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セミナー
6月22日15:30PM

ニコラと会話がはずむ「崖の上の砦」への道中で
ニコラ・サバレーセからの発言
「PAULGEITY FOUNDATION INSTITUTE MUSEUM」、一年間、奨学金でロサンゼル
スに滞在。そこにはポンペイ美術館、ギリシャ、ローマの建築の復元の試みがされて
いた。
アナサテ:何も残さなかったネイティブアメリカンの部族。モニュメントバレー。
アメリカの本当の開拓者は誰か?ヨーロッパ人が「ノイズカルチャー」を持ち込んだ。
ラスベガスに象徴される。インディアンの「静かな文化」のなかに、ヨーロッパ人は映
画産業(ハリウッド)を持ちこむ。
アナサテ:消えた部族の推測、砂漠で水を失う。
ヨーロッパ人の侵略の前の、アメリカの「劇場建築」について。
17:40―
ユージェニオ・バルバとフランコ・ルフィーニ(FRANCO RUFFINI)、フェルナン
ド・タヴィアーニ(FERDINANDO TAVIANI)
「何がドラマツルギーか?」から始めたい。何がそれを証明するのか。(バルバ)
●ニコラ・サバレーセからの報告。
観客からだけでなく、歴史家の視点から論述する。
「スタンス(距離)は私のマスターである」
ハンディキャップの人たちの芝居。45年病院にいた人物。ボローニャの劇団の人が
彼を連れ出し、(彼は口が聞けない)たくさんのノイズとことばに満ちたパフォーマンス
を行った。彼はノイズのあと現れ、7分動かず立っていた(ギリシアの彫刻を想起させ
た)。
「わな」(コヨーテの)カルトーン、プロット。
「ドラマツルギーのイメージ」「ドラマツルギーのスケルトン」
それぞれの断片はそれ自体である。第一のアクションが終わると同時に次のアクショ
ンは始まっている。
ドラマツルギーの要素はアクションである。
それぞれのアクションには役割がある。
ドラマツルギー:アクションのエレメンタル・ウエイ。相互に変換作用する。エレメンタリ
ーはシンプル。問題の解決と遠くにあるもの。
ここで書物の話に戻る。
ジャック・コポーに関する話しをする。「演劇と学校」について。コポーはヨーロッパ中
を旅した。1905年、彼はリトミックスクールのグル(指導者)クラスと出会った。動きと
リズムの関係。リズムはそれぞれの身体から出てくる。1920年、コポーは船のマスト
の動きに魅了された。ナチュラルな動きに関心。それはショーではない。海軍の訓練
による、鍛えぬかれたものだ。スウェーデンのジムナスティック、ある種の「筋肉」の発
見を助ける。セルフエリミネーションー(省略、削除)「ブランチを飛び越えるジャンプ
の原則」としてコポーは語る。エクササイズは困難性を取り除くための戦略である。人
生、生活の困難性を取り除くための。訓練は困難さの継続である。これがアクション
の最初の要素ともなる。コポーは、トレーニングは、何かを学ぶことではなく、つねに
困難性の延長である、と語る。
自覚の訓練=原則。「精神の現前」のため「如何に演技を作るか」から、「動きの変
化」へ発想を変える。なぜなら身体はいつもオートマティック(自動的)になる。訓練は
これを助けるべきものではない。
「動き」のダイナミズム。
困難さのトレーニングとは、「動きのダイナミズム」のための実践訓練の延長である。
装飾的、オートマチックを取り払うためのものとしての。演技行動は「精神の現前」に
従うもの。目的はダイナミズムであってオートマチックではない。
私にとってドラマツルギーは 「How action input together」である。何故なら演技行為
はつねに複雑なものの結合だから。いかに演技行動を変え、いかに演技行為とは何
かを知る。「ワナ」はアイデアの自覚によって捉えられるものだ。
問いは?演劇の仕事の一部?演劇の仕事のレベル?何かについて我々は語る必
要があるのか。いかにこの領域(ドラマツルギー)に入ることができるのか?ー思い出
す行為。観客にとってのもの(彼らは記憶に頼るもの)、機能の構造、ドラマツルギー
は明確ではない。私は10分後(芝居の)、何も思い出すことができなかった。
ドラマツルギーは学べるもの、教えられるものなのだろうか?
「学ぶ」ことは「誤解」することである。何かを失うことである。私はドラマツルギーにつ
いて教えることができない。構成の仕事の地平線がある。ポエティックな構成だったと
いうワークショップがある。すると、いかにドラマツルギーを構築できるのか?
バスター・キートンの映画を見て発見したことは、ドラマツルギーはいかにストーリーを
語るかではないことである。絵とのつながり、音、光、・・・動き。様々な要素のコンポ
ジションの結果である。それは時間に価値をどう与えるか、という問いだ。
私は「コメディアデラルテ」に関する研究をした。そこでは俳優は演劇の中心だった。
テクスト、衣裳、演技、みな俳優が考える。彼らはどうして他の人間にテクストを書く権
利を譲り渡すか?ドラマツルギーは通り過ぎることはできないが、分析はできる。何
か「安易」なものを邪魔するものである。それはテクニックではない。ドラマツルギーは
クラウン(道化)が蝶を追い掛けるようなもの、決して捕らえることができない。
「記憶」
参加者より「何がドラマツルギーか?設定(物語)のことか」
理解の許容量の中での不条理性。彼らは互いに理解していない。子を失った若い女
がこどもの写真をジャーナリストに送った話をする。ドラマツルギーは一つの問題を他
に伝える。何が具体的な目的として背後にあるのか、を。
「良いドラマツルギー」、「悪いドラマツルギー」と語りあったり、異なった場面のつなが
りについて、芝居の終わったあとであなたたちは話すだろう。その記憶に、イメージは
非常に強く作用する。
ドラマツルギーについて語るのはやさしくない。構造と均衡、モンタージュ、異なった場
面のつながり、組み立ての意味など。
観客の翻訳
もし、我々が構成について語るなら、困難性の中に入り込んでしまう。演劇は集団作
業。一人で出来る仕事ではない。誰もが個人的な迷路に入り込む。混乱した状況。仕
事のプロセスである。個人的な輪郭が否定され、何か新しいものが立ち上り、個人的
なものが消える。目的の最終点の消滅。そのため、再構築は困難である。ラストはつ
ねに異なる。ゆえに、単一の結末は困難だとも言える。
ニコラ・サバレーセ
異なる時間と場所によるドラマツルギーの歴史的所在について。ISTAの仕事はリ・コ
ンテクストライズ(再・下部テクスト化)である。「OMOSHIROI(面白い)」、世阿弥は
即興についてそう語る。
ギリシア劇
語られる文化ー「書かれた文化」への転換期。ギリシア劇、演劇の始まりは同時に
我々の文化、ストーリーテーラーの出現の前段階。ギリシア劇の話が出来る前(作家
によって書かれる前)にすでに「誰かが」考えたものであった。
「盲人」
予言能力を持つ者。彼らが語る、彼らは観客に可視化されるのを可能にした。何が
彼らのテクニックか。コミュニティーに認められる、とても喜びとされるもの、子供のた
めではなく、大人のために。「秘密」はドラマツルギーではなく、ストーリーテーラーだ。
歌のリズム、声の変化、他の人物の声、がそれを語る。
ギリシア劇に戻ると、
「書かれた文化」が始まった時から「即興」は不可能になった。作家がテクスト(文字)
を変えてはいけないとする。演技には、はじめ一つの固定化したアイデンティティー
(役)はなかった。ナレーターはいくつもの声(面)を持っていた。偉大な俳優は、はじ
めは一人。ギリシア劇から始まった。ペルソナ(人格、役)を使い分ける、とは声を使
い分けることでもあった。
バルバ
役割を解釈し、何が正確な役割かをつきとめること。誰かによって書かれたテクスト。
「物語の一貫性」:我々の持っている知識がどうであれ、私ははじめ「具体的な思考」
で、私の前にいる俳優とともに私は何をするべきか、から始める。俳優は私に「具体
的な思考」を期待する。
声の感受性
「声は身体」、エネルギーの身体化である。全ての連携、協働レベルでそうである。具
体化する際に、音のレベルと語られるレベル。ふたつの別なレベル。
ドラマツルギーの歴史:「思考の具体化の作業」「いかに思考を具体化するか」
プロセス、特に演出と俳優の創造のプロセスに注目する。ここで観客の問題は全く別
のレベルのこと。テクストは二つのレベルで構築。演劇学校は「教える場」。シアターラ
ボラトリーは「教育を企てる場」。第二に「動き」をどう言葉とつなげるか、という問題が
ある。シンクロナイジングさせないで。テクストと「動き」を一緒にしない。私の言葉のリ
ズムは私の身体に属している。
「不合理な人格の一貫性」という論理性。しかし、私にとって劇は論理ではない。意味
を獲得することは困難なことだ。
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