富山港線探訪と路面電車を考えるつどい「記録」
 
                      2003年7月21日 富山市岩瀬カナル会館
 
司会 大西光男世話人
 「富山港線探訪と路面電車を考えるつどい」にたくさんの方々に参加していただきまして、本当にありがとうございました。今日の司会をさせていただきます、「公共交通をよくする富山の会」の事務局を担当しています大西です。よろしくお願いいたします。
 非常に暑い中、1時間近く歩いてお疲れのところと思いますが、これから富山港線が路面電車化されるという事で、大きく話題になっているこの問題について皆で考えていこうという事で「つどい」をおこないました。それぞれのみなさんのお話を聞いていただいて、皆で考えながら、本当に皆が利用しやすい富山港線を、路面電車化を考えていきたいと思っていますのでよろしくお願いします。
それでは会を代表いたしまして、柳原さんからご挨拶をいただきたいと思います。柳原さんはラッコハウスで身体障害者のみなさんと一緒にお仕事をなさっていらっしゃる方で、今日も車イスの方2名が参加しています。それではご挨拶をよろしくお願いします。
 
会代表挨拶 柳原亮子世話人
 みなさんこんにちは。富山市内にあります障害者の共同作業所ラッコハウスの柳原と申します。
今日は朝まで、天気が悪かったのですが、私は晴れ人間でございまして、私の力でなんとかしてみようと思っていましたら、やっぱり午後からは雨にもあたらずに、大広田駅から岩瀬の町を散策してやっとカナル会館に着いたわけですが、草先生のご説明を聞きながら、普段見過ごすようなところなど、新しい発見が出来たのではないかと思います。
私ども「公共交通をよくする富山の会」では昨年、10年後に北陸新幹線が通った際に富山港線はどうなるのかという意見が出ました。そして今年になって2月ですか3月ですか、JR西日本から富山港線を路面電車化検討という報道がなされました。そうこうしているうちに4月以降になりますと富山市長が突然、3年後に路面電車化する、あれよあれよという間に目覚しい展開になってきております。しかしそこには沿線のみなさんの声だとか、一般市民の声は全然聞こえてきていないのが現実ではないでしょうか。
そこで、今から4名の先生方のお話を伺いますが、その後、会場の皆様から富山港線に期待するもの、又ご意見、さらには思い描いている夢、いろんなことをお話いただき、それを総意としてJR西日本、富山市、それから富山県に伝えて、皆さんにとって利用しやすいそして街づくりに貢献するようなそういった富山港線をつくって、皆でつくっていくのが目的でこの「つどい」を企画したわけです。それでは4名の方からお話をいただきます。よろしくお願いします。
 
司会 大西光男世話人
どうもありがとうございました。みなさんのお手元にプログラムが行っていると思いますが、はじめのところに路面電車化についての「提案」となっていますが、「提案」は最後にすることにして、先ほど岩瀬町探訪で説明をいただきました草先生、富山近代史研究会の草先生から富山港線の歴史を含めたお話をいただきたいと思います。よろしくお願いします。
 
草卓人世話人(富山近代史研究会)
 皆様はじめまして、富山近代史研究会の草です。みなさん本日は梅雨明けの足場の悪い中たくさんお集まりいただきましてありがとうございます。私の後に、富山港線の建設にかけてきた熱い思い、それから、富山港線が今後どうなっていくのかというお話があると思いますが、私はとりあえず露払いという感じで、富山港線の沿線の歴史についてお話をさせていただきたいと思います。
 お配りした資料に年表がついているかと思いますが、そちらをごらんいただきながらお話をさせていただきたいと思います。
 江戸時代の後期から、北前船の日本海側で有数の港だった岩瀬の地は、明治の時代に入っても日本海交易で栄えていました。明治20年代に入って鉄道建設されるようになり、現在の北陸本線の前進の鉄道が敦賀から建設がはじまる、そのときに岩瀬の人たちは、先を見越して岩瀬から富山までの鉄道社会のあり方をすでに考えていたようで、明治30年、1897年ごろには富山と東岩瀬間の富山鉄道株式会社の建設を計画していました。しかし、その計画は資金不足等から実現にはいたりませんでした。
その後明治32年に北陸本線が富山まで全通し、その前後から神通川の土砂が港に大量に流入し、東岩瀬港には船が入らなくなって港湾の機能が徐々に失われるような事態が生じてきました。
こうした港の機能を回復するために、鉄道を施行しようという事で岩瀬の人たちが計画しまして、その後明治45年に電気鉄道を、大阪の電気商会が建設を計画したんですが、こちらは電気商会の倒産によって鉄道建設は中止されています。
その後、大正4年になって、その当時の経済発展によって、富山県側の唯一の近代港湾だった伏木だけでは荷揚げ等が出来なくなる、それから、富山県は豊富な電源を持ってる県で、工場等の誘致がすすめることによって、多くの会社から注目されるようになりました。そうなりますと富山から岩瀬を結ぶ鉄道が、同時に計画されていた神通川の改修も含めて、富山を近代的な町にしようという事で、当時、滑川出身で加藤組という大規模な土木事業をおこなっていた加藤金次郎と岩瀬の人たちが中心になって、富岩鉄道の計画をしました。加藤は最終的には富山から岩瀬を通って滑川までつなぐ路線を建設し、この周辺の工業化をめざしたようです。
大正9年、富岩鉄道は富山市内の桜橋、現在のワシントンホテルあたりから、東岩瀬町までの鉄道建設を申請しました。その後、桜橋では富山駅から岩瀬への貨車がつながりができないという事で、翌年、線路の基点を富山駅に変更する申清をおこないました。そして翌年、大正11年に富山駅から東岩瀬港までの免許が交付され、その後建設が開始されまして、大正13年、今から79年前の7月23日に今の富山口から岩瀬港までの7.5キロの営業が開始されました。
富山駅までの区間は、その当時まだ計画にはなかったので後回しになり、後の昭和2年に富山口〜富山駅までの貨物営業、そして、翌昭和3年の4月11日から旅客営業を開始して、富山駅と岩瀬がつながったわけです。富岩鉄道の貨物は沿線の米とか東岩瀬港に陸揚げされた海産物・肥料なんかを北陸線の富山駅に上げることが中心だったようですが、その後、東岩瀬港の改修が進み、神通川の流れを西側に付け替え、それから、岸壁などもつくったりして、港の近代化、沿線での工場誘致なども進みまして、徐々に富岩鉄道の経営は貨物、特に東岩瀬港に陸揚げされる工業製品、それから港周辺で作られる工業製品なんかの輸送で活況を呈していました。
昭和11年には、大広田から富山港まで向かう貨物線ができまして、船と鉄道との連携が確実になりました。
時間が前後しますが、昭和6年に満州事変が始まる。今度は富岩鉄道、民営の鉄道であったわけですが、この輸送力ではだんだん、増え続ける貨物の輸送にこたえられなくなってきて、昭和9年にはすでに、当時の東岩瀬の人たちが富岩鉄道を国鉄に買収してくれないか、というような要請を出したり、同じ年には、現在の東富山駅から直接貨物線を引いて貨車の流れがスムーズになるようにしてくれないかということになりました。
特に、日中戦争が勃発して戦時体制が濃くなりますと、富岩鉄道が当時富山市の市街化、富山から富山県内を一時間以内に移動できるように富山の市街化を当時の佐伯宗義、今の富山私鉄の創立者ですが、その人の持っていた富山電気鉄道の参加に入りました。
 昭和13年になりますと、岩瀬港駅が岩瀬浜駅と改称され、その後昭和15年には東岩瀬臨海工業地帯造成事業が始まりまして現在の富岩運河と工業地帯の共存で大規模な工業地帯を作ろうと造成工事が開始されています。
またその年の8月には、富山市議会が富岩鉄道の国有化それから路線の複線化を議決しています。 昭和16年に入りますと、いよいよ、当時の鉄道省側も富岩鉄道を買収するという事で、動き始めまして、この頃から鉄道省は買収のための視察と交渉を始めています。
 それから昭和16年12月8日には太平洋戦争が勃発しました。この太平洋戦争の勃発それから船の、貨物船等が輸送船として軍事輸送に利用されるようになりますと、だんだん船が足りなくなってきて、昭和17年6月輸送船がアメリカに握られますと、ほとんど船など海上輸送をなるべくそうゆう政策をはじめるわけです。狙いは、当時北海道や樺太などからの輸送を全部日本海側の港に陸揚げした石炭だとかの工業原料なんかを鉄道を経由して太平洋側の工業地帯へ運ぶことを考えたわけです。この一環として買収が緊急の事態となりまして、昭和18年6月1日には富岩線は国家に買収され、国鉄の富山港線となりました。 富岩線を国家に買収した当初は、現在の富山操車場を作りまして、完成後は直接岩瀬方面に来る鉄道を建設して、臨海興行地帯の貨物を輸送しようとしたわけですが、戦争が激化するということなどもあって中止になっています。
その後20年の6月には、富山港に地雷が投下、あるいは8月1日には富山大空襲で、富山から下奥井の間が被災して、敗戦を迎えました。
戦争が終わりまして昭和22年ごろになりますと、今度は今まで、鉄道が買収された以前の民営会社側が、今度は富山港線を再び民営に移管してもらおうとしまして、昭和22年被買収鉄道還元規制同盟会というのが結成されまして、戦時買収線の払い下げ運動が開始されました。しかし、この地元の人たちはこうした動きに反対して、集会や陳情なども行ないまして、また、民営に戻ってしまうとサービスや運賃などが低下するから止めて欲しいと運動をしました。最終的には一時は払い下げの法案の案まで作成されたんですが、最終的にはこうした運動の成果もあって政府は翌年には「買収鉄道払い下げに関する答申」を提出し、払い下げは不可となりまして、その後の国有鉄道の成立もありまして、払い下げ運動の動きがなくなりました。
昭和30年代に入りますと、戦前の軍事工場などが平和産業に転換が成功しまして、岩瀬港の周りの工業地帯は再び活気を戻しました。昭和30年には現在の富山貨物駅の所に富山操車場が一部業務を開始しまして、その3年後の昭和33年4月に蓮町貨物線、これは現在北陸線の富山貨物駅の北側から豊田地区を通って、城川原に来る道路ができていますが、そこを通って直接富山港線の蓮町駅へ入る貨物専用線が開業しました。
この線の開業によって、当時多くの貨物を扱っていた富山港線が直接富山操車場に送られる、あるいは有峰など当時県内各地でおこなわれていた電力開発のダム建設や発電所建設のセメントが、工業用セメントが、ホッパといってセメントを集積している施設が大広田駅にあって、そこから県内の各地に運ばれるようになりました。
そのとき、富山港線は電気機関車が走っていたのですが、蓮町線の開業と共にデイゼル機関車が入り、富山操車場から蓮町線を通うって蓮町、そして大広田、富山港駅まで乗り入れるようになりました。
昭和42年には、富山港線の電圧は市内電車と同じ600Vでしたが、1500Vに昇圧して、東京などで使っていた古い通勤電車を入れて増える乗客を裁けるようになりました。
 しかし、昭和40年代の後半から、モータリーゼション,貨物のトラックへの転換など、また、昭和48年12月に起こったオイルショックを契機とした重工業産業の衰退、それから通勤客も景気の後退によって通勤客も減っていきます、昭和50年代には、富山駅から富岩運河の西側を通る奥田線と奥田貨物駅が廃止になりまして、昭和60年、1985年には開業当時から富山港線の車庫であった城川原の派出所が廃止になりまして、電車は北陸本線を走っている電車が乗り入れることになりました。
 翌年の61年には、かって富山港線の最大のドル箱であった蓮町線、操車場から蓮町駅までの貨物蓮町線が、それから大広田駅から富山港駅までの線も廃止になりました。
昭和62年には、JRが発足して、富山港線はJR西日本の所属となりました。このときに、国鉄の分割・民営化の中で富山港線の存続問題が盛んになったようですが、地元のみなさんの運動によって、港線の廃止が阻止され、その後平成12年にもJR西日本が、北陸新幹線開業の時に経営分離するための並行在来線に富山港線を始め富山県内の全ての支線を含めることを表明したときも、沿線住民のみなさんの反対によってこの問題も確定までにいたる事がなかったわけです。
 その後、平成11年に富山港線を路面電車化の計画が浮上し、今年に入ってからは富山港線の路面電車化が本格的に動き出して現在にいたっています。
以上、富山港線の歴史を簡単に振り返ったわけですが、最後に一言申し上げたいと思います、富山港線を路面電車化するというときに、沿線の自治会等に対する説明会があったのですが、そのときに私は参加し説明を聞かせていただいたのですが、そのとき、疑問に思ったことが有りまして、それは、国民の税金で買収して国鉄としてやっていた富山港線を第三セクターで経営をするときには、再び、市民の税金を払ってJRから買い取っていかなければならないというのはおかしいのではないかと、質問をしたところ、地元の方から時代の流れだと言われました。今まで路線を守るためにたくさんの人たちがさまざまな取り組みを行なってきているわけですから、時代の流れという事で簡単に済ますことがいいのかと疑問に思わざるを得ないと思います。
最後になりました、今まで皆の力で守ってきた富山港線が、路面電車化されるにせよ、そのまま存続されるにせよ、今までみなさんの力で守ってきた富山港線ですから、今後もみなさんの力でいい方向に動いていくようになったらいいなと思っています。以上です。
 
司会 大西光男
どうもありがとうございました。
それでは、富山港線を作っていただいた方々から思いも含めてお話いただきたいと思います。本人たちが作ったというよりも、お爺さんたちが富山港線を作るために大変なご努力いただいて今日の富山港線があるということです。
先ずはじめに、犬島肇さんから、犬島さんのお爺さんは発起人の一人ですので、思い大変なものがあると思います。それではよろしくお願いします。
 
犬島肇(萩浦在住・前県議・富山県参与)
 ただいまご紹介をいただいた犬島肇と申します。
私がお話したいことは、資料5ページ、6ページの一枚物の裏表でございます。それにそってお話をさせていただきたいと思います。
米田さんがこちらにいらっしゃいますが、米田さんをはじめ岩瀬には「北前船」というのが「標準的表現」になってしまいましたが、富山をはじめ各地で北前船と言わないで、「バイ船」といっている北前船、だんだん大型化しまして、これが幕末から明治にかけて1千石船と言われるようなスケールに大きく発展していくわけですが、1枚帆の和船が盛んに北海道あるいは大阪の方まで交易していた港町としてこの東岩瀬野町が栄えました。
ここは当時、富山藩ではなくて、加賀藩直轄領であり、加賀藩直轄の港であったわけです。ここを加賀藩が、税金が取れるという事で注目をしていたところであったわけです。しかしながら先ほどお話がありましたように、近代化というのは、鉄道・郵便局、それから小学校、この3つを持って近代化が始まるというわかりやすい話がありますけれども、この鉄道輸送が産業革命のキー、鍵になって世界中に広がっていきますが、わが国でも鉄道輸送が物流の中心になるようになってまいりました。そうしますと、船舶は大量に物を輸送できる点では鉄道よりもメリットが大きいけれども、自然の風を待っているような和船では、富山と北海道の航行は一年間に二回しかできないというような状況でもありましたから、とても物流という点では鉄道にはかなわないと言う側面もあって、自然条件待ちの港湾から、汽船が入ってくる近代港湾に作り変えることと、港があっても鉄道とつながっていなければ意味がありませんから、鉄道建設というのが東岩瀬町の大きな近代化の鍵になる重大事業になったわけです。
明治22年から「市町村自治」が始まったわけですが、≪上新川郡東岩瀬町≫という小さな町にしてみれば、自分たちの力で、この町のこれまでのあり方、バイ船が入ってくる北前船が入ってくるというだけで成り立っていたこの町を、大きく近代的な町に切り替えていくという大変つらい仕事を大いに奮闘して変革していくこと、つまり、町を変えていく仕事に立ち上がらなければならなかった。初代町長が馬場道久でありましたが、馬場家は極めて大きな北前船、バイ船の経営者でありまして、道正弘さん(故人・郷土史家)の話を聞くと、明治40年代前後のことですが、馬場家は多額の納税者で全国第9位に入っているということでありますから、いかに巨額の税を納入したかがわかるわけです。馬場家は大正12年に旧制富山高等学校(その跡地は、今、「馬場記念公園」になっていますが)を作るために、トータルで135万円の寄付をされたという事に現れてくるわけであります。
こういう事情から、なんとしても鉄道を建設する必要が出てくる。先ほど、草さんからもお話がありましたように、神通川が今の松川の所を流れていたわけですが、グーと曲がっているわけですね、そうすると、上流から流れてくる川が、急に右のほうに曲がらなければいけないわけですから、当然その周辺では水がつく、洪水が頻繁に発生していた。これをなんとしても、神通町、愛宕町あたりで食い止めなければいけないという問題があった。それで、まっすぐに神通川を流そうという事から、≪馳越工事≫と言うものが施行されました。今年は完成100年(馳越工事は1901年着工、1903年完成)という事で、大きなシンポジュムが計画されていますけれども、馳越の川幅は、米田さんに聞くとわずか2間ほどのものを掘って、2間ですから4mあるかないか狭いものを掘って、それを放っておき、洪水時に川水が増えると、自然に川を削って大きく広げていくという方法です。これが岩瀬の港に土砂がたまる深刻この上ない原因となるんですね。したがって、土砂がたまったのでは港湾の機能が果たせませんから、土砂を取り除くということが重大な歴史的な使命として岩瀬の町が背負っていったわけです。
もう一つは、土砂を取り除いて、そのあと、どういう港を作るかと言う点で展望をしっかり持っていなければならないので、港湾建設をしようじゃないか、さしあたって3000トンクラスの汽船が入ってくる港にしようじゃないかという目標になったと考えていいと思います。ところが、港を作るときに、石垣を組んだバイ船時代の港であっては近代的ではありません。セメント、コンクリートでしっかり固めて、鉄筋も入れなければならないそういう新しい近代港湾にしなければならない、そのために、工事資材をどうやって運ぶのかと言う問題が浮かび上がってまいります。そうすると、やっぱり鉄道を敷設してコンクリート、鉄筋その他の資材を岩瀬に運び込まなければならないという問題が発生して、この点でも、岩瀬と富山を結ぶ鉄道建設が重大な問題になってきたのです。富岩鉄道は最初、貨物を運ぶ鉄道として、港湾建設用の資材を運ぶ鉄道として建設されたんだということを申し上げておきたいと思います。
2番目に、大正12年3月15日ですが、富山の町の中に加藤組の事務所がありまして、ここで富岩鉄道発起人会が開かれました。資本金は100万円で、発行株式は2万株、1株5円と言う事であります。発起人には加藤金次郎、先ほど紹介をされた方であります。米田元吉郎、ここにおられる米田さんも、今は米田壽吉さんと申されますが、ひょっとして元吉郎を名乗っておられると6代目になられる。この方は4代目であります。鷹取正次郎、三井水忠、池上健二、直江喜平、宮城彦次郎、この中で岩瀬の人は、米田元吉郎さん、それから宮城彦次郎さん、それから次に出てきます犬島宗左衛門は私の祖父にあたりますが、岩瀬の人間です。橋本竹次郎さん、この方も岩瀬です。中村甚松、深井省三、竹中孝逸さんがいらっしゃいますが、主として例えば加藤さんは滑川ですが、鷹取さんなども滑川の人であろうと思います。
社長は加藤金次郎と言うことになり、取締役に米田元吉郎さん、鷹取政次郎さん、三井水忠さん、赤間徳寿さん、監査役、富岩鉄道株式会社の監査役ですが、宮城彦次郎さん、深井省三さん、橋爪竹次郎さんでありまして、私の祖父は工事全体の現場を取り仕切ります。
 富岩鉄道はどこまで延ばす予定だったかと言うと、浜黒崎までとりあえず伸ばそう、そのあとは滑川だということになっていて、浜黒崎の古志の松原を「自然公園をなせる浜黒崎の理想的娯楽設備をなさん」と言うロマンを掲げていたんですが、これは通らなかった。大正12年8月11日、猛烈に暑い日でしたが、先ほど資料に写真が出ていましたが、岩瀬浜駅の建物が作られましたが、ここで「起工式」を行い、「開通式」は大正13年7月23日。レールはアメリカから輸入したカーネギ―の製品を使用、その当時の鉄道省の許認可権の担当官は、後に総理大臣になった佐藤栄作であったというわけであります。
許可申請のために富山から汽車に乗って行きますと、富岩鉄道の担当事務員に「また、富山の餅もって来てくれた。富山の餅はうまいからのう」と、餅を持ってきてくれると佐藤栄作は大喜びであったといいます。富山産の米はうまかったんですね。マ、そういうことも逸話として聞いております。
加藤金次郎は、アメリカにいまして、ミシシッピー川を船で下るときに、「あ!これは高いところにある富山から、岩瀬へ電車を引くときに、こういう方法があるのだな」という事で、ミシシッピー川を船で渡りながら考えたという逸話もあります。富山と岩瀬はかなり高低の差があるために、昭和5年から10年にかけて造られた富岩運河の中ほどの中島閘門が作られているわけです。で、かなり高低さがある。
それから次に資料3ですが、昭和3年に「飛越線」、これはいまの「高山線」ですが、これがどこに入るのかが問題だったわけで、それが富山駅の1番ホームに入ることが決まりまして、富岩鉄道も6番ホームにつなげばいいではないか、と6番ホームに入れました。東岩瀬町の政治的展望としては、高山線・飛越線を通って名古屋へ、名古屋から太平洋を越えましてサンフランシスコへ、日本海側では朝鮮半島やロシアとの貿易を念頭において、「日本海時代」を構想したということがあるということです。
それで、私の祖父が作りました住居案内の葉書が残っていまして、このはがきを見ていますと、今の岩瀬浜の灯台のところ、少し拡大したのが下の図ですが、これもコピーがうまく出ていませんけれども、富岩鉄道が出来ましたときに、岩瀬駅は灯台の近くの方にあって今のところと違うわけですが、今の岩瀬浜駅からぐるりと灯台の方に向かって西の方に行きます。その灯台の方に岩瀬浜駅があったのですが、その線路がもう一度運河を渡って、岩瀬の町をぐるりと取り巻く環状線の構想があったわけです。この構想は岩瀬浜駅までは線路が作られたけれども、再び運河を渡って環状線を形成するところまでいかないで、動き始めてしまったということが、私が知っている歴史の事実です。
次に、資料4にはいりますが、東岩瀬町は小さい自治体ですが、自分たちが奮闘してこの町を作り上げる努力を続ける以外に、町が新しい時代に生き残っていく方法はなかったわけです。大きい自治体であれば、誰かがやってくれるだろうと「他人頼み」ということもできるかもしれませんけれども、こんな小さな町ですから、自分たちで奮起する以外なかった。
東岩瀬町を襲った最大の悲劇として、先ほど言いました神通川馳越工事の被害と言うのがあるわけですが、この土砂で埋まった港をどうやって近代港湾に作りかえるかと言う問題に直面するなかから、「水のあるところ必ず文明あり」とか「帆檎林立盛大之岩瀬」というスローガンを掲げたのです。かって、バイ船が出入りしていた時代には「帆や帆柱林立して、実に盛大であった岩瀬であった」と、こういうことを思い出しながら、岩瀬の人たちは近代にふさわしい港湾を作ろうということで奮起していったんだ、というのが私の考え方です。
4番目の項目の、最後の4行ですが、こうして近代港湾が出来てきますけれども、工場誘致をしなければならないということになります、工場誘致は一番最初に岩瀬の町が誘致したのは、いまの「昭和電工」、戦前は「日満アルミ」といいましたが、これを誘致するのに全力を挙げたのです。水力電力が非常に豊富でしたから、その電力を、こうやって岩瀬の港、富山港まで引っ張ってきて、港に入ってくる原材料を使って、工場をどんどん作っていこうという事でこの町が大きくなってまいります。このことは「港湾を持たない都市は近代的な都市とはいえない」という考え方が戦前には非常に強かった、そういう時代の要請に応えるものであったわけであります。ところで、昭和15年に富山市と東岩瀬の町が当時の軍部の強圧によって、強制的に合併させられたわけでありますけれども、それは何のためかといいますと、旧富山市というのは、岩瀬と同じ行政区にならないと、単独では内陸の町ですから「売薬」しかない町だと言うことにとどまる。他方、岩瀬は大きな港湾を持ち、近代的工場を持つ町になってくる可能性がある。しかし、その岩瀬は、旧富山市と協力しないで港湾として発展できるかといえば、協力しない限り非常に不便なことが多くなるということもあって、岩瀬と富山の合併と言うのは、避けて通られない歴史的な必然であったともいえるわけです。そして、工場がどんどん増えて運河の周りにも工場が出来てくると言う状態になってきます。 昭和電工の場合には飛行機に使うアルミニュームの生産をやりました。不二越なんかも軍需工場として大きく成長していきます。そういうことから、昭和20年の7月から8月にかけて原子爆弾の模擬爆弾がアメリカ軍によって投下される事態が起きまして、日満アルミの付近だとか、今の岩瀬スポーツ公園の付近だとかに模擬爆弾が落とされた。8月2日未明には、富山市の大空襲が行われた。このときの富山県の工業製造出荷額の位置をご注意ください。富山県は20年6月の時点で内務省の調査によると、全国の工業製造出荷額中、第6位という位置にいた。47の都道府県中第6位であったというわけですから、富山県の工業力は非常に大きいものがあります。第1位はいうまでものなく東京、川崎、横浜を結ぶ京浜工業地帯ですね、第2位は大阪、神戸方面を結ぶ阪神工業地帯、第3位は中京工業地帯、名古屋方面の。そして4番目に来るのは、北九州工業地帯ですね、次に来る重化学工業型の工業地帯は、実は富山か新潟なんです。一気に港湾を近代化し、鉄道を結び、電力によって重化学工業地帯として大きく発展した。こういう目覚ましい変化があったというのが、富山港の一つの歴史的な事実であります。
富山港線は、輝かしい産業時代のものです。これを21世紀につながっていく方向をしっかりと模索しなければなりません。
私どもは北前船、バイ船の研究会もやっていますけれども、日本海側の、北前船の跡をたどって見ますと、例えば、青森県の深浦などは小さな漁村であります。あるいは福井県の三国も、大きな町とは決していえない状態。したがって、かつて北前船で発展したところは、その後、すべて近代港湾となって工業地帯としても発展した、とはいえないのではないか。むしろ、伏木とか岩瀬は例外的に、北前船の蓄積した資本力で鉄道を作り、高等学校を作り、あるいは港湾を作るという努力を続けながら、このような日本海側で最大の工業地帯までに発展していったんだということを、私は皆さんに強調してお話しておきたいと思います。
資料6ページの下の写真は、大正12年富岩鉄道工事派出所の看板の前で関わった人たちの写真なんですが、前列の向かって左側の帽子をかぶって座っているのが私の祖父で、その隣にやせた体できっちりしているのが加藤金次郎です。
最後に、富山港線をどうするかという問題ですが、富山市当局が出したLRT化という構想は正しいと思います。問題は、住民の意見をどのように踏まえていいものにしていくかという一事に尽きると私は思います。
今年2月にウイーンに行きましたら、ウイーンは市電がたくさん走っているところで、本当にめまぐるしいくらいに市電が走っていますけれども、スーッと路面すれすれに入ってくるLRTもあれば、音を立ててくるのもあります。まだ過渡期ではありますが、ポルシェが開発したLRTが走っているのです。
それから、ベルギーのブルッセルに、いまから3年ほど前に行きましたときに、私の前を歩いている青年が手をあげたわけです。タクシーでも止めるのかなと思っていたら、何のことはない、走ってきた路面電車が止まる。日本とは随分な違いを痛切に感じたわけであります。
私が一つ提案したいのは、富山港の発展と言うことを考えると、例えば私の祖父の絵葉書にありましたように、運河を2度わたる環状線が実現出来ないだろうか。そのことによって、岩瀬の町が北前船、バイ船を中心に栄えた時代の歴史というものを中心としたいい町になるのではないかと思います。そして、また富山県が立てています運河の活用計画では、富山駅北の環水公園から水上バスに乗って、その船が岩瀬の琴平神社の所で乗り降りできるようになっているわけですね。これが実現したときには、富岩運河の水路の活用と合わせて、電車が連結できるのではないかと私は思っています。そのことによって、富山港の岩瀬町と旧富山市が、ひとつの新しい時代を迎える。そしてまた、いまロシア人や外国人がたくさん入ってくる町になっていまが、乗組員同士が暴力沙汰を起こしたりして、取締りが大変だという話も聞きますけれども、これは避けられないことで、さまざまな外国人と一緒に住んでいく時代に入っていきます。工場などに必要な原材料などを港に積んでおくのだが、いまこの富山港は手狭であるからさらに外港を作りたいといいます。こういう何度もくり返されてきた陳腐な見解ではだめです。富山港を、鉄道の新たな復活と町づくりにも関わらせて、これからどうしていくかという点の充分な検討がないまま、「外港」「外港」と言うのはいかがなものかと思います。歴史に学べば、もっと展望が開けるのではないかと私は思っています。
そして、富山港線はLRT化して、永楽町のところから右折してオーバードホールに向かっていくコースだけではなく、富山口あたりからまっすぐ伸びて、富山市の中教院前あたりまでもっていくコースも考えたらどうだろうか、と私は思います。そうなると、富山の町の商店街の入り込み具合もよくなるように思うんですね。
富山市の中心部の個性化と、岩瀬の港町の個性化を対照化することによって、相互に発展していくのではないか、富山市がいい方向に行くのではないかと私は考えるわけであります。
以上です。
 
司会 大西光男
どうもありがとうございました。歴史は聞けば聞くほど昔の人は夢を持って富山港線を作ったのがわかると思います。
先ほど、犬島さんからお話がありました、米田さん、この方のお爺さんが富山港線を作るためにご尽力をいただいた方であります。米田さんは富山銀行の会長さんでもありますし、岩瀬町の元自治振興会長でもあります、米田さんからお話をしていただきたいと思います。よろしくお願いします。
 
米田壽吉(元岩瀬自治振興会長・富山銀行会長)
 今ご紹介をいただきました米田でございます。
 私がお話したいと思うことは二人の弁士がほとんど細かくお話されましたので、ちょっと思いついた事ですけども、この非常に富岩鉄道を、夢を持って作った加藤金次郎さんのことを、ご存知の方はもうほとんどおられなくなってしまったのではないかと思いますので、せめて、私、覚えております、加藤さんのことを少しお話をして、加藤金次郎さんの人となりの一部分をお話したいと思います。
今、急に思い立ったことなもんですから、加藤さんの細かい履歴も何も資料としてはございません。頭の中だけで思い出します簡単なことだけをお話するこでお許し願いたいと思います。
加藤さんは非常に大きな事業をされたわけですが、出発は土木作業員、多分小学校を出られたあと土木作業員として滑川で働いておられた。それがあれよあれよと言う間に、自分が土木会社の社長になって、そして「加藤組」という組を作って、あちらこちらの土木事業を手がけられました。加藤さんの生まれました滑川は、海岸、とくに高月のあたりは波の非常に激しいところです。絶えず、高月の海岸は浸食されて海岸沿いの家は波をかぶったりしていたところですが、あそこに今でも、加藤さんが会社発足当初に作った防波堤がそのまま今も残っています。多分、6,70年経っているんではないかと思いますが、しかも今まだちゃんと高月の町を守っている防波堤で、そして健全なわけですから非常に驚くべき事業をしておられたと思います。小学校を出てすぐに、こうして土木事業をしておられたわけですが、亡くなるまでの間に、土木作業、工事関係の技術的な特許を10数件持っておられるそうです。専門的な事でよく解りませんが、土木作業の非常に肝心なところのこれらすべては、自分の腕で考え考案したという特許です。技術者でもない人が特許をとっておられたという事です。
この富岩電車を作られた頃は、相当に加藤さんの事業も大きくなっていまして、今、お二人の方が事細かに鉄道についてお話されましたが、その前後でしょうか、富岩鉄道だけに関わっていたわけでありませんで、今もあります、庄川の上流の「小牧ダム」、あそこに東洋一の大きなダムを作って、発電所を作って、これが電源開発という事で、戦争中に買収されましたけれども、それまでは、ダムも発電所も加藤さんの個人のものであったわけです。自分個人の会社の所有物であったわけです。それが戦争中に国の命令で買い上げられ、非常に安い値段で買い上げられた。それで、加藤さんは国に対して、庄川上流の発電所やダムなどを全て返還をしてくれという訴訟を起こしました。訴訟の相手は「関西電力」です。終戦直後でしたから、私が昭和24,5年だったと思いますが、当時裁判所に行きましたら、弁護士が非常に困っておられまして、君も富山の人間だが、富山県には馬鹿な人間がおる、俺もあきれてしもうた、と、20億の損害賠償を関西電力に起こした、裁判を起こすほうは訴状1本でいいけれども、それを受ける側はそれを控訴するためには、裁判に立ち向かうためには、訴状に対する印税が当時何百万といいましたね、印紙だけでそれだけかかる、しかも、国の話だから、国に勝てるはずもないのに20億の損害賠償を起こす、当時訴状を起こしてから時間が経っていませんでしたから、4億で同だという妥協・和解案を「関西電力」が非公式に、裏で交渉したそうですけれども、20億円くれと言っておるのに、4億円でごまかすとはけしからん、とはねつけたようです。まァそういう方でした。
それから事業としましては富山県内で加藤さんがおこなった事業はたくさんあります。庄川の周りですとか、黒部川の奥のほう、数えますと細かいものもたくさんありますが、加藤組の仕事、一番大きいのは日本ではなくて「朝鮮」です。「北朝鮮」で非常に大きい干拓事業、灌漑排水事業です。場所ははっきり覚えていませんが、遠浅の海を埋め立てて、そして塩が入ってこないようにせき止めて、田んぼを作った。その田んぼの広さは30万坪ですか、その単位は正確に思い出せませんが、非常に大きい田んぼを作ったわけですね。そして、その話は家で、私のおじいさんに加藤さんが話をしておられた時に、私は、「海を埋め立てて造った土地には、塩水が入ってだめでしょう、田んぼにはならんでしょう」と言いましたら、「お!子供だけど、よう聞いてくれた、すぐにはならない。何年間経つうちに雨の水でだんだん流されていって、これがちゃんと塩の害がなくなって、田んぼになるがだぞ」といっておられました。事実なったそうです。私のところで話をされたときは、まだ建設中で、朝鮮に対して申請書が受諾されたという話で来ておられたようですが、後で心配で聞いてみると、「米がちゃんと取れているぞ」と言われたという話を、私は聞いております。
非常に大きい事業をしておられたわけですが、終戦の時に、もちろん朝鮮から日本に引き上げられました。当時の政府は、外地にあった日本人の資産、置いてくる資産を詳細に書いて出してくれと、加藤さんの場合にも朝鮮に残してくる自分の資産を全部書いてくれと、将来、賠償とかいろんな、国際的な問題になったときなどのために、書いてくれといわれたそうです。しかし、加藤さんは、「これはもともと朝鮮の地面で、仕事はほとんど朝鮮人に仕事させたんだ、私の作った農地は朝鮮へ返してくればいいんだ」と言われた。それから港の近くに工場も持っておったそうですが、その工場ももちろん、一銭の申告もしないで放棄された人だそうです。男の子息が二人おられて、二人とも秀才でした。一番悲しいことには、秀才の息子さん二人との間が非常に悪くなっておりまして、最後は、終戦後ですか、神奈川県の精神病院に入れられておって、またそこから、自分の力で逃げてこられたということです。まァ、最後は不幸な方でして、関西電力との訴訟はついに引きづったままで、昭和36年ですか37年でしたか、私がお会いしてから、一週間後に富山市内で交通事故でおなくなりになられた。いろんなことを言う人がありまして、当時は今みたいにやたらに車が通うるわけではありません。そして、加藤さんが自動車にひき逃げされてなくなった場所というのは、自動車のあまり通うるような道ではなかったという事で、いろいろ疑いをかける人もおられましたけれども。まことに華やかであり、また非常に豪快でありました。
こういう方が、一生懸命作ってくれた富岩鉄道でありますので、どうか、これを残していただいて、どんな形でも生き残るためにはいろんなかたち、犬島さんが言いましたいろんな形がありましょうし、何とか生き残って、皆さんの力で行き残していただきたいと思っています。
 
司会 大西光男
どうもありがとうございました。ここまで地元のみなさんに歴史的なことも含めてお話をしていただきました。
続きまして、高岡短期大学教授の武山良三先生から、みなさんのお手元にあります、「地域交通の新体系」と言う資料がありますが、それを中心にしながら、富山港線をどう守り、生かしていくのかというお話を、提言も含めてお話をしていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。
 
武山良三代表世話人(高岡短期大学教授)
みなさん、こんにちは。タイトルにもありますけれども「地域交通の新体系」と言う事で、3名の方から富山港線の歴史を聞いたのですけれども、これからどうしていったらいいのだろうという、その参考になればということをご紹介してみたいと思います。
3月にフランスに行ってきたのですが、その資料をおもにお話したいと思います。
1964年というのが書いてありますが、みなさん何か思い出があるのではないですか。聞いてみますか。64年の思い出。(会場から  東京オリンピックという声)、私が小学校2年生8歳だったんですね。東京オリンピック、テレビを見ていたという記憶がありますけれども、東京オリンピックの開催、これに呼応しまして、東海道新幹線が開業し、そして名神高速道路が開通した、64年というのが日本が行け行けという右肩上がり時代のときで、高速輸送時代、新幹線とそれから高速道路ができたということです。「ひかり号」ですが夢の超特急といわれたわけですが、その時は世界をリードしていたということです。
1964年新幹線、フランスの高速鉄道TVGが1981年,かなり後になってから出来た、それから、ドイツの方でICEという鉄道がありますけれどもこれが1991年です。いかに日本の「ひかり号」が時代の先を取って、世界的に評価される輸送網であったかはこれからわかるわけですね。いまだに、ひかり号は3分おきに出ているのですね、3分置きに200キロ以上の電車が走って、なおかつ、全く事故がおきない、これは驚異的なことではないかと思います。こんな形で、都市間交通というのは日本は世界に誇るべき技術を持っていますが、一方で、都市内の交通、特に地方都市の交通は壊滅状態になっている、これはひかり号と比べるとお粗末極まりないという状況にある。
一方ヨーロッパの方では着々といろいろな取り組みがおこなわれている、先ほどから名前が出ていますLRTシステムという、低い電車、しかも高速で走って乗り心地の良い車両がどんどん入っていますし、無札乗車・共通券と書いてありますが、要するに切符の持っていない、改札口を通らない、あるいは共通券でバスも電車も自由に乗れるというシステム。それからパークアンドライド、車を止めて電車に乗り換えるような施設が完備されていたり、トランジトモール、これは中心市街地、商店街で公共交通を優先して、そこで自由に買い物しながら、疲れたらお茶を飲むなど自由に市街地で散策できる。
それからTDMというのは、例えば交通渋滞が起きると、そしたら、道路を広げたらいいんじゃないのというのではなくて、もっと、道路が渋滞するというのはもっと公共交通を使えばいいのではないか、あるいは公共交通の沿線に人々が利用できるような施設を作っていけばいいのではないか、要するに道路が渋滞するから道路を広くするというのではなくてもっと大きな視点から交通政策を考える、こういうことがヨーロッパのほうでは広く普及してきています。それから、高齢者、福祉対策などなど。
 かつてはモータリーゼションという事でどんどん車に行きました。ヨーロッパの町でも、一度は車社会が到来して、公共交通の衰退、その中で二つの傾向がありました。バス派VSトラム派とありますけども、車が増えてきたので公共交通を縮小しようという中で、その主体をバスで行おうといった国がフランスやイギリスの国です。主体を路面電車でおこなおうといったのがドイツ、オランダ、スイスですね。ドイツとかオランダでは路面電車を守り続けて、非常に良いシステムを作ったのですけれども、バス派についたフランスはここ10年ぐらいですが、急に変身しまして、ドイツ人もビックリするぐらいの成果を上げている、ということなんですね。で、これからどういう成果を上げたのかご紹介をしたいと思います。
フランスの路面電車の歴史というのが出ています。1930年代ですけれども、フランスでは全国で70路線、3400`の路面電車が走っていたわけです。ところがそれから急速に衰退していく、そういう経路をたどりまして、37年にはパリで路面電車が廃止になりました。それから1966年3都市までになりました。激減しました。日本よりもはげしく衰退してしまったということです。そうこうしているうちに、車を持たない人は都市内で生活できない、ものすごく困った状況になってしまって、ま、行くところまで行ってしまったわけですね。
これではだめだ、何とかしなければということで、法律ができた。たとえ車の運転ができなくても自由に町を歩いて買い物とか文化を楽しむことができると、そのことは人権なんだという事で、フランスの国内法が制定されました。これが1982年です。この法律に基づきまして、もっともっと人々が自由に動き回れるような都市をつくろうということで、動きが始まりました。最初に動いたのがナントという町で、1985年、ここで路面電車が新たに設置されて復活した。これがものすごく大成功をした。その後、各地で復活が始まるのですが、一度廃線にしてしまったパリでも92年に復活、さらに94年にストラスプールでも、小さな町ですけれどもここでも導入されまして、これが大大成功、要するに路面電車をつくったことによって町が活性化するし、自分たちの生活が楽しくなるという形に成功し、今では全世界からこの町に見学に訪れるという状況になっています。
フランスでは現在、2003年の状況ですが、12都市で復活しています。さらにこの2,3年は、全国30都市ぐらいまで整備されるのではというぐらいまでに、ものすごいいきおいでフランスでは復活してきています。
先ず、ナントと言う町ですけれども、このように非常に綺麗な車両ですね。どうしても古い車両が回ってくることもありますけれども、考えてみたら失礼な話ですね。やっぱり、私たちは新しい車両に乗りたいですよね。
このバスを見てください、綺麗なこと。これだったらグーですよね。これが中心部ですが、路面電車とバスが同じ停留所で乗り降りができる、非常に便利です。さらには乗車券も一緒に使えますし、運行時間さらにはダイヤ、同じ時間に運行される、こんな便利なことはないですね。こういうサービスがこれからどんどん必要になってくるであろうと思われます。どんどん広げてくるわけですね、後ほど出てきますが輸送力というのを考えると、路面電車の輸送力というのはなかなか捨てがたいものがあるわけです。路面電車で車イスの方も自由に町の中で活動ができるという状況になってくる、車イスの方が乗車する、そういう光景をよく見ました。それから当然、公園内とか商店街のカフェーでお茶、こういうのが富山でも、立山もあり、自然もいっぱいあるんだからそういった街角で、ちょっとお茶をいっぱい飲みたいですよね。そのためには人が出てきてくれなくてはどうしようもない。
これも、先ほどトランジェットモールと言いましたけれども、中心市街地で路面電車優先、人優先の空間を作ろうということですけれども、ごらんになったら解るように電車の前を歩行者は歩くは、自転車は通るは、むちゃくちゃ行ったり来たりですよ。日本ではこれは危ない、歩行者の安全を守ることが最優先される。しかし、路面電車は通過するときだけ注意すれば言い訳で、逆に安全ですよね。そのときだけ注意すればいい。
 ナントでの特徴は、路面電車を整備するだけでなく、町全体を整備したんですね。見事に綺麗な町になっています。ごらん下さい、この公園。この公園のすぐ左手が路面電車の停留場です。これがバス停。綺麗ですね。これが広告塔ですが、裏側がトイレですね、実はポスターの広告収入でこのトイレが維持・管理しているんですね。こういうシステムをフランスでは大事にしています。路線図や時刻表も非常にわかりやすい。これが共通チケットで、一日券が30フランで、400円位でどこまで行っても一日乗り放題。
これがナントの町ですが、今3路線走っています。こんな感じで走っていますが、グリーンのラインがありますね、これが曲がって進んでいますが、これが旧国鉄の支線なんですね。赤線とブルー線が非常に成績がよいと、これをもっと拡充したいなと、新たにつくるとなれば大変ですから、旧国鉄の線路を利用して走らせる、こういうことをすることによって安く新しい路面電車をつくっていきます。
次はパリですが、全て廃線になったのですが、今2路線が走っています。通常の道路上を走る路面電車と廃線になった国鉄の線路を利用して運行している路面電車があります。うまく資産を活用していこうということです。古い線路が新しい車両が走ることによって見違えるように生き返る。ここでも同じように路面電車とバスが同じ停留所で乗り換えることが出来るようになっています。電停ですが非常に綺麗なデザインで、居心地よいデザインでされています。次に車両のドアですが、ガバーと開いていますね。これだと車イスの方が自由に乗り降りできますし、一度に2〜3人が乗り降りできるわけですね、一度に2〜3人が乗り降りできるということは乗降時間を短くすることが出来る、ですから、路面電車が止まったときにつり銭を払ったり等ということがありませんので、短縮されるわけです。
パリでも同じように共通券が利用されています。
ストラスプールというところですが、放射状に続いている、すごいですね、日本では難しいのですが、何で徹底して新しい車両を走らせることが出来るのでしょうね。さらに中心街で路線が十字に交差している。日本では危ないという事で許可されないと思いますが、ここでは線路が交差している。また非常に段差が少ないのですが、さらに段差を少なくするように設備をつくり、車椅子で自由に乗り降りできるように、町の中でいろんな人々が共存できるような町、こういうのがいいですね。
町にどんどん人が運ばれるということは、メーンストリートだけではなくて、路地裏まで人が流れ込んできます。人が流れることによってどういうところがいいかといいますと、非常に個性的な店が作られるようになるわけですね。楽しくて美しい店が生まれてきます。
 これが郊外のパークアンドライド設備です。よくご覧下さい、柱が斜めになっていますが、もっとビックリするのが、照明等が全部斜めになっている。このように路面電車を整備するときに町の文化まで創ってしまおうという考え方をしています。
 夜になりますと路面電車の停留所にライトがつきます。安全を確保する工夫がされています。さらに線路の横に芝が植えてあります。芝生を管理するのが大変ですが、ところがこういう管理をしてでも芝生があったほうが言いと市民が思うことによって、芝生の軌道が実現しているということです。これが市の中心部を走る路面電車ですが、古い教会がありますが、そこに新しい路面電車が走る、そのコントラストが個性的になっている。個性を演出しましすし、古いもの再活用する、そういう点からも路面電車は大きな役割を果たしているといえます。
何で、ストラスプールが何で富山と一緒で、かっては車主体で路面電車を走らせようという頭はなかったのですね。なぜ、それが出来たのかということですが、先ず、要因としては、モータリーゼションの影響が日本よりもはるかに深刻でした。それに対して、まず、政治が動き出します。政治家が路面電車を引くこと、これを公約にして選挙を闘い、それが実現する、それを市民が後押しをする動きが生まれてくる。市民が後押しするということは、日本ではあまりなれていないですよね。ここでは市民がきっちり学習をして、議論をして、その後に決めていくという動きがあります。それからそれを受けて基本計画。これが重要でありまして、都市計画、公共交通と縦割りの内容がありますが、ストラスプールでは完全な組織が作られまして、横断的な行政組織、そこから一元的に仕様書が出されます。その仕様書に基づいて工事とかが発注されてものすごく早く、計画してから3年で路面電車が走るということが実現しています。
ではなぜ路面電車を選択したかといいますと、ここも重要なポイントですから話をしておきますが、いろいろ理由はあげられていますね、乗り心地がよいとか、線路が見えて安全・安心であるとか、環境にやさしいだとか、優れた経済性だとか言われていますが、やっぱり最終的には輸送力と考えています。
コミニティバスですが、バスは人はたくさん乗れませんが小回りが聞いて結構頻繁に走る、そういう利点がありますね、その次が路面バスがあり路面電車があり、鉄道があり、新幹線があると。だんだん容量が増え、高速化するわけです。要するに新幹線をうまく活用するためにはいろいろ集めてくるシステム、これが不可欠なわけです。で、富山の現状で言いますとコミニティバスはあります、路線バスはどんどん衰退している、1時間に一本ぐらいしかない、鉄道の方は探すのが大変、新幹線が通うると北陸本線はるかどうなるかわからないという状況も考えられ、そぅすると、せっかく新幹線が着たのに、新幹線に結びつける交通網が全然ないということになる。まだ富山の方は駅には車で行ったらいいと言うかもしれませんが、来てもらった人のサービスがぜんぜん改善されない、行くことは行くが、来てもらうことが出来ない交通環境、これが大問題なんですね。
あと一つですが、今までは路面電車とバス、あんまりはっきりと区別できなかった、というか、路面電車は軌道がありますが、輸送量はあんまり変わらないんですね。ところが今見ていただいたLRTが走りますと、バスよりもはるかにたくさんの人を一度に運ぶことが出来ます。要するに今までは路面電車などは路線バスと競合するみたいに考えられていたが、ところがこれがLRT化という状況になったときに地域の公共交通を再生する、としないの公共交通を再生するという点では、むしろ、JRの本線、あるいはJRの支線、こういったものを復元しつつ、鉄軌道の存在を考え直していかなければならない。いづれにしても、新幹線に至る交通のネットワークを作っていかなければならないというわけです。
新幹線開業時の富山のことを考えましょう、新幹線が開通すればよくなるよというのが幻想ですね、みなさんよくお分かりのことと思います。現状では、流失が加速するだけであります。そうですね、東京へ買い物に行く、富山には買い物にこなくなる、そういう中で富山の魅力とはなんなのということをもう一回考えなければならない。ばらばらになっている街づくりを何とか本腰を入れて考える、こういったものをしなければいけないのですね。
これからの産業という事で上げたのですが、景気が変わってお金が落ちなければいけないんですね、いろいろ感性に訴えるような産業というはこれからの重要な形態になると思います。具体的にフランスの例を見てみますと、フランスの外国人観光客数(2001年)7650万人、日本に来た外国人観光客211万人、少ないですね、フランスの10分の1にもならない。フランスの旅行国際収支黒字です。141億ユーロ、1兆9千億円。要するに観光、観光と馬鹿に出来ない、というのがここにあるわけですね。さらに、観光というのは日本では悪いイメージがあるのですが、要するにお客さまに来てもらう、自分の地域に来てもらってお話をするということなんですね、お話をするということは自分たちの町を綺麗にしたり、自分たちの地域の魅力を考えたりする、そういった形でとらえていただいて、進めていかなければならないと思います。
で、富山の地域資産の運用と書いていますが、人と町が最大の資本なんですよと、眠っている資源をいかに活用するか、そして富山港線の路面電車化というものをそのことを考える一つのチャンス、機会だととらえていただくと一番解りやすいのではないかと思うわけです。新幹線開業、もう10年後ぐらいと言われていますけれども、そのときに岩瀬の町はどうなっているのか、その次にどういう交通網があればいいのかということをみなさんでもう一度考えていただければいいのではないかと思います。
ここで「会」のほうからいくつかの提案があります。渡辺さんから報告をしていただきます。
 
渡辺眞一世話人
渡辺といいます。世話人です。
皆さんの資料の表紙をめくっていただいて2ページ目、そこに私たちの会の「提案」があります。時間もありませんので、読み上げていきます。富山港線の路面電車化に向けての提案、(案)、2003年7月版。いろいろ議論があったのですが、この(案)というのを消さないでほしい、いろんな方からいろんな意見をきいて行けばいいのではないか、その上で7月版となっていますが、8月版、9月版もあっていいのではないか、いろんな意見を結集していくことが大事なことだろうという事で、そのようにしました。
JR富山港線を路面電車にする構想が動き始めました。これは、海の町岩瀬と立山をつなぐ新型路面電車(LRT)の導入へ新たな扉を開くものといえます。私たちは、この路面電車化が、将来に渡って暮らしの中に息づくことを願い、いま、何をする必要があるのかを提案します。1、自動車優先の街づくりから、人と環境にやさしい街づくりへ。
 自動車交通に過度に依存した社会は大きな曲がり角を迎えています。一方、2013年に向けて北陸新幹線の建設工事が進んでいます。そんななかで、富山港線と市電を結ぶ富山市を縦断する路面電車が展望されているのです。私たちは、この路面電車化が市内の公共交通体系の柱となり、暮らしを支える足、人と環境にやさしい街づくりの役割をしっかりになうことを期待します。公共交通をよくする富山の会は昨年アンケートを取り組んだんですが、車がどんどん走るようになって便利になったと答えた人が、みなさんどれだけの人がいると思いますか。わずか10人に一人だったんですね。これではだめだなあ〜と思いながら乗っている、これが私たちの調査の結果でした。
 2番目、具体的な提案です。市民の総意が生かされるJR富山港線の路面電車化へ。
いま、市民との合意をつくり上げることが大切です。このことは、暮らしによりそった魅力ある路面電車とまちづくりに、また、厳しさが予想される経営にも大きく影響します。
富山市が提案した路面電車の方向というのは、これが出発だというふうに私たちは考えています。現に、今年いっぱいに基本計画をつくるし、調査活動を行なう事も決めているんだ。そんなところなのです。言われているのは。そこで@「市民アンケート」をおこない、地域ごとに「市民委員会」(仮称)を。富山港線・路面電車のルート、停留所、運行計画などは市民の声が生かされることを望みます。私たちは「市民アンケート」に取り組みます。また、地域ごとに市民の声が基本計画に反映されるよう地域ごとの「市民委員会」(仮称)が設置されることを提案します。
今日受付でお渡ししたと思いますが、このアンケートが皆さんに渡っていると思います。このアンケート、帰りに出していただければありがたいわけですが、地域ごとに自分たちがどんな港線を望んでいるのかなど出し合いながら、地域の私たちは「地域委員会」というふうに名づけましたけれども、そんなものがつくられていくことが大事だろうと思います。
A郊外などにパークアンドライド、市内循環路面電車の復活を。路面電車と自動車の上手な組み合わせがあってこそ暮らしに便利な公共交通機関となります。そのために、適切な地域にパークアンドライドを設置し、交通不便地域に循環バスなどを走らせ、中心市街地にはトランジェットモールを導入し、市内を循環する路面電車の復活を提案します。
BJR富山駅のなかに路面電車の停留所を。JR富山駅のなかに停留所をつくり、市電と早期に接続することを提案します。そうすることで、暮らしに役立ち、乗ってみたくなる路面電車となります。これは、北部地域の歴史、文化を継承し、市中心市街地の賑わいをつくり出す新たな時代の新陳代謝となって活気を呼び起こします。
この会の考え方には、温故知新という言葉がありますね、論語のなかに、「ふるきを学んで新しきを知る」、その考え方にたって、まあ〜新しければいいんじゃないでなく、やっぱりそこに、歴史をきっちり学ぶことによって新しいものがつくられていくものだと、そんな気持ちでこのBがあります。
CJR西日本の参加で路面電車の経営安定を。JR富山港線は、北陸新幹線の並行在来線ではなく、JR西日本の役割は大きなものがあります。路面電車化は、JR富山港線の線路・電路など既存施設の活用はもちろんのこと、JR西日本が路面電車の経営にしっかりと役割を果たす、最良の経営形態が選択されることを提案します。
この間、こうした形で提案も行っていきたいなと考えています。
最後、Dですが、将来のLRT化へ、新型車両の開発と国の補助制度の充実を。
海と山を結ぶ路面電車化のために、低床、低騒音、スピード機能、登坂能力のある新型路面電車(LRT)はいまから準備しなくてはなりません。そのために、安くて高性能の一車両(単車)型LRTの開発や、新たな法律の整備、また、国が路面電車補助制度を充実など国に働きかけます。
LRTを、先ほどありましたけれども、走らせようと思っても、日本ではなかなかできないんですね。路面電車は最高40キロしか出せないんですね。鉄道と市内電車を結ぶことはできないです。そうすれば新たな法律と形態というものを求めていかなければならないし、また、国内でLRT車両をぜひつくって欲しい、そんな遠い先のことも考えておこうではないか、というのがこの「提案」です。
 この「提案」ですが、丸い円のように、駅を中心にコミニティバスが走っているような、そんなことになれば、港線というのがいろんな形で。東富山と蓮町をつなぐとか、和合地区からは蓮町をつなぐとか、いろんなところからの路線があってもいいのではないかと思っています。その下のほうですが、現在の路面電車と1970年代80年ごろに走っていた路面電車がドッキングされて書かれている。先ほどもありましたように、路面電車の復活というのを考えてみたのですね。西町から旅篭町を通って丸の内まで、それから西町から不二越まで、また旧日赤病院前を通って富山駅までの環状線もなくなりました。こうした循環の路面電車を復活させれば、これは新たな暮らしの足と言うのが増してくるのではないか。そんなことを今は思い切って考えてみる、それと富山の駅の下をくぐって岩瀬まで繋ぐそんな路面電車が出来れば、富山市の生活が本当に変わってくる、それは地域に密着した交通網が出来るのではないかと思います。こんな構想を世話人会の中ではいろいろ描いているわけです。
その端はしにパークアンドライドを作っていくと、大学前パークとか、岩瀬の浜とか要所要所にパークアンドライドを作って、そこに車を置いて市電に乗って中心街に入る、それが出来ないものかと、いろんな知恵を今出し合っていく必要があるのではないかと考えています。
 
司会 大西光男
どうもありがとうございました。こちらかのお話はこれくらいにしまして、会場に皆さんから、今までのお話を聞いてでもいいし、また、今までいろんな報道がされています、さらに議会でもいろんな議論がされていますから、これらのことを含めて皆さんのなかにいろんな意見があろうかと思います。会場からの意見をいただきたいと思います。
 
・会場発言
今日、この集いにカナル会館から参加しましたけれども、マスコミなど富山港線の路面電車化が最近取りざたされていますけれども、やっぱり路面電車は環境にもやさしい乗り物ですし、悪い考えではないと思うのですけれども、ただ、市の構想のルートですと、奥田中学校の踏切から綾田北代線を通って、KNBの前で左折して富山駅に至るというルートが公表されましたけれども、あの道路は自動車の交通量の多さということを考えると、いかがなものかなというふうに考えます。
それも一つの考え方かと思いますが、むしろ既存の施設を使って、今、富山港線を走っている車両、475系という交流区間、直流区間両方とも走れる電車ですので、北陸本線とむしろ乗り換えなしで直通列車を走らせたほうが、それも一つのアイデアではないかと思います。
それと、万が一、富山市の構想どおり路面電車化されたとき、経営形態をどうすればいいのか見えておりません。考えるに第三セクター化ですとか、分社化ということになりますと現行の運賃水準が維持できなくなって安易な値上げになったりとか、あるいは、ラッシュ時も含めてワンマン化運転になり、運べる人は475系の電車では300人乗れるのですが、その輸送力が維持できるかということも検証が必要かと思います。
それと、経営形態ですが、やっぱり、JRに責任をもたせて、できればJRの直営、後はそれができなければ富山市に買い取らせるのではなしに、無償譲渡という形をとらせるということが、10数年前の国鉄民営化の時の利用者との約束を果たすということになるのではないかと思います。以上です。
 
司会 大西光男
 ありがとうございました。今のお話にも含めて、後ほど先生方から発言をしていただくということにして、続けて質問をお受けします。
・会場発言
 町内のものですが、富山港線は生活に欠かせない路線です、私は路面電車化、どちらにしてもこの路線は必要であります。それから、岩瀬の町は高齢化がものすごく進んでいます。富山市の中でも1,2を争うほど高齢化していますが、なおさら低床化といいますか、そういうものが必要です。それで、この会に私始めてきたのですが、今までこういう会があって、いろいろ運動もありました。しかし、みなさん方に聞きますと、あなた方は富山港線に乗ったことがありますか、と聞きます。答えはイイエです。私はそれでは絶対だめだ、10年前から比べたらものすごく乗客が減っている。ですから、やっぱり、公共交通をどうするということは、環境からも非常によい、私そういうことが非常に大事ではないかと思います。こういう公共交通をよくする考えの方に路面化をしても、第三セクターになるか解りませんが、そういうことになれば出資の問題などが出てくる、ですから、私はそうしてでも港線の存続は、少しお金を出してでも残すことが必要であると思います。
家の町内でも99%の方が車を持っておられる。それじゃ、富山港線を利用しない、それでは、いくら運動をやってでも、だめだろうと思います。こういうことからはじめなければならないだろうと思います。
 
司会 大西光男
 どうもありがとうございました。今乗ろうという話がございましたが、私どもは昨年、県とお話をしました。そのときに、乗りたいけれども乗りにくくなっている。乗せんまいけということも経営者が考える、乗らんまいけ・乗せんまいけというこの2つがうまくかみ合ってこそ、公共交通が生きてくるのではとお話をしたことがあります。今言われましたが、もっと乗っていくことと、乗れるようなダイヤ、乗れるような制度をつくること、この2つを一緒に進めていけば大きな動きになるのではないかと思っています。
 
・会場発言
私は、富山港線で通勤して生活しているものです。路面電車ということが解らない。今の状況で路面電車を、まわりの環境がどうなるのだろう。今は草がぼうぼう。ゴミだらけ。という状態です。どんなに立派な電車が走っていたって私はそういう環境をきちんと整備していただく、そういうことがもっともっと大事ではないかと思います。毎日、富山港線の音で目を覚まし、毎日毎日その音を聞きながら生活をしているのですが、前は県道、後ろは富山港線。私は2つの顔がある町内だといっているのですが、そういう今でさえ環境が重視されていないわけですね。今の状態で路面電車というのがどういうふうに位置付ければいいのか、全然解らないのですが、お聞かせ願えれば幸いかと思います。
 
・会場発言
今日は朝菜町から電車に乗りまして、電鉄富山でおりまして富山港線に乗ってやってまいりました。時々電車を利用するのですけれども,朝菜町駅から富山駅までは11,12分ですが400円かかります。先ほど先生のお話の中にヨーロッパでは共通券で電車もバスも利用できる、安くて便利な、利用者にとって利用しやすい電車になるなあ〜と改めて実感しました。
それと、この間富山市の6月議会がこの富山港線の路面電車化が大きなひとつの話題だったんですけれども、やっぱり先ほどからもお話が出ておりますが、経営形態をどうするのかというは大きな課題だと思います。
そこで、線路だとか電路だとか車両ですとかあるいは車両の点検をするところだとかいろんな設備をJRからどのように引き継ぐのかは重要な問題ですけれども、先ほど武山先生の報告の中にフランスのナントですかストラスプールですか、国鉄が廃止した線路を活用したという話がありましたが、どのような国鉄から線路を譲りうけたのか、あるいは借りているのか、あるいは経営形態などについて教えていただければと思います。
 
司会 大西光男
はい、解りました。それでは前の方、どうぞ。
 
・会場発言
 私はこの岩瀬に生まれて30年近くすんでおって、現在はとなりの萩浦校下、馬場記念公園がございます、その校下に住んでいるものです。
私は、先生方から歴史のあった町として紹介されましたけれども、この歴史というのはまだまだ続いているのだという認識をもつのが大事だと。私が現在住んでいる萩浦校下というのは、みなさん大広田駅でお降りになられましたけれども、この大広田駅も、昔は岩瀬校下に入っていたんでしょうけれども、現在は萩浦校下として、それからその前の駅、蓮町駅も萩浦校下です。
この蓮町駅は、岩瀬中学校、そして北部高校という一つの学校があるという事で、大変朝及び夕に通学で賑わっております。以前は先ほどもお話がありましたが、貨物重視、貨物としての富岩鉄道と言う歴史がありますけれども、今、私たちの萩浦高校下の問題点は、馬場記念公園の西側にあります、富岩運河でございます。富岩運河はみなさんご存知のように中島閘門まで整備されて、昨年ダイオキシンの問題がいろいろ出まして調査段階になっていますが、この富岩運河がひとつの問題点になっていると。私が言いたいのはこの路面電車化に伴うものが3年後には運行される、言うこと、私たちの地域から見ると富岩運河の問題点についても欠かせない問題も起きてきています。
それと、私たちの地域は先ほどもいいました、馬場記念公園という大きな歴史と自然と文化が豊かな公園があります。私はいろいろの提案がでておりましたけれども、富山の町の方がいかにこの路面電車を利用して、学生だけでなく、北部地域あるいは岩瀬を含めた地域に足を運んでもらえるようないろんな街づくりを私たちの手でいかにつくっていくか、私たちの町の賑わいをいかにつくっていくかということが必要になってきているのではないかと思います。情勢的にはわれわれはとかくこうしてもらいたいという話はでますけれども、先ほど先生がお話されたように私達が富山の町に出て行くことをとかく思いがちですけれども、南の方、西の呉羽の方、等がいかに北部地域に足を運んでいただけるかということ考えていかなければならないなあーと思います。
岩瀬浜の方でパークアンドライドとの話が出ましたけれども、私は馬場記念公園の近くにパークアンドライドを一つの基地にして岩瀬の歴史のあるところを、みなさんここで車で降りていただいて、ここから路面電車に乗っていただいて歴史を文化を堪能していただく、そういう街づくりになるようなしていただければいいなと思います。
いずれにしましても、この路面電車と富岩運河とそして馬場記念公園あるいは県道の拡幅問題と、この3点セットで私たちはこの問題を見ています。
 
司会 大西光男
いろいろご提案していただきましてありがとうございました。
会場からの発言のなかに、経営形態の問題だとかいくつか質問が出ていますが、お答えをしていただければと思います。武山先生いかがですか。
 
武山良三代表世話人(国立高岡短大教授)
先ず、ナントをはじめフランスの各都市では、市の交通局がほとんど線路を見ているというのが実状です。JRに相当するような国鉄をどう位置付けて行くのは確認したんですが、私がフランス語をしゃべれないものですから、確認できていません。実は、来週以降、フランスの実状に詳しい先生のところに話を聞きに行く予定ですので、時間が有れば聞いてみたいと思っています。
ドイツのカーズフレーという町が世界の先人を切っていますけれども、完全に国鉄と路面電車が乗り入れ、相乗りしております。そういう形態が世界的に広まっていくのではないかと思います。
いろんな質問が出たのですが、先ず、乗っていくことが大事ではないかというのですが、おっしゃる通りです。ノーマイカーデーというのも取り組んでいますが、実は高岡の方でも、市役所が13日ノーマイカーデーをやっていたのですがなかなか定着しなかったのが、万葉線が3セクになってから、89.2%ですかね、市役所の方が参加されるようになっています。
そういう意味で、みなさんが意識改革をして、少しづつからやっていくことが大事ではないかと思います。そういう意味では岩瀬でも、車を置いていったほうがいいぞ、というな街づくりだとか、催しだとか、自分たちもそういったほうに車を置いて体験してみる、そしてこういうことがいいんではないかというを身をもって学習していただく必要があるのではないかと思います。
で、いきなり車を止めるということはいまや不可能です。ただ、少しづつでも進めるということで、私は節車という考え方を進めています。節水といって、要するに水を出しっぱなしにはしないぞ、水を出しっぱなしにすることは要するに家の前に車を止めてアイドリングをバーとやっていることと同じなんです。ですから、先ずは、一緒に目的地にいくんんであれば相乗りをしていきましょうとか、一緒に歩いていきましょうとか、ちょこっとだけでも節車をしていく、あるいはノーマイカーデーに協力していく、そういった地道な協力ですけれども、そういったところから進めていただきたいと思います。
路面電車化される一つのメリットは、今日も時刻表を見ていましたら、一時間に1本とかない時間帯もありますけれども、うちの高岡短期大学の学生で、家から通っている子供がいるのですが、先生9時になったらもう大変です。というんですね。先ずは、電停が近い、本数が多い、料金が安いと、この辺が一番利用しやすくなるポイントですが、本数というのがかなり重要です。先ずは、電停が近い、本数が多い、料金が安いと、この辺が一番利用しやすくなるポイントですが、本数というのがかなり重要です。LRTになって高速化するよりも本数の方がはるかに重要です。ですから、そういう意味で路面電車化することによって少しでも本数を増やすことが大きなメリットになるのではないかと思います。
 
草 卓人世話人(富山近代史研究会)
意見のなかに富山市が提案した新しいルートに対して疑問をもっておられる方がいらっしゃいました。私も例えば富岩鉄道が最初に出来たときは富山市内の桜橋から直接岩瀬に行く案が考えられたのですけども、逆に、今は富山駅まで貨車を運ぶ必要がないのですから、永楽町の方から北陸線の線路をくぐって市内の路面電車に接続、あるいは乗り入れ運転などを行なえば、車両でも、新しく購入しなくとも、今の市内電車の車両で運用を図ることが出来、デメリットを改称することが出来ると思います。昭和40年代に笹津線、それから上滝線をどうするかというときに、一部に出ていた議論ですが、笹津線の熊野まで、また上滝線の上堀まで乗り入れる路面電車化の構想もあったわけです。ですから、国鉄線を利用する、例えば大学前の路線を高山線に乗り入れるとか、全国的には茨城の茨城交通というところで水戸の市内電車を国鉄線に乗り入れたという実例もあるわけで、こういうことも考えられるのではないかと思います。
現代の富山港線をそのまま残して、北陸線と同じと頃に乗り入れされるメリットを生かして北陸線に乗り入れるという意見もありまいたが、これも、貨物があった時代は岩瀬カら全国に貨物が運ばれていたわけですから、実際の旅客のニーズを考えて見ることもあってもいいのではないかと思います。
いずれにしても、こうした提案を議論しよりよい形態に持っていっていただいて、よりよい路面電車になればいいのではと思っています。
・会場発言
いろいろお聞きして参考になりましたが、一つは武山先生にご質問をさせていただきたいと思います。
今、私たちの生活ではマイカーで、生活するということに慣れきっています。それで、昭和62年の国鉄の「分割・民営化」の時、富山港線の廃線されるのではという危機感から、富山港線を守る会の運動を進めてきた一人として、国鉄の分割・民営化から富山港線を存続出来た、富山港線を利用する運動にそれからどんどん利用が減ってまいりまして、現在、列車本数は少なくなる、東京から最終に乗って富山についても富山港線の列車がないという状態が続いています。そういう中で、路面電車というのは今後の一つの方法としてあると思いますが、路面電車にしたから利用が増えるわけではないだろうと思います。 
それで、質問といいますのは、例えばフランスの話がされていましたけれども、フランスではマイカーが増え、路面電車が衰退をして、それが復活していく過程の中でストラスプールでは、どうして皆が車を手放して電車を利用するようになっていったのか、それが私たちの考え方、生活の仕方、特に高齢化という中では、車の免許を更新しなければならない時期が必ずきますので、こういった路面電車の活用という問題、日常利用する人以外の方が活用するようにするため、頭の中で考えて利用しなければだめなんだと思っても利用できないんですね。電車を利用するよりもマイカーを利用するので、同じように路面電車を利用するようにするにはどのように考えていかなければならないかという、生活スタイル、ライフスタイルを変えていく運動としていく必要があると思います。それが、こうした路面電車を利用していく運動にもつながっていくのではないかと考えています。
今後の方向の中で、どのようにしていけばいいのか教えていただけたらと思います。
 
武山良三代表世話人(国立高岡短大教授)
一言でお話をするにはあまりにもテーマが大きくて、難しいのですが、一つは、タバコの害の問題で禁煙という事で話をするのがいいですね。私は昔タバコを吸っていたんですね。吸うのに奥さんの前だとか、子供のいるところで吸っているのが悪いとは思わなかったですね。それが今考えてみたら、妊婦の前で吸っていた、こんなやばいことをしていたというように、なるわけですね。いまや喫煙所を探すのが難しい。これは大きな転換だと思いますね。大きな目で見たときに20世紀は車の時代だったけれども、われわれがタバコ害のことなど考えずにどんどん吸ってしまうそういうことと同じなんだと実感しなければいけない。実際に、体調が悪いとか、子供のことだとかいろいろ、あるわけですから、そういうものを実感としてとらえていくと、そういうことが必要だろうと思います。
ドアーズドア―の話が出たのですが、それに対抗して、そういうことをどれだけやっても、ドアーズドア―に勝てないのです。それは車で移動していてはそんなことが生まれない。やっぱり、歩いてそこの空気を吸って始めて出会えるわけですね。そういうことからも、車を降りて少し歩いて行こうかという気になることが必要です。今日も私が歩いたときに横の花が綺麗だナーと思いながら歩いたのですが、そういう出会いがあるのも歩くことから生まれるのではないかと思います。
 
司会 大西光男
どうもありがとうございました。
実は帰りの電車の時間が17時17分です。もう時間がございません。そこで、申し訳ないのですが、皆さんのお手元に「富山港線と路面電車を考える集い」に対する意見、感想というのがあると思います。ぜひ、帰りにお出しいただければと思っています。
さらにアンケート用紙が入っているかと思います。これは今日の会場だけの取り組みというわけではありませんが、先ず、会場のみなさんに書いていただいて、私の町内でも、私の職場でもやっていいという方もあるかと思いますが、出来るだけ多くの方からアンケートをとりたいと思っていますのでご協力をお願いします。
もう一枚入っています。私たちの「公共交通をよくする富山の会」の入会申込書が入っています。もし、今日話を聞いて、会に入って一緒にやって見ようやと言う方がいらっしゃいましたら、入会金が500円でございますのでご協力いただきたいとおもいます。
 先ほどからたくさんのご意見をいただきました。街づくりと富山港線をどう考えるのか、いろんな意見がございます。私達よくする会は7月版の提案を出しましたが、8月版など充実した提案を行なっていきたいと思っています。併せて来年は7月23日は富山港線が出来てから80周年です。その日にもう一回このよくする会でイベントを企画していこうと思っていますので、皆さんのご意見をいただければと思っています。
最後に、会を代表して稲葉さんの方からご挨拶をします。
 
 
閉会の挨拶 稲葉 敏世話人
今日は長い時間大変ご苦労様でした。今日の参加者は120名です。富山港線に対する、期待の大きさといいますか、思いが120名の参加者にあらわれているのではないかと思います。また、マスコミ全ての社が取材に来ていただきました。
いくつかのマスコミ社から質問がありました。今後、「会」としてどんな取り組みをおこなっていくのか、という質問です。それに答えたのですが、渡辺さんから提案をしました、そして、今日、会場から出された意見を踏まえて、いろいろ「会」として検討しながら「提案」を深めていく、そして、必要な点については市や県、JRに対してものを申していく、何よりも将来にわたって永く続く富山港線、路面電車を作るために、この「会」はみなさんと力をあわせて運動を進めていきたい、そんなことを思っています。
来年は80周年です。いろいろの取り組みを計画したいと思いますが、皆さんの意見をぜひ「会」に寄せていただきたい、そしてみなさんと共に運動を取り組みたいと思っていますので、ご協力をよろしくおねがいします。今日は大変ご苦労様でした。
 
 
<追記>
 公共交通をよくする富山の会は9月29日、この「つどい」で出された意見とその後の富山市への再「質問」(8月21日)に対する富山市の「回答」(9月4日)などに基づいて、富山市長に「JR富山港線の路面電車化について−提案」を提出しました。また、この「提案」は、沿線の議員の方や市の「富山港線路面電車検討委員会」の委員の皆さんにもお配りしました。