ことばとからだ 林英樹
日本劇作家協会主催「劇作家大会・言葉と表現ワークショップ」より実技と参加者との対話から

言葉と意味、演劇言語の物理的な力

林 ビデオをお見せします。これはフランスの学生が今年フラン スの外務省か何かのお金で日本に短期留学をして、その時にわた しのワークショップと和泉元秀さんの狂言を彼らは受講したので すが、わたしのワークショップではフランスの、日本語を全然知 らない人に、日本語で発語してもらいました。

ある戯曲からの短い引用なんですが、最初は日本語です。この短 い引用フレーズを四人―組になって、順々にことばを渡して行く ようにし、それを何回も繰り返して行く。四人にそれぞれ「すば らしいわ」、「こわいわ」、「どうしたのさ?」、「壊れっちま いそう」という、石澤富子さんの『やよいの空は』という戯曲の 中の一部なんですが、その語句を各人一行ずつ発語してもらう。 はじめことばの意味は伝えず、声をできるだけ広い範囲で使い、 また前の人や、他の人の声の感じ、四人それぞれによって作り出 される音の流れに敏感に対応するようにしてもらいます。次に声 だけでなくからだも動かす。自分が声を出すときに動かすだけで なく、また途中で集中が途切れないようにするため、ことばが続 いている間はずうっと、その音の流れを聞きながらからだを動か し時には音楽のリズムに逆らったり、自分が声を出すときには、 時にはその動きの流れを遮断したり、大きく増幅したりしてみ る。 最初は同調的に声の輪の中に入るようにし、それから徐々に ずらしたり。。。



この稽古では―度ことばの意味から離れてみるトレーニングを行 います。日常的に持っていることばとことば、ことばとイメージ の既成概念とか固定した関係から離れ、いったん自分もことばも それ自体自由にしてやり、遊んだり楽しんだりする感覚を復活さ せてやる。特に声は音でもあり、ことばを出すとは楽器を演奏す るというような感覚でもあるということを意識してみる。伝統芸 能の歌舞伎や文楽ではそういうことを日本人はずうっとやってき ていますね。ことばを音声としても楽しむ。そこから舞台独自の 劇言語表現、音声表現を生み出してきた。

こうしたわたしたちが長い年月、少なくともヨーロッパの近代演 劇を輸入するまでやっていたことを参照してみる。意味をいっぺ ん外してみて、ことばを日常の使い方や固定化した発想から自由 にし、そのあとで舞台の言語としてもう一度ことばの持つイメー ジを組み立て直す。そのことで日常の言語表現に縛られない舞台 表現としての独自の言語表現、音声表現を形成してみる。そのよ うな作業を基礎稽古の過程で時間をかけてやってみるのです。そ れから―定のテンションでやってみると声を出すというのは、い かにからだの方を使うものかということもわかります。人間は気 づいたときから誰でもことばを自由に使えるものだから、かえっ てことばを発するとは身体的な行為であるということを忘れてい る。しかし、言語障害の人や聾唖者を見ているとほんとにからだ を使ってことばを発しようとしていますよね。



耳の遠い養母とのコミュニケーション体験

このトレーニングを考えた動機の―つにはきっと小さい頃の養母 とのやりとりの記憶が作用しているようです。わたしの養母は若 いときからひどい難聴でしたので、彼女とコミュニケーションを ことばで取ることは小さい頃の自分にとってきわめてエネルギー のいる大変なことでした。まず大声を出さなければなりません し、身振りも必要になる。外へ出ると人目もあるので恥ずかしさ にも耐えなければならない。みんながじろじろ見るので小さい頃 から私は人前に立つとからだの筋肉が極端に硬直する、カタレプ シー(硬直症)状態に陥る。

わたしにとってことばを発する、人とコミュニケーションを計る 原点は彼女とのきわめて困難な会話の体験から始まっています。 今でも人前に立つと,無意識に声帯の回りの筋肉が動かなくなっ て、言語障害に陥るときがあります。舞台に立って深く集中した ある瞬間だけ本当に解放される。まあ、自分がふだんきわめて不 自由なものですから、演劇をいろいろ疑いながらも続けてきたの は、実は自分自身の治療として必要だったからなのかもしれませ ん。薬のように嫌なんだけど飲まないとならないもの、それが自 分にとっての演劇でしょうか。

いまわたしは演劇の社会的存在理由とか人々の暮らしにとって本 当に必要な演劇活動とはどういったものかなどということも考え たりしながら動いていますが、その出発点は極めて個人的で、わ たしにとっては自分の育った家庭や育った北海道の自然抜きに演 劇について語ってしまうと全て中身の抜けた殻のようになってし まいます。ですからこの訓練の発想の基盤として日本の伝統芸能 の発想があると始めに言いましたが、それと個人の生活体験の、 二つの軸で考えられたものだと言ったほうが正確だと思います。


もうーつ違うビデオをお見せします。1992年にパリで向こう のスタジオを借りて、日本から若いメンバーを連れて行って、フ ランスの俳優やダンサーと一緒にワークショツプをやったんです けれども。これは「おい」という呼び声を使ってコミュニケーシ ョンしてくださいと指示したトレーニンクです。「おい」という のは彼らに意味は伝えていません。まあ伝えてなくても大体分か ると思うのですけれどもね。かれらは実に真剣に取り組んでくれ ました。東洋から来た人間のワークショップを受けようという人 なので、事前にそれなりの意志と考えを持っているというか、こ こに映っている人、―人は喜劇のクラウンをやっているというプ ロの俳優、二人はダンスの人。喜劇の彼はこのトレーニングをや って自分でもびっくりしちゃったようです。「生まれてはじめて こういう感覚を味わった」と言っていました。「途中でぶっ飛ん じゃった」って、 終わったら言ってましたね。床に頭ぶつけたら しいんですけれど、それから「自分は天国を彷徨っているような 感じで、どこからともなく声が聞こえてきて、その声の中を漂っ てた」なんて言ってました。わたしのトレーニングによるもの か、頭をぶったことによるのか、特殊な身体状況に置かれて日常 では体験できないようなことばとの出会い方があったわけです ね。


稽古場というのはこういった体験が豊富に出てくれば出てくる程 良い稽古場であると考えています。このトレーニング方法もそう いった体験を、からだをきっかけにして生み出しやすいようにと 考えたもので、様式やスタイルは問題にしていません。ともかく この人はいたくこのトレーニングの体験に感動したようで、この あと日本から来た先生に私たちでご馳走したい、と一席設けてく れました。かれが組んだ相手はわたしのグループの日本人でこの 時、初対面だったのですが、―緒にこの演技上の「対話」をして いる内に昔からの友人みたいな感じがした、「おい」ということ ばが、時には相手を傷つけることばだったり、相手を気遣うこと ばだったり、それから相手を威嚇することばになったり、色々こ う、自分の中でことばの意味が変化してゆく、それと同時に相手 との関係も変化し、三十分位の間でまるで多くの体験を共有し、 経てきた古い友人のような気がしてきた、と言っていました。二 人のやりとりが―生を生きた位に凝縮された文字通り「対話」の 瞬間を生み出していたのでしょう。最後に「おい」ということば は相手に呼び掛けるときに使うことばですよということを話した んですけれども、それだけのことばなのに多くの意味を含んでい ることに改めて気づいたと言ってました。


・ ・・このあと、参加者にしばらく実技を体験してもら う・ ・ ・

先ほどの続きに戻りますが、ことばを発するとき、どうしても人 間は意味を表現しようとする。それは必要なんですが、ことばを 発する人の持っている解釈能力やことばに対するイメージよりこ とば自体のほうが大きく膨んでいたりする。今回用いた石澤さん のせりふはイメージの広がり、ことばがいかに映像的であるかと いうことを示す優れた言語表現を持ったテクストです。こうした ことばそのものが持っている力を発語者の固定観念で矮小化して はならない。日常的な体験の中で出来上がった自分のイメージか ら、勝手にことばを縛ってしまうのではなく、舞台の上での、あ るいは特殊な身体状況、テンションを作り直す中で改めて出会い 直すものとして、つまり過去の自分の体験に照らし台わせるので はなく、その時にからだ(身を持って)と人との特別な関係を再構 築し、そこではじめて出会う体験として、「言語を生きる」とい う段取り、手続きが必要なのではないかと思います。


フランスの学生達にこのあと、この四つのフレーズを彼らの母国 語でやってもらったんですね。すると声も動きも画―化してしま う。他の人の声とも連携していない。自分―人で勝手にやってい る。ことばに対するイメージも固定化していて、日常的な固定観 念に縛られているから、「すばらしいわ」ということばは文字通 り「オオ、ビューティフル」なんですね。ちっとも豊かにならな い。ありふれた陳腐な表現、そんなことはよっぽど素人に言って もらった方が下手な分だけ感動的だったりすることがある。意味 で制約を受け、母国語のことばと仕草の関係に縛られているか ら、からだも不自由になり動きも決まりきったもの、ありふれた ものになる。それと同時に声も膨らまなくなってしまって、最初 からまとまっている。相互に、つまり声と身振りと自分の体験に 根ざしたことばのイメージとが相互に縛り合って、不自由さがよ り高まってしまう。


文字に書かれた情報を伝えることと
演劇言語を体験することの違い

かれらにそれを指摘してあげ、その後この戯曲の世界を説明し、 日本語でやっていた方がむしろ戯曲の内容に近づいていたことを 言うと、かれらもわかったようです。この戯曲は戦争中の南の島 で崖から海へ飛び降りて集団自決した人々のことを、二人の生き 残った老婆が回想し、記憶の中の風景に入る導入として用いられ るのですが、崖から人々が岩の上に落ち、たたきつけられ、死体 となって転がっている光景が脳裏に浮かび上がり、その中に生き 残った自分もいて、かすかな意識の中で見上げた青い空、波の音 を聞きながら、つまりその時の、「虫の息」の状態の中でぼんや りと空の青さに出会い直しながら、ふと「すばらしいわ」という ことばが我知らずつぶやきだされ浮かんでくる。ですから、ただ 美しい、という意味ではないし、様々な意味、感情、感慨、イメ ージがこのことばの中に本人も整理しきれずにこめられている。 もちろんわたしたちも彼らもこうした自分のからだが限りなく死 に近い状態にある中で波の音に遭遇したり、空の青さを見つめた りした体験がないから、自分の日常の感覚や記憶だけでは処理で きない。

文字通り表現者、発語者にはこのことばと全身全霊をもって出会 う意志と物腰、そして自分の体験に即した主観を捨てる覚悟がい る。ものを表現するとはわたしはそういうことだと思っていま す。そのことを肩の方を入れずに、ある特妹な身体状祝を通じた その場の自己体験の中で出会って行く。何もこのことばを発する のに実際に集団自決を体験していなくてもアプロ―チできるわけ です。 ただそれを何のプロセスも踏まずにやろうとしても浮つい たものになる。それからこうした状態やこの戯曲の世界をただ 「悲惨」という―語で片づけてしまうのもわたしたちの考えや認 識の了見が狭いのであって、少なくとも演技者はそうであっては ならない。

かれらにいったんいま言った、このことばの意味や戯曲の背景を 忘れ、日本語でやっていたときのように、つまり、子供のように 音遊びをやっている感覚を持ち込み、その過程でときどき頭の片 隅、十分の―位のところに、意味や背景を思い浮かべるようにし てやってみてください、と言いました。今度は彼らがその前にや ったときよりよくなりましたね。よくなったというのは、その場 の体験としてことばと出会っている。つまりリアルタイムの 言語 表現に近づいたということです。それから身振りも自由になり、 見ている方が発見が ある。ああ、こういうことばを発するとき人 間はこういう仕草、こういうからだつきをすることもありえるの だな、という発見です。それはとても創造的なことです。わたし は演技はそれ自体芸術的であるという考えを持っています。ある いはそうあるべきだと。それは武智鉄二の身を持って示した舞 台、彼の生き方、舞台芸術に対する理念によって気づいたことで す。


林  少し元気が出てきたところで、じゃあ、四人ちょっと出てく ださい。「すばらしいわ」、「こわいわ」ってさっきやりました ね、あれを使います。これは女性のせりふなんですけれど、取り 敢えず男性女性というのは関係なく、音として声としてやりま す。最初は声だけを使って、声のトーンを変えてみたり、言い方 を変えてみたり、速度を変えてみたり、ちょっと間をとってみた り、取り敢えずそれでやってみてください。

参加者  「すばらしいわ」「こわいわ」「どうしたのさ」「壊れ っちまいそう」…・(繰り返す)

林  じゃあ、既にからだを動かされてる方もいますけれども、か らだを動かしてやってみましょう。―歩だけ前に出るなり、手を 出すだけでもいいです。何かポーズをとってもいいです。抽象的 な意味のない形でもいいです。ことばと別につながってなくても いいです。向こうまで行ってもいいです。行きます。うまく見せ ようとかっていう必要はないです。まずからだを動かす。

参加者   「すばらしいわ」「こわいわ」「どうしたのさ」「壊 れっちまいそう」…・(繰り返す)

林  この方、面白いですね。すごく自由って言うか、いいです よ。じゃあその位置でからだをこう、例えばこう、曲げてもいい ですし、力を手に入れてもいいですし (と自分で動いてみせる)、 ただし、今度は人の声を聴いて、前の人の声ですね、「すばらし いわ」 「こわいわ」、「どうしたのさ」・・・・・自分の言い方 ばかりを考えずに、まずひとの声を聴いて、全体の声の流れをち ゃんとと聴いて、その声を受けながら、それに対して自分の中か ら出てくる声を表に出すという感じでやってください。

参加者  「すばらしいわ」「こわいわ」「どうしたのさ」「壊れ っちまいそう」…・(繰り返す)

林  (止めて)ちょっと止めましょう。やってるほうはどんな 感じでしたか?

参加者  ふっとこう、わ―っと我を忘れたり、ちょっと緊張して しまって自分に戻ったり、あ、いいなあと思って感じながら何と なく乗ってみたいというか。変わります、ぐるぐるぐるぐると。

林  あなたはどうでしたか?

参加者  あともうー歩のところという感じ。意味を考えないで声 だけにしとこうとか、意味を、どうしても意味に行っちゃったり とか、他の人の動きを少し見てようとか。

林  そうですね。だから、人の声が動いてると、そこでふっと出 てくる自分の中の変化とか、我れ知らずの所の感じ。聴くことで 導きだされるもの、その中での自分の中で生ずる変化、それがま た人の変化を導きだすという相互変化の連続、連動が四人の中で 呼応しあって、ことばの流れを支える声の流れを生み出してく る。初めてやったばかりなので思うように行かないとは思います が、うん、でもとてもいい感じですよ。四人のバイブレーション が生まれたり、バラバラに戻ったり、ウェーブのようになった り、ぱっとこう中新したり、急に早くなったり。でもそれが全然 不自然じやない。その流れになってくる。もちろんもっともっと よくなると思いますが。・・・どうですか?

参加者  振り返ってみると、テンポがあまり変わらなかったです ね。

林  うん。どうですか?

参加者  相手からずいぶんもらえました。即座にリアクションす るということも、面白かったと思うんですけれども、ちょっとわ たしここをスタート地点と思ってたので、勘違いしてて、切り返 しはちょっと、勘違いしてて、すぐ即座にリアクションするって いうことも、慣れたら面白いでしょうね。

林  あなたは芝居をやってらっしやるんですよね。やっぱり芝居 っぽい反応になってしまっていますね。否定しているわけではな いですよ。ただ今の状態としては、自分のリアクションのスタイ ルがまとまっていて、こう動くだろうな、こう言うだろうなとい うのが全て読めてしまう。こちらの彼は逆にね、どういう風に出 てくるか読めないというか。それから、リアクションしなければ と頭で考えているうちはリアクションにならない。思考がからだ を、脳みそがからだを支配している。そういう状態をちょっとど こかて外さないと、ことばがからだから出てこない。思考が命じ てある身振りをする、という関係から、からだの中からある身振 りの初動が起きて、それを思考がコントロ―ルするという回路に 持って行く。そうしないと決まりきったありふれた身振りにしか ならなくなる。


あなたのリアクションはこれが芝居、これが演技という固定観念 が事前に入っていてその中で動いている。かく言うわたしも普段 話しているときには、本当自分の身振りなんて、固定化してるな って感じがしますもんね。いつもこんなことやって(と自分の仕草 のくせをやってみせる)。まあそれがトレーニングの中で、他の人 の声が聴けるようになってくると、自分の動きも自由になってく る。人の声が聴けるようになってくると全然違う動きになってく る、そういう驚きがしょっちゅうありますね。それからさっき言 ったように人の事が気にならなくなってくる。人というか、人の 視線というのが。それを感じてはいるんだけれどもそれに縛られ ない、自由になっちゃうっていうこと。むしろ人が見ていること がエネルギー源になる、それが励ましに思えてきちゃうって言う かですね。ぱっと人のエネルギーが集まり、それが自分の力にな るという感じがありますね。

どうも、ありがとうございました。三人とも。お疲れ様でした。 はい、次の四人。舞台と同じですね。こんなに大勢の人に見られ て、しかもかぶりつきで。おまけに取り囲まれて。ますますこう 言うとプレッシャーがかかってきましたね、さあ腹を決めて。じ ゃあ、「すばらしいわ」、「こわいわ」、「どうしたのさ」、 「壊れっちまいそう」。最初は流れを考えなくていいです。自分 で声のバリエーションを付けて、まずは楽しむように声で遊んで みるようにやって見てください。じゃあいきましょう。

参加者 「すばらしいわ」「こわいわ」「どうしたのさ」「壊れ っちまいそう」・・・

林  (止めて)はい、ちょっとごめんなさい。止めて下さい。最 初、音楽を聴いて少し音楽をからだに流し込んでからやってみま しょう。ちょっと目を閉じて音を聴いて。音を聴きながらゆっく りからだを動かして。取り敢えず動かしてみましょう。ゆっくり ゆっくり。その後どう動かそうとかをあんまり考えず、からだの 中で動こうとする方向にからだを持っていってやるという感じ で。本当は目を開けていた方がいいんですけれど、最初は多分、 閉じたほうが集中し易いかもしれませんから、始めの内だけ目を 閉じてやってみましょうか。例えば手をゆっくり動かしてみると か、膝を曲げてみるとか。全体で動く必要はないです。ある部分 から動きだしていく・・・それから,ことばを囁いてみてくださ い。「すばらしいわ」、次の方「こわいわ」。囁きで最初入って みましょう。それから声を変化させていく。自分のからだの動き を自分でちょっと注意してみて、それから囁きで、「すばらしい わ」、「こわいわ」・・

参加者  「すばらしいわ」「こわいわ」「どうしたのさ」「壊 れっちまいそう」・・・

林  (止めて)はい。普段あまり慣れてないことだと思いますか ら、思うようにいかないかも知れませんね。いいです。これだけ で。もうこれで小公演になってしまいますからね、これだけ見て いる人がいて、こうしたちょっとしたスペースがあれば。東京で もあるんですよ。このくらいの人数のお客さんでね、このくらい のスペースを使い、こんな感じで客席も舞台と―体になったよう な感じでやる公演が。じゃあ今度は大きく動いてみましょう。歩 いてもいいし、手を広げてもいい。大きく思い切って動かしてみ ましょう。じゃあ、いきます。はい。

参加者 「すばらしいわ」「こわいわ」「どうしたのさ」「壊れ っちまいそう」…

林  はい。大変いいですよ。どうでしたか?どんな感じ?

参加者  やっぱりちょっと緊張して。

林  やってて途中で少し緊張がなくなりましたか?

参加者  少しは。でもやっぱり終わりが緊張して。

林  そうですね、わたしらはふだんこうした集中の必要なトレー ニングは少し明かりを暗くしてやるんですけれど。人間の視覚っ て言うのは人間をすごく縛るんですよ。視覚と大脳は直結してい るんですね。その回路もかなり固定化している。花を見て、 「あ、花だ」と思うがそれはあくまで「花」であってその人の目 の前にある生きものとしての何物かではなくあくまで「花」にな ってしまうんです。ですからそれをたとえば絵に描こうとすると そういう見方から完全に離れ、自由になって、目の前にある何物 かとからだ、全身全霊で対して行かないと本当に対象を描けな い。


人間っていうのはものの意味というか、相手を、ああこの人はい い人だとか悪い人だとか、先ず目で見て判断しますよね。視覚で 確かにいろんな事を確認できるんですけれども、同時に目で見え るもので我々は完全に包囲されている。見えるものだけしか見え なくなる。表現とはいかに見えないものを見て行くか、見えない ものを見えるようにするかとういうことに価値があるわけで、少 なくとも演技者が芸術家であろうとするなら、こうした固定化し た回路を越えなければならない。だからそれを一度、視覚から自 由になるためのステップとして暗がりの中でやる。そうすると視 覚中心で感じていたものの感じ方と違う感じ方が結構出てきたり する。そうした状態でことばと対して行くと、ことばも文字通り ではなく、文字の背後にあるもの、文字からこぼれおちてくるも のにも認識が及ぶようになってくる。

せりふを型通りに発語するのは、演技者の仕事ではありません。 詩人と同じくらいの能力が俳優には必要だとわたしは考えていま す。俳優とは本来それくらい凄い仕事なのだとわたしは思ってい ます。まあ、今日は―つの体験としてみなさんにやってもらおう ということですので、そうした仕事の第一歩、だと考えてくださ い。それからまず楽しんでみる。これが大切ですね。あなたはい かがでしたか?

参加者  大きな声を出して凄く気持ち良かったです。

林  まわりとか、それはあんまり気にしなかった?

参加者  ちょっと二、二歩 歩くと足の方が気になって。

林  普段はそんなに声は出さないですか?どうでしたか?

参加者  やっぱり動きなさいという事が自分の中でパターン化さ れたところがあるなということを感じました。

林  あなたはどうですか?

参加者  目を瞑ってたら、音楽を聴いてたら、結構動けそうな気 がするんですけれど、目を開けたら、ばーってみんながいるから やっぱりこう、押されてしまいますね。


林  実際のトレーニングで役立てようという方もいらっしゃるか も知れませんけれども、ここにいらっしやる方は演劇をやってる 方が多いので、どうしてこういうことをやってるかとかそういう 話なんかも、実際にからだを動かしながらできたらいいと思いま す。必ずしも、役者のトレーニングを受けている人、役者といっ ても西洋のロジックに則ったトレーニングをしてる人がこうした トレーニングをすると優れた表現が出来るかというとそういうわ けではないですね。むしろ一般の人の方が凄く感動してしまう瞬 間がある。だから役者を目指す人、俳優もむしろ一般の人に交じ って彼らから学ぶつもりでやったらどうか、と思うときがありま す。かえって下手に役者やっている人にこうした訓練をやらせる と硬いというか硬直しているというか、要するに「型通り」にな ってしまう、芝居臭くなってしまう時があります。せりふをそれ なりにこなせれば、俳優はもうそれ以上自分の感性を、精神を豊 かにする基礎訓練の必要はないと考えているのでしょうかね。

今四人がやってくださった、その場合も四人ですけれども、最初 に思うように動けないからって全然駄目じゃないんですよ、これ は。もちろん最初動けて、非常にのびやかにやれてふだんからの びやかな自由な精神を持ってる方もいらっしゃるだろうし、逆に ふだん抑圧されていて不自由で最初は全然不器用で思うようにい かなかったりするんだけれども、ある時間を経過するとあっとこ っちがびっくりするような、惹きつけられる瞬間に立ち合っちゃ うときがあります。そういうときがあるんですよ。

だからうまく出来ないからといって全然気にしない。時間がかか る人もいるし、最初からすぱっと切れる人もいるし、まあでも、 人間がいろんなものを感じたり、ものの見方を少し広く開くとい うか、日常的な間口より開く、既成概念的な意味によって縛り付 けてしまわないで、開いてゆく方向に向かっていく。その大きな 流れのなかに、当然舞台に立つとか役者をやるとかそういう人 も、もうー度考え方とかやりかたとかをもう一度見なおして、あ るいは初心に立ち返ってやったらいいんじゃないかなと思いま す。

林  それでは、もうーつ違う訓練を、二人でやってみましょ う。じゃあ、これの方が直接的で最初はやりやすいと思いますけ れど、「おい」という呼び声を使ってみます。「おい」これを短 く「おい」。それから「お―い」と長くのばすのがある。「お い」「おい」・・ (といろいろな「おい」という声、ことばを実 際にやってみせる)。最初は声の感じ、高さとか、長さとか。―回 目は自分勝手にやっていっていいです。二回目は今度は相手の声 とかを聴いて。最初は勝手にやってみましょう。・・・・

参加者  動くわけですか、ことばだけですか?

林  動いてもいいです。やっぱり止まっていると見られてるし、 緊張するかもしれないから、動いたほうがリラックスできるか も。歩きながら「おい」とやってもいいし、一番やり易い感じで やってみてください。いきます。じゃあやり易いように。はい。

参加者  「おい」、「おい」、「おい」・・(二人―組で向かい 合いながら)


林  はい、じゃあ今度は・ ・まあ今もかなり相手を受けようと する感じが二人ともあったんですけれども。もっと今度は相手を 受けるように。相手が動いてたら動き返す。

参加者  相手の感じを受けて何か自分も発するという?

林  「感じ」というのはなかなか感じられないので、最初は動い て。動きとかそういうのに対してということの方が具体的だと思 いますね。相手がこっちへ行ったと、そうしたら自分はこっち へ。これでいきましょう。例えば、わたしがこっちに行って「お い」って言ったら、こっち行って「おい」とか(とやってみせ る)。まあその瞬間ぱっと閃いた風にと言うか、インスピレーショ ンですね。あまり考えすぎないほうが初めはいいかも。

参加者  これあんまり考えない方がいいな。

林  そうですね。

参加者  「おい」「おい」「おい」・・・


林  そちらの方どうですか?どんな感じでしたか?

参加者 いや、何もちょっと。どんな感じと言われたら、何かそ の、今の流れから、何が上手いかというのは分からないんですけ れども、上手くとか、上手く見せなければいけないとか、失敗し たらいけないという感じ、しかし何が失敗で何が上手くというの が分からないでやってるのでちょっと、まあぎこちなさとか。

林  ぎこちなくてもいいですよ。

参加者  何かその、ただ「おい」ということばを出すだけという よりも、相手の強弱の感じを「おい」に合わせて自分も出さなき ゃいけないんじゃないかとか、そういうのを考えながらやってい ると,やはりもともとまったく知らない素人ですから、混乱する とか、そんな感じですね。

林  多分それは、わたしがやったって恐らくそうだと思いますけ れども。はい。どうですか?相手の誰かが気に入らないとか。

参加者  相手の気持ちを受けようと思ってやりましたが、まだあ る意味で拒絶しているというか。参加者 何か、自分でもとんでも ないことをしてしまうということがあるんですけれども。

林  人間っていうのは日常生活でも幾つもの層で生きているんで すね。―人の人間の中にも色々な場面、状況ってあると思うんで すよ。身近な人間の死に直面したときとか、絶望的な精神状況に 陥った時とか、そういうことはドラマの話ではなく、誰でも一生 の中で幾度かは立ち会う。そういう時に人はどうあるのか。今は 日本に限って言えば、極めて平穏で安全な状況ですが、―歩国外 に出ればあちこちで日本の50年前のような状況で生きている人が いる。むしろそちらのほうが多い。人生平穏に過ごせれば―番な のでしょうが、そういうのは極めて限られていて、その限られた 中に今私たちは生きているので、逆に他人の痛みも悲しみも喜び もわかりにくくなってきている。しかし、そのようなわたしたち の日常、私たちが「ふつう」と思っている特別なとても平和な状 態がいつもどこでも存在しているわけではない。しかし、舞台の 上では様々な時代、様々な状況に対応しなければなりませんか ら、いまの「ふつう」の感覚だけでは、対応しきれない。


稽古場が稽古場として機能するのは、いま自分が生きている環境 だけが全てではない、ということを身を持って体験できる可能性 を持っているからです。そのような今のわたしたち「90年代の日 本」と言う限定された状況に生きるものからすると「ふつう」で はない状況を意図的に作り出せるわけで、その時自分はどうする かという判断も可能となる。それが可能だから公演を目的としな い、感性や対話、そういった人間の基本的な骨格を対象としたワ ークショツプの価値があるのです。体験的な場、日常生活の中で はなかなか生み出せない環境を意図的に作ることができるという 意味でですね。で、上手い下手っていうのは落し穴ですね。


わたしは稽古場であまり上手い下手っていうのを言わないように してる。上手いっていうのは価値あることじゃない、上手い下手 じやなくて、例えば魅力的だったとか、何か凄くこう感じるもの があったとか、全然動作とかがダンサーのようにきれいに動かな くても、こんなことやってても(と自ら下手くそな仕草を交え)、 それがやけにリアリティーを感じたとか、そういう風にリアリテ ィーを感じるということが大切なんです。日常の自然ということ と違いますよ、舞台のリアリティーは。舞台という特妹な環境の 中でのリアリティーを言っているのですが。重要なことはリアリ ティーと魅力でしょうね。何かへんてこりんな動きをしてるんだ けど、妙に感動するとか、そういうことではないかなあと思いま す。


どうですか?概ね皆さんは演技というものに対する今までの、或い は演技のトレーニングってどういう風にするのかなあって興味を 持ったり、或いはある―定のイメージを持たれてる方もいるのか なと思います。それは当然のことで、このワークショップなんか でも最初戸惑われたかもしれません。「何これ」みたいな。手本 になるようなこと、教科書にしてしまえることが演劇の場合必ず しも普遍的価値、基準にはならない。それを巧くこなせるという のは「型通り」にやれるということになりかねない。「型は破る ためにある」と武智鉄二は名言を言いましたが、そういった破る ための型、様式であるならばうなずけますが。

・・このあともう少し実技を行い、一通り終わったところで、テ ラ・アーツ・ファクトリーの海外での上演ビテオダイジェストを少 し見てもらう・・・

林 どうですか、何だかんだ自分で動いてみたり、人がやってるの を見たり、話を聞いたりしてなんかこう、浮かんだこととか、或 いは質問でもいいですし、どうぞ。

参加者  なんで役者がこういう訓練をするのかっていうことです が。

林  普通こういうトレーニングは現代の役者はあまりやらないん じゃないですか。わたしも演劇を学校で教えてるんですけれど、 他の先生の授業ではあまりこういったことはやりませんね。どう しても我々の、つまり西欧文化が完全にからだにしみ込んだ状態 の眼差しから見た「模範的」という方向性がどこかにあって、そ ちらの方へ流れて行く。それを、つまり自分の自然を、もう一度 文化的歴史的に捉え返す視点が欠如していて、そのまま演技とは こうあるべき、という見方が固定化している。そこには―人―人 のからだと声をどう「開いて」ゆくかという発想が根幹から欠落 している。声から陰影も音楽性も奪われてしまう。だから演劇の 学校でも養成所でも優等生が残るんでしょうが、その優等生とい うのがわたしから見るとシロウトっぽい。基本的に日本の現代劇 はシロウト芸だと思いますが、見せられるからだと聞かせられる 声を確立していない。滑舌至上主義というか、それは意味を正し く伝えるという点は満たしても、声とことばを魅力的に聞かせる という点は欠けている。だからことばの持つ多様性や豊穣なイメ ージと向かい会うときには、限界を露呈してしまう。

参加者  テラの舞台のビテオを見ている限り、割と重心は下にあ るとい東洋的な動きというか、割と西洋の動きとは違うという感 じがするんですけれども、ビテオで観た、すいません、実際のテ ラの舞台を見たことがないんてすけれども、凄く声の出る場所が 重心が下にあると感じたんですけどそういうのを意識されている んですか?

林  いや結果的にそうなったということですね。日本だと、例 えば能とか狂言とか、みんな腰下げますよね。かれらはインテリ が作ったわけじゃなくて、元々芸能というか、道端や川原でやっ ていたものであって、そういうところから始まってるから最初に 自然とか大地とかと関連が深い。もともとのアジアや日本の思考 は自然神崇拝、八百万の神様ですから、精神的な生命は大地に宿 っているわけで、そこと仲良くするというのは自然な流れだった わけです。重心が下るのもそういった関連から出てきている。西 洋ですと神は、あるいは人間の目標は天にありますからとにかく 跳躍する。バレエはひたすら天上の神、人間を超えたものに近付 こうとしますね。雨が降った、夜露をしのいだ、田畑の中にいる なあという中での感覚が自然にあって、そういう意味では自然の 摂理のなかから生まれてきた結果としてそういうものが、ちょっ と重心が下がったという感じが出てくるのかもしれませんね。も っとも東京にいると限りなくこうした感覚から離れてしまいます が、東京だけが日本じゃない。わたしの田舎だって存在している わけですし、北九州だってある。精神さえも東京に完全に牛耳ら れている、そこが全て代表しているというのが嫌ですね。

参加者  こういうことをやってると腰が低い、重心が下にあると いうのは、それはとても精神的な感じがします。内面を掘り下げ ていく・・

参加者  私も勝手に思ってること喋ってていいですかね。私は非 常に満足したんてすけれども、テラの公演のビデオを観てです ね、今までやってる新劇とも、昔からやってる新劇も、私たちが やってる小劇場の流れとも全然違うと思うんてすよ。私を含めて 感じたことはですね、寺山修司と似てる感じがするんてす、もの すごく。表現方法が林さんのは非常に自分のからだを感じて、か らだを使った表現ですね。寺山修司のはもっと何か物を使ったり とか顔に塗ったりとか、表現方法は違うけれども、基本的なもの が―致してるんですよね。寺山修司のは結局芸術的には認められ ているけれども、興業的には認められてないような感じがありま すよね。まあ今は文学の価値が高まってますけれども。先生のも 興業的には私たちには意味が分からないというのはあるけれど も、芸術的な面では大きな価値があると思うんですよ。最近NH Kで見たことがあるからですね、NHK、お国の方が取り入れて いるというか、新しい芸術の何かをだしてるというんでしょうか ね、そういう意味じゃ、寺山修司辺りは何かその、今日質問あっ たですね、野田秀樹がいなくても小劇場というのはそんなに変わ らないと思うんですよね、今の、鴻上さんとかいろんな方おられ ますからね、いろんな若いのも沢山いますし。寺山修司辺りは全 然違うと思うんですよね。寺山修司である程度演劇の歴史が変わ ったような感じが、ピカソが新しい画体を革命的にだしてから、 或いは誰もやらなかった新しい画体を発見したと同じように、寺 山修司というのは新しい演劇というものを出したんですね。それ はただ、変わったことをやりたいんじゃなくて、物凄く奥が深い んじゃないかと思うんです。そういった感じを今日ビデオを観て 思いました。

林  そろそろ時間なのでここら辺りで終わりにしたいと思います が、どうもありがとうございました。



本文は北九州市で1994年に開催された「劇作家大会’94」 (1994年9月29日〜10月2日、主催:日本劇作家協会)の企画とし て実施された「身体と表現ワークショップ」(1994年9月30日6PM〜 9PM)での実技と話しに基づきます。



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