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舞台批評

智春(Cheeky*Park/チィキィ*パークゥ)


私の感想を一言で言うと、「この作品は、女である」ということ。
女性を感じさせるのではなく、まさしく、「女」そのものであった。
こんなに「女」を強く感じさせる舞台にはなかなか出会えないであろう。
 
自分が鍵をかけて、小箱にしまい込んでいたはずの
女というドロドロとした触れたくないあのどうしようもない部分
隠しておきたい内側の私を思いっきり見られてしまったような、
そんな感覚にとらわれた。
 
自分の中にある隠しがちな感情や感覚、しかも、決してだれにも
見られたくないもの。
 
それが、ここにはあきらかにあった。
 
しかし、なぜ、こんなにも「女」なのだろう?
 
演出をされた、林さんは、男である。
私には、男の目から女を描いているようには決して思えなかった。
 
作品の創り方について、出演者に話を聞いてみてすこしだけ理解し た。
匿名のチャット(でしたか?)に、自分たちの思っていることを綴りそれ を台本に起こしているということ。
それらを表現という形に変えて板にのせていけば、女性的な舞台を創 ることができるだろうが・・・
それだけだは、決して「女」にはならない。
 
大抵の男性の演出家の描く舞台には、
その演出家の理想の女性の姿がみえかくれする。
あるいは、自分の母の姿か・・・
 
しかし、今回のこの舞台に関しては、よく感じるこの男性演出家
独特の匂いがしない。
 
「女」という生物が、どういう生き物なのか。
 
女である私たちよりも、
女を嘗め回し、女の持つすべての扉をこじ開け
逃げ惑う「女」という生き物の生態を冷静に観察し、
執拗なまでに解体し尽くし
ただ、ただ、呆然と立ちつくす、
そこにある「女」を、
あらたにかたちづくったのではないだろうか。
 
さまざまな、「女」が舞台上に登場したが、
最後には、全員がたった一人の「ノラ」にみえた。
 
行き着くところは、私も女。
 
女としてはるか昔から繋がってきた女としての遺伝子。
 
私の知らない女としての私に出会えたこの作品は、
女としての私のはるかかなたと出会う小旅行のようなものだったのか もしれない。

大泉尚子(ライター)

「ノラー光のかけらー」を興味深く拝見しました。ひとつの太いストーリ ーに頼らず、コラージュ的に構成された作品なので、まさに乱反射す るような、さまざまな感想があったのではないかと思います。

私は、その率直さ・直截さに、好感をもちました。言い換えればそれ は、演じ手が、内なる自分との格闘・模索の末に獲得した自由さなの かもしれません。自分が不自由であることを自覚して、それを表現に つなげた時、少しずつでも自由になれるという意味で。

好きなシーンがいくつがあり、同時に、これはちょっと…というのも。た とえば、四角く当てられる照明。率直に言って、割に最近のダンスで2 回ほどこういうのを見ていて、ああ、あれかーと。ところが、後半の女 性誌を、四角い陣地を残して敷き詰めていくところなどで、待てよ、単 なる照明の遊びだけではなくて、かなりこれにこだわっているなと気付 きました。この、人一人が立てるだけの空間に閉じ込められていること と、スポットライトが当てられているということの二重性。説明がつくと いう範囲を超えた多層的なニュアンスがありました。ほかでも、そうい うものが受け取れるところが刺激的で面白い。

ところでこの作品では、原作も原作だけに、女性であること=〈女性 性〉が大きく取り上げられていますよね。私は今50代ですが、この女性 性というのは終わることのないテーマです。思春期から20代の頃は、 苦しさに直面していたけど、この年代になっても卒業しないことに、時 に愕然とします。

少し話がそれますが、私は、ほかでもお芝居やダンスのレビューを書 くことがあります。そんなとき、作り手が一生懸命やっていると感じた ら、何とかいいところを探し出したいと考えます。でもそれと同時に、冷 静な透徹した目で、時には厳しい言葉も用いて、作品を評価すること (場合によればしないこと)が、作り手に対しても自分にとっても必要不 可欠だと思うのです。それが〈批評〉ということだと。
 
でも、女性である私は、なかなかそういう言葉を持てません。なぜな ら、生活に、生き方に〈批評〉というものがないから。受け入れられるも のは受け入れ、マズいと思えば避ける、つまりあるのは、〈受容〉と〈忌 避〉だけだからではないかと感じます。ノラの時代から、何がどれだけ 変わったのか。今また若い女性に、専業主婦願望が高まっているとい われ、なぜ医者志望かと問われた女子高生は「後ろ指を指されずに 子供を預けられるから」と答える。TVではギャルタレが「自分から好き というのはダメ、相手に言わせなきゃ」と話している。おいおい、まだそ んなことやってるの? と思わず背中をパーンと叩きたくなります。で も、私たちもそこから脱してはいない。男のようにがむしゃらに働くと か、いたずらに自己主張するとか、そんなこととは別に、自分の足の 上に重心があって、まっすぐに地面に立ちつつ、世間や社会や世界に 向かい合うこと。それは、死ぬまでの課題なんだなと思います。
 
若い女性達が演じたこの作品が、そう言う意味で、一歩でも二歩でも 世界にきちんと向き合って、ある意味で異議を唱えたものであれば、 観客の私は嬉しいです。そして、そういった感じを私は受けました。

最後に、受付や場内案内など表方のスタッフワークがとてもよくて感心 しました! 皆さん、にこやかで落ち着いていたし、随所に人が配置さ れていたのも、観客には有難い。公演では、そういうところは目立たな いし、軽視されがちなのですが、お客が劇場に入ってまず接するのは 表方ですよね。そこでつまずいたら、作品世界には入り込めません。 これからも同様にと望みます。

R.S(劇団制作者、50代、男性)

「人形の家」の現代的上演である。

初めに黒衣の女性たちのうめき、うごめきが存在する。それは苦しみ である。父親や権力によって人間としてではなく、人形として扱われる ノラや現代のノラたちの苦しみを表現しているのかと見ると、この作品 ではどうやらそれだけではない。うめきも動きも身体的、感覚的であ り、ノラが苦しんだ、一個の人間として扱われない苦しみよりもっと原 初的だ。その証拠は、彼女たちが、現代には、ファッションモデルのよ うな、男たちを幻惑する資本主義、消費文化の象徴になって後半には 現れること。現代のノラは花嫁と四人の現代女性に分裂して、いる。 日常のさまざまに沈潜する女たち、恋への夢にふりまわされる女、ま た男に愛される自分というイメージの中で自己愛として生きる女。
 
それら一つ一つは、戯画化された女性のイメージだが、それが一同に 会することで、現代の女性のあり方について、ある種の総合、全体化 を見る者の心の内に引き起こす。それぞれはなじみのイメージが、一 緒になったときに見える何か。意外だった。


 「人形の家」からの引用シーンはまるで、古典劇のようだ。めいめい は役柄存在を演じて、近代的な女性の人間としての自立という物語を する。
 
権力の悪ボスたる男は、定められたコースをとって、女に捨てられ、退 場していく。
 
女性たちのうめきはどうやら、父親や国家権力からの人間としての女 性の解放に肉体化するようだが、それはおとなしくは終わらない。
 
中盤から時間をかけて次第に舞台一面にひきつめられていく膨大な 数の雑誌は、現代におけるメディアによるコトバや思想だけではなく、 無意識への、意志とか好みとか感情とか肉体の習慣性そのものまで の支配を表しているだろうが、それに対しては、一人の人間としての 自覚による断固とした主張だけではかなわない。それはこの舞台のク ライマックスのようにエネルギーをもってひたすらまき散らし、舞い上 がらせ、吹き飛ばされる以外にはないということだろうか。
 

かつてのノラは、たしかにその後、厳しい生活が待っていたかもしれな いが、それでも帰る実家もあり、人間として再出発しえた。だが、現代 のノラはどうだろうか。一筋の光はどこへむかって、さしているのだろう か。        

長谷川明(フリーライター、57歳)

ブリコラージュは、生命の活動に似ている。生命と無生物の間には、 ウィルスが、位置する。ウィルスを生命と捉えるか、物と捉えるかは、 研究者の間でも、議論に分かれるところであり、自分如きが、論じられ るほど、単純な問題ではないが、案外、ウィルスは、その単純さ故に、 最も、本質的な問題を提起してもいる。つまり、生命をどう定義する か、言いかえれば、生命とは、何か、生きるとは、どういうことかという 二つの問題だ。

福岡伸一博士からの受け売りになってしまうが、生命は、丁度、海辺 に作る砂の城のようなものである。放っておけば、形が崩れ、いつの 間にか、跡形もなく消えてしまう。城を保つ為には、絶え間のない補修 が、必要である。そして、その補修材は、回りから、別の砂を持って来 て、補修するのであるから、城の形は、変わらなくても、中身は、すっ かり別の物になった、と考えて構わない。ただ、そこに一貫性が、見え るように思われるのは、DNAの螺旋構造によって、生命維持に必要な 情報が、RNAに転写され、基本的には、同じ形の細胞内物質を作り、 生命の維持を図っているからである。

一方、生命は、もう一つ、大きな特徴を持っている。言うまでもなく、子 孫を残すことである。ウィルスは、それ自体では、生命の根本的条件 の一つである、代謝を行わないが、別の動物などに入り込むことによ って、分裂を繰り返して増殖する。だが、ここでは、こちらの問題は、 置いておく。ノラにとって、取り敢えず緊急の問題ではないからだ。

では実際、我々は、どのような遣り方で、生命を維持してゆくのか。予 め、機械の全体設計図のような物があって、その設計図に従って、在 る部品が、作られ、在るべき場所に収まるのか。それとも、そのような 意味での設計図は、存在せず、丁度、パズルのピースを一つずつ嵌 め込んで完成させてゆくように、各々のピースの形が、ぴったり当て嵌 まる場所を探して、そこに、入り込むのか。生命は、恐らく全体像を予 め知った上で、予定調和的に、あるピースをある場所に嵌め込むので はない。ただ、そのピースが、ぴったり合う場所を探して、その周りと 合体してゆくのである。但し、このような流れの中にも、時々は、ミス が、起こる。突然変異と呼ばれる現象である。そして、我々の進化は、 この突然変異が、新たな状況下で適応性を持った場合に、遺伝子に 組み込まれた、と考えられている。

ノラに与えられた環境は、全体設計が、恰も、為されているかのような 世界であり、生命の論理とは、異なる。もっと、はっきり言ってしまえ ば、生命の維持、継承には、関係の無い価値観である。だが、ヘルメ ルや世間は、そのように考えてはいない。世間から、見れば、ノラは、 突然変異体である。だから、彼女からは、彼らが、理解し得ないし、彼 らからは、彼女を理解できないのだ。にも拘わらず、ノラは、新たな地 平に進むことが、できる。それは、彼女の論理こそが、生命の維持・ 再生に直結するからだ。『ノラー光のかけらー』の舞台上で、ノラたち を取り囲んだ、既存の価値観が、ノラたちの手によって、葬り去られて ゆく場面は圧巻である。このような形で、百数十年の時を超え、見事 に、イプセンを現代化した、演出家の才能に敬意を表する。



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