剛くんのお話(2005年 6月 ゆっちさんよりメールにてご投稿いただきました。)

 平成15年夏、私は待望の第二子を妊娠しました。上のお姉ちゃんが二歳半になり、反抗期まっただ中のことでした。
 妊娠が判明してから1か月後、パパが三か月間の長期出張にでかけてしまい、つわりで体調が悪い中、反抗期のお姉ちゃんと二人でのお留守番生活はとてもきついものがありましたが、妊娠は順調に継続し、妊娠16週を過ぎる頃には胎動も感じられるようになりました。ただひとつ気掛かりなのは、健診で「ちょっと赤ちゃん小さめだね〜」と言われたことだけでした。

 もうすぐパパが帰ってくるという妊娠20週めのある日、突然の生理のような出血がありました。すぐに病院を受診しましたが、特に原因は分からず、早産の徴候もなく、早産予防の薬をもらって「安静にしておくように」と言われて帰りました。少し不安はありましたが、早産の徴候もないし、お姉ちゃんの時も そういえば少しの出血はあったけど大丈夫だったなくらいで、特に気にしませんでした。そして薬を飲み安静にすること1週間、二度目の出血があり、また病院へ。それからしばらく薬を飲みましたが、断続的に出血は続きました。パパが帰ってきて安定期に入って温泉旅行に行くはずだった予定などもすべてキャンセルし、年末年始もどこにも行かず安静に過ごしたおかげか、その後の出血は1度あっただけでとまりました。パパもいなくて気持ちが不安定だったせいもあったのかなとあまり気にもとめず、相変わらず「小さめだね」と言われてはいましたが、ふつうに健診をこなし順調に過ごしていると信じていました。

 そして、28週めの健診の日。その前の健診で「次の時にはもう赤ちゃんの位置が決まってるからね。性別も今度は分かるかな。」と言われていて、「どっちかな〜」と楽しみにしながら病院へ向かいました。「男の子?女の子?」とドキドキしながらエコーの画面を見ていると、赤ちゃんの身体をつくづくと見ていた先生が、「あれ?」と言い、それきり黙って何かを探しているようでした。一緒に画面を見ていた私も、赤ちゃんの異変に気が付きました。赤ちゃんのお腹の前のところに、赤ちゃんのお腹よりひとまわりくらい小さい、何か身体とは違うものがくっついていたのです。その後、先生は何も言わずエコーを終え、私も支度をして診察イスに座りました。先生はいつもとは違う表情でこう説明してくれました。「赤ちゃんの内臓が外に出てしまっているようです。単純にそれだけであれば、生まれてからちょっと中に戻してやるだけでよくなるから。ただ、合併症があると…。とりあえず、急いで大学病院を受診してみて。紹介状を書くから。連絡して一番早く診てもらえる日を予約していきなさい。もし、検査してもらって何事もなければ、またこちらに戻ってここでお産しても全然かまわないのだから。」と。
 何がなんだか良く分からないけど、順調なお産のことしか考えられなかった私は「もし本当に内臓がお外に出ちゃってたとしても、戻せば大丈夫ってことよね。」くらいの軽い気持ちで、その三日後に大学病院を受診しました。

 大学病院での初診でも、前の病院の先生と同じような説明を受け、私の理解は「これはよくあること、ただ万が一の合併症が心配なので、その時のため、生まれてきた後に最善の対応ができるように、前もって調べられることは調べておこう」ということなんだなという感じでした。それから急きょ三日間の検査入院をしました。まだ私と離れて寝たこともないお姉ちゃんと三日も離れていて大丈夫なのか?幼稚園の入園準備もあるし…ということの方がその時はまだ大きな心配事なくらいでした。

 三日間の入院中、たくさんの先生が代わる代わるお腹の赤ちゃんの状態を診て下さいました。その結果、子どもの身体が通常に比べ小さいこと、羊水の量が通常より多めであること、通常は三本あるはずのへその緒の血管が二本しかないこと、心臓の真ん中の壁にもしかしたら小さな穴があいているかもしれないこと、内臓がへその緒の方に出てしまっている「臍帯ヘルニア」であること、などが分かりました。一番軽い可能性としては「臍帯ヘルニア」だけの問題で、内臓を元に戻せば後は元気に暮らせること、一番重い可能性としては「染色体異常」のために合併症として「臍帯ヘルニア」が生じていて、その場合は「染色体異常」そのものを治療する手段はないことなどの説明を受けました。「染色体異常」の説明は染色体の数の話などから丁寧にしていただきましたが、その時は正直全然理解できませんでした。というよりも、「染色体異常」だとしたらわが子がこの先どうなるのか?ということが想像できなかった、分かりたくなかったのかもしれません…。

 退院後、先生にきいたことを親や友人たちに話すと、みんな同様に「病院は大体みんな重いことを言っておどすんだから。大丈夫だって。気にしない方がいいよ。」という反応でした。この頃になると、今までのように楽観的に受け止めることは自分では難しくなっていて、かといってどうしたらいいかもよく分からず、近くの神社をお参りしたり祈ったり、一番軽い可能性のところですみますように…と願うばかりでした。

 検査入院後は体調もよく、出血などもなくて、予定通りお姉ちゃんの入園準備の行事や仕事を普通にこなしていきました。やっぱりこれなら大丈夫そうかな〜と思い始めた35週めのある日、またもやパパの出張中に体調の変化がありました。夜中にお腹や腰が痛くてたまらなくなって、眠れなくなってきたのです。お姉ちゃんの時のことを思い出し、「これは陣痛かも」と思いました。赤ちゃんの内臓をきれいな状態で戻すためには帝王切開で出してあげなければいけないと言われていたので、手遅れになったら困ると思い、午前三時に病院に電話をしたところ、すぐにくるようにと言われました。パパの出張中に何かあったら困ると思って実家から私の両親に来てもらっていたので、まだねぼけているお姉ちゃんを車に乗せ、両親にも付いてきてもらいお姉ちゃんと待っていてもらうことができました。そして夜明けの診察の後、私はそのまま入院となりました。

 出産するにはまだ時期が早すぎる(赤ちゃんが少しでも大きくなった方が、手術もしやすいので)ということで、早産止めの点滴をうちながら1日を過ごしましたが、陣痛らしき腹痛はおさまらず、入院の翌日にはおしるしまできてしまい、結局その日の内に緊急手術をしました。35週めの最終日でした。

 生まれたのは1628グラムの小さな男の子でした。「今出てきましたよ」と先生に言われましたが、泣き声は聞こえませんでした。私が赤ちゃんの姿を見る間もなく、赤ちゃんはそのまま隣の手術室へ運ばれていきました。その後は意識を失ってしまい、次に気付いた時にはもうお腹の縫合は終わって手術室から出されるところでした。丸裸でシーツ一枚にくるまれて、手術室からベルトコンベアのようなもので外のタンカに移しかえられる自分が、なんだか工場製品みたいと思いました。麻酔でぼーっとしながら、今頃赤ちゃんは手術を受けているのかな?痛くないかな?と考えていました。病室に付く頃には麻酔の副作用の気分の悪さでたまらなくなっていました。ひと足先に赤ちゃんの手術の様子をきいてきたパパがベッドの脇にきて、「内臓は簡単にお腹に戻ったって。きれいになってたよ。」と言いました。「もう大丈夫ってことだよね?」ときく私に、「それはまだ分からない」と言いました。さらに気分が悪くなっていた私は、もうそれ以上聞くことも考えることもできずに、眠りに落ちました。

 次に目が覚めたのは、どうしようもない痛みででした。切った傷が、一晩中熱いフライパンをお腹にのせられているように痛みました。さらに後産のお腹の痛みと麻酔の副作用の頭が割れてしまうのではと思うほどの頭痛が加わり、寝返りもうてず、眠れず、朝までの時間が地獄が永遠に続くのでは?と思うほどつらく長く感じられました。

 朝になると、お腹の痛みはいくらかおさまりましたが、頭痛はさらにパワーアップしていました。午後になっていくらかそれもおさまってから、看護師さんが車いすで下の階のNICUにいる息子のところに連れていってくれました。小さな箱のようなベッドで寝ていた息子の第一印象は、正直かわいいと思えませんでした。ほとんど脂肪がついていないしわだらけの小さな身体が大きな器械につながれて生かされている、その表情はおじいさんのように見えました。そして、次の瞬間そんなふうに自分の子どもを見てしまった自分への嫌悪感でいっぱいになりました。つらくて見ていられませんでした。

 自分の病室に戻ると、隣の赤ちゃん部屋から元気に聞こえてくる赤ちゃんの泣き声がつらくてつらくてたまりませんでした。同室の人がうれしそうに赤ちゃんにおっぱいをあげていました。そして、私にもふつうに母乳指導が始まりました。「まだ飲めないけど(いつ飲めるようになるかも分からないけど)、準備だけはしておきましょう。順調に出るようなら、飲めるようになった時のためにストックしておきましょう」とのことでした。息子の姿を見てきた私は、もう絶望的な気持ちになっていました。飲めるようになる前に死んでしまうかもしれないと考えると、母乳をしぼる作業さえつらくてつらくて、どうしようもありませんでした。そして私は母乳をしぼることを5日間でやめてしまいました。5日間というのは、万が一飲めるようになったら初乳だけでも飲ませられたら… という想いはあったからでした。でも、それ以上はがんばらなかった…ひどいお母さんですね。剛、ごめんね。剛はそれから三か月もがんばってくれたのにね…。

 出産から8日後、私は術後の回復もよく退院することができました。翌日からも毎日NICUに面会にいきました。NICUの面会は両親と祖父母までしかできなかったので、お姉ちゃんはしばらく弟の顔を見ることができず、一緒に病院に行っても廊下で待っていなければなりませんでした。生まれてから約1か月、本来の出産予定日まで剛は順調に過ごし、私の最初の予想に反してミルクも少しずつチューブで胃の中に直接入れるということができるようになっていました。もしかしたらこのまま良くなってくれるのでは?と期待も膨らんできていたある日、試練が来ました。剛が黄色ブドウ球菌に感染し、全身の皮という皮が剥けてしまったのです。さらにその頃、出産後に検査に出していた染色体の異常を調べた結果がようやく出て、剛は「18トリソミー」であることが確定しました。小児科の先生方や遺伝子の専門の先生や看護師さんに囲まれ、パパと二人で死の宣告のような話をききました。先生方は言葉を選びながら丁寧に説明して下さいましたが、私に理解できたのは、剛の心臓も肺も出産前に予想していた以上に大きな障害を抱えていて手術もできない、ただひたすら死を待つしかない、ということでした。私の何がいけなかったんだろう?どうしてこんな目に遭うんだろう?もう子どもはできないのかな?できてもまたこんなふうに子どもを苦しめてしまうことになるのだろうか?そんなことが一瞬の内に頭をめぐり、涙がぼろぼろ止まらなくなりました。

 幸いにして剛は感染症による危機を脱し、また穏やかに日々を過ごせるようになりました。初めはいつか呼吸器を外せるようにと、調子のよさそうな時は酸素の量を少なくしてみたりということをしていましたが、生まれて2カ月めに入る頃には、それはかえって身体に負担をかけてしまうことになるということで、苦しくないように酸素濃度を調節するようになっていました。私は面会に行く度に、今日は酸素濃度が高いな、苦しいのかなと気にかけるようになりました。退院して家に帰ることは絶望的なのだということを、その頃になってようやく自分の中でも理解し始めました。

 それから自分の気持ちは少しずつ変化し、後で後悔しないように今剛にしてあげられることは何か?ということを考えていくようになりました。病院のスタッフの皆さんの協力も得て、別室で家族4人で過ごせる時間を作ってもらったり、自分が付き添っていられない時間の剛の様子などを看護師さんに書いてもらったりする交換日記を始めたりもしました。

 剛が生まれて101日め、その頃にはもう土曜日恒例となってきていた何度めかの家族4人の時間を過ごしました。その日は、お姉ちゃんの提案で初めて小さな絵本やMDプレーヤーを持参し、他の赤ちゃんに迷惑にならないように小さな音で童謡をかけながら、剛に絵本を見せてあげたりできました。
 ところが次の日からお姉ちゃんが高熱を出し、二日間面会に行けない日が続きました。熱のために幼稚園も休んでいたお姉ちゃんと家で過ごしていた午後、病院から「剛くん、急変。すぐ病院にくるように。」という連絡を受けました。お姉ちゃんを近くの友達に預かってもらい、すぐに病院に向かいました。車で30分の道のりが果てしなく遠く思えました。私が到着すると、パパは職場からすでにかけつけていました。ママが来るのを待っていたとのこと、看護師さんたちは私が着くとすぐに剛を器械から外して抱かせてくれました。すでに身体は紫色になり始めていましたが、まだ暖かい…。涙があふれてとまりませんでした。そのあと、剛は初めてのお風呂に入りました。まだ暖かい剛の身体を洗ってあげていると、ふつうにお風呂に入れてあげているようでした。すっかりきれいになって、初めてのお家に帰る身支度を整えました。お別れの前にと、NICUでずっと剛のお世話をして下さっていた看護師さんたちが何人も、剛を抱っこしてくれました。

 お姉ちゃんと一緒に家に帰ると、パパが先に剛を連れて帰っていました。初めてお家に帰ってきた剛を、お姉ちゃんは何度も何度も抱っこして、周りにおもちゃをおいたり口の中にお菓子を入れたりと、今まではしたくてもできなかったお世話を思う存分していました。
 私はといえば、病院にいる間はずっと呼吸器やらチューブやらをとりつける器具を顔に絆創膏で貼付けていて、顔半分が隠れたようになっていたので、剛はこういう顔だったんだなとあらためて思いながらずっと眺めていました。その晩はパパが剛と一緒に眠りました。

 剛が天使になって、もうすぐ1年になろうとしています。剛のお骨は今でもリビングで家族と一緒にいます。ここまで、剛を亡くした悲しみに加え、周囲からの心ない言葉や態度に対する怒りや憎しみなどさまざまなマイナスの感情の中でもがき苦しんできました。時間の経過の中で少しずつ癒えながらも、こういった自分の感情でもがくことはこれからもまだ続くかもしれません。それでも、今ははっきりと「剛を生んで良かった。剛の存在があればこそ今の自分、今の自分たち家族がある。」と思えます。「人は皆、大切な意味を持って生まれてきている。」と話して下さった小児科の先生のことばが、今ようやく実感として分かるようになりました。
 今私のお腹の中には、また新たな命が宿っています。これからどんなことが起こるのか今は予想がつきませんが、何が起こったとしても、家族で支え合いながら乗り越えていきたいと思っています。

 長くなってしまいました。読みづらいところもあったかと思いますがここまで読んで下さってありがとうございました。

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