096:溺れる魚
あれはたわいもない本当にただの冗談だと思っていたのに。
私は、付き合って3年の彼がいる。
同じ大学の同じ学部。出会ったのはたまたま同じ講義を受けて、席が隣同士になって、たまたま声を掛けられて。
ちょっと話をしてみて、何となく話が合うなと思っていた。最初は本当にそれだけだったのに。
しかし、何故か同じ講義になることが多く、出会う機会も増えていって、ちょっと気になっていく。でも、当時の
私は男と付き合おうだなんて思っても居なかった。それはまた私の趣味が関係しているのだがそれはまた別の話。
しかし、私が時々参加していたイベントに彼も居た。思いっきり私正体がバレてしまい、幻滅されたかと思ってい
たのに彼は自分も同じ趣味だということを打ち明けた。私たちは共通する趣味を持っているのを知って以来、時々
会うことが多くなっていた。時間が想いを育むとは必ずしも言える訳ではないが、私は彼を好きになっていた。
初めて思いを打ち明けたのは出会ってから3年目。あるイベント会場からの帰りであった。
何となくいい雰囲気になって、でも打ち明けられなくて。何となく私が軽い気持ちで
「好きだよ」
なんて言ったら彼も
「じゃ、付き合う?」
それから私たちは付き合うことになった。
それから3年。今でも共通の趣味を持つ私たちはそれでも付き合いが続いていた。しかし、私もここまで付き合う
と自然にその先のことを考えてしまう。だけれども、それを中々彼に伝えることは出来なかった。
最近は田舎の両親からもそれとなく聞かれている言葉。私の周りの同年代の人々は私よりも先になり今では職場の
上司など遠まわしに聞いてくる始末。
私は、したいと思っているけど彼の気持ちがどうなのか不安で仕方が無いのだ。
日増しに肩に乗っかってくる『結婚』という二文字が重みを増していた
それは本当に冗談だと思っていたのだ。
まさかあんな事が起きるなんて…
それは仕事からの帰り道、偶然私は彼に会った。何でも、彼も丁度よく仕事が終わったらしい。それならと、私の
家まで一緒に帰ることになった。もうこの頃は私と彼の家に交互に行くことが多くなっていたからだ。その帰り道
私と彼は今度のイベントの事や世間話などたわいの無いことを話していた。
それは本当に偶然だったのだ。
私は一件のアクアリウムショップの前で立ち止まった。水槽には色とりどりの熱帯魚たちが水槽の中を泳いでいる。
「綺麗だね」
「ああ」
日本では見られない極彩色の小さな魚たちに私の目はすっかりと奪われていた。多分『癒される』とはこんな感じ
を指すのであろうと思ったのだから。
「魚って水が空気みたいな物なんでしょ、だったら溺れることなんてないよね」
「そうか?」
「だって、私たちが空気のあるところで窒息死なんてことないでしょう?」
「まあな」
彼は私の方を見ながら、興味なさそうに欠伸をしていた。何故か、そういう対応をされると頭にカチンとくる。
「だったら魚が溺れるはずがないじゃない」
「もしもあったらどうするんだい?」
「もし、そんな魚が居たら私、貴方と結婚してもいいわ」
「二言はないね」
「いいわ、何だったら証拠として念書を書いてもいいわよ」
「へえ」
それは本当に冗談だったのだ。よくよく考えると私は何かのきっかけが欲しかったかもしれない。周囲からの
プレッシャー、結婚することへの不安、これからのこと、自分の気持ち。それらを吹っ切ることの出来る何か
が必要だった、それが「溺れる魚」だったのだろう。そして、そんな物など無いことは重々承知だったが、そ
れが契機となって私は彼に結婚について切り出せたのであった。
数日後、携帯に彼から電話が入っていた。
「見せたいものがあるからちょっと来られるかい?」
たまたまその日は休日で何も用が無かったので私は二つ返事で家を出る。彼が指定したのはあの時立ち止まっ
たアクアリウムショップだった。
「やあ」
彼はそこに立っていた。
「見せたいものって、何?」
彼は何も言わず、店内に入っていく。私もそれに付いて行った。ショップの中は外で見た以上に魚の数が多く
私はキョロキョロと辺りを見回していた。彼は店員に何かを話している。そして、私をこっちにくるように手
招いた。
「見てごらん」
そう言われて目の前の水槽を指差す。その水槽の中に居たのは一匹の魚だった。
体長50cmはあろうかという大きい魚で、まだら模様。熱帯魚のように可愛いというよりはその大きさのせ
いとその顔が何となくドジョウに似ているのであり愛嬌はあるというのが正直な感想だろう。
時々、その魚は水面に上がってはまた戻って来るということを繰り返している。そして、その大きさにも関わ
らず何故か水槽は浅かった。
「これは?」
「これが溺れる魚だよ」
「はあ?」
いや、誰だって最初はあんな反応しか出来ないだろう。突然これが『溺れる魚』だといわれて「はいそうです」
なんて信じられないのと同じように。そして、彼はその店員さんに説明して貰ったのである。
「これは『雷魚』といいまして上さい器官と呼ばれる呼吸器官で空気呼吸をしているんです。時々水面の辺り
まで上がっていくのはこのためなんですよ。これはカムルチーという種類なんですけど、この呼吸法のおかげ
で無酸素状態の水域でも生息が可能なんです。まあその反面、空気呼吸が出来ない場所おいては死んでしまい
ますから『溺れる魚』といっているのですよ。実際海外の方では雷魚の料理もあるんですけど、日本では体内
に寄生虫もいることから観賞用として買っていく方が主ですけどね。この雷魚はどうですか?」熱心に説明し
てくれている店員さんには申し訳なかったが、私は彼が私と会わなかった間にこれを探していた
かと思うと、何故か笑いがこみ上げてきた。
取り合えず、彼は店員に礼をいい私たちは店を出た。
「ほら『溺れる魚』は居ただろう?」
「はいはい」
「じゃあ、約束は果たしてもらうかな」
「え?」
「俺と、結婚してください」
結局、彼も私と同じで踏ん切りが付かなかったのであろう。
互いにきっかけが欲しかったのだと今になって思う。
それから、私はそのプロポーズを受け入れ私たちは結婚
した。そして、今私は水槽の魚に生餌をやっている。魚は彼が釣ってきてくれるから家計の心配は少ない。
その魚は、時々水面にやってきて呼吸してはまた水中に戻っていく。
最初はそうでもなかったが、その愛嬌のある顔は私たちを和ませてくれていた。
あの『溺れる魚』いや雷魚は今は我が家の水槽にいる。最近また少し大きくなったかと思うが一体どのくらい
になるのだろう。我が家に子供がやってくるまで、この雷魚が私たちの子供になっていたは言うまでも無い。
「さて、夕飯は何を作ろうかな?」
2003/03/07 tarasuji
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