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観客席

酒井忠親(45歳)

7月27日(金)の公演を観た。 

イプセンの『人形の家』は、10年以上前に読んだことがある。前回の 試演会を見ていなかったので非常に楽しみにしていた。冒頭、照らさ れた四角い明かりの中を四人の女性がうごめく。身体をくねらせ、非 常に不安定な動作の中に訓練された身体を感じる。観ていて連動して 動いているわけではなく、何を手がかりに動いているのだろうかと考え ていた。すると、2階から、抑揚を押さえた記号的な言葉が一人の女 性によって語られる。中にはその言葉に誘発されて動いているのかと (例えば嘘など)観ていたが、どうもそうではない。明らかに自分の内 に何か動かざるえないものをかかえて動いていることがわかる。する と、彼女たちが置かれている四角の光が檻に見えてきた。彼女たちは 自分が自分でいられない世界に閉じ込められていたのだ。

暗転の後、一人のウエディングドレスを着た女性が四人の男達になぶ られる。結婚こそ、女性の自立を妨げるものであるかのように・・・まわ りで見ていた四人の女性がその中に近づいていく。女性を救いに来た のだろうか?すると、その女性達までも男性と同様に先ほどの女性を なぶり始める。男性社会の中では、同じ女性ですら、女性の自立を妨 げる存在であるかのように私には映った。

第3場面では、四人の男性がスイカのビニールボールを持ちながら 口々に盛り場の風俗の名前を読み上げていく。それは、あたかも男性 の欲望がうずまく男性優位の社会を象徴しているかのように・・・。頭 に巻かれているビニールの意味は何だろうと考えを巡らせていた。今 度は、女性が登場しネットのハンドルネームを告げながら、自分の願 望を唱えていく。I WISH、しかし、その願望こそ、男性の女性のこう あってほしい外見的要望の枠を超えない願いばかり。そうか!!女性 達が、しなを作ったかわいらしい仕草に込められていた意味はこういう ことなのかと思える。

次の場面のボードに打ち込まれる数々の女性のポスター、街の中や 雑誌のページを飾る数々のポスターこそ我々、男性の願い(あくまで 外見ですが・・・)。一人一人違うそのポスターのモデルがどれも同じに 見えてきた。男性の願望の中に女性が閉じこめられていることは変わ っていないのではないか。


一見すると、イプセンの時代と違い、女性達は社会的自立を果たし、 夫、子ども、家事からも解放され(結婚以外の選択肢も特異なことでな くなり)、自分の願い通りに生きようと思えば生きられるように見える現 代。しかし、自立したかのように見えて、そうではない。そのことは、青 い服の女性の台詞「私が私でなくなる。」によく表れている。個人の自 立が達成したかに見える現代は、逆に個が弧となり、その世界で我々 は他人とのつながりが持てず、自我が溶解するしかない。そこから、 脱出するには自分を殺すしかない。だから「だれか、私を殺して!!」 になるのではないのか。現代は新たなる檻の中に女性が閉じこめら れていることになっている。鋭い文明への批評を語っている舞台では ないのか!!

現に、新しい四角の光のなかで動きが新たに始められた。そして、そ のまわりに置かれる数々の雑誌の山。だすると、女性の顔を覆ってい るビニール袋は今にも窒息しそうな世界に生きている現代の女性の 様を暗示しているのだ。決して女性が生きやすくはなっていない。する と無言のまま歩く赤い服を着た女性がイプセンの時代のノラに見えて きた。だから、四人の女性に送るまなざしが寂しいのだ。

舞台は終わりへと向かう。青い服を着た現代版ノラと夫との対話。聞 き覚えがあるやりとりは、原作のテクストを用いていると思われる場 面。近代劇の始まりといわれる『人形の家』のラストの場面が色あせる ことなく、聞こえてくる。現代の女性の自立への壁は何なのか?夫、子 ども、家庭、世間体???

男性優位社会はまるで、不透明な見えない敵であるかのよう。近代と 現代が入れ子式のように交差する舞台には解決策は示されてない。 力強く家を出て行ったノラの影はない。そこにあるのは、ビニール袋を はぎ取った女性が語る弱々しいハンドルネームから、一層複雑さを増 す混沌が残るだけのように感じた。



ps:頭の中で何を意味するのか考えを巡らしながら、観ていました。役 者さん一人一人の存在感が増し、テラ・アーツ・ファクトリーの新境地を 開いた舞台だと思います。構成・演出の林さんの力とメンバーの集団 創作の力がからみあった舞台でした。

若林則夫 (59歳、会社員)   
2007年7月上演  於:ザムザ阿佐ヶ谷


「ノラ 人形の城」 初日観劇感想
                   

心の闇に光の出口を見つけるには、闇を凝視してとことん自分で考え ること。孤独を恐れず、群れない勇気。普遍的なテーマを徹底的に追 及した作品。


舞台最後の場は、舞台一面に敷き詰められた情報誌が、紙吹雪にな って、照明が舞台を長く照らしていた。一冊一冊を丁寧に几帳面に並 べたものを崩してしまったその場面を見ながら、自分たちの生き方 は、誰も教えてはくれない、残念ながら本も教えてはくれない。マスコミ 誌は、画一情報を流通して、読者はマスコミにコントロールされてい る。表層情報に依存している現代人の悲劇を語ってくれているように 私には思えた。心の暗闇は、自分の事情に合わせて、個人が考える 以外には解決の方法が見当たらないものであって、悩むことが解決 の一番の早道であって、安直に回答は求められない。私はこの場面 から、今の私たちが、忘れているひとつである「孤独」の重要性を感じ てしまった。一人でいれない、一人でいるのが怖い。友達が出来ない のが怖い、不安だ。そんななかでも、ひとばらいしてでも、内面に目を 向けて、もとめて孤独になることで、一人でいれる自分がつくられる。 一人が耐えられる自分になれる。一人でいると、そのうち自分にむか って話しかける呼びかけがおこってくる。外化された自分であり、自分 の分身であるが、その自分と、主体的な自分との対話がここからはじ まる。


根岸さんが高い場所から、全体を眺めている場面は、どこかユーモラ スで、シェークスピアの「夏の夜の夢」の道化師、妖精パックを思い出 した。深刻な内面や、人間の愚かさを冷静に、俯瞰していてほっとさせ られた。


四人が、花嫁衣裳の和江さんを虐めるシーンは、迫力があって怖かっ た。かなり長い時間だったが尻上がりに観客に迫るものがあった。又 吉永さんが、登場して舞台を横切る時に装束が小刻みに緊張感で震 えていて、言葉以上の表現を感じた。


舞台の幕開きでは4人の女優が、観客にうったえるような陰影の深い 困惑の表情が、終盤では穏やかさに変わって、すすむ方向性が見え るまでの葛藤と、吹っ切れた時のすがすがしさが印象的だった。

原 周 (45歳、会社員)
ノラー人形の城ーを観て

何が特異といってまず、"集団創作"というのが特異である。

通常、劇団での芝居づくりは、既存の又は座付作者の書いた台本 (ほん)でその劇団の主宰者たる(という場合が多いようだ)演出 家によって、その絶対的な支配構造の中で作られていく。

私は今年の5月からTFのワークショップに参加しているが、そ の中で林さんは、芝居作りの現場に於いてまず台本(ほん)があっ て、その役を演じる役者がいて、そしてその役者を意のままに動 かす演出家がいる、という構図を破壊したい、そういう力関係で 作られる芝居ではない演劇を創りたいと語っておられた。

又、同時に、上演された"完成形"としての演劇ばかりに目を向け るのではなく、どのように舞台が作られていったのかという"創 造の過程"をも、つねに問い続けていかなければならないという ような事を、この私の短いワークショップの参加歴の中でさえ、 何度も聞かされてきたことである。

殆どの人が、今までそういった演技者と演出家との構図や力関係 に疑問を投げかけることなく受け入れて来たように思える。私が 今まで観てきた芝居も、殆どがそういう構図で作られたものばか りだった。

2007年7月26日、テラ・アーツ・ファクトリー公演『ノラー 人形の城―』初日、午後7:30、私はザムザ阿佐谷の客席にい た。初めて観るテラの上演に立ち会う為である。客電が落ちて暗 転。恐ろしいほどの緊張感の中で、舞台は始まった。少女達のシ ーンはいずれも、むき出しの魂が闇を浮遊しているように思え た。紡ぎ出される、科白自体は空疎なものだが、その背景(バッ クグラウンド)に、巨大な人間の欲望が渦まいているのを感じさ せるのである。
そして、非常にゆっくりとした動作がそれを裏づけする。

実は、私は二度ばかり、この公演のための稽古の現場に林さんに 誘われ見学をさせていただいたことがある。前半のいくつかのシ ーンを観せていただいたが、そのうちのひとつ、Webの掲示板か らの引用の科白で、かなり過激で平常心を攪乱させるような内容 のものがあった。しかし、その発語の仕方について、どういう言 い方がいいのか林さんを混じえて喧喧諤諤、意見を闘わせいろい ろな言い方を演技者が実験で発語したが、その時は結論は出ず今 後の検討ということになったが、それが、本番でどのように発語 されるようになったか、どのように関係性がつくられたのか、楽 しみにしていた。しかし、上演ではその科白自体がカットされて しまっていた。私としては、そのことが少し残念に思えた。稽古 の時より、だいぶ"毒"が薄まってしまったような印象だった。で きれば、私は猛毒にあてられ斃れたかった。

それでも、ひとりの少女が男に回りを囲まれ、次に女に囲まれ、 小突かれ、突き押されつづけるシーンは、永遠につづくかと思わ れ、気が遠くなりそうであった。白日のもとで繰り広げられた惨 事とでも云うのか。

終盤、男たちが発語しはじめ、いままでちやほやかわいがってい た"籠の鳥"に対して、とうとう本性を現しはじめる。このシーン で、一挙に緊張感が高まった。このシーンで、この舞台でのはじ めての具体的な言葉でのやりとりが見られる。唐突とさえ感じら れるそのダイアローグは、同時に物語がやっと外へむかって開け 放たれたように感じる。その後のノラについては知らない。おそ らくノラは、ノラとして生きてゆくのであろう。

この芝居は男という性と、女という性の相変わらずの社会的力関 係の抑圧、支配構造を暴いてみせると同様に、演技者と演出家の 力関係―支配構造、すなわち、既存の演劇の作られ方、又はその あり方自体を問い直させ明確に"否(ノン)"を突きつけるものでも あった。

ノラと演技者、男(達)と演出家はそれぞれ合わせ鏡の用に相対 (あいたい)しているのである。従ってこの芝居は、"演劇につい ての演劇"と読み換えることも可能である。

しかし、そういった劇の構造についてはひとまず措くとして、劇 の展開としては、もう少し、観客を戦慄させ困惑させ、動転させ るものであって欲しかった。少し、林さんの優しさが出た。

私は客の多い芝居は信じない。無節操・無感覚な客達がその上演 の"場"に存在(いる)というだけで、劇空間が壊れてしまうからで ある。そんな現場を私は何度も観てきた。観客とともに自壊して いった集団の末路は哀れである。

――極北に屹立する集団、私の目に狂いがなければ、テラは今、 そこに向かいつつある。



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 [リンク] シアターファクトリー企画 林英樹の演劇ワークショップ