「圓明園」・紺碧の空
(11月6日つれづれ日記参照)
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清代の乾隆帝(1711〜1799)は祖父の康熙帝(1654〜1722)の作った
円明円に手を加えて新しい公園につくりかえました。
明代の皇帝は紫禁城、城壁、長城の補強をし、清代の皇帝たちは北京の庭作りに精を 出したといわれています。西太后の庭にかける情熱も有名です。
乾隆帝は蘇州や杭州の景勝地を「天然図画楼閣」として箱庭風に48景を作ったり
「四庫全書」を収録するための「文源閣」を建てたりして莫大なお金を使いました。。
乾隆帝以後約100年、歴代の皇帝はここで執務を執ったそうです。
円明円の大きさは頤和円より53ヘクタールも広く346ヘクタールもあります。
1860年の英仏連合軍によって破壊され、今残っているのはベルサイユ宮殿を
コピーした建物の柱などの残骸なので、現在は「遺蹟公園」と言われています。
宮殿には宝石や世界中からの贈り物が置かれていたとのことで、
その時の英仏軍の攻撃はすさまじく略奪、放火し3日も炎上したそうです。
「中国人は未開な野蛮人だと西洋人はいうけれど、この西洋人の野蛮さはどうだ!
この屈辱を決して中国は忘れてはならない。」と園内の案内ビデオは語っていました。
この洋式建築はイタリーの宣教師たちが中国人の職人を指導して作らせたそうです。
私は行く前はただ一つの建築物の残骸だけかと思っていましたが、
そうではなくて噴水池やギリシャ風彫刻などを設置した広い洋式庭園を中心に
いくつもの宮殿が建っていたようです。。
広大な場所に広がるたくさんの石の遺蹟をみて驚きました。