胡同 (フートン) その2
四合院
四合院とは中央に庭を配し、その四方を平屋で囲った住宅のことです。
周囲の壁には窓を付けませんから、四合院に入ると、自分だけの小宇宙です。
四合院は南向きに建てられるので、冬暖かく夏涼しい空間です。
門は南に付けますが王宮に遠慮して正面を避け、南の東寄りにつけるのがふつうです。
良家の門を入ると「影壁」という目隠しがあり、中を覗かれないよう工夫されています。
北側の南向きの棟にその家の主人が住むことになっていあます。
一棟には三部屋が作るのがふつうです。三合院には南棟がありません。
学校教師、役所の事務員級は三合院だったそうです。
その家の主人は帰宅すればその空間の帝王で
自分だけの世界を楽しむことができました。
ご主人は金魚や植木を楽しみ絵や書をしたようです。
「日よけ、金魚のかめ,石榴の木、ご主人、番犬、太ったお手伝いさん」
が四合院の暮らしを表す決まり文句だそうです。
郭沫若、魯迅、老舎、茅盾、梅蘭芳などの住んだ旧居が保存されています。
現在、これだけ土地を贅沢に使う四合院の暮らしができるのは
地位を得た人だけです。
今はほとんど5,6家族が雑居していて四合院の形をなしていません
郭沫若の故居
垂花門
大変豪華で美しい四合院の邸宅でした。
郭沫若が政府からいかに優遇されていたかがわかります。
郭沫若は作家、古代文字学者、歴史学者、元日中友好協会会長で
新中国の文化のために貢献したひとです。
日本に留学、亡命したこともあり、日本婦人の間に5人の子をもうけていますが
さまざまの理由により帰国後、書家でもある中国婦人と結婚しています。
文化大革命の時は、自分の作品を全て自己否定しました。
当時息子さんの病死や、迫害死にあい文化革命の10年は苦難の時でした。
美しい邸宅を見ながら、文化革命時入水自殺した老舎とのを対比考えさせられました。
典型的な四合院の中庭 東棟より西棟を見る。
この銀杏の大きさ美しさは圧巻でした。
郭沫若の書
なかなかいい字だそうです。
四合院の聾唖幼稚園ガイドさんがここを案内した時は驚きました。
観光ルートに入っているようなのです。
この幼稚園は四合院の形をそのままで残しているからだそうです。
何故こんな観光地に「聾和の幼稚園」があるのかも不思議です。
(日本では『聾唖』という言葉は正式には使用禁止らしい。
「耳の不自由な子どもたちの幼稚園」と書くべきなのか・・)
幼稚園の正門
「影壁」 可愛い動物の絵が描いてありました。
門を入るとすぐ立ちはだかっています。
西棟 と中庭 南棟
南棟内右部屋 ちょうど子供達はお昼ねの時間でした。
ここの子どもたちは4〜6歳。中国各地から親元を離れて
ここに住みこんでいます。
指導員から、訓練を受けているのだそうです。
現在の中国ではかなりいい施設だそうで、部屋も明るく清潔でした。
おかあさんが恋しい年頃なのに、こうして頑張っている子供達を見ていると不憫に思いますが、訓練は小さい時にやらねばならないそうです。
ここの教育費がとても高く父母の負担は大変だそうです。
補聴器の電気代もばかにならないといっていました。
小さくて可愛い女の子が補聴器をつけて「ニイハオ、私は○○です。」
とあいさつしてくれました。
観光客は撮影自由とのことでまたびっくり。子どもを写すことは日本ならとうてい許可は下りないでしょう。
観光客に開放された幼稚園、日本では考えられません。
しかし、私はこの施設を思いがけず見学できて、いい勉強になりました。
宋慶齢故居(同志とあります)
かってラストエンペラーの父の家で、溥儀はここで生まれています。
孫文の夫人宋慶齢が70歳からなくなるまでの18年間をここですごしました。彼女は中国共産党の名誉国家首席でした。
宋慶齢は中国大財閥宋家の美人3人娘の次女で、妹の宋美麗は国民党の「蒋介石」の妻になっています。つい最近、宋美麗がアメリカで亡くなったというニュースがありました。100歳を超えていたとか。
今日は前に行ったことがあるので中まで入りませんでした。
ここも素晴らしい四合院の邸宅です。宋慶齢の美しいドレスやレースの
服が陳列してあったのが印象的でした。
鐘楼・鼓楼
鐘楼より鼓楼を眺める
鼓楼は明清時代、太鼓で北京の人に毎日時を知らせました。
ここから天安門まで南に一直線です。
北京の壮大な城作りが実感としてわかります。
直ぐ下を見ると昔ながらの胡同や庶民の古い家屋がとひしめきあっています。
鐘楼
明代に元代の万寧寺跡に建てられ清代に改修された。
急傾斜のの長い長い階段が見もの。
つい最近白人の観光客が足を滑らして階段から落ち、いへんだったそうです。