中国・北京外交学院・2年生の作文  1,999

  


      
 1 無人管理の子供時代
   えん (仮名)

 
 私の子供時代といえば「無人管理」だといえる。

 幼児園のとき、父は仕事で別の都市に住んでいた。
医者である母はいつも忙しく私を世話することができなかった。

残業で遅く帰ることが多く、私の首に家の鍵をかけて一人で幼児園から帰らせた。

私は小さい時から忘れっぽかったので、時々鍵を忘れたことがあった。それでドアの前に座ったまま母を待つこともよくあった。

母の仕事は忙しい上に家事も一人でやっていたので、私に三歳ぐらいから自分で服を着たり、お風呂にはいったりすることをさせた。

 でも一番怖いことは、自分を世話することではなく母が夜中に往診にいくとき一人で寝ることだ。

ある夜私は急に目が覚めて、ベットの上に自分一人しか残っていないこと発見して、口では言えないほど怖くなった。

たまらなくて隣のおばさんに電話をかけた。おばさんの声を聞くやいなやワッと泣き出した。次の朝、涙のあとがまだ残ったまま、おばさんのふとんに寝ていた私を見た母も泣き出した。

 父が転勤して一家団欒ができるようになったのは私が小学時代のことだ。家は郊外だが父の働く病院と私の学校は都市の中心にあった。それで母は私の学校の送り迎えを父にまかせた。

でも父の退勤時間は手術の長さによって決まるので、予定どうりに私を迎えにくることはあまりなかった。

そういうわけで、両親と一緒に住んでいたけれども、前と同じように「無人管理の子」だった。

小学校4年生から私は自転車で学校に通うことになった。もう両親の送り迎えは要らなくなった。

「今度こそ、本当の無人管理になったね」と時々冗談を言った。

今その時のことを思うと、淋しいことも多かったが、私の自立心を育てるのにとても役立ったのではないかと思うのである。 

                天津泥人形
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         2 幼い日     れん

 1978年農歴9月18日は大変暑い1日であった。茶目っ気のあるは私は早くこの世界に出てきた。

この美しい世界を見たかったためか、母の袋でこれ以上待っていられなかったのか、3ヶ月も早くこの世に出てきた。体重は2キロしかなく、発育は不良であった。

 その時、家族は山村に住んでいて、生活は非常に貧しかった。ほとんどの村人は芋を主食としていた。

1年の中で、春節(正月)しか米や麦を食べられなかった。面白いおもちゃも無く、きれいな服もなかった。

けれども、幼い私は生活がそれほど苦しいとは思わなかった。

友達と山へ出かけたり、鳥や蝶を捕まえたりして遊んだ。その頃、私は頭がよく回ったためか、よいアイデアが浮かんだためか、こどもたちのリーダーだった。

楽しいっことは遊ぶことだけではなく両親の手伝いもやった。畑に種を蒔くとか草を刈ることもできた。

 中国には「窮人的孩子早当家」という諺がある。苦しい環境のなかで成長する子は普通の子より早くませる。
特に心理的に早熟になり幼いのに両親の苦労を理解し両親をよく手伝うという意味である。

私の村には小さい小学校があった。学校に通うのは本当に大変であった。家から10数キロもあり山道である。だから朝早く起きて学校に行った、昼食は家から持ってきた「芋」を食べた。放課後はまた10キロの長い道である。

おなかが空いてたまらず、歩けなくなり道端で泣きだしたことが何度もあった。

ある年の雨季に何日も雨が降り続き、登校途中の川が増水した。流れも速くなっていたが私は勇気を出して、ズボンを巻き上げて川を渡った。

そして川の中央付近で滑って転んでしまい全身ずぶ濡れになってしまった。靴も流されてしまった。泣きながら学校に着いた思い出がある。

それから子供心に「大変な生活をしているのだ」と思うようになった。

そして大きくなったら、必ずこの山村を出て、外の世界に行こうと思った。そして、自分に能力があったら、山村に戻って故郷のために貢献したいと思ったのである。

それは幼い私の大きな夢となった。
                                 
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  3 祖母のはなし・中国の小足(纏足)
  えい

 私の祖母はいつも腰を曲げて歩いている。彼女の足はとても小さい。
私は祖母に6歳まで育ててもらった。彼女はとても情の深い人で私は心から彼女を愛した。

祖母の足は確かに小さい。彼女は靴も自分で作っていた。
私は祖母に「足を見せて」と頼んだことがあった。
しかし祖母は同意しなかった。
そして、あるとき、私はこっそり祖母の足を見た。
 
 祖母の足は爪先から直接かかとまで移行していて、「土踏まず」がなかった。足は大きく変形していた。
私は大きくなって「小足」についての本をよんだ。「纏足」という本である。

中国の歴史には昔は「纏足」はなかった。中国の女性は昔は開放的で魚の骨で串をつくり髪の毛を梳った。貝がらをネックレスにした。彼女たちは美しいものに独特の見識を持っていた。特に唐時代女性はは美しかった。
彼女たちの服装はセクシーで胸元がおおきく開き、胸の部分だけかくしていた。

宗の時代からだんだん保守的になって封建主義の高峰へ向っていった。
社会は保守的な考えを女性に要求した。そして「纏足」の習慣が広がった。
始めたのは宗国の王妃といわれている。彼女は幼いとき2mぐらいの白い布を足に巻きつけた。長い間に発育が停止して、他の女性より足が小さくなった。
彼女の歩き方はとても緩慢になった。

国王は彼女に「何故くねくねゆっくり歩くか」と聞いた。彼女は
「これは最も女性らしい歩き方です。それに足が小さいと歩きにくいので家にいて、自分の主人から離れることができません。」と答えた。国王はとても喜んだ。

国王は女性に纏足を命令し美しい女性の姿として流行していった。女性はいい結婚をするために1歳から足に布を巻きつけられた。私は想像しがたい。

この宗時代から女性は知識を学ぶことが無くなり、毎日毎日けい房で生活し、子供を生むことが一番重要なこととなり自分を失っていった。

中国が解放されて女性は自由を得た。いま中国女性は男性と同じに学び、同等に働いている。
この「纏足」の風習は世界の他の国にはない。

1997年の夏祖母は死んだ。私は祖母の足を見て母に
「おばあちゃんの人生は纏足をして、辛い人生だったねー。」と言った。

母は「おばあちゃんの子供たちは一人も纏足をしていない。幸せな時代になったよ。」と答えた。
纏足の風習は宗時代に生まれて、祖母の時代に死んだ。
今の私たちは幸せだと思った。

              
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本箱を整理していたら、1999年の外交学院の学生の作文集が出てきました。11年前のものです。

私が作文指導した時の2年生の作文集です。外交学院を離れる時に私のほうで編集印刷して表紙をつけて、学生に記念に配りました。
今読んでみると、2年生でこれだけの文を彼らは書いたのかと改めて感心しています。      道子



          

       4 私の日本人観        さい
 
 本当のことを言えば、私は日本人があまり好きではない。こんな考えはずっと私の心にあった。その原因はいろいろある。

半世紀以前、日本人は中国に惨い戦争を起こしてきた。中国人は数千万人惨殺された。
日本人は意外にも「私たちは中国を解放するために日本にに来たのだ。」と中国人に言った。

中国を解放するために来たのに、どうして中国人をたくさん惨殺したのか。
中国人は今も日本の中国侵略をなかなか忘れられない。

 日本には忘年会というのがあるそうだ。以前の不愉快なことは全部忘れてしまい、新しい年を迎えようというものだそうだ。
友達の間なら不愉快なことは忘れて仲良くしましょうと、いうのに私は賛成である。
しかし、歴史の問題を忘れるわけにはいかない。

歴史をはっきり認識してから、中国両国の関係がうまく発展させることが大切ではないかと思っている。
日本人は相手のことを思って、間接的なまわりくどい言い方をする。

それではお互いに本当の意見をきくことはできない。本当の友達なら、意見をお互いはっきり言ったほうがいいと思う。

もちろん、今の中国は日本に習うべきものはたくさんある。
日本は環境問題、教育問題、交通問題などたくさん経験を持っている。

中国はその何パーセントを学ぶことができれば、どんなに明るくなることだろう。
中国は日本からいろいろなことを習って中国の発展に努力していくべきだと思う。
しかし、私が日本を好きになるのは時間がかかりそうだ。

          
        
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    社会主義と資本主義     さく

 私は社会主義の中国に生まれ、幼いときから社会主義の教育を受けて育った。その為私の心には「社会主義が良い」という考えが存在している。

ところが大学生になって少し迷ってきた。
80年代から中国は「改革解放」という政策をとって、外国からいろいろのものを受け入れてきた。

外国の「舶来もの」を目の前にして西洋崇拝になった中国人も多い。私はそれほどではないが西洋の先進国などにある程度の好感を持つようになった。

アメリカ、日本などの資本主義の国は世界でトップクラスの科学技術や優れた医療設備を持っているだけでなく、教育、社会福祉、でも整った制度を持っている。
民衆は私たちより豊かな生活をおくっているという印象を私に与えた

考えてみると社会主義の国はだんだん少なくなり、資本主義は世界で無視できない位置を示している。

わが国の「先輩」だったソ連はすでに解体し衰え、北朝鮮では飢える人がたくさんいるそうだ

世界の社会主義国の中でどうにか進歩し発展しているのは中国だけである。
この現状をみて私は社会主義の行く末を心配するようになった。私だけではないであろう。

今年3月ユーゴスラビアの爆撃事件は、私に資本主義や社会主義についてもう一度考えさせるきっかけになった。

8カ国が一つの小さな国を毎日のように爆撃するなんて、なんといっても恥ずべき侵略行為だ私は思う。

さらに中国大使館も爆撃され、私たちの同胞三人も被害者になったことは中国人に強いショックを与えた。

これをやったのは資本主義の国だ。この事件は資本主義の悪い暗い部分をわたしにわからせてくれた。

そして一方、私たちの国の穏やかさと平和で安定した進歩を、なんと貴重なことかと認識させられた。
と同時に、私自身の国への責任も明確に感じるようになった。

以上書いたことは先生から出された「資本主義と社会主義」についてのテーマに対する文である。
そして、まだ簡単にどっちがいいか、どっちが悪いかも言いたくない。

と言うのも、私はまだ外国に行ったことがない、客間的に見ることが出来ないので結論をまだ出すことはできない。

今アメリカでは社会主義の中国を敵視している人が少なくないようだ。

しかし、今中国では「白い猫にしろ、黒い猫にしろ、鼠を捕らえる猫は良い猫だ」という言葉をつかい、自分の国の人々が豊かになっていくことを進めている。
そして一方、他国人民の命や権力を尊重している。
これこそいい主義だと私は固く信じている。


* 現在も中国では報道に国の検閲が入り、党に都合の悪いことは国民に知らせない傾向があるようです。
この作文が書かれた1999年、10年前はインターネットもまだ今のように普及しておらず、学生に入ってくる情報は限られていました。
その中で純真に国を思う学生の気持ちも理解できます。
  道子記  


          

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    6 私の日本人観     れい

 日本語の勉強はこの7月で早2年になる。その間に私は何人かの日本人に会った。そして彼らから貴重な経験をたくさん得ることができた。
その中で感じたことをいろいろ話してみたいと思う。

日本人の特徴として「勤勉」という言葉がよく使われる。
日本人は第二次世界大戦後、廃墟の上に経済的奇跡を作った。
やはりその最も重要な理由のひとつに「勤勉さ」があげられる。

日本人のやり方は目標に向って自分の力を精一杯尽くし、努力することだと思う。

昨年私がアルバイトをした日本人の経営する会社には
「人生の半分はは仕事である。仕事がうまく進むことによって自分も成長していく」と壁に貼ってあった。

80年代の日本の「おしん」と言う映画は中国人に非常に人気があった。
「おしん」には日本人のパイオニアスピリットがよく表れていると思う。

しかし、中国人には、日本人が働きすぎて過労死するというのは驚きであり、悲惨なことだと感じる。

次に言いたいことは「失礼します」とか「お先に」とか「お気をつけて」とかの挨拶の言葉は
日本人には当たり前かもしれないけれど、この「ことば」は「文明大国」を表わしていると思う。

次に私が感動したのは私の日本人の先生についてである。それはちょっとしたことである。
ある日、私は先生とロビーで会う約束をしていた。しかし、先生はなかなか来なかったので私は先生のお宅に行った。

先生は私を見るとすぐにお詫びをした。私はびっくりして声もでなかった。
日本人の先生がわたしに「ごめんんなさい」と言ったのだ。先生が約束を忘れていたのだけれど、先生が学生に謝るとは夢にも思っていなかった。

中国と日本は同じアジアの国だが、政治、経済、文化、風習、習慣は親密でるが、また違うところも多い。
これからも日本語を学び、日本と日本人について学んで生きたいと思う。

               

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     7 私の日本人観   きん

 大学に入るまで、私は日本人に好感を持っていなかった。南京事件」というような映画を見たせいか、日本人は皆、乱暴だと幼い私は思っていた。

大学に入って、日本語を勉強し、日本人との付き合いが始まった。まず日本人の先生、道子先生と京子先生との付き合いである。

道子先生の初めての授業に出る前、私はどきどきしていた。今度会うのはテレビで見た日本人ではない、本当の日本人だと私は緊張した。

そして先生が来た。予想外で親切なおばあちゃんだった。
ああ、日本人は親切な一面があるなと私は思った。

次に会ったのは京子先生である。とてもきれいな中国語を話せる若い女性であった。

授業時間が3時間しかなかったのに元気さと活発さを深く感じた。

日本人と深く触れ合うにつれてますます不思議な思いがでてきた。実際の日本人と、今までの私のイメージの日本人と随分違っていたからである。

例えば日本人は「働き蜂」でお金儲けばかり考え、生活の楽しみを持たないと、以前の私は思っていた。

しかし、そういう人ばかりではないことがわかった。
先生たちがいい例だと思う。
日本より生活条件の悪い中国にわざわざ来て、わずかな給料しかもらえないのに、情熱的に仕事に取り組み、好きな絵を描いたり、名所見物をしたりして、自分の生活を豊かに楽しんでいるようである。

先生は学生に「自然は美しい。もっと自然に目を向け楽しみなさい。自然を大切にしなさい」と言った。
勉強ばかりして自然をあまり見ていなかった私は先生の話に感動した。そして中国人は自然保護意識がまだ弱いことも感じた。

若い日本人留学生との付き合いも勉強になった。
「勉強」とは学習だけではない。
留学生を通して、日本人の集団意識や曖昧な態度も知った。

例えば留学生に
「私の日本語が間違っていたらすぐ注意してください。」と頼んでいたのだけれど、その人は
「けっこうですよ。直すところはありません。」と答えた。
私はとても不満だった。
仲のよい友達なのに、どうして素直に悪いところを指摘してくれないのかと。

しかし、だんだんわかってきた。日本人の曖昧さは何年もかかって習慣になっているのだから、簡単に直せないのだと。人を傷つけたくない気持ちが強いのだと。

私は実際のに日本人に触れてから2年になる。テレビやラジオや新聞の日本人ではなく、実在の日本人と付き合うことが、日本人を知るのに一番いい方法だと私はつくづく感じている。


    
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   8 私の日本人感           もえ

 それまで私が会った日本人は多くなかった。
日本人との接触は一昨年から始まった。1997年9月、私は外交学院に入学した。
日本が好きだから、専攻は日本語にした。

 その時から、私は日本人がすこしづつ分かってきた。私が最初にあった日本人は外国人日本語教師である。

彼女はとても親切な人である。
彼女は仕事熱心で、中国人学生の面倒を良く見た。
いつも笑顔でまるで春のようで人気があった。
私たちは彼女がとても好きだ。名前は田端先生。

田端先生は年齢より若く見える。青春のようにはつらつとした力が溢れている。彼女の毎日の生活は多彩である。
彼女は溢れるように誠意がある。

彼女の授業は精力が溢れていて、授業内容も充実している。先生から、いろいろ日本の知識をおそわり、今までと違っ日本がだんだん見えてきた。

それ以上に、田端先生は私たちにいろいろのチャンスを与えてくれた。例えば先生は私たちに若い日本人を紹介した。私たちは日本の若者と交流することができた。

また、先生は学生が日本文化に触れる時間を作ってくれた。シャングリラホテルであった日本の着物ショーに連れていった。たくさんの美しい和服を見たし、日本人の奥さんたちと少し話すことが出来た。

また先生は駐在日本大使館文化部の図書館を教室で紹介し、利用の仕方をやカードの提出の仕方を説明してくれた。

それで私たちはよくその図書館に行って、日本のファッションの雑誌や新聞や写真を見ることができた。

先生は勉強には厳しい。日本語の授業はとても熱心である。日本語能力試験前にはいろいろの資料を私たちにくれた

先生は日本から日本のお菓子を持ってきて、教室で皆に食べさせてくれた。

この二年間、田端先生のおかげで本当に充実した日本語学習をすることができた。わたしたちの日本語も随分上達した。

今年は先生と別れることになっている。わたし必ず手紙をかくつもりである。
私は永久に先生に思いをよせる。

私が他で会った日本人もいい人が多かった。日本人はみな親切で礼儀正しく、仕事には一生懸命だった。

私が今まで会った日本人はみんな好きだ。かれらとの友情を何時までも保って生きたいと思っている。

            
               山東年画

この作文はちょっと私を誉めすぎなので、掲載を迷ったけれど、学生が日本人に実際触れて、新しい日本人観を育てていく過程がわかり載せてみることにした。

中国の学生にとって幼いころ教師や映画などで教えられた日本人像と実際の日本人とのギャップはかなり大きいようである。
また中国の教師の授業のやりかたと日本人教師のやりかたの違いも学生には新鮮だったようだ。

学生たちが、私たち日本人教師や普通の日本人と接していくうちに
日本や日本人を見直して好意的になっていく様は嬉しいものであった。  
                          道子記


 
     9 中国の国旗と国歌
       り
 
 中国の国旗は「五星紅旗」である。国旗としての正式寸法はたしか縦横比が2対3だったと思う。旗面は真紅で五つの星がある。

中国の国旗は何故赤いのか、星はどんな意味があるのか、いろいろ知りたいことがあるだろう。わたしは自分の知っているところから紹介したいと思う。

1949年の建国まで中国は苦難の多いひどい国だった。中国の人民は帝国主義、資本主義、封建主義という3つの大きな山の下に苦しい生活をしていた。まるで奴隷のようであった。

やがて中国共産党は大衆を指導して強い敵を打ち砕いた。中国は光明と開放を迎えたのだ。新しい国の誕生は無数の革命烈士の苦労と犠牲とによってなされた。

だから中国の国旗は赤い鮮血の色でそめられた「紅旗」なのである。

五つの星の一番大きいのは中国共産党の指導を表す。残りの小さい星は中国人民を表わしている。中国の大衆は中国共産党のまわりをしっかり取り囲んでいるという意味である。

次は国歌について
中国の国歌として歌われている「叉勇軍進行曲」の歌詞は有名な作詞家「田漢氏」によって書かれた。以前、中国人民解放軍はこの歌を歌いながら敵と戦ったそうだ。

現在中国全土国旗掲揚の際にはこの「叉勇軍進行曲」が演奏される。歌詞は

「中国は今、危険な時だ。奴隷になりたくなかったら、全ての中国人民は自分たちの血と肉で新しい長城をうちたてよう。全ての人が心を一つにして敵の砲火に向かい前進しよう。起て!起て!起て」というものである。

この歌は絶大な感化力を持ち、人心を霊感させる歌として中国人民に好まれてきたと思う。

国旗と国歌は国のシンボルである。天安門では毎朝国旗が揚げられるし、学校や国の病院などでも国旗を揚げている。

実は、私には国旗について個人的なちょっと恥ずかしい思い出がある。
私が中学校の時、学校では週に2回国旗掲揚の儀式があった。旗手は優れた学生がすることになっており私はその時旗手に選ばれた。1000人もの学生生徒の前でやることは名誉なことで、私は非常にうれしかった。

ある日、市の教育委員の幹部が学校視察に来られることになった。私はその幹部たちの前で国旗掲揚をすることになった。

掲揚は国歌終了時には国旗が頂上に達しているという規定があるのに、
その時私はあまりに緊張していたのか、国歌が終わったのに国旗が旗竿の先端にまだ達していなかったのである。もちろんあとで先生にひどく叱られた。
私は先生に叱られたのは初めてだった。今も苦く懐かしい思い出である。

国旗は国の象徴であると辞書に書かれている。国歌も同じである。私は自分の国の国旗が好きなのは旗が美しいということもあるが、旗を仰ぐと
「今日の幸福な生活を得るには容易なことではなかった。大切にしなければならないとしみじみ感じるからである。


国歌も同じく好きだ。
音楽は生まれながらに才能が無い私だけれど、国歌なら完璧に歌える。
国歌を大声で歌うとき中国の悲壮な歴史と偉大さを感じ感動する。

                  

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 「中国の国旗・国歌」の作文の内容は今の中国の学生たちに共通する思 いだと思う。。
純粋培養の愛国教育を受けた、澄んだ瞳の優等生の文章 である。また優秀学生のほとんどが共産党党員である。党員でないと、まずいい職につけない。

国歌は抗日戦争時の歌で最後は独特のリズムと節で
「全ての人が心を一つにして敵の砲火に向かい前進しよう.
起て!起て! 起て!」と歌いあげる。
  
中国の学生は現在もマルクス理論を学び、共産党思想を学んでいる。
学生の本音はこの授業は暗記が多く、余りやりたくない学科らしいが、この授業の点数が悪いと進級できない。

また、高校、大学では1ヶ月の軍事訓練がある。 清国の末期以来、欧米国に蝕まれて、日本に侵略され苦い経験をし、そこから独立を勝ち取った中国は二度と哀れな国にならないために、
そして、現共産党体制維持のため愛国教育に力をいれている。
韓国も徴兵制度があるらしい。大学生の間は免除だときく。

 かってわが国も同じように強い愛国教育をし、純心な愛国青年たちが国中に溢れていた時期がある。そして戦争へとうち進んでいった。「日本も愛国教育をもっと強くしよう」という声も高まってきつつある。

   どんな人にとっても自分の国は愛しいものである。
   国を愛することは大切なことである。
   自国を愛し、他の国を壊さず人類全てを愛する
   教育なら賛成である。 

しかし、国家間に摩擦がおき
愛国心ばかりが強大になると必ず戦争がおきる。
結局、人間は相手国を憎み、自分の国だけの利益や言い分を通すために戦争をおこしてしまう。

広島、長崎の原爆記念日、終戦記念日もまじか。
大国のありかたについて、日本について、 核拡散問題について考えこんでしまう。
広島原爆と同じ爆破力の核爆弾が現在、地球に20000個も存在するという。
核抑止のため、自国を守るためにと増えつづけてきた核爆弾。
こんなことをしていたらいつか人類は必ず滅びてしまうのに・・  
                                                                  道子記 *


           おわり