない」と書いてくれない。そこで診断書をかいてくれる病院を探して書いてもらった。盲学校ではPTAの役員まで引き受けた。それまで目の見えない世界など考えたこともない私にとって、本人や家族の抱える問題を知ることが出来た。盲学校での授業は、テープに吹き込んで、家に帰って聞き直し、再度ノートを取り直していた。
 盲学校卒業後、所沢の身体障害者リハビリセンターで訓練を受けて職場に復帰した。当時の夫の名刺は以下の内容であった。「労働省職業安定局 障害者雇用対策課 工藤正一
 障害は人間のひとつの個性 障害者の能力も社会的資源 障害を正しくとらえ 希望するすべての障害者に働く場を そして豊かな社会を」      
 禁句:障害を持っている方の家庭は、常にぴりぴりしている。ある家族には「禁句」がある、「もう終わりね」。
 夫の涙:自分は今まで仕事ができる人間だと思っていた。でも今の自分には仕事が出来ない。よくこんな自分と結婚してくれたな。
 一番苦しい時代:見えるか、見えないかのころが一番苦しかった。見えなくなるとかえって楽になった。
 「お父さん優先の心得」:家庭での生活のすべては、夫優先である。車の免許は夫の送り迎えのため、冷蔵庫の扉は夫のものを置く場所と決めてある。
3)共に学習する姿勢
 夫が自立して職場で、あるいは視覚障害者の中で活躍を始めてくると、支えていた自分の中にだんだん穴が開いてくるようなむなしさが生じてきた。今までは夫のためにと思っていろいろなことを援助してきたが、いまは夫が溌剌と輝いている。それに引き換え自分は…。
 夫のために何かをやるということでなく、それを通して自分自身も成長していかなければならない、共に学習する姿勢が大事だということを学んだ。
4)私を支えてくれたもの
 周囲から「大変ね」とよく言われる。事実、大変であった。でも元気な時には殆ど家にいることがなかったので、夫が眼が不自由になり、送り迎えや勉強の手伝いをすることで、かえって一緒にいられる時間がふえた。
 保育所の仲間や職場の仲間がよく「ご主人はどう?」と声を掛けてくれた。職場では学生達が常に力を貸してくれた。学生に視覚障害者のことを判ってもらおうと話している。でも学生のためではなく、案外自分のためだったのかもしれない。人に話すことで、自分を励まし乗り切ることが出来たのかもしれない。
 幸せなことに、私は必死で挑む夫の姿と3人の子供達の笑顔を見ることが出来た。
5)自分に与えられた「道」と思える心
 盲学校でPTAの役員になれたのも感謝している。同じような問題を持つ家族が集うと、何を話すわけでもないが、「分かり合える」という思いがあり、安心できる場となる。家族のような雰囲気で、お互いに自分の旦那の悪口を言ったり、良いところを言ったり、こんなことが大切。
 今では私は夫の妻に選ばれたのだと思えるようになった。
6)おわりに
 ケアとは何だろう?いたわり、癒し、配慮、関心を持つ。技術、制度、思想、、、、。患者の言葉を代弁してあげることも大事。患者は言いたいことの5分の1も言えない。
 看護とは?「看」という字は、「手」と「目」から出来ている。よく観察すること、必要な時に手助けすることが肝心。
 言葉も重要。大学の外来で自ら経験した。目の病気があって、某大学眼科で検査を受けた。「蛍光眼底検査が必要です。時に血圧が下がることや、ショックになることもあります」、朝降圧剤を内服していたので、「血圧を測って下さい」と頼んだら、「いや、測りません。滅多にないことですから…」。びっくりした。
 患者さんをもっと生活の場に近づけてあげたい。入院している時の患者は、治療や検査を受けているとき以外は暇、やることがない。夫が入院している時、とにかく毎日顔を出し、家族のことを話したり、話をした。病室では話がしにくいので散歩をしながら。  患者の心や生活を支えるのは看護者の役割である。
【工藤良子さん略歴】
1970年弘前大学医学部付属看護学校卒業、その後、弘前大学医学部付属病院、東京医科歯科大学医学部付属病院、国立千葉病院を経て、千葉県医療技術大学校第二看護学科長となり現在に至る。
20年前 ベーチェット病で失明した夫と共に、視覚障害者社会復帰の支援活動を続けている。2000年〜日本ロービジョン学会理事。



平成16年7月14日&7月30日の勉強会の報告(盲学校弁論大会in済生会 パート1&2)
 安藤@済生会新潟第二病院眼科です。
第99回(7月14日)&第100回(7月30日)済生会新潟第二病院眼科勉強会は、全国盲学校弁論大会北陸地区大会に新潟県立新潟盲学校から参加された弁士の方々に来て頂いて盲学校弁論大会in済生会(パート1&2)を行ないました。
『第99回 済生会眼科勉強会』 盲学校弁論大会in済生会:パート1
日時: 平成16年7月14日(水) 16:30〜18:00
場所: 済生会新潟第二病院 眼科外来
1)櫻井孝志 中学部3年 「へレンケラーをめざして」
 生来難聴です。幼稚園の時左眼に怪我、小学校1年の時に右眼に怪我をして、以来私は両目両耳に障害を持ってしまいました。小学校2年から5年まで学校に行けずに家で過ごしていました。障害があって何が一番辛かったかと云うと、学校に行けずに家で過ごした日々もそうですが、50音の発音が出来ないことです。  サウンドテーブルテニス(盲人卓球)の大会がありました。ボールの音を頼りにゲームを行ないます。その時補聴器の電池が切れていて、リーグ戦で9戦全敗でした。悔しかったのは負けたことでなく、補聴器の管理を出来なかったことでした。  確かに、日々の会話やスポーツに不自由を感じることもあります。しかし、へレンケラーに比べれば、私なんかまだまだ努力が足りないです。一歩でも近づけるよう頑張っていきたいです。
【プロフィール】燕市 勉強では歴史、特に日本史が大好き。
2)大渕真理子 中学部3年 「ボランティアを通して」
 視覚障害者がボランティアをするというと、多くの方はびっくりします。確かに拡大本、朗読など、いつもはボランティアをやってもらっています。では障害者が出来るボランティアはないのでしょうか?社会に役に立てることを出来ないのでしょうか?  私の父は、特別養護老人ホームで働いています。小さい頃からホームで遊んでいました。そこでは洗濯物をたたむとか、肩や足を揉んであげることなど出来ることがあります。そうしたことで、おじいちゃんやおばあちゃんが喜んでくれます。入浴後のヘアドライヤー、髪だけでなく足にも当ててあげると、「気持ちがいい」と言ってくれます。私にも人に喜んでもらえることが出来るんです!  外に出ると、時々嫌なことや傷つくこともあります。小学校の子供達から「ネーネー、その目どうしたの?」と聞かれると、傷つき外に出るのが嫌になります。でも私は、家に引きこもるより、社会に出て人に喜んでもらえることを多くしたいです。
 私の4歳年上の姉は、視能訓練士の学校に入学して勉強に励んでいます。お姉さんに感謝すると共に、私も早く社会に出て人の役に立つことをやりたいと思います。視覚障害を持つ私ですが、おじけることなく社会へ巣立っていきたいと思います。
【プロフィール】小千谷市 昨年に引き続いての登場、現在ボランティアで活躍中。

『第100回 済生会眼科勉強会』 盲学校弁論大会in済生会:パート2
日時: 平成16年7月30日(金) 16:00〜17:00
3)岩野ちはる 高等部本科保健理療科2年  「元気の素」
 私には、沢山の友人がいます。いわゆるストリート・ミュージシャンの友人も多いです。年齢も考え方も出身地も様々な彼らと話をしていると、「生きる指針」となる言葉をかけてもらうことが多々あります。「目が悪いと、耳がいいというから、音楽は得意なんだね。アッ差別しているんじゃないんだよ」。「どれくらい見えないの?全く見えないと思っていた。少しは見えるのなら、これからはガイドの仕方を変えなくては、、、」。
 最近進路のことについて悩んでいます。盲学校には幼稚部、小学部、中学部、高等部と過ごしてきました。毎日を何となく過ごしてきました。ここに来て将来何になろうかと考え始めると、悩みが大きくなりました。「実は進路について迷っている」とストリート・ミュージシャンの友人に話すと、「今、絶対にこれになりたいというものがないのであれば、このまま流れに乗って進めばいいんじゃないかな」「理療は気が進まないというけれど、結構やりがいのあることかもしれないよ」。経験や意見を押し付けるのでなく、親身に私のことを思っていってくれる彼らが、私の「元気の素」なのです。
【プロフィール】見附市 ギター片手に歌うのが大好き
4)富樫又十郎 高等部専攻科理療科1年  「これから」
 平成4年に網膜色素変性と診断されました。当時は症状もそれほどでなく、無視していました。平成13年にはついに視覚障害のために身体障害者手帳を交付されました。平成14年秋には極端に視力が低下しまし、今春盲学校に入学しました。  視覚障害になると、何かと歯がゆいことが多くなります。病気の進行から、読書や日常生活も困難になり、これまで歩んできた自分の人生が足元から崩れてくるように感じました。これまで得意の法律を活かして国家公務員として活躍し、余暇には空手をやってきました。でも今では日常の生活すら不便です。ただただ生きる、いや生かされていることが嫌になり、死にたいと思うようになりました。
 そんな自分を奮い立たせたのは若き日の思いでした。その頃を思い出し、朝4時に起きて裸足で走りました。雪の上でした。信濃川の堤防の上を、1時間も走ると全身から汗が出て、湯気が立ちました。その日を堺に生活を変えました。これからの余生を明るく生きていこう、熱烈な恋もしたい、、、。いや余生ではなく、還暦を過ぎた「これから」が私の新たな人生です。
【プロフィール】新潟市 文武両道、現在猛勉強中

《会場からの声》
まっすぐな二人のお話、今回も感動しました。とても健全に成長していることが判ります。家庭の大切さも伝わりました(NA)。
今日はどうもありがとうございました。中学生二人のとても素晴らしい弁論を聞くことができ、実に感動し、励まされました。非常によい体験ができたと思います。二人とも自分といった存在をしっかり持ち、それを言葉で表現し、心に響きました。自分も見習わないといけないと痛感いたしました。本当によい勉強になりました(SY)。
弁論大会用なのだから短時間なのでしょうが、あのお2人はもっとたくさんの魅力を感じさせるのだから、もっと長いお話を聴きたかったなぁ(TA)。
「弁論大会」。お二人の、爽やかで明るい態度。しっかり周りを見つめつつ、自分の 考えを素直に発表されたと思います。真理子さんの応援のため、そして、温かなご家 族の方々にお会い出来るかと思いつつ、おじゃました次第ですが、それが叶いまし た。「まりこちゃん」と肩をたたいて話し掛けましたら、あの頃を覚えていてくださ り「うれしい」と言って、私の手を握ってくれました。あの頃を覚えていてくれたの ですね。感動でした。お二人のすこやかな成長を願っています。この会で、心の栄養 も沢山頂きますが、人と人の出会い再会の場もいただき感謝しています(YO)。
話すのが苦手な真理子にとって、その場で皆さんの感想が聞けたことは大変励みになります。またいろいろな場を与えて頂いたなかで沢山の方たちにお会いし、心が少しでも豊かになってくれたらと思っています。皆さんからいただいたご意見や感想を糧にこれからもすなおに成長してもらいたいと思います。これからもよろしくお願いします(O親)。
100回目なので、一人でも話が聞けるかと思って駆け付けたのですが、間に合わなくて残念でした。でも、100回目だからと大げさなことをしないで、淡々と普通に行ったのがかえってよかったですね。医師と患者との距離を縮め、患者側もここだと医療一般について言いたいことを言える雰囲気もありますね。テーマ、話してもらう人、参加する人も幅広いですね(NM)。
《メールで》
ハンデを持たれた方が、そのハンデを乗り越える勇気を持った時、いきいきと輝いているはずです。そんな彼らの発表を是非お聞きしたかったです(HK)。
ついに100回おめでとうございます(FS)。
第100回の眼科勉強会おめでとうございます。一口に100回と言ってもテーマや講師やいろいろの面でご苦労があったことと思います。申し訳ありませんが私は出席できませんがこれからもがんばって下さい(KY)。
100回、おめでとうございます。何事も継続することは非常に難しいです。「継続は力なり」と言われますが、それに加えて恩師の先生から教えてもらった言葉―「本物は続く」、をお祝いの言葉として送らせて頂きます。これからも益々発展されますことをお祈り申し上げます(MK)。
100回記念おめでとうございます。続けることは大変ですが、今後も目の不自由な方々のためにご活躍を祈念致します(MK)。
第100回眼科勉強会、おめでとうございます。平成8年から続けられたこと、すばらしい財産ですね。こちらまでうれしくなります(YK)。
一言で100回とおっしゃいますが、並大抵のエネルギーでは継続できないと、敬服いたしております。また、どこかでお目にかかりましょう(MN)。
毎回大変興味深い話題を提供しておられる勉強会が100回を迎えられるとのこと,誠におめでとうございます。興味の幅の広さと人脈の広さにいつも驚嘆しております。ますますのご発展を祈念し,200回記念の報に接することを楽しみにしております(KT)。
いつも有意義な情報をたくさんお送り下さいまして、誠にありがとうございます(KK)。
いつも勉強会のご連絡をいただき有り難うございます。今度は100回目の記念すべき会を開催されることに心よりお祝い申し上げます(MI)。
いつも単なる勉強会のご案内ではなく、特に第99回、第100回は盲学校弁論大会の弁士のかたの紹介など、読ませていただくだけで身近にすばらしい考え方、生き方をしている方がいることを紹介して頂けるので、眼科勉強会をこのまま続けさせていただくことにいたしました。何よりも、講師を招いての勉強会を毎月欠かさず、100回続けられたことには敬服いたします(KT)。
眼科勉強会100回おめでとうございます。弁論大会の内容だけ読ませてもらっても日頃、患者さんに伝えたいことが語られているように思い、たくさんの人に聞かせたいと思いました。感動的、刺激的な会になったことと思います(MT)。
素敵ですね。是非眼が見えないことで悩んでおられる方々に聞かせてあげたいですね。先日、眼の見えないバイオリン演奏者のお話をテレビの声だけ聞きました。益々生きるって素晴らしいと感じました。また、五体満足な私が負けてなるものかと奮い立ちました。何人かの人たちが、お話を聞いて生きる勇気を得られると良いですね(FS)。
恥ずかしながら、盲学校生徒の弁論大会があることさえ知りませんでした。しかも戦前昭和3年から開催されている歴史のある弁論会とは。もっとマスコミが大きく取り上げて、視覚障害者の活躍を晴眼者にアッピールして欲しいものです。彼らの励みにもなり、差別意識の解消にも繋がるでしょう(TY)。
プロフィールを拝見し、富樫又十郎さんのように還暦を過ぎてから新たな人生をスタートされているだけでも素敵なのに、障害を抱えていながら、学校に入学されるその意志の強さも、大変興味深いです。岩野ちはるさんは、ストリート・ミュージシャンの友人がたくさんおられるということから、きっと行動的な女性であろうと思いました。輝いているお二人の講演をお聞きしたかったです(HK)。

 勉強会が100回を迎えたこともあり、多くの皆さんにメールを頂きました。参加されなくてもこうした応援メッセージを頂くと『元気の源』になります。ありがとうございました。次回以降の勉強会も盛りだくさんです。参加可能な方、是非ご参加ください。参加できない方、時間がありましたらメールでご意見や感想などお寄せ下さい。


平成16年6月9日の勉強会の報告(講師 小野沢裕子)

 安藤@済生会新潟第二病院眼科です
第98回済生会新潟第二病院眼科勉強会(6月9日)の報告です。
演題:「、、、、、だから、笑おう!!」
講師:小野沢裕子(フリーアナウンサー)
 今回は、昨年4月にお話(声に出して言いたい日本語)して頂き好評だった小野沢裕子さんに、「、、、だから、笑おう!!」と題してお話して頂きました。
***
 これから1時間のラジオ番組『、、、、だから、笑おう!』を始めます。  目指すは「ひこうしょうじょ」の小野沢裕子です。?っ、「ひこうしょうじょ」とは「飛行笑女」のことです。
 かつてNT21新潟で「いきいきワイド」を立ち上げたのは、平成9年でした。1月に阪神大震災、5月にサリン事件があり、9月からの番組でキャスターを務めるように言われました。なんとか明るい話題を提供したいと思いました。疲れて仕事場から帰った人が、ホッとできる番組を目指しました。
 先ずは、とっておきのいい話を2つ紹介します。
 長野五輪の時、新潟でも聖火リレーが行われました。「いきいきワイド」で、最高齢84歳の聖火ランナー西野留三さんを取材することにしました。聖火トーチの重さは1.5Kgあります。西野さんは、毎日一升瓶を逆さまにして持って練習しました。当日は昭和大橋の端から端までが西野さんの担当です。時間が来ました。出発しました。勢いよく、先導車の前を、、、、、。何とか無事に聖火リレーを終え、スタジオに西野さんを招いてインタビューし、西野さんは番組が終わると満足げに、意気揚揚と、練習で使っていた一升瓶を持って帰られました。本番で使った記念のトーチを置き忘れて、、、。
 島倉千代子のショーを、息子さん(当時小学生)と観に行ったことがあります。最前列で観ていました。島倉さんが息子のところへ来て、「ぼうや、『人生いろいろ』という歌、知ってる?」と聞きました。息子は「そんなの知らない!」と答えました。隣りに関西から追っかけで来ていたおばさんがいました。「あんたどッから来た。大阪も新潟も一緒や。これ持って応援しい」とペンライトを渡されました。楽しい思い出です。今でもTVに島倉千代子が映ると、息子は「この人と話をしたことがある」と言っています。最近は「僕、この人と『ため口』きいちゃった。もう少しチャンと話せばよかった」などと言っています。
注:偶然ですが、6月11日新潟日報の「日報抄」に島倉千代子さんの「人生いろいろ」が載っていました。
http://www.niigata-nippo.co.jp/column/old_search.asp

《曲挿入「家庭」伊藤敏博》
 「いきいきワイド」のテーマ曲は「家庭」伊藤敏博さんの作詞作曲です。
 「♪♪誰かが待っていてくれる♪♪一人じゃない♪♪」
 伊藤さんは、「さよなら模様」のヒット曲で知られていますが、当時国鉄マンで、富山駅勤務の車掌、富山駅のホームから当時人気の番組「ベスト10」などに生出演していました。国鉄民営化と共に、退職、歌手活動に専念と聞いています。
《曲挿入「瞳をとじて」平井堅》
 最近、大きな声で笑ったことありますか?泣いたことありますか?笑うこと泣くことは心が感動するという点では一緒ではないでしょうか?「世界の中心で愛を叫ぶ」原作の小説を読みましたか?映画を観ましたか?「冬のソナタ」観ていますか?
 「受け」にも、地域差があるようです。大阪ではとにかく笑わせないと駄目。九州は大袈裟でないと駄目。新潟では泣けるものがいいんです。泣くと心が動く、縛られたものから解放されます。
 三条の駅前に毎朝電車を見に来る永井さんという脳性麻痺の方がいました。通学の高校生に「おはよう」と声を掛けました。最初は反応がなかった高校生もいつしか「おはよう、おじさん」と挨拶をしてくれるようになりました。卒業式が近づき永井さんは、「寂しいな、挨拶をしていた高校生とお別れだ」というようになりました。
そこで「いきいきワイド」では、永井さんを卒業式の日に、高校のグランドに連れて行きました。卒業式が終わると高校生がグランドの永井さんのところに集まってきました。皆は「永井」という名前は知りません。「おはようおじさん」と言っていますが、、。永井さんは、取り囲んで涙を流す高校生を見ながら、「君達は何処に行っても大丈夫だ。だってこのボクに挨拶してくれたんだもの。 君達の心はきれいだ。触ってごらん。涙ってとても温かいだろう。」と笑顔で話していました。
《曲挿入「ああ人生に涙あり」杉慮良太郎》
 笑いっていいですね。一番人間らしい。新生児スマイルなど、とても可愛らしい。 あれは痙攣だと言う人もいますが。金子みすずという詩人を知っていますか?「私と小鳥と鈴と」という詩があります。この詩は「ああ人生に涙あり」のメロディーで歌えるんです。
 私が両手を広げても  お空はちっとも飛べないが
 飛べる小鳥は私のように 地面(地べた)を早くは走れない
 私が体をゆすっても キレイなおとは出ないけど
 あの鳴る鈴は私のように たくさんの唄は知らないよ
 鈴と小鳥とそれから私
 みんなちがって みんないい

 SMAPの「世界に一つだけの花」でも、勝ち負けではなく、一人一人の個性が謳われています。童謡の「チューリップ」などもそうです、「赤、白、黄色、どの花見てもきれいだな」。
《曲挿入「Jupiter」平原綾香》
 そのままでいいんだ。ありのままの自分を受け入れてもらう事、人は他に迷惑をかけて生きるもの、それでいいのではないか!と。
 人に迷惑をかけない人生とは、人と関わらない人生。いいじゃないですか迷惑掛けたって。愚痴を話せる人、「助けて」と言える人がいる人生っていいじゃないですか。誰かが自分を見てくれていると思えると強くなれます。
《曲挿入「桜」河口恭吾》
 毎年年末(12月第一日曜日)に、山口県防府市で「笑い講」が行われます。大きな声でお腹から笑うとお腹がよじれて痛くなりますが、幸せになれます。笑いは笑いを育てます。笑いは人を育てます。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/maturi/maturi35/35_warai.htm

《エンディング「歩歩晴天」THE CONVOY》
 お気に入りのTHE CONVOY(スーパーエンターテイメントバラエティ―パフォーマンスショーを行うグループ)で締めくくりとします。
 さあ皆さん、飛行笑女、飛行笑年を目指しましょう。  提供は、済生会新潟第二病院眼科勉強会でした(笑)。
***
 歌あり、涙あり、笑いありの楽しい、元気をいっぱい貰った、あっという間の1時間でした。
【小野沢裕子さん略歴】
1980 青山学院大学卒業後、BSN新潟放送に入社
1986 結婚退社、以降フリーアナウンサーとしてHBC北海道放送、BSNラジオで活躍
1995〜2002 NT21「いきいきワイド」パーソナリティー。多くのファンを獲得し、新潟一のパーソナリティーとの評価を得る。
現在、フリーで司会、講演会講師、ナレーション。新潟市市政改革創造推進委員。NPO「Made in 越後」会員。



平成16年5月12日の勉強会の報告(講師 池田京子)

 安藤@済生会新潟第二病院眼科です
第97回済生会新潟第二病院眼科勉強会(5月12日)の報告です。
演題:「糖尿病療養指導士って何?」
講師:池田京子(新潟大学医学部保健学科教授)
 糖尿病患者さんが、740万(予備軍も併せると1620万人ともいわれる現在、その予防と対策は国家的な大事業です。患者さんの生活習慣をきめ細かに指導することは、病院にいる医師だけでは不可能です。そこに糖尿病療養指導士の活躍の場があります。一期生が誕生して4年目と、まだ歴史の浅い制度のようですが、患者教育という観点から、なかなか意義のあるもののようです。
 医者が出来ること、看護師が出来ること、栄養士が出来ること、理学療法士が出来ること、それぞれに限界はありますが、しっかり教育された資源が協力することで、患者さんをしっかりサポートできる体制が作られるものと思います。数ある患者教育の中でも糖尿病の患者教育はかなり伝統のあるものですが、この制度が定着すると、さらにパワーアップすることが期待できそうです。
 患者教育を考えた時、そもそも教育とは何ぞやという命題にぶち当たってしまいます。家庭での教育、学校での教育、職場での教育、、、さまざまな場面で今、教育は大切な課題です。人にものを教えることの難しさ、教わることの難しさ。結局、教育とは、知識や技術を伝えることだけではなく、興味や関心を持たせること、やる気を持たせることかもしれません。教える側が自分のやり方を相手に押し付けるだけでは、教わる側の意欲を、削いでしまうだけかも知れません。
 教える者も、教わる側から何かを感じ取って、お互いにキャッチボールが出来るような関係が理想かな、と最近感じています。

 臨床現場で看護師としての経験豊富な池田教授による糖尿病療養指導士の話は、説得力のあるお話でした。また自らが糖尿病療養指導士の資格を取得し実践しておられるとのことです。ますますの活躍を期待しております。

附)日本糖尿病療養指導士のホームページから
http://srd.yahoo.co.jp/PAGE=D/LOC=S/R=1/*-http://www.cdej.gr.jp/
1. 日本糖尿病療養指導士とは、糖尿病とその療養指導全般に関する正しい知識を有し、医師の指示の下で患者に熟練した療養指導を行うことのできる医療従事者(看護師、管理栄養士、薬剤師、臨床検査技師、理学療法士の資格を有する者および准看護師、栄養士の資格を有する者。但し、准看護師、栄養士に対する受験資格附与は平成12年度より平成16年度までとする)に対し、本機構が与える資格である。
2. 糖尿病患者の療養指導は糖尿病の治療そのものであるとする立場から、患者に対する療養指導業務は、わが国の医療法で定められているそれぞれの医療職の業務に則って行うものとする。
※日本糖尿病療養指導士認定機構細則より抜粋
事務所所在地
〒113-0033 東京都文京区本郷4-2-5 MAビル4階
TEL:03-3815-1481 FAX:03-3815-1487

平成16年4月14日の勉強会の報告(講師 櫻井浩治)

 安藤@済生会新潟第二病院眼科です
第96回済生会新潟第二病院眼科勉強会(4月14日)の報告です。
演題:「漱石の心の病」
講師:櫻井浩治(新潟医療福祉大学教授)
【お話のあらまし】
 夏目漱石は、特待生になるほど優秀な成績で、東大の英文科の博士課程を卒業し、選ばれて国費で英国に留学した後、東京帝国大学の講師になり、やがて38歳の時から「ホトトギス」に「我輩は猫である」を執筆連載して文筆家としての名声を得るようになり、やがて朝日新聞社に雇われて、新聞の連載小説を担当し、文豪としての名をゆるぎないものとし、50歳で逝去します。
 この漱石が、実はかなり深刻な、常識を超えた態度や考え、行動を、家庭内でとっていたことが、昭和3年に漱石の妻鏡子によって語られた「漱石の思い出」が出版され、明らかになったのです。このことで、妻鏡子は悪妻にされましたが、その後、漱石の日記が公開され、鏡子の述べたことが、鏡子自身だけの独りよがりの見方ではなかったことが分かりました。
しかし、漱石のこうした傾向は、全く世間に露呈していなかった訳ではなく、例えば英国留学中に、同僚から「夏目、発狂す」という電報が文部省に発せられたこともあったのです。158センチ、という小柄な漱石は、生まれて間もなく里子に出され、養子になり、また、二十歳を過ぎて夏目姓にもどる、など、その生育歴は決して平らなものではありませんでした。母親の愛情を充分には受けにくい環境であったのではないかと思われます。こうしたことが性格の形成に多いに関係したのかもしれません。漱石は生涯に、精神症状のかなりの破綻が見られた時期が、残された記録の上からは少なくとも3回あったように思われます。
 この漱石の精神症状の内容を紹介し、絶えず悩まされた胃症状と精神症状との関係について述べ、漱石が「物を書く」という行為と精神症状との関係、健康における心身相関の関わりとその重要性、そして人間の上辺(うわべ)と内面との隔離が、誰にもありうることと、偉大な業績は、その人の性格行動を超えることのあることを、評論家江藤淳の漱石についての詳細な論述などをも参考にしながら、お話して頂いた。

【感想&講演後の話し合い】
 桜井先生のお話の後で行われた話し合いでは、何故か医師と患者、看護師の役割等のことが中心になりました。病院の診療科は患者のためでなく、医療従事者の都合で分けられているという指摘は新鮮でした。患者が本当の苦しみを話せたのは、医師でもなく、看護師でもなく、掃除のおばさんだったという経験談は考えさせられるものがありました。こうしたことから、医学生は学生実習で、医者のことばかりでなく、看護師や掃除のおばさんと一緒に実習すべきだという意見もありました。
 spiritual pain(霊的苦しみ)を対処してくれるのは、話をきちんと聞いてくれる人という指摘もありました。死を宣告する医師の経験談が話されました。看護師は医師の仕事の手伝いだけでなく、患者の悩みを聞いてあげるのが本来の仕事のはずという正論も飛び出しました(実際には忙しくてそこまで手が回らないという実情も、元看護師さんから話されましたが)。
 「悩める人との接し方は如何したらいいのですか?」という質問に、桜井先生は「その人の話を真摯に聞いてあげること」と答えました。同時にまた、「愚痴を話す人は答えを求めていない」という点も指摘されました。「いのちの電話」の相談員は、一晩中悩みを聞いてあげているうちに、自らがストレスを溜めてしまうことが多いことなどから、相談員に対するケアが必要なことも話題になりました。
 思うに芸術家、研究者や、これまで偉人と称され、多くの偉業を成し遂げた歴史上の人達の中で、家庭を大事にし、平凡な幸せ(これはかなり大事で、また難しいことですが)にしている人は殆どいなかったのではないでしょうか?どこか他の多くの人とは発想とか、観察力が異なっているため、平凡な生活には不向きでも、周囲の人たちの支えがあり、偉大なことを成し遂げられたのではないかと感じました。
 天才は平凡な日常生活が不得手なのかもしれません。漱石の繊細な観察力、思考能力は文学作品から十二分に感じ取れますが、そうした繊細さは日常生活を送ることを難しくしてしまうのかもしれません。
 「心身一如」の医療を主眼とする心身医学に関心を持つ先生ならではのお話と、感心してお聞きしました。たとえ漱石が家庭内において色々なことがあったとしても、彼の文学作品の評価は下がるものでないということ、レッテルを貼らずにその人を全体的に評価しようという桜井先生のお言葉、なるほどと肝に銘じました。

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