北越急行・ほくほく線視察リポート
 
                           2005年9月16日 公共交通をよくする富山の会・事務局
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なぜ、いま北越急行の視察か
 7月8日、北越急行鰍フ視察のため新潟県六日町の本社を訪ねた。北越急行鰍ヘ、全国38の第三セクター鉄道会社のなかで最高の黒字をつづけてきた会社である。しかし、私たちが北越急行の視察を思い立ったには、優良第三セクター鉄道だからではない。それとは、別の二つの理由があった。
 一つは、北陸新幹線が開業した場合、優良第三セクター鉄道の北越急行は、どのようになっていくのだろうか。当の北越急行はどのように考えているのか。直接会社から伺い調査したいという思いに駆られたからである。
 もう一つ、これは、今回の視察の直接のきっかけをつくることになったのであるが、昨年10月の月刊誌「運輸と経済」に「首都圏〜北陸間の高速輸送を基軸とする第三セクター鉄道─北越急行の取り組みから」と題して、大熊孝夫北越急行且謦役専務のインタビューが掲載された。そこには、「地域住民の細かいニーズ1つ1つ掘り起こす形で利用者増進に向けた取り組みをすすめる」「毎日1人ずつ利用者が増えれば、一年間で365人の輸送人員の増加につながります。こうした地道な努力こそが絶対に必要である、というのが弊社の基本的な考え」と述べられていた。この一文が、昨年の私たちの総会で注目することとなった。鉄道に夢とロマンを求めつつ、着実な経営をすすめる会社の姿勢を私たちに感じさせたからである。
 並行在来線・北陸本線が第三セクター鉄道となった場合、その鉄道のすすむべき経営姿勢、会社のあり方を北越急行から学びとることで、苦難が予想される第三セクターとなるであろう北陸本線の展望を開くことができるのではないか、と私たちは考えた。
 
愛称「ほくほく線」
 ほくほく線は、犀潟〜六日町間59.5qを走り抜く。直江津〜犀潟間7.1qはJR東日本の信越本線であり、六日町〜越後湯沢間はJR東日本の上越線である。
 「特急はくたか」は、JR西日本の北陸本線、信越線、ほくほく線、JR東日本の上越線を最速160q/hで走行し、一日11往復、上下22本。普通列車は一日20往復、40本を運行している。
 北越急行鰍ナ、いただいたパンフレットには、「建設当初は工事路線名として『北越急行』と呼ばれてきましたが、開業を間近に控えて、正式な路線名を決定する際に沿線住民のアンケートを実施し、上位を占めた『ほくほく線』、『北越ロマン線』の二つから、『温かいイメージで親しみやすく、呼びやすい』ということから『ほくほく線』が正式な路線名となりました」と書かれている。(この後、「ほくほく線」とする)
 
はじめての普通列車「ほくほく線」に乗車
 富山駅10時2分の「はくたか7号」で直江津へ、そして直江津発11時22分の普通列車で六日町へ向かった。直江津で合流するはずだった代表世話人の奥田淳爾先生が来ない。突発事故であったのかと心配したが、先生には11時42分発の電車に乗車する、と誤った時間をお知らせしていた。少し遅れて北越急行本社に到着されたが、本当に申し訳ないことをしてしまった。
 今回の視察団は総勢6人である。それぞれ年に何回も「はくたか」で、ほくほく線を利用する。しかし、ほくほく線の全区間を普通列車に乗車するのは誰もが初体験だ。
 私たちが乗り込んだ列車は、二両連結で二両目は「ほしぞら号」である。ブラックライトによる特殊塗料で塗装された天井のシートが発光する仕掛けで四季の星座を映し出し、話題をよんでいるという。普通列車はワンマン運行で、一両または二両で運行している。ローカル線としての役割と首都圏と北陸を結ぶ高速鉄道という役割を担う「ほくほく線」である。快速列車も運行している。
 直江津を出発したとき、私たち一行以外に約10人の乗客がいた。犀潟では4人が下り、5人が乗り込んできた。各駅とも数人が下車し、数人が乗車するという具合だ。十日町駅では15人ぐらいが乗り込んできた。お昼の時間帯である。沿線住民の暮らしに根付いた鉄道だと感じさせる。普通列車の輸送密度は1,000人/日・q程度であるから他の第三セクター鉄道並みであるといえよう。普通列車の運賃は、「JRの幹線並みに安い運賃にしている」と紹介された。
 
みどり一面の頸城平野
 ほくほく線59.5qのうち、単線のトンネルが40.4qも占めており約70%がトンネルである。「はくたか」に乗っていると高架橋の外壁に囲まれたり、トンネルばかりという印象であるが、やはり普通列車には楽しみがある。
 犀潟を出て私たちの目に飛び込んできたのは鮮やかな緑が一面に広がる頸城平野だ。広大な頸城平野の真ん中の高架橋を高速列車が走る。どこまでも単線の線路が走っている。初めて見る光景に、私たちの間から、ほくほく線がこんな様相をしていたのかと驚きの声が上がる。
 ほくほく線の開業は1997年(平成9年)3月22日、開業から10年も経過していない。鉄橋など諸施設もどれも新しくみえる。しかし、後で紹介するが、北越北線の工事は1968年に始まり、開業と同時に老朽化という高架橋などがあるという。特急はくたか(681系)の営業運転開始は1998年(平成10年)で、営業運転最高速度は160q/hの日本一の単線高速鉄道である。
 
高速鉄道をささえる技術
 日本一の高速鉄道をささえる技術は様々にある。トンネル区間や高架などではスラブ軌道であり、新幹線と同じロングレールで揺れをほとんど感じさせない。直江津〜犀潟間のJR線と比べると格段の差だ。トンネル内は、ほとんど直線のようで、運転席のスピードメターに目を向けると針は110q/hを指している。トンネルを出る当たりからスピードメーターの針は90q/hを指した。
 高速でトンネルを抜ける風圧は大変なもので、トンネル内にある美佐島駅では、列車強風対策としてホームの扉はすべて自動引き戸方式で、二つある扉の開閉が連動しているという。松代駅の停車時に、普通列車が停車した反対側のホームの柵の手前で「はくたか」が通過するのを待った。高速で通過する列車の風圧を肌で感じたかったからである。美佐島駅を視察したかったが時間もなくまたの機会にしたい。ほくほく線の特徴は、踏切が一つもないことも高速化を支えている。
 信号方式も高速列車に対応した「GG信号」である。北越急行の高速化の技術については、日本鉄道建設公団高速化研究会編「三セク新線高速化の軌跡」の「北越急行・ほくほく線」(「交通新聞社」1998年10月初版)に詳しく書かれており興味ある方は参考にされたい。
 
駅舎と「いつもお客を忘れず」の精神
 車窓から駅舎をみていると一つ一つ特徴がある。全部で12駅があるがすべて異なっている。沿線自治体が建てたのである。どの駅も、各町村から2〜3名が出てクリーンアップチームを組織して駅の清掃をしているという。その方達には、ほくほく線内は無料で乗れるようにしている。
 高架のために「ほくほく大島駅」は三階にホームがある。一つ一つの駅を訪ねてみたい思いがするが、それぞれの駅は、ホームページで見ることが出来る。
 有人駅は十日町駅だけであるが、六日町と犀潟駅はJRとの共同使用駅となっているために有人駅である。
 私たちの乗った列車は、松代駅に着いた。ワンマン列車の運転手が、「15分間停車」するとアナウンスした。「はくたか」上下各一本を待つためである。私たちは早速ホームに下りた。女性客の何人かが待合室にあるトイレの前に並んだ。それを横目に見ながら一人の男性客が私たちの横を小走りですり抜けてスロープを駆け下りていく。私たちの目を気にしながらスロープの端で用をたしている。本社を訪ねたときに「列車にトイレを付けない」理由を聞いた。やはり問題は、トイレの二次処理施設でランニングコストがかかるから設置していない。しかし、まだ全ホームにトイレの設置は完了していないが、「すべてのホームにトイレを設置する」計画だ。「列車の発車を遅らせてもホームでトイレを利用していただくようにしたい」「500人の特急が待たされることがあるかもしれないが、それはそれでいい」と大熊取締役専務は言い切った。
 待合室には、NTTドコモと連携し、列車の遅延情報を知らせる電光掲示板があった。さらに、赤外線感知器式の暖房装置がある。この二つの装置を設置した理由は、「駅で寂しく待っているお客のことは忘れませんというアピール」でもあるという。
 また、全駅に投書箱が設置してある。投書は会社へのクレームは少ないという。「むしろお客に喜んでもらえるよう会社がリード役を果たしている」と説明された。お客に対する姿勢は学ばなくてはなるまい。
 普通電車は真新しい。ドアの脇にはドア開閉用の押しボタンが付けられている。雪国ならのことであろうか、冷え込んだ外気をいち早くシャットアウトし、また夏には冷やされた室内の温度を守るためだ。
 
高速鉄道・北越急行発足までの苦難の道
 午後1時半、私たち一行は北越急行本社に入った。早々に別室に通された。大熊孝夫代表取締役専務と深見和之総務課長兼財務課長が、私たちが事前に送っておいた40項目近い質問に、大熊孝夫代表取締役専務からお答え頂き、深見和之総務課長兼財務課長からは丁寧に整理された資料をいただいた。
 大熊代表取締役専務は、元JR東日本車両部担当部長の経歴をもっておられ、会社設立以来の役員である。深見和之氏は新潟県からの出向者と紹介された。
 「単なる収益をあげるだけではなく、夢もロマンも感じられる鉄道でなくては」と切り出した大熊氏。この言葉は、JR福知山線の事故があって間もないからであろうか、鉄道会社経営者の偉器を感じさせる響きがあった。
 工事開始が1968年(昭和43年)、北越急行鰍フ設立は1984年(昭和59年)8月30日で営業運転開始は1997年(平成9年)である。大熊氏は、ほくほく線が開業するまでの歩みを一気に語り始めた。
 ここでは、当日受け取ったパンフレットの「ほくほく線のあらまし」から一部を転載する。「『ほくほく線』は、当初国鉄新線として予定され、昭和43年8月以来工事が進められてきましたが、『国鉄経営再建促進特別措置法』の施行により、昭和55年12月、工事中断を余儀なくされました。しかしながら『ほくほく線』は全国でも有数の豪雪地帯である新潟県魚沼・頸城両地区の生活基盤を確立する上で重要路線であることから、引き続き建設促進を図るため、昭和59年8月、新潟県と関係17市町村及び民間13団体の出資により、第三セクターである北越急行株式会社が設立されました。平成元年1月、国に単線非電化の計画だった『ほくほく線』を電化・高規格化し、時速130qを超える高速列車を運行することが決定され、首都圏と新潟県上越地域や北陸地方の主要都市とを短絡する高速幹線鉄道として活用される事になり、さらに大きな役割を担う鉄道として位置づけられることになりました。『ほくほく線』の建設工事は鍋立トンネルの難工事など多くの困難に直面しましたが、地域振興に懸ける沿線地域の熱い期待に支えられながら、着工以来29年の歳月を経て無事完了し、平成9年3月22日に開業いたしました」。
 ほくほく線建設の歴史的経緯についても、前出の「運輸と経済」04年10月号のインタビューと、「三セク新線高速化の軌跡」(交通新聞社)に詳しく書かれているので参考にされたい。
 
「ほくほく線」は、なぜ高速鉄道となったのか
 昭和60年代整備新幹線建設問題が大きく取り上げるようになった。大熊氏は、「ある意味では国は今よりまじめであった」と述べ、国は、新幹線のフル規格、130q走行ができるミニ新幹線、在来線でも高速走行するスーパー特急方式の三つのメニューを提起した。そして、「ほくほく線の高速化は、在来線でも高速鉄道はできるということを示す国の思惑があったのでは」と語る。
 さらに、昔は、北陸から首都圏へは米原経由が当たり前であったが、JR東日本にしてみれば、スーパー特急を具現化したほくほく線の高速化で大きなメリットがあると踏んだ。平成元年から高速化工事で国が考えていた1000億円投入に加えて、JR東日本が160億円を出し、さらに国が50億円と、北越急行は50億円を増資で賄うことにし新潟県は半分以上の54.84%、沿線自治体が28.43%、民間13団体が16.73%の出資構成になった。
 それにしても、「ある意味では国は今よりまじめであった」かどうかは別にして、在来線活用方式のスーパー特急方式となっておれば、どうなっていただろうか。
 
沿線住民に育てられる鉄道を展望して
 全国第三セクター鉄道の代表幹事も務める大熊氏は、地方ローカル線の現状について「地方鉄道で黒字はどんなにがんばっても幻想」と言い切る。そして、ほくほく線の場合は、「何か仕掛けが必要と考え、黒字になる図式をつくった」。それは、「相互直通運転」である。「各社が応分に負担して初期投資を実施」し、そのうえで「収入も各線区内の運行実績に応じて配分する」のである。
 問題は、北陸新幹線開業後である。経営が大変だからと「もっとサービスを落としても無理だ。十年後に乗れるかどうかは、金目で判断してはダメだ。この町からほくほく線がなくなっては大変だという気分を(住民のなかに)つくりあげていくことだ。もちろんコスト計算はやっている」と。
 イベントに対する考え方も明確である。「イベントをやると、一つやったということになる。これで、ほくほく線の責任を果たしたとなる。イベントは一過性のものであり、マイカーの一人でもいいから乗車するようにしていく。ここを取り違えてイベントをやってもダメ」と。沿線住民に守られ育てられる鉄道をしっかり展望している。「生きる道は、これしかない」と地道な努力が展望を切り開いている。
 もちろんイベントにも大いに取り組んでいて「ほしぞら号」「ゆめぞら号」もあり、雪の季節には虫川大杉へスキー列車も走る。
 普通列車の利用状況をみると通学定期は平成12年度38.6万人が平成16年度に37.8万人、通勤は11.7万人が9.4万人、定期外を含めて83.9万人が94.5万人である。鉄道利用者が軒並み減少しているなかでがんばっている。
 
「ほくほく線」が沿線住民の交流の輪をひろげる
 ほくほく線の沿線は山また山の豪雪地帯である。ほくほく線が開業するまでは山を越えて通学することもほとんどなかったようだ。実際、平成9年度の通学16.1万人、通勤で5.3万人であるから瞬く間に二倍に膨れあがったことになる。これからは少子化で移動のニーズも減少するわけで「動いてもらうことを会社がつくりあげていく」ようにする。ほくほく線主導でのまちづくりを考えている。その役割の一端を情報誌「ほっくほく」が担っている。この情報誌は、ほくほく線沿線地域振興連絡協議会が発行している。 
 同時に「だんだんと熱が冷め、惰性に陥っていく」ことをしっかり戒め、鉄道そのものの利便性を高めることが本筋であるとして、直江津6時発の快速で越後湯沢7時18分の新幹線に接続し東京へ8時台に着き、帰りは東京を午後9時に出て越後湯沢22時26分発で直江津に23時40分に着くことが出来るダイヤをつくった。これで「遅い列車もあるんだねという安心感」があり、少しでも便利にし、「ほくほく線が消えることは考えられないと住民から声があがる」ことを期待している。これがほくほく線の生き残り対策の柱となっている。
 
北陸新幹線開業後を見通して
 第三セクター鉄道の経営は厳しい。まさに「地方鉄道で黒字はどんなにがんばっても幻想」である。北陸新幹線の開業を見通して、社内でプロジェクトチームをつくって検討をはじめていると紹介された。その内容の一端であろうと思われることを私たちなりに整理してみよう。
 第1は、先に記述した沿線住民が「ほくほく線が消えることは考えられない」という気分を会社の主導でつくりあげていくことである。
 第2は、北陸新幹線の開業後のほくほく線の経営のあり方であるが、大熊氏は「これからは上下分離方式にできないと極めて難しい」と述べたが、この「上下分離」を目指すことでも考えられる。
 第3に、「北陸新幹線開業までに100億円を超える現ナマを金庫に貯めること」「これで将来が決まる」という。ほくほく線は施設も新しく耐用年数は他の鉄道より長く見積もれる。ほくほく線の利点を最大限に生かして将来展望をつくろうとしている。
 また、第三セクターに対する国の支援については、「国の支援があるんですかね」の返事。第三セクターによる経営に黒字を期待するのは無理な話だということだ。
 さらに、大熊氏は、北陸新幹線開業後の並行在来線は「糸魚川までなら」ほくほく線が経営に携わってもいいと言った。思わず聞き返したが同じ答えである。
 
安全対策と社員構成
 JR福知山線の事故から間もないからでないが、第三セクター鉄道にとって安全問題は死活問題であり、もっとも重要な課題である。「時速160qの線路であり、メンテナンスには全力をあげている」と胸を張る。ATC−Pについても初めから設置されている。「設備は絶対ではない。赤信号で列車走らせて点検もしている」という。
 「修繕費にいくらかかっているか」と質問すると「経営が苦しくなると人を減らす、次に修繕費を減らす、速度を下げる、となる」と前置きして、「今の修繕費は全体の10%内外。今後少しずつ増える」。それでも高速鉄道であるため今は、「JRの三倍ぐらいはかけている」ということである。要員のスリム化については、時速160qであり第一に安全を優先した要員配置をしているという。
 工務区は26人で、電気・信通、車両、保線がそれぞれ3分の1ずつである。指令所の5名はJR出向社員が4名、嘱託が1名、運輸区39名の内、プロパー16名、JR出向が18名、他は嘱託などである。修繕などは自社でしっかり行っている。社員教育については、JR東日本の研修センターに委託している。
 先の中越地震では大きな被害を受けることはなかった。揺れても落ちない鉄橋など高規格鉄道としての強みが地震でも威力を発揮したが約2億円の被害があったという。地震や風雪害対策については、ホームページに詳しく書かれていた。
 社員は役員5名、社員94名の合計94名で開業以来、ほとんど変化はない。社員の内プロパーが43人、JRから出向が38人、嘱託などが12人である。プロパーの要請に積極的に取り組んできたようだ。役員には、新潟県総合政策部長が専務取締役、取締役には沿線自治体の長の他に、第四銀行取締役、北越銀行取締役、東北電力常任監査役、新潟交通社長などがメンバーである。
 
富山県では並行在来線対策協議会が発足
 私たちがほくほく線の視察を終えた週明けの7月11日、JR経営から分離される北陸本線の運営などを検討する富山県並行在来線対策協議会が発足した。
 県並行在来線対策協議会が打ち出した今後のスケジュールは、来年度までに需要予測を行い、2008年度から運賃や収支、運営会社の経営形態、10年度には経営形態の概要を作成し、北陸新幹線開業の二年前には運営会社を設立することなどを決めた。
 新潟県は、すでに並行在来線対策協議会を発足させているが、どんな論議になっているのか、いま私たちには分からない。北越急行としては参加していない。北越急行が並行在来線の経営形態のなかにどんな関わりをしていくのかは、定かでないが、今回の視察と「しなの鉄道」の視察からは、長野以北から新潟県境については「しなの鉄道」が、新潟県の犀川〜糸魚川間は「北越急行」、直江津以西は富山県がかかわる運営会社という図式も可能性としてはあるということである。しかし、新潟県境〜直江津間はどうなるのだろうか。いずれにしても、ここ数年が正念場となることだけは間違いがない。
 
「ほくほく線」の視察を終え、新たな「提言」作成に向けて
 今回の視察の大きな収穫は、何と言ってもお客にたいする態度であろう。冒頭にも紹介したが、「地域住民の細かいニーズ1つ1つ掘り起こす形で利用者増進に向けた取り組みをすすめる」「毎日1人ずつ利用者が増えれば、一年間で365人の輸送人員の増加につながります。こうした地道な努力こそが絶対に必要である、というのが弊社の基本的な考え」は随所に伺うことができた。住民の暮らしに寄り添ってこそ鉄道経営も成り立つのである。
 一方で、「儲かっている会社だから、そんなことが言える」などと皮肉たっぷりの反論も帰ってきそうである。
 肥薩おれんじ鉄道の嶋津社長も第三セクター鉄道の経営の厳しさと国へのいらだちを語っていたが、並行在来線の第三セクター化は、心してかからなくてはいけないことはもう自明のことである。上下分離方式はその打開策の大きな土台をなすものであろう。
 私たちは、しなの鉄道、肥薩おれんじ鉄道の視察・調査を行ってきた。いわて銀河鉄道と青い森鉄道の視察には行っていないが、「公共交通をよくする富山の会」発足の契機となった2000年6月には、東北本線を守る会の山火武津夫氏を招いてシンポジウムを開催した。一応、整備新幹線建設に伴う並行在来線の第三セクター化の調査などに5年をかけて一巡したことになる。そして、今回の北越急行の視察である。
 公共交通をよくする富山の会は、2001年に「孫 ひ孫の時代にも暮らしに便利な北陸本線のために−提言」を発表した。それから5年が経つが、基本的には、この「提言」は今も生きていると考えている。しかし、私たちの研究や活動そのものに広がりと蓄積がある。このことも踏まえて、7月の世話人会では新しい「提言」の準備にとりかかることにした。住民の暮らしにしっかり根付く北陸本線を展望したい。
 
◎「北越急行・ほくほく線視察リポート」は、渡辺眞一事務局担当世話人が執筆し、岡本勝規、酒井久雄事務局担当世話人が加筆・補正した。