097:アスファルト
この、何気ない瞬間に映る鮮烈さが私の鼓動をどこまでも突き動かす
それは、本当に偶然の出来事だった。
朝方までかかった仕事を終え、自宅に戻ろうといつもの道を歩く。
当然一睡もしていないのだから、頭の中も半分以上ぼんやりとして。ただ自宅に戻るという
欲求のみが私の体を突き動かしている。周囲の風景も、歩く人々も私の視界にも世界にも入っ
てはいなかった。気だるさと本能だけが体を支配していた。
ふと、道の向こうにうずくまっている影が見えた
具合でも悪いのだろうか、私は少しだけ歩く速さを早めるとその人影の方に足を進めた。その
人影が少年だということに気がつくほどの距離に立つ。私が声を掛けようとしたその時、少年
がアスファルトの上に跪く。
アスファルトに、口づけする
汚いとか、熱さで唇が火傷するとか、この半分本能で動かされている体の状態ではそんな思考
を巡らせる余裕など微塵もなく。
ただ、ただその行為がとても神聖なるものに思えた。
胸に突き上げてくる何とも言えない感覚、いつしか目尻に涙さえ浮かんでいた。
それは一瞬だったが、私は昔教会や美術の授業で見た宗教画が頭によぎった。目に見えない
世界が具現されていると思える感覚がそこにあった。
少年が、ゆっくりと立ち上がり。そして、虚空を見つめる。
唇が半開きになり、喉が、微かに蠢く。息をしているのか、それとも何か言葉を紡いでいるのか。
瞼はゆっくりと閉じられる。長いとも短いとも言えない黒髪が、風に流れるままにかき上げられ。
旋風が吹いた
少年の足元がミシリと音を立てる。
その下から無数の植物が物凄い速度で成長し、アスファルトを突き破っていく。
普通の住宅街が一瞬にしてジャングルと見間違う程の緑…いや黒緑色の世界に変化している。勿論
私の立っている場所も例外ではなく。
夢かと思ったが、鼻に来る緑の青臭さが、耳に残る水の流れが、それが現実だと私に認識させる。
少年が私の方に向かってくる。
「あの…」
聞きたいことはあるのに、出てくる言葉は陳腐で間抜けなものばかり。
少年は、笑みを向ける。
−これは、この大地の下に眠っている世界−
声を出している訳ではないのに、私は少年の声が聞こえていた。
−ああ、今は直接貴方の方に聞こえるようにしているから−
私の考えていることを読んでいるのだろうか、私はちょっと恥ずかしくなった。
−まあ、聞きたいというか、顔見てれば…判り易いから−
少年の方も顔を赤らめているらしい。一瞬、私は自分の表に出やすい表情を呪った。
−実際に見える人ってのも珍しいんだけどね、見ちゃったから説明する−
少年の話によると、実際に街がこのようなジャングルになった訳ではなく、これは幻覚に近い作用
だということである。半分眠っているような脳みそでは全てを理解することは出来なかったが、大
まかに言えばこういう話であった。
少年は、この下の大地には今でも数億〜それ以上の植物が息を潜めており時々その欲求を果たした
いと思っているらしい。しかし現状ではアスファルトに覆われたこの大地ではそれも適わず、かと
いって植物だけの力に頼っては共倒れになるらしいということであった。
簡単に言えば、植物の欲求不満の解消をこういうことで行っているらしい。そうすることで植物達
は次の世代まで眠り続けるということであった。次の世代とは人類が滅びた後の次の世代、という
訳である。普通の人間には、このジャングルも少年自身の姿も見えないらしいが何かの波長で見え
る人間が存在するらしい。私はたまたまそういう波長が合ったというだけの話であった。
ちなみにその波長は今だけのものであって、多分次にあったときは見えないというだけの話で、私
は多分宝くじにでも当たったような感覚だと思ってしまったのである。
それにしても、この緑は現在もてはやされている『癒し』としての緑というよりは、『生と死』と
いう生命の重さと神秘を内包している緑だ。安心というよりは、不安、そんな重さを感じてしまう。
−ふうん、結構面白いこと考えるね−
また少年が私に返答を返してくる。もうこうなれば、幻だろうが現実だろうどうでもいい。私は、
空も見えないほどに圧倒された植物たちの中に飲み込まれるようなそんな感覚を全身で感じていた。
−そろそろ、欲求も満たされたみたいだからこの辺でいいかな−
「え?」
見慣れた、風景が初めてのように感じた。
あの緑のジャングルは何処かに消えうせて、最初に少年を見た住宅街に私は立っていた。目の前の
少年もそこに居た。
−つき合わせてしまったようで、悪いね−
「うんにゃ、普段見られないものが見れたからね」
−あの植物たちのこと?−
「まあ、それもあるけど君みたいな少年とかね、目の保養になったよ」
−さっきから思ってたけど…−
「何?」
−貴方って変な人だね−
面と向かってそういわれると悲しんでいいのか、怒っていいのか判らない。私が考えていると少年
は笑っている。変な話だが、こんな動作でも目の前の少年が私の目を惹きつける存在であるのだ。
少年も私のそんな考えを読んで頬を朱に染めていた。ああ、陳腐な言い回ししか出来ないけれど、
やっぱり、そういう姿が可愛い。
−そろそろ、行かないと−
「そっか、また次の場所に行くんだ」
少年は無言で返答に変える。
「じゃあね」
少年は、もう一度笑うとくるりと向きを変えて私の視界から消え去った。
私は先程の少年の姿と、その笑顔をもう一度己が胸の中で反芻すると、大きく欠伸と背伸びをして
自宅への道のりを歩いていった。
難しいことも、この先人類が滅びるであろうことも判っていたけど考えないことにした。
取りあえず、今日はじっくり眠れそうだと思った。
愛しの布団まで、もう少し。