石垢の話               ホームへ

川と石  
1.石垢
2.アカを食むことで、栄養価の高い藍藻が増える。
3.石に付くコケ(藻)の量とアユの食べる量
4.鮎の風味
 
 
2003/1/29 作成
2003/9/8 ストロマトライトについて追記
2003/9/19 H15第6回「清流めぐり利き鮎会」結果を追記
2004/2/15 4.鮎の風味に “すし”について を追加
2008/3/6 4.鮎の風味に “アユの香りの正体”を追加


1.石垢
アユは石垢(イシアカ)を唇と歯でこそぎとって食べることは良く知られている。
釣り人がいう石垢とは、川石の表面に付く付着藻類の総称で、藍藻、緑藻、珪藻などがある。

 藻類は持っている葉緑体などの光合成に必要な光を集める色素の色から、藍藻は藍色植物、緑藻は緑色植物、珪藻類は黄色植物に分類されている。これらの藻類は水のある所なら、極地から熱帯まで、どこにでも繁殖している。

 地球上に出現したのは藍藻が最も古くて35億年前といわれ、光合成によって地球に初めて酸素を作り出した生物といわれており、現在も発生当時の古い性質を持ち続けている原核生物(細胞中に核を持たない最も原始的な生物)で、植物というよりはバクテリアと共通した性格を持つ生物である。藍藻の構造は単純で単細胞、または細胞が寄り集まった群体、あるいは細胞が数珠繋ぎになった糸状体です。藍藻の祖先は、地球の酸素の生みの親だったのです。
 藍藻に次いで緑藻そして珪藻の順で地球上に発生したといわれています。
   saikonoshokubutu.PDF へのリンク   ?な生物「ハテナ」

珪藻 日本の川の石に付く付着藻類のなかでは珪藻の割合が一番多く、北の川ほど珪藻の割合が多いといわれる。珪藻も葉緑体を持っていて、光合成を行ない体内に多糖類と不飽和脂肪酸(油)を蓄えている。
日本の川で普通に見られる珪藻は約350種ほどある。
アユが住める程度のきれいな水域では、そのうち約280種位が見られるというが、水の汚れの度合いによって生える種類が違っている。
 ミクロの生物「珪藻」から川の環境を見つめてみよう

 日本の川の石に付着する藻類は、中流域では
★藍藻: ビロウドランソウ(Homoeothrix janthina),ユレモ(Oscillatoria sp.)
★珪藻: アクナンテス(Achnanthes japonica),クチビルケイソウ(Cymbella tumida,C. turgidula, C. ventricosa),
ディアトマ(Diatoma vulgare),ニッチア(Nitzschia dissipata),ハリケイソウ(Synedra ulna)
★緑藻: カワシオグサ(Cladophora glomerate )

などが中心となって付着藻類(石垢)を形成しているようです。

 川には何種類の藻類が繁茂しているのか調べたところ、ダム建設の環境調査データに付着藻類の種類が出ていたので表にしました。(残念ながら、東日本のものは見つけられませんでした。)

分類項目 川辺川ダム
球磨川支流
(熊本県)
嘉瀬川ダム
(佐賀県)
北山川ダム
猪名川支流
(大阪府)
鳥坂ダム
小田川(肱川本流)
(愛媛県)
紀伊丹生川ダム
紀ノ川
(和歌山県)
長良川
河口堰
藍藻綱 10 10 10(24) 16
珪藻網 116 159 86 104(179) 104 99
緑藻網 27 15 11(28) 15
黄緑藻綱 - - - -
紅藻綱 - 2(2) - -
ミドリムシ藻綱 - - - (3) - -
合計種数 154 186 98 127(236) 136 112

(上の表は種類の数で、量がどれ位あるかではありません。)

***
 釣り人が“アオノロ”と称している厄介者は、糸状緑藻類のカワシオグサで、これが増える原因は水の富栄養化と川の撹乱の減少だそうです。
水が富栄養化していなくても、ダムによる流量の安定化と砂利流量減少などにより川床が固くなり(アーマコート現象)流れが一定していると増えるそうです。大水で増水し川が攪拌され石がゴロゴロ転がると、カワシオグサの増殖が抑えられるそうです。ダムなどが無い自然のままが川(友釣)には良いのですね。

***
 ストロマトライト
 オーストラリア西部のシャーク湾に位置する海水の塩分が通常の2倍以上のハメリンプールでは、まるで35〜25億年前の原始の海が再現されたように、原始生物シアノバクテリア(藍藻)の仲間が現在も生息しており、その当時と同じように光合成で生じた酸素の泡を海水中に放出しています。このバクテリア(藍藻)は細胞から分泌する粘液で、海水中に浮遊する微細なミネラルの粒子を捕らえ、炭酸カルシウムと結合させて、ストロマトライトとなづけられたドーム状の石をつくっています。

 ストロマトライトの化石が、西オーストラリアの35億年前の地層中から産出していて、最初に酸素を作り出したのは光合成細菌の藍藻というのが通説だったのですが、次のような研究論文が発表されてこの通説が変わる可能性があります。。

最近次のような研究発表があり、酸素を作った生物の起源が35億年前よりさらにさかのぼるかもしれません。
『最初の酸素発生型光合成細菌はラン藻か? 〜原核緑藻類のクロロフィルb合成 酵素の単離と分子系統学的解析〜
富谷 朗子[京大・理・地鉱],大野 照文[京大総博],田中 歩[北大・低温研] 1999 』
 原核緑藻類(酸素発生型の光合成を行う原核生物でありながら藍藻の持つフィコビリンの代わりにクロロフ ィルbをもつグループ)からクロロ フィルb合成酵素の遺伝子(CAO)を単離して分子遺伝学的手法を用いて光合成生物の進化を解析した結果、
藍藻に先駆けてクロロ フィルbとフィコビリンの両方の色素を持つ酸素発生型原核生物の祖先がいて、
この酸素発生型光合成 原核生物の仮想祖先からクロロフィルbまたはフィコビリンを失うことによって、藍藻と原核緑藻類がそれぞれ生じた。
 というのです。


**蛇足**
 藍藻の一種であるスイゼンジノリ(Aphanothece sadrum)は江戸時代、細川藩の幕府献上品として大切に保護されてきた。近代に入っても懐石料理の吸い物の具として珍重され、九州土産としても販売されている。
 熊本市水前寺公園の江津湖がスイゼンジノリの自生地であるが、最近は特別保護区でも阿蘇の湧水に窒素分が増えて絶滅が危惧さえれている。
 甘木市黄金川流域で養殖されているものは「川茸」または「河茸」という名で販売されている。黄金川の「川苔」(河茸)も江戸時代は秋月藩の幕府献上品とされ、一般の採取を禁じられたという。
****

2.アユがアカを食むことで、栄養価の高い藍藻が増える。
 従来、石垢は珪藻の割合が多く、アユも珪藻を多く食べていると云われたきたが、中央水産研究所の阿部信一郎氏の研究(1996〜2000年)では、従来云われてきたこととは違っている。

図1 アユが石アカを食んでいない石では珪藻が優位だが、アユが石アカを食んで磨かれたところは、珪藻の割合が減り糸状ラン藻Homoeothrix janthina(ビロウドランソウ)が優占になる。これは、実験した人工河川だけでなく、千曲川、木曽川でも確認された。
 また、安部氏らが千曲川で行った調査では、胃内容物の90%以上がH. janthinaの糸状体で占められている個体も多数見られた。(以前は、アユが食べている藻類のうち藍藻は2〜30%で少ないといわれていた。)
 珪藻と糸状ラン藻は、アユの餌としてどちらが良いのか確認実験をした。個体密度を2.5尾/uと比較的高密度の条件下で、人工河川の底に現存量を同一にした珪藻優占群落とH.janthina優占群落を人為的に形成させ、それぞれの人工河川にアユを収容しその成長を比較した.
アユの成長速度は、珪藻優占群落に比べ、H. janthina優占群落を餌として飼育した場合に高くなっていた。
 すなわち、アユが石アカを食んで磨かれたところは藍藻が増え、藍藻の多い石垢を食べたアユの方がよく育つということで、次のように結論している。
そもそも,H. janthina優占群落はアユの摂食によって形成されるため、アユは藻類を摂食することによって自らの餌環境を改善しているものと考えられる。
参照:中央水研ニュースNo.28(平成14年3月発行)
     アユが自ら創る生活空間−アユと付着藻類の相互作用を通して−

***
なわばりアユがコケを食めば食むほどに、そこのコケは栄養価の高い藍藻が増えていくのだそうです。
自然の摂理というものは不思議なものです。

参照:徳島水研だよりVol.50(2004.03)アユの餌,付着珪藻
***

3.石に付くコケ(藻)の量
 アユのなわばり(摂食なわばり)はおよそ1メートル四方といわれてきたが、なわばり内にはどのくらいの食料を確保しているのだろうか。川那部氏の研究では次のようです。
夏の中流域の瀬では、藻類の量は石の表面100cu当たりおよそ2.5g(湿重量)くらいある。川の水面面積1uあたりにすると350gくらいあり、一日にその1/3にあたる115gぐらいが増加している。
アユが一日に食べる量は約20g(湿重量)くらいなので、毎日増える藻を全部食べても1uあたり5〜6尾が住んで成長していける。即ち、なわばりアユは5〜6尾分の食料がある面積を確保していることになる。
***
アユは、一日に自分の体重の15〜25%の量を食べるとも、自分の体重の半分くらい食べるとも報告されている。条件の良い所では、1平方メートルでアユ10尾位が生息できるほど藻類が豊富なところもあるようです。

4.鮎の風味
 江戸時代から東国のアユは大きいが、美味いのは長良川あたりのアユだといわれており、
「本朝食鑑」でも「上都関西濃尾の鮎は、魚の鰭骨の軟脆にして肉脂厚膩、故に味勝れりとす。東州の鮎は鰭骨堅硬にして味美ならずと。故に遠の大井(静岡県大井川)相の根府(神奈川県?川)野の宇都宮(栃木県鬼怒川)武の筑井(神奈川県相模川(上流域津久井郡))魚の肥大なるをもって誇るといへども、然も惜しむらくは骨の堅硬なるおや」と記述されているが、これは鮎鮨(なれずし)にした場合の評価のようである。

 アユの味は、水成岩(堆積岩)地帯のものはうまく、火成岩地帯のものはそれほどでもないといわれてきた。また、石垢のなかの藍藻、緑藻の比率が多いところのアユが味も香りも良いともいわれ、珪藻が優っている北の河川ではアユの成長は良いが、その香りや味においては藍藻などが優っている西の河川が良いといわれていた。しかし、2.項の阿部氏の報告を見ると、また訳が分からなくなる。

鮎塩焼き なんといっても鮎は塩焼きに限るといい、江戸の昔から食通たちがどこそこの川の鮎が一番うまいといろいろ書いている。
 鮎の塩焼きは、昔から産地で食すものと云われており、そのお国自慢は昔から大変なもので、日田鮎、郡上鮎、松原鮎、など○○鮎と呼ばれるものが各地にある。
 どこの川へ釣りに行っても、土手や橋の上で釣り見物をしている土地の老人はほとんどまちがいなく「この川の鮎が一番美味い」という。「この川よりは、あっちの川の鮎のほうが美味い」という老人には会ったためしがない。
経験的にいえば、水深があり水が澄んでいて流れの速い所で釣ったアユが美味かったと記憶しますが、皆さんはいかがですか。
 アユの風味は何によって変わるのか、そこでアユが摂っている藻類の種類も含めて誰か解明して欲しいものです。

 さて、どこの鮎が美味しいのか食べ比べてみようということで、土佐の高知で「清流めぐり利き鮎会」が平成10年より高知県友釣連盟主催で開催されているので紹介します。
 各河川から出品された鮎を塩焼きにして食べ、1次審査の上位のものをさらに2次審査で姿、香り、わた、身、などの項目べつに審査し各審査項目の総合得点の最上位の河川がグランプリ受賞となります。
この清流めぐり利き鮎会の本来の目的は、全国一の河川を選ぶ事では有りません。
本来同じはずの鮎の味が違う事を、どうして違うのかを、一人一人に考えてもらう為に開催されております。
 

    清流めぐり利き鮎会結果
. 参加河川数
(塩焼匹数)
グランプリ  準グランプリ
第1回
H10
高知県のみ
(1200)
安田川
(高知県)
2位は四万十川、3位は松田川
第2回
H11
23
(2400)
神通川
(富山県)
鏡川、仁淀川、安田川
平成11年第2回より全国河川が参加
第3回
H12
34
(2800)
安田川
(高知県)
四万十川(高知県)、仁淀川(高知県)、神通川(富山県)、天竜川(静岡県)、吉野川(奈良県)
第4回
H13
44
(2984)
野根川
(高知県)
土居川(高知県)、安田川(高知県)、悌川(石川県)、千種川(兵庫県)、奈良井川(長野県)、伊南川(福島県)、高梁川(岡山県)
第5回
H14
43
(2860)
和良川
(岐阜県)
長者川(仁淀川水系)、松田川(高知県)、吉野川(奈良県)、藁科川(静岡県)、気田川(静岡県)、馬瀬川(岐阜県)、日野川(鳥取県)
第6回
H15
43
(2800)
松葉川
(四万十川水系)
(高知県)
安芸川、長者川、松田川(以上高知)、長良川、和良川(以上岐阜)、水内川(広島)、阿賀野川(新潟)
高知県友釣連盟 内山顕一理事長が「ことしは全国的な大不漁で開催すら危ぶまれた。40人がかりで1日25匹しか釣れなかった川もある。釣り人一人ひとりの川を思う気持ちを味わってほしい」とあいさつ。その後賞味審査された。(高知新聞9/6)
第7回
H16
46
(2977)
新荘川
(高知県)
伊尾木川(高知)、太田川(広島)、高津川(島根)、長良川(岐阜)、三面川 (新潟)、雫石川(岩手)、赤石川(青森)
参加河川:高知県12、高知県外34 四万十川は不漁で初の不参加となった。
新荘川は高知市の西の須崎湾に注ぐ川でニホンカワウソが最後に目撃された川です。
第8回
H17
45
(3000)
宇佐川
(錦川支流)
(山口県岩国市)
鏡川・伊尾木川(高知)、海部川(徳島)、桧木内川(秋田)、鬼怒川 (栃木)、相模川 (神奈川)、長良川 (岐阜)
第9回
H18
47
(2881)
雫石川
(岩手県)
宇佐川(山口県)、尻別川(北海道)、 小国川(山形県)、相模川(神奈川県)、寒狭川(愛知県)、引原川(兵庫県)、日野川(鳥取県)

雫石川は盛岡市で合流する北上川の支流で、御所ダム上流が雫石川漁協の管内である。
第10回
H19
45
(2709)

寒河江川
(山形県)

揖保川
(兵庫県)

雫石川(岩手県)・板取川(岐阜県)・和良川(岐阜県)・益田川(岐阜県)・
日野川(鳥取県)・木野川(広島県)・海部川(徳島県)

第10回の様子はこちら(四国ちろりん会ブログ)でご覧下さい。

(今年H19年7月〜8月に釣り旅行に出かけた時には揖保川も日野川も絶不調だったんですが、その後持ち直したんですねー。)
第11回
H20
52
(3183)
長良川
(岐阜県)
安芸川(高知県)、美山川(京都府)、日置川、日高川(和歌山県)
神崎川(岐阜県)、気田川(静岡県)、寒狭川(愛知県)

 かつてその名を馳せた郡上鮎がH20のグランプリに輝いた。
 河口堰の稼動で長良川は死んだと思っていたが、再生に向かっているのか?
第12回
H21
48
3119
和良川
(岐阜県)
赤石川(青森県)、荒川(新潟県)、気田川(静岡県)、神通川(富山県)
寒狭川(愛知県)、水内川(広島県)、鏡川(高知県)

 この結果をみて、なるほどと思いますか、おやあの川は?と思いますか。
「清流めぐり利き鮎会」に参加する川も、50〜100尾の鮎を釣って送るのですから大変なご苦労だと思いますが、それぞれに吾が川の鮎の味に誇りを持っている証だと思います。
 それにしても、どの辺りで釣った鮎が出品されたのか知りたいですね。そしてその辺りへ行って釣ってみたいなー。

 アユの香りの正体 new anime1
 アユは、よい香りがするので香魚ともいわれる。
 アユは川に上ると、もっぱら石垢(珪藻・藍藻などの付着藻類)を食べて成長する。夏の盛りにたっぷりと石垢を食んだアユは、芬々とスイカのような芳香を放つ。
 夥しい遡上があった時には、川面を渉る涼風にアユの香りが漂っていたのを今も鮮明に憶えている。「旬のアユは香りがいのち」と今もいわれ、鮎釣りは夏の風物詩として忘れられないものとなっている。
 つい最近までは、釣り人も食通もアユの佳い香りは、アユが棲んでいるその川で食んだ珪藻などの藻類に由来するものだと信じて疑わなかった。今でもそう信じている人たちが多くいるようだ。

 1990年代になって、アユの香りの成分の研究がすすみ、その正体が明らかにされた。
 鮎の芳香の主成分は、(E,Z)-2,6-ノナデイナール(スミレ葉アルデヒドでキュウリらしい香り)、3,6-ノナデイン-1-オール(スイカのような香り、マスクメロンの香り成分)、(E)-2-ノネナール(キュウリのような香り成分)などだそうです。
 これらのにおい物質は珪藻などの食物から取り入れられて体内に蓄積されるのではなく、皮膚や鰓の中に多く含まれるリボキシゲナーゼという酵素の作用によって体内のエイコサペンタエン酸、アラキドン酸などの多価不飽和脂肪酸が分解された後、いくつかの中間体を経て、最終的にこれらのにおい成分になることが解明された。また、これらのにおいの化合物の前駆物質といわれる過酸化脂質もアユの血漿から多量に検出され、とくにアユの季節といわれる7〜8月に顕著に多くなる事もわかってきたそうだ。
 アユの香りは摂った食物から取り入れられたものではなく、体内の酵素の作用によって出来るという。しかし、天然アユと養殖アユとではその香りに歴然とした違いがあるのは、鮎師ならだれもが知っている。また時期や川によっても、においの強いアユが釣れる所と、そうでない所があるのも鮎師は経験している。その違いは、摂る食物によって体内に蓄積されている多価不飽和脂肪酸の割合が異なるからなのだろうか? 最近は養殖アユの餌に植物性のものを混ぜて、香りを良くする方法がとられているとも聞く。

*****
“すし”について
 わが国のすしは千数百年の歴史があるそうだ。その古い記録は駿河より西の諸国のもので、当初は何ヶ月も熟成させる発酵ずし(ナレズシ)であった。すしは時代を経て変化し、その変化のひとつの終末として、もっとも保存のきかない握りずしへ到達した。
 そもそも、すしのルーツは、東南アジアの魚肉保存法だとされ、稲作とともに伝来したといわれる。これは、米飯などのデンプン質をともなう塩蔵発酵食品で、嫌気性発酵によって魚肉の腐敗を抑え、同時に独特の乳酸性酸味を呈する。つまり、飯のなかに塩味をつけた魚肉を漬けて発酵させた漬物の一種である。

 「すし」をしめす漢字には「鮨」と「鮓」とがあるが、古代中国ではこれらは違う食べ物をあらわした。
「鮨」は「魚のシオカラ」で、「鮓」は「塩と米とで醸した漬物」であり、同じような塩蔵発酵食品でも飯の混和の有無で「鮨」と「鮓」とが使い分けられていた。
これが三世紀頃の字典で混用されて、日本にも混用されたまま漢字が伝えられた。実際、平安期に編まれた法令注釈書「令義解(りょうのぎげ)」で、「鮨は鮓のこと」と書かれている。(「寿司」は江戸時代につくられた和製漢字(当て字)だそうです。)
 古代のすしの材料は、魚と米と塩のみであったが、平安期には発酵を早めたり味を甘く仕上げるために糀が加えられるものも出てきた。また、これらにトウガラシ、ショウガ、ユズなどの香辛料を加えるものも作られるようになった。
通常、魚は塩漬けにされたものが使われ、長く塩漬けされたものはその期間にあわせて、塩出ししてから飯漬けにされ、発酵期間は短いもので2〜3週間から長いものでは数ヶ月である。
 発酵ずしは保存食であるという説があるが、琵琶湖周辺の今日のフナずしを除けば、ほとんどのすしは漬け上がると美味しく食べられるのは1〜2週間程度であり、ハレの日の御馳走と考える方が良いようだ。

 かつては、フナ、アユに限らずあらゆる魚が「すし」に漬けられていた。
川魚では、ウグイ、オイカワ、モロコ、ニゴイ、ハス、ドジョウ、ナマズ、ヤマメ、アマゴ、イワナなどがあり、
海魚ではアジ、サバ、イワシ、フグ、タイ、キス、グチ、ベラ、イカ、タコ、コノシロ、シイラ、サワラ、イナ、クロダイ、エノハ(ギンダイ)、サケ、マス、ニシン、ハタハタなどで、手に入る魚であればなんでもすしに漬けられたようである。

 さて、アユずしは古くから知られているが、今も続いているものはまれである。
 宮川流域にある伊勢市佐八(そうち)の宮本神社への奉納アユずし;十月中旬の落ちアユを塩漬けにし、十一月に飯漬けをして、一月十一日に宮本神社へ奉納する。佐八のアユの由来は名高く、伊勢神宮への献上を常としてきたことが宮本神社文書「内宮年中神役下行記」(平安末〜鎌倉初頭)に記されているそうで、元旦に皇大神宮(内宮)へアユずしを奉納することが江戸中期まで行われたと伝えられ、その翌日が宮本神社への奉納であった。
  *三重県伊勢市のアユなまなれずし

 美濃国のアユずしは「延喜式」にもその名が見られ、天下の逸品の誉れ高く、多くの文献に書き記されている。江戸時代には、尾張徳川家の御用となり、将軍家をはじめとする貴人各方面に献上された。すしに漬けるアユは鵜アユと定められており、それを確保するために尾張藩は鵜飼を保護し鵜匠にかずかずの特権を付与していた。鵜匠の役目はアユを捕ることで、鮓の調整は、世襲制の専門の職人が代官所の立会いのもとで行われた。
 徳川将軍家への献上アユずしは、将軍がお召しになる日から逆算してつくられた。アユを捕る鵜飼漁もそれによって期日が決められ、漁は二日間と定められていた。
 金華山を間近に見上げる岐阜町に「御鮓所【すしどころ】」という献上ずし調製所が設けられ、お鮓元【すしもと】と呼ばれる働き手が専用の風呂で身を清めてからマスクをし、手拍子を合図に作業を行った。一日目に捕られたアユは三日三晩、二日目に捕られたアユは二日二晩、それぞれ塩漬けにされ、そのあと同日に水で洗って塩出しして腹に飯を詰めて、これを桶に飯と詰め、ふたを万力で強く押し込み、そのままの状態で縛られた。
 できあがったアユずしは、1桶20匹、4桶で1荷、一度に3人の人足により御鮓所を出発し、岐阜から尾張、江戸に至るまで5日間という決められた日程で、荷物には外箱の鍵、宿次御証文とその写し、添書、刻付表を備えるなど万全の体制で搬送された。
献上鮎ずしを運ぶ一両日前には「先触れ」を出して、江戸に着く正確な時を知らせたといわれる。
 美濃鮎鮨の献上は5月から9月にかけて年10回程行われ、そのすし桶の数も他藩と比べものにならないほどだった。
 残念ながら、明治維新とともに美濃鮎鮨の献上は途絶えてしまい、当時の製法で作られるアユずしは今は無い。

 釣瓶ずし;浄瑠璃『義経千本桜』には、大和・吉野の「釣瓶ずし」が登場する。これは実在のすしで、江戸時代には、幕府や千洞御所(せんどうごしょ) にも献上された。『義経千本桜』は歌舞伎や文楽の流行により人々の知る所となり、釣瓶ずしの名も世にいっそう広まった。奈良県下市町に「釣瓶ずし」という寿司屋が今もあるそうだが、20年ほど前に発酵ずしの製造はやめて、現在は、酢を使った早ずしを商っているという。

 酢を使うすしは、元禄以降にはじまったようで、1.「魚にのみ酢をあてる」、2.「飯のみに酢をあてる」、3.「魚と飯との双方に酢をあてる」の三通りある。1.のものでは「一夜鮓」、2.のものは「鮒早鮨」、3は明和の「当座鮓」などであるが、酢をあてたからといって即座にたべられるわけではなく、「当座鮓」でも漬けてから一日置いてから食べた。
 すしを手早くつくる手段としてさまざまな方法が講じられ、さまざまな「生ナレ」ずしがうまれたが、次第に酢を使う方法に収斂されていった。「早ずし」の主流は酢を使うものになり、その「早ずし」がすしの主流になっていった。
時代を重ねるにつれ、巻きずし、箱ずし、こけらずしなどが考案され、具も魚だけでなく筍、茸、アブラゲ、コンニャク、卵、野菜などが使われるようになり、山海の珍味を飯に混ぜ合わせるちらしずしの原型も生まれた。

 握りずし;江戸後期、時は文政、場所は江戸市中、さまざまな形態のすしが生まれるなかで、その最後を飾って登場したのが「握りずし」である。時代は、地方農村が荒廃するころで、職を求める人々が集まってくる江戸は、とりわけ出稼ぎの男性人口が増えた。そういうなかで、稼いだ日銭で外食するという習慣が定着し、江戸の街では低廉な一膳飯屋や屋台の食い物売りが軒を連ねるようになった。

 屋台店の図
 此ニ横木アリテ他ニ移スニハココニ枴ヲ掛け荷ヒハコブ
 京坂ニハ此以上ヲ造ラズ是ヨリ以下ノ如キ台而巳ノ店多ク亦図ノ如ク屋根アルモノモ往々有之
 此障子アルハ甚稀也    (「守定謾稿」喜田川守定 より)

 すし商もその例外ではない。そんななかで、握りずしが登場した。考案者は特定されないが、歩き売りから商売をはじめて、超高級店にまで成り上がったすし商・華屋与兵衛の改良により江戸中の評判になったという。
 初代与兵衛のころに商っていたのは箱ずしで、握った飯に魚の切り身を貼り付け、笹の葉で仕切りをしながら箱の中に並べて重石をかけるものであった。初代は、長い時間押圧を加えるのは、たしかにすしは日もちはするが、あまりに悠長であるし、せっかくの魚の脂気が抜けてしまう、と従来の製法を嫌い、即座に握って食べさせるすしに改良したのだという。
 初代与兵衛以前にも握るすしはあったことは明らかで、かれは「握りずし」の発明者ではなく、改良者であった。
 当時は冷蔵庫など無い時代であったから、切り身を下処理をして味付けしたものを客に供していた。例えば、「クルマエビは、ゆでて塩をふり、酢で締める」、「シラウオはみりん・醤油・塩で煮る」、「コハダは塩締めの後、酢で締める」などである。「刺身」を握る時にはワサビを入れるとしたのは、ワサビは古くから魚毒を消す作用をもつといわれてきたからである。
 「うちのすしダネはどれも下仕事がしてあるから、つけ醤油はいりません。お客さんに味つけさせるなんて、そんな失礼なことはさせません。」というすし職人の話しが残っているそうである。また、元来は合わせ酢には砂糖は入れなかったものだそうだ。
 握りずしは、超高級なすし屋と、市井の屋台店の双方で商われていたが、大多数の庶民が口にしたのは屋台店のものであった。もともと江戸のすしは、歩き売り(すしを入れた箱を担いで売り歩く)や、屋台売りの低廉な食べ物で、すし屋はあらかじめすしを握って並べておき、客はそこから好きなものを選んでつまんだ。
 一方店舗を構える高級すし屋は、いわゆる料亭形式で座敷に客を上げ、そこに料理を運び込むものであった。しがって、料理人と客は直接顔を合わせることはない。ところが、屋台屋のあまりの流行ぶりに、店舗構えのすし屋のほうが迎合するようになり、店に屋台を併設したり、店内に屋台らしき場所を作ったりした。かくて、店舗を構えるすし屋においても、料理人と客とが向き合うこととなり、これが後に、握りずし屋のお定まりのカウンター形式になったのだという。
 握りずしは、当初より、場末の屋台でも高級店でも、売られる商品であって「外で食べるもの」、「買って食べるもの」として人々に受け入れられた。
 江戸時代以来の伝統であった露天のすし商や屋台店は、その後、衛生上の問題および交通安全の見地からしだいに淘汰され、結果的に、多少値の張る店舗構えのすし屋が、すし商の主流になった。そのような訳で、握りずしが高級和食の部類に属するのは、こうした背景によるようだ。昨今は、早く・安く・美味いを売り物にする回転寿司が各地にでき、江戸の昔の庶民の食べ物の雰囲気を取り戻しつつあるようだ。

 稲作とともに伝来した発酵ずし(ナレズシ)は、今は都市部ではほとんど見られず、地方にかろうじて残るだけのようだ。
特に鮎鮓は、奈良時代から記録に出てくるのだが、神饌とか貴人への献上とかで庶民の食べ物ではなかったせいか、美濃鮎鮨は明治維新を境にして廃れてしまい、古来からの製法を知る人も絶えて久しいという。
 昨今は、都市部はもとより地方でも“ハレの日”の概念が薄れてしまい、ハレの日の御馳走であったナレズシは次第に忘れ去られ、千年以上続いた食文化が消え去ろうとしている。

 アユのナレズシを名産としている所がいくつかありました。他にもあると思いますが・・・
【安曇川】滋賀県高島郡朽木村
【熊野川】三重県南牟婁郡紀宝町、和歌山県新宮市
【江の川】広島県双三郡作木村

 幸いにも、アユのナレズシの作り方が下記のホームページに出ていましたのでご覧下さい。
SEKIHARA'S home page 鮎ロマンを求めて」→“鮎料理でおもてなし”→“おしながき”→“鮎なれ鮨

すし全般については、こちら『すしの事典』(静岡市草薙の魚竹寿しのページ)でどうぞ。

参考書:「すしの歴史を訪ねる」日比野光敏、1999岩波新書(新赤版)