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新しい歴史教科書1

歴史を学ぶとは
 歴史を学ぶのは、過去の事実を知ることだと考えている人がおそらく多いだろう。
しかし、必ずしもそうではない。歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことなのである。
 今の中学生にとって、中学校に通うことは空気を吸うように当たり前のことであり、日課であるが、ほんの半世紀前までの日本人の中には、中学校に行きたくても行けない人がたくさんいた。それより前の時代には、小学校にも行けず、78歳で大きな商店の丁稚や豊かな家庭の使用人として働く子どもが少なくなかった。どんなに勉強がよくできる子どもであっても、教育は権利だと法律に書かれていても、国の生産が低く富が限られていた時代に、公平は単なる理想にとどまっていた。今の中学生のお祖父さんやお祖母さんの世代がよく知っていた現実である。

新しい歴史教科書2

そのような不公平が実際にまかりとおっていた社会に不快を覚え、ときにひそかにいきどおりを感じて、なぜもっと社会的公正が早くから行われなかったかという疑問や同情をいだく人もおそらくいるだろう。しかし歴史を知るとは、そういうこととは少し別のことなのである。
 当時の若い人は、今の中学生よりひょっとすると快活に生きていたかも知れないではないか。条件が変われば、人間の価値観も変わる。
 王の巨大墳墓の建設に、多数の人間が強制的にかり出された古代の事実に、現代の善悪の尺度を当てはめることは、歴史を考える立場からはあまり大きな意味がない。

新しい歴史教科書3

歴史を学ぶとは、今の時代の基準からみて、過去の不正や不公平を裁いたり、告発したりすることと同じではない。過去のそれぞれの時代には、それぞれの時代に特有の善悪があり、特有の幸福があった。
 歴史を学ぶのは,過去の事実を知ることでは必ずしもないと言ったが、過去の事実を厳密に、そして正確に知ることは可能ではないからでもある。何年何月何日にかくかくの事件がおこったとか、誰が死亡したとかいう事実はたしかに証明できる。それは地球上のどこにおいても妥当する客観的な事実として確定できる。けれども、そういう事実をいくら正確に知って並べても、それは年代記といって、いまだ歴史ではない。いったいかくかくの事件はなぜおこったか、誰が死亡したためにどういう影響が生じたかを考えるようになって、初めて歴史の心が動き出すのだといっていい。

新しい歴史教科書4

しかしそうなると、人によって、民族によって、時代によって、考え方や感じ方がそれぞれまったく異なっているので、これが事実だと簡単に一つの事実をくっきりえがき出すことは難しいということに気がつくであろう。
 ジョージ・ワシントンは、アメリカがイギリスから独立戦争(17751783)で独立を勝ちえたときの総司令官であり、合衆国の初代大統領であった。アメリカにとっては建国の偉人である。しかし戦争に敗れてアメリカという植民地を失ったイギリスにとっては、必ずしも偉人ではない。イギリスの歴史教科書には、今でもワシントンの名前が書かれていないものや、独立軍が反乱軍として扱われているものもある。

新しい歴史教科書5

歴史は民族によって、それぞれ異なって当然かもしれない。国の数だけ歴史があっても、少しも不思議ではないのかもしれない。個人によっても、時代によっても、歴史は動き、一定ではない。しかしそうなると、気持ちが落ち着かず、不安になるであろう。だが、だからこそ歴史を学ぶのだともいえる。
 歴史を固定的に、動かないもののように考えるのをやめよう。歴史に善悪を当てはめ、現在の道徳で裁く裁判の場にすることもやめよう。歴史を自由な、とらわれのない目で眺め、数多くの見方を重ねて、じっくり事実を確かめるようにしよう。
 そうすれば、おのずと歴史の面白さが心に伝わってくるようになるだろう。

新しい歴史教科書6

縄文文化
氷河時代の日本列島
 約1万年前までの氷河時代には,日本列島は大陸とつながって陸続きとなることもあった。陸続きになると,日本海はまるで大きな湖のようだった。ナウマンゾウなどの大陸の動物たちが渡ってきて,それを追って人間の群れもなだれ込んできたと想像されている。
 花粉の化石の分析などから,日本では,氷河時代にも厚い氷におおわれることなく,動植物が絶滅せず繁殖し続けていたことが分かっている。豊かな食料を求めて,人々は大陸から渡ってきたのだった。こうして,日本でも旧石器時代が始まった。

新しい歴史教科書7

森林と岩清水の生活文化
 約1万年前ごろに最後の氷河期が終わって,氷が解け,海水面が上昇して,日本の地形は今と同じ海上の列島となった。日本海には暖流が流れ込んで,列島は温帯の 落葉広葉樹林<らくようこうようじゅりん>(ナラ・ブナなど)におおわれた。ことに東日本は,豊かな木の実や山芋などのほかに,サケ,マスなどの川魚にも恵まれていた。カツオ,マダイ,スズキといった海の幸。イノシシ,シカ,マガモ,キジといった山の幸。それに豊富な貝類。このように比較的,食料に恵まれていたので,日本列島の住人は,すぐには大規模な農耕を開始する必要がなかった。
 大陸の農耕,牧畜に支えられた四大文明はいずれも,砂漠と大河の地域に発展した。それに対し,日本列島では,森林と岩清水に恵まれた地域に,1万年以上の長期にわたる生活文化が続いていた。

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新しい歴史教科書8

大陸と日本列島とでは,生活条件が異なっていた。違った条件のもとでは,文明や文化は当然,違った形となってあらわれた。
 かつて土器のルーツといわれた西アジア(メソポタミア)の壺は,最古のものでも約8000年前である。それに対し,日本列島では,およそ1万6500年前にさかのぼる土器が発見され,現在のところ世界最古である。のちに表面に縄目の文様がつけられたことから,縄文土器<じょうもんどき>とよばれる。西アジアの土器は食べ物の貯蔵用のものだが,縄文土器は早くから煮炊きに用いられ,底に加熱の跡を残している。
このことは,大きな規模の農耕生活がなくとも,豊かで発達した食生活が得られることを物語っている。縄文土器を用いていた1万数千年前から紀元前4〜同3世紀ごろまでを,縄文時代とよぶ。

新しい歴史教科書9

日本語の起源と神話の発生
[言語と文字] 人類の文化は話す能力にかかっている。人類がたがいに言葉を交わしあい,話すことを始めたのは,100万年以上前であったと考えられている。それに対し,文字は,最古のシュメール文字でさえ,発明されたのはやっと6000年前である。
粘土板に刻まれた単純な記号が文字の始まりであった。言語と文字はまったく別のものである。縄文時代は約1万6500年前にまでさかのぼることができ,縄文人は言葉を交わしあっていたに違いないが,当時,地球上で文字を使用する人類はまだ存在していなかった。

新しい歴史教科書10

日本語の文字の歴史は,中国から漢字を取り入れたときに始まる。どう古くみても,約2000年前である。それより以前にも,日本列島の住人は日本語を話していた。
文字のない社会にも長い言語生活があったからだ。しかし,その起源は果たしていつか。日本語はどこからきたのか。列島内で生まれたのか。複数の言語が一つになったのか。言語学者によって,縄文語の存在も推定されているが,その大本をなす縄文語の長い歴史となると,ほとんどなにも分かっていない。
 ただ一ついえるのは,日本語は中国語から文字を借りてはいるが,中国語とは遠い親戚語でさえないことである。大陸のどこにも日本語の祖語<そご>(共通の祖先に当たる言語)はまだ発見されていない。

新しい歴史教科書11

[起源は謎] 英語やフランス語やドイツ語などの西洋語と,インドの古い言語は,一つの祖語から枝分かれして,インド・ヨーロッパ語族という大きな系譜図をつくっている。同じように大陸にはセム語族,ウラル語族,ドラヴィダ語族,シナ・チベット語族などがある。日本語はそのどれにも属していない。言語学的には,系統関係が定かでない言語として朝鮮語,アイヌ語,ギリアーク語などがあるが,日本語もまた,そのような系統不明の孤立言語の一つである。
 けれども,日本語は現在,地球上で話されている人口数で,七番目の大きな位置を占める言語である。起源は謎だが,基礎的な単語の音や用法が日本語に類似している例として,学者たちはビルマ系,カンボジア系,インドネシア系,オーストロネシア(マレー・ポリネシア語族など)系の言語をあげており,インド南部のタミル語との近似性を指摘する学者もいる。

新しい歴史教科書12

[神話と口承<こうしょう>] 文字のない社会では,人間は記憶力に頼った。祖先のむかし語りや村落の先例をよく記憶している人がいて,掟のかわりをなした。 
 神々や英雄の物語も,口から口へと伝えられた。今日のわれわれからは想像できないほど,長く複雑な伝承が語りつがれ,例えばアイヌ民族の「ユーカラ」のように,すぐれた口承文学を残した例は,世界に多い。人間の記憶力は文字の使用によって減退したらしい。
 日本神話もそうした口承の遺産である。一般に神話には,科学的にはすぐに説明のつかない不思議な話が多い。例えば,オオゲツヒメという食物の女神は,口や鼻の穴や尻の穴からご馳走を出す。スサノオの命<みこと>が怒って女神を殺害すると,死体の頭から蚕が,目から稲が,耳から粟が,鼻から小豆が,性器から麦が,尻から大豆が発生した。これにより農業が始まったとされる。
 解体された死体から食べ物が得られるこのような話は,ニューギニアからメラネシアにかけて多く見いだされる。縄文時代に南から新しい文化の渡来があったのではないかともいわれている。切り刻んで,土の中に埋めて増殖をはかるイモの栽培と関係があるとも考えられている。女性をかたどった縄文土偶は,しばしば,ばらばらに壊され,分散して出土する。これも収穫への祈りと関係があるらしい。

新しい歴史教科書13

東アジアの中の日本
中国の史書に書かれた日本
 日本が 弥生<やよい>時代だったころ,すでに中国では秦(しん)と漢(かん)という二つの古代帝国が栄え,どちらもすぐれた官僚組織と軍事組織を備えた強大な国家であった。
 紀元前1世紀ごろの日本について,漢の歴史書『漢書』<かんじょ>には, 「倭人」<わじん>(中国人が日本人を指してよんだ語)が100余りの小国をつくっていたと書かれている。 『後漢書』<ごかんじょ>の 東夷伝<とういでん>には,1世紀中ごろ,「倭の奴国」<わのなこく>が漢に使いを送ってきたので,皇帝が印を授けたと記されている。「倭」も「奴」も,決して好意的な意味の文字ではない。中国皇帝の権威を示すために,中国の歴史家はつねに周りの国々を見くだす言い方をした。
東夷も,「東の野蛮な人々」の意味である。
 このとき授けられたと思われる金印が,江戸時代に 志賀島<しかのしま>(福岡県)で発見されたので,中国皇帝と日本列島の使者との交渉はあったと考えられている。

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新しい歴史教科書14

邪馬台国と卑弥呼
 3世紀に入ると中国では漢がほろび,魏(ぎ),呉(ご),蜀(しょく)という三国が分かれて争う時代になった。そのうち魏と親交を結んだ国が日本列島の中にあり,魏からも使者がきた。
 3世紀の末に中国で書かれた 『三国志』<さんごくし>の中に,やはり「東夷伝」があり,日本に関係する部分が 魏志倭人伝<ぎしわじんでん)とよばれている。漢字で2000字ほどのこの説明によると,倭の国には3世紀ごろに 邪馬台国<やまたいこく>という強国があって,30ほどの小国を従え,女王の 卑弥呼<ひみこ>がこれを治めていた。卑弥呼は神につかえ,まじないによって政治を行う不思議な力をもっていた,などと書かれている。
 しかし,魏志倭人伝を書いた歴史家は,日本列島にきていない。それより約40年前に日本を訪れた使者が聞いたことを,歴史家が記していると想像されているにすぎない。また,その使者にしても,列島の玄関口にあたる福岡県のある地点にとどまり,邪馬台国を訪れてもいないし,日本列島を旅してもいない。記事は必ずしも正確とはいえず,邪馬台国が日本のどこにあったのかはっきりしていない。 大和<やまと>(奈良県)説,九州説など,いまだに論争が続いている。

新しい歴史教科書15

神武天皇の東征伝承
 一つの政治的なまとまりが,大きな力を備えた統一政権になるには,通常,長い時間を必要とする。 大和朝廷<やまとちょうてい>がいつ,どこで始まったかを記す同時代の記録は,日本にも中国にもない。しかし 『古事記』<こじき>や 『日本書紀』<にほんしょき>には,次のような伝承が残っている。
天照大神<あまてらすおおみかみ>の直系である 神日本磐余彦尊<かむやまといわれびこのみこと>(のちに神武天皇とよばれる)は,45歳のとき, 日向<ひゅうが>(宮崎県)の 高千穂<たかちほ>からまつりごとの舞台を東方に移す決心をし,水軍を率いて瀬戸内海を東へ進んだ。大阪湾から上陸を志すが, 長髄彦<ながすねひこ>の強い抵抗を受け,一人の兄を流れ矢で失う。二人の兄は海上で暴風雨をしずめるための犠牲となった。苦難の末,軍勢は熊野(和歌山県)に上陸し,大和を目指す。けわしい山道を踏み迷うさなか,天照大神のお告げがあり,頭の大きいカラスの 八咫烏<やたがらす>が道案内をしてくれる。神日本磐余彦尊は,抵抗する各地の豪族をうちほろぼし,服従させて目的地に迫る。再び長髄彦がはげしく進路をはばむ。冷雨が降り,戦いが困難をきわめたちょうどそのとき,どこからか金色に輝く一羽のトビが飛んできて, 尊<みこと>の弓にとまった。トビは稲光のように光って,敵軍の目をくらました。こうして,尊は大和の国を平定して, 畝傍<うねび>山の東南にある 橿原<かしはら>の地で,初代天皇の位に 即<つ>いた。
2月11日の建国記念の日は,『日本書紀』に出てくる神武天皇が即位したといわれている日を太陽暦になおしたものである。

新しい歴史教科書16

出土品から歴史を探る
[歴史を探る手がかり] 過去の歴史を知る手がかりの一つに,文字がある。古い時代のことを記した書物や古文書などは,重要な手がかりとなるが,それ以外にも,木簡 <もっかん> や銅銭 <どうせん> ,銅鏡 <どうきょう> ,刀剣 <とうけん> などに書かれたり刻まれたりした文字内容からも,年代をつきとめ,当時の歴史を探ることができる。
 しかし,文字が書かれていなくても,土の中に埋まっている石器や土器,むかしの人が食べた貝や魚の食べかす,建物の柱に使った木切れといった出土品からも,当時の人々の暮らしぶりが分かる。

新しい歴史教科書17

[年代測定法] では,遺跡などから見つかった出土品の年代は,どうやって分かるのだろうか。まず,発掘された場所の地層の上下などから,おおよその年代が分かる。また,放射性炭素(炭素14)を用いた方法もある。放射性炭素は,植物やそれを食べた動物に含まれていて,生物が死ぬと,その放射性炭素が規則正しく減少していき,5730年で半分の量になるという性質がある。遺物にわずかでも生物の遺体が混じっていると,この炭素が半減する性質を利用して年代が測定できる。
 さらに,遺物と一緒に出土した木切れの年輪によって調べる有力な方法がある。木の年輪は,気候によって幅が広くなったりせまくなったりするので,その変化のパターンから,年代が割り出せる。
 こうした年代測定法により,歴史の姿はしだいに解明されるのである。

新しい歴史教科書18

日本武尊と弟橘媛
[反乱をしずめる] 日本で大和朝廷による国内の統一が進んだ4世紀前半ごろ,景行<けいこう>天皇(第12代)の皇子<おうじ>に日本武尊という英雄がいたことを,古典は伝えている。
 景行天皇の時代に,九州に反乱があったので,第2皇子の小碓命<おうすのみこと>が,征伐のために派遣された。当時,皇子はまだ16歳の若さだったという。
 皇子はクマソの国にいたり,少女の姿になって,反乱の指導者クマソタケルに近づき,これを見事に倒した。タケルは皇子の勇敢さをたたえ,「これからは,あなたがヤマトタケルと名乗られるがよい」と言って,息絶えた。日本武尊とは,日本の勇猛な人という意味をもつ。
 日本武尊は,九州から大和へ帰ると,さらに次は東の方の乱れをしずめるために,天皇から命令を受けて出発した。
 このとき,まず伊勢神宮に参拝し,そこで天叢雲<あめのむらくも>の剣を授けられる。この剣は,神話の中で,スサノオの命<みこと>が八岐の大蛇<やまたのおろち>を退治したときに,その尾からあらわれたと伝えられるものだ(P.60「日本の神話」参照)。
 尊が相模国(神奈川県)にいたったときに,賊にあざむかれて,野原の中に入ったところ,野に火をつけられて,あやうく焼き殺されそうになった。そこで剣を出して草を薙ぎ払い,逆に火をつけて,賊をほろぼしてしまった。このことによって,この剣を草薙<くさなぎ>の剣とよぶようになったという。
 この草薙の剣と,八咫の鏡<やたのかがみ>・八坂瓊の曲玉<やさかにのまがたま>は,やがて「三種の神器<じんぎ>」とよばれ,歴代の天皇に受けつがれる皇位のしるしとなった。

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新しい歴史教科書19

[身がわりになった弟橘媛<おとたちばなひめ>] 尊はさらに走水海<はしりみずのうみ>(浦賀水道)を渡ろうとしたが,波が荒れて船を進められなくなった。このとき,妃の弟橘媛は,「自分が身がわりとなって海に入りましょう。あなたさまは,どうか大切な任務を果たしてください」と言って海の中に飛び込んだ。するとみるみる波はしずまり,穏やかになった。こうして尊は危難から救われた。そのときの妃の歌は,次のようなものだったと伝えられている。
さねさし 相武<さがむ>の小野に 燃ゆる火の
火中<ほなか>に立ちて 問ひし君はも
(相模国の,あの野原の燃えさかる火の中で,私の身を案じてよびかけてくださったあなたさまだったことよ) 

新しい歴史教科書20

こののち,尊は東方の乱れをしずめて大和へ帰る途中,碓日<うすい>の坂(群馬県碓氷峠)で弟橘媛を偲んで,「吾妻<あづま>はや(ああ,わが妻よ)」と嘆いた。
これによって,関東を「あずま(東)の国」とよぶようになったという。
 やがて尊は,剣をもたないで,伊吹山<いぶきやま>(滋賀県岐阜県の境)に登り,山の神のたたりにあって,ついに伊勢の能褒野<のぼの>(三重県鈴鹿市)で病気が重くなり,亡くなってしまった。人々は,その場所に陵<みささぎ>(墓)をつくって,尊をていねいにほうむった。すると,尊は白鳥になってそこから飛び立った。その後,白鳥が降り立った場所にも陵はつくられ,現在でも尊の陵は三つ残されている。
 以上が,日本武尊と弟橘媛の言い伝えである。
全国には,神話に由来する地名が多く残っている。自分たちの住んでいる地域にある地名の由来を調べてみよう。

新しい歴史教科書21

聖徳太子の新政
聖徳太子の外交
 当時,まだ日本という国号は生まれていなかったが,6世紀末の東アジア情勢の急変によって,日本人は国家意識を少しずつ高めていった。しかし国内には,いまだ国家機構そのものがしっかり整備されていなかった。法も,官僚制度も,政治哲学も,高度な宗教も,すべては大陸の文明にあおがなくてはならない状態だった。とはいえ,新たにおこった隋(ずい)に朝貢<ちょうこう>し,服従する外交はやりたくない。かつて倭の五王<ごおう>が朝貢していたころは,強大な高句麗に対抗するために中国王朝と結ぶ必要もあったが,今や高句麗<こうくり>は脅威ではなかった。この時機をたくみにつかんだのが,聖徳太子である。
 太子は593年,女帝である推古<すいこ>天皇の摂政<せっしょう>(天皇にかわって政治を行う職)となり,それまでの朝鮮外交から,大陸外交への方針転換を試みた。朝鮮を経由せずに大陸の文明を取り入れることも大切で,太子は,607年,小野妹子<おののいもこ>を代表とする遣隋使<けんずいし>を派遣した。しかし,日本が大陸の文明に吸収されて,固有の文化を失うような道はさけたかった。
 そこで,太子の隋あての国書には,「日出<い>づる処<ところ>処の天子,書を日没<ひぼつ>日没する処の天子に致す。恙<つつが>無きや」(日が昇る国の天子が,日が沈む国の天子にあてて書簡を送る。ご無事にお過ごしか)と書かれた。遣隋使は隋からみれば朝貢使だが,太子は国書の文面で対等の立場を強調することで,隋に決して服属はしないという決意表明を行ったのだった。隋の皇帝煬帝<ようだい>は激怒したが,高句麗との抗争中なので忍耐した。
 わが国は,中国から謙虚に文明を学びはするが,決して服属はしない──これが,その後もずっと変わらない,古代日本の基本姿勢となった。

新しい歴史教科書22

聖徳太子の政治
 そのかわりに,わが国は学ぶときにはどこまでも徹底的に学ぶ。聖徳太子は,仏教や儒教の教えを取り入れた新しい政治の理想をかかげ,それにしたがって国内の政治の仕組みを整えようとした。
 仏教が入ってきた6世紀前半に,豪族たちは,これを外国の宗教であるとして排斥する勢力と,むしろ積極的に受け入れようとする勢力との二派に分かれ,政治抗争を引きおこした。排斥派の物部<もののべ>氏が討たれ,受け入れ派の蘇我<そが>氏が勝って,政治の主導権をにぎった。蘇我氏の周りには,仏教に帰依<きえ>する帰化人たちが集まっていた。蘇我氏は皇室とも縁戚関係をもって,しだいに勢力を強めていた。
 聖徳太子は,蘇我馬子<そがのうまこ>と協力しながら政治を進めた。仏教への信仰をまず基本に置いた政治だった。太子は,生まれや家がらではなく,すぐれた仕事をした人を評価する冠位十二階<かんいじゅうにかい>を定めて,役人を冠の色で区別した。これは,豪族たちをおさえ,天皇中心の体制をつくるためだった。儒教の教えも取り入れたこの冠位は,豪族の生まれや家がらを尊重した今までの氏姓制度に取ってかわろうとする点で,革新的だった。また,太子は同じ精神から十七条の憲法を定め,天皇と役人と民衆の役割の違いを強調した。それぞれが分を守り,「和」の精神をもってことに当たるべき心得を説いた。
 聖徳太子が活躍した7世紀には,政治や文化の中心が飛鳥<あすか>地方(奈良盆地南部)にあったので,このころを飛鳥時代とよぶ。

新しい歴史教科書23

日本という国号の誕生
白村江<はくすきのえ>の敗戦
任那<みまな>   新羅<しらぎ>にほろぼされてから約1世紀,朝鮮半島の三国は,あいかわらずたがいに攻防をくり返していた。7世紀のなかばになると,新羅が唐(とう)と結んで 百済<くだら>を攻めた。唐が水陸13万の軍を半島に送り込むにいたって,日本の国内には危機感がみなぎった。300年におよぶ百済とのよしみはもとより,半島南部が唐に侵略される直接の脅威を無視できなかった。
 中大兄皇子は,662年,百済に大軍と援助物資を船で送った。唐・新羅の連合軍との決戦は,663年,半島南西の白村江で行われ,2日間の壮烈な戦いののち,日本軍の大敗北に終わった(白村江の戦い)。日本の軍船400隻は燃えあがり,天と海を炎でまっ赤に焼いた。こうして百済は滅亡した。
 いつの世にも,敗戦は次の時代に強い影響と反動をおよぼす。唐と新羅の本土侵入をおそれた日本は, 防人<さきもり>(海防[かいぼう]のために九州に置かれた兵)を置き, 水城<みずき>水城(九州の大宰府[だざいふ]防衛のために築かれた。)を築いて,国をあげて防衛に努めた。防衛努力は,日本における国家統合の意識をおのずと高めた。

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新しい歴史教科書24

亡命百済人
 唐と新羅は百済をほろぼしたが,まだ 高句麗<こうくり>が力を残していた。日本を攻める余裕のなかった唐と新羅は,背後をおそわれないようにするために日本に和親を求め,その上で高句麗を滅亡させた。
 新羅は676年,朝鮮半島を統一した。その後,新羅は必ずしも唐に従順ではなく,両国の間にすき間風が吹いた。
 百済からは,王族や貴族をはじめ,一般の人々までが1000人規模で日本列島に亡命して,一部は 近江<おうみ>(滋賀県),一部は東国に定住を果たした。朝廷は手厚い優遇措置を取った。当時の列島の人口は500万〜600万人と推計され,受け入れの余地は十分にあった。しかも,聖徳太子以来,中央集権国家の形成を目指していた日本は,中央の官僚制度の仕組みや運営の仕方について,亡命百済人との交流の中から学ぶ点が少なくなかった。
中大兄皇子<なかのおうえのおうじ>は唐からの攻撃をさけるため,都を近江に移し,668年に即位して 天智<てんじ>天皇となった。天皇は国内の仕組みを整えようと,中国の 律令<りつりょう>をモデルにした 近江令<おうみりょう>を編んだ。
また,初めて 庚午年籍<こうごねんじゃく>とよばれる全国的な戸籍をつくった。しかし,蘇我氏がほろびたとはいえ,天智天皇の時代には,中央豪族の勢力はまだ根強く残っていた。

新しい歴史教科書25

天武<てんむ>・ 持統<じとう>朝の政治
 天智天皇の没後,天皇の子の 大友皇子<おおとものおうじ>と天皇の弟の 大海人皇子<おおあまのおうじ>との間で,皇位継承をめぐる内乱が勃発した。これを壬申<じんしん>の乱(672年)という。大海人皇子は,中小の豪族や地方豪族を味方につけて十分な兵力を備え,大勝利をおさめた。これにより,中央の大豪族の力はおさえられ,天智天皇の時代までどうしても断ち切れなかった,中央豪族たちの政治干渉を排除することに成功した。こうして,豪族たちの個別の立場を離れて,天皇を中心に国家全体の発展をはかる方針がようやく確立することになった。
 大海人皇子は 天武<てんむ>天皇として即位し,皇室の地位を高めることで, 公地公民<こうちこうみん>を目指す改新の精神を力強く推進した。それまで 大王<おおきみ>とよばれてきた君主の称号として,天皇号が成立したのはこのころだという説が有力である( 推古<すいこ>天皇が最初という説もある)。天皇は国史の 編纂<へんさん>を志し,律令の改正と整備に着手した。
 天武天皇の没後,皇后の持統天皇が即位し,近江令を改めて 飛鳥浄御原令<あすかきよみはらりょう>が施行され,日本で初めて中国の 都城<とじょう>にならった,広大な藤原京が建設された。天武・持統朝(673697年)の時代は,日本の国家意識の確立期といってよく,日本という国号もこの時期に確立したと考えられる。

新しい歴史教科書26

日本語の確立
万葉仮名
 文字のない社会であった日本が漢字に触れてから,自分たちの言語にこれを利用するまでには,4〜5世紀にわたる長いためらいと熟慮と工夫の期間が必要であった。
 7世紀末の藤原京の木簡<もっかん>に,イカやスズキを「伊加」や「須<支」と記した音仮名の例がある。貢ぎ物として朝廷にささげる物産の名として書かれた文字である。日本語が,中国の文字を音に利用した一つの例といっていい。
 奈良時代にまとめられた『古事記』や『万葉集』<まんようしゅう>は,漢字を並べて書かれているが,漢文ではないので,中国人が読んでも意味が分からない(『古事記』は序文だけが純粋な漢文であった)。『万葉集』で,恋という語は,「古比」「古飛」「故非」「孤悲」などと記され,また衣という語は,「己呂母」「去呂毛」「許呂毛」「許呂母」などと書きあらわされた。万葉仮名とよばれる音仮名の例である。
 次は,『万葉集』の大伴家持<おおとものやかもち>の歌にみる万葉仮名の例である。
「宇良宇良  照流春日  比婆理安我里 
 情悲毛 比登里志 於母倍婆」 
(うらうらに 照れる春日<はるひ>に 雲雀<ひばり>上がり 情悲<こころかな>しも 独りし思へば)
 これらの例は,日本語と中国語がまったく別の言語であることをはっきり示している。古代の日本人は,日本語をあらわすさい,中国語からは音に応じた文字だけを借りた。やがて平安時代になると,万葉仮名のくずし字が発展して,そこから平仮名が誕生した。こうして,日本人は漢字の音を借りて日本語を表記する方法を確立した。

新しい歴史教科書27

訓読の登場
 一方,当時の日本人にとって,中国の律令や仏教,儒教<じゅきょう>を自分のものとするためには,漢文の内容を読むことも大切であった。もちろん漢文は中国語だから,今のわれわれが英語を学ぶように中国音で発音し,中国文の語順どおりに読み書きする練習を通じて学べばよいはずだった。ところが,当時の日本人はそうした学び方のほかに,中国語の発音を無視し,語順をひっくり返して日本語読みにする方式を編み出した。いわゆる訓読みという読み方の発明だった。ここには,古代日本人の深い知恵と強い決断があった。日本人は,漢文の日本語読みを通じて,古代中国の古典を,みずからの精神文化の財産として取り込むことに成功したのである。
 なお,漢文を読むとき,彼らは万葉仮名の画数を省略してふり仮名として使ったり,ヲコト点とよばれる記号を打って,助詞を補って読んだ。やがてそこから片仮名が誕生した。

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新しい歴史教科書28

日本の神話
神話とは
 世界の民族には,さまざまな神話や伝説があり,古代の人々の考え方や暮らしぶりを知る上での重要な文化遺産となっている。
 日本の神話は,『古事記』<こじき>『日本書紀』<にほんしょき>『風土記』<ふどき> や,いくつかの民話に残されている。その内容は,天地<あめつち> のはじめ,神々の出現,国土のおこり,生と死のこと,光と闇,恋愛と闘争,建国の由来などの物語であるが,ここでは『古事記』のあらすじを紹介する。

新しい歴史教科書29

イザナキの命とイザナミの命
 混沌の中から天と地が分かれ,天は高天原<たかまがはら> とよばれて多くの神々があらわれ,そこに住まい始めた。イザナキ(イザナギとも読む)の命<みこと> とイザナミの命という男女の神が,天地にかかったはしごに立って,天<あめ> の沼矛<ぬぼこ> を潮<うしお> にさし下ろして,「こおろ,こおろ」とかき回し,引き上げると,その矛先からしたたり落ちた潮水が積もり,「おのごろ島」ができた。
 そこに降りたイザナキの命とイザナミの命の二神が性の交わりをして生まれた子どもが淡路島,四国,隠岐の島,九州,壱岐島,対馬,佐渡の島,本州だった。八つの島からなるので,「大八島国」<おおやしまぐに> とよび,これが日本の誕生である。
 ところがイザナミの命は火の神を産んだために体が焼かれて死んでしまう。イザナキの命は亡き妻を忘れられず,死者の住む黄泉<よみ> の国に出かけたのだが,そこで見たのは,蛆がたかり,体中に八種の雷神が座っている妻の姿。その妻が黄泉の国の軍勢をくり出しておそってくる。イザナキの命は呪力がある桃の実を投げつけて,かろうじて逃げ帰った。

新しい歴史教科書30

天照大神とスサノオの命
 イザナキの命が黄泉の国のけがれを日向<ひゅうが> の阿波岐<あわき> の原で清めるとき,左の眼を洗うと,天照大神が生まれ,鼻を洗うとスサノオの命が生まれた。天照大神<あまてらすおおみかみ> は太陽の女神で皇室の先祖であり,高天原を治める。ところが,嵐の神スサノオの命は,山が枯れ,海が乾くほど泣きわめいてばかり。亡き母のいる根の堅州国<かたすくに> に行きたいと言って,イザナキの命に追放されてしまう。
 スサノオの命は天照大神を訪ねていくが,何しろ気性の荒いスサノオは神殿に糞をするわ,天照大神の神聖な機屋に,馬の皮をはいで落とし入れるわで,ついに天照大神はおそれて天<あま> の岩屋にこもってしまう。すると,天も地も真っ暗になり,あらゆる災いがおこった。
 そこで神々は策を考え,祭りを始め,常世<とこよ> の長鳴き鳥を鳴かせる。アメノウズメの命が,乳房をかき出して踊り,腰の衣のひもを陰部までおしさげたものだから,八百万<やおよろず> の神はどっと大笑い。天照大神が不思議に思って,岩屋戸を少し開けたところをアメノタヂカラオの神に引き出され,岩屋には注連縄<しめなわ> を張られてしまったので,ついに世界に光がよみがえった。
 神々はスサノオの命を高天原から追放した。
 スサノオの命が出雲の地に降りると,老夫婦が泣いている。八つの頭と八つの尾をもつ八岐<やまた> の大蛇<おろち> が娘のクシナダヒメを食いにくるというのだ。スサノオの命は,たちまちその娘をクシに変えて髪に差し,濃い酒を八つの桶に入れ八つの門に分けて置いて待ち受けた。あらわれた大蛇が八つの酒樽に頭を入れて飲み干し酔って寝入ってしまったところを,スサノオはずたずたに切って退治した。
そのとき,大蛇の尾から,立派な太刀<たち> が出てきたので,スサノオはこれを天照大神に献上した。これが草薙<くさなぎ> の剣である。
 スサノオの命は,クシナダヒメを妻にして大事にした。

新しい歴史教科書31

ニニギの命から神武天皇へ
 さて,天上の高天原には天照大神が,地下の根の堅州国にはスサノオの命がいる。
地上の葦原<あしはら> の中つ国は大国主神<おおくにぬしのかみ> が治めていたが,天照大神は,そこは本来,自分の子が治めるべき国であると,タケミカヅチの神を使いに送った。この神,海辺に十握<とつか> の剣<つるぎ> をさかさまにつき立て,その剣先にあぐらをかいて大国主神に「国土をゆずられるか」と交渉したのである。大国主神は「わが子に聞かねば」とこたえ,その子が承諾したので,ここに国ゆずりの実現となった。
 天照大神は孫のニニギの命を天上から下した。このとき,八坂瓊<やさかに> の曲玉<まがたま> ,八咫<やた> の鏡,草薙の剣,の三種の神器<じんぎ> をたずさえ,お供の神々とともに,天空にたなびく雲を押し分け日向の高千穂の峰に降り立った。これを天孫降臨<てんそんこうりん> という。
 このニニギの命の子に海幸彦<うみさちひこ> ,山幸彦<やまさちひこ> という神がいる。山幸彦の孫であるイワレヒコの命は,45歳の冬,船団を仕立てて日向を出航し,大八島<おおやしま> (日本)の中心である大和の地を目指して,各地の土豪<どごう> たちと戦いの火ぶたを切る。その戦いの旅は苦闘につぐ苦闘で,ついにこの地を平定し,大和に橿原<かしはら> の宮を建てて,初代天皇となった。
 以上が『古事記』の伝える神話の内容である。

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新しい歴史教科書32

最澄と空海
 平安時代のはじめ,わが国の宗教の歴史の中で大きな仕事をした二人の人物が,同じころに活躍している。最澄と空海である。
 二人はともに,日本において仏教の新しい潮流をもたらした。この二人はどのような生涯を送ったのだろうか。
[天台宗をおこした最澄] 最澄(766822)は,近江<おうみ>国(滋賀県)に生まれた。先祖は,むかしの中国(漢)の皇帝の子孫で,応神<おうじん>天皇のころに日本に渡って帰化したと伝えられる。父はおだやかな性格で,学問もあり,村人の手本として尊敬されていた。12歳で近江国の国分寺の僧のもとで学び,15歳には出家した。20歳のとき,初めて比叡山<ひえいざん>(京都府滋賀県の境)に登り,人けのない静かなところで,よけいな雑念を払って修行する。こうして,仏教に打ち込むうちに,『法華経』< ほけきょう>を根本の経典とし,インドにおこって中国で大成された天台宗<てんだいしゅう>を学びたいと思う気持ちが強くなった。
 804(延暦23)年,第14次の遣唐使<けんとうし>が派遣されるときに,最澄も一緒に中国に渡ることになった。これは,最澄自身の強い希望によるものだった。この遣唐使には空海も加わっていた。最澄は唐の天台山(天台宗の中心地)で直接,天台宗を学んだほか,さまざまな仏教の教えを研究して日本へ帰った。最澄は帰国すると,日本で初めて天台宗をおこす。しばらく空海とも親しく交わり,仏教の研究を深めたが,のちに別れることになる。
 最澄の考えは,世に生を受けた者はみな,差別なく仏(迷いを解いて,真理を自分のものにした者)になることができるというものだった。死後,仏教の大切な教えを伝えた功績をたたえて,伝教大師<でんぎょうだいし>とよばれることになった。

新しい歴史教科書33

[真言宗<しんごんしゅう>を開いた空海] 空海(774835)は,最澄より8年おそく,讃岐<さぬき>国(香川県)に生まれた。父は佐伯氏で,この氏族のもとは,景行<けいこう>天皇の皇子の子孫との言い伝えをもつ。15歳で上京し,母方のおじについて中国の古典を学び,18歳で大学(律令のもとで置かれた役人を養成する朝廷の教育機関)に入った。しかし不思議な縁があって,阿波<あわ>国(徳島県)や土佐国(高知県)で難行苦行の末,神秘な体験をする。それは,明るく輝く星が口に入って,光明のまぼろしの中で仏教の奥深さを悟るというものだった。こののち仏教の探究に打ち込むべく,大学をやめ,山林修行に入る。24歳のとき,世のさまざまな教えのうち,仏教がもっともすぐれていると主張する書物『三教指帰』<さんごうしいき>を書いた。
 やがて最澄とともに遣唐使に加わって中国に渡り,唐の都長安においてインド伝来の正統な密教(仏教の流派の一つ。容易に知ることができない秘密の教えという意味)を学んだ。帰国のさいには,仏教関係の最新の書物を数多くもち帰った。それらの文献の値打ちを最初に認めたのは,最澄だった。彼は空海からそれらを借り受けて,学んだ。しかし,在来の仏教と対立を深める最澄と,それらとの親交をはかった空海は,別の道を歩むようになる。 空海の教えは,人間が現世での肉体のまま,宇宙の理法と一体化することで,仏になれるというものだった。空海はやがて高野山(和歌山県)に寺院をつくり,真言宗を広めた。空海は漢詩文や書道も得意で,その方面でも高く評価されている。空海は死後,仏教の法を広めたことをたたえて,弘法大師<こうぼうだいし>とよばれることになった。
「弘法も筆のあやまり」(その道に長じた人でも,ときに失敗することがある)ということわざは,空海が書道にすぐれていたことが広く知られていたことから生まれた。また別に,「弘法は筆を選ばず」(真にその道にすぐれた人は,どんな道具を使っても立派な成果をあげる)ということわざもある。

新しい歴史教科書34

元寇とモンゴル帝国
モンゴル帝国
 13世紀のはじめ,チンギス・ハンによってモンゴル高原に建国されたモンゴル帝国は,不敗の騎馬軍団を各地に侵攻させ,またたくまにユーラシア大陸の東西にまたがる空前の広大な領土をもつにいたった。チンギス・ハンは,国をほろぼすこと40,人を殺すこと数百万におよんだという。この帝国の勢力拡大はヨーロッパにも聞こえ,人人はモンゴル人をおそれた。
 ただし,モンゴル帝国が東と西にそれぞれ栄えていた文明を支配下に入れたことで,東西の文化が交流する舞台をつくったことは見のがせない。
 モンゴル帝国の5代目のフビライ・ハンのとき,大都<だいと>(北京)という都をつくり,国号を中国にならって元<げん>と称した。フビライは朝鮮半島の高麗<こうらい>を属国(他の国に従属[じゅうぞく]している国家)とし,やがて宋(そう)を倒して,中国全土を支配するようになった。今や東アジアの世界は,モンゴルの強大な勢力の前に,すべてのみ込まれようとしていた。

新しい歴史教科書35

元寇
 フビライは,東アジアへの支配を拡大する中,ついに東方に独立を保っていた日本も征服しようとくわだてる。まず日本にたびたび使いを送って,服属するように求めた。そのときの手紙の内容は,日本を見くだし,「もし言うとおりにしなければ,武力を用いることになろう」と脅すものだった。しかし,朝廷と幕府は一致して,これをはねつけた。
 幕府は,執権の北条時宗<ほうじょうときむね>を中心に,さっそく元の襲来に備え始めた。
 こうして,ついに元は大軍で,2度にわたって日本を攻めてきた。1度目は1274(文永<ぶんえい>文永11)年に,約3万の兵が900隻の船に乗っておそってきた。対馬・壱岐を占領して,九州北部の博多湾に上陸し,これを迎え討つ幕府軍を苦しめた。その戦法は,太鼓やどらを打ち鳴らし,毒を塗った矢と火器を使って攻めるというものだった。しかし,日本側の抵抗も強く,元軍は日没とともに船に引き返し,その夜に突然おこった暴風雨にあって,退却した。
 2度目は1281(弘安<こうあん>弘安4)年に,14万もの兵が4400隻の船に乗って,九州北部に迫った。しかし,博多湾岸に石塁を築くなどの防備があった上,十分な準備をした日本の武士が勇戦して,元軍の上陸をはばんだ。日本側は夜の闇にまぎれて敵船に乗りつけ,さんざん斬りまわったあげく,船に火をつけて引き上げた。こうして元軍が,九州本土に攻め込めないで海上にとどまっているところへ,再び暴風雨がおそった。さらに日本側の攻撃も続く。その結果,元軍は大きな痛手を受けて敗退した。元は軍勢の4分の3を失い,無事に帰った者は3万人にも満たなかったといわれる。こうして日本は,独立を保つことができた。この2度にわたる元軍の襲来を,元寇という。
 では強大な元の襲来が,2度とも失敗したのはなぜか。元軍は海を渡っての戦いになれておらず,大軍の中には,高麗や宋の兵も多く混じっていて,内部に不統一をかかえていた。また,この危機に朝廷と幕府が協力して対処し,特に幕府の統制のもとで武士が勇敢に戦った。さらに,2度にわたる暴風雨は,日本を勝利に導き,その後も,神の力による神風<かみかぜ>と信じられた。

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新しい歴史教科書36

源頼朝と足利義満
[初めて幕府<ばくふ>を開く] 武家は政権をにぎるさい,天皇から征夷大将軍  せいいたいしょうぐん>に任命され,幕府を開いて,これを権力の基盤とした。そうでない場合は,朝廷の高い地位を占めて政権をつかんだ。どちらにしても,天皇の権威を頼りにしている。それが武家の権力の限界だった。
 源頼朝(11471199)は,武家で初めて征夷大将軍として幕府を開いた人物である。平氏  へいし>に敗れた源義朝  みなもとのよしとも>の子で,伊豆(静岡県)に流されていた。ところが,平清盛  たいらのきよもり>が後白河上皇< ごしらかわじょうこう>と対立し,全国の武士の間に反平氏の気運がまきおこったとき,兵をおこして,平氏をほろぼし,武家の頭  かしら>の地位を手に入れた。
 頼朝が全国の武士から頭として心服された背景には,頼朝自身の指導者としての力量のほかに,清和< せいわ>天皇の血統を受けついだ源氏の出身という要素も影響していた。
 後白河上皇と対立した平氏を討つために,上皇の皇子・以仁王  もちひとおう>のよびかけに応じ,兵を挙げた頼朝は,平氏が落ちのびるときに奉じた安徳  あんとく>天皇の身の上を心配し,武士たちにその安全をはかるよう指示した。鎌倉に幕府を開いてからも,京都の朝廷をうやまい,天皇を重んじる姿勢を変えなかった。自分の娘を天皇にとつがせ,朝廷と幕府の安定した関係を築こうとの願いももっていた。
 頼朝のこうした態度は,のちの武家の権力者にも影響を与え,朝廷と幕府の関係の基本となるあり方を,長く規定した。

新しい歴史教科書37

[天皇の権威への挑戦] ところで,武家の中で,天皇の権威にいどもうとした人物が,まったくいなかったわけではない。室町  むろまち>幕府の3代将軍足利義満(13581408)などはその例である。
 義満は,長く続いた南北朝  なんぼくちょう>の争いを終わらせ,鹿苑寺金閣  ろくおんじきんかく>を建立した人物として,よく知られている。また,明(みん)の皇帝に服従する形をとって日明の貿易をさかんにし,幕府の財政を豊かにしたことも有名である。
 このように,政治家としてきわだった力をもっていた義満は,それまでの武家の権力者が行わなかった,天皇の権威への挑戦を試みた。
 義満は将軍を超えた地位を望み,将軍の職を息子の義持  よしもち>にゆずって,天皇の臣下として朝廷でもっとも高い地位の太政大臣  だじょうだいじん>についた。さらに,その太政大臣もさっさとやめて,前の将軍で,その上,前の太政大臣でもあるという,これまでに例のない立場から,武家と公家の両方に,思いのままに権力をふるおうとした。やがて上皇(tP.73)に匹敵する権威と権力をかね備えることを目指していたとみられる。
 しかし,急な病気にかかって,むなしく世を去る。その後,代々の将軍から義満のまねをしようとする者はあらわれなかった。

新しい歴史教科書38

ヨーロッパ人の世界進出
大航海時代の背景
 15世紀ごろ,ヨーロッパのイベリア半島では,ポルトガルとスペインの両国が半島を制圧した。両国は,アジアにおけるキリスト教の布教と交易を求めて,新航路の開発にしのぎをけずった。
 1450年代にポルトガルが,アフリカの西海岸を南下する航海事業にまず手をつけた。それより少し遅れて,1492年,スペインがコロンブスを派遣し,大西洋をどこまでも西へ向かわせた。インドや日本を目指すのならば,当然,東の陸路をたどるはずだが,両国は地中海経由の道をさけざるをえなかった。
 なぜなら,8世紀以降,地中海は,ほぼ全域にわたってイスラム教徒におさえられていたからである。西ヨーロッパの諸民族は,勢力を広げようとしても,約800年間,南と東へ進出する可能性を失っていた。当時,イスラム勢力は学問・芸術においても,軍事力においても,中世ヨーロッパを圧倒していた。スペインもポルトガルも,イベリア半島のイスラム勢力をやっとの思いで追い出して,国土の統一を果たしたのである。
 のちにヨーロッパ人は,この時代の世界進出を「大航海時代」とよんで自画自賛したが,実際には壁のように立ちはだかるイスラム教徒の力への恐怖を前提としていた。

新しい歴史教科書39

トルデシリャス条約
 ポルトガル国王は,アフリカの南端をめぐって東回りでインドにいたる航海の途上で,到達したすべての陸地を,永久に所領とする許可を,カトリックの大本山であるローマ教皇庁から与えられた。 一方,スペイン国王も,コロンブスが北アメリカ大陸への到達に成功すると,領有の承認をローマ教皇に求めた。
 1494年,大西洋上に南北に走る一本の直線が引かれた。線から東方で発見されるものはすべてポルトガル王に属し,西方で発見されるものはすべてスペイン王に属するというトルデシリャス条約が,両国の間で結ばれた。
 この条約によって決められた史上初のこの大胆な領土分割線は,地球の裏側では日本の北海道の東あたりを越えて伸びている。当時のヨーロッパ人は,まるでまんじゅうを二つに割るように地球を分割し,それを自分たちの領土とみなしたのだった。

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新しい歴史教科書40

信長・秀吉・家康-天下統一の人間像
  織田信長<おだのぶなが>, 豊臣秀吉<とよとみひでよし>, 徳川家康<とくがわいえやす>の三人の武将が同じ題材をよんだとされる俳句がある。
信長は「鳴かぬなら殺してしまえほととぎす」
秀吉は「鳴かぬなら鳴かしてみせようほととぎす」
家康は「鳴かぬなら鳴くまで待とうほととぎす」 
 とよんだというのである。これらが,本当に彼らがよんだ句かどうかは分からないが,この三人のそれぞれの生き方や行動の仕方をうまく表現している。また信長,秀吉,家康の天下統一とのかかわりをたとえた次のような歌もある。「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 すわりしままに食うは家康」。信長が準備し,秀吉( 羽柴<はしば>)が完成した天下統一という事業を,家康がそのまま受けついだという意味である。
 信長は徹底した破壊者で,同時に革新者であった。比叡山を焼き討ちし,足利将軍家を追放し,大量の鉄砲を導入した。信長がそれまでの制度や慣習を一掃したことで,新しい社会建設の基盤が整えられたのである。
 秀吉は,信長の事業を受けついだが,いたずらに軍事力を用いることなく,その広い視野と人間的魅力とたくみな政治力によって人々を動かし,天下統一という事業を完成した。
 これに対し,家康は「待つ」ことに努めた武将であった。しかし,その「待つ」ことは,信長や秀吉との関係を含めて,非常な忍耐を必要とした。家康は晩年,次のように語ったとされる。「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し」と。信長や秀吉のようなはなやかさはないが,家康は着実で周到な努力をとおして,ついに徳川家の永く続く支配体制を築いたのである。

新しい歴史教科書41

平和で安定した社会
大開発の時代
 平和な社会が到来して,人々は安心して生活の向上を目指して働くことができるようになった。幕府や大名も米の増産を望んだ。こうして,全国で,干潟や河川敷などを中心に新田が開発された。17世紀の100年間に,全国の田畑の面積は,およそ2倍近く増加した。まさに大開発の時代であった。今日,日本各地で見られる広々と水田が広がる風景は,この時代に生まれたものである。
 開発にともない,田畑を深く耕せる備中ぐわ,脱穀のための千歯こきが用いられるようになり,農作業の能率が向上した。そして,肥料として干鰯<ほしか>や油粕を購入して用いるようになり,土地の生産力が高まった。
 江戸時代の年貢率について,「五公五民」<ごこうごみん>「六公四民」<ろっこうしみん>という言葉があり,収穫高の5割から6割が年貢だとみなされていた。しかし,米の生産高が上昇した結果,実際の収穫高は年貢の計算のもととなった数字の上での収穫高(17世紀はじめの検地のときのもの)をはるかに超え,全体としては年貢は3割程度,なかには十数%の地域もあった。

新しい歴史教科書42

農産品の生産
 米の生産高が増えると,人々の食生活にゆとりが生まれ,副食品,嗜好品,衣類への需要も高まった。その原料として,野菜,茶,麻,楮 <こうぞ>,藍,漆,紅花,菜種などが,その栽培に適した地域で本格的に生産されるようになった。各藩も特産物の生産を奨励した。それまで輸入に頼っていた木綿や生糸の生産も増え,やがて国内で自給できるようになっていった。こうした農法や栽培品種についての新しい試みは,さまざまな農書に記されて全国に広がった。
 農民は農繁期には忙しく働いたが,農閑期には,豊かさがもたらすゆとりを背景に,神社仏閣の参拝の旅に出かけたり,獅子舞や相撲,踊りなどで休日を楽しんだ。

新しい歴史教科書43

石田梅岩と二宮尊徳
[勤勉は江戸時代から] 日本人は勤勉だとされてきたが,人々が勤勉を道徳的によいことであると考えるようになるのは,江戸時代になってからである。
 江戸時代は,戦国時代のように,耕した田畑が戦乱によって踏み荒らされたり,戦いに巻き込まれて命を失うおそれはなくなった。まじめに働いただけの成果が約束され,一生の間,働いてたくわえたものを子孫に伝えることができるという見通しが高まった。そして子孫も,家の仕事を引きついだりして,財産を残してくれた先祖に感謝することが自然に行われるようになった。
 先祖伝来の家業に勤勉にはげむことが,人間としての安心立命につながるという考えが広がった。江戸初期の国土の大開発は,こうした勤勉さによってなされた。しかし,元禄時代にみられた派手な生活により,商人などの中からは,没落していく人々も多数出た。そこから,勤勉に加えて倹約の大切さも実感されるようになった。

新しい歴史教科書44

[石田梅岩] このようにしてつちかわれた勤勉と倹約の精神に,理論的な根拠を与え,それを分かりやすく町人たちに説いたのが石田梅岩(16851744)であった。
 梅岩は,丹波(京都府兵庫県の一部)の山村に生まれ,幼いころより京都の商家で働いた。梅岩は人間の理想の生き方を求めて,さまざまに読書を重ね,ついに赤ん坊のような自然で無心な状態こそ人間の「本心」であると考えるようになる。梅岩は,自然の中の鳥やけものがそれぞれの仕方で生活をいとなんでいるように,人間にも「本心」のままに行動して,なお社会がいとなまれていくような自然な生き方=「形」があるはずだと考えた。そして,その「形」とは,みずからの勤労によって生活をいとなみ,この世の財貨を無駄に消費しないという倹約の精神であった。
 梅岩はこの考え方を,単に町人だけではなく,武士にも共通する道徳だと説いた。
梅岩の教えは心学とよばれ,多くの後継者に恵まれて人々の間に広まっていった。

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新しい歴史教科書45

[二宮尊徳] いくつかの小学校には,柴を背おった子どもが本を読みながら歩いている銅像や石像がある。この像は,幕末の農政家・二宮尊徳(17871856)が金次郎とよばれていた子ども時代を写したものである。
 尊徳は,相模(神奈川県)の農家に生まれた。幼いとき,川のはんらんで家の田畑が水没し,10代で両親を失った。そこで伯父の家に世話になったが,不幸にくじけず,自分の力で家を復興しようとした。昼の仕事を終えた夜に,自分で植えた菜種からの油で灯をともして読書を続けた。
 尊徳は自分の経験から学ぶことも怠らなかった。捨ててあった苗を植えてみると一俵ほどの米がとれたのを見て,「積小為大」<せきしょういだい>(小さなものを積み重ねて大きな結果を得る)という法則を悟った。やがて家の再興に成功した尊徳はそれに満足せず,小田原藩の家老・服部家に奉公して,その子弟がかよう藩校にお供し,講堂からもれ聞こえる講義で勉強した。のちに,尊徳は服部家の家政の再建を依頼されて成功し,さらに各地の家や所領の再建を頼まれた。
 尊徳の方法は,勤勉と倹約を合理的な方法に高めたもので,「仕法」とよばれ有名になった。尊徳の教えには大勢の賛同者が生まれ,報徳社という結社が成立して,明治期以降も発展していった。

新しい歴史教科書46

欧米諸国の接近
大開発の時代
 平和な社会が到来して,人々は安心して生活の向上を目指して働くことができるようになった。幕府や大名も米の増産を望んだ。こうして,全国で,干潟や河川敷などを中心に新田が開発された。17世紀の100年間に,全国の田畑の面積は,およそ2倍近く増加した。まさに大開発の時代であった。今日,日本各地で見られる広々と水田が広がる風景は,この時代に生まれたものである。
 開発にともない,田畑を深く耕せる備中ぐわ,脱穀のための千歯こきが用いられるようになり,農作業の能率が向上した。そして,肥料として干鰯<ほしか>や油粕を購入して用いるようになり,土地の生産力が高まった。
 江戸時代の年貢率について,「五公五民」<ごこうごみん>「六公四民」<ろっこうしみん>という言葉があり,収穫高の5割から6割が年貢だとみなされていた。しかし,米の生産高が上昇した結果,実際の収穫高は年貢の計算のもととなった数字の上での収穫高(17世紀はじめの検地のときのもの)をはるかに超え,全体としては年貢は3割程度,なかには十数%の地域もあった。

新しい歴史教科書47

農産品の生産
 米の生産高が増えると,人々の食生活にゆとりが生まれ,副食品,嗜好品,衣類への需要も高まった。その原料として,野菜,茶,麻,楮 <こうぞ>,藍,漆,紅花,菜種などが,その栽培に適した地域で本格的に生産されるようになった。各藩も特産物の生産を奨励した。それまで輸入に頼っていた木綿や生糸の生産も増え,やがて国内で自給できるようになっていった。こうした農法や栽培品種についての新しい試みは,さまざまな農書に記されて全国に広がった。
 農民は農繁期には忙しく働いたが,農閑期には,豊かさがもたらすゆとりを背景に,神社仏閣の参拝の旅に出かけたり,獅子舞や相撲,踊りなどで休日を楽しんだ。

新しい歴史教科書48

浮世絵と印象派
 まず上の2枚の絵を見くらべてほしい。左は江戸時代の浮世絵,右は19世紀オランダの画家ゴッホの作品である。ゴッホが左の絵をそっくりそのまま模写しているのが分かる。日本の浮世絵は西洋の万国博覧会などで海の向こうに渡り,西洋の芸術家に大きな影響を与えた。彼らは浮世絵のどんなところにひかれ,自分たちの作品にいかしたのだろうか。
[浮世絵の発達] 浮世絵は,江戸時代の中ごろから幕末にかけてさかんにつくられた。その名の示すとおり,江戸の町人たちの「浮世」(世の中)を題材に,日本人の生活美を見事に表現している。絵師たちは木版画の特徴をいかして,単純な線と色の面を用いながら,その芸術性を高めていった。歌麿<うたまろ>の美人画や北斎<ほくさい>,広重<ひろしげ>の風景画(口絵P.14)など,人気絵師の錦絵は本屋の店頭で売られ,人々の評判をよんだ。

新しい歴史教科書49

[印象派の運動] 一方,19世紀後半のヨーロッパでは,産業革命や市民革命(sP.168)をへて,芸術の分野でもこれまでの宗教画や神話画にかわる新たな表現を求める気運が高まっていた。フランスではモネ,ルノアール,ピサロ,ドガ,セザンヌら,印象派とよばれる画家たちが光の効果を取り入れて風景や人物をえがく新しい芸術運動をおこした。
[海を渡った浮世絵] 1860年代,日本の開国を機に浮世絵が西洋に紹介された。当時の西洋の画家たちは,浮世絵の明るい色彩や大胆な構図に衝撃を受けた。上に見たような模写のほかにも,彼らは自分の作品の中に浮世絵をえがきこんだり,着物姿のモデルをえがいたりしたが,影響はもっと深いところまでおよんでいる。
 印象派の画家たちが目指した,自然をありのままに描く姿勢や,光に満ちた画面,瞬間の表情を写しとる方法などは,浮世絵から学んだ部分が大きい。このような日本の芸術が西洋に与えた影響を,フランスでは「ジャポニスム」とよんでいる。
 何より,浮世絵は西洋の芸術家に,新しい時代にふさわしい人間や自然の自由な見方を教え,日常生活の中に美があることを示したのだった。

新しい歴史教科書50

欧米列強のアジア進出
二つの革命の明と暗
 産業革命と市民革命は,欧米の社会に個人の自由を広げ,物質的な富をもたらした。しかし,自由の拡大は人々の欲望を高め,工業社会の成功は,階級の対立や貧困というわざわいを引きおこした。
 欧米諸国は,急速な近代化にともなう国内の問題点を自国の外で解消するために,安い原料の確保や自国の商品を売る市場を求めて,アジアやアフリカの植民地獲得にはげんだ。産業革命と市民革命は,西洋の近代化をおし進める原動力となったが,一方で,経済的拡張や領土拡大への野望をかきたてる要因ともなったのである。こうして欧米諸国は,「列強」という世界の強国の道を歩み始めた。

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新しい歴史教科書51

軍事力の格差
 植民地獲得を目指す西洋の軍事力は,東アジア諸国を圧倒していた。西洋と東洋で軍事力の格差が生じた背景には,両地域が歩んできた歴史の違いがあった。
 かつて,織田信長や豊臣秀吉が活躍した16世紀の日本や,清(しん)が明(みん)にかわって王朝を立てた17世紀の中国では,国内の戦争がさかんで,軍事技術は長足の進歩を遂げていた。
 しかし,ひとたび平和が回復されると,日本と中国の両国では,ともに銃砲火器への関心がうすれ,軍事技術の開発に格別の注意が払われなくなった。東アジアにはその後,約250年間,のどかで平和な時代が続いた。
 この間,西洋諸国は,ひたすら軍事力の強化に努めた。およそ1618世紀は,西洋における驚異的な軍事力発展の3世紀として知られる。かつて,モンゴルの騎馬軍団は,馬を走らせて草原を征服し続けたが,16世紀以後の西洋人は,軍艦から大砲を撃って,植民地を征服し続けた。それでも,東アジアに危険がすぐにおよぶことはなかった。

新しい歴史教科書52

欧米の植民地進出
 イギリスやフランスは,植民地獲得のための争奪戦を,まずインドやカナダでくり広げ,19世紀に入って,ついに東アジアに迫ってきた。平和を維持していた中国や日本は,突然に西洋の強大な軍事力に直面することになった。これら欧米列強(世界の強国) は,1800年に地球の陸地の35%を支配するにいたり,1914年の第一次世界大戦が始まったころには,84%にまで支配地を拡大した。日本の明治維新は,その二つの年代の中間に当たる時期におきた出来事となる。

新しい歴史教科書53

アヘン戦争の衝撃
アヘン戦争と英国の中国分割
 18世紀前後のころより,ヨーロッパでは紅茶が広まり,イギリスが清から輸入する茶は,生活必需品となった。当時,茶の有力な産地は中国であったが,イギリスはこれを買い取る適当な見返りの輸出品をもたなかった。そこで,メキシコやスペインから買い入れた銀で,茶の葉を購入した。これによって清の国内では,しだいに銀がだぶつくようになった。
 やがて,とんでもない輸入品が中国の市場にあらわれた。もっとも代表的な麻薬といわれるアヘン(阿片)である。
 イギリスはインドを植民地として,インド人にアヘンをつくらせ,これを清との貿易の代価として利用した。イギリスは自国では決して輸入を許していないアヘンを清に売りつけることで,銀の一方的流出に悩む不均衡な貿易収支を正すと同時に,イギリスのインド支配の財政基盤も支えるという,一挙両得の政策に出たのである。
 アヘンは,衰退期に入った清に,無抵抗に受け入れられた。当時,腐敗していた清の官僚は,輸入禁止という対抗策も打ち出せず,たちまち清からの見返りの輸出は茶の葉だけでは足りなくなり,だぶついた銀をあてねばならなくなった。銀が流出していくために,清は経済危機におそわれた。
 清の道光帝<どうこうてい>はアヘンの販売,吸飲のいずれにも死罪をもってのぞむ厳禁政策を決定した。皇帝の命を受けた清の大臣,林則徐 <りんそくじょ>は,イギリス人貿易商から手持ちのアヘン約1300トン(2万3000箱)を没収し,大きな穴を掘って,海水と石灰石を混ぜてそこにアヘンを投入し,化学処理をして廃棄した。
 すると,イギリスの軍艦は,「自由貿易」を口実に清国沿岸に発砲し,1840年,アヘン戦争が始まった。戦争は2年余りも続き,圧倒的な力をもつイギリスの海軍が海上を封鎖して,1842年,清は屈辱的な南京条約に調印した。
 イギリスは香港島を占領し,中国大陸へ進出する足がかりを得た。

新しい歴史教科書54

日本と中国・朝鮮の反応
 清がイギリスに敗れ,香港を割譲し開国したという情報は,「オランダ風説書 <ふうせつがき>」をとおしてわが国にただちに知らされ,幕末の指導者や知識層に深い衝撃を与えた。しかし,朝鮮では危機意識がうすく,9か月もたってから,報告書が提出された。その内容も簡単なものだったので,指導者層も国際情勢の急変に気がつかなかった。戦争に敗れた当の中国人自身も,日本人を驚かせたほどの衝撃は受けなかった。
 中国は古代から何度も異民族に侵入されて,その支配を受けることも多かった。しかし,支配する
異民族を逆に自国の文明の中に取り込み,同化させてしまう傾向が強かった。 
 現に,清は満州人の支配する国である。中国人は異民族に支配されることに慣れ,支配されても自分は変わらないという自信をもっていた。欧米列強の進出という,今度ばかりは問題の質が少し違う重大事にあっても,彼らは同じ姿勢を崩そうとはしなかった。
 さらに,中国の儒教の教えでは,皇帝が人民を徳で治めるのが正しい統治であるとする徳治主義の考えが強く,武力の卓越を尊ぶのは野蛮であるとみなされがちであった。実際には武力を用いて物事に当たることも多かったが,文官が優位を占める官僚中心のこの国では,建前としては,武官が尊重されなかった。そのため,イギリスに戦争で敗北しても,徳ではなく,武力に敗北したにすぎないと考え,自国の文明に対
する自信はゆるがなかった。
 そのうちに,欧米列強の圧力はさらに強まったので,清は西洋の軍事技術を取り入れざるをえなくなった。しかし政治,社会のあり方や,文明そのものを見直そうという考え方はまだ,おこらなかった。
 見直しが必要だと清が思うようになるのは,のちに日清 <にっしん>戦争で日本に敗れてからである。清は近代国家の建設の仕方を学ぼうとして,大量の留学生を日本に送ってきた。古代の遣唐使とは逆の運動が始まったのである。

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新しい歴史教科書55

ペリー来航と開国
ペリーはなぜ日本にきたか
 1853(嘉永6)年6月,4隻の巨大な黒塗りの軍艦(黒船)が,江戸湾(東京湾)の入り口に近い浦賀(神奈川県)の沖合に姿をあらわした。軍艦には計100門近くの大砲が積まれ,いつでも発射できるように準備されていた。率いるのはアメリカの海軍提督ペリーで,日本に開国と通商を求める大統領の国書をたずさえていた。幕府は,国書を受け取った。ペリーは回答を得るため翌年,もう一度訪れることを告げて立ち去った。

新しい歴史教科書56

ペリーが渡した白旗
 幕府が国書の受け取りを拒否できなかったのはなぜか。ペリーは,大統領の国書とは別に,白旗を2本,幕府に渡していた。それには手紙が添えられ,「開国要求を認めないならば武力に訴えるから防戦するがよい。戦争になれば必勝するのはアメリカだ。いよいよ降参というときにはこの白旗を押し立てよ。そうすれば和睦しよう」と書かれてあった。
 武力で脅して要求をのませるこういうやり方は,「砲艦外交<ほうかんがいこう> 」とよばれ,欧米列強がアジア諸国に対して用いてきた手法だった。 
 ペリーは,なぜ日本にやってきたのだろうか。日本を開国させるアメリカの目的は二つあった。一つは,中国にいたる太平洋航路を開くことだった。その中継地として日本がどうしても必要だった。アメリカは,産業革命によって工場で大量に生産されるようになった綿製品を,人口の多い中国に輸出することを狙っていた。太平洋航路が開かれれば,アフリカ回りでやってくるイギリスとの競争に勝つことができる。
 二つ目の目的は,このころ北太平洋でさかんに操業していた捕鯨船の保護だった。
鯨の肉は捨てられ,脂肪分がランプ用の油として用いられた。産業革命によって生まれた工場を夜間操業するための照明用だった。

新しい歴史教科書57

幕府の決断と開国
 1854(安政元)年1月,ペリーは今度は7隻の軍艦を率いて神奈川沖にやってきた。ペリーと交渉の末,幕府は要求に応じることを決断した。3月,アメリカとの間に日米和親条約を結び,日本は開国した。この条約によって日本は静岡県の下田と北海道の函館の2港を開くことを約束し,アメリカの船に石炭,食料,水を補給し,下田にアメリカ領事を置くことを取り決めた。同様の条約は,イギリス,ロシア,オランダとの間でも結ばれた。
 1856年,下田に着任したアメリカ総領事ハリスは,貿易を開始するために新たに通商条約を結ぶことを要求した。これに対し,攘夷派からはげしい反対論がわきおこったが,ハリスの要求を拒絶できないと考えた幕府は,朝廷の許可を得て条約を結ぼうとした。外交の権限を朝廷から与えられていた幕府としては,前例のないことだった。しかし,朝廷は条約締結を許さなかった。
 幕府は朝廷の許可のないまま,1858(安政5)年,日米修好通商条約を結んだ。この条約で,函館,神奈川,新潟,兵庫(神戸),長崎の5港が開かれることになった。しかし,条約は,日本におけるアメリカ人の不法行為をアメリカの領事館が裁く権利(治外法権)を認めた上,日本に輸入関税率を自由に決定する権利(関税自主権)のない,不平等な条約だった。ただし,アヘン戦争の結果を知っていた幕府は,アヘンの輸入禁止条項をつけ加えることに成功した。その後,同様の条約が,オランダ,ロシア,イギリス,フランスとの間でも結ばれた。
 幕府の大老井伊直弼<たいろういいなおすけ>は,朝廷と結んで条約に反対した前水戸藩主徳川斉昭<とくがわなりあき>など大名やその家臣,公家たちにはげしい弾圧を加えた(安政の大獄<あんせいのたいごく> )。

新しい歴史教科書58

近代日本が置かれた立場
欧米列強の脅威
 ペリーの来航と幕末の混乱,イギリスとフランスのわが国への内政干渉,ロシアの南下──これらの日本をおそった欧米列強の軍事的脅威は,当時の日本人に,恐怖の感情を引きおこした。日本は開国以降,その恐怖を打ち払おうと必死で西洋文明の導入に努めた。そのための努力や工夫などが,今日までの日本の歴史を動かす要因の一つとなっている。
近代日本史の前提
 これから 明治維新<めいじいしん>に始まる近代の日本史を学ぶに当たって,次の三つの前提を,考慮に入れておきたい。
 第一に,欧米列強の植民地支配圏の拡大は,明治維新のあともずっと続いていた。
日本が独立を維持して,大国の仲間入りを果たすまでの歴史は,列強の進出と同時進行でおこったことだった。北には,不凍港を求めて南下してくる,最大の脅威ロシアがあった。明治の日本人はどんなにか心細かったであろう。
 第二に,このような国際情勢の中で,中国(清)は,アヘン戦争でみたように,欧米列強の武力脅威を十分に認識できていなかった。中国の強い政治的影響下にあった朝鮮も同様だった。中国人はむかしから,自国の文明を世界の中心と考える中華思想をもっていた。イギリスなどを,世界の果ての野蛮な民族であるとみなしていて,西洋文明に対し,敬意も関心もいだかない傾向があった。この結果,清はしだいに列強に侵食され,領土の保全もあやうくなった。
 第三に,日本は江戸時代を通じて武家社会という側面があり,列強の武力脅威に敏感に反応し,西洋文明に学ぶ姿勢へと政策を転じたが,中国・朝鮮両国は文官が支配する国家だったので,列強の脅威に対し,十分な対応ができなかったという考え方もある。

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新しい歴史教科書59

日本の国旗と国家
[国旗国歌法] 日本の国旗は「日章旗<にっしょうき>」(日の丸),国歌は「君が代」である。1999(平成11)年に国旗国歌法が成立し,長年の慣習が法律に明文化された。
 国旗とは,特定の国を他の国と区別するしるしであるとともに,その国の主権をあらわす神聖なシンボルとして,尊重されるものである。
 国歌も,自国の独立性と国がらをあらわし,また国内の結束をうながす歌で,国際的な行事や国内の儀式などに,敬意をもって歌われる。
 わが国の日の丸・君が代は,それぞれ古い由来をもつ。それはどんなものだろうか。
[日の丸の由来] 日本人は古くから,太陽をうやまう気持ちをもち続けてきた。それは,太陽が命と暮らしを保つために欠かせない,光や熱を与えてくれるからだ。
 日本の神話では,大和朝廷の祖先の神としてもっとも重要視されるのが,太陽神としてもあおがれる天照大神である。
 遣隋使が持参した外交文書には,わが国のことを「日出づる処」(太陽がのぼる場所)と表現している。やがて,国の名そのものが,太陽にちなむ「日本」と定められた。これは,律令国家の制度が整えられた7世紀後半のころであろう。
 平安時代には,太陽をかたどった金の日の丸をあしらったものが,扇などに使われていた。中世から近世初頭にかけて,白地に赤の日の丸をえがいた旗が,合戦などに用いられている。
 江戸時代に入り,日本人の海外渡航が禁止されると,日の丸は江戸幕府専用の船印とみなされるようになる。やがて,幕末の開国以降に,日本の船を他国のものと区別する必要がでてきた。この局面で,「白地,日の丸」の旗を「日本総船印」<にほんそうふなじるし>「御国総標」<みくにそうじるし>と定め,外交にも用いた。そこで,明治の新政府も1870(明治3)年,改めて日の丸を「国旗」として布告した。

新しい歴史教科書60

[君が代の由来] 「君が代」の元歌は,平安時代の前期にまとめられた『古今和歌集』に,長寿を祝う賀歌(他人に幸福がくるように祈ってよむ歌)の代表作としておさめられている。

わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌<いわお>となりて 苔のむすまで
(私の敬愛するあなたさま,どうか千年も万年も,小石が寄り集まって大きな岩となり,それに苔が生えるほど末永くお健やかに) 

 これが,まもなく今の「君が代」と同じ歌詞になり(意味は同じ),中世から近世を通じて,神社や寺院の行事で歌われたり,さまざまな物語や歌舞などにも取り入れられて,広く庶民に親しまれてきた。
 明治に入って欧米との交流がさかんになると,日本にも国歌が必要になった。そこで古くから多くの人々に愛唱されてきた「君が代」が国歌に選ばれ,それに日本的な雅楽調の曲をつけ,洋楽風に編曲したものが1880(明治13)年の天長節(天皇誕生日)に公表された。それが明治後半から全国の小学校で祝祭日の儀式唱歌として普及し,慣習として定着した。
 国歌「君が代」の君は,日本国憲法のもとでは,日本国および日本国民統合の象徴と定められる天皇を指し,この国歌は,天皇に象徴されるわが国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解釈されている。

新しい歴史教科書61

勝海舟と西郷隆盛
[江戸城無血開城]<えどむけつかいじょう>868(慶応4)年3月14日,江戸高輪にある薩摩藩の屋敷の一室で,幕府陸軍総裁の勝海舟(18231899)と官軍参謀の西郷隆盛(18271877)が向かいあってすわっていた。同年1月,鳥羽伏見の戦いが始まり,3月はじめには官軍(新政府軍)は江戸に到着し,この会談の翌日,3月15日には江戸城総攻撃が予定されていた。二人は,総攻撃を中止し,江戸の町を戦火にさらすことなく,官軍を江戸に入れるために話しあっていたのである。
 勝は西郷に,官軍が徳川慶喜<よしのぶ>を助命し,徳川家に対する寛大な処分を行うならば,徳川方は抵抗せず江戸城を明け渡す(江戸城無血開城)と申し入れた。
勝の申し入れを聞いた西郷は,しばらくして,「いろいろむつかしい議論もありましょうが,私が一身にかけてお引き受けします」と答えた。これにより,江戸の町が戦場になるおそれはなくなった。

新しい歴史教科書62

[勝と西郷の出会い] 勝と西郷とは以前から認めあう仲であった。勝は,黒船来航後,幕府の海軍建設のために取りたてられた幕臣であった。長崎でオランダ人教官から航海術を学び,1860(万延<まんえん> 元)年,咸臨丸<かんりんまる> の艦長として幕府の遣米使節団のアメリカ渡航に参加した。
 勝は開国後の政治情勢をみて,幕府が自分の思うままに政治を続けることは無理だと考え,幕府の「私」<わたくし> を取り去り,諸藩と協力する「公」<おおやけ> の政治に向かうべきだと考えるようになる。のちに幕府の海軍操練所の指導をまかされた勝は,坂本龍馬<さかもとりょうま> など他藩の優秀な人材を迎え入れ,幕府の海軍ではなく日本の海軍の建設に努めた。そのため,勝には幕府や藩の区別を超えた人々との交友関係が広がった。西郷との出会いもそうした中でおきた。勝は,西郷に幕府の内情を打ち明けて批判し,雄藩による議会政治の確立が必要だと説いた。西郷は勝の見識に圧倒された。勝も,西郷の「大胆識<だいたんしき> (はらが大きくすわっていること)」に深い印象を受けた。
 西郷は薩摩藩の下級武士の家に生まれた。成人して,開明的な藩主島津斉彬<しまづなりあきら>に見いだされ,京都に派遣されて,アメリカとの通商条約をめぐる政治的な争いの中で活躍した。ところが,斉彬が急死して後ろ盾を失い,大老井伊直弼による安政の大獄で追われ,鹿児島に帰った西郷を待っていたのは,奄美大島への島流しという急激な運命の転変であった。しかし,この島流しの経験が西郷の人格を大きくしたとされる。3年後許された西郷は,中央で薩摩藩の政治勢力を伸ばそうとした島津久光の指示で,再び京都に派遣され活躍した。そこで勝と出会ったのである。

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新しい歴史教科書63

[日本という「公」] やがて薩摩藩は西郷の活躍もあって倒幕の道を歩み,戊辰<ぼしん> 戦争(P.190)が始まった。勝は,当時,幕府の中にフランスの援助で官軍に抵抗しようという動きがあったのをおさえた。フランスがこれにつけこんで,日本を植民地化することをおそれたからである。西郷もまた,イギリスの介入をあやぶんだ。そこで西郷は慶喜を助命し,徳川家に対する寛大な処分を求める勝の申し出を受け入れ,朝廷を説得することを約束したのである。
 こうして,幕府や各藩の「私」の利益を離れて,日本という「公」の立場に立つ歴史的な決断がなされた。それはまた,西欧諸国の進出から日本の独立を守るためになされた明治維新という変革を,そのまま象徴していた。

新しい歴史教科書64

大久保利通と伊藤博文
[江戸城無血開城]<えどむけつかいじょう>  1868(慶応4)年3月14日,江戸高輪にある薩摩藩の屋敷の一室で,幕府陸軍総裁の勝海舟(18231899)と官軍参謀の西郷隆盛(18271877)が向かいあってすわっていた。同年1月,鳥羽伏見の戦いが始まり,3月はじめには官軍(新政府軍)は江戸に到着し,この会談の翌日,3月15日には江戸城総攻撃が予定されていた。二人は,総攻撃を中止し,江戸の町を戦火にさらすことなく,官軍を江戸に入れるために話しあっていたのである。
 勝は西郷に,官軍が徳川慶喜 <よしのぶ>を助命し,徳川家に対する寛大な処分を行うならば,徳川方は抵抗せず江戸城を明け渡す(江戸城無血開城)と申し入れた。
勝の申し入れを聞いた西郷は,しばらくして,「いろいろむつかしい議論もありましょうが,私が一身にかけてお引き受けします」と答えた。これにより,江戸の町が戦場になるおそれはなくなった。

新しい歴史教科書65

[勝と西郷の出会い] 勝と西郷とは以前から認めあう仲であった。勝は,黒船来航後,幕府の海軍建設のために取りたてられた幕臣であった。長崎でオランダ人教官から航海術を学び,1860(万延 <まんえん> 元)年,咸臨丸 <かんりんまる> の艦長として幕府の遣米使節団のアメリカ渡航に参加した。
 勝は開国後の政治情勢をみて,幕府が自分の思うままに政治を続けることは無理だと考え,幕府の「私」 <わたくし> を取り去り,諸藩と協力する「公」<おおやけ> の政治に向かうべきだと考えるようになる。のちに幕府の海軍操練所の指導をまかされた勝は,坂本龍馬 <さかもとりょうま> など他藩の優秀な人材を迎え入れ,幕府の海軍ではなく日本の海軍の建設に努めた。そのため,勝には幕府や藩の区別を超えた人々との交友関係が広がった。西郷との出会いもそうした中でおきた。勝は,西郷に幕府の内情を打ち明けて批判し,雄藩による議会政治の確立が必要だと説いた。
西郷は勝の見識に圧倒された。勝も,西郷の「大胆識 <だいたんしき> (はらが大きくすわっていること)」に深い印象を受けた。
 西郷は薩摩藩の下級武士の家に生まれた。成人して,開明的な藩主島津斉彬 <しまづなりあきら>に見いだされ,京都に派遣されて,アメリカとの通商条約をめぐる政治的な争いの中で活躍した。ところが,斉彬が急死して後ろ盾を失い,大老井伊直弼による安政の大獄で追われ,鹿児島に帰った西郷を待っていたのは,奄美大島への島流しという急激な運命の転変であった。しかし,この島流しの経験が西郷の人格を大きくしたとされる。3年後許された西郷は,中央で薩摩藩の政治勢力を伸ばそうとした島津久光の指示で,再び京都に派遣され活躍した。そこで勝と出会ったのである。

新しい歴史教科書66

[日本という「公」] やがて薩摩藩は西郷の活躍もあって倒幕の道を歩み,戊辰 <ぼしん> 戦争(P.190)が始まった。勝は,当時,幕府の中にフランスの援助で官軍に抵抗しようという動きがあったのをおさえた。フランスがこれにつけこんで,日本を植民地化することをおそれたからである。西郷もまた,イギリスの介入をあやぶんだ。そこで西郷は慶喜を助命し,徳川家に対する寛大な処分を求める勝の申し出を受け入れ,朝廷を説得することを約束したのである。
 こうして,幕府や各藩の「私」の利益を離れて,日本という「公」の立場に立つ歴史的な決断がなされた。それはまた,西欧諸国の進出から日本の独立を守るためになされた明治維新という変革を,そのまま象徴していた。

新しい歴史教科書67

明治維新と教育立国
[創業時間] 西南戦争が終わった翌年の1878(明治11)年5月14日の朝,明治政府の実力者の大久保利通(18301878)は,訪れた客に次のように語った。これまでの10年間はなによりも秩序を整える「創業時間」であった。これからの10年間は産業を振興させる時期であり,自分はこのことに邁進する決意であると。しかし,大久保は客と語り終えて 太政官<だじょうかんに出勤途中,反政府派の士族に暗殺された。大
久保はまさしく「創業時間」の混乱をしずめ,日本の発展の基盤を準備した人であった。
 大久保利通は,鹿児島の下級武士の家に生まれた。西郷隆盛とは幼なじみだった。
大久保は,地味でがまん強い努力によって,島津斉彬にかわって藩の実権をにぎった島津久光に用いられ倒幕運動で活躍した。久光の怒りをかって切腹させられそうになった西郷と,ともに死のうとちかったこともあった。

新しい歴史教科書68

[決断と勇気]  岩倉具視<いわくらともみ>は,大久保の長所はいったん決断すれば「確固として動かない」ことだと述べたことがある。明治維新後,大久保は,まだ実力のともなわない新政府の制度や組織をねばり強く整えていった。そして,岩倉使節団の副使として欧米を視察した大久保は,日本に必要なのは一刻も早い国内の産業化だという考えを強めて帰国した。
 ところが,日本では西郷を中心に 征韓論<せいかんろん>が盛り上がっていた。征韓派の士族の勢力は強大で,大久保は西郷への情愛をおさえ,死を覚悟して,朝鮮への使節派遣を中止させた。大久保はあらゆる非難に抗して自分の信じるところを突き進んだ。大久保は何よりも決断と勇気を必要とする時代を生き,その時代が終わるとともに姿を消したのである。

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新しい歴史教科書69

[調和家] 大久保の死後,しだいに頭角をあらわし,やがて初代の総理大臣となって,明治国家の建設に中心的な働きをしたのが伊藤博文(18411909)である。伊藤博文は,長州藩の農民の家に生まれたが,父母とともに足軽の家に養子に入った。 吉田松陰<よしだしょういん>の 下村塾<しょうかそんじゅく>に学び,尊王攘夷運動に参加したが,親友井上馨とイギリスに渡り,無謀な攘夷が不可能なことを悟った。維新後は,再び欧米を視察し,文明開化を推進した。
 大久保の死後,政府内部には分裂が生じ,外では自由民権運動がさかんになっていった。伊藤はみずから「調和家」を心がけ,妥協によって対立をゆるめ,事態をまとめようとした。明治14年の政変(1881年)では,政府内急進派の 大隈重信<おおくましげのぶ>の一派を追放したが,他方で,世論が非難する開拓使官有物の払い下げを中止し,10年後の議会開設を約束して民権派の政府攻撃をかわした。

新しい歴史教科書70

[憲法案作成] しかし,伊藤はたんに妥協を目指すだけの政治家ではなかった。伊藤には,日本にふさわしい立憲政体が必要だというかたい信念があった。そこで,伊藤はヨーロッパに渡って憲法学を勉強し,日本の国体(国のあり方)の原則と議会政治との調和を心がけながら,みずから憲法案をまとめた。
 やがて議会が開設され,政党の力が伸びてくると,伊藤は政府と政党の不毛な対立を解消しようとして,周囲の反対を押しきって,みずから政党の党首となり,政党政治の道を開いた。
 このように伊藤は,つねに理想と現実の双方を見すえて,立憲国家日本を築き上げていったのである。

新しい歴史教科書71

40年がかりの条約改正
 欧米諸国はそれでも,日本がまだ近代国家としての形を整えていないことを理由に,なかなか条約改正に応じようとはしなかった。日本は,あくまで欧米並みの制度を取り入れることによって,対等な扱いを受けることのできる国になろうと必死の努力を重ねた。1889年,日本が自前の憲法を制定した動機の一つは条約改正だった。
 1894(明治27)年,日清戦争が始まる直前に,イギリスは日本の近代化の努力を認め,ロシアの進出に対抗することをきっかけに,日本との条約改正に同意し,治外法権を撤廃した(日英通商航海条約)。その後,日清戦争に日本が勝利すると,アメリカをはじめ各国も治外法権を撤廃した。
 しかし,経済発展に必要な関税自主権を含む完全な平等条約が実現したのは,日本が日露戦争に勝利したあとの,1911(明治44)年のことだった。1871年の岩倉使節団の交渉から40年の歳月がたっていた。

新しい歴史教科書72

アジアで最初の立憲国家
大日本帝国憲法の発布
 1889(明治22)年2月11日,大日本帝国憲法が発布され,皇居で明治天皇から内閣総理大臣の黒田清隆に,7章76条からなる憲法の原本が授けられた。この日は前夜からの雪で東京市中は一面の銀世界となったが,祝砲が轟き,山車が練り歩き,仮装行列がくり出し,祝賀行事一色と化した。
 大日本帝国憲法は,国家の統治権は天皇にあるとし,その上で実際の政治は各大臣の輔弼 <ほひつ>(助言)に基づいて行われると定めた。また,天皇に政治的責任をおわせないこともうたわれた。国民は法律の範囲内で各種の権利を保障され,選挙で衆議院議員を選ぶことになった。通常の法律や予算の成立には議会の承認が必要とされた。議会には,衆議院のほか,天皇によって任命される華族を中心とする議員からなる貴族院が置かれた。
 翌1890年には,初めての衆議院選挙が行われ,第一回帝国議会が開かれた。選挙権は満25歳以上の男子で一定額以上の納税者に限られていた。しかし,これによって日本は,本格的な立憲政治は欧米以外には無理であると言われていた時代に,アジアで最初の議会をもつ立憲国家として出発した。

新しい歴史教科書73

教育ニ関スル勅語
 1890年,議会の召集に先立ち,天皇の名によって「教育ニ関スル勅語」(教育勅語<きょういくちょくご> )が発布された。これは,父母への孝行や,非常時には国のために尽くす姿勢,近代国家の国民としての心得を説いた教えで,1945(昭和20)年の終戦にいたるまで,各学校で用いられ,近代日本人の人格の背骨をなすものとなった。
憲法を称賛した内外の声
 憲法が発布されると,政府批判の論陣を張ってきた新聞も,「聞きしにまさる良憲法」であるとたたえた。また,新憲法は翻訳されて,世界各国に通告された。イギリスの新聞『タイムズ』は「東洋の地で,周到な準備の末に議会制憲法が成立したのは何か夢のような話だ。これは偉大な試みだ」と書いた。ドイツの法学者イェーリングは,「議会を両院に分け,(衆議院のほかに)貴族院を設けたのはもっとも賛成するところで,私の持論を実現している」と称賛した。 

新しい歴史教科書74

日清戦争と中華秩序の崩壊
朝鮮半島と日本の安全保障
 東アジアの地図を見てみよう。日本はユーラシア大陸から少し離れて,海に浮かぶ島国である。この日本に向けて,大陸から一本の腕のように朝鮮半島が突き出ている。当時,朝鮮半島が日本に敵対的な大国の支配下に入れば,日本を攻撃する格好の基地となり,後背地をもたない島国の日本は,自国の防衛が困難となると考えられていた。
 このころ,朝鮮に宗主権をもっていたのは清朝だったが,それ以上におそろしい大国は,不凍港を求めて東アジアに目を向け始めたロシアだった。ロシアは1891年にシベリア鉄道の建設に着手し,その脅威はさし迫っていた。日本政府の中には,ロシアの力が朝鮮におよぶ前に,朝鮮を中立国とする条約を各国に結ばせ,中立の保障のため日本の軍備を増強しなければならないという考えもあった。

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新しい歴史教科書75

朝鮮をめぐる日清の対立
 一方,清は,東アジアの情勢を別の見方でとらえていた。1879(明治12)年,長い間,清にも朝貢してきた琉球が沖縄県となり,日本の領土に組み込まれたことは,清朝にとって大きな衝撃だった。1884年には,清は清仏戦争に敗れ,もう一つの朝貢国ベトナムがフランスの支配下に入った。朝貢国が次々と消滅していくことは皇帝の徳の衰退を意味し,中華秩序崩壊の危機を示すものだった。そこで清は,最後の有力な朝貢国である朝鮮だけは失うまいとし,日本を仮想敵国(国防計画を立てるさいに,仮に敵とみなす国)とするようになった。
 日本は,朝鮮の開国後,その近代化を助けるべく軍制改革を援助した。朝鮮が外国の支配に服さない自衛力のある近代国家になることは,日本の安全にとっても重要だった。ところが,1882年,軍制改革に取り残された一部朝鮮軍人の暴動が発生した( 壬午事変<じんごじへん>)。清はこれに乗じ,数千の軍隊を派遣してただちに暴動を鎮圧し,日本の影響力を弱めた。1884年には日本の明治維新にならって近代化を進めようとした金玉均らのクーデターがおこったが,このときも清の軍隊は,親日派を徹底的に弾圧した(甲申<うしん>事変)。1886年には,清は購入したばかりの軍艦定遠などからなる北洋艦隊を,親善を名目に長崎に派遣してその軍事力を見せつけ,日本に圧力をかけた。

新しい歴史教科書76

日清戦争と日本の勝因
 1894(明治27)年,朝鮮の南部に東学の乱(甲午農民戦争)とよばれる農民暴動がおこった。東学党は,西洋のキリスト教(西学)に反対する宗教(東学)を信仰する集団だった。彼らは,外国人と腐敗した役人の追放を目指し,一時は首都漢城<かんじょう>(現在のソウル)に迫る勢いをみせた。わずかな兵力しかもたない朝鮮は,清に鎮圧のための出兵を求めたが,日本も甲申事変後の清との申しあわせに従い,軍隊を派遣し,日清両軍が衝突して日清戦争が始まった。
 戦場は朝鮮のほか,南満州などに広がり,陸戦でも海戦でも日本は清に圧勝した。
日本の勝因としては,軍隊の訓練,規律,新兵器の装備がまさっていたことがあげられるが,その背景には,日本人が自国のために献身する「国民」になっていたことがある。

新しい歴史教科書77

下関条約と三国干渉
 1895(明治28)年,日清両国は下関条約を結び,清は朝鮮の独立を認めるとともに,日本政府の財政収入の3倍に当たる賠償金3億円を支払い,遼東半島と台湾などを日本に割譲した。
 しかし,日本が簡単に列強と対等になることは許されなかった。東アジアに野心をもつロシアは,ドイツ,フランスを誘って,強力な軍事力を背景に,遼東半島を中国へ返還するよう日本に迫った(三国干渉)。清を破ったとはいえ,独力で三国に対抗する力をもたない日本は,やむをえず,一定額の賠償金と引きかえに遼東半島を手放さねばならなかった。日本は,中国の故事にある「臥薪嘗胆」を合言葉に,官民挙げてロシアに対抗するための国力の充実に努めるようになった。
 日清戦争は,欧米流の近代立憲国家として出発した日本と中華帝国との対決だった。「眠れる獅子」とよばれてその底力をおそれられていた清が,世界の予想に反して新興の日本にもろくも敗れ,古代から続いた東アジアの中華秩序は崩壊した。その後,列強諸国は清に群がり,たちまちそれぞれの租借地(他国の領土を借り受けた土地)を獲得し,中国進出の足がかりを築いた。

新しい歴史教科書78

国家の存亡をかけた日露戦争
親露か親英か
 19世紀末から20世紀のはじめにかけて,日本は弱肉強食の過酷な世界の中にあった。極東の小さな島国である日本の国力では,単独で自国を防衛するのは不可能だった。力のある大国と同盟関係を結ぶ以外に,生き残る方法はなかった。三国干渉のあと,日本は,同盟をロシアと結ぶかイギリスと結ぶかの選択を迫られた。
 両国のどちらが日本の独立を確保するのに役立つかを見極めるのは,容易なことではなかった。アヘン戦争の時代をよく知っている伊藤博文らの元老(天皇の政治顧問[こもん]。昭和初期まで存続し,維新の功労者が任命された)は,ロシアと結ぶ親露政策を,小村寿太郎ら外務省幹部や桂太郎首相は,イギリスと結ぶ親英政策を主張した。
 両者の論争の焦点は,ロシアについての見方だった。ロシアは,1900年に中国でおこった義和団<ぎわだん>事件を口実に,満州(中国東北部)に2万の兵を送り込み,そのまま居座っていた。ロシアが満州にとどまって朝鮮半島に出てこないようにロシアと話しあいがつくか,ということが最大の争点だった。論争に決着をつけたのは,小村寿太郎が提出した意見書だった。

新しい歴史教科書79

日英同盟締結
 小村意見書は,日露条約と日英条約の利害得失を論じ,日英条約が優位であると主張したものであった。
 小村意見書は,1901年,政府の方針として採択され,それに基づいて交渉した結果,1902(明治35)年,日英同盟が締結された。当時,ロシアは実際に朝鮮半島に進出する意図をもっていたから,小村の判断は正しかった。日英同盟はこののち20年間,日本の安全と繁栄に大きく役立った。
日露条約の問題点(小村意見書)
1.一時的には東洋の平和を維持できるであろうが,ロシアの侵略主義は到底これに満足しないから,長期的な保障とはならない。
2.満州とシベリアは,将来は別として,現状では経済的利益は小さい。
3.最近清国人は,上下ともに日本に対して友好的な感情をもってきているが,ロシアと結ぶと清国人の感情を害して,清国における日本の利益を損ずることになる。・英国の海軍力に対抗しなければならなくなる。 
日英条約の利点(小村意見書)
1.アジアにおける英国の目的は領土拡張でなく,現状維持と通商利益であり,英国と結べばロシアの野心を制して,比較的長く東洋の平和を維持できる。
2.したがって,日英条約は平和的,防衛的なものとして,国際世論からも支持される。
3.英国と結ぶと清国はますます日本を信頼するようになり,日本の利益を増進する。
4.韓国問題を解決するためには,他の強国と結んで,ロシアがやむをえず日本のいうことをきくようにするほかはない。英国は同盟を結ぶのにもっとも適当な国である。
5.英国と結べば,日本の経済についての国際的信用を高める。また,英国人は,同盟国の共通利益ということで,日本に財政上,経済上の便宜をはかるだろう。
6.大英帝国とシベリアでは,日本にとっての通商上の価値は比較にならない。
7.ロシアの海軍力は,英国の海軍力よりも対抗するのが容易である。 

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新しい歴史教科書80

日露開戦と戦いのゆくえ
 ロシアは,日本の10倍の国家予算と軍事力をもっていた。ロシアは満州の兵力を増強し,朝鮮北部に軍事基地を建設した。このまま黙視すれば,ロシアの極東における軍事力は日本が到底,太刀打ちできないほど増強されるのは明らかだった。政府は手遅れになることをおそれて,ロシアとの戦争を始める決意を固めた。
 1904(明治37)年2月,日本は英米の支持を受け,ロシアとの戦いの火ぶたを切った(日露戦争)。戦場になったのは朝鮮と満州だった。1905年,日本陸軍は苦戦の末,旅順を占領し,奉天(現在の瀋陽[しんよう,シェンヤン])会戦に勝利した。
 ロシアは劣勢をはね返すため,バルト海を根拠地とするバルチック艦隊を派遣することを決めた。約40隻の艦隊は,アフリカの南端を迂回し,インド洋を横切り,8か月をかけて日本海にやってきた。東郷平八郎司令長官率いる日本の連合艦隊は,兵員の高い士気とたくみな戦術でバルチック艦隊を全滅させ,世界の海戦史に残る驚異的な勝利をおさめた(日本海海戦)。

新しい歴史教科書81

世界を変えた日本の勝利
 日本海海戦に勝利したとき,日本はすでに,外国からの借金と国債でまかなった,国家予算の8年分に当たる軍事費を使い切っていた。長期戦になれば,ロシアとの国力の差があらわれて形勢が逆転するのは明白だった。アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは,日本にもっとも有利な時期を選んで,日露間の講和を仲介した。アメリカのポーツマスで開かれた講和会議の結果,1905(明治38)年9月,ポーツマス条約が結ばれた。この条約で日本は,韓国(朝鮮)(1897年,朝鮮は国号を大韓帝国と改めた)の支配権をロシアに認めさせ,中国の遼東半島南部(のちに,日本は関東州とよぶ)の租借権を取得し,南満州にロシアが建設した鉄道の権益をゆずり受け,南樺太の領有を確認させた。一方,賠償金を得ることはできなかったので,戦争を続けようにも国力が限界に達しているという事情を知らない国民の一部は,これを不満として暴動をおこした(日比谷焼き打ち事件)。
 日露戦争は,日本の生き残りをかけた壮大な国民戦争だった。日本はこれに勝利して,自国の安全保障を確立した。近代国家として生まれてまもない有色人種の国日本が,当時,世界最大の陸軍大国だった白人帝国ロシアに勝ったことは,世界中の抑圧された民族に,独立への限りない希望を与えた。しかし,他方で,黄色人種が将来,白色人種をおびやかすことを警戒する黄禍<こうか> 論が欧米に広がるきっかけにもなった。

新しい歴史教科書82

日露戦争と独立への目ざめ
 「日本がロシアに勝った結果,アジア民族が独立に対する大いなる希望をいだくにいたったのです」(中国革命の父・孫文)
 「もし日本が,もっとも強大なヨーロッパの一国に対してよく勝利を博したとするならば,どうしてそれをインドがなしえないといえるだろう?」(インドの独立運動家でのちの首相・ネルー)
 「立憲制によってこそ日本は偉大になった。その結果かくも強き敵に打ち勝つことができたのだ」(イランの詩人・シーラーズイー)
 「日本人こそは,ヨーロッパに身のほどをわきまえさせてやった唯一の東洋人である」(エジプト民族運動の指導者・ムスタファー=カミール) 

新しい歴史教科書83

陸奥宗光と小村寿太郎
[国事犯から外務大臣へ] 日本が,1858(安政5)年に欧米諸国と結んだ通商条約は,外国の治外法権(領事裁判権)を認め,関税自主権をもたない不平等条約であった。日本はねばり強く外国と交渉を続け,ようやく1894(明治27)年になって,陸奥宗光(18441897)外務大臣のもとで,イギリスをはじめ諸外国との間で,領事裁判権の撤廃と関税率の改正に成功した。
 陸奥は,和歌山藩士の子に生まれ,成長して坂本龍馬の海援隊に入り,維新後は優秀な官僚として活躍した。しかし,薩摩・長州出身者が有力な地位を占める新政府への反発から,西南戦争がおきると,これに加担する陰謀に加わり,国事犯(反乱罪など政治上の罪をおかした人)として逮捕されて,5年間の牢獄生活を送った。出獄後はヨーロッパに留学し,帰国して伊藤博文のすすめで外務省に入った。駐米公使として,日本にとって初めての対等条約であるメキシコとの条約の調印に成功し,のちに農商務大臣となった(陸奥は政府に入り,それを内側から変えようと考えていたのである)。
 その後,1892(明治25)年の第二回総選挙で政府は,はげしい選挙干渉を行ったので,陸奥はみずからの政治信条に基づき,農商務大臣を辞任した。しかし,陸奥は,第二次伊藤博文内閣に外務大臣として迎えられ,条約改正に取り組んだ。そのころ,議会では,条約を改正すると,それまで居留地にいた外国人に日本全国での自由な活動を認めねばならず,その結果,日本の経済が彼らによって支配されるのではないかとおそれ,改正に反対する意見も強力だった。陸奥は,外国人に完全に国を開くことが維新以来の大方針であると説得し,条約の改正に成功した。条約改正後,陸奥は日清戦争の勝利に貢献し,その外交体験を『 蹇蹇<けんけん>録』に記した。そこには日本外交の貴重な知恵と経験が示されている(蹇蹇とは困難に負けず,忠義を尽くす意味)。

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新しい歴史教科書84

[貧乏な外交官] 日本が治外法権の撤廃だけでなく,関税自主権も完全に回復したのは,1911(明治44)年2月,小村寿太郎(18551911)外務大臣のもとにおいてであった。これにより,日本は国際法の上で,欧米諸国と完全に対等な国家となった。
 小村寿太郎は,日露戦争における,ロシアとの講和会議で活躍した外務大臣でもあった。小村は,宮崎県の飫肥<おび>藩士の家に生まれた。維新後,文部省から派遣されてアメリカのハーバード大学で学び,帰国して,司法省をへて外務省に入った。
ところが,寿太郎は父が残した巨額の借金のため,家具もない家に住み,夏冬一着の古ぼけたフロックコートだけでとおし,昼食もお茶だけという生活を送った。薩摩・長州の藩閥のバックもない小村は出世も遅れた。しかし,小村はくじけなかった。小村は陸奥と異なり政党政治には共感しなかったが,私心をもたずに国家に献身する点では誰にも負けないと自負していたのである。
 そんな小村が頭角をあらわしたのは,清国駐在公使として,義和団事件(P.220)の処理で,列強と並ぶ日本の地位の確保に成功したからである。そのときの経験から,ロシアの満州進出の意図を読みとった小村は,その後外務大臣になると,一貫してロシアへの強硬論の立場をとった。ポーツマス講和会議では,講和の内容が民衆の期待に反することを知っていたが,講和をまとめて帰国し,国内のはげしい非難にだまって耐えたのであった。

新しい歴史教科書85

津田梅子と与謝野晶子
[帰国子女梅子] 岩倉具視<ともみ>に率いられて横浜を出航した岩倉使節団には,60名ほどの留学生がいたが,その中に,当時まだ8歳の津田梅子(18641929)が加わっていた。この小さな女の子の肩には,新しい日本の女性の模範になるという大きな任務がかかっていた。
 津田梅子は,幕府の農学者・津田仙の次女に生まれた。幼いころより聡明で習字なども得意であった。アメリカに渡った梅子は,ワシントン郊外で,チャールズ・ランマン夫妻のもと,西洋的教養と文化の雰囲気の中で成長していった。11年後,日本に帰国した梅子は,今日の言葉でいう完全な帰国子女で,日本語も話せなかったが,使節団で一緒だった伊藤博文のつてで華族女学校で英語を教えることになる。しかし,自分の受けてきた教育と日本の女性の現実との開きの大きさに,改めて思い悩んだ。
 梅子は,1889(明治22)年,再び渡米し,アメリカの名門女子大に学んだ。そこで,梅子は日本で自分の理想とする女子教育にたずさわることを決意する。3年後帰国した梅子は準備に努め,1900(明治33)年,少人数の生徒への個人指導をとおして専門教育を行う私塾を開設した。
 女子への専門教育は,当時にあって画期的な試みであった。新しい試みには慎重な配慮が必要なことを忘れなかった梅子は,自分の女子教育が世間からつまらない誤解や反対をされないように,生徒たちの日常の行儀作法や言葉づかいなどにも注意し,一見保守的な雰囲気の中で,おたがいの個性を尊重しあう気風を育むことに努めた。
それはかつて幼い梅子が託された任務の実現でもあった。梅子の私塾はのちに津田塾大学として発展した。

新しい歴史教科書86

[情熱の歌人晶子] 与謝野晶子(18781942)は,歌集『みだれ髪』(1901年)で一躍有名になった。そこには,例えば,「その子二十櫛<はたちくし>にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」という歌のように,みずみずしい新鮮な情感が歌い込まれていた。晶子の歌は,明治という時代の,自由な新しい感情表現の試みであり,それまでの形式を脱した新しい短歌の可能性を開いた。そうした歌人としての活動と,与謝野鉄幹<てっかん>とのはげしい恋愛の末の結婚が話題となり,晶子は奔放な女性だというイメージが広がった。
 さて,日露戦争のさい,晶子は旅順攻略戦に加わっていた弟のことを思い,「あゝをとうとよ君を泣く 君死にたまふことなかれ」という節で始まる有名な詩を発表した。この詩は当時,愛国心に欠けるとの非難を浴びた。しかし,晶子にとってそうした非難は心外であった。
 というのも,晶子は戦争そのものに反対したというより,弟が製菓業をいとなむ自分の実家の跡取りであることから,その身を案じていたのだった。それだけ晶子は家の存続を重く心に留めていた女性であった。実際,晶子は,大正期の平塚らいてう<ちょう>らの婦人運動を当初支持したが,晶子の人生観や思想そのものは,家や家族を重んじる着実なものであった。晶子自身は歌人として活動を続けながら,大家族の主婦として,妻や母としてのつとめを果たし続けた。夫であり,12人の子の父であり,文学上の同志であった鉄幹の死を,晶子は万感の思いを込めて次のように歌った。
平<たい>らかに今三<いまみ>とせほど
十<とお>とせほど二十年<はたとせ>ほども
いまさましかば 

新しい歴史教科書87

世界列強の仲間入りをした日本
勝利の代償 
 日露戦争(19041905年)の勝利の結果,日本は世界列強の仲間入りを果たした。
しかし,立場の上昇は,必ずしも有利や安全を意味しない。アメリカは,日本の満州独占を警戒し,日本が手に入れた南満州鉄道の共同経営を求めてきた。また,カリフォルニアでは,日系移民排斥の動きがおこった。日清戦争のころから欧米で唱えられ始めた黄禍論に,再び火がついた。
 日本の勝利に勇気づけられたアジアの国には,ナショナリズム(自国を愛し,国益を主張する思想や立場)がおこった。それは,トルコやインドのような遠い国では,単純に日本への尊敬や共感と結びついたが,中国や韓国のような近い国では,自国に勢力を拡大してくる日本への抵抗という形であらわれた。加えて,日本には,大国として他のあらゆる大国と力の均衡の政策を保ち続ける新しい必要が生じた。勝利がもたらした新局面に,当時の日本人が十分に対応することは困難だった。

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新しい歴史教科書88

韓国併合
 日露戦争後,日本は韓国に韓国統監府を置いて支配を強めていった。日本政府は,韓国の併合が,日本の安全と満州の権益を防衛するために必要であると考えた。イギリス,アメリカ,ロシアの3国は,朝鮮半島に影響力を拡大することをたがいに警戒しあっていたので,これに異議を唱えなかった。こうして1910(明治43)年,日本は韓国内の反対を,武力を背景におさえて併合を断行した(韓国併合)。
 韓国の国内には,民族の独立を失うことへのはげしい抵抗がおこり,その後も,独立回復の運動が根強く行われた。
 韓国併合のあと,日本は植民地にした朝鮮で鉄道・灌漑の施設を整えるなどの開発を行い,土地調査を開始した。しかし,この土地調査事業によって,それまでの耕作地から追われた農民も少なくなく,また,日本語教育など同化政策が進められたので,朝鮮の人々は日本への反感を強めた。

新しい歴史教科書89

夏目漱石と森鴎外
[二人の留学生活] 西洋化の風潮の中で,近代の日本人の苦悩をえがいた作家に,夏目漱石(18671916)と森鴎外(18621922)がいる。漱石は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』などで人気があるが,一方で『それから』『道草』『明暗』などで日本の近代人の苦しみをえがいた。鴎外は『妄想』『かのやうに』などで知識人の内面をえがき,晩年は『阿部一族』『渋江抽斎<ちゅうさい>』のような歴史小説を書いた。
 この二人の文豪は異なった環境に生まれている。漱石はみずから江戸っ子と称する庶民の出であり,鴎外は石見(島根県)津和野藩の藩医の息子で,武士の伝統の中に育った。しかしこの二人はともに,西洋文化にどのように対するかという問題を,もっとも深く考えた日本の知識人といってよい。
 漱石は英文学者として,1900(明治33)年から2年ほどロンドンで過ごした。それはのちに「生涯もっとも陰欝な2年」とみずから述べたほどつらい留学生活だった。
一方,鴎外は陸軍軍医として,1884(明治17)年から1888年までドイツに留学し衛生学を学んだが,留学生活は対照的に快適なものであったといわれる。それぞれの体験が,彼らの西洋観にも影響していた。漱石は個人どうしがおたがいを信用する日本人と,おたがいを疑う西洋人の違いに悩んでいた。鴎外の方は堂々と西洋学者を批判し,日本には科学研究をする風土がないという意見に答えて,日本人でもそれが可能だと反論していた。

新しい歴史教科書90

[日本人的思考と西洋人的思考] 漱石の最初の小説『吾輩は猫である』は,猫の目から英語教師の家族を観察するという形をとっているが,単なるユーモア小説ではない。その中で,個性を殺して全体に合わせようとする日本人と,どこまでも個人を単位とする西洋人との考え方の対比を取りあげ,登場人物に議論させている。
 作者は西洋的な個人主義を支持しながら,無批判な西洋崇拝者に対しては皮肉の矢を放ち,「西洋人より昔の日本人が余程えらいと思ふ」という人物も登場させている。また漱石は,『それから』でも,西洋的な生存競争にふさわしくない日本人の姿をえがいている。
 一方,鴎外は『妄想』で,ドイツに留学した経験のある老人の回想という形で,日本人としての主人公の過去の生活を小説にしている。ベルリンで病気で死んだ日本人の留学生のことを思い出しながら,自分と西洋人の死に対する態度を比較する。「西洋人は死を恐れないのは野蛮人の性質だといっている」が,それに納得できない自分を見いだすのである。あるいは『かのやうに』では,西洋人のようにすべてのものに疑いの目を向ける自分と,家に伝わる,天皇を中心とする日本人の伝統との矛盾に悩んだ姿を書いている。
 鴎外は,明治天皇の崩御のときに殉死した乃木希典<のぎまれすけ>将軍夫妻に感動し,『興津弥五右衛門 <おきつやごえもん>の遺書』を書き上げた。そして晩年の歴史小説では,日本人の変わらぬ心の伝統に目を向けた。他方,漱石は『こゝろ』で,乃木大将の殉死を知って,急速に死に傾いていく人物の姿をえがいた。最晩年の漱石は漢詩の世界に入り,時代の新奇なものを求める人々に対する苛立ちを述べている。
 「近代」が西洋化であるとの考え方は,今日の日本人になお続いている。しかしそれでいて,なぜ日本が,これまで必ずしも西洋一辺倒にならなかったか,その理由も考えなければならない。西洋と日本の間で苦悩するこの二人の文豪の課題は,今日の日本人にとってなお重要なのである。

新しい歴史教科書91

共産主義とファシズムの台頭
共産主義
 ヨーロッパから発達した二つの政治観念が,19201930年代に世界に広まり,それぞれ革命運動を生み出し,政治体制をつくりあげ,20世紀の歴史を動かす二大要因となった。
 一つは,マルクスの思想に始まり,ロシア革命を引きおこした共産主義である。これは,世界に豊かな階級と貧しい階級との対立が発生する矛盾を解決するために,生産手段を自らもたない貧しい労働者階級が団結して権力をにぎり,経済を計画的に運営することを目的としていた。そのために私有財産を否定し,一党独裁の道が選ばれた。
 レーニンの死後,ソ連ではスターリンの指導のもとに,1928年から5か年計画が実行され,重工業の建設や農業の集団化が進められた。けれどもこの国は,唯一の独裁者が党を足場にして権力をにぎる独裁国家でもあった。スターリンは秘密警察や強制収容所を用いて,人々を大量に処刑した。ソ連は無階級社会をつくるという理想から出発したはずだが,現実には苛酷な強制労働と膨大な数の犠牲者をともなっていた。

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新しい歴史教科書92

ファシズム
 もう一つの政治観念は,ドイツとイタリアを中心とし,フランスやスペインにも波及したファシズムである。ドイツではこれをナチズム(国家社会主義)という別の言葉でよぶ。
 第一次世界大戦後,ドイツは巨額の賠償金を背おわされ,はげしいインフレ(急激な物価高)におそわれ,国民の不安が高まった。このころ,ヒトラーがナチス党(国家社会主義ドイツ労働者党)を率いて登場し,民族の栄光の回復をスローガンにかかげると,人々はしだいに彼に引きつけられた。ナチス党は,世界恐慌による国内の混乱に乗じて,国会に230議席を占める第一党に躍り出た。1933年,ヒトラーは政権をにぎって,独裁体制をつくりあげた。
 ナチスにとっていちばん大切なことは人種であった。ゲルマン民族の純血を守るという理念のためには手段を選ばなかった。共産主義が世界に広がることをおそれる感情も強かった。ヒトラーの独裁国家はスターリンと同様に,秘密警察や強制収容所を用いて,大量の殺戮を行った。ナチス党はソ連の共産党と同様に,国家を意のままに左右する強大な権力機構であった。

新しい歴史教科書93

日中戦争
盧溝橋<ろこうきょう> における日中衝突
 関東軍など現地の日本軍は,満州国を維持し,ブロック経済圏を建設するために,隣接する華北地域に蒋介石政権の支配のおよばない親日政権をつくるなどして,中国側との緊張が高まっていた。また,日本は北京周辺に4000人の駐屯軍を配置していた。これは義和団事件のあと,他の列強諸国と同様に中国と結んだ条約に基づくものであった。1937(昭和12)年7月7日夜,北京郊外の盧溝橋で,演習していた日本軍に向けて何者かが発砲する事件がおこった。翌朝には,中国の国民党軍との間で戦闘状態になった(盧溝橋事件)。現地解決がはかられたが,やがて日本側も大規模な派兵を命じ,国民党政府もただちに動員令を発した。以後8年間にわたって日中戦争が継続した。
 同年8月,外国の権益が集中する上海で,二人の日本人将兵が射殺される事件がおこり,これをきっかけに日中間の全面戦争が始まった。日本軍は国民党政府の首都南京を落とせば蒋介石は降伏すると考え,12月,南京を占領した(このとき,日本軍によって民衆にも多数の死傷者が出た。南京事件)。しかし,蒋介石は重慶に首都を移し,抗戦を続けた。

新しい歴史教科書94

悪化する日米関係
 1938(昭和13)年,近衛文麿<このえふみまろ>首相は東亜新秩序の建設を声明し,日本・満州・中国を統合した経済圏をつくることを示唆した。これはのちに東南アジアを含めた大東亜共栄圏というスローガンに発展した。
 アメリカは,門戸開放,機会均等を唱えて,日本が独自の経済圏をつくることを認めなかった。日中戦争で一応,中立を守っていたアメリカは,近衛声明に強く反発し,中国の蒋介石を公然と支援するようになった。日米戦争にいたる対立は,直接にはここから始まった。
 1939年,アメリカはさらに日米通商航海条約を延長しないと通告した。多くの物資をアメリカとの貿易に依存していた日本は,しだいに経済的に苦しくなっていった。
日本の陸軍には,北方のロシアの脅威に対処する北進論の考え方が伝統的に強かったが,このころから,東南アジアに進出して資源を獲得しようとする,南進論の考えが強まっていった。しかし,日本が東南アジアに進出すれば,そこに植民地をもつイギリス,アメリカ,オランダ,フランスと衝突するのは必至だった。

新しい歴史教科書95

第二次世界大戦の始まり
ナチス・ドイツとヨーロッパの戦争
 ヨーロッパでは,第一次世界大戦の敗戦国ドイツが,ベルサイユ条約で領土を削減され,過酷な賠償を要求され苦しんでいた。また,世界恐慌の余波でアメリカ資本がドイツから引き上げ,経済が破綻した。1933年に政権の座についたナチス党のヒトラーは,ユダヤ人を迫害し,武力による領土回復を進めた。
 ドイツはソ連との秘密協約を結んだ上で,1939年9月,ポーランドに電撃的に侵攻し,ポーランド全土をソ連と分割した。これに対し,ポーランドと同盟を結んでいたイギリスとフランスは,ドイツに宣戦布告し,第二次世界大戦が始まった。1940年,ドイツ軍は電撃作戦で西ヨーロッパを攻略,パリに入城し,フランスを降伏させた。

新しい歴史教科書96

日独伊三国軍事同盟の盲点
 日本はヨーロッパにおけるドイツの勝利に目をうばわれた。日本は,フランスを打ち破ったドイツがイギリスにも勝つことを期待して,1940年,イタリアを加えた日独伊三国軍事同盟を締結した。これによって日本は孤立感を和らげることができたが,遠いヨーロッパの2国との軍事同盟には実質的な効用はなかった。しかも,イギリスを支援するアメリカとの対立を決定的に深める要因となった。
 1941(昭和16)年4月,日本はソ連との間にも日ソ中立条約を結んだ。二つの条約をまとめた外務大臣の松岡洋右は,これらを四か国条約に発展させ,その圧力でアメリカとの交渉を有利に進めようと考えていた。しかし,1941年6月,ドイツがソ連に侵攻し,独ソ戦が始まって,松岡の構想は破綻した。
 この事態を予想しなかった日本は,北進してソ連を撃ちドイツを助けるか,それともソ連と戦わずに南進するかの選択を迫られた。7月の御前<ごぜん>会議(重要な案件[あんけん]を決める天皇臨席[りんせき]の陸海軍と内閣首脳[しゅのう]の会議)は南進を決定した。

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新しい歴史教科書97

経済封鎖で追いつめられる日本
 日本は石油の輸入先を求めて,インドネシアを領有するオランダと交渉したが断られた。こうして,アメリカ(AmericaのA)・イギリス(BritainのB)・中国(ChinaのC)・オランダ(DutchのD)の諸国が共同して日本を経済的に追いつめるABCD包囲網が形成された。
 1941年春,悪化した日米関係を打開するための日米交渉が,ワシントンで始まった。日本はアメリカとの戦争をさけるため,この交渉に大きな期待を寄せたが,アメリカは日本側の秘密電報を傍受・解読し,日本の手の内をつかんだ上で,日本との交渉を自国に有利になるように誘導した。
 7月,日本の陸海軍は南部仏印(ベトナム)進駐を断行し,サイゴンに入城した。
サイゴンは,アメリカ領のフィリピン,英領シンガポール,蘭領インドネシアのすべてを攻撃できる,軍事上の重要地点だった。危機感をつのらせたアメリカは,7月,在米日本資産の凍結と対日石油輸出の全面禁止で対抗した。米英両国は大西洋上で会談を開き,両国の戦争目的をうたった大西洋憲章を発表して結束を固めるとともに,対日戦を2,3か月引き伸ばすことを決めた。
 日本も対米戦を念頭に置きながら,アメリカとの外交交渉は続けたが,11月,アメリカのハル国務長官は,日本側にハル・ノートとよばれる強硬な提案を突きつけた。
ハル・ノートは,日本が中国から無条件で即時撤退することを要求していた。この要求に応じることが対米屈服を意味すると考えた日本政府は,最終的に対米開戦を決意した。

新しい歴史教科書98

大東亜戦争(太平洋戦争)
初期の勝利
 1941(昭和16)年12月8日午前7時,人々は日本軍が米英軍と戦闘状態に入ったことを臨時ニュースで知った。
 日本の海軍機動部隊が,ハワイの真珠湾に停泊する米太平洋艦隊を空襲した。艦は次々に沈没し,飛行機も片端から炎上して大戦果をあげた。このことが報道されると,日本国民の気分は一気に高まり,長い日中戦争の陰うつな気分が一変した。第一次世界大戦以降,力をつけてきた日本とアメリカがついに対決することになったのである。
 同じ日に,日本の陸軍部隊はマレー半島に上陸し,イギリス軍との戦いを開始した。自転車に乗った銀輪部隊を先頭に,日本軍は,ジャングルとゴム林の間をぬって英軍を撃退しながら,シンガポールを目指し快進撃を行った。55日間でマレー半島約1000キロを縦断し,翌年2月には,わずか70日でシンガポールを陥落させ,ついに日本はイギリスの東南アジア支配を崩した。フィリピン・ジャワ(現在のインドネシア)・ビルマ(現在のミャンマー)などでも,日本は米・蘭・英軍を破り,結局100日ほどで,大勝利のうちに緒戦を制した。
 これは,数百年にわたる白人の植民地支配にあえいでいた,現地の人々の協力があってこその勝利だった。この日本の緒戦の勝利は,東南アジアやインドの多くの人々に独立への夢と勇気を育んだ。
 日本政府はこの戦争を大東亜戦争と命名した(戦後,アメリカ側がこの名称を禁止したので太平洋戦争という用語が一般的になった)。日本の戦争目的は,自存自衛とアジアを欧米の支配から解放し,そして,「大東亜共栄圏」を建設することであると宣言した。日本に続いて,ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告した。こうして,日・独・伊に対抗して,米・英・蘭・ソ・中が連合して戦う,第二次世界大戦が本格化していった。
 緒戦の勝利に日本国民は酔っていた。だがここから先をどうするか,日本軍ははっきりした見通しをもっていなかった。

新しい歴史教科書99

暗転する戦局
 1942(昭和17)年6月,ミッドウェー海戦で,日本の連合艦隊はアメリカ海軍に敗北した。ここから米軍の反攻が始まった。8月,ガダルカナル島(ソロモン諸島)に米軍が上陸。死闘の末,翌年2月に日本軍は撤退した。アリューシャン列島のアッツ島では,わずか2000名の日本軍守備隊が2万の米軍を相手に一歩も引かず,弾丸や米の補給が途絶えても抵抗を続け,玉砕していった。こうして,南太平洋からニューギニアをへて中部太平洋のマリアナ諸島の島々で,日本軍は降伏することなく,次々と玉砕していったのである。
 1944(昭和19)年秋には,米軍がフィリピンに進攻した。マリアナ諸島の一つのサイパン島から,爆撃機B29が日本本土への空襲を開始した。同年10月,ついに日本軍は全世界を驚愕させる作戦を敢行した。レイテ沖海戦で,「神風特別攻撃隊」(特攻)がアメリカ海軍艦船に組織的な体当たり攻撃を行ったのである。追いつめられた日本軍は,飛行機や潜航艇で敵艦に死を覚悟した特攻をくり返していった。飛行機だけでも,その数は2500機を超えた。
 1945(昭和20)年4月には,沖縄本島でアメリカ軍とのはげしい戦闘が始まった。
日本軍は戦艦大和をくり出し,最後の海上特攻隊を出撃させたが,猛攻を受け,大和は沖縄に到達できず撃沈された。沖縄では,鉄血勤皇隊<てっけつきんのうたい>の少年やひめゆり部隊の少女たちまでが勇敢に戦って,一般住民約9万4000人が生命を失い,10万人に近い兵士が戦死した。

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新しい歴史教科書100

日本はなぜ,アメリカと戦争したのだろうか。これまでの学習をふり返って,まとめてみよう。また,戦争中の人々の気持ちを,上の特攻隊員の遺書や,当時の回想録などを読んで考えてみよう。
特攻隊員の遺書
 
故郷で生まれた自分の妹に残した手紙
19歳で沖縄で戦死した宮崎勝)
「ヤスコチャン,トッコウタイノニイサンハ シラナイダロウ。ニイサンモ ヤスコチャンハ シラナイヨ。マイニチ クウシュウデ コワイダロウ。ニイサンガ カタキヲ ウッテヤルカラ デカイボカンニ タイアタリスルヨ。ソノトキハ フミコチャント ゴウチンゴウチンヲウタッテ ニイサンヲ ヨロコバセテヨ」

 遺詠

23歳で沖縄で戦死した緒方襄)
出撃に際して
懐しの町 懐しの人
今吾れすべてを捨てて
国家の安危に
赴かんとす
悠久の大義に生きんとし
今吾れここに突撃を開始す魂魄<こんぱく>国に帰り
身は桜花<おうか>のごとく散らんも
悠久に護国の鬼と化さん
いざさらば
われは栄<はえ>ある山桜
母の御もとに帰り咲かなむ

新しい歴史教科書101

大東亜会議とアジア諸国
大東亜会議
 戦争の当初,日本軍が連合国軍を打ち破ったことは,長い間,欧米の植民地支配のもとにいたアジアの人々を勇気づけた。日本軍の捕虜となったイギリス軍インド人兵士の中からインド国民軍が結成され,日本軍と協力してインドに向けて進撃した。インドネシアやビルマでも,日本の援助で軍隊組織がつくられた。
 日本の指導者の中には,戦争遂行のためには占領した地域を日本の軍政下に置いておくほうがよいという考えも強かった。しかしこれらの地域の人々が日本に寄せる期待にこたえるため,日本は1943(昭和18)年,ビルマ,フィリピンを独立させ,また,自由インド仮政府を承認した。
 さらに,日本はこれらのアジア各地域に戦争への協力を求め,あわせてその結束を示すため,194311月,この地域の代表を東京に集めて大東亜会議を開催した。会議では,各国の自主独立,各国の提携による経済発展,人種差別撤廃をうたう大東亜共同宣言が発せられ,日本の戦争理念が明らかにされた。これは,連合国の大西洋憲章に対抗することを目指していた。

新しい歴史教科書102

アジア諸国と日本
 しかし,大東亜共栄圏のもとでは,日本語教育や神社参拝が強要されたので,現地の人の反発が強まった。また,戦局が悪化し,日本軍によって現地の人々が苛酷な労働に従事させられる場合もしばしばおきた。そして,フィリピンやマレーなどのように,連合軍と結んだ抗日ゲリラ活動がさかんになる地域も出てきた。日本はこれにきびしく対処し,また日本軍によって死傷する人々の数も多数にのぼった。
 このため,敗戦後になって,日本は,これらの国々に賠償を行った。そして,大東亜共栄圏の考え方も,日本の戦争やアジアの占領を正当化するためにかかげられたと批判された。
 日本が敗戦によって撤退したのち,インドネシアには,オランダが植民地支配を再開しようとして復帰してきた。これに対し,戦時中,日本によって訓練されたインドネシアの軍隊が中心となって独立戦争を開始し,1949年独立を達成した。
 インドでは,日本軍と協力したインド国民軍の兵士をイギリスが裁判にかけたことに対して,はげしい民衆の抗議運動などもおきた。こうして,長く続いていた独立への気運がさらに高まり,インドは1947年,イギリスから独立した。そのほかにも,ビルマは戦後,植民地支配を再開したイギリスから改めて1948年に独立を勝ち取った。
 これらの地域では,戦前より独立に向けた動きがあったが,その中で日本軍の南方進出は,アジア諸国が独立を早める一つのきっかけともなった。

新しい歴史教科書103

戦時下の生活
国民の動員
 第一次世界大戦以降,戦争は前線の軍隊だけが行うものではなく,国民の生活や教育,文化などのすべてをかけて行われる総力戦の時代となっていた。日本も日中戦争勃発とともに総力戦に備え,国の人員,物資,経済,産業,交通などのすべてを政府が統制し,運用する総動員体制をつくることが必要となった。
 戦争による物資の不足で,国民生活においても純綿・純毛製品や皮革,ゴム製品などが姿を消していった。政府は国民精神総動員運動で,消費節約や貯蓄増強などをよびかけた。
 大東亜戦争(太平洋戦争)の戦局が悪化すると,国内の体制はさらに強化された。
労働力の不足を埋めるため徴用(政府の命令で,指定された労働を義務づけられること)が行われ,また,中学3年以上の生徒・学生は勤労動員,未婚女性は女子挺身隊として工場で働くことになった。また,大学生や高等専門学校生は徴兵猶予が取り消され,心残りをかかえつつも,祖国を思い出征していった(学徒出陣)。このような徴用や徴兵などは,植民地でも行われ,朝鮮や台湾の多くの人々にさまざまな犠牲や苦しみをしいることになった。このほかにも,多数の朝鮮人や占領下の中国人が,日本の鉱山などに連れてこられて,きびしい条件のもとで働かされた。また朝鮮や台湾では,日本人に同化させる皇民化政策が強められ,日本式の姓名を名乗らせることなどが進められた。
 物的にもあらゆるものが不足し,寺の鐘など,金属という金属は戦争のため供出され,生活物資は窮乏を極めた。だが,このような困難の中,多くの国民はよく働き,よく戦った。それは戦争の勝利を願っての行動であった。

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新しい歴史教科書104

戦争の惨禍
 第二次世界大戦全体の世界中の戦死者は2200万人,負傷者は3400万人と推定される。第一次世界大戦をはるかに超えた,大惨禍となった。
 戦場となったアジア諸地域の人々にも,大きな損害と苦しみを与えた。特に,中国の兵士や民衆には,日本軍の進攻により,おびただしい犠牲が出た。また,フィリピンやシンガポールなどでも,日本軍によって抗日ゲリラや一般市民に多数の死者が出た。
 一方,1944(昭和19)年秋からアメリカ軍の日本への空襲が開始された。1945年3月には,米軍はB29爆撃機の編隊で東京の江東地区を空襲し,約10万人の死者が出た(東京大空襲)。米軍は,さらに人口の多い順に全国の都市を焼き払った。子どもたちは危険をさけ,親元を離れて地方の寺などに疎開した。

新しい歴史教科書105

東京大空襲
 東京大空襲では,東西5キロ,南北6キロに焼夷<しょうい>弾を落とし,火の壁で人々の退路を断って絨毯爆撃した。この大空襲の体験談の一部を紹介する。
 ……くるくると竜巻が起きていました。トランクも捨てました。江東橋が見えるような気がしました。熱い,身体に燃えついて来る。火だるまになって,ころがっていく人,泣き叫んで火に包まれて,川に飛び込んでいく人,逃げても逃げても,どうしようもなくなりました。
「お母さん,死んでしまうわ。火がついてしまう。川に飛び込みましょう。いいわね。手をつないでよ。放さないでね」と私。母は無言。ためらいました。ここで川に入らなかったら,焼け死ぬ。死ねない,生きるんだ。さあ川に入ろう。母と筏の上に飛び降りた。そのあとから火に追われた人たちが,私の頭の上に,身体の上に,つぎからつぎへと,飛び込んできたのです。
 それが私と母との永久の別れとなり二度と母の姿を見ることができなくなりました。瞬時の出来事だったのです。      (『東京大空襲・戦災誌』より)

新しい歴史教科書106

終戦外交と日本の敗戦
ヤルタからポツダムまで
 ヨーロッパでもアジアでも,戦争の大勢はほぼ決まりつつあった。1945年2月,ソ連のクリミヤ半島にある保養地ヤルタに,アメリカのルーズベルト大統領,イギリスのチャーチル首相,ソ連のスターリン首相が集まり,連合国側の戦後処理を話しあった(ヤルタ会談)。
 ルーズベルトは,ドイツとの戦争が終わってから3か月以内に,ソ連が対日参戦することをスターリンに求めた。このように対日戦争の犠牲の一部をソ連に負担させる代償として,ルーズベルトは,大西洋憲章の領土不拡大方針に違反して,ソ連に日本領の南樺太と千島列島を与え,満州における権益も認めると約束した。これら極東に関する内容は,秘密とされた。
 4月,アメリカのルーズベルト大統領が急死し,副大統領のトルーマンが大統領に昇格した。5月,ドイツが無条件降伏し,ベルリンは完全な廃墟となった。アメリカの国務次官で元駐日大使のジョセフ・グルーは,日本を壊滅から救うため,戦争終結の条件を示すことを考えた。7月,ベルリン郊外のポツダムに米英ソの3首脳が集まり,グルーの奔走で,日本に対する戦争終結の条件を示したポツダム宣言を,米英中3国の名で発表することを決めた。

新しい歴史教科書107

聖断下る
 日本政府では,戦争終結をめぐる最高指導者の会議が何度となく開かれていた。陸軍は本土決戦を主張してゆずらなかった。政府はソ連に仲介を求めたが,ソ連はあいまいな態度を取り続けた。7月26日,ポツダム宣言が発表された。鈴木貫太郎首相はこれを「黙殺」するとの声明を発表した。すると,8月6日,アメリカは世界最初の原子爆弾(原爆)を広島に投下した。8日,ソ連は中立条約を破って日本に宣戦布告して満州に侵攻し,9日,アメリカは長崎にも原爆を投下した。
 9日,昭和天皇の臨席のもと御前会議が開かれた。ポツダム宣言の受諾について賛否同数となり結論を出せず,10日の午前2時,鈴木首相が天皇の前に進み出て聖断(天皇がくだす判断)をあおいだ。これは,異例のことだった。天皇はポツダム宣言の受諾による日本の降伏を決断した。8月15日正午,ラジオの玉音<ぎょくおん>放送で,国民は日本の敗戦を知った。

新しい歴史教科書108

戦争と現代を考える
 20世紀は著しい科学技術と産業の発展をみせた世紀だったが,同時に,この世紀ほどおびただしい人命が失われた時代もなかった。
[戦争の悲劇] 戦争では,多くの兵士が命を落とす。しかし,戦争の犠牲者は,武装した兵だけではない。むしろもっとも大きな被害を受けるのは,一般の人々である。非武装の民間人や正式に降伏した捕虜の多くが,生命や財産をうばわれる。また,国際法上禁じられている毒ガスなどの残虐な兵器を使用する国も存在する。これが,戦争の悲惨な現実である。
 これまでの歴史で,戦争をして,非武装の人々に対する殺害や虐待をいっさいおかさなかった国はなく,日本も例外ではない。日本軍も,戦争中に進攻した地域で,捕虜となった敵国の兵士や民間人に対して,不当な殺害や虐待を行った。
 一方,多くの日本の兵士や民間人も犠牲になっている。例えば第二次世界大戦末期,ソ連は満州に侵入し,日本の一般市民の殺害や略奪,暴行をくり返した上,捕虜を含む約60万の日本人をシベリアに連行して,過酷な労働に従事させ,およそ1割を死亡させた。また,アメリカ軍による日本への無差別爆撃や,原爆投下でも,膨大な数の死傷者が出た。

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新しい歴史教科書109

[ナチスによるユダヤ人虐殺] ナチス・ドイツは第二次世界大戦中,ユダヤ人の大量虐殺を行った。これをホロコーストとよび,戦場における戦争の犠牲者と区別される。これは,ナチス・ドイツが国家の意思として計画的に実行した犯罪で,戦闘による殺害ではない。ナチス・ドイツは,ドイツ支配下の一般住民のうち,約600万人のユダヤ人,約200万人のポーランド人とそれを上回る旧ソ連人,約50万人のロマ(ジプシー)を収容所で殺害し,自国の障害者や病人を注射などで安楽死させた。
 一方,日本はドイツと同盟を結んでいたけれども,日本人の中には,ユダヤ人を助けた人々もいた。陸軍少将樋口季一郎<ひぐちきいちろう>は,シベリアを通って逃げてきたユダヤ人難民の満州国入国を認めて救援した。また,リトアニア駐在領事の杉原千畝<ちうね>は,約6000人のユダヤ難民にビザを発行,日本を経由してのがれる道を開いた。

新しい歴史教科書110

[くり返される国家による犯罪] ホロコーストは戦争中に実行されたとはいえ,敵国に対してではなく,一つの民族に対して国家が行った皆殺し作戦であった。戦後,このような行為は国際法で禁止されたが,20世紀を通じて,戦争とは無関係に行われる大量殺戮は,スターリン支配下のソ連など世界各地でくり返され,おびただしい数の人々が殺害された。
原爆で廃墟となった広島の産業奨励館(原爆ドーム) 1997年,世界遺産に指定された。世界遺産に人類の「負の遺産」として登録されたのは,ほかにナチスのユダヤ人収容所だったアウシュビッツ(ポーランド)の施設と,アフリカの奴隷の家(セネガル)などがある。
戦争や国家の犯罪の防止には,国際法で禁じるだけでなく,日本を含め世界の人々が,ふだんから国際協調の精神を養い,政治や経済,外交などのさまざまな工夫を積み重ねることが必要であることを考えてみよう。

新しい歴史教科書111

極東国際軍事裁判
平和に対する罪
 占領軍は日本の陸海軍を解体し,1946(昭和21)年5月から2年半にわたって極東国際軍事裁判所を開廷し,戦争中の指導的な軍人や政治家を「平和に対する罪」などを犯した戦争犯罪者(戦犯)であるとして裁判にかけた(略して東京裁判)。彼らすべてが有罪と宣告され,東条英機以下7人が絞首刑に処せられた。
 この裁判は,日本が九か国条約や不戦条約に違反したということを根拠にしていたが,これらの条約には,それに違反した国家の指導者を,このような形で裁判にかけることができるという定めはなかった。
 また,「平和に対する罪」は,自衛戦争ではない戦争を開始することを罪とするものであったが,こうした罪で国家の指導者を罰することも,それまでの国際法の歴史ではなかった。さらに,裁判官はすべて戦勝国から選ばれ,裁判の実際の審理でも,検察側のあげる証拠の多くがそのまま採用されるのに対し,弁護側の申請する証拠調べは却下されることが多かった。東京裁判で唯一国際法の専門家であったインドのラダ・ビノード・パール判事は,この裁判は国際法上の根拠を欠くとして,被告全員の無罪を主張した。しかし,GHQは,このパール判事の意見書の公表を禁じ,その他,いっさいの裁判への批判を許さなかった。
 今日,この裁判については,国際法上の正当性を疑う見解もあるが,逆に世界平和に向けた国際法の新しい発展を示したとして肯定する意見もある。
 この東京裁判では,日本軍が1937(昭和12)年,日中戦争で南京を占領したとき,多数の中国人民衆を殺害したと認定した(南京事件)。なお,この事件の実態については資料の上で疑問点も出され,さまざまな見解があり,今日でも論争が続いている。
戦争への罪悪感
 GHQは,新聞,雑誌,ラジオ,映画を通して,日本の戦争がいかに不当なものであったかを宣伝した。こうした宣伝は,東京裁判とならんで,日本人の自国の戦争に対する罪悪感をつちかい,戦後日本人の歴史の見方に影響を与えた。

新しい歴史教科書112

独立の回復と国際社会への復帰
国際連合と冷戦
 1945(昭和20)年10月,連合国は開戦前の大西洋憲章に基づき,国際連合(国連)を結成した。アメリカは日本・ドイツなどをおさえれば平和とみずからの覇権を維持できると考えたが,予想に反し,東ヨーロッパを占領したソ連が各国共産党の活動をとおし,ギリシャや西欧にまで共産主義の影響をおよぼし始めた。
 米英はソ連への警戒を強めた。アメリカは1948年,西ヨーロッパに大規模な経済援助を行ってその再建をはかり(マーシャル・プラン),翌年にはアメリカと西ヨーロッパ諸国は北大西洋条約機構(NATO)を結成した。
 一方,ソ連も東ヨーロッパ諸国と結束を強め,1949年には原子爆弾を保有して対決姿勢を強め,ワルシャワ条約機構を結成した。ドイツも東西に分断され,世界はアメリカが率いる自由陣営とソ連の率いる共産圏が勢力を争う,冷戦の時代に突入した。
 中国では内戦が再開し,毛沢東<もうたくとう>と周恩来<しゅうおんらい>が率いる共産党が勝利し,蒋介石<しょうかいせき>と国民党は台湾にのがれた。国民党は台湾人を弾圧し,3万人を殺害した。中国共産党は194910月,北京で中華人民共和国の成立を宣言した。その翌年からチベットに軍隊を進め,多数のチベット人が犠牲となった。
 ソ連と中国は日本を仮想敵国として,中ソ相互援助条約を結んだ。朝鮮半島では1948年,南部にアメリカが支持する大韓民国,北部にソ連が後押しする朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)がつくられ対立した。こうして冷戦は東アジアへと広がった。

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新しい歴史教科書113

占領政策の転換
 冷戦が始まると,アメリカは日本の占領政策を変更してきた。日本を一刻も早く強力な自由陣営の一員にすべきだと考え,経済の立て直しがはかられることになった。
 1950年6月,北朝鮮軍は突然,南北の武力統一を目指し,韓国へ侵攻した(朝鮮戦争)。これに対し,韓国軍と,マッカーサーが指揮するアメリカ軍主体の国連軍が反撃し,北朝鮮軍を中国国境付近まで追いつめた。ところが,今度は中国軍が北朝鮮の側に参戦して国連軍を押し返し,北緯38度線の付近で戦況は停滞した(1953年に休戦協定が結ばれる)。日本に駐留するアメリカ軍が朝鮮に出撃したので,それを補う目的で,日本はGHQの指令により警察予備隊を設置した。また,日本はアメリカ軍に多くの物資を供給し,経済は息を吹き返した(朝鮮特需)。

新しい歴史教科書114

独立の回復
 朝鮮戦争をきっかけに,アメリカは,基地の存続と防衛力強化を条件に,日本の独立を早めようと考えた。それはソ連の脅威から自国を防衛するという日本の国益にもかなっていたので,吉田茂首相は経済復興優先で小規模の防衛力強化を認めた。1951(昭和26)年9月,サンフランシスコで講和会議が開かれ,日本はアメリカを中心に自由陣営など48か国と,サンフランシスコ講和条約を結んだ。さらにアメリカと日米
安全保障条約(日米安保条約)を結び,米軍の駐留を認めた。
 1952(昭和27)年4月28日,サンフランシスコ講和条約が発効し,日本は独立を回復した。ただし,沖縄は,引き続きアメリカの施政下に置かれた。
 1954(昭和29)年,防衛力強化の約束により警察予備隊は自衛隊に再編された。その翌年,アメリカと結んで日本の安全を確保し,資本主義制度を維持しようとする保守勢力の自由民主党(自民党)が政権についた。非武装中立を主張し,社会主義を理想とする革新勢力の社会党や共産党などがこれに対抗した。冷戦が日本の政治にも大きく影を落とし,ドイツや朝鮮半島のように領土は分割されなかったが,日本の国内で二つの勢力の対立が長く続いた。

新しい歴史教科書115

国際社会への復帰
 独立と同時に,日本はアメリカの要請で台湾の中華民国と講和条約を結んだ。また,独立した東南アジア諸国に,戦争の被害に対する賠償を開始した。
 ソ連は,国後・択捉島など北方領土を日本領と認めないため,日ソの間には平和条約は締結できず,195610月に日ソ共同宣言で戦争状態を終結し,国交を回復した。
これでソ連の反対がなくなり,同年12月,日本は国連に加盟して国際社会に復帰した。
共産主義の台頭を予言していた外交官
 日米戦争が始まる前の1935年のことである。アメリカの外交官マクマリーは,もし日本を徹底的に敗北させれば,かわりにソ連が台頭するだけで,極東にも世界にも何の恩恵もなく,アメリカは何の成果も得られないと進言し,日米戦争に反対したが,アメリカ首脳はこの報告を無視していた。そして10年後,予言は的中したのである。 

新しい歴史教科書116

昭和天皇-国民とともに歩まれた生涯
[崩御の日] 昭和天皇(19011989,第124代)が崩御された1989(昭和64)年1月7日朝,知らせを聞いて,多数の国民が皇居前に集まった。広島で被爆して東京に住む68歳のある老婦人は,「ずうっとね,昭和天皇と一緒に苦労してきた,という気持ちがあるんですよ」と語った。この婦人をはじめ,皇居前では,さらに全国各地では,若者,老人,主婦,サラリーマンなどさまざまな人々が,昭和天皇の時代のもつ意味に静かに思いをめぐらせた。
[お人がら] 昭和天皇は,1901(明治34)年4月29日,ときの皇太子(のちの大正天皇)の第一子として誕生し,御名<ぎょめい>は迪宮裕仁<みちのみやひろひと>。幼少のころから,きわめて真面目で誠実な人がらであった。即位ののち,1931(昭和6)年11月,九州の鹿児島から軍艦に乗って帰京されるとき,天皇が夜になって暗くなった海に向かって一人挙手の礼をされているのを,お付きの者が見つけ不思議に思った。そこで海の方を見ると,遠く暗い薩摩半島の海岸に,天皇の軍艦をお見送りするために住民たちが焚いたと思われるかがり火の列が見えた。天皇はそれに向けて答礼をされていたのである。お付きの者は感銘し,さっそく,軍艦からサーチライトが点灯され海岸を照らし出した。

新しい歴史教科書117

[昭和天皇とその時代] 昭和天皇が即位された時期は,日本が大きな危機を迎えようとしていた。天皇は各国との友好と親善を願っていたが,時代はそれと異なる方向に進んでいった。しかし,天皇は立憲君主として,政府や軍の指導者が決定したことに介入すべきではないとの考えから,意に反して,それらを認められる場合もあった。
 ただ,天皇がご自身の考えを強く表明し,事態をおさめたことが2度あった。一つは,1936(昭和11)年の二・二六事件のときであった。事件で政府や軍は混乱状態におちいった。そうした中,天皇は反乱を断固として鎮圧すべきであると主張し,事件は急速に解決に向かった。もう一つは,1945(昭和20)年8月,終戦のときであった。ポツダム宣言を受諾するか否かで,政府や軍の首脳の間で意見が分かれ,聖断
(天皇がくだす判断)を求められた天皇は,「これ以上戦争を続けることはできないと思う。たとえ自分の身がどうなっても,ポツダム宣言を受諾すべきである」と述べ,戦争は終結した(P.287)。このときの天皇のお気持ちをよまれた御製(天皇がよまれた歌)がある。

爆撃にたふ<お>れゆく民の上をおもひ<い>いくさとめけり身はいかならむ<ん>とも

 君主としての責任を,ひしと身に感じていたことがうかがわれる。
 このような昭和天皇の人間性に感動したマッカーサーは,天皇との初めての会見について次のように述べている。
 「私は天皇が,戦争犯罪者として起訴されないよう,自分の立場を訴えはじめるのではないか,という不安を感じた。しかし,この不安は根拠のないものだった。『私は,国民が戦争遂行にあたって行ったすべての決定と行動に対する全責任をおう者として,私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした』。私は大きい感動にゆすぶられた。死をもともなうほどの責任,明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする,この勇気に満ちた態度は,私の骨の髄までもゆり動かした」(『マッカーサー回想記』より抜粋)
 敗戦後,天皇は日本各地を巡幸され,復興にはげむ人々と親しく言葉をかわされ,はげまされた。このときの天皇のお言葉は「あっ,そう」という簡単な一語だけということが多かったが,素朴な応対の中に人々は天皇の真心を感じ,あるときなどは,群衆の間から自然に「天皇陛下万歳!」の叫びがおこり,やむことがなかった。このように昭和天皇は,激動する昭和という時代の中で,生涯をとおして国民とともに歩まれたのであった。

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新しい歴史教科書118

歴史を学んで
 日本の歴史を今,学習し終えたみなさんは,日本人が外国の文化から学ぶことにいかに熱心で,謙虚な民族であるかということに気がついたであろう。外国の進んだ文化を理解するために,どんな努力もしてきた民族であった。
 古くは,遣隋使や遣唐使が小さな木の船で荒波を越える危険をおかして,留学生を送り出した。留学生は中国で2030年という人生の大部分を学習についやした。帰国できないで死亡する者,やっと帰路についた途中で嵐にあって遭難してしまう者も少なくなかった。
 明治になると,留学生たちはヨーロッパに渡った。日本が西洋文明を一生懸命に取り入れた時代の大部分は,まだ飛行機がなかった。1か月以上もかけて,船で渡ったのである。1955(昭和30)年ごろまで,そのような例が多かった。
 しかし日本人は,外国のために外国を学んだのではない。隋や唐で知った漢字漢文は古代の国際語だった。同じように英語やドイツ語やフランス語は,近代の世界を生きるために必要な言語だった。外国を深く学ぶことで自国の独立を失うという,世界の別の国々におこっている危険は,日本にはなかった。日本は,外国の軍隊に国土を荒らされたことがない国だったからだ。日本人は自分の国の歴史によりも,外国の歴
史の歩みにむしろ理想を求めさえした。自分の進むべき歴史の模範を,むしろ外国にあおいだ。それでも,自分の国の歴史に自信を失うということが,ずっとおこらない国だった。
 日本は永い間,文化的にそういう意味で安全で幸せな国だった。ところが,ここ半世紀は必ずしもそうとはいえない時代になってきた。
 なぜ外国の歴史に理想を求めても自国の歴史に自信を失わないできた日本が,最近そうではなく,ときどき不安なようすをみせるようになったのだろうか。理由はいくつもある。
 ヨーロッパやアメリカに,日本より進んだ珍しいものがだんだん少なくなってきた。そういうことに,みなさんも少しは気がついているだろう。日本が進んだからともいえるし,工業先進国はどこの国もみな,平均して似たようなレベルになっているからともいえる。
 外国の文明に追いつけ,追い越せとがんばっているときには,目標がはっきりしていて,不安がない。外国の歩みに理想を求め,日本も自国の歩みに自信をもつことができた。ところが今は,どの外国も目標にできない。日本人が自分の歩みにとつぜん不安になってきた理由は,たしかに一つはここにある。
 しかし,もう一つ重要な理由が別にある。日本は外国の軍隊に国土を荒らされたことがないので,外国を理想にしても,独立心を失わない幸せな国だったと前に書いたが,大東亜戦争(太平洋戦争)で敗北して以来,この点が変わった。全土で70万人もの市民が殺される無差別爆撃を受け,原子爆弾を落とされた。戦後,日本人は,努力して経済復興を成し遂げ世界有数の地位を築いたが,どこか自信をもてないでいる。
 本当は今は,理想や模範にする外国がもうないので,日本人は自分の足でしっかりと立たなくてはいけない時代なのだが,残念ながら戦争に敗北した傷跡がまだ癒えない。
 日本人が,これからもなお,外国から謙虚に学ぶことはとても大切だが,今までと違って,深い考えもなしに外国を基準にしたり,モデルに見立てたりすることで,独立心を失った頼りない国民になるおそれが出てきたことには,警戒しなくてはならない。
 何よりも大切なことは,自分をもつことである。自分をしっかりもたないと,外国の文化や歴史を学ぶこともじつはできない。「新しい歴史教科書」を学んだみなさんに,編者が最後に送りたいメッセージはこのことである。
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