Last modified: Sun Oct 03 22:35:28 jst 1999
1999年9月
- 9/29
- 東海村で臨界事故.恐ろしい.なんで僕らはこんな恐ろしいもの持ってしまったのだろうか.
僕達の世代が子供の頃は,こんな臨界事故が生じたら日本国中ものすごい大騒ぎになってパニックになるようなイメージがあったのだが,東京はいつもと変わらず.それでも放射性物質は風に運ばれ雨にとけ大地に染み込み,僕らの身体に染み込んでいくだろう.少しづつ.僕らはそれをあきらめ受け入れる(精神的にも物理的にも)しか道はない.そんな状況に僕達が陥るなんて,子供の頃うけた原子力平和利用神話教育では想像の埒外だった.
- 9/24
- 東京に引っ越してもこの近況は相変わらずサッカーとケーブルテレビの話ばかりである(笑).
で,杉並のケーブルテレビのテレビガイドについて来る地域情報誌に,大泉学園にあるJAZZ+日本酒+おでんの店が紹介されていた.この組み合わせもなかなかのものだが,その記事の文中の「インプロビゼーション」という言葉の注釈がヒット.曰く,「即興演奏のこと」その通り,さらに続いて「かわるがわる演奏を行う」とも.
不覚にもうけてしまった.いや,別にかわるがわる演奏することがインプロビゼーションの必要条件でも十分条件でもないけどさ,確かにありきたりなジャズなんか聞いているとそう思ってしまうわな.インプロすれば前衛とか思っているジャズメンは反省して欲しい.テーマ〜ソロ回し〜エンディングなんて構成はいまや保守もいいとこ.それは「革命」とか言っていれば前衛とか過激とか思い続けている「新」左翼とか「少女革命ウテナ」とかそのレベルだよ.そういう文学部的(という言い方も紋切り型だな.今どき文学部には文学青年なんて入ってこないしな)過激というのももはや古典も良いとこ.
- 9/23
- ケーブルテレビ・CSのキッズステーションチャンネルでは,『秋葉原電脳組』なるおたく向けのアニメをしていて(今劇場公開もしているな),その番宣が良く流れるのだが,それを見てもどんな話なのか分からない,何を伝えたいのか分からないのである.すごく閉じられたそうへのアピールなのだなあと想像するばかり.まあマニア向けの宣伝なんて皆そんなもんなのだろうけど.
そういえばとり・みきが『愛の逆上がり』でマニア雑誌に載っているマニア向けの広告を取り上げていたなあ.女性自身だかに載っていた熊の縫いぐるみは感銘を受けた.その熊の縫いぐるみは結構大きいもので,ポシェットをもっている.で,そのポシェトのなかには棒状のアタッチメントが入っていて,さらに縫いぐるみの股間部にはそのアタッチメントを付けるようになっていて,あまつさえスイッチ一つでそのアタッチメントを振動させられるようになっているのだ! 女性自身に載っている,棒状の振動する道具は何をするものなのか,は言う間でもないだろう.私はよく分からないけど(笑).
UEFAチャンピオンズリーグのバルセロナvsフィオレンティーナをTVにて観戦.やはりバルサは強い.往年のAJAXのように(って共通するメンバーが多いのだけれど),敵をペナルティーエリアの中に押し込めてしまってその周りでいいようにパスを回して隙を探して突破・シュートするのである.後半はフィオレンティーナがだいぶ押し戻したが結局4-2でバルサの勝ち.今年こそいけるか,バルサ.
- 9/16
- 野矢さんの『論理トレーニング』の帯に,「日本人は論を批判するということが出来ない.単に反対の意見を言うことを批判することだと思っている.論文の論理そのものを批判するということを考えすらしない」というようなことが書いてあったが,最近その言葉を思い出すことがあった.週間金曜日vs文藝春秋の『買ってはいけない』論争だ.
この『買ってはいけない』は,話の論理が無茶苦茶なのは広く知られたところであるが(『買ってはいけない』関連サイトリンク集からたどれば色々ある),それに関して批判した記事が載ったのが確か文藝春秋の9月号.で,今出ている10月号ではそれに対する再反論が載っていたのが,これがまた失笑するような内容(著者の名前は失念).
いわく,「ジャーナリズムは常に弱い立場の市民の側に立たねばならない」というようなことを冒頭に書いている.その立場に関する批判はどこにもなかったはずなのにわざわざこう書くということは,自分達の立場ではなくロジックが批判されているというのがこの人は分かっていないのだろうなあ,と思わせてくれる.この人にとっては批判=立場の対立であって,立場は同じだが論法について批判する,という状況は思いもよらないのだろうなあ.だから批判がすぐ人格否定と受け止められるのよね.そりゃ立場を否定されたら人格否定された気になるわな.ロジックや結論の否定をそんな大げさに受け取らんでもねえ.
- 9/5
- だいぶ間が空いたが,働いているとこういうものを書く暇がない,というわけではない.机を未だに買っていないのでPCが床置きなせいだ.落ち着いて文章を書くような配置ではない.
先日ロンドンブーツのヤミスキを見ていたのだが,そこで駆け出しのグラビアアイドルが出てきていた.で,その中の一人は,自分は世界で2番目にかわいいとか思っているそうだ(別にズバットとは関係ないようだ).曰く,1番は藤原紀香だと,藤原紀香に顔は勝っているけどボディが負けているので自分は2番目であると(ついでに好みのタイプの男性は「自分をわきまえた人」なんだそうな).それを聞いて私は思うわけだ.「これこそ言論の自由」と.
言論の自由というと堅苦しく考えてしまうが,これは要は「自分が馬鹿であることを自由に公表する権利」のことである.その権利にのっとって,上記のような売れないアイドルも,自分がいかに馬鹿であることを公表できているのである.
一部の人は言論の自由を「いかに高尚な言説を公表できるかを競う権利」であると勘違いしている.そのため「馬鹿なこと・下劣なことしか扱わないメディアを取り締まれ」とか言い出すのである(こういうふうに馬鹿なことを堂々と言えるのも,自分が馬鹿であることを公表できる権利ゆえである).高尚な言説は言論の自由があろうとなかろうと巷間に流布するものだ.そうではない,馬鹿が自分が馬鹿であると公表することこそ,憲法で護らなければならない尊いものなのである.
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