「鄭 成功 ものがたり」
今日は福建省の誰もが愛する1600年代の英雄、「鄭 成功」についてお伝えしましょう
彼は日本人にも愛され、近松門左衛門の浄瑠璃 「国姓爺合戦」になっているそうです。
お母さんは日本人です
アモイの名所、コロンス島には 「鄭 成功」の巨大な石像が聳え立ちアモイ港を見渡しています。
◎ この物語はアモイ華僑博物館の資料、および、司馬遼太郎の
「中国・びん(門がまえに虫)のみち」 を参考にしました。
この本は初版が1989年なのでちょっと古いですが、とても面白い本です。
よろしかったら是非読んでみてください。
コロンス島 泉州 船の博物館より
鄭成功
1600年の初め頃、中国・福建省・泉州のある裕福な貿易商の鄭家に
「芝竜」という男の子が生まれました。
その人が「成功」の父親になる人です。
彼は若いころ、父親の妾に手をだして、それが見つかり、家を飛び出しました。
そして、たまたま、泉州港に碇泊していたオランダ船に逃げ込みました。
そしてその船に乗り込み、日本の平戸に行き,島内の入り江の内浦に住むことになりました。
彼は人好きがして,機知に富む男だったので
,藩士[ 田川氏]に見込まれて、その娘を娶ることになりました。
そしてその二人に生まれたのが「福松」、のちの「鄭成功」です
そのころの宅跡は今も平戸の内浦に残っているそうです。
「芝龍」は宮本武蔵の流れを汲む二刀流を藩士・花房権衛門に学び
腕がたったといいます。
ゆくゆくは平戸藩士になれただろうと言うほどの人材だったらしいです。
一方、オランダ商船の方も彼の才能を必要としたので、オランダ船に再び乗り込み、
中国に行く途中に「海賊」の首領「顔思斎」にとらえられてしまいます。
そしてまたもや、その才幹と気っぷを「顔思斎」に見込まれ子分になり、
ついに「海賊」の首領になるのです。
この「海賊」というのがなかなか複雑です。
「倭寇」・「海りょう」「南倭」などいろいろとあり,
元寇以後、発生した倭寇や、もともとアラビア人の海商から、生まれたといわれる「海りょう」や、
また福建省人からなる海賊や、倭寇と福建海賊が一つになった「南倭」などがあります。
時代とともに変化し、日本人・福建人と組みながら、大きな、密輸商 兼 海賊集団を
形成して、海を荒らしまわっていたそうです。
(「海りょう」の「りょう」の字は「同僚」の「僚」のにんべんをケモノへんにした字です)
その時代、世界は」大航海貿易時代を迎え、
人々の珍しいものへの欲望も広がってきた時代だったにも関わらず、
中国・明朝は解禁の政策をとったために、すでに航海や貿易のノウハウを身につけていた
福建人や日本人による密貿易行為や海賊が盛んになったともいえるでしよう。
日本では松浦諸島が「海りょう」の根拠地となり、
平戸島の松浦家(当時石高6万1千石)の主収入は倭寇貿易だったそうです。
「海りょう」たちを客分として島内に住まわせ、その分け前が藩の収入元だったといいます。
さて、「鄭成功」の父「芝竜」の話にもどりましょう。
「芝竜」が「海りょう」の首領になった頃、明は次に来る清のまえに弱体化しており
明政府は軍力のある「芝竜」を登用し福建総兵という思い軍職につけました。
海賊の首領が明朝の大官になったわけです。
「芝龍」の人生はその才能、器量を他から買われつづけた生涯だったといえます。
息子の「成功」も泉州に呼び寄せられ、官僚的教養を身につけるため
南京の大学に入ります。
明はその末期に解禁策を、わずかにゆるめ、福建省の港を自由貿易港とし、その管理を
「芝竜」にまかせました。。今で言う「経済特区」です。
そしてそのマージンを明政府は受け取っていたわけです。
しかし、程なく、北京がおち、明朝最後の皇帝、「崇禎帝」が自殺しました。
皇族たちは地方にのがれ、そのうちの「唐王」という人が福建省に入りました。
「鄭 芝竜」はこれを擁立し勝ち進み、すこしの間、独立王国を建てました。
しかし、ほどなく南下して来た清に破れてしまいました。
清朝は「芝竜」の人物や彼の出方を見て、暗に清朝への官位をすすめたらしいのです。
「芝竜」という人は現実な人で、今までずっと、自分の能力を認めてくれた人に仕えることに
慣れてきていましたので
今回もあっさり「泉州城」を明け渡し、清に降参することにしました。
しかし、日本人の妻は夫の不忠をなじり、「泉州城」で死んだといわれます。
母と同じ気質の、息子「鄭 成功」は
「清の陣営に入って今度は清朝に仕えよう」と誘う父の願いを無視し、まだ書生の身ながら、
かって父の配下であった兵達を率い、清との戦いに挑んだのです。
「鄭 成功」は流浪の皇族魯王を擁して勝ち進み、アモイ,コロンス島を根拠地として
一大王国をつくり、交易圏を南洋まで広げました。
陸戦でも10数万の軍隊を組織して、揚子江までさかのぼり、南京城まで包囲しました。
しかし、長くは続かず、敗れてアモイに帰りました。
そして、日本とも盛んに貿易を始めています。
その頃、日本の船が入港できる港は「寧波」(ニンポー)で、琉球王国の港は「泉州」でした。
また「成功」は、江戸幕府に使者を送り、救援の兵を求めたそうですが、江戸幕府は
討議を重ねたすえ、外国への出兵はしなかったようです。
しかしそのうち,清の力にアモイは危なくなり、「成功」は台湾に根拠地を移しました。
当時、台湾と称したのは台南のことで、1620年代からオランダ人が占拠していました。
「成功」は2万5千の兵を数百の船にのせて台南に上陸し、9ヶ月でオランダを降伏させました。
前王朝ながら、中国の正規の政府が入ったのは、これが最初です。
この「オランダ人を追い払い中国人の政権を作った」ということが、中国人に
英雄視される理由の一つでしょう。
また彼の、純粋さと、書生っぽさが魅力なのでしょう。
台湾、中華人民共和国、両方に人気が有りますし、日本人も彼を好きな人が多いそうです。
清朝でさえ、「成功」を、前朝の忠君として讃え,廟の建立も許したそうです。
いまアモイ大学は思明南路という住所にあり、思明南・北路という名の大通りもあります。
これは「成功」の「明」を思う気持ちを名にしたのだと聞きました。
台湾は、以前から多数の漢民族が移住していましたが、鄭政権樹立後は、
とくに、福建省からの移住者が急増し開発が大幅に進みました。
しかし、「鄭 成功」自身は占領の翌年(1962年)疫病でなくなりました。38歳でした。
コロンス島に渡ると、「成功」が兵を指揮した場所や、兵達が仲秋の夜、月をめでながら
家族を思い、宴を張った場所などが残されていて、その頃を彷彿とさせます。
日本では「福建人」に対して、良くない印象を持っている人が多いようです。
私は、ここアモイに来て、現在の人々のくらしを見、先人達の勇気、
ロマンとスケールの大きさを知るに付け
「福建人」の印象が違ったものになりました。
あわせて、中国という国の広さ、奥の深さ、偉大さに感じ入るこの頃です。
おわり
泉州・海外交通史博物館
記載の船の写真は泉州(ザイトン)の「海外交通史博物館」で撮って来たものです。
素晴らしい博物館でした。古代中国の航海史に圧倒されました。
古代からの船の模型がズラリと並んでいます。
またいろいろの様式の彫刻やレリーフや墓石などの石の歴史が残されています。
昔からアラビア人〈イスラム教徒)、インド人、ペルシャ人、遠くアフリカなど、
あらゆる国と交流して来たことがわかります。
マルコポーロは宋の時代1290年この泉州〈ザイトン)に来てこの世界最大の貿易港の賑わいと
「ジャンク」らしい船のことを「東方見聞録」に書いてています。
1972年に干潟で宋代の大船〈長さ30メートル)が発見されましたが
マルコポーロが書いた通りの骨組みをしていたそうです。
「ジャンク」は
船内に横隔壁を持つ構造をしているのが特徴で、たとえ海水が浸入しても一部分だけに留め
次々に浸水して船が簡単に沈むということがありません。
また船の横方向の強さが著しく頑健でしかも美しい形をしており、その頃の世界最高水準の船
だといわれています。
憧憬 ・ジャンク パソコン画
4年前に一度だけアモイの海でこの形の船を見ました。
新アモイの風・トップ