高山線の台風23号被害調査リポート
 
 12月11日公共交通をよくする富山の会は、台風23号の爪跡がむき出しのままのJR高山線猪谷−飛騨古川間の現地調査を行った。その調査結果を報告し、高山線の被害の現状をできるだけ多くの方に知っていただき、また今後の復旧運動をみなさんとすすめたい。
 
 午前9時猪谷駅(左の写真)に集合した私たちは、今なお普通となっている高山線の猪谷駅から飛騨古川駅間の37.9`を国道360号線に沿って調査することにした。
 この調査には、10月20日の台風被害の直後、国道360号線が通行止めとなっていた時期に、林道から現地へ調査に入ったJR西日本の奥田さんを道案内に5人が参加した。調査は、もっと早い時期にと考えていたが、国道360号線の通行が危ぶまれたことなど諸事情によってこの日の調査となった。
 不通となっていた高山〜飛騨古川間は、台風から一ヶ月後の先月18日に運転を再開し、全面通行止めとなっていた国道360号線は10月29日から片側通行で通れるようになっていた。
 猪谷駅には、「お知らせ 猪谷駅から富山駅までの特急ひだ号は当分の間運転を取りやめております」の張り紙があり、時刻表の「高山方面」は全面に白い紙を貼り付け、その横には、古川〜猪谷間の代替えバスの時刻表があった。
 
高山市で観測史上最大の雨量、一時「陸の孤島」となった旧宮川村
 台風23号が飛騨地域を襲ったのは今年(2004年)10月20日夜である。10月22日付の岐阜新聞によれば「高山市では20日午後7時2分から一時間に降った雨が57_と観測史上最高を記録した」。また、「台風23号により、国道とJRが寸断された岐阜県飛騨市宮川町(旧宮川村)は22日になっても市街地との行き来が困難なままだ。山に囲まれた旧宮川村には331世帯1040人が住むが、一時は有線電話、携帯電話も使用不能。電気も止まり、『陸の孤島』と化した」(「朝日」10月23日)と報道している。写真は宮川沿いの水田が濁流で削り取られた跡である(桑野)。いかにすざましい被害であったか。飛騨市は約1,310世帯、約4,500人に避難指示をだしたと記録されている。
 
高山線の橋梁流出など被害は猪谷〜角川に集中
 最初に高山線の被害を目にしたのが杉原駅から少し行った桑野である。レールが宮川に垂れ下がり、橋脚が一本ポツンと立っている(写真左・桑野地内)。復旧をするには、川の底から盛り土をし土台を建設しなくてはならない。
 「高山−猪谷間は宮川に沿うようにし所々で交差しながら山間を走り、長短約90の橋梁がある。4カ所が流出、川沿いの護岸が崩れ落ちるなどしたところが5カ所ある。線路では11カ所で敷石や盛り土がなくなったり大量の土砂か流れ込んでいたりするのが確認された。被害は県境に近い角川−猪谷間に17カ所と集中してる」(「朝日」10月23日)と報道している。
 この地域は例年12月下旬には雪が降り始め、約2〜3bは積もるという豪雪地帯である。「道路や鉄道が復旧しなければ冬は完全に孤立してしまう」と地元紙(「岐阜新聞」10月26日)。
 杉原トンネルは、暫定的にレールに板を張り、トンネル内に蛍光灯を設置して生活道路として利用されれていた。
 
高山線、復旧に1年以上、被害額は100億円を超える
 JR東海の幹部が伝えたとして10月28日付の「朝日」は、「開通まで最短でも約1年かかる見通しを明らかにした」とし、「沿線の道路の復旧も遅れており、さらに時間がかかる恐れも。これまでに判明した分だけでも被害額は100億円を超えるという」と報道している。
 打保駅から坂上駅へ向かう種蔵あたりの宮川に架かる橋梁が川の中程で崩れ落ちている(左の写真)。      右の写真は、川原に降りて撮影したものだが、手前が緑色に塗った鉄けたの残骸であり、写真中央右手にコンクリート橋脚、左に枕木がレールにつながったまま川原の砂地に突き刺すように並んでいる。さらに、左に見える木々の小枝はもぎ取られ、根から数メートルの高さまで茶色く変色している。たぶん、そのあたりまで水嵩があったものと思われる。
 猪谷と飛騨古川間には、8つの橋梁があるがそのうちの半分の4つが流失(富山県議会で交通政策課長答弁、11月30日厚生常任委員会)したという。
 
トンネルの中にまで荒れ狂った濁流
 国道360号線から山側のレールまでの高さは数メートルはある。そのトンネルの出口付近の山が大きくえぐり削り取られている。川面から道路までは、やはり数メートルの高さがある。なんとしたことであろうか。濁流がこの高さまで押し寄せたということだ。トンネルの出口には「成手山41」の看板が貼り付けられていた。
 トンネルの脇に積み上げられた砂袋をよじ登ってトンネルの中に入った(写真右)。流木の根が幾つもあるではないか。写真左の鉄柱の土台は押し流されたたようだ。真新しいコンクリートで土台部分が塗り固められていた。近くには、「JR東海高山工務区」の看板があった。 濁流の恐ろしさをまざまざと見せつけられた思いをした。
 
 
信号ケーブルもいたる所で流され、レールは波打ち土砂が
 打保駅から坂上駅に向けて少し歩くとレールに土砂が覆い被さっているのが見えた。レールは波打ったり、歪んでいたり、枕木の下の道床はえぐられたり、路盤はむき出しになつていたり、土砂に埋まったりしている。信号ケーブルの入ったコンクリートボックスは粉々である。
 打保駅は、頑丈な板が打ち付けられ閉鎖され、構内にはキハ48-5803列車が何処へも行けず停車したままでいた。
 
ダムの放流と橋梁流出の関係は?
 私たちは、柱と屋根だけの家屋を幾つも見ながら、ところどころ路床が崩れ落ちていたり、スノーシェルターの土台部分の土が流されたりしている国道360号線を打保駅から坂上駅を過ぎ、角川駅と向かった。
 すると橋梁が落ち橋脚の土台だけが川面に並ぶ光景が目に飛び込んできた。よく見れば、数百メートル先にダムが見える。何でダムのすぐ下流で、橋梁が押し流されたのか。この調査の出発点となった猪谷で「ダムの放流で、一気に水嵩が増してどうにもならなかった」という話を聞いていたが、これはまさにそのことかと思わせる光景である。ダムは、関西電力坂上ダムである。右の写真は、坂上ダムから橋脚を写したものだが、大水量にダムそのものが持ちこたえることができなくて放流したのだろう。
 
今年は、高山線全線開通70周年というのに
 飛騨古川駅の駅前でクリスマスツリーを飾っている。その脇に「祈 高山本線早期復旧 希望のキャンドル」の立て看板。駅舎内には「高山線全線開通70年記念」のオレンジカードを販売していた。何と言うことか「70周年記念」が「祈 早期復旧」とは。言葉にならない無念さ≠ェよぎった。
 JR東海が計画していた「高山本線全通70周年記念出発式」や「トロッコ飛騨路」などの行事は相次いで中止された。観光にとっても打撃であることはまちがいない。富山にとっても八尾「おわら」への影響も危惧されている。
 現地の「岐阜新聞」10月22日付は、高山市冬頭で鉄橋を支える土台の盛り土が流され線路が宙に浮いている写真を大きく報道していたが、JR東海は10月22日には復旧のための測量を開始した。これが古川までの開通を早めたという。被害は、角川〜猪谷間に集中しているが早く復旧の見通しを立ててほしいものである。
 
高山線は県内公共交通の縦軸
 高山〜猪谷間は通学を中心に一日上下で約500人が利用していたが、現在、古川〜猪谷間はJR東海の代行バスが運行している。代行バスの乗客は一日40人程度にとどまっているという。打保〜猪谷間は飛騨市臨時バス(写真右)が運行している。
 「富山県史」によれば、「昭和2年8月に富山・八尾間が開通し、9年10月に至って富山から岐阜まで全通し、高山本線という呼称となった」。(高山線は、大正10年4月富山、婦中、八尾間の測量に着手、昭和2年に9月1日に越中八尾まで開通、大正4年10月1日笹津まで開通、大正5年11月27日猪谷まで開通した)
 さらに、「富山県史」は、飛騨街道沿いの鉄道建設計画は明治20年代から住民の強い願いとなっており、明治25年の「鉄道敷設法」によって岐阜、高山、富山に至る官設予定線の建設構想が示されたという。長年の沿線住民の願いを運んできた高山本線である。
 県内の公共交通の基本軸を考えたとき、富山県を横断する北陸本線であり、高山本線は岐阜〜富山間(225`)をつなぐ日本を縦断する鉄道である。この横と縦の鉄道を軸に将来の県内公共交通の骨格を組み立てることが重要である。
 
沿線自治体、住民・利用者の早期復旧の運動を
 私たち「公共交通をよくする富山の会」は、2001年のJR高山本線のダイヤ改正で列車本数削減提案がなされたとき沿線自治体などを訪問し懇談したことがある。このとき富山県も沿線自治体も「高山線は地域住民の生活路線」の立場で運動した。
 高山線は猪谷で、JR東海とJR西日本に分離されている。「このまま高山線は寸断されるのでは」という危惧する方も少なくない。今、高山線の復旧のメドは未だに立っていない。100億円ともいわれる復旧費用は生半可な金額ではない。しかし、富山県と岐阜県、沿線自治体、JR東海と西日本が共同のテーブルを設置し一日も早い復旧を成し遂げることを願わざるをえない。住民や利用者の早期復旧の運動も急がれる。
(写真左は、猪谷駅から富山駅に向かう列車)
 
 
 
 
◎文書中の新聞記事は、12月11日旧古川町の図書館で調べたものです。
◎2004年12月12日「公共交通をよくする富山の会」世話人渡辺眞一が執筆した。